天井の高い、白い壁が洋館の箱の中のような空間では、観客の視線
を集めるには小さすぎた。手に取り、覗き込み、作者と話すること
で作品が生気を発するのだが、展示室がそれをさせなかった。何十
億かけた美術館だからといって、どんな美術品でも展示できるとは
かぎらないのである。ハードはハードでしかない。
この魚の「潜空服」は、そのアイデアの奇抜さよりも、かって
人は、日常品も機械をも手でつくったという記憶をよびさまして
くれる。そして、素材も自然の資源である。その温かみがかんじ
られる。こういう品物で、世界が出来上がっていたという事実は
今思うとまさに驚異的な世界だったのだ。
ぼくは10点ほどのこの作品によって、周りにはプラスティックと
コンピュータ制御の工作機械で、大量生産されたものしかない世界
にあらためて気づかされる。潜空服とは、会話ができるが、デジタル
カメラ、携帯電話、化学繊維の衣服、コンピュータデザインの本など
など日曜品と会話など必要もないし、会話も起きない。品物と人は完全
に分離している。日曜品とも人とも断たれた不コミュニケーションの
世界を生きているのを再確認できるのである。
そういう世界に出て行くには、何か体をおおう潜空服がいるのかもし
れない。
黒木究さんは本職の看板製作を、このために何十日も放棄したと聞いた。
どうか、この作品が売れて欲しいものである。売れなければ、作品は、すぐ
にも製造停止の運命になるであろう。こんな芸術作品こそ、世界に潜入して
行って欲しいのだ。