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GOVAP便り

プノンペンからモンドルキリに、その前はTAY NINH省--AN GING省--HCM市GO VAP

支払日

2007-04-06 01:49:20 | 仕事
給与と家賃の支払いに加え仕入れ代金の送金もこの日が期限、それでなくても面倒だと言うのに売掛金の回収が遅れているために資金繰りに四苦八苦。更にEMSで送られて来た製品の通関手続きが予想以上に厳しく、二日間かかっても終わりません。こんな時に限って輸出加工区の企業へ納品のために免税申請手続きも重なってしまい、わが低速CPUへの負担も大きく扇風機も壊れてるため加熱はいっそう増すばかりです。

EMSは簡易通関手続きでスンナリ受け取れると思っていたのが大間違いで、昨日指摘を受けた箇所を修正して申告書を提出したところ、今日はまた別の箇所を修正するようにとの指摘です。最初から分かっているのに小出しにしか言わないところは意地悪以外の何ものでもなさそうで、たぶん遡れば17世紀朱印船貿易の時代から続くベトナム官吏の伝統なのかも。きょうは、契約書がCIF価格で表記されているのにインボイスがFOB価格となっているのいるのは認められない、とのことでどちらかに統一して来いとのご指摘でした。書き換えるということは結局、私文書を偽造して来いということに等しいわけで、実際に業者に頼んで通関手続きをする時はこの偽造書類を何枚も作ることになります。偽モノの書類を作らないとスンナリ通関できないというのには今だに納得できないものがあります。インチキをしなければ事が捗らない、という現状は単に税関の問題だけではなく、広く厚くこの社会の常識なのでしょうか。

あと何回税関に足を運べば商品を受け取れるのか、あと何日経てば売掛金が回収できるのかとイライラはつのるばかりです。そんな時に先月末に辞めた二人が給与を取りに来たようで、椅子に腰掛けお喋りしています。「何だよ、このくそ忙しい時に。挨拶ぐらいして入って来いよ」と気分は最低。黙って座っていれば、そのうち先月分の給与を計算して手渡してくれるのだろう、とでも思ってるのでしょうか。こちらが訊いても「黙して何も答えず」が二人共何度となくありましたから、きょうは彼女達に給与の請求されても同じように無視してやろうか、などと意地の悪いことを思いながらも、彼女達の先月の出勤日数を計算しました。日払いのアルバイトを雇ってるわけではないのに、とにかく皆さんよく休みます。それもすべて直前か事後になってから、田舎に帰るだの友達が入院しただのとの理由です。

これじゃ、とても生活できるような給与じゃないなー、という思いの金額ですが、いざ自分が支払うとなると、この金額を逆に貰ってもこの人達と一緒に働くのはお断り、というところです。結局のところ保育料をこちらが支払って20歳過ぎの保育園児を預かっているようなものでした。パソコンはウィルスだらけにしてくれるし、椅子は壊すしで、破壊力も園児並。

どうにか無事支払いも終えることができましたが、帳簿を付ける気力は残っていませんでした。この日重なったのは仕事ばかりでなく、夕方からは知らぬ中でもない女性から立て続けに電話がありました。せいぜい月に1・2度しか電話を貰うことはない相手ですが、何故かこういう電話も貰うときは集中します。「偏りとバラつき」への理解が品質検査の基本、などと教えられたことがありますが、何故かわが生活は、バラつきよりも偏りが多いようです。最後の電話は日本からで、無事退院できたとの知らせ。一日の不満を吐き出したので長電話になってしまいました。

四月

2007-04-03 02:28:40 | 仕事
パソコンが次々ウィルスに感染し、ウィンドウズの再インストールを繰り返してもどうにも進展がありません。扇風機は壊れたまま。先月末入金予定の2件は今だ着金せず。ちょっと外出すれば「納品がありました」との電話。「今、支払いをしなくてはいけないわけ」?と訊くと「そうです」と答えるので慌てて戻れば「支払いのことは聞いてないそうです」とのことで、何のために呼び戻されたのか、と先の思いやられる不機嫌な月曜日の朝、四月の幕開けです。

きょうもまた万事がこの調子で、業者からの電話を受けても「CNTからの電話で・・・、アレーTNTかしら・・・」と会社名もまともに聞き取れていません。「オレに訊くなよ、会社名が聞き取れなかったらその場で相手に聞き返せば済むことだろう。だからちゃんとメモ取りながら話せって毎日言ってるのに・・・」。間違い電話の多さにも驚きますが、それ以上に深刻なのは、仕事の電話での聞き間違いの多さです。○○短大からの電話が○○教育局と思い込んでいたり、A社の製品を止めてC社に変更する、という報告が実はその逆だったり。ここまで情けない事務所は知る限り、そう滅多にお目にかかれるものではありません。

何をしたというほどのこともせずに時間が過ぎ、さてメールでも送って、と椅子に座ると今度はネットワークカードが壊れたのかネットに繋がりません。スタッフのみならずパソコンも思う通りにならず、思い切り蹴飛ばして憂さを晴らしたい衝動に駆られます。開け放った窓からはほんのわずかの風も感じることはできないのに、埃だけは吹き込んで来るのと同じで、人を雇って給料を払っても仕事は前進せず、ゴミ以外の何ものでもない役立たずのデータとクズ書類を溜めているだけです。

机の上を片付け、帰り際の6時半に温度計を見ると気温32度、湿度65%と表示されてます。日が暮れても気温が下がらずに湿度は上昇する季節になってしまいました。何をせずとも暑さが体力を消耗させるわけで、汗疹なのか湿疹なのか、腹の周りのパンツのゴムの当たる部分は発疹が酷くなりました。この一ヶ月をどう乗り切ることができるのでしょうか。

転職相談

2007-03-28 20:42:10 | 仕事
月曜日にH君から転職の相談を受けたばかりなのに、きょうはダナンのLさんからホーチミン市での仕事のオファーを請けているので相談に乗ってくれとメールが届きました。二人とも十分な収入があり、僕よりも遥かに優雅な生活を送っているわけで、こちらとしては相談相手を間違えてるんじゃないの?とでも言いたいところ。他人の相談に乗れるくらいの器量があればこんな生活を送ってるわけないでしょ、などとも思うわけです。

もっとも、僕に相談するということは、二人とも今の安定した生活を捨てて新たなリスクを覚悟するということなのだろうと思います。たぶん、それで僕が「今の生活を大事にしてつまらぬ夢を追わないほうが良い」などとは決して言わないだろうし、新たな決意を支え励まされるだろうとの思いがあってのことかも知れません。

H君は旅行業界に6年間働き、持ち前の語学力と責任感の強さから本業の他にも様々な副収入があるようです。それでも収入以外での満足できるものがこの業界にあるとは考えられないとの思いを強くしているようでした。食品加工生産の新しいビジネスを立ち上げたいと企画しているそうです。
日頃、僕が無責任に煽っていたことも多少は影響しているようですから、無謀な試みに足を踏み入れるようなことになるのでは、との心配も付きまといつつ、それでもやはり創造的な仕事に挑戦して欲しいと思っています。

日曜日に回復した家のADSLは月曜日にはもう繋がらずで、これはパソコンに問題があるのかと設定を調整しているうちにとうとうWINDOWSが立ち上がらなくなってしまいました。その上、追い討ちを掛けるように朝から停電。この辺まではまだ我慢の範囲内でしたが、仕事が始まり、ハノイの印刷会社と電話で打合せていたNが、急に「先方がキャンセルしました」と言ってきた時には冷や汗ものでした。次の対策を考えることなく、「だって相手がそういってるのだからしょうがないでしょ」との態度に「相手が断った、で済む問題じゃないだろう」と怒鳴り、一度は先方の営業が受けた仕事なのだから少なくても先方に他の会社を紹介させるなりの事ぐらいはさせるべきでしょ、ともう一度電話を入れて貰うことにしました。これがトラブルの始まりで、市内の取引先から契約書を取りに来いを言われて出かければ、「まだ出来ていない」とか、銀行に行くのに3つの用事を言いつけても2つを忘れて帰ってくるとかの連続でした。

4人にスタッフそれぞれに1時間づつ時間を割かれて一日の半分が過ぎてしまいます。しかし放任すればその結果がどうなるのかは目に見えているわけですから、怒鳴り散らしてでも言うべき事は言わねば前に進みません。きょうもまた遅い夕食を覚悟してはいましたが、5時になって帰り際にNが、「ウィルス・チェックしてるので1時間ばかりパソコンそのままにしていてください」と告げられた時は腹が立ちました。「どうせ直ぐ帰らないんでしょ」って、人にモノを頼む時の台詞ではないと思ってましたので。

テト明けの多忙

2007-03-07 00:48:35 | 仕事
どこも多忙なテト明けを迎えているようで、昨夜は家に帰ってからPCの電源を入れるとK君の工場のスカイプがまだONになっていました。ビンユンの工場に一人で残って雑務と格闘している姿が目に浮かびます。たぶんお互いに自分ほど惨めな境遇に陥っている日本人はこのサイゴンにはいないだろう、と思っているようです。日本に二週間帰ったおかげで仕事は溜まるし、日本でのお客さん気分の反動でこの現実が余計シンドイものと感じてしまうわけですが、K君にとっては、それすらも「日本に帰れただけ幸せじゃないか」というところです。

しかし、「何で階段を登ることができないのだろう・・・せめて人並みの生活を送りたい」と言うK君にたいしては、こちらはまだ「水面から浮上して息をするまでにもなっていない」わけで、このまま深海の奥深くへと沈み込んでしまう恐怖と比べれば、まだまだ羨ましい限りです。

それでも一昨日の日曜日も一人で出勤したというK君ほどの努力を自分が払っているとは言えず、我武者羅に働くエネルギーが湧きません。いつしか自分一人が頑張ったところでどうにもならない、などと思うようになってしまったみたいです。報われることを期待してるつもりはなくても、報われたと思える瞬間があまりにもなさ過ぎたようです。あるいは、そう感じることができないほど鈍感になってしまったのかも。兎に角、頑張ってしまうと尚更他人にキツク当たってしまいそうです。

きょうの新聞にこのGO VAPを拠点にした10代の犯罪グループが逮捕され、同時に先月訪れたタイグエンでは女子高生の強盗3人組が逮捕されたとの記事がありました。10年ほど前にも「失業率が高いので青年犯罪の多さが問題」などと聞きましたが、一方では今日のホーチミン市の労働力不足は深刻なわけで、失業率の減少の仕方が逆にそれ故に「報われない」と感じる青年達を新たに生み出しているようにも思えます。

謄写版印刷

2007-02-05 21:14:14 | 仕事
小学校の卒業文集を作る時にガリ版を切った記憶があります。ロウ原紙をヤスリに乗せ、鉄筆で力を入れて字を書いた最後がいつだったかは思い出せません。パソコンのお陰でガリ版どころか紙に字を書くことも少なくなってしまってます。ところが、パソコンに触れないビアオム先生などは、いまだにガリ版書体を思い出させる字を書いています。ベトナムで肉筆の日本語の文字を見る機会は滅多にないので、どんな文字を書くのかが気になったりもするわけですが、彼の事務所で日本へ送付するダンボールに貼られた宛先の文字などは、思わず吹き出してしまうほどの角ばったアジビラ文字です。丁寧に書こうとするとどうしてもロウ原紙のマス目を埋めてた頃の癖が出てしまうようです。

鉄筆の替わりにロットリングを使って版下をつくり、原紙を焼き付けて印刷できるようになったのは、というかそういうものの恩恵を受けるようになったのは、70年代の中ごろだったと思います。その頃はポールペン原紙などいうものも売られていて、高校生だったリョウツ君が使っていたのを覚えています。何れにしろ印刷の原理は謄写版印刷でした。プリントごっこで年賀状を作っていたのもそう昔のこととも思えませんから、謄写版印刷が懐かしいというのも可笑しなことです。

先日、教育機関の入札資料の中に「ゲステットナー」の文字を見たときは、突然懐かしさが込み上げました。輪転機という名で呼んでいたというよりは、輪転機の代名詞の如く日本でも使われていたような気もします。ローラーを手で動かす謄写版よりも輪転機のほうがやたら手が汚れたように覚えてます。インクに汚れた手を洗うには専用クリーナーが必要なほどで、「サラダオイルで結構落ちるんだよ」と教えてくれたのはヨシツル君でした。日本でまだB4版の藁半紙というものが売られているかどうかは知りません。ここではB4を見ることはく、A4り縦け少し長いF4というサイズがありますが、文房具店に置かれてるのはすべてコピー用紙です。教科書の紙質はかなり劣りますから藁半紙のような紙が生産されてることは確かです。

ゼロックスはラニングコストが高過ぎだし、リコーのコピー機はショッチュウ故障するしで、経費削減を考えて印刷機を導入したい、との相談を受けたことがあります。そう言えば、リソグラフというのがあったと思い出しネットで調べると、つくづく謄写版印刷機も変わったものだと驚きました。ベトナムでは街のコピーサービスは一枚200ドン程度で日本のコンビニと比べると格安ですが、それでも印刷部数が多い学校などではかなりのコストダウンにもなるらしく、導入が増えているようです。コニカミノルタも同様の印刷機を販売してるようでしたが、海外販売のサイトはありませんでした。

折角ハノイに居るわけだし、土曜日は予定もないのでGestetnerの輸入代理店を訪ねることにしました。ベトナムでは1992年から輸入販売しているそうです。市場占有率は90%以上だとか。販売価格を聞くと、当局で盗み見た価格よりかなり高いことを言ってましたから、初対面の人間には手の内は見せないぞ、とのことらしく、北部の人のガードの固さは相変わらずです。手渡された英文カタログには各国の販売店の名が記されていました。バングラディシュ、ブルネイ、カンボジア、インドネシア、ミャンマー、ネパール、フィリピン、スリランカ、ベトナム。日本のメーカーならスズキか味の素しか進出しないような国ばかりです。

謄写版印刷は、ゲステットナーとリソグラフによって21世紀の東南アジアでも生き残るようです。おそらく大部分が学校等の教育機関なのでしょう。写真事業から撤退したコニカミノルタは、この市場へも進出しないのでしょうか?かつてホーチミンが中国でベトナム人を組織した機関紙「青年」も謄写版印刷だったようです。今のベトナムの小学校の先生方が生徒に配るプリントはどのように作られているのでしょうか?


三つ星ホテル

2007-02-04 11:38:47 | 仕事
夜中に足の指が攣りました。毛布に包まったまま指を引張ってみても直りません。暖房もなく、お湯も出ない一泊15万ドンのホテルです。通りに面した入り口は、星が三つ飾られたそこそこの外観なのに客室には幾つかのランクがあり、連れ込みホテル並みの格安部屋だったようです。部屋は勿論狭く、天井は物置部屋仕様のトタン製、柱もかなり傾いています。トイレ件シャワー室の入り口のドアは壊れたままで閉まらず、幅は45cmほどのしかありません。コンクリートの欠片が詰まって窓は閉まらず、カーテンが外されたままのカーテンレールは壊れてブラブラしています。

仕方なく起きて電気を付け、攣った指をちゃんと治すことにしました。時計を見るとまだ10時です。確か6月にバクザンのクソ暑いホテルに泊まった時も足の指が攣りました。安ホテルの祟りでしょうか。サイゴンならこの時間に外に出てもまだ立ち寄る店は幾らでもあるわけですが、北部の地方都市ではどうしようもありません。本を開いてラヴィック先生がフランスの官憲に逮捕されてしまう箇所を読み、たとえ足の指が攣ろうが、パスポートとVISAを持ち、帰る祖国もあるわが身のどこが不幸なのかと自分を納得させて再び電気を消しました。しかし眠りはやって来ず、代わりに得体の知れぬ怒りがこみ上げて来ます。

価格は大幅に値切られた上に法外なコミッションを要求され、代金を振り込んだという嘘をつかれて製品を送付させられて一ヶ月が過ぎ、いまだに送金書のコピーすら確認できません。しかも契約書類もこちらには渡されてないわけですから、トラブルが起きたら100%こちらが被らざるを得ない状況です。これほどまでに卑屈な条件を何故飲まされねばならないのでしょうか。おそらくNは、そういう立場に置かれているということすら考えずに商談を進めているに違いありません。文書で報告を書けない理由は、やはり対象化するという作業、自分が関わった事柄を客観視するということを拒否する体質があるからのようです。そうでなかったら派手な柄のセーターの上にスーツを着て、サンダルを履くという格好ができるはずがありません。前回ハノイで何冊もの地図を買ったのにそれを持って来ることもないのは、地図という対象化された情報が彼女には必要ないからなのでしょう。相手が何と言ったか、自分が何を言ったかがすべてで、その内容を客観的に評価判断しようとはしません。

しかし、今更そんなことで彼女を責めても言いがかりを付けるようなものです。明日、振込み書類のコピーと契約書を要求し、どちらも確認できなければ製品を引き取って帰るとNに告げるだけで十分です。不健康な疲れが眠りを妨げるので、再び寒さを我慢して身体を起こし本の続きを読み始めました。社会主義者という言葉が買収に屈しない清廉と同義で語られた時代、1939年のパリ。おそらく植民地ベトナムから連れて来られた人々も少なからず暮らしていたはずのパリです。

翌朝、9階の食堂で一人朝食を済ませてもNの姿がありません。電話を入れると、頭痛がひどいので一人で行ってくれとのこと。住所を言いかけたところで言葉を遮り、それなら兎に角打ち合わせだけも良いから食堂に上がって来てくれと告げました。しかし20分経っても姿を見せません。8時には先方に行かねばならないので諦めて部屋に戻る途中でNに会いました。しっかり出掛ける支度をしています。頭痛の話は無かったの如くで、「あれー、食堂に上がって来てって言ったのに」と驚いて声を掛けると、「違います。下で待ってるって言ったじゃない」と不貞腐れました。その細い首をへし折ってやろうか、と一瞬ムッとしたものの腹を立ててる場合ではありません。きょうの仕事をさっさと済まさねば、明日からの予定も目途が立ちません。ホンマ先生が小学生相手に語ったという「泣くな、喚くな、理解せよ」との言葉を思い出し、しかし理解するということはどれだけ長い時間を必要とするものだろうか、と思ってしまいました。

寝坊

2007-02-03 18:14:29 | 仕事
時間切れで回答用紙の半分も埋められなかったテストの後のような気分で仕事を終え、事務所を出るときにNに念を押しました。「今晩は早く寝て、明日は6時前には空港に来てくれよ」。毎回必ず待ち合わせ時間に遅刻し、イライラさせられた挙句に「道が混んでいた」だのとの言い訳を再た聞かされたくはありません。まして明日は早朝便です。Nは驚くほど精一杯ニッコリ笑った後で、「早くなんか眠れない」。

Nは一泊でサイゴンに返すとしても、考えてみれば自分は翌日から北部に6泊しなければならないことになっていました。ということは、サイゴンに戻ってからは一泊だけで日本に帰ることになります。しかもその一日は深夜便の見送りで潰れるので、支度をする時間も取れそうにありません。生ごみを捨てたり、洗濯物を片付けたりの身の回りの整理もしなくてはならないし、最後に近所のコーヒーも飲んでおきたい、などと帰国モードに浸ってしまいました。それより先に明日の支度、とは思いつつも「ちょっとその前に」という気分が勝り、気がつけば12時。朝早く起きれば良いだけだ、と4時に目覚ましを2個セットしました。

携帯でアラームをセットしたわけではないのに、携帯電話が鳴りました。「何処にいるの?空港に着いたの」?とNの声です。「シマッタ」と時計を見ると既に6時。「今起きたんだよ。まだ家」と答えるとNは納得したのか、呆れたのか通話料をケチったのか素早く電話を切りました。窓の外はかなり明るくなっています。どう考えても今から間に合うはずはありません。Nに電話を入れ直し、一人で先に行ってくれと頼みました。どこかで緊張の糸が切れてしまってたのか、それとも肝心な最後の土壇場でとんでもないドジを踏むのは、わが人生の象徴と言えなくはない、などとと卑屈な気分になりました。

4時に起きようなどとしたことが敗因です。小学生の頃、家での学習時間の予定表を作れと言われ、一日3時間と決めた時と同じで初めから実現するわけない代物でした。冷蔵庫を開けてりんごを食べ、6泊分の着替えと仕事の道具にノートPC等を揃えると結構な重さになりました。次の便までは時間がある筈ですが何時なのかは知りません。髭を剃りながら昨夜はシャワーを浴びただろうかと考え、北部の寒いホテルでシャワーを浴びてまた風邪を引きたくはない、などと思っても仕方のないことなのですが、「あー行きたくねー」との気分が寝坊の原因でもあったようです。

家を出る頃は既に7時近くで、バイクタクシーも簡単につかまる時間でした。パシフィク航空のチェックインカウンターには職員もおらず、掲示版を見ると次は9時の出発。一度建物を出てパンとコーヒー、新聞を買いました。航空運賃を下げ分、機内では飲み物のサービスも廃止されました。いつもは値段の高さと接客態度に腹を立てるSASCOの売店も卑屈な気分に打ちひしがれているためか気にもなりません。

座席は5A、久しぶりに窓側です。隣の席には旅行ガイドブックを持った夫婦が聞き覚えのないフランス語で挨拶して座りました。咄嗟にXIN CHAOとのベトナム語が口から出てしまい、相手が高慢にもフランス語で来るなら何でこっちは日本語で対抗しなかったのかと悔やみました。それでも旧宗主国民族フランス人の傲慢さを感じたわけではなく、またベトナム人乗客のように騒々しく不愉快な気分にさせられることもありません。珍しく快適にハノイまでの2時間を過ごすことができました。

ハノイの空港に着き、Nに電話を入れると既にタイグエンに着いているとのことです。空港から17番のバスに乗り、タイグエン行きのバスが通る道で降ろしてもらえば良い、とだけNは言い、それ以上の情報は持ち合わせていないようでした。既に昼近くの時間帯のためか、07番のバスは何台も来るのに17番は30分経っても来ません。不安になって再びNに電話しても電源を切ってしまったようです。暫くしてやっと17番のバスが来たので一安心。タイグエンに行くには何処で降りれば良いか?と車掌に聞きました。教えてやるからちょっと待ってろ、と言い残し車掌は他の乗客かの運賃を集めに行きました。戻って来た車掌が紙は持ってるか?と聞くのでメモ用紙を手渡すと、わざわざ紙に書いてくれました。03番のバスに乗り換え、Ben Xe Giap Batまで行き、そこからタイグエン行きのバスが出ているとのことです。それじゃあ、ちょっと無駄が多すぎる、とは思いましたが、中途半端なことをして途方に暮れるよりは堅実です。

ところがやはり無駄が多すぎで、17番バスが走った道と同じ道をBen Xeからのバスは再び遡るだけのことでした。空港から2時間ほどで着く筈のところを3時間ほど回り道をして、タイグエンに着いたのは既に5時。バスを降りると行く先々、何処でもバイクタクシーの強引な客引きの洗礼が待ち構えています。特に北部の地方都市のそれは我慢がなりません。不機嫌が重なっているところに更に追い討ちを掛けられるようなものですから一気にすべてが爆発し、「乗らねーって言ってんだろ、この糞っ垂れ!」と怒鳴り散らし、相手は聞き取れぬ言葉に「チャイナ・チャイナ」と仲間に告げ、諦めるようでした。こんな下品な日本人が居るとは、彼らにも想像外だったに違いありません。

明日は5時起き

2007-02-01 01:44:17 | 仕事
かつてホンマ先生が小学生相手にムキになって腹を立ててると聞き、冷ややかに笑っていたものでしたが、それから数十年後の自分は毎日ベトナム人スタッフ相手に同じような境遇に陥ってしまったようです。この事務所はまるで保育園。ちょっと目を離した隙に何をするか分かりません。パソコンや携帯電話という遊び道具もあることですし、トイレに隠れてニキビ状況の確認やら机に向かって枝毛のお手入れに費やす時間も半端ではありません。

とにかく今日一日を乗り切って明日は6時半の便でハノイに行かねばならないというのに、何と朝から停電。ファックスとPCが使えないのでどうにも仕事になりません。プログラムの動作確認どころか、持参するプログラムをCDに焼くことも不可。頼りは唯一電話だけです。ところが、携帯電話を盗まれてSIMカードを新しくしたので、電話帳の記録はすべて消滅。散乱した机の引き出しから名刺を探そうとしても何故か必要なものだけ見当たらないのは、やはり日ごろの心がけのせい。

一体全体何と闘っているのでしょうか。一ヶ月前に振り込んだという北部の地方役人の嘘となのか、あるいはその嘘に騙され続けても他人のことだと平然としていられるスタッフの体質なのか、あるいは自分自身の無能に対してなのでしょうか。日本からのお客さんんは、6日にハノイに着き、7日ダナン、8日はホーチミンに戻って夜便で帰国。それぞれの訪問先への連絡を済ませた後、午後一番でハノイのホテルに予約を入れるよう頼んで出掛けました。先方はきょうまでしか日本に居ないからホテル名だけでもメールを入れてくれ、とのことです。そのぐらいのことは新人のQにでもできるだろう、と言い残したのに枝毛の手入れで忙しいQは拒否したようで、外から電話を入れるとNが答えました。「料金は前回より5万ドン高くなりますが予約しました。6,7,8の3日間です」。7日は午後ハノイを離れ、8日の晩は日本に向かうことはチケットの手配もしてるので十分承知のはず。それなのに何でハノイに3泊の予約を入れてしまうのか不思議でたまりません。

一日しか泊まらないなら予約を受け付けて貰えないと心配したのか、あるいは「えーたった一日だけですか?」と言われる屈辱を回避するためだったか、うっかり間違えたのか、その真実はわかりません。それでも「一日にしたかったら一日に変えても良いですよ」とか「だって、3日間て言ったじゃないですか」などと言い返されないだけ幸せと思うべきです。Qであれば、間違いなくそのどちらかの言葉が返って来るはずです。物忘れの激しいベトナム人に対してはこれが結構通用してしまったりするからでしょうか。

5時と共に帰宅を急ぐQの後姿に「挨拶ぐらいして帰れよ」と声をかけると、「まだ帰ろうとしたわけではありません。鍵を探してるところです」と、これまた予想外の言葉が返って来ました。朝も帰りも一度として自分から挨拶したことがないにもかかわらず。
こんなところで神経をすり減らしてる自分は、「闘い」などと呼べる生き方ではないな、などと昨夜読んだレマルクの「凱旋門」を思い出してしまいました。富と権力に繋がる醜悪な人々と貧しく虐げられた普通の人々という構図が大枠で成立している世界です。手塚治のブラックジャックは、このラロック先生がモデルなのだろうか、とふと思い、あるいはこの小説が無意識にでもヒントになっているに違いないと思えるものがあります。

とは言え、この山西英一翻訳のこの本、少々読むのに疲れる日本語です。それだけに寝る前に読むのには好都合です。ハノイに持って行っても、ホテルでNHKBS放送を見るよりは十分楽しめそうです。 

帰国予定

2007-01-27 20:44:02 | 仕事
一昨日、ANAのオフィスから予約した2日出発便の確認電話が来ました。日本人女性の日本語の声に思わず調子の良い返事をしたくなり、「一週間ずらして8日の出発に変更してください」と咄嗟に答えてしまいました。そうとでもこの電話に答えなかったら、ずるずると先延ばしでテト休みを迎えてしまうことにもなりかねません。

12月末に発注したつもりの商品が日本の正月休みを挟んで遅れた上にトラブルで今だに到着せず、12月末振込んだというお役所からの送金もまた着金しません。今日中に契約書を締結し、明日税関に申告するつもりだった売買契約は、何と仕入れ値が売値より高く記載されおり、流石にここ数日の我慢も限界で語気を強めてしまうと、「ちゃんとコミションがあるから大丈夫です」との答え。「それじゃ継続的な商売にはならないんだよ。赤字会社がわざわざ赤字取引の契約書残しておいたら誰だって疑うでしょ。第一ベトナム人の口約束が信用できるわけ?そんなリスクを犯す必要が何処にあるの?」

これでは2週間後の来客がなくても、2日に帰国することは初めから無理だったということのようです。一体この国ではどんな教育をしてるのだろうか?などと、怒りのやり場に困って、今更ながらのことを呟いてしまいます。たぶん説明した内容が理解されたということではなく、「この契約者なら取引はしない」ということだけが伝わったに違いありません。それで十分と思える冷静さはなくても、ここで感情を露にすることもできず、ついK君に電話をしてしまいました。日本人と日本語で話すと多少は気を静めることができるようです。「工場建設は見に行きたいんだけど日程が取れなくて。相変わらずのドタバタでさー。テト明けまでどうにもならないみたい」。この事務所もK君の所も携帯電話の電波状態が悪く、スカイプを使ったほうが遥かに音声はクリアーです。

9日に帰る予定すら不安になって来たというのに、昨日の朝は北部からの注文が入り、帳票や機器の手当てもしなければなりません。しかも帳票のフォームはまだ決まってない上に数量は今までの4倍。「だから早く新しい印刷工場探せと言っただろうに。もう一ヶ月も経つのに何やってるんだよ」との言葉は飲み込みましたが、「今なら韓国に発注しても間に合います」などと言うNに「フォームも決まってないものをどうやって発注するんだよ。第一輸、入関税40%でまた赤字じゃないか」と頭を抱えるしかありません。すると今度は別の電話が入り、Nが「その話は直接してください」と答えて黙って受話器を渡してきました。

「昨日電話するの忘れちゃったんだけど、4日のコンベンションの打ち合わせで9時半に来てくれない?後20分しかないけど。日本の広告代理店の会議室でやるから」。自分が忘れて迷惑をかけるのなら「スイマセン」の一言があっても良さそうなものなのに、と思いつつ、しかしそれが期待できないことにも慣らされてしまいました。ベトナム語での打ち合わせならNを出すから、とは言ったもののそれじゃあNの抱えた仕事が進まなくわけで、渋々と自分でバイクを走らせました。15分ほど遅れて着くと、案の定、人を急がせた割には行って見ると皆さんのんびりと朝のコーヒーを飲みながら雑談の最中。打ち合わせもまったく何のためのものか疑いたくなるもので、それぞれ好き勝手に喋っていました。アホ臭くなったので途中で抜け出して早々に事務所に戻りました。

4日の前後は北部での予定が入っているので出席することもできず、しかもその北部での予定もまだ確定したものではありません。銀行口座への着金があれば31日に出発、日本からのメールで到着日程が決まれば6日、7日もハノイで過ごさねばならないわけですが、そのどちらも確認が取れません。自分が出席できないイベントの招待状を渡しに歩くのも気が進まず、結局この件もNに振るしかありません。そして抱えすぎて肝心なところが抜け落ち、最後の土壇場で唖然としている自分の姿が目に浮かびます。机の引き出しもゴチャゴチャになってしまい、名刺ホルダーが見当たりません。「顧客名簿のデータベース作るって何年前から言ってたっけ?」とNに嫌味を言うと、「私も昨日名刺ホルダー探しましたけど見つかりませんでした。ちゃんと他の人もわかるところに仕舞っておいてください」などと勝ち誇ったような笑いを返してくれました。

お疲れ様

2007-01-16 03:53:44 | 仕事
ANAのサイゴンオフィスに電話を入れ、2月2日の成田への便を予約しました。往復958ドルと知らされ、思わず「高い!」と叫んでしまいましたが、オペレーターは「高くありません。質が良いのですから。時間も正確で、安全です」と動じることがありません。可愛い声でそう言われてしまうと、自分のところの威張ってるだけで気の利かない情けないスタッフと何という違いだ、との思いに捉われました。

まぁ、給料が違うのだからしょうがないと諦めるしかありませんが、最近は自分が事務所に行くのが苦痛になって来ました。こちらから挨拶をしても返しません。名前を呼んで「おはよう」ともう一度声を掛けるとやっと小さな声が返って来ます。誰も自分の使っている机の上も拭こうとはせず、電話器も埃まみれです。携帯電話のポップスの曲の着信音がひっきりなしに鳴り響き、私用電話も直ぐに話を切り上げようとはしません。「報告はA4の用紙に書いてくれって昨日も言っただろ」とウンザリして同じ台詞を繰り返しても、「でも、紙を節約しようと思って」などとの屁理屈を言わずには気が済まないようです。

「いやー、それでも中国に比べればまだ良いですよ。中国は自殺しちゃう駐在員が結構いますから」などという話を聞いたのは土曜日でしたが、早速、きょうの日本の新聞にも中国駐在員のストレスの記事がありました。ストレスというのは、頑張ろうとするから益々悪循環に陥るのだから、ここは自ら職場放棄して出勤拒否を続けようか、という気にもなりますが、それはそれで彼女たちの思う壺、ますます付け上げるだけのことです。

「君はベトナム人に対して厳しすぎる」などとも言われ続けて来ましたが、たぶんそうでもしないと自分を維持できなかったのでしょう。○○急便の初代のベトナムの社長さんのような面構えでも持っていれば別なのでしょうけど。その鋭い目つきには僕も圧倒されましたが、ベトナム人スタッフどころか、公安や税務署相手でも十分に通用しそうでした。自分の仕事がまるで洪水の度に流されるメコンデルタのバラックのように思えて来ます。中途半端に済まそうとするから、結局毎年同じことの繰り返しで痛い目に遭うわけです。

「ベトナムで誰が一番金持ちか」?という見出しがトゥイチェ紙の一面にありました。上位10人の財産を合計すると1千億円を超えるほどだそうです。不動産と株価の上昇が支えている金額なのでしょうけど、賃金水準を考えると貧富の差には驚くものがあります。いったい、自分はこのベトナムに何をしに来たのだろうか、と問わずにおれない一日でした。