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GOVAP便り

プノンペンからモンドルキリに、その前はTAY NINH省--AN GING省--HCM市GO VAP

あいさつ

2007-01-12 03:01:31 | 仕事
年がら年中スタッフの出入りが激しく、その都度電話応対の仕方やら「挨拶・報告・連絡・相談」だとか、自分が言われたら不愉快極まりないようなことを毎度毎度口にしなければなりません。「頼むから挨拶だけはして頂戴」という気分の時もあれば、「挨拶もできないなら帰ってくれよ」と吐き捨てたくなる時もあります。古くから居るNは他の人間がいなければ挨拶をするのに、新人スタッフの前では挨拶をしません。挨拶をするということが、まるで屈服を意味するかのようです。今回は同時に二人雇ったので更に面倒で、5時になるといつの間にかスタスタと音もなくお帰りになってしまいます。早い話が舐められてるってことのようですが、そこで感情を露にせずにどう対処するのかが問題です。

昼休みに「毎日、日本語を一つずつ教えてよ」などと馴れ馴れしいリクエストを頂いたので、それじゃ、先ず毎日日本語で挨拶をきっちりしましょう。それができるようになったら他の日本語の発音にも慣れるようになります。と言ったのですが、帰る時にはすっかりお忘れのようでした。近所のカフェやレストランですら会えば必ず遠くからでも可愛い会釈をする高校中退者も居るというのに。それ故、挨拶をしないのは文化的差異ということではないようです。決して自分が外の可愛い女の子に好意的な視線を送り、ニキビに覆われたり、既婚者のスタッフには怒鳴りまくっているということではありません。

Chaoはコンニチワでcam onはアリガトウと言うと、ニキビで真っ赤な顔をしたQは、アンニョンハセオとカムサハルミダは知ってるのだとか。1985年生まれの彼女の世代には、日本語より韓国語のほうがトレンディーのようです。Nも韓国のアイドル、ビーの写真を携帯の壁紙に使ってました。カオバンの短大に電話しているQに、「カオバンって何処にあるか知ってる」?と聞いてみると「よくは知らない」との答えでした。「ハノイに入って、そこからタイグエン、バッカンを通ってその先だよ。ここからは当然日帰りできる場所じゃないぜ」と説明した後で、でもカオバンと言えば、ノン・ドゥック・マン書記長がカオバン出身じゃなかったっけ?と聞いてみると「政治は好きではありません」だそうです。韓国の芸能情報には詳しくても共産党書記長は興味外というのも当然、との顔でした。ビーはベトナムでも公演があるそうですし、キムタクに頑張って欲しいとは思いませんが、サムスン同様、韓国パワーの勢いがベトナムの女の子を捉えていることに少々嫉妬を感じてしまいます。

ここから導き出される結論は、挨拶を徹底させるためには見てくれの良い韓国青年男子を一人雇うということに他なりません。勿論フルタイムの給料は無理ですから、韓国人留学生を捉まえて週数時間のアルバイトを頼むわけです。考えてみれば可能性がないわけではありません。何人か親しく話したことのある顔が思い浮かびます。年齢と共に日本人であるということのブランド力も衰退するばかりの今日、日韓共同に活路を求めてみたいものです。

師範大学

2007-01-11 11:11:56 | 仕事
日本では戦後になって、師範大学は教育大学と名前を変えたようですが、ベトナムではそのままの名で残っています。きのうは前回の残り、5000枚の帳票の納品に行きました。前回はバイクの後部に荷物を積み、狭いシートにNと二人乗りで行きました。Nが書類作成に追われてるので、新人の子を連れて行くことにし、腰も痛いしどうしたものかと迷いつつ、結局タクシーで運び、僕がバイクを走らせ、帰りは二人載りで帰ってくることにしました。大学の駐輪場にバイクを置くためにその入り口で並んでいると、後から来た自転車の女の子が隙間を縫って割り込みました。不愉快でしたが授業に遅れでもしたのか、と半ば諦めることにしたものの、再び別の自転車の子が割り込みをしたので腹が立ちました。「君達ここの学生?将来は教師になるつもりなんだろ?そういう人がするべき行為かい?それともこの国の教師はそういう特権があるわけ?」などというベトナム語が口から出て来るわけではありません。せいぜい「いい加減にしろよ」と言うのが精一杯の語学力です。

そういった意味ではハノイの学生達のほうが、学生のプライドとか礼儀正しさみたいなものを感じます。このサイゴンとて、GOVAP市場近くのキャッシュディスペンサーで近くの工業大学の男子学生と順番を譲り合ったこともありますから人それぞれであることも間違いありません。スーパーのレジで割り込みをされ、何度か怒鳴ってしまったことがありました。他でストレスを溜めていて、割り込みが引き金となって爆発したんだろうと思いますが、そういう発散の仕方はやはり自分の弱さの表現でもあるわけで良くないことです。ここ10年来、仕事の中でも怒ったら負けだ。怒るまい、と思い続けてますが、今だ殆ど進展はありません。

怒りっぽくなるには理由があるわけで、その理由の一つは意思や言葉が上手く通じないということだろうと思います。怒って得るものはないにもかかわらず、しかしここでは怒りをあらわにして始めて要求が通る、ってこともしばしばだったのが尚更良くなかったようです。威圧や恫喝を解決手段にするようなものです。本来的な解決方法ではありません。
本来的な解決方法かどうかは別にしても、怒る代わりの対処方法を身に付けたいものです。どのような状況に遭遇した時に自分がキレてしまうのかは、経験的に大体は知ることができますから、あらかじめその時どのように相手に意思を伝えるかの準備をしておけば良いわけです。「いい加減にしろよ」「調子こいてんじゃねーよ」と言いたい時は、Vua vau phai Phai thoi と言ってみるとか。
営業マンの応酬話法集みたいなものを準備しておけば、その効果は疑問であるとしても、多少は異なるベトナム生活になるかも知れません。

そのためには、ベトナム語表現を覚えねば、と思い立ち、師範大学の帰りに本屋に寄りました。村上春樹の小説なら、英語からの重訳でもそう意味合いは変わらないだろうと思い、73Kドンも払って「ノルウェーの森」を買いました。H君は、「日本語で読んだよ。ベトナムは検閲があるから表現は期待できない」とのことですが、どういう期待なのでしょう。奥付を見るとハノイでの出版で1000部しか印刷されてないようです。

年末の連休

2006-12-30 02:36:58 | 仕事
鼻水と胃痛は薬で何とか抑えたものの、今度は激しい歯痛に見舞われました。サイゴンに戻った翌日K君から電話を貰い、寂しく忘年会代りに食事をすることにしました。Le Duc Tho通りの「馬肉・ヤギ肉」と書かれた店です。ここでイカ焼きを頼んだのが間違いでした。一口かんだ途端に激痛が走りました。ハノイでも夜中に多少痛みを感じたこともありましたが、朝になれば忘れてしまう程度のものでした。が、今回の痛みは本格的です。注文したイカは半分も食べられません。その上、今回もまた愛想の良いウェイトレスが愛嬌を振りまき、携帯番号まで教えてくれたのですが、彼女のお目当ては我々二人ではなく、ベトナム人のH君でした。まぁ、そんなところだろうと納得はできるものの、K君は落胆を隠しません。

当分硬い食べ物や刺激物は避けよう、という程度のことで済むと思っていたわけですが、その晩、眠ろうとすると痛みが増してきてどうにも我慢できません。薬箱をかき回して「ノーシン」を飲みました。他に痛み止めのような薬はないし、夜中のことです。直ぐに痛みが和らいで眠ることができましたが、2時間ほどで再び痛くなって目が覚めました。一回2錠、一日3回限度と書かれてますが、再び飲まずにはおれませんでした。翌朝、早々に歯科医に行くと、周りの2本を含め3本共抜かねばならないと言われ、痛み止めの処方箋だけ渡されて帰って来ました。とりあえず、薬で痛みを抑えるとしてもその後でどうするべきなのか不安になります。薬を飲まずに痛みがなくなるようになるのでしょうか。今日本に帰って治療すれば、ちょうど正月を日本で過ごせることになり、それはそれで嬉しいことですが。

ハノイに行く程度の航空運賃ならともかく、そう簡単に日本に戻ることもできそうにありません。1月早々にもまたハノイにも行かねばならないわけだし。などと思いつつ商談中の日系企業に電話を入れると、何と担当者は帰国し、戻りは来月8日とのことです。日本にバックグラウンドがある人もいるわけで、それはそれで当たり前なのでしょうけど忘れてました。1年にしっかりと区切りを付けて新年を迎える、そんな年越しをしてみたいものです。

元旦が月曜日でここでも休日ですから連休となります。土曜を休めば三連休とのことで、わが事務所は一人がファンティエットへ家族旅行、Nもニャチャンへ家族旅行だときょうの夜になってから電話で告げ、明日は一人で仕事をすることになってしまいました。仕事が暇ならともかく、年内処理の契約手続きにバタバタ追われてる最中だというのに。

この国の年長者を敬う儒教的文化、または敬老精神なるものが、何故私に対しては適用されないのでしょうか?胃痛、鼻水、歯痛に加え痔も悪化して来たところです。儒教精神とは攘夷であり、外国人に対して敬老が適用されものではなく、年長者を敬うということは家族の絆の中だけのことであり、家族の絆こそ何に増しても優先されるものであることを実感させていただきました。

愚痴

2006-12-16 02:56:07 | 仕事
多少プログラムを書けるという新卒の女の子を一人雇ったところ、1ヶ月ほどして営業をしたい、と言い出したのでご希望通りの仕事をしてもらい始めました。が、またもやどうにもなりません。勿論、今日のベトナムでも他所を見れば優秀な営業マンも数多くなりましたが、そこそこの給与を払わねばならず、わが零細事務所では負担が大き過ぎますし、何度か覚悟してそれに見合う賃金の人を雇ったりもしてみましたが、賃金が高ければ質も保証されるとは限らないところが問題です。高賃金を要求する人の半分は、仕事ができないのにプライドだけは人一倍高い、というタイプで、しかも他所で仕事か見つからないからわが事務所で渋々働くということでしかなく、初めから期待のしようもないのかも知れません。

とにかく、普通のコミニュケーション能力があればそれで十分、と思っているわけですが、この「普通」というのが難しいというか、希少だと感じてしまいます。当たり障りのない関係なら別に問題となることもないわけですが、仕事の中だと摩擦は避けられません。ある程度の経験があればともかく、研修期間などなしに仕事をしてもらうわけで、当然ながら初めはミスの連発。ところが誰でも自分のミスを認めるのは辛いもの。謝る代りにとんでもない言い訳で逃れようとする風潮が根深く、まるで一つのミスを認めることが全人格を否定されるかのような反撃体制に入ってしまいます。余裕がないから仕方のないことと諦め、謝らすような状況を作らないようにすれば良いわけですが、僕にもそんな余裕はないわけで怒りまくりの怒鳴りまくりです。

結局のところ、双方共コミュニケーション能力に致命的欠陥があるように思えて来ました。他人の欠点はあげつらえば限がなく、ベトナムの歴史と社会と教育の中に問題を指摘することは誰でもできそうです。日本と同じ東アジア的縦社会の中でポジショニングに血道をあげてしまう体質は日本人以上でありながら、王権の及ばない村落の自治、自由は何にも屈しない頑固さ育んできたようです。この相反する要素の調和の仕方が日本人的体質と大きく異なるみたいです。
日本で問題となっているイジメやパワーハラスメントは、つまるところ異質なものに対してコミュニケーションできない日本的なるものの限界性でもあるように思えます。

と、いうことでわが能力の不足を自らでは克服しがたい日本人のせいにしているわけですが、きょうも台所に出没し、洗った食器の中に糞を垂れていった鼠同様、何時の日かは必ず叩き出し、優秀で美人のスタッフと取り替えてやるぞとの決意は変りません。

北部出張

2006-12-13 01:29:44 | 仕事
きょうも夕方に少し雨が降りました。台風ウトアは北西方向に進み、インドシナ半島を避けて海南島へと向かっているようです。12日21時現在の位置は北緯15度30分。ダナンが16度ですから、もう少し西によっていたらベトナム中部に大きな打撃を与えていたことになります。去年の年末年始はダナンで過ごし、中部の冬の天気にウンザリしました。その上に台風などに襲われたりしたら堪らないものがあります。

今年は来週17日から28日までハノイ周辺の北部へ出張予定です。この時期、サイゴンとは平均気温で10度以上の差があるし、どんよりと曇った灰色の空を見るのも気が滅入ります。もっとも今年6月に訪れた時の暑さも想像以上の耐え難さでした。できれば寒さと暑さが極端なこの二つの時期だけは避けたいものですが、仕事の都合でこの時期を外すことができません。

ハノイの他、ハイズン、ハイフォン、バクニン、バクザン、ヴィトチ、フートー、タイグエンなどを回ることになりそうです。荷物が少なければ地方を回るのにもバスを利用して可能なのですが、50kgを超える機器を持ち運ばねばなりません。営業活動というよりは荷物の運搬人です。サイゴンに事務所を置きながら、売上が北部や中部ばかりという実に効率の悪い仕事になっています。それでも5年ほど前と比べればハノイまでの外国人航空運賃がだいぶ安くなりました。以前は確か往復で400ドルほどした記憶があります。そのため帰りは長距離バスで帰ってきたり、あるいはフエーハノイ間をバスや鉄道を利用したりもしてました。

今は外国人料金もベトナム人乗客と同一になり、VN航空でも往復200ドルを切るほどになり、今回はパシフィック航空のキャンペーン価格で150ドル程度で済みそうです。その代わりタクシーの移動や宿泊費などに掛かる費用は高くなっています。
果してこの出張経費に見合う結果があるのだろうか、と今更考えても仕方ないことですが、きょう一日気分は憂鬱で、他人と言葉を交わす度に落胆と苛立ちをおぼえました。要するに自分に余裕がない証拠なのでしょう。

明日の朝は5時からN.T君の葬儀に参列するつもりです。

ビンユン陶器

2006-10-14 12:15:13 | 仕事
卒業試験で休んでいたNがきょうから仕事に復帰し、ほっと一息でした。今更卒業証書があっても大した役には立たないだろうに、と思うのですが、両親がこだわっているようです。日本の政治家の学歴詐称問題などを見ると日本も学歴社会なんだ、と思いますが、こちらでは学歴偽造問題が多発してますから、それ以上の学歴社会のようです。「科挙」の歴史を持つ国だから、ということでは日本には科挙はなかったわけで説得力ある説明とも思えません。それにしても家族の学歴へのこだわりに逆らわないところが日本とは少々異なる感じです。親から精神的に自立できないということなのか、それとも家族の絆が強いということなのでしょうか。何れにしてもこの学歴社会が教育ビジネスに好都合なことは確かです。NはTOEICのランゲージセンターに通い始めたようですし、新人の子も日本語センターに通っているそうです。センターに通いさえすれば何かが身に付くような幻想の雲はとても厚いものがあります。それでもベトナム語のセンターにも通わずにいる同居人のDさんやT君よりはマシかも知れませんが。試験を終えても晴れ晴れとした表情でもないNに「日本に留学でもすれば良いじゃん」と無責任に声を掛けると、「no money」と定番回答。「カネの問題じゃないだろ」とは思いつつ。

納品も溜まっていたので、早速出掛けることにしました。バイクに積める量でもなく、かといってタクシーを使えば足が出る距離です。それに雨に降られたら目も当てられないので行きだけタクシーを使うことにしました。ビンユン省の工業団地の立ち並ぶ一角です。北部ではハノイ郊外のバッチャン村のバッチャン焼きが有名ですが、南部ではビンユン省の陶器が伝統産業のようです。もっともビンユン(Binh Duong)という地名は新しいようで、以前はソンベと呼ばれていたので、ソンベ焼きと言うのかも知れません。今では「ソンベ」と言う名を聞くことは少なくなりましたが、以前、知り合いの日本人が空港に行こうとしてタクシーの運転手にSAN BAYと告げ、居眠りして目が覚めたら見知らぬ田舎に着き「お客さんSONG BEに着きましたぜ」と言われたそうですから発音には要注意。ビンユン省は東西の省境をサイゴン川とドンナイ川に挟まれた地ですから、ソンベのソン(song)は川という意味で、この川砂が焼き物に適していたのでしょうか。この地場産業の焼き物は海外への輸出も多く、また今では日本やヨーロッパ資本の工場もあります。

ベトナム人がこの地に南下して来てからせいぜい300年ですから、伝統産業と呼ぶに相応しいかどうかは別にして、それでも焼き物の技術的な問題で日本人が指導することは何もないそうです。手作業の仕事ですが、工場の敷地の広さに比べ従事する人数はさほど多いようには見えませんでした。観葉植物用の大きな植木鉢が並んでいました。輸出先の国のマンションやオフィスで使われる都会的な色と形です。ホームセンターに並ぶこの鉢を見て、それを何処で誰が作ったかを考える人が居るとも思えません。そう考えると何か得をしたような気になりました。ガス釜の設備は昔とは大違いでしょうけど、作業する人々の気持ちには昔と変らないものがあるに違いありません。ベトナム人がこの地で焼き物を始める前にも、たぶん先住民族がこの地の砂を利用して焼いていたような気もしてきました。

卒業試験

2006-10-12 02:40:49 | 仕事
先週金曜日から家のADSLが繋がらなくなり、月曜日に問い合わせたところ6ヶ月分の料金未納のため停められたとのことでした。5・6月は留守番も居たのに集金には来なかったし、何の通知もありませんでした。以前もダイアルアップ接続の頃2年分ほど溜めてしまい、その時はとうとう最後まで請求は来ず、かなりの金額を支払った覚えがあります。今回は半年分でも350Kドン、約2600円で済みました。このViettelという軍隊系の通信会社、急成長しているため管理が追いつかないようです。Le Duc Tho通りの料金支払い窓口に行くと皆20代前半の若い従業員で慌しく仕事をしていました。公務員的体質丸出しの郵便局系VNNとは大違いです。勿論、郵便局とて千差万別、一括りに語れるものでもありません。それでも「お前、縁故採用だろう」と言いたくなることはしばしば。

それでどうにか家のADSLは元通りに使えるようになりましたが、仕事と生活のリズムは狂いっ放し。先月末でスタッフの一人が「卒業試験が近いので辞めます」、ということになり、その余波でついでにもう一人抜け、取敢えず急場凌ぎに新しく一人来て貰ってはいますが、これまた姿を見ればストレスにしかならない仕事振りです。そして頼りのNも「最後の卒業試験」だそうで2日間の休み。どうやら5度目の卒業試験のようです。

きょうは朝から停電だと聞いたので、長時間の計画停電なのか臨時工事の短時間停電なのかと新人の子に尋ねると工事停電だとのこと。しかし電気メーターを見ると回転してます。ただブレーカーが切ってあっただけでした。恐らく事務所に顔を出さなければ、彼女は夕方5時までそのままで過ごしたか、停電だからということで早々と家に帰ったに違いありません。昨日も「問題が起きたら連絡すること、原因を追究すること」などと言ったばかりだったのに無駄な話をしたようです。普通の生活をしていれば、少なくても大家さんに尋ねる、電力会社に電話する、ぐらいのことはする筈ですから、その普通のことをして頂きたいわけです。この普通のことが出来ない人がベトナムでも増えているように感じます。或いはそういう人しかこの事務所には来ないということでしょうか。

試験は昨日までのはずのNが、9時、10時になっても来ません。しかも携帯電話は電源を切ってます。連絡もなく休み、携帯の電源を切るということはもしかしたらもう来ないということ・・・・などとの思いが過ぎり、どうにも落ち着かなくなりました。また一から始める気力が自分にはもう残っていないように感じます。地区の世話役が台風被害のカンパを集めにきましたが、黙って追い返してしまいました。店仕舞いしたら楽になれそうだし、スッキリした気分にもなれそうです。
12時を過ぎてからNが来ました。青い顔をして「あと2・3日休ませて欲しい」とのことです。表向きの理由が本当であるかどうかを考えても始まりません。兎に角、携帯電話の電源だけは切らないよう頼みました。

下水処理場

2006-09-24 03:45:44 | 仕事
ホーチミン市の道路が雨で直ぐに冠水してしまうのは、下水道の雨水排水と生活廃水の分離がされていないからだ、と聞いたのは4年ほど前、10万ドン札がハノイではまだあまり流通してない頃のことです。当時ハノイではホーチミン市に先行してこの工事が終了していたとか。ホーチミン市の下水処理場建設計画と用地買収に関わる話を聞いたのもその時でした。

その時の話を思い出しながら、ビンチャン県(Huyen Binh Chanh)の下水処理場工事現場に行って来ました。市販されてるホーチミン市街地図の北の外れがゴーバップなら、このビンチャン県は南の外れに位置します。付近はサウス・サイゴン開発計画が進む地域のため整備された広い幹線道路が走り、また広々とした草むらの中にポツポツと不動産屋の建物が建っています。

僕の耳にも届いていた話ですから、勿論この建設プロジェクトは日本のODA絡みです。建設現場に分岐する道に立てられた看板にはベトナム国旗と共に日の丸が描かれていました。工事はまだ始まったばかりのようで、太いコンクリートの杭が見えるだけです。湿地帯の敷地には川も流れていて、まだ橋が建設途中のため事務所の建物に行くためには船で渡らねばなりません。ネクタイを締めヘルメットを被って船で川を渡るのは、これが最初で最後のことかも知れません。

昨日から空は雲に蔽われ雨模様の天気で、きょうもこの帰りに降られてしまいました。バイクを止め合羽を取り出している間にとてもバイクを走らせることのできないほどの激しさになり、ちょうど8区に入り店も多い所まで来ていたので向かいのカフェで雨宿りすることにしました。Nと一緒だったので残念ながらカフェのオネエさんに軽口を叩くこともできずです。

H君が JET LI のDVDをごっそり持って来てくれました。カフェでもJET LIのDVDは5・6本見てますから、ベトナムではジャッキー・チェンより人気のようです。
きょうの新聞にもゴーバップ高校とレクイドン高校の校長の記事が載っていたので、教育費について聞いてみました。幼稚園や小学校でも700Kドン掛かるそうで、高校では1Mか1.2Mドンだとしても不思議はないとのこと。これじゃ、お姉ちゃんが朝から晩までカフェで働いても弟や妹の学費にも満たないってことになってしまいます。

コピーボード

2006-09-08 02:29:25 | 仕事
プログラマーのDさんが日本の生活を引き払い、来月早々にこちらに来る予定です。ズボンの裾上げ、バイク修理、床屋さん、ネイル・ペインティング等ならその日からでも営業可能と思いますが、プログラマーの仕事というのはどうでしょう。あまり馴染みがないのでわかりません。それでも金なし、技術なしの僕よりは断然優位性がありそうです。そんな事情もあることだし、ソフト開発会社を少し回ってみることにしました。コピーボードを抱えての出張デモ。

先ずはトンドゥックタン通りの知り合いの会社を訪れてみました。応接兼会議室にはホワイト・ボードが取り付けてありましたが、コピーボードを見るのは初めてのようでした。「これ10面とかのはないの」?との質問にびっくり。「インポータント・ミーティングには必要だねー」とのことで、ホーチミン市で進行中の幾つかのプロジェクトを教えられたりもしました。
いつものことながら彼は前向きな協力的姿勢を見せてくれますが、その代わりに彼の会社の営業活動への協力を求められます。

彼の仕事は順調なようで、今のビルを売却し、日本の不動産会社と合弁で10~15階建てのビルを建てる計画だそうです。ビルの半分を貸しオフィスにするとか。サイゴンのオフィス賃料はバンコクの3倍という統計もありますから確かに儲かりそうな商売です。「土地はもう確保してある。ミニマムで5Mドル。投資する知り合いがいたら紹介して」などと言われても、5Mドルって日本円で幾らなのかを計算する気にもなりません。

それにしてもこのコピーボードの出張デモ営業は、バイクで運べないのが難点です。タクシーを使ってビエンホアやビンユンの工業団地まで行く経費はかけられません。
新聞の広告にビンユンの工業団地で新たに操業を開始する日系工場の求人が載っていました。かなり離れたところです。一度その工業団地へ足を運んでみたいと思っていたので電話を入れてみました。聞いてみると工場はまだ完成してないとのことでした。しかし工業団地の第一期分は既に完売だとか。
サイゴンの中心部にオフィスビルを建てる話よりも郊外の工業団地の造成の話のほうが興味をそそられるものがあります。工業団地の近くにでも引っ越して土のある生活を送ってみたいものです。ゴム林やカシューの木陰でハンモッグ吊るして昼寝できるほうが1区の冷房の効いたオフィスビルで働くよりも魅力的です。

「現場監督」

2006-08-31 02:09:42 | 仕事
午前中の予定を忘れ、10時の約束を思い出したのが10時3分前。先方はベトナム人副社長だからと、Nに任せたつもりで伝えてあったのに「だって、昨日言いませんでした」とまたもや意味不明の言い訳、というよりは居直り。「一昨日言っただろう。言われたことはメモ位取れよ。オレはお前らの秘書じゃないんだよ。このボケ!」という言葉をベトナム語に変換する余裕もなく、たぶん顔の表情はそんな感じで、慌ててNと一緒に事務所を出ました。こうして急ぐ時に限って道路は渋滞。ハイバチュン通りは停電で、信号の消えた交差点に警官が立っていました。

応接室には様々焼酎やみりん等のサンプルが飾ってありました。ベトナムの日本料理店でよくみる銘柄です。この会社の名前は以前から聞いていましたが、訪問するのは初めてです。昨年、若くして逝ってしまったHさんがM社に来る前に働いていた会社です。「Hさんも日本語が上手でしたよねー」と言うと、副社長は「ここでは日本語が上手なだけでは駄目なのです。他に専門知識がないと。経理とか化学とか」と意外な冷たい言葉。ベトナム人のウェットなところにも度々驚かされますが、このクールさに驚くこともしばしばです。

行きが行きなら帰りも帰り。ハムギー通りの交差点でパンクです。後輪タイヤに釘が一本刺さってました。幸い目の前にパンク修理のオッサンの姿。Nに財布を渡してゆっくり煙草に火を付けました。サイゴン港近くのこの辺はコンテナトラックが多く、しかもこの時期道路拡張工事で渋滞してます。バイクで走るには最悪。

Nは午後から2件の納品を抱え、昼も満足に休めない忙しさ。明日、税関に提出する書類のコピー撮りができないからと、僕に振って来ました。「そんなことは超ー暇なMかAに頼めよ」と、こちらは表情とは裏腹に再び怒り心頭。きょうもまた雨が降り始め、事務所前の道路は川と化し、足首まで浸かる深さです。

2時10分まで待っても雨足は弱まらず、カバンをポリ袋で包み合羽を着てバイクを出しました。合羽を着てもズボンはびしょ濡れです。雨天対応仕様バイクを誰か設計してくれないものかと思わずにおれません。昨日と同じでゴーバップ、12区を抜け、ビンユン省の LAI TIEU に至る道を走りました。この道はサイゴン川を渡る橋が4輪車禁止のため、国道1A線の陸橋を過ぎてからは自動車の通行量が少なく、晴れてれば快適です。昨日は国道13号線に出た頃には雨は上がったのにきょうは当分止みそうもありません。

「12月に撤退予定だからあまり良い話はできないよ」とのことでしたが、そうであればなお更話を聞きたくもなるものです。自分では訪問先の応接室で煙草を吸うなどという非常識な営業活動はしないつもりでしたが、そのタブーをも破り捨て、しかも雨で煙草屋にも寄れず切らしたままなので、一本いただき、そして2本、3本とくすねては吸い続けてしまいました。
子供の頃は押入れを暗室代わりに写真現像などをしていたこともあったのですが、久々にそんなことも思い出しました。そういえば、コニカビッグミニ、現場監督も好きなカメラでした。1時間半の間、一冊の小説を読むような楽しさを覚えました。「ベトナムはどうですか」?と聞いてみました。「好きにも嫌いにもならないようにしている」とのことです。仕事だから当たり前かも知れませんが、その当たり前を貫くのも簡単とは思えません。

雨は降り続け、事務所に戻る時間もないので電話を入れ、T君にはバスで家に帰るように言いました。傘も一本置いてあるから。ところが、何故かバスが一本も来なかった、ということで歩いて帰ってきたそうです。40分ほどもかけて。
雨の中をバイクを走らせたので、すっかり身体が冷え切ってしまいました。晩御飯はシチューにしました。身体が冷えた分だけシチュー作りにも気合が入りました。