市街・野 それぞれ草

 802編よりタイトルを「収蔵庫編」から「それぞれ草」に変更。この社会とぼくという仮想の人物の料理した朝食です。

自主映画の難しさ

2005-05-21 | Weblog
 宮崎でまた自主映画が一つ上映されている。知的障害者が、ミュージック演奏を町、三股町の文化ホールで公演するまでのドキュメントであるが、作者、障害者、ボランティア、家族が感動している様はナレーション、顔、顔のグローズアップと渦まいていた。「ありがとね」という映画のこの感動は、じつは映画を観た観客のものでなければならないのに、作者がまっさきにそうなってしまっているのだ。自分たちだけで感動きわまってしまって、観客は置いてきぼりにされた。作者の感動は理解できる。しかし映画は理解できなかった。映画はほんとうに難しいと思った。

 たまたま、その午後、ぼくはデザイン専門学校、「サンアートアカデミー宮崎」で映像の指導をしている塩川陽一さんと、「どくんご」を生徒に勧めてもらいたいと話をしていた。そのついでに、彼の指導した田野町のドキュメント映画についても所感を話していた。あれだけの技術があるのだから、常識から外れると、もっと創造的になれるのではないかと言ってみた。かれはそうだと肯定したが、話はここからさらに展開した。生徒たちにぼくの言葉がわからないんだよねというのだ。本を読まないし、知的会話をしないし、だから言葉の語彙がすごく狭いということを感じる。

 誤字でも、脱字でも、下手くそでもいいから、とにかく文章にして映画の脚本なり、ドキュメントのアウトラインなり書いて欲しいと熱望するけどね、書けないね。これが書けなければ、映画表現もくそもないと感じてしまんだよね、指導がほんとに難しいと言う。そうか、それなら外れるという概念をどう伝えるか、やりようがないかもねと思うのだった。もっと本を読まなきゃ、もっといわゆる基礎の勉強をしなければと、つくづく思うと彼は言った。映画は、大きな可能性をもっているのにもったいない話だよねと話は続いた。

 あの田野町の映画の画面の美しい画面については、このブログでも述べたがあのビデオカメラは250万円の営業用だそうだ。放送用のものならレンズだけでも150万円、全体では1000万円もする。しかし、現在ではホーム用でも50万円で、画像の質では変わらぬカメラが市場に出てきた。その話を彼から聞いたとき、すぐ思ったのは、映画はただ同然で製作できる、だとしたら
観客は30人くらいを対象にしても繰り返せば元も取れる、さらにDVDにしてインターネットで配信すれば、世界に広げられるじゃないかと、かれはそうだと頷いた。
  
 そのような可能性はある。しかし、問題は映画は一人では作れない。監督、ライター、撮影スタッフなどのチームが必要だ。そのチームのレベル、そのチームを統括することばの問題がある。それが、ここではものすごく貧困なんだよね、なるほど、難しいなあ、ぼくも同感した午後であったのだ。
  
コメント (3)
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