アンコール・ボレイにはタケオで唯一の博物館や古代の遺跡もあるそうですが、前回6月に行った時は気付かずに通り過ぎてしまいました。たぶんベトナムのOc Eo遺跡と同じ扶南時代のものだろうと思います。
プレイ・カバの町からアンコール・ボレイに向かう道は相変わらずの悪路でしたが、それでも50km/h程度で走ることができます。問題はアンコール・ボレイの町からプノム・ダーに至る工事中の道です。2週間ほど前にここで古代の遺跡が発見されたとのニュースがあった所です。しかし、それらしき場所は見当たりません。道路は土手の上にあり、両側は田圃。掘り返されたばかりの泥の塊の上でパワーショベルの横をすり抜けねばならず、土手の下に滑り落ちるのではないかと恐怖でした。
パワーショベルはVOLVO製で大型の新品。メコンデルタで水路を掘っていたのはKOBELCOの中古が多かったような記憶があります。
小高い丘の上に遺跡が建つプノム・ダーの姿に前回何故気付かなかったのか不思議です。
入口には「WELCOME TO PHNOM DA」の看板もあるわけなのに。しかし、籾干し作業をしている姿は遺跡という雰囲気ではありません。仕事をしているのか遊んでいるのか判別が付かない光景でした。仕事をするには余りにも小さい子供たちです。中学だか高校の歴史の授業で教師が「3歳の子がマッチ工場で働いていた記録がある」と話していたことを思い出しました。イギリスの産業革命の頃のことだったか、明治初期の日本だったのか、はっきりと覚えてはいません。
プノム・チソーより遙かに低い丘なので階段も少なく、頂上まで休まずに登れます。石が多く、やっぱり石があるからプノム(山)ダー(石)と言う名のか。と思ったわけですが、Daが石を意味するのはベトナム語でした。Oc Eo遺跡にはこのような建造物は遺されていないわけだし、建造物は真臘の時代以降のもののようです。ミーソンのチャンパ遺跡よりも明らかに新しい時代のものです。
屋根の先端部分が崩落してるため光が入り、中の様子も良く見えました。
中央の四角い穴はリンガが建てられていた跡でしょうか。
頂上からの眺めは木が茂っているため部分的ではあるものの四方は水に浸かった田圃で、乾期になるまでは作物を植えることはできないようです。かつてはもっと水が少なかったのか或いは多かったのか。今のアンコール・ボレイ町からは離れているので近年は寂れた土地であることは間違いなさそう。
プノム・ダーの中腹に建てられた遺跡。
アンザン省の国境近くでもバレーボールをしている姿がありました。カンボジアではサッカーはベトナムほど盛んではないようです。
家の前の湿地で空芯菜を取っていた農家。栽培したものよりも随分と茎が太めでした。田圃が水に浸かっている間、何を生活の糧にするのでしょうか。先祖代代この地に住んでいるとは思えず、開拓農民の家のような感じです
プノム・ダーから南に延びる道は6月よりも凹凸が酷く、土手の下の田圃は完全に水面下に隠れてしまっていました。
再びプノム・ダーまで引き返すと子供たちの仕事が終わっていて、豚が籾を食んでいました。面白がってカメラを構えると慌てて棒を持って跳んで来たオバサンが、シャッターを切り終わるまで待ってくれて、ちょっと申し訳ない気分。
小さな女の子が一人寄って来て、何やら言われ、よく聞くと「ソム・プラム・ロイ・リエル」(500リエル頂戴)。ああ、やはり此処は観光地なんだと思い知らされました。仕方なく財布を開いて渡すと、それを遠くから見ていた他の子供たちも一斉に駆け寄って来てしまい、1000リエル札や2000リエル札もすべて消えることに。
コンポンチャムから北上するとキャッサバだらけ、メコン河やバサック河を下ればトウモロコシばっかりの風景との印象でしたが、農村地帯でも人口密度の比較的高いタケオ州は、それ故にと言うべきか一区画当たりの田圃面積も小さく、どこか心が落ち着く風景です。
古い時代からの機織りがタケオでは続いているとのことなので、見に行ってきました。国道2号沿いにBATIの町があり、それ辺りを左に入ったPea Peam村やTnaot村の農家で機織りをしているとのことです。
何度かその周辺へは行ったことがありましたが、その時はまったくその気配は感じなかったので、途中で店に寄り、村の位置を聞いてみることにしました。

庭にはアヒルがいて、餌の袋を籾米を覗くと籾米が入ってました。アヒルは白いものだと思っていたので茶色のアヒルが珍しく思え、カメラを向けると逃げられてしまい、すると店の人が親切に餌を撒いてくれたので、アヒルは猛烈な勢いで集まって来ました。

農道をゆっくりと走る自転車の姿は、夕暮れ時などはとくに好きな風景の一つです。ゆっくりと走らなければならない理由の一つはたぶん、ブレーキが付いてないから。日本なら道交法違反でお巡りさんに呼び止められてしまう自転車ばかりです。
この店に停めてあった自転車にもブレーキがありませんでした。車体の黄色の塗料が残っている分そんな古いものとも思えず、近寄って見るとタイヤは見事にツルツルのスキンヘッド状態。

かすかに「埼玉県」の防犯登録シールも残ってました。

その店から少し走ると右手に折れる道があり、道の両側に農家が続く集落になっていました。どの家も高床式の家の下に織り機が見えます。牛や鶏や犬もいたりする中で。

織り機が一台だけの家が多いようでしたが、三台置かれている家もありました。

左手に持っているのが横糸を通すケースのようです。

この木製のケースは古いものなのかも知れません。

お婆さんが横糸を巻いていました。
昨年10月以来の101号線です。当時は洪水のため路上は牛に占領されていました。今は牛に代ってトウモロコシ。季節が変わると随分と景観と印象が異なっていました。

コーラを飲みに立ち寄った店の庭先でもトウモロコシの皮むき作業。おばさんに「1キロ幾らで売れるんですか」?と聞いてみたものの早口で聞き取れません。紙に書いてくれたのはクメール文字で読み取れず、最後にどうにかキロ850リエルだと分かりました。「今年の値段は良いですか」?と聞くと、「今年は2012年」との答えでガックリ。

店番をしてる女の子が17才でトウモロコシの作業をしてる妹は12才だそうです。

見たことのない果実が売られていたのでバイクを止めると、トウモロコシ作業をしていた女の子が出て来ました。表面は堅く匂いも薄いものです。

CPのハイブリッド・コーンの看板。850リエルで売れるなら、5トンの収穫で1,000ドルの売り上げということに。それすらも50キロ袋が100袋ですからかなりの作業です。

道路沿いの小さな市場で食べた昼食「ノイ・バィンカィン」という名だそうです。「バィンカィン」ってベトナム語じゃないの?と尋ねると「クメール語よ」とのこと。

昨年10月に通った時に崩落していた道路。護岸工事が行われていました。迂回路は乗用車なら通れるようになっていました。

101号を横に入ったトウモロコシ畑。背丈はせいぜい170cmほどです。

昨年の10月には水に浸かっていた一帯です。

畑でもトウモロコシが干してありました。

101号線から左手の奥に水面が見えました。ひょっとしたらバサック川ではないかと思い、しかし最低でも10kmは離れているからそんな筈はないと知りつつ確かめに行くと、やはり川ではなく、広大な湿地というか湖というか。

ベトナムとの国境にはトウモロコシを積んだトラックが何台か見えました。ダイヤモンド・カジノの裏手に回りメコン河を見下ろすと渡し船が着いてました。「乗るのか」? とベトナム語で尋ねられましたが、対岸に何があるのかも知らないので止めることに。船外機を取り付けたオンボロ船は煙草を一本吸い終わっても河を渡り切れていませんでした。

雨に濡れてシャツを着替えに立ち寄た店。ミルク入りコーヒーを頼むとミルクを一缶開けてくれました。

昨年10月には新しい送電線が引かれているところでしたが、今もまだ電気が引かれた民家は少なく、子供たちが自転車にバッテリーを積んで走る姿もありました。
プノンペンの橋の上から見たバサック川は、強い日差しに照らされて鮮やかな茶色をしていました。初めてハノイを流れる紅河を見た時のことを思い出しました。晴れ上がった青い空の下に鮮やかなレンガ色の河でなるほど「紅河」なのだと納得できました。
きょうは、久しぶりに国道1号線をネァック・ルンのフェリーまでバイクで走りました。

プノンペンとフェリーとの中間に位置するプノンペン新港は完成間近の様子でした。

同じように国道1号とメコン河に接する位置にあるベトナム資本の肥料工場も建設が進んでいるようです。

ネァック・ルン・フェリーから見たメコン河も茶色でした。上流でかなりの雨量があったようです。雨期はいつもこんな色をしているということでもないと思うのですが。

フェリーに代わるネァック・ルン橋の工事も昨年見た時よりかなり進んでいました。フェリーの位置より1.5kmほど上流の地点です。

ネァック・ルンから下流方向へメコン河の左岸の道を走りました。昨年一度試みたものの泥濘が激しいので直ぐに引き返した道です。しかし、そんな記憶が嘘のように道路は拡張されていました。
拡張されたお陰でトラックが走るようになり、泥濘の代わりに土埃に見舞われることになりました。真新しい電柱が建ち送電線が引かれるようになりました。が、周辺の家々にはまだ繋がっていません。

バサック川の下流と同じように家々の庭にはトウモロコシが見えました。バサック川周辺で見たものより小さめのトウモロコシで、品質も劣るような感じのものもあります。

畑を眺めていると警察官の制服を着た男が近づいて来て話掛けられました。クメール語は分からないない、と言ったのに意に介さず喋り続け、この辺ではCPのトウモロコシの種を植えているのだとか。煙草を一本強請られました。すると次に向かいの家の男が出てきて家に寄るように強引に誘われました。女性に誘われても碌なことはないわけですが、男に誘われるのはもっと気が進みません。人だかりが出来てしまい、近所の人の話でこの男は酔っぱらいで酒を奢らせようとしている、ということが判明。慌てて引き返すことにしました。

視界に入ったトウモロコシ畑は殆どが収穫後のものでした。この辺のトウモロコシは背丈も低く、実も小さい品種のようです。

夕暮れの田園風景を眺める時ほど落ち着いた気分になれることはありません。自分で農作業をしたわけでもないのに不思議です。日が暮れれば真っ暗で視界の利かない国道1号を走ることになる、と分かっていても直ぐには立ち去り難いものがあります。
子供たちが牛を連れて川に集まっていました。中には6歳位の子が自分の数十倍の体重があるだろう牛を全力で引いている姿もあります。大人の手に負えない牛も居るわけだから見てるだけで心配になりました。

牛の世話は男の子の役目のようです。それでも女の子の姿が二人ありました。

一人の子は牛に乗って川まで来ていました。水牛に乗る子供の姿は何度かベトナムで見たことがありましたが、牛に乗る姿を見たのはきょうが初めて。
グーグルマップには21Bと記されているバサック川左岸沿いのこの道、途中で途切れているようですが、南下を続ければベトナム国境に着く筈です。
プノンペンから10kmほど離れれば通行量も少なくなり、ここでは幹線国道でないだけに沿道に立ち並んだ家々に暮す人々の生活を感じることができます。

昼飯を食べに立ち寄った店では、テーブルの下に二匹の犬が寄って来てジーット見つめられたまま。何とも切なそうな瞳に負け、鶏肉野菜炒めの鶏肉は半分ほど犬の胃袋に飲み込まれました。

食堂の前では店の人が龍眼を売りながらジャスミンの蕾みで飾りを作っていました。きょう初めてこれがジャスミンだと知ったわけですが。

コーラを飲みに立ち寄った店。最近、コカコーラに含まれる発がん性物質の記事を読んだのも忘れ、一缶1,500リエルの値段に喜んでしまいました。店の電球からハエ取り紙が垂れていました。カンボジアのハエ取り紙はかつて日本で見たものと随分異なるように感じ、近付いてみると只の粘着テープでした。それでも多少の虫が着いていました。

お坊さんと一緒にお布施集めをしているようでした。縫い包み同様に中に入っている人はかなりの暑さだと思います。

子供たちには人気のようで、まだ姿も見えないような所でも500リエル札を手にした子供が道に出て待ち構えていました。


落花生の天日干しを見たのはこれが初めてです。


この辺の牛は他で見た牛よりも体が大きく、瘤や顎の皺も特徴的な形をしていました。

「ロテコー」と呼ぶのだと子供が教えてくれました。

家の裏側はバサック川です。この川で獲れた魚なのでしょうか?

練り物を千切って砂糖をまぶしていました。ベトナムで食べたことのあるお菓子です。

一つ摘んで食べてみるとやはり梅の味がしました。

ベトナムの山間部で畑仕事帰りのお婆さんが籠を背負って歩き煙草をしている姿を見たことがあります。カンボジアでも年配の農村婦人が煙草を吸う姿は何度か。やや太めで両切りでした。クメール煙草だそうです。
バサック川の右岸に沿って21号線が走っています。きょうは、左岸の道を初めて下ってみました。
10kmほど下ると道路の両側に龍眼の木が並んでいました。龍眼の果樹園というわけではなく、沿道の民家の庭に植えられた龍眼で幹の太い木もあります。子供の手が届く高さに生った実もありました。近所のどの家でも植えているのでわざわざ他人の家の龍眼を盗み食いすることもなさそう。

更に5kmほど走ると道路の舗装状況はかなり悪くなりました。穴凹が多かったり、大きな水溜りの中を通らねばならない所も。
プノンペンから25kmほど下った所に道路の両側が市場になっている場所がありました。農村部なので客の姿も少なめ、売られている食品も限られていました。

ベトナムと同じで大根は小さめです。

この瓜はどうやって調理されるのか知りません。

ベトナムでは小茄子の漬物を食べましたが、ここではまだ食べたことがありません。

苦瓜スープは食堂の定番メニュー。

2010年の大豆生産量は15.6万トン。日本は22.2万トン。人口比を考えると国産大豆を食べている人の数は圧倒的にカンボジアの方が多いということになります。

タケノコは一年中あるようです。

この漬物は抵抗なく食べられます。肉と一緒に炒めた料理がカンボジアでは多いみたいです。

ピーマンだと思ってガブっと噛んでとんでもない辛さに涙を流したのがこの緑色のヤツではないかと。

蓮の茎。


豚の肉とか内臓のようでした。

バナナの花を売っていた女の子。中学生位の年頃に見えました。
久しぶりに雨の降らない一日でしたが、帰り道の途中で日が暮れると肌寒さを感じる気温になっていました。
インドシナ半島でというか、東南アジアの歴史に最初の国家として登場するのが中国の文献に出てくる「扶南王国」だそうです。ベトナム、アンザン省のOC EO遺跡がこの王国の最も重要な外港であった-とこの遺跡に「OC EO」という名を付けたフランス人は言っています。名付けたフランス人がどう発音しているかは知りませんが、ベトナム語音ではオッ(ク)エオであり、日本語表記の「オケオ」はどうも頂けません。
かつてフランス人が航空写真がらOC EOからタケオ方向に延びる水路の跡を発見したそうです。現在のタケオ州が扶南王国の中心地だったようです。たぶんその地が州内のアンコール・ボレイだったようです。
タケオの町までは何度か行ったことはあるもののアンコール・ボレイは町からは水路でないと行けないようです。地図を見る限りではPrey Kabbasの町からだと20km程度でしかないのでバイクで行ってみることにしました。
国道2号を南下し、途中で左折して東方向に進めばプノンペンから2時間ほどでPrey Kabbasに着きます。

Prey Kabbasに向かう途中の道。舗装されていないので車が走ると土埃が舞いあがります。

道路の左側は田圃が広がっていました。雑草混じりの田圃でしたが、稲の花が咲いてました。


至る処牛だらけのカンボジア。糞もあちこちに飛び散っている筈ですが、その割には口蹄疫やO175感染のニュースを見ないのは何故でしょう?誰かが言ってたように穀物飼料など食わずにちゃんと草だけ食べてるからなのでしょうか?この牛はヤシの木の繊維を食べてましたがカメラを向けると止めてしまいました。

Prey Kabbasの町の市場。町と呼べるほどの大きさではありませんが、ACLEDA銀行の支店がありました。
ロータリーで客待ちをしてるバイクタクシーのオジサンに道を尋ねました。「アンコール・ボレイ」では通ぜず、「アンコー・ボーラィ」みたいな発音でした。
そこからは、一部舗装工事が始まってはいたものの大半は凸凹の悪路が続きました。

アンコール・ボレイ地区の町、交差点で道を確認しようとすると象が居ました。道の真ん中に巨大な糞を落とし、犬がその匂いを嗅ぎに近寄って来ました。

人の姿は次第に少なくなり、道路も悲惨な状況になって来ました。

どうしたものかとバイクを止め、川に降りてみると水牛が気持ち良さそうに水に浸かっていました。

アヒルを飼っている姿もありましたが、家というよりは半ば廃屋となった掘っ立て小屋が目立つようになりました。

ここを真っ直ぐ進めばアンコール・ボレイだと確認したものの泥濘はかなり更かそうです。前を走っていたバイクは船に乗ってこの泥濘を回避して渡っていました。しかし、前のバイクは2人乗りのバイクが2台。船にバイクを載せるのも大変な様子。
帰りもここを通る他ないわけだし、その時この船がここにちゃんとあるかどうかも分かりません。泥濘の悪路がここだけという保証もありません。雨が降ればもっと悲惨になるわけだから・・・と、引き返すことにしました。
ラタナキリから南下しモンドルキリに抜ける道路が地図にあります。たぶん舗装されていない山道で土埃にまみれてしまうのでしょうけど。来た道を戻るよりも知らない道路を通ってみようか、とも思いました。朝食持に念のためグーグルマップで確認したところ、この道路はLumphatの町で「Tonle Srepok」を渡らねばならず、しかも橋がありません。航空写真を見てもフェリーのような姿は見えないので諦めました。

結局78号線で国道7号まで戻ることにしました。

その途中で渡った橋は一つだけ。真新しい橋でした。ストゥントレン方向から来た家族連れのバイクも橋の上で止まりカメラを構えていました。
来る時は雨の夜道の7号線でしたが、帰り道は昼前の炎天下。来る時と同じように道路にはキャッサバが干してあり、独特の匂いがします。雨の夜もキャッサバはそのままでしたが、カビが生えることはないのでしょうか?
クラチェに着いたのは午後2時。遅い昼食を取り、メコン河沿いのホテルに一泊しました。河沿いの部屋ということで3ドルアップの18ドル。

クラチェからはメコン河沿いにコンポンチャムに向かいました。民家が多い割に道路は舗装されていません。
チャムの人々の多さに驚きました。

何かこの日は特別のイベントがあったようで、モスクの駐輪場にはバイクがギッシリと並んでました。

この辺りから分岐する道に迷い、方向を尋ねながら走りました。

遂に迷って畑道を走ることに。メコン河と国道7号の間に位置してることは確かなのですが、畑の道は曲がりくねっている上に分岐が多く心細くなりました。
州都バンルーンから北に分岐する78A道路をを走ってみました。舗装されていたのは最初だけ。直ぐにに赤土の道になり、四輪車とすれ違うと土埃で視界が遮られます。自転車に乗った子供たちが堪らず手で口を塞いでいました。

人気のない山道のアップ・ダウンを繰り返していると開けた視界に水牛が見えました。ベトナムで見た水牛は農作業中のものが多かったように思いますが、カンボジアで見る牛や水牛の姿は飼い主の姿が見えないことが多いようです。

ラタナキリでも田圃を見ることができましたが、まだ田植えの時期ではないようです。

ラタナキリ州には8つの少数民族が暮らしているそうです。道路沿いの集落でバイクを止めて中庭を覗かせて貰いました。

どの家でも鶏や豚を飼っているようで、しかも放し飼いの豚は隣家や道路を挟んだ向かいの家まで徘徊して餌を探していました。犬も同様で近所の犬が群れて集落からだいぶ離れた場所まで遊びに行ってる様子。

78A線は河に着き当りました。「KOK LAC Community Base Eco-Turism」の看板が見え、店が何軒かありました。
日本で70年代に乗ったことのあるホンダ・シャリー(ベトナム発音ではチャリー)、ヘッドランプが改造されていました。

河には小さな桟橋があるもののバイクを乗せて河を渡るような船は見当たりませんでした。
地図を見るとこの河は「Tonle San」。ベトナム、コンツム省のYaly湖からラタナキリ州を横断してストゥントレン州のメコン河に注いでいます。ベトナム中部高原の方がカンボジア領内よりも高度が高いようです。
河沿いには民家が続いていました。暫くバイクを走らせましたが河を渡るような橋は見当たりません。
おそらくこの河とラオス国境に挟まれた交通不便な土地は開発と無縁であり続けているようです。
手元の資料によるとプノンペンからラタナキリの州都バンルンまでは521kmとなっており、プノンペンからは最も遠い州都です。モンドルキリ州のサエンモノロムではプノンペンへの大型バスも出ているようでしたが、バンルンではバスを見掛けることはありませんでした。
それでもバンルンの町はサエンモノロムやストゥントレンの町よりは大きく経済規模も大きいのでは、との印象でした。ここでも欧米人観光客の姿は多く、交通手段はミニバスの乗合のようです。ゲストハウスの数もかなりのものでした。
州を走る国道は、7号線をストゥントレンの手前で東に分岐する78号線で、120kmほど進むとバンルンの町に着きます。その間道路はまだ工事中の箇所が少なくありません。

パンクしたバイクを引いて歩く姿を二度見かけ、少々不安になりました。下手をすれば数十キロもバイクを引いて歩かねばなりません。

森を切り開き、キャッサバを植えている風景はモンドルキリに向かった時と同じです。

最も手短に現金収入を得ることができるのがキャッサバ栽培のようです。ゴムやカシューナッツは植えてから何年も待たねばならないわけだし。
バンルンの町から78号線をそのまま直進すると80kmほどでベトナムとの国境ゲートに至ります。

カシューナッツ、キャッサバ、大豆などラタナキリ州の換金作物の多くはこのゲートを通ってベトナムに運ばれる筈ですが、ベトナム側も中部高原のザライ省であるためか、通行量や輸送量は他のゲートよりかなり少なめのようで、キャッサバを積んだトラックを見たのは3台だけ。
ゲートの上を送電線がベトナムとカンボジアを結んでいたので、ここからもベトナムから電力を受け入れているようです。

カジノも建設中でした。しかし、今年はキャッサバ価格の下落でザライ省の農民がここに来ることもなさそうですが。

バンルンに戻る途中でキャッサバを積んだトラックが横転してました。キャッサバは単価が安いので過積載でないと採算が取れないとは良く聞きますが、その分リスキーです。