市街・野 それぞれ草

 802編よりタイトルを「収蔵庫編」から「それぞれ草」に変更。この社会とぼくという仮想の人物の料理した朝食です。

015年2月の宮崎市街

2015-02-07 | 宮崎市街
自転車で街をうろうろと走り回っていると、熟知してい街路や道路が取り壊されて、市街風景が一変してしまっていることに出会う。そうなってから、しまった、前の風景を撮影しておくのだったと悔やむのであった。そう思いながら、前もって撮影しないのだ。理由はかんたん、まさかこうなるとは思えなかったからである。街路や道路は自分の暮らしのように、これからもずーっとそのままつづくと思うからである。道路を利用するものの習慣である。おそらく英国やフランスの街なら、道路は何百年の不変のまま、暮らしのなかに存在しつつけるであろう。日本の都市は、とくに宮崎市街は変わりまくる。なんといっても歴史が浅い。街として市街が整ったのが、明治20年前後、戦前までの街が、現在の街路風景をもちだしたのは昭和40年以後だから、ようやく50年の市街形成の歴史しかないのである。だからまだ成長期といえばいえないことはない。地質年代で言えば地殻変動でヒマラヤ山脈がもりあがるころ(紀元前2億年)にあたるのである。
 
 2015年今年正月に見たのは、このブログにも投稿したと思うけど、宮崎駅の東にまだ健在に残っている旧住宅街のなかの1キロに及ぶ裏路地が、一本の直線道路に改修された風景である。大町の高宮病院の正面玄関から曽師町の南涯までの新道路が出来つつある。ここは以前は、不思議な路地で、自転車一台やっとの草ぼうぼうの通りや、なぜか木枠が横切り、両脇の家屋で視界がさえぎられ、進む方向もわからなくなり高宮病院の脇からさらに降りがあったり、ビルの壁に突きあたったりと、2キロほどつづき大通にでる裏通りであった。それガ今は、両脇に並木でも植えられそうな新道でぴかぴか光っていた。自動車ではしれば、一分で過ぎ去る風景となってしまっている。

 もう一つは、宮崎駅東口の正面から宮脇町に至り、貞蔵道路を越えて道は狭くなり、すぐに墓地になってここから、先の裏路地の道路に至る路地裏があった。そこの墓地が取り払われて広場になっていた。この墓地の南際には陸橋もあり、その橋脚のレンガ色が、空間に映えていたのだが、それも消えていた。ついに宮崎駅東口から宮崎市街を南北につらぬく道路が、宮崎新港に向かうということが、準備されだしたのかと思えるのであった。

 道路が出来ればまた街は変わる。とどうじに、その道路のもっていたいうにいわれぬ風景の面白さも消滅する。どちらを優先するべきか、これは意識のどこかに留めているべきことではないだろうか。

 戦前の道路工事をみると、「改修」ということが良く使われていた。それは道路の悪い箇所を改めるという意味であった。現在は改修ということばではなく、「改良」ということはになっている。悪いところを直すという意味で、道路専門に使われる用語ではない。現在は、道路整備という。ぼくはこの整備ということはには、どうも違和感がある。機械の整備、エンジンの整備といい、故障などをなくして使えるようにするということだ。道路は、機械を越えた点があり、広げたり削ったりだけで、良くなるとは限らないからである。とくに商業道路は、整備で商店街が繁盛するどころか、人通りも無くなるということが起きている。道路とは生き物であるということを、考えてみるのだ。








コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする