市街・野 それぞれ草

 802編よりタイトルを「収蔵庫編」から「それぞれ草」に変更。この社会とぼくという仮想の人物の料理した朝食です。

詐欺師の法則

2014-02-08 | 芸術文化
 聴覚を失った現代のベートーベン佐村河内守の作曲は別人だったとう朝のニュースだった。交響曲第一番HIROSHIMSAの公演記録が背後に流れていた。涙を拭くお年寄りが大写しになった。それは嘘であったのだ。このニュースを視聴しながら、ぼくは宮崎市を大騒動に巻き込んだ、一人の彫刻家の大嘘事件を想起したのであった。まずはこの事件を紹介しよう。

 70年代の初めであった。石油ショックのあったころで、ちり紙がなくなると、スーパーに人々が押しかけた群集行為が全国に起きていた。このころ、宮崎市に彫刻家、京都の仏師という人物が、宮崎市の文化人の仲間入りをしていた。名前はたしか浜田雄一郎ではなかったか、今はうろ覚えになってしまったが、どうせ偽名であろうから、この名前で話をすすめよう、記憶のある方は、京都の仏師や、事件の推移で、その人物のことと思っていただきたい。ぼくに耳に入ってきたのは、該博な知識で、当市のお茶、お花、写真家などに信奉者を増やしているということだった。目がほとんど見えない視覚障害を持ち、それでも仏の彫刻をつづけているということであった。幸いというか、不幸というか、ぼくは、日本の小説、日本の公募展作品を中心に芸術とか文学とかに否定的になっていて、浜田なる仏師に関心は持てなかった。だが、ある日、知人の文化人が、10ページくらいのライカの英文説明書を、翻訳して欲しいと持参してきた。依頼者はなんと浜野雄一郎というのだった。そこで、興味もあって、翻訳をひきうけたのだった。英文はカメラのマニュアルで、専門用語は分からず、そこはいいということを、知人から聞いて、数日後、かれに指定された喫茶店、そこで直接会い、訳したマニュアルを渡すことになった。

 戦前からのレストラン、食品などを販売する「三城商店」ビル二階の喫茶店、その名も「エリート」というから、当時は有名店で、文化人の常連も多かった店内で、かれにあった。長身で、杖を持っていた。濃いサングラスを掛けていて歩くの不自由のようだったが、和服の楚々とした女性がかれに寄り添って支えていた。奥さんというより愛人に感じられたが、後で聞くと、宮崎交通の観光バスガイドで、有能な美人だったという。彼女は反対を押し切って、退職し、かれと結婚したという話であった。目がほとんど見えないのは、イタリアで、彫刻の材料に大理石をダイナマイトで爆破したとき、その断片が目に当たった事故のせいだと、これはまわりに語られていたようだ。サングラスの長身が、ぼくの前の椅子に座った、寡黙で落ち着き払っていた。目が見えないということで、ぼくは訳文を読み、専門用語とそのあたりの不明な文は、原文のままで伝えると、瞬間的にああそうかと納得し、十分に理解を示した。数日経って、知人は、菓子箱をもってお礼にきた。その菓子は知人が購入したようであった。その後、彼に会うことも連絡もなかったが、こんなことで、浜田についての情報は、いろいろ入ってきだした。。
 
 信奉者にある老舗の一人娘でお茶の師匠をしている女性が、毎週のように教室に招いて、指導をうけているということも知るようになった。華道会もいろんな京都の情報をかれから聞き、ここも信奉者が増えてきているということであった。孤高で貧乏、目がほとんど見えないので、彫刻はできないが、お茶、いけ花、絵画、彫刻、数奇屋建築などの知識は、大変なものだという。かれを取り巻く女性たちは、争うようにして、彼との食事では金を支払うというのだ。かれは芸術家で金はもってないと理解しており、かれもそのもてなしを平然としてうけているという事実も知るのであった。どなんだろう、ほんとにかれは、知識人としても、それほどの実力者なのだろうかと、思えてならなかった。だが、かれは、宮崎大学工学部の非常勤講師として数奇屋建築の講義をするようになったのだ。当時、NHK宮崎放送局でドラマ脚本を書いていた知人が、自分が、浜田にあってほんものか偽者か、おそらく文化を語る偽者だと思うし、面接してくると、意気込んでいた。だがかれは、インタービューを終わり、イやあ、あいつは凄い、ライカについて聞くと、製造ナンバー何番から何番は出来がいいが、このナンバ-台は、欠陥があるなどをとうとうとしゃべり、それは当たっていたとおどろいていたのだ。

 そのような事実を知るようになり、それはそれでかれは文化活動を、この田舎町で信奉者を指導していけば、いいし、そんなことは、ぼくにとってどうでもいいことだったので、浜田雄一郎については関心がなくなっていった。そんなある日、宮崎日日新聞におどろくべきニュースが社会面3段抜きで、出てきたのだ。かれがやった告発記事であった。宮崎大淀高校の玄関に設置されたある教授の現代彫刻が、昭和30年初期のみずえに紹介されていたイタリアの彫刻に瓜二つ、その教授の彫刻は剽窃たと、かれは訴えたのだ。そして、雑誌みずえの写真と、ならんで、その現代彫刻が並んでいた。このスキャンダルは、反響を起こした。それから数日後、こんどは、浜田雄一郎が楽器店から銀製のフルートを持ったまま行くへ不明になったというのだ。楽器店主や関係者がかれの住居を尋ねると、金庫が一つ残っており、中身はモデルガンと、サド侯爵の本一冊だけだったという。弟子の話によると、自分はかれの彫刻を見たことはない、教えもまだうけてなかった。ただ、半年間、彫刻用の刃物を研ぐだけ、そして、竹を削り、割るというしごとだけをしつつけるように言われて、やってきたともいうのであった。

 校門の彫刻告発を新聞でやり、その大騒動を利用して、姿をくらましたということだったのかと、そのときは思ったわけだ。目が見えない彫刻家、京都、イタリア、芸術、舞台背景は、信奉者を信じさせる正義もしくは神話として眼前に広がっていたわけである。佐村河内守事件となんとも似ているのだ。その二人に共通するものは、考えてみると詐欺師の法則である。それはフレミングの右手の三原則に似ている。大神話、自分自身の正義ぶり、欲しいものを
得たい信奉者たちの存在。浜田雄一郎は、これらを満足させ、そして姿を消した。
コメント
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