市街・野 それぞれ草

 802編よりタイトルを「収蔵庫編」から「それぞれ草」に変更。この社会とぼくという仮想の人物の料理した朝食です。

どくんご第2回実行委員会

2005-05-24 | Weblog
 23日月曜午後7時から第2回どくんご上演実行委員会をウイングで開いた。2001年8月上演のときの実行委員会がそのまま残るものと、ぼくは気軽に実行委員長を引き受けたところ、2日の弟1回の委員会には、おれはダメあたしはダメと出席を断られ、そりゃ無いだろうが!!と仰天したのであった。その間、ラッキーなことに、雑誌SoRaのライターの喜多田 里央さんの紹介で鬼束君が委員に加わった。また4月、崩壊都市・宮崎市街・観光案内というぼくのスライドトーク(電灯紙芝居)を観て、飯島未来君と大学生の後藤真未さんが加わってくれた。捨てる神もあれば拾う神もありであった。

 ところが、2回目にはなんとぼくを捨てた神のエダリンもミキもまた戻ってきてくれた。新しい職場での仕事にいちおう一団楽つけそうになったためらしい。これは幸運だった。あの時、文句を言わないでよかった。やっとンジンがかかりだした。あと一ヶ月に迫ったが、チケットの目標値を達成できそうなこともだが、なによりもよかったのは、この宮崎市や近郊に住んでいる「どくんごファン」に来演情報を知らせることが可能になったことだ。市の管轄するポスター掲示版にも30カ所くらいポスターが貼れる。6月始めに新聞社巡りの目途も出来た。

 前回は「踊ろうぜ」というのだったが、今回は「ベビーフードの日々」というタイトルのテンと芝居だ。なんか、赤ちゃんが初めてフードを口にする幸せな気分なのか、いい大人がベイビーに退化した気分でもある。毎日が一喜一憂である。
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一高校生の本音

2005-05-23 | Weblog
このコラムの第4回目12月29日に、投稿した『どん詰まり宮崎県2005年の若者像』の初めに紹介した一高校生の作文を、日曜に本の処分をしていたら見つけることが出来た。紹介では『私は宮崎が嫌いだ』で始まるとしたが、原文は違った。作文は以下のように始まっている。

 あたしは、ずっと宮崎が嫌だった。宮崎は田舎だし、山ばっかりで楽しそうな所が一つもなかった。けれど、今はオーシャンドームができた。けど・・・高い。一度は行ったみたいのだけど、行くひまがない。日南からじゃ遠いし、つかれる。
 あたしは、もっといろんなものを建ててほしい。“ダイエー”が建つなんて言ってて、全然建たない。あそこは空き地のまま。・・・・・・それにさ、日南あたりは、ずい分と無人駅が増えたじゃない? もっとさ、田舎に何か珍しいものでも作ると、そんなのもなくなるだろうしさ。
 まったく、宮崎ってだめね。あたし、就職がよそでよかった。たまにさ、帰省したときぐらい遊ぶ場所がほしいよ。絶対。皆、そう思ってるはずだよ。誰だって、おじいさん、おばあさんの多いこんな所より若者が多い都会を選ぶわ。あたしだってそう。おじいさん、おばあさんだけなんてつまんない。

 まさに本音ずばり、音楽を聴くように快適な一文である。1995年の掲載だから、10年前だ。宮崎市にイオンショッピングモールができた。ここを訪れたら、彼女はどんな言葉で語るだろうか。今、彼女はどこで何をしているのだろうか。消息がしりたいものである。
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自主映画の難しさ

2005-05-21 | Weblog
 宮崎でまた自主映画が一つ上映されている。知的障害者が、ミュージック演奏を町、三股町の文化ホールで公演するまでのドキュメントであるが、作者、障害者、ボランティア、家族が感動している様はナレーション、顔、顔のグローズアップと渦まいていた。「ありがとね」という映画のこの感動は、じつは映画を観た観客のものでなければならないのに、作者がまっさきにそうなってしまっているのだ。自分たちだけで感動きわまってしまって、観客は置いてきぼりにされた。作者の感動は理解できる。しかし映画は理解できなかった。映画はほんとうに難しいと思った。

 たまたま、その午後、ぼくはデザイン専門学校、「サンアートアカデミー宮崎」で映像の指導をしている塩川陽一さんと、「どくんご」を生徒に勧めてもらいたいと話をしていた。そのついでに、彼の指導した田野町のドキュメント映画についても所感を話していた。あれだけの技術があるのだから、常識から外れると、もっと創造的になれるのではないかと言ってみた。かれはそうだと肯定したが、話はここからさらに展開した。生徒たちにぼくの言葉がわからないんだよねというのだ。本を読まないし、知的会話をしないし、だから言葉の語彙がすごく狭いということを感じる。

 誤字でも、脱字でも、下手くそでもいいから、とにかく文章にして映画の脚本なり、ドキュメントのアウトラインなり書いて欲しいと熱望するけどね、書けないね。これが書けなければ、映画表現もくそもないと感じてしまんだよね、指導がほんとに難しいと言う。そうか、それなら外れるという概念をどう伝えるか、やりようがないかもねと思うのだった。もっと本を読まなきゃ、もっといわゆる基礎の勉強をしなければと、つくづく思うと彼は言った。映画は、大きな可能性をもっているのにもったいない話だよねと話は続いた。

 あの田野町の映画の画面の美しい画面については、このブログでも述べたがあのビデオカメラは250万円の営業用だそうだ。放送用のものならレンズだけでも150万円、全体では1000万円もする。しかし、現在ではホーム用でも50万円で、画像の質では変わらぬカメラが市場に出てきた。その話を彼から聞いたとき、すぐ思ったのは、映画はただ同然で製作できる、だとしたら
観客は30人くらいを対象にしても繰り返せば元も取れる、さらにDVDにしてインターネットで配信すれば、世界に広げられるじゃないかと、かれはそうだと頷いた。
  
 そのような可能性はある。しかし、問題は映画は一人では作れない。監督、ライター、撮影スタッフなどのチームが必要だ。そのチームのレベル、そのチームを統括することばの問題がある。それが、ここではものすごく貧困なんだよね、なるほど、難しいなあ、ぼくも同感した午後であったのだ。
  
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イオン影響、これから

2005-05-20 | Weblog
 昨日5月19日は、イオン宮崎SCのグランドオープンであった。月曜からのプレオープンで来場者を分散した効果で、自動車の渋滞もなく、会場は盛況と熱気で溢れていた。ぼくはさっそくデパートを見て回った。昼休みというのに、山形屋を除いて閑散としていた。とくにカリーノ(スーパー寿屋後身)は、人気も無いような階もあった。ウィークデイの昼間は、こんなもんだと聞いたこともあるので、ことさらイオン開店の影響と即断はできまい。

 ただ、驚いたのは、どこもかしこも古びて見え出したことだ。もはや、終わったというような感じを受けるのだった。天井は低い、品物は魅力が無い、商品展示のレイアウトは平凡、一つ一つの売り場コーナーはあっても、そこを歩いてもどれも同じようなもので、おもろしろみがない。それまであったデパートの華やぎが、スポットライトが消えた後のステージのように、仕掛けがむき出しに晒される感じだった。原因は、はっきりしている、イオンのショッピングモールを見て、歩いて、立ち寄って数時間を過ごしたためである。人の感覚の他律的なのは、想像をこえて凄いほどである。

 中心商店街活性化については、市はこれからも対応を考えるとテレビで語っていた。危機を訴える商店街代表、集まるイオン来場者の回流を計り、商店街とイオンとの補完は十分可能というイオンモール社長と、いろんな談話が発表された。

 5日間ですでに25万人の来場者があったという。この傾向はこれからも続いていくだろう。一週間で、宮崎市のほぼ全人口が、イオンを体験したということに等しい。それが、何ヶ月も、おそらく何年もつづくことになろう。そして、かれらの感覚は、確実に変化しよう。そして何が生じるかである。これを推測するのは、現実を可能な限りのデーターと、その歴史的分析、さらに洞察力で把握する以外にはない。しかし、1個人の頭では無理である。 なによりも トップダウン方式では、妄想か幻想の域をでることはないだろう。
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わが町内商店街

2005-05-18 | Weblog
 毎朝、7時には、箒を手にして軒下を清め、商品台に商品を並べて開店の準備に余念のない店主に会える。開店して半年近く、今朝もその働きぶりは変わらない。今や、めったに客も来なくなった。この店はかりん糖だけを売る間口2間のお菓子やさんで、京風かりんとう、江戸かりんとう、生姜、沖縄黒糖、わさび、七味唐辛子、竹炭、きんぴら牛蒡かりん糖というのまで、想像もできない各種かりんとうのビニールの袋詰めがきらきらと照明を反射している。ご主人一人が、まじめに店内でなにかしている。そして、こっちもなんか悲しい気分になる。

そのご主人とは、ぼくの愛想のない犬(シーズ)を二人の足元に置いて、短い会話をする。ぼくも絶対、景気はどうですかとは言わない。見ればわかることだから。でも毎回話題は妙に生まれてきた。このかりん糖店の先には、鉄筋アパートの一階に花やさん、食堂、パンやさん、ラーメン店と並んでいる。ラーメン店でも、店員さんが軒下にテーブルとベンチを出して並べ、コンクリートの床を掃き、花の鉢を並べている。ここも、いつ来客があるのか分からぬほどである。しかし、いつも開店準備に生き生きした熱気が感じられる。その仕事振りもまた信じられない光景となって目に映る。

この通りは、わが町内の中心商店街である。イオン宮崎SCが、明日グランドオープンしても、何の影響もないであろう。客がこれ以上減りもしないだろうし、もちろん増えもしないだろう。かりんと屋さんを別にして、どの店も10年近く営業をつづけているから、これからも変化はなしだろう。住宅と混在しており、必需品のような店かもしれない。学校が近くにあり、小学生の通路に当たるので、犯罪の抑止力にもなっている。しかし、そんなことはだれも言わぬし、考えもしない。日常風景のなかに溶けてしまった商店街である。

イオン宮崎がプレオープンして三日目だ。橘通3丁目のグリーン茶だけの喫茶店に午後はいた。二人だけ、2時間あまり午後4時まで来客は一人も無かった。イオンのせいかもと言っていた。この中心商店街は影響が避けられないだろう。それでも商店が、住民の必要なら残るし、不必要なら消えるだろう。ほんと考えると話は単純極まりない。中心市街地の問題がにわかにやかましくなってきたが、今さら外部が頭だけで考えても仕方がないことかもしれない。
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イオン宮崎プレオープン

2005-05-16 | Weblog
 イオン宮崎ショッピングセンターのプレオープンで、今日月曜日、さっそく入ってみた。手前のスーパージャスコからショッピングモールが始まるわけだが、さすがシックな、でわくわくした街というのが実感できた。ところどころに横に通路が交差して、それが街中を感じさせ退屈させない。両サイドの店を覗きながら歩くと、あっという間にホームファッション「ニトロ」の大売り場に入ってしまう。

 午前10時半というのにすでに駐車場は満杯、2万人近くの店内客ではないだろうか。楽しくてたまらないという表情の人が多い。まさに絶好のエンターテイメントの場を与えられた感じだ。タリーズでコーヒーを飲んだが、隣の席の若い女性二人は、よろこびの興奮が隠し切れないようだった。レディースファッションの店が上下2階、両サイドにも軒を連ねている。その通りを上背のある若い女性たちが、大勢歩いて行く。驚くのは、彼女らのファッションである。すでに今日のイオンを上回る流行色なのである。彼女らを見ると、あらためて情報化社会の消費傾向を感じてしまった。これほどの巨大な施設をもってしても、やはり商品の一部しかないのだと痛感させられもした。

 え、この程度の店というのもあるし、やはり宮崎では味わえない専門店もある。たとえば輸入食品のカルディコーヒーファームである。サービスのコーヒーの紙コップを、すすりながら店内を見て回れる。その紙コップのコーヒーが先のタリーズの「本日のコーヒー」より美味い。170円のコーヒーフィルターを買ったら、飾っておきたいような手提げの紙バッグに入れて渡された。この店の前のカフエ・グロリアジーンズコーヒーのミントのアルミケース399円がよかった。1920年代のアメリカのシガレットケースをモチーフにしたという逸品だ。こんな商品があるということだけで、うれしくなった。

 2時間半があっという間に経った。まだ表面をさっと撫ぜた第一印象に過ぎないが、報告しておきたい。木曜19日が正式オープンで、ここから週末に向けた来場者はどうなるのか、やはり本格的スタートはそこからだろう。
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百貨店「山形屋」

2005-05-16 | Weblog
  山形屋デパートは、宮崎市の百貨店である。お中元や歳暮の季節がくると、その包装紙だけをオマケに請求するタフな主婦たちも多いと聞く。今や崩壊した総合スーパー寿屋や、衰えの目立つ王者ダイエー宮交シティSCを押さえて、老舗の風格を漂わせて健在である。昨日は、その地下食品売り場にハムを買いに行った。2ヶ月前に、家内から頼まれて、切れ端の「300円包み」をまた買いに来た。あの時は、もう売り切れたというので、明日は何時に来ればいいですかと、聞いてくるぼくに、同情されたのか、いきなりケースから2,3本ハムを取り出すと、ばしばしと切れ端にして、パックを作ってくれたおばさんに会いたかったのだ。よろこんでもらえた。ついでに2包みもらうと、2つも買ってくれるの、ありがとうとお礼を言われた。帰ると、妻はなんで残りも全部買ってこなかったのねと、不満を漏らした。

 ここに鰹節をその場でかいて売ってもらえる売り場があると聞いたがと、おばさんに聞くと、奥の角の店を教えてくれた。削られた赤みの削り節は、じつに美味そうだった。隣のいりこは、銀色に輝いていて、こんないりこもあるのかとおどろいたが、買うのは普通のものを頼まれていた。あっちも買いたいのだけど、今日はこれ、少なめでいいんだけどというと、売り子のおばさんは、300グラム袋とは、べつに200グラムを測り入れ、もう一人のおばさんに言いくるめて計算を任した。これで早く銀色にいりこに挑戦できる。そのほうは、2倍くらいの値段だった。帰って報告すると、妻は、いりこの味は、色とは関係ないのよと冷たく言い放っただけだった。

 さてと、ふと食品売り場で思ったのだが、こんな会話のやりとりが出来るのが意外だった。それに計り売りとは新鮮だし、まるで、昔の八百屋の面影を感じた。昔は、老舗のデパートで安売りを求めるなどはできるものじゃなかった。今は、スーバーの方が、どんなものもパック、パック、バックを破いて計り売りなどとは考えられない。売り子はレジだけにおり、キャッシャーの一部で話かけたら怒られそうだ。客の方も、ありがとうと言われてもブスッとしたまま返事もしないものもいる。ああ、デパートと反対になったなというのが、きわめておもしろかった。

 老舗の百貨店では、「会話」が楽しめるというのは新しい発見であった。 
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宮崎本音マガジンSoRa

2005-05-14 | Weblog
  SoRaは、タウン誌にしては理屈っぽいねというと,喜多田 理央は、多すぎますと笑った。手渡された2005年4月号特集「ロックは死んだのか!?」はもちろん、5月号特集宮崎人にアンケート「恋に効く!?男と女の行動学」にしても読んでいて骨っぽい理屈があり、おもしろい。めくっていくと、今月の『コラム』が目に止まり「メディア・リテラシー」と題されていた。これがじつに良かった。先の中国の反日デモの最中に、北京在住8年の友人に連絡してみると、昨日と変わらぬ平穏な日常を伝えてきたとうのだ。「日本人が極度の危機状態に晒されているようなイメージ」の報道とは対極の事実も知りえた。メディアの情報が何を目的にしているかを読み取り、それに踊らされない注意を述べていく。

 体温がつたわるような文体が心地良い。Linda-Rとは外国人か、うまいなあというと、彼女は、これはTさんよと告げた。へえ、彼女!とぼくはびっくりした。10年ほど前、Tのいる編集部に、チケット販売に行くたびに「映画女優になりたい、女優になりたい」とぼくに言うのだった。そのジョーダンをどう受け答えすべきか、とまどうぼくを見透かすように、それからも執拗に女優になりたいといって回答を意地悪く強制した。知性、感性が鋭いだけに、返答するに始末が悪かった。あれから10年ぶりに彼女のコラムを初めてよんだのだが、女優にならずとも表現の手段は見出したではないかと、よろこんだのである。さらに先月号のコラムを読んだ。すると・・・・・。

 タイトルは「まるで映画のような一日」 その一日とは,Tが東京出張した日の出来事である。その日、彼女はある男性とデートすることになっていた。別の男友だち二人は、さっそくブティックにTを連れ込むと、次から次へと試着させて、選び始め、さらにアクセサリーから靴までと全部買意与え、それからネイルサロンのオマケつきとなった。二人は彼女のデートのために投資したのだ。それから食事のあと、デートに遅れるという男性を待つために3人で六本木のバーに繰り出し待つ。さらにはしごしながらひたすら彼を待つのだが、テキーラをあおりつづけて午前一時半、ついに彼からは連絡の途絶えてしまった。翌朝、腫れまくりの顔をみせたTに二人は、「まるでアリーマクビールみたいだね」と言う。「30半ば・仕事アリ・男にフラれマクリ」と言ったというのである。こんなうそを平然と書き、それが真実にしか読めない文体である。女性のうそは絶対男には見抜けないという感じの凄さがある。
 
 いやコラムでは真実の話としか思えない。だが、うそと解釈しなければ、どこもかしこも論理的につながらない。いや、ホントの話かも、今も変わらす、あの女優になりたいのTがあった。

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テント劇の楽しさ

2005-05-13 | Weblog
 宮崎の今が見える!宮崎本音マガジン「SoRa」のライター喜多田理央さんに「どくんご」公演を説明した。「ベビーフードの日々」というテント劇をやっきになって解説するのを、クールな表情で聞きつつ、つぶやくような質問や、そうですねと、共感とも、反論ともとれるような言葉を返したりしながら、ノートを綺麗に埋めていくのだった。彼女は外語大で{スワヒリ語}を専攻したと聞いた。就職に何の役にも立たなさそうなスワヒリ語を選んだというだけで、ぼくは彼女に好感をもって、以前,一度取材に応じたことがあった。結果も新聞取材よりも好かった。というわけで、今日、どくんごの話を持ち込んだわけであった。 

 タイタニックの沈没を眺めているだけで、救助には行かず、自らのあかりは消して沈没する様を眺めていた船が舞台だとうんだよね、なんかいまの日本人だよねとうと、彼女はそこは、はっきりと肯定してくれた。その船は幽霊船で、乗員は亡霊だ。タイタニックから人形が流れ着く。この人形をめぐって亡霊たちは前世の生と、黄泉の生とをまたいで、自らの記憶や身体を語り始めるとうもののようだ。ようだとうのは、見たわけではないからだ。

 なんやら象徴的、哲学的めいてみえるが、そんなことは一切ない。「はっきりいうと、なにがなんやらわからんのですよ」 「でも、一度見たらほとんどの人がはまってしまった。これまで、ほんとに」 それにはテントの特殊な空間感覚もある。なんといっても,テントは気楽な自分遊びの場であり、大劇場で料金別の座席で、食鳥が給餌される感覚とは別だね。ニューヨークの大道パーフォマンスをみている自分だし、その参加感がいい。テント内の劇と自分の共振がいやがうえに高まっていく。一夜のわすれられぬ興奮の夢となって残る。それが内容ともいえる。彼女との話はすすんでいった。

 5月に浦和をスタート、6月宮崎、8月北海道、8月30日仙台で旅公演が終わる。テントのキャパは50席、前売り2000円で7人の旅、赤字になるのは避けられない。まして儲かることはほぼ不可能だね。

なんのためにそんなことをと言うのだけど、さっきも言ったように内容はほどんど何が何やら分からない。社会や世界情勢と直接関係ない。恨みつらみも、説教も、教訓もない、そんなテント上演を引き受けて10年経った。このごろやっとわかったのは、かれらは、旅公演を心から楽しんでいるということだ。なぜだと、問われてもぼくは万人納得の行く答えに行き着けないけど、こっちだって元気がでるし、生きられるという可能性の楽しさかもね。
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また一つ悲しい風景が・・・

2005-05-10 | Weblog
 上野町界隈については、前に書いたが、また一つ悲しい風景画が添えられた。この界隈は1月5日、7日、9日と宮崎迷所案内ソープランド灯台(ヘンリー岬灯台)で憤激を漏らしているので併せ読んでいただきましょう。この一角の路地の奥に、「江戸っ子」というてんぷら屋がある。昭和29年開店であるから、51年もこの場所で、開店当時のままの面影を残して今日まで営業をつづけている。県外からの知人が来ると、いつもここに案内して来た。こんな美味いてんぷらがあるのかと、みな驚いて宮崎市をほめた。

 ひさしぶりにこの路地に行ってみると、江戸っ子の店の西壁まで、路地のなかの店が引っ剥がれていて駐車場に変わり、日中の太陽がかんかん反射しまくっていた。べったり張られた塩化ビニール製の西壁が涙のように光っていた。バカにしやがって!なにもかも台無しになっているのがわからんのだろうか。宮崎市でわずかに生存していた路地を殺してしまったのだ。

 幸い店は営業をつづけていた。ご主人もあまり前とかわらぬ粋な格好でてんぷらを次男と揚げていた。こうなったら、金儲けなんかどうでもいい、維持し続けると腹をくくっていた。その気持ちにぼくもほっとできた。聞くと、道路拡張工事のため、道路に接した家屋を取り払ったそうである。両サイドに歩道を広げ、ヘンリー岬灯台まえのカラー舗装道を南へ延長する工事という。

 人も歩いていない道路になんで歩道をわざわざつけるのだと、ぼくも腹がたってくる。綺麗にしたいという気持ちじゃないですかと主人は言う。綺麗というなら、この半世紀の時間をたたえていた路地の光と影のほうが、ほんとうの美しさじゃねえですかと、おたがいに憤激するのであった。

 景観をつくるとうのは、バカがやると最悪である。また多数決で景観を決めるというのは、ゼロ×多数か、場合によってはマイナス×多数でしかない。ここにまた悲しい風景画が一つ増えたことを報告する。


 
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イオン 風景の超克

2005-05-09 | Weblog
 今日は5月9日月曜、肌寒い朝だ。イオン開幕まで、あと10日になった。
先日も述べたように外観がシックな建物に仕上がったのは、幸運であったと今日もまた実感できた。建物外壁にある広告も数箇所に止まり、原色でなく
中間色であった。必要最小限の配置のために、それで十分目立っていた。宮崎県立美術館や藝術劇場の建物よりも、こっちのほうが風土にマッチしている。こけおどしもなく、自己顕示もなく、明快で理解しやすい商業施設であり、かつエンターテイメント施設であることを判らせてくれる。

 今日は珍しく二組の中年、高年夫婦が、デジカメでイオンを取っていた。彼らは宮崎市民だろうか。建物の外では、椅子テーブルも並べられ、そこに数百人がそれぞれのグループで、弁当を食べていた。これまでの建設作業員ばかりでなく、聞くとテナントの従業員だそうである。どこか遠足の風景であった。ほとんどが若い男女たちであり、ジーパン姿であったが、それでも華やぐような若者の生気があった。彼らがみないっせいに制服を着て、建物の中でサービスに就くわけである。この結果、ショッピングセンター内は祝祭空間になるであろう。

 外観だけでも、現在の宮崎市の唯一、最強の観光スポットになりそうだ。破産したシーガイアが、観光スポットにならなかったのとまさに対照的である。前者は風景だけが頼りであった。後者は都市を人工化し、風景を従わせた。そしてそのスポットはブラックホールのように消費を吸引して多に脱出させない。この両者の差を宮崎市民は学ぶはずである。風景の超克が始まろう。

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班長さんになって 3

2005-05-09 | Weblog
  今朝は、わが町内12班の清掃奉仕の日だった。それをすっかり忘れていて、夕べ、町内役員からぼくが忘れているというせいでもなかったろうが、班の各所帯に電話して、清掃参加を促してほしいと言付けがあった。実は、この清掃については班長挨拶に回ったとき配った総会議案に割り当て表があったのだ。

 電話では、総会議案にありました通り、明日午前7時から清掃です。お知らせします。これはお知らせでありますから、参加を強制するものではありません。楽しくやれそうか、気晴らしになるならご参加くださいと、申し添えた。なんと広場には日曜の朝の午前7時というのに全所帯から一名づつ作業に出て来られた。

 なんか、うれしいような、悪いような気もするのであった。かくして時間きっかり、草取りが始まったのであった。なんやかんやと世間話もできる。いや、話をして回るのも仕事のうちと、話を交わすとだんだん暖かい雰囲気にもなってきた。草刈りマシーンは、ダッダッダッダと音を立てながら押されて回っていく。ところが、問題が起きた。

 日曜の朝というのに草刈りマシーンの轟音、何とかしてほしいと近所から文句が出たのである。それを受けた別班の班長さんは、もっともだよなあとぼくらに報告してきた。みんな文句を言われてびっくりしたのだけど、文句もでるよねえ、せっかくの日曜に、朝っぱらからこんな音をたてられたらねというので意見一致、そのまま仕事は終わりになった。これはいい結末だったと思う。

 どっちが正しいかというようなことにならず、こっちも半分は終わったで良かったし、騒音も終わったし、全員満足したわけだ。ほんと、ご町内なかなかももんだとうれしくなった。班長役もおもしろくなりそうだ。
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GW終わる

2005-05-07 | Weblog
 JR西日本には、個人というのは存在してなかった。脱線現場に対応するより上司の判断が最優先する。その判断に従うことで、組織を裏切らない。組織以外の出来事は、何の関係もない。そこには、一般市民とか、市民の事故死とかは、遠い出来事にすぎない。組織の和のためには、事故現場にとどまるより、ボーリング場の和につながることのほうが優先する。2次会、3次会も和のためである。この一連の行動、その意識は、一部に言われているような利益追求の資本主義体質ではなく、むしろ個の判断を否定する官僚組織の体質である。むしろ反資本主義的体質である。

 さらにミスを犯した場合の心身にたいする暴力的処罰を、即断で実行する点では、狂信的革命集団赤軍派や、狂信的オカルト集団オーム真理教により近い。そこにある絶対真理とは、全体主義国家のそれに似ている。ここでは、一分の狂いもない運行ダイヤの厳守、一メートルの狂いもない停車線の厳守という非人間的行為への絶対服従である。そしてなによりも憂鬱なのは、この集団主義が、日本人にひどく馴染むということである。ぼくもJR西日本的資質を存分に持っているという憂鬱さである。

 NHKのきな臭い番組、例の討論番組は、連休の終わった6日の夕方再放送があった。愛国心を教育するというのは是か非かというのだ。
家庭を愛するようにわが町を愛し、わが町を愛すれば市も愛することになり、県、国へと愛し、そして世界、人類愛へとなるじゃないかと大学教授が説いていた。こんな幼稚な子供だましの比ゆを用いて、愛国心を説くとはよほどのアホか、大衆を愚弄した思い上がりの発想であろう。

 JRの精神に流れているものも、似たような倒錯した愛である。ぼくは息子も孫も愛している。だから宮崎市も愛していると、なんでつながるもんか。そもそもどういうわけで自民党が半世紀もつづく国を愛しなければならないんだろう。どうして国を憎んではいけないのか。その自由さへない国からはやがて個人はJR西日本のように消滅していく、そんな予感の中で、GWも終わる。おまけに雨だ。
 
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さよならセントラル会館つづき

2005-05-05 | Weblog
  「橘国際観光ホテル」が建設された昭和37年夏は、全国から観光客が宮崎に押しかけ始めた時だった。とくに新婚夫婦の評判を呼び、新婚特別列車「ことぶき号」というのが、京都―宮崎直行で運行されていた。昭和42年新婚さん90組が宮崎駅に到着すると、宮崎市長をはじめホテル・旅館の従業員、観光関係者が300人が出迎え、ホテルに送り込んだという。こうして春、夏の結婚シーズンで運ばれた新婚組みは503組だったという。どうだろう、そのもりあがりぶりは。
 
ところが、その同じ昭和42年、宮崎空港に到着した新婚組は2万2千組に達していた。翌年は3万2千組になった。豊かな日本になっていた。次は、まちがいなく海外へ飛んで行く。本物の南国、ハワイ、グアム,バリ島へ、ロマンを求めてヨーロッパへ。だが、新婚列車は48年、石油ショックで高度経済成長が終焉するまで続けられ、宮崎市は、せっせと農民のまじめさで、中央分離帯にワシントニァ・パームの植栽をつづけ、ようやく昭和49年に完成、同時に県外観光客は減少に転じた。

 観光客を目当てに椰子を植えるよりも、楠を植えるべきだった。街は豊かになったのに。少し注意すれば時代の変化が読めたのに新婚列車に魂を抜かれたままであった。時代の兆候を見抜くことはほんとに難しい。

 この後、昭和52年に「橘国際観光ホテル」は映画劇場「宮崎セントラル会館」に改装、斜陽の映画をとにかく今日まで上映し続け、儲けも少なく、設備の更新もままならず、若者にぼろくそに言われる老体になった。ここも精一杯時流に沿おうとしたようだ。いや時流に媚たが、相手にされなかったようだ。じつは、このホテルには当初から地下に宮崎市で最初の地下映画館「テアトル橘」という洋画専門館があった。どうせ儲からなかったのなら、この映画館を、建設当時のまま椅子一つ、内壁一つそのまま今日まで保持したなら、レトロ空間としてそれなりの注目を集めたはずである。

 すなわち、時流に媚びず、時流に抗して欲しかった。時流なんかくそ食らえである。ま、それにしてもシネコンへの発展的解消、おめでとう。ぼくも楽しもう。そして時代はこれからどうなるのか、興味尽きない!!


 

 
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さよなら「セントラル会館」

2005-05-02 | Weblog
 昨日5月1日、当市の映画館{宮崎セントラル会館}がイオン宮崎SCのシネマコンプレックスへ移転のため閉館した。長い間、ご苦労さんでした。老体に鞭打っての斜陽産業映画興行にがんばりつづけたが、最近の評判は、以下のようであった。
ありえないです。 投稿者:rinrin_kenken630さん 2004年7月14日
- 汚くて暗くて、ホントに最悪なのは ほかの映画の音響がもれるところ・・。 ここではホント見たくないです。

同感!! 投稿者:usakochan1919さん 2004年7月5日
- 九州各地の映画館行ったけど、あんなボロくて原始的なトコ初めて!!日本最古って感じ!?ちょっと映画行くのが億劫になる・・

セントラル 投稿者:kenichi413さん 2004年6月4日
- なんか暗いし汚いね。素晴らしいとこは、いつでもガラガラで良い気分!!!


 たまらん批評だなあ!でも若者にとっては実感。ヒロさん(20代)も2年前大阪近郊から当市に移住して、映画を見たのがこの会館の地下劇場。この薄汚い、箱の中がなんで映画館やと、カルチャーショックを受け泣きたくなったようだ。
昔、映画劇場といえば小便くさい小屋、辺りはどぶの匂いのするいかがわしい歓楽街であった。昭和50年初頭にはすでにそんな映画劇場は市内から、すべて消滅した。だからセントラル会館は、ぼくにとってはいつまでもゴージャスであった。今でもね。しかし豊かな日本に育った若い世代は、こんな映画館は「ありえない」のだと、ああ、俺はミイラか。

もともとセントラル会館は、ホテルだったのだ。横にまわると窓が、ホテルらしく屋上に並んでるのが見える。ここは昭和37年8月に完工した「橘国際観光ホテル」であった。地上9階,地下2階の当時、最大のホテルだったのを記憶している人も少なくなった。宮崎市青島,日南海岸の観光が、脚光を浴び始め、全国の新婚さんのハニームーンメッカとして沸き返る40年代の開始寸前の時だった。同月に宮崎空港ビルの起工式もあり、7月には、宮崎交通本社の新社屋が完成した。そして年末に当市を代表する宮崎観光ホテル新館(現在の旧館部分)が開館したのだ。すべては、うはうはの観光時代の受け入れがととのったすばらしい時代であったのだ。

宮崎セントラル会館は、43年をもちこたえた事業ビルであった。観光ブームは10年足らずで終わった。昭和52年に映画館に改装、7つの劇場を集めて今日まで映画を市民に提供してきた。そしてついに、老いて臭くて、ボロで、汚くて、日本最古ということになったのだ。たしかにそうだけど・・。でも、やはり違うんだ。このことは、明日続きに書いてみよう。別の視線でみると、こうなると「ありえない」話をね。



コメント
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