市街・野 それぞれ草

 802編よりタイトルを「収蔵庫編」から「それぞれ草」に変更。この社会とぼくという仮想の人物の料理した朝食です。

自転車ぶらぶら散歩 ヒムカ・チリ 2 グローバリゼーション

2009-04-30 | 自転車
 天皇誕生日の日、ぼくは豚インフルエンザのニュースで思い立って,ふたたびヒムカ・チリに自転車で向かっていった。晴天、気温20度くらい、申し分のない気温ではあるが、向かい風が一寸きつい。山崎街道をイオンの前でわき道にそれ、3間道路の旧道を走る。ここはもう家屋が立ち並び、風が避けられるからであった。行く先は、5年以上も前、廃墟に化し、藪と草に覆われ、さび付いた鎖でゲートが閉じられて立ち入り禁止とあった養鶏場跡であった。ただ、道路はもういっぺんしていてもはや養鶏場を探し出すことはできなかった。とうとうあきらめてひたすら北へむかって走る。

 やがて前後左右がひろびろとなり、東にホテル45が積み木のように見える辺りまでくると、ビニールハウスが、工場のように並んでいる畑地に入り込んできた。舗装道路にそって100メートルほどの長さのビニールハウスがならび、道路とハウスの中でただ一人だけ、作業着の女性が、掃除をしているのが遠くに見えた。ここだけみると、まるで沖電気か富士通の工場をみるかのようであった。なにをしているのですかと、訪ねると、去年の秋に植えたキュウリがもう終るの、植え替えの準備ということであった。道路を挟んで向かいのビニールハウス棟はマンゴーだとおしえてもらえた。

 この道路は300メートルほどで低い土手とT字に交差して左右は砂地の一メートルほどの小道と変わっていた。その砂地から振り返ると、遠くにハウス棟が水平に並んできらきらと光っている。そこまでは、何町歩という広い煙草の栽培地だった。マンゴーも煙草も数年まえまではここらにはなかった。今まさに工場化され、ひょっとしたら一個20万円もする日向太陽マンゴーが収穫可能になるかもしれないと思うと、手作り野菜がどうとか、自然や大地の恵みとか、そんなセンチンタルなことを言っている場合かというようなグローバリゼーション化のなかの農業の迫力を感じざるを得なった。

 14,5年前まだ宮崎市近郊ではマンゴーがあまりみられなかったころ、西都市に近い那珂で、マンゴーのハウス栽培に取り組んでいた人をたずねたことがあった。コンピュータ制御のマイクロスプリンクラーで施肥をし、温度センサーで自動開閉する一棟1000万円余の50メートルほどの長さのハウス3棟で、この人は自動車工場を畳んで、この土地でマンゴーを製産しだしていた。あとでマンゴーシャーベットをご馳走になり、その美味におどろいた。しかし、どうなるやらというだけで未来の豊穣など、想像もできなかったことを思いだした。まさにその時代が来たのであるのか、この辺りまでマンゴーハウスが進出してきていたとはと、あらためて驚いたのであった。

























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ソプラノを聴く  みやまコンセール・ホール

2009-04-28 | アート・音楽
  第77回日本音楽コンクール受賞記念演奏会を霧島町の音楽ホール「みやまコンセール」に聴きに26日に行った。お目当ては受賞者のなかの一人であるソプラノの馬原裕子さんであった。彼女は家内の生まれ育った鹿児島県姶良町出身だと新聞で報じられていた。あの狭い田舎町ならご近所だったかもというような好奇心もあったわけである。

 ソプラノはいい歌手なら、あの歌声につつまれるような快感がある。下手なら、これほど聴くに耐えられない歌もない、歌詞はわからず、節回しは単調、楽しむどころか苦痛である。

 受賞者は彼女のほかにヴァイオリン瀧村依里、ホルン福川暢明,ソプラノ岩下晶子,ピアノ喜多宏輔の4人でいずれも第一位受賞者、馬原さんだけが第三位受賞である。郷土出身ということで、みやまコンセールから出演を依頼されたのか。舞台最初の登場に割り当てられていた。

 なんとなく格下の扱いではなかろうかと思うのだったが、その歌は圧倒的なものであった。軽々と彼女の体を楽器のようにしてあふれ出してきた歌声で会場は満たされつつみこまれていくのであった。シューベルトの作品4曲で、その3曲目がアヴェ・マリアを選んであった。これがすばらしかった。感傷に流れず、誇張もなく、抑制された身体の動きでみごとなアリアが聴衆を魅惑していった。終って拍手は鳴り止ます、もう一度舞台に出てきての挨拶であった。こんなことなら、コンサートのトリでの出演であったら、いっそうコンサートは印象を深めたろうと思えたのだ。

 3位でこれなら1位はどうということに期待が高まるのだが、段違いにこちらが勝っているということではなかった。それぞれの演奏、表現力で、ぼくは、この馬原さんが、もっとも演劇性があったと思えた。

 田舎町で育ってこれだけのものをという思いをしたのだが、東京芸大声楽科卒、同大学院終了というエリートコースである。それと、豊富なオペラ出演が、あの演技力を獲得することになったのだろう。

 そのあとふと思ったのだが、あの声で、イレイヌ・ページのメモリーを歌ったらどうなるのだろうと、その他、なぜ、ソプラノ歌手は、この世にありあまるほどあるポップをうたわないのだろうかと残念である。スーザン・ボイルの圧倒的舞台を思い出すのであった。

 その他、ホルンもピアノもヴェイオリンもどれも超絶技巧とダイナミックなドラマ性を堪能できた。

 5人のうちホルンをのぞいて、全員東京藝術大学出身者である。東京芸大の独占企業ぶりが凄い。なぜなのだろう。司会者はいなく、受賞者もしゃべらず、アンコールもなく、清潔感あふれるコンサートだった。会場も簡潔、明快ないい音楽ホールであった。入場料2000円とは安かった。
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自転車ぶらぶら散歩 ヒムカ・チリ 1

2009-04-26 | 自転車
 宮崎市の一ツ葉大橋を北へ400メートル大きな十字路を渡ると、山崎街道という4車線中央分離帯のあるバイパスがつづく、イオンモールがあり、ファミリーレストランやコンビニ、大型電気店などを過ぎ、10キロも走るとやがてシーガイア、フェニックス動物園と観光スポットが道路の右側(海岸側)に並ぶのが見える。左側は、一面の畑地が広がり、その中には、さまざまの近代化の施設が混在してひろがっている。ここを、ぼくはヒムカ・チリとひそかに命名しているのだ。映画で見たことのあるチリの風景を連想させるからである。今日もまた、自転車に乗ってここを散歩してきた。

 決まったコースはなく、大体はあっちに丘が見えるからそっちに行こうという感じで走るわけだ。今日はビニールハウス群が目に入ったので、ビニールハウスの中を覗きたくなって行ったのだ。稲の苗の育種会社という看板があり、その社長宅というのが、和風作りのそり屋根の堂々たる住宅であった。まさに日本伝統家屋と、苗育種工場というべきビニールハウスの対比がおもしろかった。鉄骨で体育館ほどあるのが、巨大な扇風機をはめ込まれ換気されていた。その音と芝生のように育っている苗は、まさに工場生産施設であった。

 日射を受けてまばゆいばかりに光り、暖房用の機器を備え、煙突の突き出たビニールハウスの列を眺めていると、食料はまさに大地を離れて人工合成品ではないかと思えるのだった。農村を工場にしようとすれば、このような光景になる。今に手作りのキャベツとかピーマンとか大根とかが、もてはやされる時代となり、金持ちだけが手作り野菜をくうことになるようだ。

 そこを抜けて走っていると、とつぜん鳥居がくっついた一般住宅が目に入ったのであった。これは、このまえも見た。こんな組み合わせは、そう珍しいものではないらしい。かってこのあたりは、林やあぜ道や水路があった農村風景の集落であったのだろう。その氏神が写真のようになったのだ。くっついているのは住宅でなくて「ふれあいホール」という公民館である。そのなんともいいようもない美的感覚に驚かされる。どうして、こういう発想ができるのか、不思議なほどである。美とかアートとか、そんな感覚は一切不要という日常性が衝撃的である。画像はクリックしてください!
 
こんな光景は、観光地では、目にできない。日常を越えるというのがいい。これがチリの光景になっているのだ。チリの近代化と似ているのだ。
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宮崎市若草通り イベント

2009-04-21 | 都市論
  日曜の若草通りは、ダンス、歌のイベントが行われていた。出会ったTさん、まわりをさっと見回して、イベントすれど人集まらずですわと、その虚しさを一人ごとのように口にした。おそらく、もうこんなイベント日を何回と味わされてきた人の感慨に思えた。

 今しも、若草通り2区の十字路で太鼓の演奏が始まった。十人ばかりが立ち寄っていた。演奏がはじまると、その前を、数分置きに横切っていく通行人がある。そのだれもが、まるでここで演奏が行われているということさへまったく感知しないように歩いて通るのである。これは演奏よりもぼくの注意を引くのであった。なぜ、ここに演奏がありながら、それが存在していないのか。

 その後、山形屋駐車場前のダンスをやってる正面でも同じことが起きていた。そして、デパートカリーノ前のあのT-ステージの正面でもそうだった。技術が未熟であり、内容がありきたりでつまらないということもあるが、それでも存在感がないということにはならぬはずだがなぜなのかと、みつづけていた。

 演奏者、演舞者をみつづけるうちに、かれらに「こころ」がないのに気がついた。そうだ。かれらは、ぼくに、なにを訴えようとしているのか、それがまったくないのだ。だから、ぼくのこころになにもとどいてこぬ。歌う者、踊る者とぼくは、こころが通い合うものがないのに気づかされた。つまり関係ないのだ。これでは、上演者と観衆の間に共鳴するものがなく路上になにかが駐車しているか、置かれているかでしかない。だから通行人は、なにも気づかぬようにその前を歩き去ることができるのだと、そう思えだした。

 もしこれが、大道芝居のギリアーク尼ヵ崎が演じている場であったなら、その前をなんにも感じぬかのように横切って歩く事は不可能であろう。そこにはギリアークと観衆のこころが生み出した空間が生じるからである。ではなぜ、若草通り、中心市街地のイベント奏者にはこころがないのであろうか。

 それは、なんのために歌やダンスやその他のパーフォマンスをやるのかが、わかってもないし自覚もされてないからである。一応は、街起こしなどと、目的は何かに書かれたり、回覧されたり、つげられたりはしているのだろう。しかし、街起こしの必然性や、自分にとっての意味などは、ほとんど感知も理解もできぬ事なのであろう。だから、その意識も集中力も、その意味を伝えようとする情熱も伴わない。つまり危機感がない。意識はべつのところにあり、観衆にうったえるこころが発生しないのである。

 こころがないから、自分の歌やダンスやパーフォマンスを練習しぬくという努力もおざなりになってしまう。だから、未熟であり、とうてい魅惑的なものとは程遠いのだ。こんなものを街路というやりにくいステージで演じても、通行人の興味や関心を惹くのは不可能であろう。

 ではこころある演者がいるかどうかであるが、おそらくその数は微々たるものである。現況では、街頭イベントに情熱を傾けられる演奏者が、多数いるとは、宮崎市ではかんがえられない。その理由はいろいろあるが、そういう文化の必然性がないからだと、今はのべおく。

 だから、これからも街路イベントで観衆を集めることは不可能であるし、ましてや街起こしなど不可能だ。文化で街起こしなどといわれるが、そもそも文化という「ことば」を検証もせずにダンスや歌をやっても無意味でしかない。こころのかんじられぬものは、文化でもアートでもない、ただの物体にすぎない。文化などとわかりもせずに口にするのは、止めたほうがいい。街起こしなら、文化に聞くより「街のことは街に聞け」ではないだろうか。



















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宮崎市若草通り 観光案内

2009-04-20 | 都市論
しぇ・こぱん(お好み焼き;シャンソンの流れる)の店主、シェフの青木さんが若草通りの店があちこちと閉店していると教えてくれた。え、そんなと、おどろいた。ほとんど週末には中心市街地でコーヒーを楽しんでいたのに、なぜ気づかなかったのだろうか。一つは中心市街地そのものだったからだ。イオンが出来て5年経過したが、この橘通り3丁目という一角だけはシャッターを下ろす店はほとんどなかった。とくにここのデパート山形屋が、2年前の秋に新装開店してからは、周辺の横町のにぎわいを取り戻していた。賑わいは音であり匂いで、いつも漂っていたのだ。

 その中心市街地で、土曜日午後の時間を過ごすのはデパートカリーノの1階を占める書店「つたや」と、隣接した「タリーズコーヒー」であった。ときどき、山形屋の地下で食材を買ったりする。去年の夏までは、その裏通りに在ったお茶だけの喫茶店「イーチャフェ」(くろき製茶橘店2階)でもじどおりお茶を飲むということだった。思えば、そこで本を読み、書店で本を探すことがメインであった。この習慣で、つい、若草通りという200メートルの横町に入らなかったのだ。街に出て行くといっても、書斎の場を代えただけであったのだ。おそるべき習慣性である。

 さっそく行ってみたが、店があちこちシャッターを下ろしていた。通りは大通りに橘通から東へつまり宮崎駅方へ200メートル弱つづき、3本の横町通りで3区画ができている。その区画を一番奥からチェックしていった。まず一番奥は右9店のうち2店、左8店のうち4店、ついで二番目は右8店で1店、左5店のうち3店である。3番目、つまり大通り直接つながっている通り、右8店のうち6点、左12店のうち4店となっている。おどろいたのは、この大通りに面した区画が、ほとんど全滅していることだ。典型的なシャッターどおりが出現していた。2番目の区画といえど、3店舗くらいの大きな店だった靴店がクロースしたためここもがらんとしてとおりになっていた。

 これはごく最近のことのようである。すくなくとも今年になってだろう。そのことを思いだそうとするがなかなかもう記憶にない。ただ、ふと思いだしたのは、ここ数年、さかんにマンションが中心市街地に建てられていたことだ。そのマンションは昔は買いたい魅力もあったが、なんかこのごろ、ここに買うべき理由もないなあと思っていたのだ。ここに住んでもまわりの街路をみるたびに行くところもないと思うとかえっていらいらさせられるものと思っていた。つまり意識は、本能的に街の崩壊を感じてはいたのだ。しかし、これほどになりつつあるとは。

 いったい街の公園化計画委員という100人は、こんな町の崩壊をどうかんじているのだろうか。いや、彼らはこの崩壊をしっているのだろうか。はなはだうたがわしい。
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 青島三丁目の帰路

2009-04-18 | 日常
 青島三丁目を後にして、帰路は木花から清武町に抜け、そこから池田台団地にのぼり、そのまま天満橋にいたる新道を走ることにした。去年冬、新道が開通されたとき、ここから青島へ行こうとして道に迷ったので、気になっていたのだ。

 青島から運動公園を10分でぬけると、すぐに左へ広いバイパスが清武のほうへ通じていた。ここをしばらく走ると、大きなレストランと、その隣がイタリア料理、その向かいが喫茶店といずれもおしゃれな店がまえであった。立ち寄ってみたかったが、すでに昼食は終ったので、そのまま走っていく。右手は丘陵だが、左手は田畑がひろがりクンパチや双石山の山並みがつづいている。そのうち平野がつきて、右手にも台地がせまってきだした。あれ、これはおかしいと気づいたら、この道は、清武町に直通する木花から役場前へ直進できる道ではなかったとわかった。この道は丘陵の北にあり、ここは南だ。

 ようやく丘に登って、宮崎大学をみつけだして丘を下ると、目的の木花道路は、まだ数キロも遠く、その間には清武川も流れていた。その土手にたどりつくと、思いだしたのは、20年前にはじめてジープを購入して、石の川原を走ったところであった。ラングラーのジープよりこの自転車のほうが何倍も快適であると、ここでも確信して気分は爽快になるのであった。

 清武町を無事ぬけて橋をこえ、坂道を越えると安井息軒生誕地という案内票柱があり、ここから池田台団地の坂になる。ここでもうひとふんばりすると、新道に到着した。

 この新道の坂を1キロほど上りだす。ふとギアをみると3-3で走っていた。平地並より一段だけギア比をかえただけで走っていけるのだ。勾配がゆるいわででなく、装がいいのだ。初めて走ったとき、ここは自転車用のサーキットになると確信したが、まさにその通りである。まずだれも走ってない。広い、安全、そしてアスファルト舗装の羊羹の肌を思わせる路面を時速24キロで軽々と飛ばしていける。口径2センチに満たないタイヤで振動も感じずに走れる道は、この道しかないとあらためて思う。そういつかは、この快適はうしなわれるだろうが、それまでは楽しむか。

 せめて都市計画の無残さを、工夫してそれなりにまずは楽しんでいくしかないではないかと、思うのだ。青島三丁目は、青島中学校で町をいう授業をしたときに訪れたのだが、授業を終って生徒たちに自分の町、青島はどうしたいと質問した。すると何人かがさっと挙手して、言った。早くブティックができるといいとか、いやコンビにだ、デパートもできたらいいと、次々と笑いと興奮の話だった。そうかれらは、郷愁や自然よりも都会的刺激をほしがっていたのだ。あれから6年、三丁目は稲葉の白ウサギのように表皮をずるっと剥ぎ取られたが、あとにはかれらの希望したものはなにも生まれてきてなかった。これが大人たちの都市開発である。それなら自分で楽しむ、ここから出発しよう。

 

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宮崎市青島三丁目 迷路の今

2009-04-14 | 日常
 一昨日の日曜日は、5年まえに訪れたことのあった青島三丁目の迷路がどうなったのか、知りたくなって、出かけていった。青島駅正面を右へ行くと自然にそこへたどりつく。先週の下北方の開発をみていたので、ここもどうなったのかと、不安はつのっていた。

 やっぱり、そこは変わってしまっていたのである。すべてがブロック塀になってしまっていた。そして庭の樹木が切り払わた。狭い通りを挟むブロック編の内側はむき出しの庭となり、日陰をつくっていた高い樹木は、通りから切り取られていたのだ。乾き、熱く、のっぺらぼうになっていた。5年前、ここの路地をひとつひとつまわっていたとき、自然石の塀、そこに陰をつくる樹木、放置された自転車、階段のこけ、干し物のしずくと、生活の濃さに気おされて、気兼ねもしながらもぞくぞくとして迷路の路地を回ったのだが、そこには、連絡路はかんじられても迷路はなく、均質なやや不便な住宅地があるばかりであった。その中心部にあった一間四方のお堂もなくなっていた。どこかひとびとの欲望をぬりこめられたような道脇の赤い祠堂が、さまざまの広告が貼られ、淫らで妖しげな生活臭を発していたのに、ただの地面になってしまっていた。

 国道220号線を挟んで海側にも青島4丁目がある。内海港に面したこちらは家屋が密集して庭もなく、カズバを連想させる野性味があった。ここも変わった。氏神の社殿が新しくなった。住宅が新築され、家屋それぞれも改修されて、新建材の家並みは、特有の生活臭を感じさせなかった。通りにの端にライブハウスがオープンしているのが、かえって、この港町の今を感じさせていた。

 もちろん、この変化は住民にとってより適応した形であったのだろう。部外者がたまに訪れて郷愁を感じる場ではないはずだ。5年前もそうは思ってはいた、だから、青島町は、このノスタルジー、人間臭さを観光資源にできないのかと、しかし目の前の即物的収入、消費生活の便がその余裕を奪いとるものであったろう。だからこそ、都市計画は、人間生活の豊かさを実現すべく歴史的地域の再生を図るべきアイデアを提示する必要があるのだが、のっぺらぼうにするしか知恵をもたぬようである。美しい公園化、それですべてが糊塗されていると思えて仕方がない。

 
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迷路の町 下北方町

2009-04-08 | 日常
 この寺院なみの屋敷が高台の突端に住宅として、あたりの民家を睥睨(へいげい)するさまは空恐ろしいほどであったが、ここを去るとたちまち迷路になり、ここにも、同じ類の現存物があるかもと探す楽しみも加わってきた。しかし、これほどの住居はみつけだすことはできなかった。

 自動車が一台やっと通れる道路が曲がりくねり、2台がなんとかすれちがえる道路がさしずめメイン通りであるが、これも曲がって先はそうみえない。そこを自転車ですすむと、たちまち野草・潅木ぼうぼうのわき道に変わったり、地面むき出しのまま生垣沿いに奥へ消えるみちがあったりする。そしてのぼりくだりがいたるところにあり、樹木が覆っているとなると、夜間は目標住宅を訪ねるのは、不可能、うまく来たところに引返すのも不可能、下北方住居人でなければできないであろう。
 
 さらにこの迷路の感を加速するのは、ほとんどの屋敷が細い小道を道路から曲がりながら奥に向かわせ、そこに母屋があるからである。なかには、その道路に並木をもったのもあり公道とまちがえる。まさに英国なるここよりプライベート道路を思い出させた。母屋全体が見える屋敷はほとんどない。先日読書会があったkさんの民家が、農家の屋敷の道路に接した場所といったのは、そんな屋敷構成の結果だったのだとわかった。わたしは旧農家であったとみられるこんな屋敷のつづく迷路を、気のむくまままわっていたのである。

 そのうち、どの屋敷の母屋も、もはや改築されて、新建材の住宅、ツーバイフォの団地風仕様に変わってしまっているのに気づかされた。もはやあの寺院住居はどこにも発見できなかった。母屋ばかりでなく、屋敷全体が更地へブルトーザーで変えられ、サニーサイドとかいうしゃれた、ここらと別世界の愛称をつけられたアパート風マンションになってしまっていた。なかには集合住宅地に変わってしまった隣近所の100メートルの屋敷群もある。ただ、何棟か残った巨大な納屋が、昔日の様式美に充ちた農家のただずまいを、つたえている。この納屋だけはあまりの存在感でぶち壊すのに気がとがめたのであろうか。
 
 この建築の新しさからみて、もし十年まえでも、ここを訪ねていたなら、迷路にある旧農家屋敷のたたずまいを堪能できたであろうにと残念で仕方がない。子供時代にコグヤ、コグヤと聞き、シモキタといえば隣のように思っていた町に、今、生まれて初めて踏み込んだのである。数人の中年にも聞いてみると、みなシモキタの町はどこにあるのと聞きなおされた、平和台の南斜面の林の中というと、へえとおどろくのだった。目に盲点があるように故郷意識にも盲点があるのだろう。想像力の頼りなさをあらためて再認識させられるのであった。

 それにしても、この迷路の町を不便ともせずに暮らした社会とはどんな社会だったのだろうか。わかっているのは、外への交渉はさしあたり日常生活に不要な自己充足型の濃い隣・近所世界だったからであろう。それは、すでに消滅しているものとこの開発でおもわざるをえないのだ。

 その一点で、30歳台前後、つまり団塊ジュニア世代のわかものが、本の交換会をしたこと。この濃密なコミュニケーションが、この崩壊旧コミュニケーション地区のうえで営まれたことは、また興味をひかれるのであった。
 
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下北方町 さびしい 

2009-04-06 | 日常
 平和台大橋を降り、すぐ左折、一番手前の坂道から下北方町に入った。すると、すぐに橋上から見た巨木の木立群に出くわした。タブあり、クスあり、杉も屋久杉のようにごつごつと存在感がある。こそぶる雨の下で森閑として、音もない。小さな社殿が木立の奥にみえ、ここは「こぐや」かと、近づくと、一人の老人が竹箒で社殿の前を掃いていた。記帳ノートがあり、「皇宮神社」とあった。老人に声をかけると、まだ50歳そこそこの男性だった。「ここはコグヤですよね」と通称を確認すると、そんな呼び名は聞いたことがないような返事をされた。聞けば、串間に住んでいたが、息子が結婚して、この近所に家を建てたので、一緒に暮らすためにこちらに来たとうことだった。

 ある日、この神社に来て見ると、この静かな雰囲気がなんともいえず落ち着けるので、あれからときどき掃除をするようになったのだということだった。そこで帝釈寺が、コンクリート造になり、雰囲気も消し飛びましたよねというと 「淋ししですよねえ」とほほえんで、相槌を打ってもらえるので、「いらいらしますよね。なにをかんがえて、あんなことをするんですかね。」と返すと「淋しいです。ここはいいです。息子が家を建てまして、33年ぶりに帰ってきたんです」とつづけるのだ。
 
 息子夫婦といっしょに暮らす。そして無人のコグヤで一人で庭を掃く、ぼくなら街中のタリーズかスタバでコーヒーを飲む。ここでは、寂しさが身に染み過ぎるのだ。男性とわかれて、境内をまわっていると「皇軍発祥の地」と彫られた高さ10メートルを超える日向石を積んだ塔があった。神武天皇の東征軍の編成された場所という。しかし今は賽銭箱も朽ち果てていた。

 するとそのとき、境内の東の崖をへだてて、向かいの斜面の木立のうしろに堂々たる寺院の屋根と白壁が目を射た。まだコンクリート化されていない、すぐに行ってみることにした。境内の木立にそうぬかるんだ地面を回り、ふたたび道路にもどり、そこから右に細い路地をくだり、大きな道路に出て、路地を右に30メートルほど曲がりながら下ると、道はふたたびj自動車がとおれるくらいになり、そこに階段がありこの上が寺院であった。ずいぶん勝手が悪いお寺であるなと、数段の階段を自転車をかかえて上ると、個人の住宅ではないか。大きな苗字だけを記した表札があった。はじめ寺院を改造してかと思ったが、まったくの住宅だとわかった。

 訪ねようかと一瞬おもったが、このなぞめいた大屋敷のままがイメージがふくらむわいと、黙って階段を下りて、この町をあちこちと回るのが、あらためて楽しみになりだした。淋しいとかどうとか、言ってられないほど、まるで遊園地にはいりこむ気分が沸いてくるのを押さえようがなくなってきた。
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自転車で下北方町の迷路に

2009-04-05 | 日常
本の交換会から一週間、今日、日曜日、小雨、気温16度、無風、サイクリングに絶好の朝であった。朝食を8時に終わると、そのまま「自転車に乗ってくるよ」と妻に挨拶だけはすると、「雨が降ってて、危ないでしょうが」と馬鹿じゃないのと言わんばかりの口調。本から顔もあげずに言葉を投げてよこした。この無風はめったにないのよねと説明しながら、部屋から自転車を庭に運び出した。

 ゴアテックスのレインウェアを着て、これでオーケー、どしゃぶりでも一振りでソファーに掛けられるほど撥水性能があり、湿気がこもらない登山用のノースフェイス社のレインウェアは、着て走って、その性能が堪能できるのだ。こうして霧のような雨が降る赤江大橋をはしりだしたわけだ。自転車の車名は「ESCAPE」かぶった野球帽には「CRAZY」とある。この二つの名詞こそ、まさに年寄りの冷や水をずばりと言いあらわしているではないか。身がいっそう軽くなるのであった。

 ここから10キロちかくを街中を行くわけだが、なんど通ってもこの街道は、圧倒的におもしろい。とくに宮崎大橋から、最終の平和台大橋の取り付け道路に至る2キロほどが、いい。どういえばいいのか、この混迷と乱雑と活力がいい。レストラン、ラーメン店、マンション、郊外大型店、医院、保育園、邸宅、牛飯屋、美容院,寺院、不動産、葬儀社、電機店、建設会社などなど、多種多様の店舗や施設などを道路の両サイドに、恣意的にはしりながら撒き散らして、出来たような通りなのである。もし、この通りにテーマがつけられるとするなら、「やりたいほうだいを、やる」ということだ。

 こんな通りはもう宮崎市街ではどこも消滅してしまった。みんなこぎれいな公園風になって、去勢されエネルギーを奪われてしまっている。なにかを売って生き延びる、これが街の本音あるとすると、必然的にこのようになる。その切実な姿が、快感とナって、ここから伝わってくるのだ。ここを走り抜けると、平和台大橋に自然にすべりこんでしまう。その橋上から、先週の日曜に迷い込んだ下北方町の集落の遠望を望めた。なるほど、あそこは森林の中であったのだ。たしかに・・
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ずれた本の交換会

2009-04-03 | 日常
先週の日曜に、本を交換しようよというおもしろそうな企画で、友人を誘って主催者のkさんの家へ向かった。平和台内科医院前から綾町へ向かう道路を500メートルほど進んで、台地へと右に入る。下北方町という一帯である。この一点に会場だ。
 なんとそこは迷路であった。先日ぐうぜん迷い込んだ村角のくねくねと曲がる網状の迷路に驚いたが、ここはそれをはるかに凌ぐのだ。曲がるばかりでなく、幅も自動者が一台やっとというのが、絡み合っている。それも上ったり下ったり、亭々とした大樹がつづき、池の低地があり、崖がありだ、樹木で覆われ、50メートル先はみえない。どこを走っているのか見当のつけようがないのだ。「江戸時代だ」ここはと、友人は叫ぶが、神代かもとおうじたくなるほどであった。
 会場は、帝釈寺の近くらしいと思うというと、友人は、そこにはなんどか行ったことがある、あれは名刹だと言う。なんといっても禅寺で、なかなかの風格ありでと、注釈をしてくれた。
 本院の前に蓮の池があり、堂々たる寺院だとうのだが、さがせども、見つけ出せない。走る道路にそって、まもなく谷!があり、なんとその向かいに建っている。そこへ至る道路を探し出してやっと、たどり着けたのであった。しかし、すでに蓮池はほどんど白っぽい粘土様の土で埋められ、本堂はコンクリート造に変わってしまっていた。ここで、彼女に電話して、家を聞くと迎えに来てもらえることになってほっとした。

 近くの農家風の屋敷の道路近くの平屋の家屋が、会場であった。入ると6畳の和室と隣あった4.5の板の間に、本の入った紙袋が何十と置かれ、壁際の本棚や畳や床にも本が累々の連なっていた。ここもまたまわりの迷路模様であった。午後2時前、われわれ二人が最初だったという。彼女にお茶を淹れてもらい、それを啜りながら初対面の挨拶をかわすと、ご主人は、ぼくをよく知っていると言うことで、ならぼくも会えばわかりますねえと、緊張もゆるんできだした。主人は月末で出勤だった。
 聞くとほとんどの本が彼女のもので、ここから選んでもらってもかまわないということだった。このうねうねとした本の山脈は、文学くさくなく、教養くさくなくサブカルチャー系で、これがよかった。本の山となると、すぐ市の広報のように平板で一元的価値観で固められがち、社会教育風、公民館図書室などがそうだ。かってみたので、最悪の蔵書構成だったのが、あのシーガイアの国際会議場にあった図書室のものだった。古典文学などの全集ばっかりで、その空っぽの体裁だけの教養主義は、シーガイアが破産するまで内容が変わらなかった。こんなことを思い出したが、これとはんたいである。この無造作に詰まれた本の集積はには、趣味の個人らしさがあり、それが、くつろげた。
 そのうち電話がかかりだして、そのたびに彼女は、のんびりした口調で応対しては、迎えにでていくのだった。押井守の映画を分析した章のある詳細に映画技法を集めた本とバスターキートンという名のスリラー漫画をえらぶと、これは、ちょっと・・と悩むので、いやいいですというと、いやいいでしょというので、結局断った。ふとみると、14,5年前のブルータスが紙袋にあったので、これを4冊交換にもらった。まだ手触りの編集で、紙も安っぽく、写真もレトロな感じであった。
 こんな交換であるのかと、あとで理解できた。つまり珍しい本の交換になっているのだ。ぼくらのあとにつぎつぎとくる若い男女、かれらはぼくの子供よりもまだ年下であるが、その本への感覚はやはり違うのだと感じられた。これがおもしろかったのである。それと、kさん。彼女の文章は、すみずみまで神経がいきとどきいかにも几帳面、知的に鍛えられた感じであるが、本人は、なんとなくアバウトで、のんびりとしていて、焦らずのたたずまいで、古びた居間に調和していた。
 本の交換会という、どちらかというと日常そものの催しが、この迷路の一点、座敷と板の間、そして反教養と、ずれていたのがいい。単調な日常をずらしてみると、別の次元が広がる思いがした。kさんの今後のご健闘を応援したい。 



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