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市街・野 それぞれ草

 802編よりタイトルを「収蔵庫編」から「それぞれ草」に変更。この社会とぼくという仮想の人物の料理した朝食です。

谷本 仰(たにもと あおぐ)ライブと宮崎市

2015-08-29 | Weblog
 この春、どくんごの実行委員三木ちゃんから、谷本仰さんというバイオリニストの宮崎市でのライブができる場所を探して欲しいと依頼を受けた。そのチラシを読んで、どんな内容なのかと理解しようとしたが、内容をつかみようがなかった。すばらしいバイオリン演奏というのだが、具体的にどんな演奏なのかと尋ねても、彼女はどくんご芝居のあの幕開きとフィナーレでのかれのバイオリンの迫力に圧倒されたとだけで、ほかはまだ聴いたことがないというのであった。彼女を信じて、それなら「ひむか村の宝箱」がいいかもというと、そこがかりられたら、いい、わたしもそう思っていたというので、池辺さんに話して承諾をえたのだった。話すときに、ぼくは、どうも反原発とか、有機農業とか、自然賛歌で、話や演劇とも融合したライブだから、店の雰囲気に合うという伝え方をした。そういいながらも、それがどういうバイオリンの演奏になるのか、またどうじにアルゼンチンタンゴもくわわり、フリーインプロヴィぜーション、演劇音楽ともチラシには紹介されていた。インプロヴィぜーションは即興という英語であるのを、じつは後で知ったが、この語を理解していればかなり内容も推測はされたかもしれないが、即興ではかたづけられない内容であったから、この点は知らなかったほうが良かったのではあった。

 宮崎市では、バイオリンといえばクラシックで、過去の偉大なる音楽家の名曲を、最高の技術で弾く演奏家のコンサートしか思い浮かばない。そして田舎ほどクラシックがポップよりも盛んなのであるという現実もあらためて想いうかべるのであった。メジャーな非クラシック音楽などは、市場価値を問われるポップ音楽は、経済効果上、上演不可能であるからだ。バイオリンのライブなどと、田舎では田舎向きにあつらえられた特製作品であろうか。昔は田舎向けのパンというのは、特別に製造されて、安値でパンなど食ったこともない村人に送り込まれていた。その現実は今でもつづいてはいるのだから、バイオリンもそうかもという気持ちもどこかにあったのだ。

 こうして2015年・8月17日の当日となった。池辺さんは、谷本さんは反原発や平和への激しい情熱の人のようで、それがあなたの気に入ったようですねと言っていた。それは彼女の見当違いなのだ。バイオリンは、この宮崎市で、どんなライブが可能かが問題。たしかに池辺さんのいうように、社会をあり方をタダす情熱の人かとも思えた。チラシの写真でかれをみると、すごく暗く思いの深い粘着気質の音楽家に見えてはいた。他方、三木ちゃんはこんなあっさりした、きさくな、親しみやすい演奏家はないと褒める。今回でも、入場者のことなどなんにも要求されないし、チケットも予約制一本槍で、チケットは販売しないのですから、のほほんとして、こだわらない人ですよね。だから今回は、まずはぼくと私の二人だけでいいんじゃないですかと、言うのだった。ふたりだけでも聴衆はいいのだから心配はしないでいいですよというのだった。彼女のこと話がなかったならば、その夜のライブは、緊張を強いられる予感でつつまれていただろう。なんとか、数人に呼びかけて、ますは今回は聞いてからだということで、ライブを迎えることに話は行き着いたのであった。それにして、写真の谷本さんが本当か、きさくな、動物「怠けもの」のような現代離れした音楽家なのか、人物、演奏内容とも不可解なまま、台風の迫ってきた夜の平和台の雑貨店「ひむか村の宝箱」でライブ会場に入った。もう一人の実行委員青木さん(お好み焼きしぇ・こぱんの店主)の車で店に到着した。曇天で小雨がばらつきだしてきた。午後6時というのに真っ暗な広場が淋しげであった。これからすぐにライブがはじまるにしては・・・

 

 


 

 

 
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三ヶ月ぶりのブログ

2015-07-29 | Weblog
 ブログを書くのがあほらしくなって止めていたが、昨日、どうなったのかと『市街・野』を開くと、なんと685pvで、その前日が428で、それまで200から300pvでつづいていた。これほんとうよんでもらっているのだろうか。なにか、検索にただ引っかかった名残の数ではないのだろうか。驚きである。
 ひょっとしたら、読まれているのかもしれない、そう思うと、やはり、まだブログに発表したいことは、あり、やっぱり書いてみようかという気分になった。それで、今日、市街・野の再スタートについては、5月以来天候不順で雨ばかり降っていたような5月、6月、7月が経って、ようやく梅雨があけたという感じから話をしてみたい。このうっとうしい3ヶ月であった宮崎市は、日本全国では、相対的には一番気候温順で、ゲリラ雨も台風もなく、猛暑もないという季節であった。おそらく、ほぼ直線状に南北100キロの海岸が太平洋という安定した海に面しているせいであろう。夏になれば、海はエアコンディションとして作用し、猛暑はやわらげ、ゲリラ豪雨を発生する上昇気流も抑えているからであろう。この安定した気候は宮崎市街平野の特徴となってきている。

 もしここが、中国か、アメリカならば、高級住宅地区が開発され、全国から富裕層が住宅街を形成したであろう。それはない。あまった土地はないのだ。金持ちだけが集まって住むような土地はないのだ。あったとしても、そういう土地へ金持ちが集まって生活をしようとする意思はないのは明白である。せいぜい東京都の億ションに住むくらいのことである。階級意識があまりないせいからであろう。
 
 アメリカの高級住宅地区の実際を訪れたことはないが、グッグル・マップなどでフィラデルフィアのメインラインのストリートビユーを利用して散策してみると、あんな住宅地や、市街には住みたくもないという気分に襲われる。画一的な高級住宅が、幾何学的に並んだ単調な通りをみると、この宮崎市の郊外にある住宅団地と変わらないし、スケールが大きすぎて不便であり、どっちを向いても、歩こうとも、行ってみたいとも思わぬ無機質な住居と庭と門があるばかりである。美的でもない。デザインだけが仰々しくて空しい。生活感がないのだ。こんな住宅街と比べると、宮崎市街の郊外にひろがっている団地は、狭く、手軽に買えそうで、ごちゃごちゃで、高級感よりも、やすっぽさで、開放感がある。これはたしかに日本的、またアジア的とでもいえる生活環境である。よく、北欧のドイツやデンマーク、イギリスなどの街を
美しいといわれる。あるいはテレビで街角散歩で、映像的にこれでもかというくらい、美しさが西欧に街として賛美される。しかし、そんな美しさは、そこでの暮らしとは、何の関係もないといったほうがいい。まだ、日本で、住み慣れた故郷での暮らしのほうが、はるかに快適であるのだ。言葉が通じない生活環境では、生活は空ろでしかないことも加わるわけである。

 ということで、富裕層地区というのが、借りに開発されたとしても、そこは一般の暮らしから疎外された、不幸な不愉快な場所でしかないであろう。そういう場所が、宮崎市にはないのである。まさか、これからもそんな地区を開発しようというあほはいないだろうが、そういう
疎外された場所にうかつに飲み込まれることがない、われわれはしわわせかである。
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無関心という関心

2015-02-28 | Weblog
 
 吐き気のする少年犯罪がまた起きた。高校生のグループが、一人の中学生をなぶり殺したのだ。グループのリーダと、その支配下の二人の高校生が、その14歳の少年にそれまで、日常で、執拗な暴力をくりかえしてきた。それもリーダーの万引きせよという命令を断ったといったようなことである。右目がつぶれるほどに紫に晴れ上がった顔の少年の写真もテレビに現れた。登校拒否は、リーダーの命令によっていた。ついに少年はグループを抜けるという決意を告げて、3人の高校生のリンチによって絶命した。近所の川べりで、数十箇所の暴行のあとを残したまま、首をナイフで刺され、素裸で、岸辺の草むらの放置されたままであった。その嗜虐性はイズラム国をまねた様子もあったと述べるものもある。
 
 この殺人は、高校生らに人を殺すという意識がまったくかんじられないという一点で、まさにテレビ的である。そこにあるのは、映像というシーンだ。深夜午前2時、高層マンションに近い川岸で、執拗に14歳の少年の体にナイフを刺しつづけた少年たちには、テレビの一こまか、ゲームかの感覚しかなかったと思える。

 こういう高校生たちを生み出したのは、彼ら自身の非人間性、素質、学校教育、家庭環境があるわけであろうが、今回とくに痛感せざるをえないのは、殺されるにいたった中学生の切羽詰った日々に学校も家族も、だれも無関心であったという一点である。右目のまわりが、赤黒くなるほど変形していたのを、だれも理由を追求しない。登校拒否が始まったのも、少年の日ごろの生活からはありえないと、だれも気づかなかったのか。その他、学校生活の毎日で、だれも異変を、とくに教師がき気づかなかったことだ。

 つまり、ここで、理由を知りえたならば、少年をグループから引き離すことも、守ることも可能であったはずである。だが、だれもが、理由をしらなかった。ここで、かんがえてみよう。一つの兆候がある。それが兆候に見えるには、まずなぜという疑問がなければならない。つまり関心がなければならない。なぜか、そんな関心は、少年にまったく注がれてなかったということである。つまり他人のことなど、知らないという無関心が、当たり前のこととしてあるということである。

 しかし、その意識はほんとうに無関心からであったのか。おそらく、なにか変ときづいても、そのことに関心をもつことをしない。関心はあれど、無関心のままであるとくいう意識が、常にわれわれにあるということを、改めて思い出すのである。とくに中学、高校に姉弟を置く両親たちは、教育課程に口を挟まない。おかしいと思いながら、無関心を装いながら、だまったままで卒業日を迎える。この無関心という関心こそ、忘れえない苦い経験、行為の体験として、ほとんどの日本人は記憶している。そして、こんどは、一般社会でも、この無関心という関心を、やらざるをえないし、やってきたし、今もやっている。この臆病さ、卑劣さを、グループの高校生たちは、見抜き、やりたい放題の反社会的行動を繰り返してきたのが、他方の現実である。かれらにとっては、この卑劣な空気のような社会が、かれら自身を幻想的な立場に落としこむ
空ろとして、内面に巣をつくっていたに違いない。かれらにとって、現実は無いのだ。すべては無関心でしかなくなったのだ。

 逮捕されたリーダーの少年は、殺人はやってないとこたえているという。後の二人もやってないといったそうだ。自分の意識のうつろさを見事にさらけだしているではないか。おそるべきは、無関心という関心では大人たちもたいしてかわらぬ構造をもっていることである。テレビのコメンテータもまた然りである。
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軍歌とスローガン

2015-02-26 | Weblog
軍歌の本質は、洗脳であり、そのためにスローガンを歌うことに尽きよう。今朝もテレビの朝のドラマ「まっさん」から中島みゆきの軍歌が流れてきだした。なぜそれが軍歌に聞こえてくるのか、つまりスローガンの機械的かつ無神経の繰り返しであるからである。

 まっさんは、ドラマとしては見飽きないし、おもしろいし、その意図に反して、日本人批判になっているからである。個人の尊厳、自由つまり民主主義の力を、エリーの役柄が、本人も意識せずに、つたえてくるからである。そこで、学ぶべきは、なんといっても、個人がしっかりしなくては、どうしようもないことである。しかし流れてくるのは、国の賛美のくりかえしである。それがどこの国とは、はっきりしない。まさにあいまいもことしているのが、このイメージ性だけは中島みゆき風ではなる。国、国、国である。

 スコットランドのようにも感じられるし、また日本のようにも受け取れる。はっきりしたらどうなんだと、いらだってもくる。美しい国、育った国、愛する人の国などと国がさしだされ、それはそれでいいだろうと思う。だが、いったいそれがどうしたと不愉快になる。

 ところで、その同じ朝に、殺人事件が、日本のあちこちの市でおきたの知らされる。毎週、とんでもない常識をはるかに越えた殺人事件である。女性、年寄り、幼児、小、中学生などが、殺したい欲望によって嗜虐的に殺される。殺すのに抵抗されないで、容易く殺すことの可能な対象が、恣意的に選ばれて殺される。理由は殺人者本位である。なぜ、このような殺人が、毎週のように、心理的には三日置きに起きているのか。人を殺したくなるほどのストレスを、この国の社会が発生させているからである。それ以外にさしたる理由は考えられない。つまり今日の国のもつ歪みが、殺人者を生み出している。この現実を痛感させられる朝ごとに、美しい国、育った国、愛する人の国などと、歌われる、なにも国を否定するわけではないが、これほど能天気に国を歌い上げる前に、この国で生き、育つ人間について、何が今、一番必要なことなのかに、思いがいくならば、それは考えることであり、哲学であろう。まずは人である。あほになったのか、君は、ぼくはそういいたいのだ、中島みゆきの昔の歌を思いながら・・・
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宮崎映画祭(第20回)  時代の風 国定忠治上演

2014-07-14 | Weblog
 


台風8号が去った金曜日、ポルトガル映画を見て、土、日は、参加しなかった。妻が、映画祭は今日は行かないのと、言うので、おもしろそうでないので行く気がしないなと言った。「宮崎映画祭は日本でいちばんまじめな映画祭と新聞にでてるよ。真面目な人たちががんばっているんだねえ、えらいねえ」とやたら褒めるのであった。おもしろくないから、行かないという態度への批判がこめられているのは、まちがいなさそうであった。「日本一まじめな宮崎映画祭」とは具体的にどういうことなのだろうか。宮崎国際音楽祭という億単位の金のかかる音楽祭があり、日本一まじめな音楽祭というほめことばは、どうもなじめない。宮崎演劇祭というのはまだつづいているのだろうか。演劇祭には少しは当てはまる。そういうふうに並べてみると、この真面目さというのは、実行委員会が映画祭という行事を、ボランティアでやる活動の真面目さの評価と思われる。チラシ、パンフレット、チケット、ポスター、監督や俳優、映画関係者の登場企画など一連の事務処理に向けられての評価だと思える。つまり会場の設備、管理、来場者への親切なもてなしのこころなどなどの行き届いた活動ぶりが、日本一の真面目さで行われているということだろうと思う。しかし、これはほめことばとして十分だろうか、映画祭の内容には、このほめことばは、その身体の半身にしかあたらない。卵なら、白身の部分だけを褒めているだけだ。白身が日本一といわれているようなものだ。卵はどうなんだ。つまり上演された映画の内容は、その上演作品の全体は、映画祭の理念は、その特色は、現代性は、そして、純粋性とでもいった哲学は、俗悪からの距離は、とくにカンヌ映画祭と太刀打ちできる視点は、などなどの褒め言葉はどうなんだろうかということだ。

 金曜日にはすっかり天候は落ち着き、午前10時過ぎ、仕事を都合つけて、会場に入った。すでに「忠治旅日記」は定刻10時にはじまり、1927年昭和2年作の映画の白黒の灰色がかったシーンが流れていた。まだ目がなれぬ暗闇のなかで、スクリーンに投射されている忠治旅日記は、まさに別世界の映画に思えた。忠治を演じているのが大河内伝次郎というのも、しばらくは気づけなかったほどだった。まさか無声映画とは思わなかったとは、うかつであった。カラーで立体音響、コンピュータ処理された3次元画像を、映画でもテレビでもパソコンのモニターでも日常何十年も見続けていたのだから、映画がサイレントなのであるという発想もいつのまにか忘れてしまっていたのだ。調べてみると、日本映画のトーキーは1930年ごろに始まったとある。それ以前は無声映画時代であったのだ。

 ここまで古い邦画を、映画館で見たのは、初めてではなかったか。テレビではときたま放映されたのを見ることもあったが、おおくは断片もので、まとまって映画作品とみたのは、最初だったと思う。他に記憶は無い。だからこそ映画のなかに、忠治を見るよりも、ほかのものに目をうばられだした。なんといっても、映画のなかの風景である。あとでかんがえてみると、この映画から江戸時代までは、59年過去でしかないのだ。現時点から昭和2年までは、87年である。昭和2年のころは、江戸時代といっても、すぐ近い過去にすぎない。69年前の終戦の年をしのぶよりも近過去である。環境が激変することもなかったころ当時では、、江戸時代そもままという風景であったと思える「忠治旅日記」のスクリーンに目を奪われたのは、生きている江戸時代を見ていると思えるからであったろう。

 ところで、映画としての伊藤大輔の「忠治旅日記」は、ぼくにとっては明快な映画であった。忠治の人間性を描いていると、評されているが、伊藤大輔が描こうとしたのは、忠治の人間性というより、忠治の物語である。それは、時代劇として、これからも繰り返されるアウトローの物語という型である。しかし、ここには華々しい英雄譚はない。強気をくじき、弱きをたすくのアウトローの美学はない。この映画の忠治はじみである。いや地味すぎる。番頭となって身をかくし、笑って人を斬るより、義理と人情に縛られ、持病の中風に苦しみ、やむなく、愛人の待つ国定村に帰ってくる。だが、ここも安全ではなく、密告によって、幕府の役人どもに、最後の砦を襲われ、愛人の介護でささえられながら、捕縛の縄をうけるということで終わる。かくして反逆は、破滅する。これが内容である。昭和2年といえばかってない不景気のどん底、時代は景気回復を狙って戦争に向けられていく。天皇制国家主義を掲げる軍国主義がすべてで、国民の行動は国家権力のまえにすべての批判や反抗は、息の根をとめていった。この時代のまっただなかの映画である。幕府や捕り手とたたかう忠治反逆の姿は、この時代風潮のなかで、どのように受け取られたのだろうか。国家への反逆は無駄だという内容でしかなかったのか。たぶん物語りはそうなっている。しかし、忠治旅日記は、権力に敗北していく反逆する人間の美しさを、あますことなく訴えているわけである。中風とい病が、実は忠治の反逆の情熱と不滅を支えているのだ。つまり、敗北を語りながら忠治の英雄譚は、敗北を超えて生きる構造になっているわけである。


 ただ、今見るせいなのかもしれないが、少数者の国家権力への反逆が直面せざるをえなかった運動面が、忠治旅日記には、公式のように見て取れる。身を地下に潜らせる、忠治の番頭務め、内部分裂という一部子分の犯罪、国定村という自治コミューン、総括討論、東大時計台の封鎖解除を連想させる忠治の砦の崩壊と、60年代、70年代の抵抗運動に共通してみられた闘争の予言のようなシーンがあるのは興味をひかれる。これは伊藤大輔監督のどういう思いから投入されたのであったかどうか、問うべきことなのかもしれないが、ぼくは、それは話の展開でそうなったとしか思えない。それに予言性があったというのが見逃せないということである。

 1957年だったか、キネマ旬報の日本映画代表作の第一位ということだったというが、そのことは、時代の要請にあったわけであろう。50年代は、戦争から平和へ、軍国主義から民主主義へ、その実現へ向けて、権力悪を批判し戦う、まさに考え、行動し、理想の社会への夢を持てる時代であった。忠治の反逆は滅びへの美でなく、建設への希望として受け取れるようになった新しい時代であった。その時代の風潮のなかでは、まさに志を一にする最高の内容を誇れる映画であったわけである。また、くわえれば、このころまでは、まだこの映画にまさるような映画もなかったというまずしい邦画のレベルでもあったわけであろう。その後、邦画は、90年代以降、豊かになったものだ、ぼくには、今、この忠治映画がどこからみても映画として傑作などとは思えぬのだが。時代の風を映す映画としては、見るべき価値があることは、確かである。
 
 

 
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宮崎市赤江大橋 夜の視界

2014-06-11 | Weblog
 宮崎市大淀川の赤江大橋を夜、ときどき歩くようになって三年を迎えるようになった。500メートルはゆうにあるメカニックな橋の夜はただ暗く、川はくろぐろとして物音ひとつなく、気分がめいるのであった。それと、予想もしなった男女が、運動のため早足でぐいぐいと歩いているのをみると、気おされ、ぼくは新参者として場違いのことをしているという疎外感をおぼえるのであった。こちらとしてはただ、ひどい眼精疲労を癒すためにこの闇が必要だと、自分に語りかけるような始末であったのだ。ところが、2年前の11月に白内障の手術をやって、その四日目に左右の目から眼帯がとれ、その夜見た橋からの眺めに衝撃的な快感を受けたのであった。そのことについてはこのブログにも記したので、もはやくりかえさないけれど、手術前には闇と灯りしかなかった橋上からの風景は、想像を絶したこまごまとした、それぞれの要素に過剰なまでに満ちているという驚きであった。鉄橋を過ぎる列車の窓もみえ、700メートルさきの小戸橋をながれる自動車の車体も見え、点でしかなかった無数の灯りにそれぞれのビルがあり、それがかさなり濃淡のうねりとなっていた。どす黒いだけの川岸が、運動広場と草地にわけられ、川面の月明かりに揺れる起伏も見られた。それらは見飽きぬシーンの連続であった。この日から、赤江大橋の夜の視界は、飽きぬものとなっていったのだ。

 この間に見たいろんなものがあったが、UFOならずだが、不思議なものも見たので、その数例を述べてみたい。
 
 それにしても都市的という点では、赤江大橋からの風景は、バンコク市のチャオプラヤー川の沿岸、川面上の無数の大小の船舶往来の光景とくらべると寂しさきわまりないのであるが、(比べるほうが可笑しいかも、ただ、日本中の川も大淀川とな似たようなもの・・寂寞・)それだけに夜にみる都市的な要素には、胸のときめきを覚えるのだ。そのひとつに橋から南一キロあたりに遠望できる街の賑わいがあった。照明看板が赤や青で闇に照り映え、大小の商業ビルが見え、乗用車が点のようにすぎていく。街路の灯りをうけたレンガ色の壁面のビルも夜の街を活気づけているようにみえる。その街角のにぎわいが、橋上を一人歩くぼくに、郷愁のような懐かしささえ、あたえてくれすのであった。やがて街角にかけつけてみたくなる気持ちがおおきくなってきた。そして、その方向を目指して夜の暗闇をあるきつづけていくと、そんなにぎわいの街路はどこにも見当たらなかったのである。何回かやってみたが、みつからず、その街路は消滅するのであった。それはUFOなのか、なぜ消えるのか、そのわけは?ここで、もうひとつ不可解な光景をも報告しておこう。

 一年ほどまえに、700メートルほど上流にかかった小戸橋が、老朽化のため通行禁止になり撤去されることとなった。現在ではその3分の1ほどになっている。夜には、その橋の欄干の上に黄色、赤、かすかに緑のランプが隙間なく並んでまるでネオンサインのように輝くのだ。何百メートル3色の電飾は、ちょうちん行列を思わせるのである。このちょうちん行列は、橋を歩いていくと、半ばほど行ったところで、とつぜん目にはいってくるのである。いったん橋を渡りきり、その南端で振り返ると、小戸橋全体をおおうので、インパクトのある光景となってうわーと声をあげてしまうほどである。しかし、北端へ向かって、ひっかえしはじめると、灯りはつぎつぎと消え始め、真ん中くらいまで来るとちょうちんはぜんぶ消えて闇にかえってしまうのであった。どうして消えるのか、理由はなに。諸兄姉はどうかんがえられたか、知りたいところである。以上、二つの視界に起きたなぞについて、説明をしてみよう。

 まずは消えた街角についてである。消えたのではなくて、探し出す方向や距離を間違ったからではないかと思われるが、ぼくもそうかもしれないと思って何度かコンパスまで使いながら探してみたが、やっぱり消えてしまっていたのだ。何回かやっているうちに、原因がわかってきた。灯りの正体に気づきだしたためである。街角に見えた照明は、同じ場所に集まっていなかったのである。セブン・イレブンの照明看板の白色の照明、ファミリーマートの緑色の看板の照明が、じつは重なってみえたのだ。そこに、ダイソウの商業ビルのレンガ色の壁面が照明をうけて光っているのや、その交差店のシグナル、その他の看板があり、陸橋を往来する自動のサーチライトが動いていた。その照明の一つ一つの場所は、数百メートル離れた別々の場所にあったのだ。夜の闇は、その空間をいわゆる闇に埋めてしまったため、同じ場所に集まって光る照明としか感知されなかったのだ。徒歩で、あるいは自転車でその場を訪ねていく道路沿いにすでに2キロにわたって点々と散在している淋しげな照明看板があっただけである。街角などどこにもなかったのである。

 次に小戸橋の場合、はじめはある時間で消灯されるからだと軽く考えていた。現実に赤江大橋も午後10時になると、欄干の照明は消される。たぶん9時ころには半分だけが消される日もあるように思える。とにかく、消灯時間があるわけで、同じく小戸橋もそうだと勘違いした。だがそれはすぐに誤りとわかった、歩くに連れて、順番に消えていくのだから、消灯時間で操作されるのではない。となると、橋撤去のためのクレーンかなにかの遮蔽物があり、歩くにつれて、それが照明をみえなくするのだろうと思えた。しかし取り壊し中の橋といえ、工事用のクレーンその他の機械を、昼間みたことはない。まさか夜だけでてくるわけでもなさそうだ。ではなんなのだ。これはどうかんがえてもわからず、ついに回答と探しに、現場に行ってみることにした。しかし、午後10時過ぎに、今は草ぼうぼうとなってしまった堤防を歩くのは、不安であった。そこで、土手沿いの道路を歩くことにした。こうして、小戸橋のたもとにたどり着いた。道路から危険防止のためか、橋のそばには近づけないように柵がしてあった。だが、そこからわかったのは、まず、思ったとおり欄干の着色灯をさえぎる工事関係の遮蔽物は橋のまわりには、何にもなかったとうことだった。ではなぜ、ふたたび疑問が深まってきた。
















 



 

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未知座小劇場宮崎市公演「井筒」を終わって

2014-05-17 | Weblog

 いよいよ公演当日が来た。観客席(50席)を定刻までに埋め尽くし、入り口の外まであふれ出した観客は、その各人の期待を満足させれくれるのだろうか。物語もなく葛藤もなく、意味を知る手がかりもない。この舞台に何をみるのだろうか、チラシの作・演出の河野明代表のエッセイと、脚本を読んだ段階で、不安はぬぐえなかった。よくわからないけど、おもしろいはずという期待だけを予想して、開幕をまっていただけであった。そして緊張の一時間半がおわったとき、舞台は鳴り止まぬ拍手につつまれ、涙を流す人々もあり、実行委員の三木ちゃんはあたりかまわす啜り上げる大泣きをとめどなくつづけていった。
 
 「井筒」はこのように成功して終わった。ただ、観客の多くが、このように舞台を受容したという事実だけをまず報告しておきたい。以下ぼくがのべることは、「井筒」のぼくなりの解釈を感動の一つに付け加えさせてもらいたいという試みである。

 脚本の段階と、実際の舞台(演劇)は、まったく違っていた。これは当たり前といえば当たりまであるが、演じるということを、想像できなかったのだ。物語の脚本ともテント劇のサーカス性とも違っていた。井筒という謡曲に拠ったという説明を忘れていたし、能の舞台などとは関係ない、大阪物語は、大阪に暮す三人の女のある日常の描写だと思っていたのだだ。だが、日常の動作、つまり生活臭も会話も取り除かれていたのだ。その点では謡曲に沿っている。しかし、堅苦しいものではなくて、あちこちに秀抜な滑稽さが込められてはいる。いやベースとして、この笑いが、全体をすすめている駆動力になっている。ここは、この脚本の魅力でもあるのだが・・。たとえば、以下のシーン。

女B あたしたちがこうしてスリーウエイ・ハンドシェイクしていますと、つい考えしまうのです。   こうして手を繋いだのはいつの頃だったのかと。
女A 十八のころでした。
女C いつの十八ですか?
女A はい?
女C 何を見ていますか?
女A 意味判んないですけど
女C つまり,昨日の十八ですか、それとも十年前にみた十八、まさかの二十年前の記憶を手繰り寄   せた十八。
女A なんですって!結構息荒くなってしまうんえすけど。

女Bは西シャン(西行)(打上花火)が、ヒロイン女A(たかはしみちこ)もはや中年になった今を問うわけだが、よこから初老となった井筒の持ち主の女(曼珠紗華)が横槍をいれて何年前の十八かと幻想をぶちこわしていく展開で、西行の出家した心境とあわせ、抱腹絶倒のシーンも可能となる。しかし、老いるという現実として喜劇性は、かくされてしまう。このシーンは笑うべきシーンなのか、考えるシーンなのか、定かでないが、どちらをえらぼうと観客次第であったろう。

 台詞はシーンの日常性、具体性などを気にもかけず、疾走してながる。アジール(居場所、逃げ込める場所)やアントルシャ・ディース(バレーで空中で両足を打ち合わせる舞踏形)プロトコル(デジタル通信規則)などなどの言葉が現れ、流れていく。言葉は、井戸の水面の月のように砕け散り輝いている。意味など探るヒマなどないわけである。驚かされたのは、台詞の限界を超えた早さ、その明晰さ、そして台詞を虹のようにふりまきつづける彼女らの大地か彫像のように安定した土台、底から言葉があふれ出し、きらめいていくわけだ。おそらく、観客のほとんどは、女優の台詞の迫力に美を感じて、自分の感情を吸引されていったと思える。そのプロセスこど井筒の内容であったのだ。ではその内容とはなんなのか。
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宮崎県立図書館国会図書館デジタル書籍公開

2014-04-28 | Weblog
 数日前の毎日新聞に大きく42万冊の国会図書館デジタル書籍を閲覧可能という見出しをみて、やったあと思った。だがたちまちぬか喜びでしかなかったのを知った。やはりデジタル書籍、電子書籍ともいわれるが、そうそう簡単に読むことはできないのを、あらためて痛感させられただけであった。

 せっかく、デジタル化された本は、自分のパソコンやスマホ、タブレットで読めないのだ。県立図書館まで、出かけていっていわゆる閲覧させてもらうしかないのである。デジタル化された本ならデジタル情報として、インターンネットで検索し、その場で読めると思ったのだ。国会図書館は
 「 明治以降に刊行された図書・雑誌のうち、インターネットで閲覧可能なデジタル化資料を公開しています。」
 と、「近代デジタルライブラリー」のサイトに麗々しく宣言されている。この近代デジタルライブラリーを渉猟していけば、おおくの参考資料に出会えるし、もはや閲覧不能とおもえたアナトールフランスの評論集や、明治初期の貧民窟のかずかずの探訪記や、当時の性関係本や初期のマルクス関係の翻訳などなどと、目をむくような本にも出合えていける。だが、わすれてならないのは、この検索、読書は、自分のパソコンで時間無制限で、渉猟可能ということなのである。だから「閲覧可能なデジタル化資料」といわれてよろこんだのは、当然であった。だが、宣言でいうインターネットはインターネットでも、国会図書館のインターネットを利用してということなのだ。何十万冊のデジタル資料があるのだが、自分の書斎で、ゆうゆうとみれれるのでなくて、国会図書館のパソコンでしかみられない仕組みになっているのだ。この本は来館での閲覧のみとある。ふざけるなとは、このことであろう。むかつくとはこのことである。この仕組みを、宮崎県立図書館のパソコンまで連結したというのが、42万冊国会図書館デジタル書籍閲覧可能ということなのである。県立図書館が望んだのか国会図書館が配信を可能としたのか、どっちもどっちで利用者のことを真剣にはかんがえていないのではないかと、慨嘆する。

 記事を読んだ朝、早速、県立の担当係りに電話して、いろいろ聞いてみた。思ったとおり、デジタル資料は、映像資料であると県立の担当者から教えてもらえた。原本のページが表紙から、目次、まえがき、奥付まで、各ページ一枚一枚、コピーされて映像化されたものであった。写真で撮影された用に映像となって読めるようになっている。慣れないうちは、汚れていたり、画像だから、読むときに不安定である。ページが薄汚れて、読みにくい。読みにくいページは、拡大してみたり、縮小してみたりして、ページをきれいに写してみる必要がいる。そんなことをくりかえすことは、どうも不快感となる。よほど必要にせまられるか、好奇心がなければ読み続けられるものではない。各ページの映像の明晰さへの調子やめくる技術などもいる。その前に、なにより検索がかなりややこしい。つまり、開架書架の本をぱっと選んでさっと読み始めるようなわけにはいかないのだ。聞けば、閲覧用のパソコンは2台用意されているという。ぼくはすぐにそれじゃ足りないのではと、聞くと、あっさりええそれですから、一人2時間に限定されていますというのであった。実際にこの時間はなにを基準にきめられたのだろうか。褐色に変色しているであろう明治期の本をのページ画像を、読もうとすると生の本を読むよりも時間がかかる。大蔵経で、南無妙法蓮華経を読もうとする場合などを思うと、まず検索に時間がかかろう。この漢文訳の文章を映像にしているページは、パソコンの処理能力が高いものでなければ読むにたえられる画像にならないであろう。

 国会図書館でのみ読めるというデジタル本を、宮崎から国会図書館まで行って読むものがいるのだろうか。おなじように宮崎県立図書館に都城市や日南市からわざわざ出かけて、2時間の限定時間で、デジタル本を検索し、読むヒマ人などがいるとはおもえない。ぼくの住居から自転車で20分でいけるが、自動車でも信号機の多さ、駐車の手間をいれると、自転車よりも時間がかかる場合がある。そんなことをしてデジタル本を読みに行けない。つまりこうして、ぼくにとっては、これこどなんの役にも立たないデジタル本のインターネット公開であるのだ。なぜこんなばかなことが公開されるのか、改めて確認できるのは、あのイスラエルの壁に似た強固なる著作権という壁が立ちはだかっているのだ。デジタル本のインターネット公開となると、ページや編集、装丁にまで著作権が発生して、複雑怪奇な権利関係がからみあってくるという。まるで、太平洋にあるサルガッソという浮遊物の広大なゴミの中を航海していくような阻害物に取り巻かれるように思える。これをぶち破るには、書店の抜本的な改革がいる。図書館と書店の関係の国家的コーディネイトがいるでろう。そのうえで、著作権の破壊が必要なのかもしれない。
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書店・出版社の未来はあるのか 書籍形態のなぞ

2014-04-13 | Weblog

 PC(スマホやタブレットを含む)で図書館蔵書が読めるようになったら本の電子携帯は、本形態を消滅させるのか、情報入手の手段だけなら本形態は非能率となる。わざわざ本を本形態で読む必要はなくなってくる。本はいつでも、どこでも手のなかのスマホやタブレット、パソコンにあり、読み、クリッピング、情報検索が可能となってくるなら、書店や出版社は本の購入の激減に見舞われて、経営がなりたたなくなるのではないかと、予測されよう。おまけに本嫌いの大学生、若者の数はいっこうに減らない。幸いというか(ぼくにとっては不幸でしかない・・)電子書籍はまだまだ成長途上といわれるが、本・雑誌とも販売金額が本は8年、雑誌は15年連続で減少しているという。先日の大出版社の社長さんは、まちがいなく以前とくらべて執筆者の収入は4分の1ほどに減っているはずと話していた。今や4分の1の収入で、ライターが食べていけるのかどうかは分からなかったが、どうなんだろう。収入金額が減る限り、執筆料を減らすのは当たり前のことで、この減額の限界に至るまで、経営はつづけられるのだろうか。その路線が、未来路線としてつづくならば、滝つぼに向かってながされる筏だ。どうして、なにもしないまま筏に乗ったままなのかと、傍からみるとまさに絶望的光景である。その日常は、40パーセントが売れずに返品されてくる本を、つぎつぎから出版していかねばならぬ経営から降りられない。コンビニで40パーセントは確実に売れ残るにぎりめしを、わかっていながらも、ひたすらにぎりつづける製造ラインが止められない。それをみつづけねばならぬ工場長、経営者、確実に迫りくる滝壺への予感をまえにして、気分はどうなんだろうかと思うのだ。そこに、高揚感があるはずはなく、頭も心臓も生きるために動かないだろう。

 では本屋さんはどうだろうか、毎日配本されてくる本を受け入れ、おそらく短期間で、40パーセントは売れのこった本と新着本を入れ替えなければならい。だがいいことには、この返品が可能だからこそ新品がなだれ込んでくる。本の墓場であるといわれる公共図書館の書庫よりも、書店には生命感にあふれるのである。さらにおもしろいのは、本屋さんの商品である本形態が、店を特殊化していることも見落とせない。電気店のシロモノ家電商品たち、テレビ、冷蔵庫、洗濯機、LED照明、掃除機、炊飯器などなど、その電気商品が並ぶ店内と、書店の書架に並ぶ本、雑誌の光景は違う。それはまた衣料品店、ユニクロ、ますみや、繁華街のブティックとも違う。これら日用品の商品の使用価値は人にひたすら奉仕して満足を提供するべく化粧されて並んでいるが、書籍も雑誌も、なによりも人に奉仕させるのである。人つまり読者を自分の主題の虜にし、こうなるべく意識をねじ向け、努力を強いるのである。そういう内容をもつ本でなければ魅力はないわけである。だから書店に入ったお客は、いささかの緊張を覚え、ぺらぺらと無駄話したり、書店員に行き着けのカフェのウエイトレスに気軽に声をかけるよな軽口をあびせるようなまねはできないのである。書店男子が、知的にみえるのは、店内に溢れる本のオーラにつつまれいるからである。それゆえに、書店男子は、オーラだけでなく自分自身が知的であることが望ましく,いや義務であり、書店の経営方針としては、男子も女子も、より書店員の知的雰囲気を、知性を客に感じさせる演出がいる。これは現在であろうと、これから滅びいくと予測される未来であろうと、かわってはならないことである。つまりこのことは、書店の文化なのである。そこで、書店、そこに本を供給できる出版社の存続とは、金が入るか入らないかのレベルから、本形態の文化を消滅させていいのかどうかの視点として問題にする必要があるわけである。

 ある日、街角にあった本屋さんがつぶれて、やがてセブン・イレブンに代わったり、場末に何十年も店をひらいてきた古本屋さんが閉店の挨拶を、引き戸のガラス窓にはったり、駅前の老舗の本屋さん、夫婦で専門書を経営してきた小さな本屋さん、絵本の福音をつたえてきた専門店と、つぎつぎと消えていった本屋さんの文化は、スマホにある電子書籍の膨大な情報とは、別の世界であり、その文化を電子書籍では再現できない。小さな書店は、経営上、書籍が売れない時代、つぶれるほかはなかったのだが、大型店舗の書店蔦屋が、不読書病に抵抗できる免疫力をもっているように、生存している。宮崎蔦屋店では、店内の本が自由に読むことができるように、テーブル席や立派なソファのそろったコーナーも設けられている。これで本の売れ行きが減ったということではないようだ。実際、この席をぼくも利用することが多いが、ここに座る時間は、あまり無いのだ。考えてみると、そんな時間は普通のサラリーマンでも学生ですら、そうは無いであろう。本の売れ行きが経営を押し下げるほど、無料で、店内の本を読みつづけることは、実は困難なのである。本の売れ行きが減るよりも、むしろ来客は増えるはずである。この広い店は、タリーズコフィーと隣接し、ここのコーヒーをテーブルで呑むこともできる。もっともなぜかここまでする人はみあことはないが。飲食については、このすぐ下の地価に、ラディッシュというレストランが、軽食から本格的レストランまで、架空の街のように設計している。そのまた下、地下2階は、スポーツジムで温泉と岩盤浴を併設している。書店の位置は、昔の街角の書店とトートロジー(同じ様相)を実現している。まさに街角の書店を実現している。書店経営の多様化で、書籍形態販売金額の不振をカバーしていってるわけだ。将来もこうした経営の変容によって対応していける可能性は望めるはず、その変容は、まだまだ想像を超えたものになっていくであろう。本の書籍形態が、電子書籍化で、出版が減ってくれば、商品としては、書籍形態は、希少価値となり、需要も定着していくはずである。年間7万点という出版は、果たして、必要なことかも再考されねばならない。一日あたり、200点もの新刊本を誰が読むのかだろう。もっと出版を減らしても、いいのではないかと思える。現にニューヨークでは、本形態のデジタル化がすすむにつれて、小規模の多くの出版社が成功しているという。

  本書籍形態と電子形態は、読書の方法も一新させ、ここから未来型の本・雑誌の可能性が
生まれてくることは、まちがいない。その方向に向かうことしか道はない。滝つぼへ流されていく筏が脱出ことであろう。それは書籍形態という本のあり方の見直しではないだろうか。さらにもうひとつ大事なことは、ここで公共図書館の書店とは、本質的にことなった役割があるのだが、この役割は、本の販売を邪魔するのではなくむしろ支援することになるのだが、この
ことについては、別の機会にのべることにしよう。
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本屋大賞の本形態 その不安

2014-04-12 | Weblog
今年の本屋大賞は、「海賊の娘」で昨年は「海賊とよばれた男」であった。どちらも物語であり、海賊、海賊、娘、男とタイトルは類似している。これは単なる偶然だろうか。この2種類の本が読者にあたえるものは、海賊のもつイメージであり、それが一方は娘、一方は男に冠せられている。そこにあるのは、生き難い世界への反逆と冒険、そして、財宝奪取の至福である。それを決行するのが、娘という抑圧された女性、仕事に疎外される男たちである。この本を読むものはこの娘や男の人生を自分と重ね合わせて、この生き難き人生に勝利感をえられるということになる。つまり野球やテレビのエンターテイメントとおなじく、ストレス解消となり、元気をもらえる。この本を読めば、つまり消費すれば、読むものを満足させてくれると、書店員さんたちは、書店の日常勤務から、しるようになってきた。これが、本のベテラン、正確にいえば商品としての本を知るベテランということになる。そのとおり、かれらの選択した本商品は、みごとにベストセラーとなるのだ。書店全体の売り上げ効果にもおおいに寄与しているのである。まさに結構なことである。この本はいちばん読んでもらいたい本でなく、いちばん売りたい本という目的は、実に見事な表現である。それは文化財としての本でなく、商品としての本という視点を、はっきりと主張している。他方、本のベテランといっていい、図書館員にとっては、どうか、公共図書館であるを、かぎり、本の推薦はやるべきではない。本はすべて平等であり、一冊、一冊の本としてとらえるよりも本という集積した文化財の機能を担うものとして、捉えられる。一冊を抜き取るのは、利用者である。その一冊を図書館でみつけられて、借受が可能かどうかが、問題なのである。これが、可能でなければ書店で本が売れなくて潰れるとおなじく、図書館は存在の意味を失う。

 図書館が利用者が欲求する本の貸し出しにすべて答えられるには、蔵書は多ければ多いほどいいわけだが、人口数万の地方都市で100万冊の本を備える図書館などありえない。これは英国でもそうである。だから理論的には、図書館の相互貸借のネットワークをもつことだが、それは具体的には、ほぼ実現不可能である。それぞれの図書館の館の事情がぜんぶちがってるわけで、ややこしいし、やっても時間がかかりすぎるし、利用者にとって一度借りただけでへきえきするはずである。図書館は「館」という建物でなくて、貸し出し機能が可能になる同じシステムである、ライブラリー・システム(英国では、公共図書館ハライブラリシステムということばで論じられる)でなければならない。書店は書店でつながるのだが、図書館は図書館でつながらないのである。これは案外、利用者にきづかれていない。だが、今、このシステム化が、努力もなしに可能になりつつあるのだ。それが本の電子化である。それと、各館が電子目録を持つようになって、インターネットを使用して何処の館の目録も検索可能になってきた。だから、手じかの図書館に本をみつけて、相互貸借を早めることはできだしている。宮崎県内でも公共図書館、大学図書館の横断検索ができるようになり、インターネットで所在の本を探すことがたやすくできるようになってきた。そこで、あらゆる本の電子書籍化ができたら、この問題は解決する。本形態が紙の本から、信号形態になるわけである。

 そこでもういちど大出版社の問題をふりかえってみよう。ベスト・セラーの本を買うのを少し待ってほしい。商売の邪魔をしないでほしいという切実な要望である。ぼくはそれに同情するのだが、本の電子化では、待てるのかということになる。それは、絶対にできない。本の電子化を待つことはもはや不可能なことになってもいるのだ。欧米、世界各国が電子書籍化をするめる時代に日本だけ、著作権やなにやと、それをとめることは不可能である。

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「文化ストリート」 パーフォマンスに期待

2014-04-07 | Weblog
パーフォマンスは、このボディタッチのほかにも、ゴミを全身に貼り付けたりとか、テープで拘束されたりとか、身体を使うもの、縫いぐるみと戯れたりとつづていった。その間、観客は、ただみじろぎもせずに、ものも言わず、笑いもせず、入れ替わるパーフォマーをみつづけていた。10人目は宮崎マンゴーとか、焼酎とか、食べたーい、飲みたーいと、叫ぶアジアの何処かの国の男性のパーフォマンスに笑いが起きたが、全体にほぼ沈黙の1時間半が、うすぼんやりの廃墟空間に流れていった。観客は、50人くらいのほぼ若者たち、身じろぎもしない、沈黙のの集中力に、ぼくはどろかされた。出演者たちは、この観客に感謝すべきであったろう。

 一夜の上演は、間違いなく成立し、無事に終わったと思った。宮崎日日新聞にも、写真入り三段ぬきの好意的批評が、ただちに掲載されたのである。ぼくは、なによりも、文化ストリートの廃墟が、このようにして活用され、これを可能にした若者たちの表現活動に、やっと宮崎の文化の変わり目が滲み出てきそうな、感じを受けたのであった。

 これを機会に、宮崎市独自のパーフォマンス上演を続けてもらいたいのだが、その実現のために、今回気づいたことを、述べさせてもらいたい。それはなによりも、出演者と観客になにが生じるかの問題である。宮崎の出演者、代表で企画者の成合早織以下、6名がそれぞれのパーフォマンスを製作したわけだ。そして生産品ができた。他方、生産品を買う若者たちがあり、かれらは生産品を消費する。この生産と消費の二つの行為は、まったく別のコースだ。しかし、生産品は、消費者の欲望を満たすしか、存在の意味はない。この関係が、製作者にとって一番むつかしいことであろう。ぼくは、なんどか創作料理の会にて、料理を食べることがあった。そこで、シェフが、この野菜は何処の採れ、この肉は誰の農場、このスープは、一晩かかった旨み、などなどと、その採集の過程、料理の特殊な難しい調理法とかが、本人の口から説明され、その口調は、彼の努力とお客にだす料理への配慮が、語られる。だが、口にすると、コンビニのにぎりめしのほうが、まだいいと思うことが多々あった。このように製作者の思いと、ぼくの消費が、完全にすれちがうとき、料理の意味は消し飛んでしまうのである。それはぼくだけの話であろうか。プロの調理人でさへそうだが、まして生産品の売買に関係がゆるい自主製作者のアマチュアでは、このようなミスマッチが、かなり生じる。この現実は、、鋭く製作者が自覚して行動すること、つまり批評意識が、必要である。このミスマッチを指摘する峻烈過酷な批評はありえないのだからである。ここ宮崎市ではなおさら、それはメこの宮崎市のメディアの批評を分析すればたちまちわかるというものである。それはもちろん東京でもであるから。日本そのものの体質、お・も・て・な・しの暖かい気持ちがもたらすものである。
 
 つぎに、見せるとはなにか。観客が現れ、ステージができたら、その間には、目に見えない一本の線が出現する。観客は、線の先は、ステージ、同じ文化ストリートの穴の地面であっても、そこの場所は、穴ではなくて、見られる空間に変わったのである。そこには、もう日常はないのだ。そこでは、すべての動きは、みられるために在るといえる。こちらでは、水を呑む生理的欲求を、向こうでは、ただ見せる好意が本質、意味なのである。だからあらゆる動きは、見せるために意識的にコントロールされてなければならない。すべてが、行為の具体的目標を捨てて、見られることに結実している人間行動は、われわれは、日頃いろいろ見てきている。バナナの叩き売り、チンドンやさんの歩き、演歌歌手の手の動き、無数にその事例を思い出すことができよう。ステージの動きが見られることだけが本質であるということは、殺人行為を見れば明白である。ステージでは、みられることだけだから、迫真の「殺人」が可能なのである。この行動だけでなく、ステージでは片手の取れた人形でさへ、見るものに意味を発生する。ごみ袋に入れられた紙クスも意味を持つ。片手の無い人形にライトが当たると、そのイメージが、あたかも発音のように感じられ、それと結びついた概念となる。つまり言語と変わる。紙クスもまたそうである。このようにステージは、品物たちは、言語となる。まして人の動きは、言語となって意味、概念を発するのである。このような言語が、表現しつづてけて時間が流れていく。だから、そこに無駄、意味不明、文の乱れ、単語のあいまいさ、それは線のこちらがわの日常の動きを、そのまま舞台に乗せてしまったときに発生する。そこには、混乱と退屈しかみいだせない。そこには、日常の生活的人間の退屈な飽き飽きした姿をみるだけとなるのだ。それと比べると、猫や犬の動きのなんと魅力をたたえていることだろうか。それは、かれらにややこしい日常が、概念がないからだろう。生きるという純粋な本能だけが、体の動きつくっているからであろう。動きからいえば、人間ははるかに犬・猫に劣る下等動物である。人間を檻に入れて、外から見るシーンを想像するなら、このことはただちに理解できるはずである。日常の暮らしは、それほど人間を動物以下にしてしまっているのだ。パーフォマンスは、そこから脱皮できる可能性をあたえてくれるといえないだろうか。アイデアも必要だが、その前に、いかに日常の身体動作を克服し、批判し、否定し、再生するかが、決定的に必須な訓練になるはずである。このプロセス、その技術が、パーフォマンスになろう。

 まだまだ、宮崎市の出演者たちは、パーフォマンスを始めたばかりであろうと思う。どうか持続して、人間離れした存在として、ステージに出現してもらいたい、持続すれば、かならずそうなるのはまちがいないと、ぼくは、思う次第である。
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路地マーケット「文化ストリー」劇場へ

2014-04-05 | Weblog
文化ストリート」で演劇公演と、聞いても、驚きも意外性も感じず、ああやっぱり起きたかという感じしかなかった。ここで、演劇をとは20年も前に提案し、10年前にも試みたが実現できなかったのだから、遂にやったかという感じがするはずだったが、まったくなく、ごく当たり前として、この若者の公演の知らせを受け取ったのであった。なぜそのことを当然として
受け取ったのかと思うと、テント劇の受け入れを20年ほどやっているういちに、廃墟などは、最適の劇場になりうると体験できていたせいである。文化ストリートの演劇公演は、ごく当たり前のこととして受け取れたからであった。

 数年ぶりに路地の入り込んでいくと、きれいさっぱり店は消滅していた。文字通り、柱と天井だけが残った店が、中心部に死火山の噴火口のように穴をなしていた。そこから、4方向に
錆びた鎧戸をのこした店が、暗い通路となっている。どういうわけか、古い看板があちこちで傾いて店に張り付いている。おそらく昭和30年、40年初期のころのデザインで、そのヘタウマな看板字、その配置、なによりも錆びた色彩、この看板をとりまく柱、破れたビニールの室内などに囲まれ、美術品となっている。このあちこちの看板どもは、店主から、取り外す余力もなく取り捨てられたものであろう。ぼくは、ふと、ここで、イヴァ・カッシディの「枯葉」でも聞いたら、目の前の宮崎市アートセンターで聞くよりも、本質的、想像を刺激される音楽を楽しみうるのではなかろうかと、想像するのであった。文化ストリートの入り口には、かって
の繁栄をした店名一覧が掲げられているが、37店舗ある。現在残っているのは、婦人服仕立の
「たなか」とその前の野菜屋さんだけである。

 ただ、こうした廃墟にふたたび、店が開かれている。古着店「Taffee」とキッチンバーという「VIVA LA VIDA」(18:00-24:00)の2店が目を射た。古着店のオーナー久米孝之さんは、ここでのイベント、演劇やフリマ、先週のパーフォマンスなどにも関わってきたということで、
話ができたのだが、ここ2年くらいから若者の企業や街づくり、それにかかわる文化イベントへの関心が注がれ始めているということであった。この廃墟という環境の美、街から失われた手触り感などが見直されだしたというのであった。その意識には、豊かさの意識の否定による豊かさへの問い直しという時代の趨勢を感じさせられるのであった。さて、このいささか社会学的な現状認識については、別項にゆずるとして、まず、ここで実現された文化イベントの一つパーフォマンス・アート」について語ってみたい。

 「第17回ニパフ・アジア・パーフォマンス・アート連続展」(主催日本国際パーフォマンス・アート・フェスティバル<ニパフ>代表:霜田誠二)というのがそれであった。アジア各国から女性4人、男性5人が出演、日本からは、東京から男性2名、女性4名、そして宮崎から男性4名、女性3名が出演している。総勢22名を11名づつ二夜に分けての出演であった。その前後にアーティスト・トークと野外パーフォマンスと、3月14日から17日まで4日間の公演であった。
つまり祭典といってもいいような大掛かりなイベントであったわけである。ぼくが観たのは、
二日にわけられた初日のパーフォマーの上演でけであった。

 活動を終えた文化ストリートの火の消えた10メートル四方の穴(噴火口)は、観客と出演者で埋まってしまった。その観客の目の前、同じ地面で一人10分のパーフォマンスを演じていったのだ。スマホで軍歌をと依頼して、そのかすれた軍歌の伴奏?で、ぼくの両脇にいた連れの女性も男性もかれと短いダンスを演じた。奇妙な崩壊した社交ダンスが面白かった。スマホでの軍歌の伴奏というのがいい。なにも伝わってこず、妙に空ろで、芝居じみているのがいい。おまけに誘うのはベトナムの男性であった。かれがホモ風になるのが君悪くそれがいい。ついで顔一面をガーゼで多い、目の周りと、口だけ空けた包帯顔で、こんな要求をして申し訳ないがと、英語やたどたどしくかんじられうの日本語で、私とキッスをしてくださいと、東京からの女性k.a.n.a.(1987年生)彼女のキスは冷やりとした。なぜガーゼなのか、どうも彼女の説明によると、失礼せぬようにという配慮らしかった。ぼくにとっては、義理チョコよりもうわべのキスをゆるされたような感じであった、失礼などころか、だまされた感じであった。黒い肌着姿を、白い包帯でぐるぐる巻きあげるのに時間をかけ、ついに終わると、いきなり正面のぼくのまえに立って一本の筆ペンをさしだして、その体に描けと言うのであった。とっさにその盛り上がった乳房がある部分に乳首を描こうとしたが、人の顔を描いてしまった。これじゃだめだ。ぼくもパーフォマンスをやるなら、本心をぶちあげなくてはと、その瞬間にきづかされるのであった。かくして夜はふけていった。


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橋下維新の会共同代表のそれぞれの思い

2013-05-18 | Weblog
 慰安婦は、日本軍隊にとって必要であったという発言について、かれの弁明が民間テレビ番組出演や、今朝の毎日新聞でアメリカの高官の批判への彼自身の反論が掲載されている。橋下代表は、「それぞれの思い」を述べて何が悪いとも言っていた。ぼくもブログのサブタイトルを「それぞれ草」と替えたばかりに、かれの言い草と同じになってしまった。それぞれの思いとは、彼がやっている発言と行動とは、まったく別のことである。つまり、かれは思いを述べるのでは、屁理屈をこねているに過ぎないからだ。理屈で、だれでも屈服できるという意識は、思いとは、別た。

 今朝の新聞では、アメリカの高官の批判にたいして、アメリカもやっているではないか、ぼくを批判するのはアンファエアだと反発しているのだ。スピード違反でつかまった違反者が、だれもかれも60きり以上で走っているのに、おれだけをとっ捕まえるとはなんだと嘯くのと、同じ意識ではないか。

 どこの軍隊でも慰安婦で、兵士の性衝動を解消し、興奮状態を抑えて、軍隊の秩序が保たれるのであるという事実をかれは言っているのだという。ではどこの国も占領地で、そこの住民を慰安婦としているのか、なぜ本国から十分な慰安婦を募集して供給しなかったのか。軍のシステムを保持する立派な仕事に同胞の女性を奉仕させるのを、なぜやってないのか。その仕事は、必要悪であり、卑しむべき性奉仕だからであるからだ。だれもそんな奉仕に励む女性などいるはずはないのだ。

 かれは、女性差別ではなく、ある時点の事実をのべただけであると言う。その事実は、軍システムの保持に必要であったという。つまり女性をかかる仕事に追い込んだ事実にたいして、なんの嫌悪も罪悪感もなく、その行動は、世界中のどこの国でもやる、まったく当たり前の行動であったというのだ。そのこと、その事実を、正等とみなしたことに、
だれでも、その意識のおかしさ、痛さ、苦々しさに気分を害しているのだ。それが、問題の本質である。

 理屈だけで、右を左と相手を屈服させようと、のべまくることが、「それぞれの思い」と主張するとは、論理がすべてであるというかれの根底にあるかんがえを示しているのではないか。論理と論理の戦いに勝てるという自信を、覗かせている彼の意識がある。しかし、そんな論理は駆使すれば駆使するほど、大衆の嫌悪感は、とくに日本国民の感性は
嫌悪感を深めていくのではなかろうか。橋下維新の会共同代表は、理屈をこねればこねるほど墓穴を掘っている状況に
もっと気づかなければ、維新の会そのものの崩壊につながるであろうと思う。

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愛犬チップの死

2013-05-15 | Weblog
 今日2013年5月15日からブログサブタイトルを「収蔵庫編」から「それぞれ草」と改変し、半年ぶりに再開する。前回の白内障手術後からいろいろ起きたが、目の調子はもう長時間の酷使は不可能になってしまったことに覚悟をきめたということだ。これからは、目はいっそう経済的に使わなければならなくなった。あらためて、人生は異次元の相に入ったということができよう。

 新年度1月29日に愛犬チップが14才で命を終えた。元旦明けの4日、散歩の終わりに突然、道路で倒れて意識不明になり、その夜は次男一家もやってきて、小学6年生の孫が泣き崩れだした。死ぬ目に会えなかった不遇を嘆くのであった。ところが、チップは朝になったとき、ごそっと起き出て、歩いていたのだ。そして水を呑み、わずかであったが、ドッグフードも口にした。おお、なんということ、死んだと思ったのが、蘇生した。そこで、これまでにない愛しさで、チップを抱えて喜んだのだ。孫にもすぐにニューズを知らせて、よろこびを分け合ったのだった。だが、その日を最後にふたたび食べ物を口にしなくなった。それでも、生きていてくれるだけで喜びとなり、癒しとなったのである。
 
 おりから、ぼくは風邪を引き、退職以来23年間、寝込むこともなかったのに、こんどの風邪は、どうにも起きておられずに、布団から出られなかった。体がどだい自由にうごけないのだ。家内が同居しているから、自宅におれるが、いなけりゃ、ただちに病院に隔離されるところと、風邪一本で、日常を失う土壇場人生を生きているのをつくづく自覚できたのであった。幸い自宅で、廊下はサンルームになっているので、午前9時ころからは午後5時半ころまで、太陽を浴びながら、布団にくるまって過ごせるのであった。しかもチップは、すぐ隣にきゃんともすんともいわす、寝ているのであった。日が落ちると、チップもぼくも布団から這い出て、ぼくは家内の用意してくれたえさ、食事を、チップは水を
求めるのであった。

 ふと気づくとチップは水を呑んでいる。その後ろ姿をみるとまるでいつものように、ドッグフードや料理した芋やご飯や、肉などを食べているようにしかみえないのだ。時間をかけ、ゆっくりとあじわうように、水をなんども口に含んでは、まるで噛むかのように頭をもたげ、終わると水に向かうのであった。その仕草は、食事をとる様子となんら変わらぬように思えた。そこで、様子をみて、水に蜂蜜やビタミン剤などを入れて与えたが、ただちに峻拒されて、水のみしか受け付けなかったのである。それはなんどやっても駄目であった。

 やがて3週目に入ろうとしたのだが、毛並みはまだつやがあり、毛並みにおおわれた肉体がやせさらばえた姿にはなってないのだ。触ってみても、背骨がややごつごつした感じのほかは、骨と皮だけという衰弱は、かんじられなかったのだ。日ごろから、まったく泣き声をたて犬種であったので、なおさら病状さへも目立たなかったのである。1月28日の夜更け、チップは、突然きゃんきゃんと泣き声を立てるようになった。べつに苦しい様子でもなく、しばらくすると落ち着くのであった。しかし、かなりの頻度で一晩中つづくので、マッサージなどで落ち着かせるのが大変であった。大小便もまだおしめを必要とせず、一応寝所から部屋の隅で黒い飴のような便を
少量排便するのであった。だから、泣き出したのは、倒れた日の次の日にごそっと起き出たような元気がでてくるのかと思ったのだ。まあ、がんばれよ、チップと、朝ぼくは家をでてクリニックの事務長室に出勤したのだ。昼前、突然、家内から電話でチップが死んだといってきたのだ。

 その日も10時ごろ泣くので、理由がわからないまま、スポイドで水をあたえたところ、実に美味しそうに4、5回も水を飲んで静かになったので、そのままサンルームに運んで寝かせてやったところ、気持ちよさそうに横になったというのだ。一時間ほどしていってみると、もう死んで体も硬直しかかっていたと、電話で伝えるのであった。

 ええ、死んだのか、これしか言葉はなかった。死ぬ予感はあったが、死ぬとは思えなかった。
そこで、言葉は後がつづかなかった。チップとすごした14年間だけが残った。

 

 

 
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第18回宮崎映画祭  霧の中の未来へジャンプ 

2012-09-01 | Weblog
 「ハラがコレなんで」原ミツコは、佐和子のように自分を「中の下」とか「バカな女」とか自分の価値判断はしない。今や定職もなく、住居もなく、金もない、人生を前にして、中の下とか、バカとか規定してもなんの意味もないのだから、ますは生き延びねばならない。両親は一人娘はアメリカで勉強していると信じていて、都内アパートからかけてくる電話を国際電話と信じて、父親などは英語をしゃべってみたりする。しかし、彼女がしゃべる英語は、OKとレッツゴー(どんといこう)とサンキュウだけである。世間の常識からみる暮らしていく物質的条件をすべて欠いているのだ。そこから根性を入れ替えてとか、努力して活路を開くとか、そういう展開にはならない。強いていえば、最初から根性が入れ替わってしまっているひとりの女が現れたのだ。

 2,011年のどん詰まりの日本の状況を生きる妊娠9ヶ月の若いシングルマザーの人生が、どうなるのか、答えはまさに寓話となって魅了する。ここに美貌やロマンや知性とは関係のないニュウヒロインが活動する世界がつぎつぎと展開し、観客はおおいに笑い共感させられる。どうみても絶望的状況を、原ミツコは平然と通り抜け未来へ向けて出産を果たすことができたのかこれは爽快な希望の物語でもあるのだ。

 キャリーバッグ一つでアパートのドアの外で、彼女は真っ青な空に一塊の真っ白い雲が流れていくのを見上げる。彼女はこれまでもいつも雲をみてきたようにだ。人生、どうにかなる。雲のように漂っていくだけ、彼女もまたそう生きる。どうにかならないときは、寝る。寝ていればいい風も吹いてくる、そのときはどんと行こうだ。OKは、人生の積極的肯定である。このOKは、じつに絶妙なタイミングで彼女の口から発せられる。そして、人生を決めるのは、「粋」だねえという江戸ことばだ。それは、難しいことではなく、自分の利害を度外視して他人のためになにかをする姿にむかって「粋だねえ」と彼女は感嘆するのだ。それは、彼女の生きる原動力となっている。

 原ミツコを演じた仲里衣佐の目をみはるような存在感は、その容姿ももちろんであるが彼女の発する、台詞のすばらしさであろう。これらは、世界への肯定、自分の運命の肯定他人への思いやり、未来への予測などなどを、どん底の状況だからこそ、モノローグや対話となってくるのだが、「今にいい風が吹くから」という台詞は、昼寝で横たわる彼女に口から発せられるときじつに魅惑的である。「苦労するから」と彼女はしばしば相手と苦労を分け合う、自分も苦労するからと相手と共有することで、粋になれることを実感させる。彼女はまだ20歳そこそこの若者であるが、どん底における人間の苦労と再生への人生を、自分のなかに受け止めて、台詞に生命を吹き込んでいる。おそらく、彼女が生まれて成人するに至った20年間は、明るくは無い日本であったのだ。その暗さ、未来のあいまいさが、意識にしみこんでいる時代の子なのであるかと思う。

 人生どうなかなるとか、どうにかならなければ寝るとか、自分より他人への助成とかが、原ミツコを生かしているというのが、たんなる空想の産物であると、みなしてしまうならば、この映画は寓話にもならぬ、浮ついてお笑いにすぎないであろうが、ここには、否定できない実感があるのを、だれしも感じることができるとおもえる。人はだれでも、人生では、こういう体験をしたことがあるからである。また、他にこのような作品例をあげるならば、寝るについては、マーガレット・ミッチェルの「風と共に去りぬ」がある。これは、アメリカ南北戦争に巻き込まれたスカーレットが、タラの屋敷も農場も恋人も失いながらも、生き抜いていく物語であるが、どうしようもないときには、寝ることによって英気を取り戻す、じつによく寝る、これほど困難な時代状況を生き抜かざるをえなかったのだ。若者は蟹工船より上下巻1200頁もあるがおもしろい「風共に去りぬ」一気に読みきったほうが楽な気分になるかもしれない。他を助けるでは、ドミンク・ラビエールの「歓喜の街 カルカッタ」がある。これはカルカッタの貧民屈に単身生活した体験を小説にした、ほとんどドキュメントに匹敵する物語であるが、貧民屈だからこそみられた相互扶助や、他につくすヒューマニティの存在が、鮮やかにえがかれている。もうひとつウォールストリートジャーナル紙での最近のレポートでは、スペインでは、無職の市民がマーケットや相互扶助の市場をつぎつぎと開いているとあった。どん底の人生で、人間が活力を発揮する実例が、原ミツコの生き方を示してくるのは空想ではないのだということができる。

 このような生き方が、どのような未来を開くのか、それは定かではない。資本主義的経済生活の否定ではあるが、そのかわりの社会とは、マルクスでさへはっきりと描いているわけではなさそうだ。霧の中の未来であるが、つっこむしかないのだとは思える。でなければ、個人の自由の否定という全体主義への傾斜が、論理的に割出されるばかりではないのか、そんな気配がする。こんな状況で、「ハラがコレなんで」はおおくの示唆をふくんでいるといえよう。
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