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GOVAP便り

プノンペンからモンドルキリに、その前はTAY NINH省--AN GING省--HCM市GO VAP

教育展示会

2007-06-22 02:21:15 | 仕事
日本語に直訳すると耳慣れない言葉ですが、きょうから3日間の予定で、ホーチミン市教育局主催の「展示会」がホアンバントゥ通りの「第7軍管区競技場」で開催されます。ホーチミン市では年がら年中、各種「展示会」が開かれているわけですが、この「教育展示会」は何とも不人気というか入場者も少なく、また出展も年々減少の一途で、お役人が主催するイベント、特に教育関係者となるとそのセンスたるもの流石と言うしかありません。

出展は教育・学校関係の業者で、教科書や文具、机や椅子だったり、物理や化学の実験道具等等範囲は広いのですが。ちょっと驚いたのはAK自動小銃などのモデルガンが並べられたブースです。バズーカ砲の構造を解説したパネルなども飾られてました。教育に武器は関係ないだろー、と不思議に思ってベトナム語を読んでみると「国防教科」という文字が目に入りました。そんなことを言ったらこの世に存在する全てが学問の対象になり得るわけですから・・・という気にもなりましたが、この国では軍事教練は必修科目のようですからベトナム人にすれば違和感はないのかも知れません。

今年は、この展示会が開催されることも知らず、会場を覗いて見るつもりもなかったわけですが、一昨日知り合いの業者から「展示会に出したいから機器を一台貸してくれ」と電話を貰いました。デモ用の機器は2台共北部に貸し出してあるので、何時までに準備すれば良いのかと訊くと「明日の夕方に搬入」との返事で面食らいました。展示会の日程は一ヶ月以上前に決まってるわけですから何でこうも押し詰まってから話が来るのか、毎度のことながら呆れるばかり。

その上、こちらは人手不足なわけですから堪りません。機器は無理して貸せないわけではなくても、操作や説明する人間がいません。カタログすらも切らしたままでした。思えばこうして周囲に振り回されてバタバタとするだけの日々を過ごしてきたわけです。

昨日はSさんに誘われてH君+1名の計4名で昼食を一緒にしました。初対面のTRさんに「日本人だったんですか?ベトナム人だと思ってました」などと言われ、外見はサイゴンの紫外線と排気ガスにすっかり馴染んでしまっているようですが、肝心なベトナムでの仕事に関しては未だに何一つ馴れてはいない、というのが実感です。







疲労困憊の週末

2007-06-11 23:10:18 | 仕事
今回の土日もまた仕事を抱えて疲れまくりでした。現金の管理も滅茶苦茶で請求が来るとその都度借金を重ねる体たらく。などと書いてしまうとまたクレジット関係のトラックバックが来てしまうようですが、ベトナムでの借金の仕方を教えてくれるようなものはなく、「読みもしないで勝手にTBするなよ」と少々不愉快。

6月になれば一段落すると思って無理をしてきただけに、未だに長引いてしまってるので、もう頭も身体も伸びきったパンツのゴム状態。先日は3月に納品した北部の高校から電話があり、「送金したけど戻って来た」とのこと。送金依頼書をFAXして貰うと金額はぴったりですが、何と銀行名からして違っていました。それが作為なのかポカミスなのかは何時も判断に迷うところ。どちらにしてもこちらが被害を蒙ることに変りはありません。ちょっとした纏まったお金があれば、月3-4%の金利を稼ぐのは簡単だそうで、すると3ヶ月寝かせると1割ほどの簿外現金を作り出せることになります。

先月辞めた4人分の給料も払わねばならず、売掛金回収の努力を放棄しておいて自分の給与はしっかり支払日に取りに来る元スタッフに悪態の一つもつきたい気分ですが、それで気が晴れるわけでもないのが悲しいところ。気の利いた皮肉のベトナム語表現も知らないわけですが、もしそれを言えたとしても一昨日の返事しか返ってこ来ないのは保証できます。

日曜日に納品することになり、土曜日の午後に慌てて準備をしているとダナンのランから電話がありました。忙しいので放っておこうとしたのですが、呼び出し音が続きます。ベトナムの女性から携帯で掛って来ることは滅多になく(貧乏中年男にはショートメールで十分ということなんでしょう)、ランもその例外ではないので不思議に思って通話ボタンを押してしまいました。サイゴンに来ているとのこと。H君との打ち合わせも残っていましたが、彼もまたゲーム仲間との話し合いが終わらないようなので、ちょっと抜け出してレタントン通りの宿泊先まで訪ねることにしました。

ちょっと顔だけ見るつもりが、ランもまたサイゴンで職を探すことになりそうだとかで話が長引いてしまいました。これが大失敗の元でした。結局H君と打ち合わせができないまま翌日曜日を迎えてしまい。何と先方とは朝8時に約束があったのに、言葉を濁して言わないものだからこちらはそれを知らず、相手はカンカン。寝坊したH君が来たのは9時を過ぎ、それから車を手配して先方に着いたのは11時近くでした。

客を怒らしてどうするんだよ、と呆れるばかり。何度も怒りの言葉を吐き続ける客に初めはH君も言い訳がましいことを言ってるようでしたが、最後は素直に謝り、H君の買ったばかりの新しいサムスンの携帯電話を指して「その携帯、俺によこせ。新しいSIMカードも付けてな」との恐喝まがいの要求もスンナリと受け入れてました。

まだ明るいうちに家に戻ることができたので文庫本を抱えてカフェに行きました。「スターリングラード」はハノイのホテルに置き忘れてしまったので、デウミさんが持っていた別の本「昭和陸軍の研究」を読み始めました。日本軍の悲惨な敗北の姿が延々と書き綴られています。夥しい犠牲を強いられたこの歴史から何を汲み取らねばならないのか。これもまた自分の一生のテーマでありつづけているように思えます。

ATM    

2007-05-24 01:07:48 | 仕事
販売代金の回収も終わらない内に、10万枚ほど帳票の追加印刷発注をせねばならなくなってしまいました。会社の銀行口座も手持ち現金も底を着き、借入れに手を尽くしていますが、今はタイミングが悪いようです。仕方なくこちらもまた残高が少なくなってしまった個人口座から引き出すしかありません。前払いで代金の半額を振り込まないと印刷して貰えませんし、納期は迫っているのでグエン・キエム通りのキャッシュディスペンサーに急ぎました。

このキャッシュカードを作ったのは3年ほど前のことです。銀行で現金を引き出す際にはパスポートが必要ですから、パスポートなしでも引き出せるカードの便利さは気分的にもかなり楽なものがあります。ドン・ア銀行の現金引出機は市内に台数が多く、コープマート・グエン・キエム店の並びにもありました。時間帯にかかわらず混む場所でないのは良いのですが、その代わりボックスを出るや否や毎回エロVCD売りのお兄さんに呼び止められるのが面倒でした。「一枚1万ドンなら安いじゃない、金払うから買っておいてよ」などというK君の言葉に騙されて一度買ってしまったのが運の尽き。隙を見せると「今度は絶対面白いから、保障するよ。返品も可だからさー」と執拗に迫って来ます。

そのキャッシュ・ディスペンサー(ATM)のボックスが道路の向かい側に移動したお陰でその煩わしさからは解放されました。ところが、どうしたことでしょう。今回その新しいボックスに入ると強烈な異臭が。足元に堂々とした人糞がボテっと鎮座していました。狭い空間ですから匂いは強烈です。しかもガラス越しに強烈な日差しを浴びているため蒸れ蒸れ状態。兎に角、「早急に印刷会社に振り込まねば・・・」との焦りがあったので、息を止めてATM機のパネルを操作しました。

十数年前であれば道路の人糞も珍しくはありませんでしたが、最近は滅多にお目にかかれません。当時はサンダル履きで道路を歩く時は足元を見ずには恐ろしくて歩けなかったほどでした。それを思うと随分と時代は変わったとも感じますが、どうしてどうして今だ消滅したわけではないようです。銀行としてはボックスの下半分をアルミ製にしたのが敗因です。九死に一生を得た思いで脱糞した方にとっては恵みのアルミドアであったわけですが。かつての日本の全面ガラス張りになる前の電話ボックスでも同様の被害はあったのでしょうか?

600万ドル

2007-05-18 01:19:47 | 仕事
知り合いのD社のAさんから電話がありました。10年来の付き合いですがこのところはお世話になりっ放しです。週末には一緒に朝食でも、と約束しているのですがなかなかお互いに都合が付かないでいました。「今度の土曜日どうですか」?との電話でしたが、ちょうどその日はHOA BINHへの出張に重なっているし、こちらの頼み事もあるので「きょうの昼食」を一緒にすることにしました。ソフト会社のAさんの所にはこのところ日本からの投資話が多く、そのため日本語の練習やら情報交換が必要で僕と話す機会を多くしたいようです。

D社まではバイクで20分ほどの距離ですが、出掛けにスタッフと揉め、説得に手間取って遅れてしまいました。通常5分程度の遅れはここでは許容範囲のように思われがちですが、Aさんはほぼ日本人に近い感覚で厳格です。5分遅れると必ず携帯に電話が入ります。レタントン通りで日本食を食べることにしました。開口一番「嬉しい話があります」とAさんは言い、600万ドルの融資話が決まったとのことです。こちらは4000ドルの今月の仕入れ代金をどうしようかと頭を悩ませているというのに。

「日本の改憲問題はどうですか?どのぐらいの人が改憲に賛成しているんですか?」と訊かれてしまいました。次の日曜日20日はベトナムの国会の投票日でもあり政治問題が話題になりやすい時期です。店にあった読売新聞の見出しに「国民投票法成立」とありました。答えに窮しつつ「50%ぐらいのようです。意図されているのは第9条軍隊の問題です。今の政権で改憲が行われるのは危険だと思います。次の選挙には東条英機の孫も出るそうですし。日本は反対勢力が政権を取って戦争を終わらせたわけではないので前の戦争に対する評価が曖昧です。東条英機の孫というのは、ベトナムで言えばグエンバンチューの孫みたいなものですから・・・」

常々、「ベトナム人はベトナムの歴史も地理も知らないよ」などと思ってもいるわけですが、そのままそっくり言葉をお返しされそうな気分でした。600万ドルの融資が決まった余裕からか、「3年前まではD社もお金がなくて大変でした。金の問題、人の問題、技術の問題、何時も問題はあります。今はお金の問題はありません。オフィスビルも建てることになり、初めて車も買います。トヨタのイノバですが2ヶ月待ちです。ビルができたら一部屋安く貸しますから一緒に入りませんか」

嬉しいお誘いですが最低でも平米10ドルのサイゴンの賃貸ビルです。やっとどうにか年商1Tiドンとなるかならないかの売上げでは分不相応。売上げが倍になれば考えられるかも知れません。他の客が居なくなるまで話が続いてしまい、慌てて会計を急いでウェイトレスを呼ぶとこちらが支払うことになってしまいました。何で貧乏日本人が払うのかと不満も残りましたが、日本食に付き合わせたのが間違いだったのでしょう。売上げが1Tiドンなどと言ってしまったのも失敗でした。ソフト会社なら粗利は80%ほどでしかも無税。こちらの粗利は20%程度で税率28%です。日頃何かと助けてもらっているわけですから決して高い食事代でもないと諦めました。

税関から学ぶこと

2007-05-05 01:58:53 | 仕事
少しは前向きな仕事をしたいとの願望を抱きながら、きょうもまた情けない雑用に翻弄される一日でした。まるでデッチ上げのような書類の作成のために知り合いの会社を訪ねてお願いをしなければなりませんでした。「僕のところは政府関係の仕事はしないことにしてるんだよ」と言われて返す言葉もありません。無理難題を押し付けられ、少ない利益とたくさんのワイロ、その上支払いは遅れに遅れるわけですから、誰もができることならお付き合いしたくないと思うのは当然。友人は快く引き受けてくれたものの、当然ながら社内の同意を得ねばならず、他の方々の冷たい視線に縮こまる思いでした。

5日までに税関に提出しなければならない書類も金曜日の今日が期限。原本は後日提出するとの念書を入れているので期限が過ぎれば「反則金」が課されます。Uさんに頼んで税関に足を運んでもらったところ、帰ってくるなり「受け取ってくれませんでした。来週の月曜日か火曜日び良いそうです」との報告。ベトナム人のくせにそんな税関職員の言葉を真に受けてノコノコ帰ってくるとは信じられません。少なくてもその旨電話を一本入れてしかるべきなのに。携帯電話代をケチってそれ以上のガソリン代と時間を無駄にすることになるわけです。

「問題が起きたらその時に直ぐ電話をくださいよ。火事と同じで遅れれば余計問題の解決が難しくなるんだか」と言っても「相手が月曜日で問題ないと言ってるのにそれ以上どうしようもないでしょう」との答え。「念書を入れてるんだからその担当が何と言おうとも被害を蒙るのはこっち。同じような罰金を何度も払わされているんだから」。Nが「ちゃんとお金は渡したの?」「渡さなくちゃ何もやってくれないわよ」と冷ややかに言いました。

元はといえば、インボイスの提出はNの仕事でしたが書類作りが忙しいのでUさんに頼んだものです。仕事を他人に振るときはそれなりの引継ぎがあってしかるべきですが、彼女にその概念はないようで、「じゃ午後Nが行ってくれる」?と頼んでも「そんな時間あるわけないでしょ」と不貞腐れたまま。Nに限ったことではありませんが、少々仕事ができるようになると何を勘違いしてか女王さま気取りになってしまうようです。日本の仕事でも「やっぱりオレが仕切らないと駄目なのかなー」などという言葉を聞くこともあり、「アンタが仕切れないから能力のないやつが仕切らざるを得ないんでしょ」と思ったりもしてましたが、ベトナム女性の仕切りたがりはそんな程度ではありません。あちこちの職場で見聞きする光景です。最悪なのは情報を独占することで「ワタシしか知らない。ワタシにしかできない」という状況を作ろうとします。よって経験が組織として蓄積されることがなく、人が代わる度に同じ失敗の繰り返し。

「月曜日でも問題ありません」と言われたときに何故「きょうでは問題なのですか?」とUさんは訊き返さなかったのでしょう。この税関とのやりとりに消耗するので、通常は業者に頼んで通関手続きと引き取りをしています。今回頼んだ業者の担当はあまり優秀ではないようで、何度も書類を作り直さねばなりませんでした。日系の業者なのでそれでも他社よりは安心かと思っていたところ、引き取り後二週間を過ぎても請求書が送られてきません。こちらから二・三度電話で頼んでいるのにです。税関との対応を十分知り尽くし鍛えられた彼らのことです。正当なる請求が遅れているのは、たぶん本業以外のお仕事に彼らもまた精を出すことを学んだから、などと穿ってしまいました。

判子の氾濫

2007-05-03 01:53:21 | 仕事
きょうの午前中までに書類を取り揃えてFAXしろ、などという無理な要求を客先のお役所から仰せ付かり、二人でバイクを飛ばして駆けずり回る慌しさでした。支払いは1・2ヶ月も遅らせて平然としてるくせに、こちらには無茶の言いたい放題。無理なことは無理だと断れば良いものを、と思うのですが、スタッフは僕の言うことは聞かなくても、客先またはお役所の言うことには異議を唱えず絶対服従です。で、厄介なのは時にどんな種類の書類であれ、公証印を貰って提出しろ、というやつです。大混雑するパストゥール通りの公証役場に行き、それだけで半日が潰れてしまいます。

きょうも営業許可書やら納税登記書、過去の販売契約書の公証印を貰いに行かねばなりませんでした。私文書である売買契約書など双方の当事者が出頭でもしなければそれが本物であると証明することはできず、公証印など押せないと思うわけですが、そういうことはいい加減で、とにかくハンコさえ押されていれば良いようです。運転免許試験の申請に行った時も、パスポートのコピーを公証印をもらって提出との規定がありました。パスポートが本物かどうかを領事館に問い合わせるのなら兎も角、公証役場でコピーを採ってハンコを押してもらうことに何の意味があるのか疑問です。

甚だしいと思うのは就職の際の履歴書にも地区の公安の印を押してもらって提出するのが一般的な決まりのようで、殆どの履歴書に印が押されてます。公安が一々履歴書の記載事項を確認するわけもなく、こんな印のどこが有難いのかわかりませんが、地方出身者はこの履歴書の印を貰うためには田舎に帰らねばならず、したがって1・2ヶ月で辞めてしまう人間は辞める際に必ず「履歴書を返してください」と要求します。

日本の仕事でも何でこんな書類が必要なのかと思ったことも少なくありませんが、主に社内の事務処理上の必要に因るものでした。ところが、ここでは必要書類と思われるものが少ない割りに不必要な書類が多過ぎです。甚だしいのは「Giay nop tien」という納税用紙で、以前はこの書類がないと一切納税できませんでしたし、訂正不可のため一字間違えても書き直し。その後、営業所得税などは用紙なしでも納付できるようになりましたが、輸入の関税などは税関によってはこの用紙が今も必要とされてます。ところがこの用紙は税務署が管理発行するもので、少なからずイチャモンを付けてこの用紙を発行してくれません。すると支払うつもりでいても期限に遅れ、延滞金が発生。延滞金があるということで次の輸入手続の際には再度トラブルの原因となっていしまいます。

少々時間は遅れたものの、二度手間三度手間に陥ることなく、きょうはどうにか形を整えることができました。夜の8時を過ぎてから北部に行っているNから電話があり、「新たに心付けを要求されました」とのこと。日本の公務員もかつてはこうして業者に次々と裏金作りの片棒を担がせていたのでしょうか。要するにこのハンコの多さ、書類の多さというのはワイロや不正の多さと比例するもので、それを取り繕うために必要ということなのでしょう。

三連休に出張させ、「後で一週間休んで良いから」などと調子の好いことを言ってしまったわけですが、まだ当分代休を採って貰っては困る状況です。疲れをねぎらうつもりで、「疲れましたか」?などと訊いてしまい、「Lam sao khong met」(疲れないわけないでしょ、何言ってるのよ)と逆にご機嫌を損ねてしまいました。

耐え難きを耐え

2007-04-29 01:07:27 | 仕事
昨日きょうと近所の高校で入力処理の仕事でした。1学年620名ほどですから全校で1800名位の生徒数のようです。HCM市の高校数は100校程度。人口600万は埼玉県と同程度ですが、高校数は半分でそのため一校当りの生徒数が多くなっています。中庭に置いてある大きな太鼓が目立ちます。小学校から高校までの各学校にはこの太鼓があります。以前、ハノイの体育大学を訪れた時は、米軍の落として行った不発弾を切断して鐘にして使っているのを見たことがあります。スピーカーを通さない音が学校には相応しい、との考えでしょうか。

時々事務室を抜け出し、中庭でタバコを吸いました。日本と違ってまだ構内全面禁煙とはなっていないようで、灰皿も置いてあります。残念ながら若い女性教師の姿はなく、年配の方ばかり。しかも「日本語で I lave you は何て言うの」?と訊かれ、学校の先生もカフェのおねえちゃんと同じ質問かよー、という感じでしたが、4年前の旧型の携帯電話を使ってるからと馬鹿にされるよりはマシです。皆何処にでも居そうなオバサン達で、郵便局や銀行で働く人々よりも身近で親しみ易いものがありました。生徒の側から見てどうなのかは知りませんが。都会の高校はともかく、地方の高校の中で働くのは悪くない、という気になりました。やはり田舎の農業高校建設を追求すべき、と決意を新たに。

1ヶ月も前から決まっていたこの日の仕事ですが、どうするかの詳細は何も詰めてなく、昨日一日で終わると思っていたものが今日の8時過ぎまで終わりません。「今まで何を打ち合わせしてたんだよ。仕事には段取りってものがあるだろ」と言いたいところを客の前で口に出すわけにもいかず、それ以前に不貞腐れスタッフは一言質問しただけで「アタシの仕事にケチ付けんの?」とでも言わんばかりの怒り顔で睨み付けます。挨拶はしない、遅刻は常習、報告もしないで何事も一人で事を運び、最後にどうにもならなくなってから後始末を押し付ける、こんな人間を雇って毎日不愉快な思いを続けてどうなるというのでしょう。しかし、きょうは我慢しなければなりません。明日の北部出張を頼まねばならないわけだし。

運悪くVISAの更新日と重なり、「嫌なら良いよ、自分で行くから」とは言えません。更新手続きでパスポートが手元になく、航空券を買うこともできないわけです。ここが我慢、と自分を言い聞かせてご機嫌を取っても敵は益々付け上がるだけ。早口のベトナム語で巻くし立てています。耐え難きを耐え、とは玉音放送のことではなく、ベトナム女性のことなのだ・・・などと考え気を逸らそうと努力はするものの次第に自分の頭が硬直してきます。

その場を離れるが一番安全。誰もがこんな耐え難きを耐えているに違いなく、自分一人が特殊である筈もない。だけど誰がこんな目に遭っているのでしょう。ふと思い付きました。反抗期を迎えた娘とか不良少女を持った親というのはこういう感じなのかも知れません。それにしても、そもそもこいつの親ではないわけだしエゴと仏頂面を丸出しにされる謂れはない筈です。またくもって、このような女性を配偶者にするベトナム男性は尊敬に値します。先日、Uさんに訊いてみました。ベトナムの女性は皆こうなんですか?逆に彼に訊かれました「日本の女性は違うのですか」?



Da Huong ホテル

2007-04-22 00:48:46 | 仕事
昨年6月のバクザン省の暑さを思い出し、ますます憂鬱な気分になって北部にやって来たわけですが、仕事内容はともかく、気候は涼しくて救われる思いです。これが2ヶ月前なら朝晩は寒さに震えたでしょうし、2ヵ月後であれば堪らない暑さ。北部のこの季節を何と呼べば良いのか分かりません。晩春なのか初夏なのか、どちらにしても日本の四季の中で感じるものとは違ってます。ここに生きた人々の数千年の時の流れの中でこの季節を表すぴったりした言葉が使われているのでしょうか。

ちょっと冷房効き過ぎ、とレジェンド・ホテルのロビーで感じた位の気温です。Da Huon Hotelの朝食を食べながらエアコンを見ましたが、スイッチランプは点灯してません。2月に来たときも泊まったホテルです。レセプションで料金を訊くと一泊25ドルとの返事でした。空港からタクシーを使ってしまい、400Kドンもの出費の後だけにそんな贅沢は許されません。一番安い部屋にしてくれと頼むと外国人だから12ドルだそうです。この料金で朝食が付くわけだから納得できないこともないとはいえ、それでもベトナム人料金の28%増し。お金持ちのロアンさんやランちゃんやヒュウ君が安く泊まれて、この貧乏な僕が何で高い料金を払わせられるのか、と思わずにはおれません。外国人だからと括られて、この不合理を簡単に受け入れしまっては社会主義ベトナムの正義に反します。

10年前ならともかく、いまどきホテルの二重価格は珍しく、外国人が中途半端にしか来ない地域の特徴です。赤いジャケットのユニフォームに、「同じ赤でももうちょっと何とかならないものか」と思ってしまいましたが、地方国営ホテルにありがちな無愛想なオバさんではなく、愛想の好い若い女性だったので、とりあえず値段交渉を試みました。①今はホテルが負担する宿泊者の税率も外国人用のものはなく同一であること、②ベトナムで働いていて会社の支払いであること、③ハノイやこの近隣の省にも泊まったが同一料金だった、の3点を挙げて説得し、マネージャーに頼んでくれるように伝えました。同じような交渉はもう何度も繰り返しているので余程混んでない場合以外は大丈夫と思いましたが、今回は駄目でも「じゃ他所に泊まるから」などと言う気力はなく、料金があいまいなまま宿泊してしまいました。

そんなことに目くじら立てエネルギーを費やしてる場合じゃないだろー。という思いがあります。日本の電気・自動車メーカーの購買担当者ではないのですから、コストダウンのために値切れば良いというわけでもありません。彼らは値切りのプロ、下請け虐めのサディストなのでしょうか。
僕は決してこのレセプションのお嬢さんを苛めて日ごろの鬱憤晴らしをしようとしたわけではありません。自分の要求とその理由を述べただけです。自分のところのスタッフと違って、ちゃんと話を聞いてくれただけでも感謝する気になれました。

聞き慣れないホテルの名の「Da Huong」とはどんな意味なのかを訊いてみました。そのままローマ字読みしてしまえば、ダ・フンで「脱糞ホテル」と覚えても忘れそうもない名ですが、ハノイ発音では、ザ・フゥンです。外国暮らしが長かった故ホーチミンは、外国人がこういう間違いをしないようにDAは「ダ」の発音にし、「ザ」はZAと表記しようと主張したそうですが、彼の権威をしてもそうはならなかったそうです。中国でベトナム青年を組織した時のホーチミンが作ったガリ版刷りのパンフ「革命への道」はDUONG CACH MANG と表記されてます。

我慢の限界

2007-04-14 02:01:21 | 仕事
前日の記憶すらぼんやりして来てしまうのは年令のせいなのか、それともこの暑さゆえなのでしょうか。寒い地方の人々が「粘り強さ」や「執念深さ」を特徴とするのと反対に熱帯気候は人を「飽きっぽく」「忘れ易く」させてしまうように感じます。それでも、薄らぐ記憶にもかかわらず、昨日の怒りは持続したままです。毎日がキレまくりではありますが、我慢の限界でその場に居たたまれず「じゃあ、勝手にどうぞ」と捨て台詞を吐き、家に帰ってフテ寝を決め込んだのは初めてでした。昼食は喉に通りそうもなく、眠って気分が変わるのを待つしか術がありません。ベッドに横たわると直ぐに眠りに落ちたものの、幸いこの暑さの中ですから、夕方まで眠り続けることはなく、全身汗まみれの不快感で目が覚めました。

夕方になってH君に会った際、「きょうは、とうとう切れてしまったよ。とにかく批判的なことを言うと、もう何も聞かずに感情的に喋り続けるだけだから手の付けようがないし、そんな態度を見るとどうにも自分の感情を抑え切れないじゃない。こういうのはどうすれば良いのさ。ベトナム女性と一緒に仕事するは、もうウンザリ」と愚痴ってしまいました。H君曰く、「それはみんな同じだよ。ここの女性が特別じゃなくて、みんなそう。特に今の二十代の女の子は酷いね。他人の言うことはまったく聞かないで自分の言いたいことを喋り続けるだけ」

H君の口からこんな言葉を聞くとは意外でした。思わず、「ベトナム女性と結婚するのは止めろよ。オレが日本人の女の子を紹介するからさー」などと勢い余って無責任なことを口走ってしまいました。ベトナム女性からこのような仕打ちを受けるのは、自分が外国人だから、あるいは自分の接し方が悪いから・・・等等思い悩んで来たことが一挙に解決されたかのような気分を感じるに十分な言葉でした。究極の自己中、滑稽極まりないナルシスト。何が彼女たちをこのように形成してしまったのでしょうか。

かつて「ととや」で働いていたMさんが、「ねえねえ、家のお手伝いさんの子が言うには、奥さんを殴らないベトナム人は居ないんだって。どう思う」?と言うので「全部が全部ってことがあるわけないじゃない」などと思っていたわけですが、殴らずに済ませる方法を見付けられる確率がどの程度のものかを考えると、限りなく全部に近いものがあるかも知れないと思えてきます。

古い話になりますが、「男と女が対立したときは男が悪いんだよ。男社会なんだから。男女差別というのはそういうものなんだ」などとオオタケさんだったかに聞かされ、なるほどそういうものなのか、中島みゆきの歌を聴いて後ろめたさを感じることもあるし、サ○キ君やヤマ○カ君を見れは、間違いなく非は男にあるわけだし・・・などと思っていたこともあったわけですが、そんな狭い世界で男女を語るのは間違いも甚だしいこと。ベトナム女性を知らずして女性を語るなかれです。
にもかかわらず、ベトナム在住日本男児の少なくない方々がこのベトナム女性との恋愛関係を成立させたり、あるいは援交やらに夢中になっているわけですから熱帯ボケも極まった感があります。

相変わらず、わが女性スタッフ二名は定刻の8時に事務所に来ることはなく、人の話の途中でも勝手に席を立ち、あるいは聞いたことにも無視を決め込んでいます。昨日は仕事の途中で5時になり、時計の目で示して「Igo home to study」などとのたまうので、「5時に帰りたかったら、朝8時に遅れずに来てください」と答えると、これまた無言。そそくさと帰り支度を始めたので「自分の使ったPC電源は切ってから帰ってください」ともう一言付け足しました。使ったものは元に戻す。開けたドアは閉める。なぜそれすらもできないのか、しないのでしょうか。子育てに失敗した団塊世代、との言葉も聞きますが、ベトナムの彼女の親たちほどではない、と思うわけです。


御用商人

2007-04-11 00:46:23 | 仕事
代理店証明のベトナム語版を公証役場で取得するか他社2社の見積書を持って来い、との要求を顧客から受け、早速パストゥール通りの公証役場に足を運んで貰ったら日本領事館の確認のないものは受け付けられないとの返事で、その足で領事館にも立ち寄ってくれたのですが、当然ながら日本での印鑑証明なり公的な機関の証明のないものは領事館でもどうにもなりません。今から日本に頼んだところでEMSの送付だけで5日ほど掛かってしまうため、今回は再び他社の見積もりを提出することにしました。

何度となく経験のあることなので頼む相手も気持ち良く引き受けてくれましたが、謂わば形式的な体裁を整えるだけの書類作りに奔走させられるのは、この日差しの強さの中、オレは一体何をしてるんだ、という気にもさせられます。やっと昨日引き取ることができたEMSで送られたオプションパーツを機器に装着しているところで、明日には発送しなければなりません。暑さで集中力が欠け(暑くなくても五十歩百歩。元来集中力より散漫力を誇ります)、新人のNGが目を放した隙に直ぐPCで音楽流して遊んでるのに苛立ち、それでなくても作業は進んでいませんでした。「言われた仕事も終わらない内に何してるんだよ」と昨日とまったく同じ台詞で怒鳴り吐けていました。

お役所相手のお仕事は、何処に何%それから誰に謝礼を何%ってなことは常識らしく、その上数々の便宜をはからねばならないようです。こういうのって、もしかしたら、かつてTVの時代劇で見たお代官様に小判入りのお菓子を贈る越前屋さんみたいなものではないか、などと思えないこともありません。もっとも賄賂を送ってブクブク肥え太る商人と違って、こちらは日々やせ衰えていくだけ。湿疹、汗疹、水虫の痒みに耐え切れず、客の前でもポリポリ掻いている姿に豊かさの欠片は見られません。

別の顧客からの電話を受け、Nが「契約前に納品しろ、と言ってますがどうしましょう」?「どうしましょう、って言われてもそんな非常識ないだろ。納期は契約後一ヶ月なんだから」。敵の要求は益々エスカレートするばかりです。無理な要求を「申し訳ないけど今回は特別に何とかして欲しい」とお願いされるのなら兎も角、当然の如く偉そうに、まるでこちらに非があるかのような言われ方をされるのには困ったものです。どうせ次に出て来る台詞は「嫌なら良いよ他のところに頼むから」ってところ。

こういう足元を見透かしたような言い方をされるのは何もお役所の人間に限ったことでもないので、公務員の悪口を言っても始まりません。かつて出海さんが言ってました。「社会主義って凄いよなー、社会全員が公務員みたいなものなんだから・・・」。決して同意するつもりはありませんが、笑ってしまいました。しかし、ところに依っては「公務員」という言葉は最大の罵り文句のようで、先日ビアオム先生が言うには、僕と「最初に会った時は、税務署員みたいな奴」との印象だったそうです。