明日で9月が終わる。台風が今日は来ると言う予報ははずれてほっとした。
と、ここで友達がとつぜん来訪して書くのを止めて、かれとしゃべるためのコーヒーをと、いつものようにイオンの2階にあるサンマルクに行った。今日もまた新しいウエイトレスの数人のチームのようで、なんと多くの女性たちが働けるカフェかとうれしくなる。20代そこそこの彼女らが生き生きと楽しげであった。
カフェ、もしくは喫茶店といえば、劇団黒テントの代表である斉藤晴彦さんが、毎日新聞のエッセイで「ぼくの好きなもの」というのを投稿していた。好きなものは喫茶店というのだ。それは普段の日でもだったが、休みの日にかぎられたことだったか、ちょっと忘れたが、かれが言うには、午前中に1、2軒、午後は3軒は喫茶店回りをするというのだ。本を読んだり、なにもぜずにぼんやりしていたりと半々くらいでコーヒーを飲むというのである。なにしろ近所に喫茶店が20軒くらいあるので、行くのに不自由はしないという。なんともうらやましいかれの街であろうか。エッセイを読んで、今や彼の仕草や表情、語り口調までありありと思いだされて、やっぱりなあとうれしかった。かれに喫茶店はよく似合うよなと思うのであった。宮崎市での黒テント上演は、1974年から2005年まで、「嗚呼鼠小僧次郎吉」「阿部定の犬」「ヴぉイチェック」「西遊記」「夜と夜の夜」「日置ジャンバラヤ」「逆光線玉ねぎ」「金玉娘」「ど}などと歴代のドラマは上演されてきた。そのほとんどに上演実行委員長をしてきたわけだが、かれと「喫茶店」の話をしたことはなかったなあと思うのであった。
かれのエッセイの何日かあと、毎日新聞の本の広告で、かなりのスペースで喫茶店の利用の仕方といった本の広告もあった。その宣伝コピーを読むと、喫茶店がいかに自己啓発に有効な場所であるか、二人会議、商取引、受験勉強、委員会、読書原稿執筆、パソコン使用などなどと、日常の情報活動に利用せぬでは、時流に置いていかれるというようなテーマであるらしかった。いやあ、わからぬではないが、こんなことにいっぱい300円くらいのコーヒーで何時間も粘られては、たまらんだろうと、経営者の気の毒であると思うのでもあった。まあしかし、このようにも存分に利用できることはまちがいない。
しかし、喫茶店まで行った、がんばらなくてもいいと思う。がんばらない日々をどれだけ過ごせるか、これが一番生きていく喜びではないかと思う。がんばるというのが、いやなのは、それはほとんどが、世界や社会のためにならない個人の我執の実現にあるからだと思うからだ。だんだんそう思うようになったのは、ぼくのペット、犬のチップと11年を過ごしてきてのアイデアでもあった。
「犬はがんばらない」
ただこのことが、ぼくにいろんなことを勇気付けてくれる。両親もいない。家族も友達もいない。近所も都市もない。まさに世界にただ一点の存在として、生きている。その生きていることにたいして、改善とか、満足とか、目標の実現とかいっさいかかわらない。つまりがんばらない。チップはぼくや、節子をどう思っているのかしらないが、媚びず、逆らわず、たんたんとして生きてきて、夕べから食欲を失い、朝も起きられず、散歩もいけず、なき声もたてず、うずくまっていた。朝、病院に連れていくというので、首輪とリードを填めるとよろよろと、台所のほうに歩いていったが、その後ろ姿を見て、そのまま家を出た。
犬として、かれは健康で長生きしようとは、意識にないであろう。ただ、一日でもこの世にしがみつこうとするだけの目的のために、運動や食生活や生活改善のなにをするでもない。がんばらない。そのあげくに彼が命を落としたとしても、あとに残されるであろうものは、寝床である一枚の座布団、首輪、リード綱、プラスチックの皿、洗面器だけである。かれにとっては「がんばる」必要はまったくないわである。それでもかれの犬としての生き方は、ほぼ完璧に近かったと思う。ぼくたちのしわわせの源泉となっているのである。
と、ここで友達がとつぜん来訪して書くのを止めて、かれとしゃべるためのコーヒーをと、いつものようにイオンの2階にあるサンマルクに行った。今日もまた新しいウエイトレスの数人のチームのようで、なんと多くの女性たちが働けるカフェかとうれしくなる。20代そこそこの彼女らが生き生きと楽しげであった。
カフェ、もしくは喫茶店といえば、劇団黒テントの代表である斉藤晴彦さんが、毎日新聞のエッセイで「ぼくの好きなもの」というのを投稿していた。好きなものは喫茶店というのだ。それは普段の日でもだったが、休みの日にかぎられたことだったか、ちょっと忘れたが、かれが言うには、午前中に1、2軒、午後は3軒は喫茶店回りをするというのだ。本を読んだり、なにもぜずにぼんやりしていたりと半々くらいでコーヒーを飲むというのである。なにしろ近所に喫茶店が20軒くらいあるので、行くのに不自由はしないという。なんともうらやましいかれの街であろうか。エッセイを読んで、今や彼の仕草や表情、語り口調までありありと思いだされて、やっぱりなあとうれしかった。かれに喫茶店はよく似合うよなと思うのであった。宮崎市での黒テント上演は、1974年から2005年まで、「嗚呼鼠小僧次郎吉」「阿部定の犬」「ヴぉイチェック」「西遊記」「夜と夜の夜」「日置ジャンバラヤ」「逆光線玉ねぎ」「金玉娘」「ど}などと歴代のドラマは上演されてきた。そのほとんどに上演実行委員長をしてきたわけだが、かれと「喫茶店」の話をしたことはなかったなあと思うのであった。
かれのエッセイの何日かあと、毎日新聞の本の広告で、かなりのスペースで喫茶店の利用の仕方といった本の広告もあった。その宣伝コピーを読むと、喫茶店がいかに自己啓発に有効な場所であるか、二人会議、商取引、受験勉強、委員会、読書原稿執筆、パソコン使用などなどと、日常の情報活動に利用せぬでは、時流に置いていかれるというようなテーマであるらしかった。いやあ、わからぬではないが、こんなことにいっぱい300円くらいのコーヒーで何時間も粘られては、たまらんだろうと、経営者の気の毒であると思うのでもあった。まあしかし、このようにも存分に利用できることはまちがいない。
しかし、喫茶店まで行った、がんばらなくてもいいと思う。がんばらない日々をどれだけ過ごせるか、これが一番生きていく喜びではないかと思う。がんばるというのが、いやなのは、それはほとんどが、世界や社会のためにならない個人の我執の実現にあるからだと思うからだ。だんだんそう思うようになったのは、ぼくのペット、犬のチップと11年を過ごしてきてのアイデアでもあった。
「犬はがんばらない」
ただこのことが、ぼくにいろんなことを勇気付けてくれる。両親もいない。家族も友達もいない。近所も都市もない。まさに世界にただ一点の存在として、生きている。その生きていることにたいして、改善とか、満足とか、目標の実現とかいっさいかかわらない。つまりがんばらない。チップはぼくや、節子をどう思っているのかしらないが、媚びず、逆らわず、たんたんとして生きてきて、夕べから食欲を失い、朝も起きられず、散歩もいけず、なき声もたてず、うずくまっていた。朝、病院に連れていくというので、首輪とリードを填めるとよろよろと、台所のほうに歩いていったが、その後ろ姿を見て、そのまま家を出た。
犬として、かれは健康で長生きしようとは、意識にないであろう。ただ、一日でもこの世にしがみつこうとするだけの目的のために、運動や食生活や生活改善のなにをするでもない。がんばらない。そのあげくに彼が命を落としたとしても、あとに残されるであろうものは、寝床である一枚の座布団、首輪、リード綱、プラスチックの皿、洗面器だけである。かれにとっては「がんばる」必要はまったくないわである。それでもかれの犬としての生き方は、ほぼ完璧に近かったと思う。ぼくたちのしわわせの源泉となっているのである。