おととい4月27日、崩壊喫茶「ウイング」で、案内のちらしを昨年の「どくんご」テント芝居にきた観客名簿によってで送付した。エダリン、鬼塚君、ウイングママ、そこに偶然やって来た西形信行君も手伝ってくれた。作業は2時間ほどで済んだ。そのチラシを入れながらやっぱり気になった。「ど」とはぼくの、このブログの解釈でいいのだろうかと・・・・
エダリンどうやろかと、聞くと、めったに即答しない彼女が、これでいいじゃないのと、示したのは「悲劇喜劇」からの抜粋だった。
それは「非吃音者には透明な世界が、吃音者にとっては不透明で、いたるところに手ごたえのある、突き当たるたびに問いかけられる世界になっている。いわば、<吃音をとおした世界の異化>がはてしなくされていく芝居といってよいでししょう。」というのである。
これをどうわかりやすく説明するのよと、思わずエダリンにムッとして言うと、説明もなにもこれがうまく説明そのもの、実にわかりやすいじゃないのと、あきれたように答えたのであった。
この言い方でわかるのは、こんな批評を読みなれたものならわかるだろうけど、一般にわかるかな、それと、で、<世界の異化>をはてしなくしてなんの意味があるのか、主題はなんなのよ、重ねて言うと、果てしなく世界の異化>をする・・そのことがすべてじゃないのと言うのだった。この辺で、ぼくも納得しかかったが、なお、この意味が一般にわかるだろうかかと、こんどは、鬼塚君と西形君に問いかけた。
二人が答えてくれたのは、鬼塚君は、イメージが膨らんできて面白いというし、西形君はぼくは言葉でなく絵画でしかいいあらわせない世界があるし、そのとき吃音者は、言葉ではないもので世界をとらえようとするのではないか、言葉だけでなくもっと奥が見えるという提示があるのではないかと、面白さを感じるという。
すぐ、エダリンも、私は美術が好きなのは、言葉だけでないから・・・わかりきった言葉ではおもしろくもなんともないといつも思うし、イメージを豊かに刺激する表現でなくては、とイメージがいいなあというのだった。
そうか、わかりきった文体なんて「くそ」か、言葉がすべてではないのだと、ひさしぶりに思わされ、どこか、70年代の文化論争が思いだされた感じであった。
ほんと言葉による真の表現とはなんなのだろうか。皆さんはどうですか。
エダリンどうやろかと、聞くと、めったに即答しない彼女が、これでいいじゃないのと、示したのは「悲劇喜劇」からの抜粋だった。
それは「非吃音者には透明な世界が、吃音者にとっては不透明で、いたるところに手ごたえのある、突き当たるたびに問いかけられる世界になっている。いわば、<吃音をとおした世界の異化>がはてしなくされていく芝居といってよいでししょう。」というのである。
これをどうわかりやすく説明するのよと、思わずエダリンにムッとして言うと、説明もなにもこれがうまく説明そのもの、実にわかりやすいじゃないのと、あきれたように答えたのであった。
この言い方でわかるのは、こんな批評を読みなれたものならわかるだろうけど、一般にわかるかな、それと、で、<世界の異化>をはてしなくしてなんの意味があるのか、主題はなんなのよ、重ねて言うと、果てしなく世界の異化>をする・・そのことがすべてじゃないのと言うのだった。この辺で、ぼくも納得しかかったが、なお、この意味が一般にわかるだろうかかと、こんどは、鬼塚君と西形君に問いかけた。
二人が答えてくれたのは、鬼塚君は、イメージが膨らんできて面白いというし、西形君はぼくは言葉でなく絵画でしかいいあらわせない世界があるし、そのとき吃音者は、言葉ではないもので世界をとらえようとするのではないか、言葉だけでなくもっと奥が見えるという提示があるのではないかと、面白さを感じるという。
すぐ、エダリンも、私は美術が好きなのは、言葉だけでないから・・・わかりきった言葉ではおもしろくもなんともないといつも思うし、イメージを豊かに刺激する表現でなくては、とイメージがいいなあというのだった。
そうか、わかりきった文体なんて「くそ」か、言葉がすべてではないのだと、ひさしぶりに思わされ、どこか、70年代の文化論争が思いだされた感じであった。
ほんと言葉による真の表現とはなんなのだろうか。皆さんはどうですか。