市街・野 それぞれ草

 802編よりタイトルを「収蔵庫編」から「それぞれ草」に変更。この社会とぼくという仮想の人物の料理した朝食です。

黒テント「ど」とは何?

2006-04-28 | Weblog
 おととい4月27日、崩壊喫茶「ウイング」で、案内のちらしを昨年の「どくんご」テント芝居にきた観客名簿によってで送付した。エダリン、鬼塚君、ウイングママ、そこに偶然やって来た西形信行君も手伝ってくれた。作業は2時間ほどで済んだ。そのチラシを入れながらやっぱり気になった。「ど」とはぼくの、このブログの解釈でいいのだろうかと・・・・

 エダリンどうやろかと、聞くと、めったに即答しない彼女が、これでいいじゃないのと、示したのは「悲劇喜劇」からの抜粋だった。

 それは「非吃音者には透明な世界が、吃音者にとっては不透明で、いたるところに手ごたえのある、突き当たるたびに問いかけられる世界になっている。いわば、<吃音をとおした世界の異化>がはてしなくされていく芝居といってよいでししょう。」というのである。

 これをどうわかりやすく説明するのよと、思わずエダリンにムッとして言うと、説明もなにもこれがうまく説明そのもの、実にわかりやすいじゃないのと、あきれたように答えたのであった。

 この言い方でわかるのは、こんな批評を読みなれたものならわかるだろうけど、一般にわかるかな、それと、で、<世界の異化>をはてしなくしてなんの意味があるのか、主題はなんなのよ、重ねて言うと、果てしなく世界の異化>をする・・そのことがすべてじゃないのと言うのだった。この辺で、ぼくも納得しかかったが、なお、この意味が一般にわかるだろうかかと、こんどは、鬼塚君と西形君に問いかけた。
 
 二人が答えてくれたのは、鬼塚君は、イメージが膨らんできて面白いというし、西形君はぼくは言葉でなく絵画でしかいいあらわせない世界があるし、そのとき吃音者は、言葉ではないもので世界をとらえようとするのではないか、言葉だけでなくもっと奥が見えるという提示があるのではないかと、面白さを感じるという。

 すぐ、エダリンも、私は美術が好きなのは、言葉だけでないから・・・わかりきった言葉ではおもしろくもなんともないといつも思うし、イメージを豊かに刺激する表現でなくては、とイメージがいいなあというのだった。

 そうか、わかりきった文体なんて「くそ」か、言葉がすべてではないのだと、ひさしぶりに思わされ、どこか、70年代の文化論争が思いだされた感じであった。

 ほんと言葉による真の表現とはなんなのだろうか。皆さんはどうですか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

黒テント「ど」上演

2006-04-25 | Weblog
 この演劇「ど」は、吃音のことで、カ音がうまく発音できずにカレーライスが注文できない男や、「止まれ」が瞬時に発音できなくて、行軍している小隊がクリークにどんどん入っていった見習い士官の回顧談とか、60年安保闘争でアジ演説を吃音でやったとかと、3人の吃音体験が語られる。切実な願いがあるときにこそ、吃音のために願いが、とんでもない方向にそれていく。それはおかしい。おかしすぎる結果を招くことにもなる。

 たった一言で、いかに人がきりきりまいさせられるか。思うのだけど、男が「好き」といえず、女が「だめよ」と重大局面で吃音していたら、どうなるのか!可笑しい。どうもぼくらは、だれでも現実に処するに吃音者であるといえるかもしれない。

 舞台は60年安保闘争の年の東京、とある歌声喫茶の店内であるという。ここで3人の男の吃音の体験が語られていく。政治、もしくは権力にたいしてわれわれは
いつも吃音状態ではなかったのだろうかと、ぼくは思う。その結果、湧き上がる笑いとはなんだろうか。

 黒テントの主張する物語る演劇表現は、一人一人の役者が状況を言葉だけでなく集団で、歌、踊りも交えて表現していく。歌声喫茶の内部が再現され、今はブームの昭和30年代が、黒テント特有の舞台装置で出現する。そのノスタルジーの時代がなぜ今のぼくらを魅了するのだろうか。それは現実が熱かったからだ。まだ変革できるという確信で人々を熱くしていた。その切実さが吃音を生んだともいえる。

 今は冷えている。そして、今はすべてが割り切れて吃音さへ起きない。表面はすごく当たり前だが、じつは、心の奥底では、もはや克服仕様も無い吃音が、欲求不満として蓄積していっているのではないだろうか。このドラマは、平成の時代状況を、吃音という姿をとおして明かしてくれるのではないか。もはや吃音さへ失った非人間的状況があるのではと・・・
 
 脚本をみたわけでないので、この解釈が正確がどうかわからないが、これまでの黒テントの上演経験からして、こういうものではないかと記してみた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

黒テント上演「吃音」

2006-04-25 | Weblog
 この演劇のタイトル「吃音」で、カ音がうまく発音できずにカレーライスが注文できないという青年や、「止まれ」が瞬時に発音できなくて、行軍している小隊が
クリークにどんどん入っていった見習い士官の回顧談とか、60年安保闘争で吃音の学生が、勇を振るって演題に立つたとか、3人の吃音青年たちが語るという。それは笑える話である。アエラの観劇評によると、笑いでみをよじったとあった。

 なぜ笑えるのか、どもるからでなく、たった一言という言葉でいかに人がきりきりまいさせられるかというためである。思うのだけど、男が「好き」といえず、女が「だめよ」と重大局面で吃音していたら、どうなるのか!と想像するだけで笑いが止まらなくなる。ぼくらはだれだって体験がある。現実の吃音者はだれでもだ。

 舞台は60年安保闘争の年の東京、とある歌声喫茶の店内であるという。ここでは
3人の男の吃音の体験が語られていく。政治、もしくは権力にたいしてわれわれは
いつも吃音状態ではなかったのだろうかと、ぼくは思う。その結果、湧き上がる笑いとはなんだろうか。

 黒テントの主張する物語る演劇表現は、一人一人の役者が状況を言葉だけでなく集団で、歌、踊りも交えて表現していく。歌声喫茶の内部が再現され、今はブームの昭和30年代が、黒テント特有の舞台装置で出現する。そのノスタルジーの時代がなぜ今のぼくらを魅了するのだろうか。それは現実が熱かったからだ。まだ変革できるという確信で人々を熱くしていた。

 今は冷えている。そして、心の奥深く吃音が進行しているのではないか。このドラマで平成の時代状況や、われわれの内面を深くしることができるのではないだろうか。
 
 脚本をみたわけでないので、この解釈が正確がどうかわからないが、これまでの黒テントの上演経験からして、こういうものではないかと記してみた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

捨てられた道路に沿って

2006-04-24 | Weblog
 昨日、日曜日に2週間ぶりにサイクリングに出た。山崎街道を北へ、イオンの前を過ぎると、今度は左に沿っている旧道を走る。すると、たちまち道路は、長年連れ添った妻に定年離婚された男のような感じになる。だれも近づかない。だから、ぼく一人の占有道路のように走って行ける。
 
 ブエノスアイレス、チリーの田舎は、記録映画などで空想するしかないが、似た感じの光景が、この道路脇には、あちこちで展開する。まずは轍の残るどろんこ道に、廃車になったバスが2台、家屋に代用されている。まさにチリーである。鉄条網で囲われた構内は、材木というより廃木にちかい資材が山積みされ、その下に倉庫があり、運搬用トロッコがある。灰色の中でジュースの自動販売機が原色である。ブエノスアイレスの貧乏地帯である。

 道路と畑の境に3メートル余のコンクリート塀が200メートルもつづく、何のため、なんの役にたつのだろうか。工場のような頑丈なビニールハウス、不透明で内部は見えない。長さ50メートルのハウスにそって何万個という植木鉢が塀のように詰まれている。このハウスも何なのだ。そして突然あらわれるマンション、ダンプカーが2列に並んで収容されている巨大な格納庫。立ち入り禁止の養鶏場の廃墟もある。芝生の庭園も。

 表の山崎街道と1.5キロほど西に平行して走るバイパス大島通線にはさまれた山崎町、村角町の畑地は、今はさまざまの用途に切り売りされての結果である。

 資本主義経済のなかで、その下流層で、われもわれもと生きる、そのおそるべき個の生活を見えるのだ。それは調和や標準とは、まったく異質の世界である。

 その光景こそ、一見に値し、見て飽きが来ない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

黒テント実行委員会 「なまけもの」はいた!!

2006-04-22 | Weblog
 ぼくの大きな心配・杞憂とは反対に実行委員会は、成功の見込みに満ちていた。いつのまにか、初期のチケット販売枚数の70パーセントが達成できていた。そして、2人の有力な助っ人をエダリンは集めていた。20台男性と、初老の紳士といおうか、ぼくともっとも肌合いが合うシニア、彼はさすがに顔が広い、その人脈が生きる。

 そうか、やっぱりエダリンだった。彼女は過去に黒テントの「金玉ムスメ」の実行委員長をやり、公演とほぼ同じころ、自分の現代美術のインスタレーションも廃屋を改造して実現した。金玉ムスメを満席にし、このビデオインスタレーションも高い評価を得た。こうした彼女こそ、アマゾンの「なまけもの」の省エネルギー型だったのを、この夜思いだしたわけである。

 ゆっくり、ゆっくり動いて、もはや火が迫っているのに、どうしてるんだよーと叫びだしたいくらスローな彼女の動きは、委員たちでは、定評であった。しかし、成果はあがった。考えてみると、彼女の行動はまったく無駄がないのだ。スローだが、ロスがない。いや、せかせかしないので、弾が正確にヒットする。そうか「なまけもの」は、無駄のない行動をしないのかとわかる。ほんとスローしないと、弾は正確に発射できず、的にも当たらない、なんと当たり前の事実だったのだろ!

 なまけもの的ライフスタイルの見本は、アマゾンでなく実行委員会の会長だったとは。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今夜は黒テント実行委員会

2006-04-21 | Weblog
 黒テント実行委員会を今夜7時から崩壊喫茶ウイングで、エダリン委員長が開催する。まだチケットをたった一枚売っただけで、なんと言おうかと思う。後、一ヶ月に迫った公演当日に向け、今夜やる気を与えられればいいのだが。

 今年から、努力を可能な限りしない生き方を実践できるようにと決意はした。チケット売りは最後の努力かもしれない。まず、過去20年あまりのくずを処分するのにここ10日余がたった。過去の痕跡をいっそうすべく奮闘してみたが、総簡単にすてられないのに驚いた。なんとか4分の3を焼却処理にえり分けたが、全部なぜやれないのかと、その処理のアマさがまだまだである。日記帳も全部焼き捨てるぞ。

 とにかく今は、このレベル、地点から出発するしかない。アマゾンの「なまけもの」のように最小エネルギーで生きていけるにはどうすればいいのか、実験は楽しい。生涯現役でなく現役放棄をこれからの目標にしよう。しかし、どうすれば可能か。最小努力で人並みの効率をあげるには、なにが必要か、いろいろやりたいことがいっぱいでてきた。

 まだ努力をしない努力がつづく日々である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今夜は黒テント実行委員会

2006-04-21 | Weblog
 黒テント実行委員会を今夜7時から崩壊喫茶ウイングで、エダリン委員長が開催する。まだチケットをたった一枚売っただけで、なんと言おうかと思う。後、一ヶ月に迫った公演当日に向け、今夜やる気を与えられればいいのだが。

 今年から、努力を可能な限りしない生き方を実践できるようにと決意はした。チケット売りは最後の努力かもしれない。まず、過去20年あまりのくずを処分するのにここ10日余がたった。過去の痕跡をいっそうすべく奮闘してみたが、総簡単にすてられないのに驚いた。なんとか4分の3を焼却処理にえり分けたが、全部なぜやれないのかと、その処理のアマさがまだまだである。日記帳も全部焼き捨てるぞ。

 とにかく今は、このレベル、地点から出発するしかない。アマゾンの「なまけもの」のように最小エネルギーで生きていけるにはどうすればいいのか、実験は楽しい。生涯現役でなく現役放棄をこれからの目標にしよう。しかし、どうすれば可能か。最小努力で人並みの効率をあげるには、なにが必要か、いろいろやりたいことがいっぱいでてきた。

 まだ努力をしない努力がつづく日々である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

悲しい思い出

2006-04-20 | Weblog
 昨日のフェニックス動物園のブログにコメントがあった。人妻となった彼女の3年前の勤務先がこの動物園だった。そのときも動物園はビンボーであった。
 
 
まさに!! (深緑(妻))

2006-04-19 13:33:34

かつてここでピンクのミニスカートと白いストッキングで働いていたものです。
ええ、ココはビンボーです。
動物園の花形(と職員は思っているらしい)の
ショーのお姉さんのストッキングは自前です。
伝線してもよっぽどになるまで替えてはいけません。
掃除に必要な金ダワシ、ゴム手袋も自前です。
夏はりんごが高いのでサルやゴリラはお腹がすいてました。
だから職員は皆疲弊しきって、心が荒んでいます。
つらい思いでです。
一応、向上委員会みたいのがありました。
こんな楽しいこと提案してくるれひとは
当時いなかったんでしょうね。
あれから足を踏み入れず
3年経ちますが変化なしの様子です。


そうか、そのときすでにビンボーでしたか。それに「向上委員会」もあったのですか。おどろきました。花形のショーダンス組みがいたのですか。伝線の走った自前のストッキングを履いて。掃除組のゴム手袋も金タワシも自前。そりゃ無いでしょうが!サルもゴリラも腹を減らしていたという。かわいそうに。しかし、この状況はぼくにはすごく面白い。なんかユーモラスで自由ではないか。みんなビンボーをわけあっていて、だれにも文句言われる筋がなさそう、と思うのです。ぼくの能天気のせいです。
 
 ぼくはこの動物園に足を踏み込んだとたんに、なんて希望に満ちた空間であろうかと驚嘆したのでした。ここで、テントを張って「どくんご」芝居をやったら、どれほど盛り上がったろうかと。住宅団地では、パトカーが見回りにくるから。それにテントを建てる場所を探して探して、最終の土地だったのだ。フェニックス自然動物園ではなんでも可能と、つくづく思えてわくわくした。あの誘導路の両脇にラーメン屋台を並べ、電飾電球で飾れば、イングランドのリーズの田舎の光景になりそう、それだけで、非日常空間が人を魅惑しますよね。

 ワイルド、自由、創意、行動、破天荒そんな可能性の空間だと感じました。花だけをペンキ絵の具のようにべっとりと這わせるのが、空間利用と思っている宮崎人には見えなかもです。こちらこそ真の花咲ける空間になるのではないですか。深緑さん、環境は貧乏とは関係ない、意識つまりビンタと関係があるのですね。真の貧乏はフェニックス動物園の外にこそ蔓延しているようです。深緑さん!!

  お元気で。これからも。


コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

フェニックス動物園  貧乏路線の地平線は

2006-04-19 | Weblog
 太平洋海岸に接した自然動物園は、アリゾナ的である。だが、フリーパス乗車券は、メリーゴーランド級だけにしか通用しない。食堂は体育館のようで、かつセルフサービス、汚れた窓に囲まれる。演芸場は、牛小屋となり、ひっそりしていた。ふとみると、ジュースの自動販売機もみな130円均一だ。

 若い職員も老いたる職員も、女も男も山西省風の中国農民服を制服化していた。このわびしさを好むぼくならまんざらでもないが、華やかな夢を見に来て、ここでは下流社会の現実を知るのである。

 わかる、わかる、こうしなけりゃ耐えられないほど、金不足なのだろう。だが、この貧乏路線は、出るを減らして利益を増やすというありきたりの足し算引き算のどん詰まり乏路線、この路線が故障してしまっているのに気づかない。こんなけち臭い発想を脱し給えと提案したいのだ。

 あんな奥地中国農民服的征服しか買えないのなら、自分たちで裁断して縫ったらどうだろう。宮崎市に劇団Mという宝塚のリメイクを上演する女性だけの劇団がああったが、上演のたびに1000人を超す観客が集まった。その服装100着余はいつも彼女らの手製であった。終焉まで10回の上演、その衣装は1000着をこえた。フェニックスも、きみらもまねをして、デズニーランドのパロディを演じるてはどうだろうか。

 観覧車と少数の乗り物だけにして、ミッキーやウサギのスタッフがともに乗る。
牛小屋は、スタッフの紙芝居やミュージカル上演場にする。広場はテント劇やサーカスに貸す。あちこちにキオスクを開いて、付近の有機野菜の弁当や、マンゴーの
ジュースを販売する。遊んでいる、らくだや馬やチンパンジーには遊覧車を曳かせて園内を一周する。そしてなによりもすべてをデズニーランドのパロディで統一するのである。金をかけずに。デズニーのまね、まね、まねで。

 けちな乗り物を一掃して、昭和30年代の町並みを再現し、紙芝居コーナーでもつくって観客をノスタルジーに誘う。フェニックスとは不死鳥の意味である。その一つ葉海岸の地平線から日が昇るように、日はまた昇るように元気だせ。貧すれば窮するではダメだと思うよ。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

宮崎フェニックス自然動物園

2006-04-18 | Weblog
 先先週の金曜日に5歳の孫と13歳の孫を連れて、動物園に行った。この孫の父親たちが、孫の年のころ行ったきりだから30年ぶりであった。

 海岸にあるこのフェニックス自然動物園は、昔の姿を色濃くとどめていた。建物、赤茶の誘導路、その下にひろがるキリンや水牛、ダチョウの遊ぶ園、松林、広場や厩舎、高い観覧車なにもかも、そのまま残っていた。しかし、なにもかも虚ろでもあるのだ。さーっと崩れ落ちてしまいそうな生気の無さが胸をしめつける。

 子どもの騒ぐ声も、家族連れのざわめきも、ホールに出入りする人々の群れも何も無い。どこにも活気を生み出す観衆がいないのだ。それは、ぼくの好みであるが、ジェットコスターに孫と3人だけで乗ったが、5歳の方は、ひざに顔を伏せて
声も立てずに震えていた。13歳の方も声もあげず、沈黙しどうしだった。盛り上がらないのである。

 乗り物フリーパス千円券ではあるが、ジェットやドラゴン、ゴーカート、観覧車にはのれない、回転木馬や回転飛行機など幼稚な乗り物だけに乗れる。この観客では、こうするしかないのだろうか。それにしては貧乏臭い。かって子どもが歓声を上げた食堂は、今は体育館のようになり、台風災害の避難所を連想させた、あっちもがらがら、こっちもがらがら、でもぼくには、このわびしさがいい。

 動物園スタッフはみな若い。そしてきわめて親切だった。インコを見せてくれた女性などは、ひまなのか、一時間くらぼくらの話相手になってくれた。インコがひっくり返って、腹をさすられたり、甘噛みしたり、しがみついてはなれなかったりと、子猫と変わらないとは、驚きだった。そして、これを見せてくれたスタッフの若い男女の服装は、中国奥地の農村民のように素朴なものだった。いまどき、こんな服はどこに行けば買えるのだろうか。赤江の「丸太奉仕堂」にはあるかもしれない。こんな服じゃ恋人もできんのではないかなと思えた。貧乏だ、ほんと。

 なにもかも不思議な空間だった。貧乏であるがゆえに可能な変換を予感させるものがあった。だが、その方向には意識が向いていないようだ。この空間はものを生むような予感がするのだが・・・

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

レストラン寄席

2006-04-11 | Weblog
 宮崎市でベリーダンスをやっている辻かおりさん夫妻が、2年ほど前になんでもありの寄席を興行してきた。歌ありダンスあり、太鼓に漫談とジャンルを問わずにだれでもやりたいものに公演の場をあたえようという試みをやってきた。先週水曜4月5日、なんど最終回と知らされ、はじめて会場を訪れたのである。

 場所はレストラン「クチナドリーバ」午後7時、入場量100円であった。会場に入るなり、あ、これは仲間のお祭りだなとわかった。ギターの青年が歌を歌っていた。ぼくには、宮崎駅周辺で大声を上げている連中と同じにしか思えなかった。歌というのは、聞けば快感を与えるとは、限らない。下手の歌を聴くのは大変な苦痛だ。だが拍手も飛ぶし、客との交流もあり、みな適当に楽しんでいた。

 他にもダンスや太鼓があったが、聞くにも見るにも耐えがたいほど下手であった。それでもみんなやいやいと楽しんでいた。ぼくは2時間ほどがんばったが、ついに中座したしだいである。

 この寄席を楽しめるには、まず仲間意識というのがいるのだろう。今でも若者たちは、自己表現の夢がとりつくのだろうと思う。それでいいじゃないか。

 軽蔑する気持ちはない。むしろ思い起こせば昭和40年代ごろはもっとひどかった。あのころは、若者は同人雑誌というのを発行して、現代詩と称するものを主に掲載、ページ数が大となると純文学小説を掲載した。これが実におもしろくなく、現代詩に至っては、わけもわからず、不快のきわみであった。だがどれも芸術をいう衣を羽織り、新聞もそれよそれよとはやしたてていた。すると、わからぬやつや読まぬやつは、馬鹿にされ、くだらぬ「同人誌をだすだけで、詩人一丁あがり、作家一丁あがりとなっていった。

 あのころにくらべると、へたはへたでわかりやすい歌もダンスも太鼓も漫談もわかりやすい。下手は下手で否定できる。スポーツみたようなもんだ。ここから成長に向かう若者もあるかもしれない。この寄席のほうが、はるかに純粋であった。時代はこのように良い時代に変わったのであると思う。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

タイ国での演劇

2006-04-10 | Weblog
 先週3日に明星寺で落語を聴いた。その後、タイ国の杉岡弘子から、メールがとどいた。彼女は、夫君の宣教師の伴侶として、同国で生活している。そんなことより、彼女は、15年ほど前宮崎市のアマチュア劇団「騎兵隊」で活動していた。久しぶりののメールは、その小さな新学校の会議室で試みた演劇的パーフォーマンスの報告であった。
  
 メール 杉岡弘子さんから
 
 神学校の小さな会議室で、日が暮れるのを待って始まった
「Water of Life」と名付けられた展示会は、1回に10人位づつ会場に入り、
照明の演出と録音されたイースターの語りのテープが流れ、
中央に置かれた大きな台にみんなで座り静かな時を過ごしました。
1回10分ほどの時間ですが、みんな感動して帰っていきました。
(約15回、夜中まで200人近くの人に観て頂きました。)

演出は全てフィンランド人のドラマの教授がしたのですが、
会場に飾られた氷が溶けて、下のボールに落ちる水滴の音まで演出に入っているなど、私にとって初めての経験だったので、感動してしまいました。

タイの小さな神学校で、予算もなく、スタッフもなく、広い会場もなく・・・
それでも、多くの人に感動を与えることが出来ると言うことにも感動しました。

展示会の写真の一部を添付致します。

私はタイに来ても演劇に関わらせていただいています。
小野さんも刺激的な毎日を送られているのでしょうか?

 「氷が溶けて、下のボールに落ちる水の音まで」演出効果があるという緊張感
空間の親しさが良く理解できよう。こんな空間こそが観客も創造へと巻き込む演劇空間であろう。「予算もなく、スタッフもなく、広い会場なく・・・」人に感動を与えることができたという、ぼくも会場に入ったような感動を覚えた。

 演劇空間とは日常生活の場に発生する。4次元空間が3次元空間へ時間軸を垂直に加えた異次元であるように。
コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

宮崎ー西都原古墳群自転車道

2006-04-09 | Weblog
 この宮崎ー西都原古墳郡自転車道を知る市民はほとんどいない。さらに知っていても、どこから入るのか、まずわからない。

 昨日土曜日、まさに初夏の晴天、古墳群まで走ってみようと12時47分、イオン前をスタートした。ここから30分で、自転車道に着く。動物園の北のわき道を海岸に向かってすすみ、水のたまったガードをくぐると、そこが始発点だが、ガード下の水溜りをみただけで、道を誤ったかと思ってしまうだろう。これから松林と砂丘をアスファルト並みの道路感覚で走れる。人はいない。

 ここから一つ瀬川沿いの堤防を西都市に向かって走る。まさに天国だった。10号線を超えて進むのは10年ぶりかも、背丈を越えるススキの群落があったがと記憶を辿る。この瞬間であった。天国から煉獄に状況が変わったのは・・・。

 舗装道路が無くなった。自伝車道だけは辛うじて剥げかかった舗装がつづく。ととつぜん道が消滅した。前方の高架道の下をくぐって向こうにまわるらしい。やはりそうだった。昔の妻線鉄道跡の道路になる。以前は、ここから西都市街まで一直線だったが、今は有料道路や、バイパス、わけのわからぬ新道と、自転車道はずたずたに切断されている。懸命に他方の切断面を探し出すの繰り返しだった。
  
 すると、思いだしたように道路標識が現れる。あんたが思い出すまえにこっちは迷ってしまうじゃないか。

 
 このいらいらで、疲れが出だした。しかし、今日は古墳群まで行く。旧妻駅から数百メートル家並みにそって走ると、まったく突然に、ここから先は一般道路をと、粗末すぎる矢印が赤マジックで書いてあった。どっちだよ、せめて右へとか左へと描いてあればいいのに。

 通りがかりの小学生に聞くと、まっすぐ進むと坂があり、そこを右に曲がり、坂をすすむと、教えてもらえた。能天気に坂にかかって驚いた。1キロを超える急坂がカーブしながらつづくのだ。この最後の坂で息の根を止められた。自転車道は、旧妻駅で終わっているべきだった。

 宣伝効果の積もりか、自転車道もないのに終点「西都原古墳群」とは、いんちきではないか。ずたずたの標識といい、まさに天国から地獄への走行だった。自分でこの道路を走ってみれと、叫びたくなった。

 もの凄く疲れた。今朝も体中が痛い。17時8分、イオン正門に帰着できた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

氷河 ハウステンボス

2006-04-08 | Weblog
 今朝の朝日新聞にハウステンボスの入場者、過去最低195万人(昨年度)と報じられていた。先日、今年度は約100億円の増資で、ホテル改装や、映像施設の新設などが図られるとあり、やばいなと思っていたところ、この実績である。これで
目が覚めればいいのだが、反対に増資に弾みがつくかも。パチンコの玉追いに似ていやしないか。ダメなもはダメ、株の損切りをやらなけりゃ元も子も消滅だ。

 ハウステンボスがダメだといえるのは、ニホン人特有のハード信仰の錯覚そのものの施設だからだ。戦時中に潜水艦や航空機を製造しなくて戦艦大和という大ハードに走った軍部の妄想が、今も日本人を呪縛している。

 都市、市街をハードつまり建築物だけで作れるという錯覚が、ハウステンボスの基礎である。そのまさに映画の張りぼて都市に入りこんだ来場者は、楽しみよりか
心の奥に湧き上がる不満をかすかに感じつつここを去るのだ。そして、帰宅して初めて不満が沸いてくる。こうして2度と訪れない。

 ここの全体の狂いはホテルの施設や映像施設では修正できない。氷河に覆われた模造都市であることから、再出発するしかないではないか。氷河の底で普段着でホテルに宿泊したり映像娯楽を楽しめるだろうか。問題はここである。

 参考ブログ

 ハウステンボスの街 2005-09-25 20:44 Weblog
 
 ハウステンボス 絵葉書の街角 2005-09-28 10:08 Weblog
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

お寺で落語

2006-04-07 | Weblog
 この郊外吉村町の明星寺で、落語を楽しんだ。三遊亭柳昇の弟子で鹿児島出世、この4月に真打になるという落語家であった。

 明星寺のお堂は、いまどきのきんきらきんのお寺と比べると、狭く貧乏臭い。40人くらい檀家のお年寄りや、ぼくのように演劇好きなものも混じり、それだけで祭壇の前は満席の有様であった。出し物は「天失気」(てんしき)で、医者にかかった和尚に天失気(おなら)はおありかと聞かれ、知ってるふりをして小僧に天失気を借りてこいと使いにだす。

 ほんとに落語はわかりやすい、失われた生活の懐かしさが心地良い。笑い、笑いで、演者と観客の呼吸がぴったしの上演であった。至福の劇場性に万歳であった。

 照明も、音響、緞帳もなく、ただ一枚の座布団を置いた演台だけで舞台は完成する。なんという芸であろうかと、あらためて再認識できた。かぎりなく大道芸に近いではないか。ホールも劇場も無くても、演劇空間が湧き出てくる。まさに落語上演とはソフトである。

 芸術とは、いつからハードに席を譲り始めたのだろうか。当市では昭和40年代からである。ハードだけは大げさで、けたたましくなり、ソフトは鶉の卵よりも小さくなった。県立劇場、市民文化ホール、オルブライトホールと屹立したハードの乱立は、ソフトの氷河期を示している。

 明星寺の落語はそれを自覚させた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする