市街・野 それぞれ草

 802編よりタイトルを「収蔵庫編」から「それぞれ草」に変更。この社会とぼくという仮想の人物の料理した朝食です。

チップが病気だ

2010-10-30 | 日常
 明日で9月が終わる。台風が今日は来ると言う予報ははずれてほっとした。

 と、ここで友達がとつぜん来訪して書くのを止めて、かれとしゃべるためのコーヒーをと、いつものようにイオンの2階にあるサンマルクに行った。今日もまた新しいウエイトレスの数人のチームのようで、なんと多くの女性たちが働けるカフェかとうれしくなる。20代そこそこの彼女らが生き生きと楽しげであった。

 カフェ、もしくは喫茶店といえば、劇団黒テントの代表である斉藤晴彦さんが、毎日新聞のエッセイで「ぼくの好きなもの」というのを投稿していた。好きなものは喫茶店というのだ。それは普段の日でもだったが、休みの日にかぎられたことだったか、ちょっと忘れたが、かれが言うには、午前中に1、2軒、午後は3軒は喫茶店回りをするというのだ。本を読んだり、なにもぜずにぼんやりしていたりと半々くらいでコーヒーを飲むというのである。なにしろ近所に喫茶店が20軒くらいあるので、行くのに不自由はしないという。なんともうらやましいかれの街であろうか。エッセイを読んで、今や彼の仕草や表情、語り口調までありありと思いだされて、やっぱりなあとうれしかった。かれに喫茶店はよく似合うよなと思うのであった。宮崎市での黒テント上演は、1974年から2005年まで、「嗚呼鼠小僧次郎吉」「阿部定の犬」「ヴぉイチェック」「西遊記」「夜と夜の夜」「日置ジャンバラヤ」「逆光線玉ねぎ」「金玉娘」「ど}などと歴代のドラマは上演されてきた。そのほとんどに上演実行委員長をしてきたわけだが、かれと「喫茶店」の話をしたことはなかったなあと思うのであった。

 かれのエッセイの何日かあと、毎日新聞の本の広告で、かなりのスペースで喫茶店の利用の仕方といった本の広告もあった。その宣伝コピーを読むと、喫茶店がいかに自己啓発に有効な場所であるか、二人会議、商取引、受験勉強、委員会、読書原稿執筆、パソコン使用などなどと、日常の情報活動に利用せぬでは、時流に置いていかれるというようなテーマであるらしかった。いやあ、わからぬではないが、こんなことにいっぱい300円くらいのコーヒーで何時間も粘られては、たまらんだろうと、経営者の気の毒であると思うのでもあった。まあしかし、このようにも存分に利用できることはまちがいない。

 しかし、喫茶店まで行った、がんばらなくてもいいと思う。がんばらない日々をどれだけ過ごせるか、これが一番生きていく喜びではないかと思う。がんばるというのが、いやなのは、それはほとんどが、世界や社会のためにならない個人の我執の実現にあるからだと思うからだ。だんだんそう思うようになったのは、ぼくのペット、犬のチップと11年を過ごしてきてのアイデアでもあった。

 「犬はがんばらない」

 ただこのことが、ぼくにいろんなことを勇気付けてくれる。両親もいない。家族も友達もいない。近所も都市もない。まさに世界にただ一点の存在として、生きている。その生きていることにたいして、改善とか、満足とか、目標の実現とかいっさいかかわらない。つまりがんばらない。チップはぼくや、節子をどう思っているのかしらないが、媚びず、逆らわず、たんたんとして生きてきて、夕べから食欲を失い、朝も起きられず、散歩もいけず、なき声もたてず、うずくまっていた。朝、病院に連れていくというので、首輪とリードを填めるとよろよろと、台所のほうに歩いていったが、その後ろ姿を見て、そのまま家を出た。

 犬として、かれは健康で長生きしようとは、意識にないであろう。ただ、一日でもこの世にしがみつこうとするだけの目的のために、運動や食生活や生活改善のなにをするでもない。がんばらない。そのあげくに彼が命を落としたとしても、あとに残されるであろうものは、寝床である一枚の座布団、首輪、リード綱、プラスチックの皿、洗面器だけである。かれにとっては「がんばる」必要はまったくないわである。それでもかれの犬としての生き方は、ほぼ完璧に近かったと思う。ぼくたちのしわわせの源泉となっているのである。
 
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NHKミーハー話

2010-10-28 | メディア批判
  前々回、朝ドラ「てっぱん」の直後の番組「アサイチ」で、女子アナウンサー1名を含む3人のキャスターが、今朝もまたヒロインのあかりは、どうなるのだろうと、ミーハー話をしゃべっていた。ぼくは、3人に高尚な話をせよというわけではない。もっと対象にたいするものの見方があるだろうと思うのだ。しがない庶民が主人公の人生と自分を重ねて、どうのこうのとやきもきするのは、ストレス解消となり、むしろほほえましい光景であろう。NHK大メディアの職員が、公共性をいちばん重要とするテレビ番組に登場しrて、なぜ同じミーハー話をしているのか、これが納得いかないのだ。

 その朝10月5日、アサイチがとりあげた朝どれいちばんの生活情報は「遺伝子化粧品」というのであった。加齢とともに皮膚の衰えにより鼻のわきに生じるしわ、つまり「ほうれい線」が、遺伝子化粧品で消えたという情報であった。60代だったかの女性が登場、、ほうれい線が遺伝子化粧品で薄くなったと、前後が紹介されると、わーっと3人は感嘆の声を発した。どうだろうか、ぼくらにとって、鼻のわきのしわがあろうが消えようが、彼女の魅力が増したともいえない、そんなことは、彼女の晩年の人生にとって、たいした問題ではないはずではないかと思う。しかし、キャスターたちはさらなる会話をつづけるのであった。すぐに話は広がり、乳がんの発症が遺伝子の異変にあり、その遺伝子の発見によって、乳がんも予防できれば、さらに、ここにも伝子治療があると、すすんでいくのであった。

 話が花開くなかで、遺伝子を治療すれば、乳がん予防も治療も解消されるかのような幻想が、視聴者の意識を知らず知らずにつつみこんでいくのであった。ところで、ほうれい線を取る化粧品は、万年筆をすこし大きくしたような化粧壜に封じられたものが、7万5千円だと示された。ほーっという感嘆。しがない母子が思い切って、相談の末に遺伝子検査をした。乳がん発症にかかわる遺伝子検査が5万円であった。遺伝子をあつかえるものは、年収200万以下の国民大衆には、無理なのである。まるで、国民保険制度のない米国の医療問題に似ている格差という大事な社会問題がある。また、遺伝子だけが病気と絶対的な因果関係があるわけもない。もしそうであるなら、その可能性のある遺伝子をすべて調べるだけで何百万という費用が罹るようになるだろう。貧乏人は遺伝子関係なし、少し金があるのものは、大腸がんだけに、大金持ちは、心臓から脳梗塞から、胃がん、すい臓がんなんでもごされというわけである。かくして、格差社会は、生きることそのものを、格差に追い込んでいく。幸い、乳がん発症に関する遺伝子が乳がんを発症するとはかぎらず、正常な遺伝子のもちぬしでも乳がんには罹る。免疫とうい生体の生命維持は、そんな単純なものではない。自動車の部品を取り替えるような単純な人間の肉体ではないのだ。3人のキャスターのミーハー話とは、この表面的な単純すぎる物語性だけに集約されているのだ。ここが問題なのである。

 ほうれい線があろうが、なかろうが、人間的魅力は、もっと内面的なもの、人格そのものであろう。加齢も美醜も関係ないという、不思議な通路を神、もしくは運命は、準備していてくれている。それはなんと幸いなことであろうか。すこし、ものをかんがえれば、見方を変えれば、人生はどこまでも豊かになれる。しかし、テレビで流れる人キャスターのミーハー話によるアサイチの情報は、このような可能性、人生の微妙さを伝えることができない。今朝もまた庶民たちは、単調な労働の一日をスタートする。ほうれい線もますます深くなる。しかし、その人生のしわが、真実感を発揮し魅力となることもありうるのだ。そう思わないか。

 
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孫、孫、まごついた運動会

2010-10-23 | 日常
  今週日曜日(10月17日)の快晴がしんじらないような、その後の曇りまた雨の毎日、それよりもき奄美大島の底なしの豪雨と洪水、山崩れ被害がニュースに連日報じられている。まだ、避難所との連絡がつかない場所もあるという。孫にとっては幸運の運動会であったわけである。

 ぼくは、嫁の方の両親ともひさしぶりに会え、孫を囲んで、かれの成長や出来のよさの自慢話をおたがいにいい気分で、これまた自慢しあうのもよろこびかと、そんな楽しみをまた思い出した。。それで、日曜日、青島への自転車ぶらりを止めし小学校へと自転車でやって来た。妻は後で自動車でやってくる。そして校門の前で降りて、ぼくはその自動車を妻のあと運転して、次男宅の駐車場に停め、すぐに一キロほどの通学路をたどって引返す手はずをしていた。

 校門前の自転車置き場に「エスケイプ」を柵に鎖錠で固定して、校内に入ると、運動場のまわりから、そこへいたる校舎のまえや、玄関の前庭、講堂前とどこもかしこ人でごったかえしているのであった。すぐ次男の携帯にかけたが、通じず、嫁のも「今電話に出られません・・」と自動反応するしで、では講堂の入り口の日陰で待とうと、通路になっている縄に沿って講堂に来た。ふと中をのぞいてみると、床一面にビニールの敷物が敷き詰められ、パッチワークのようになっている。その敷物のあちこちに家族らしき大人や幼児がいた。まるで避難所か難民収容所のような印象を受けて、おどろかされた。おそらく、運動場とおなじく場所取りの終わった空間になっているのだろう。そのテリトリー感情のせいか、(これが避難場と本質的にことなる空間になってる)散らばった人たちの険しい視線が気になって、ぼくは、やはり運動場へ引返した。

 運動場の正面いっぱいにテントの観覧席が、設けられていた。椅子が並べられ来賓席と大きく張り出されている。すでに来賓は着席をしていた。数十人分はあった。役員席は、校長やPTA会長などの席と、事務局、記録、放送などの席がならび、運動場の競技を真正面にしている。テントはここから左右に張り出して、競技グラウンドの南正面を占有していた。そのテントに入るには、縄の通路に沿って、受付に至り、ここで受付を終わって指定の場所に着座することになるようである。ぼくには無縁のテントでしかないので、早々とここと通り抜ける。

 また縄の通路である。角のブロック塀のところで、縄通路は終わって、その先から西側の塀際が一般席に当てられていた。ブロック塀のところにカキ氷を販売しているところがあり、つぎつぎに紙コップの氷が売れていた。携帯がなりだして、次男と連絡がとれたので、引返して運動場入り口で待つことにした。

 引返してみると門を正面するところにも、テーブルを3つほど連ねた受付があり、役員も3人ほど座っていた。競技のプログラムと場内案内図を貰おうと思ったが、そんなものはどこにも見当たらなかった。それぞれのこどもの家族だけが手に握っていた。ちらしを2000枚印刷しようが、3000枚印刷しようが、金額的にたいした差額にはならないのに、じいちゃんばあちゃんにもどうぞどうぞと、会場で手渡しするだけで、華やぐのなと思うのであった。急にトイレに行きたくなった、校舎と校舎をつなぐ敷地のなかも縄通路となっており、これをまたいだり、こえたりしながら、トイレらしい場所を探すが、見当たらない。トイレは別棟でなくて校舎の中に設けられていた。年寄りが朝の9時から午後3時までトイレなしに過ごせるわけはないのに。年寄りよ、今日くらいはトイレには行くなかと思えた。几帳面な嫁方のご両親は、最後までトイレを使用されなかった。真面目すぎる方たちである、いつもそう思うのだが、今日もまたそうであった。、

 ようやく次男とも連絡がとれ、それぞれの両親と6人で、向きだしの地面にビニールを敷き、簡易の椅子を2脚置いた場所で一同揃った。日頃のご無沙汰を交わし健康状態の情報交換を終わり、競技の様子をみることになった。ここからは、白団という孫に居場所などは遠くて、孫の姿など目につかない。すでに集団での演技は終わり、後は午後2時過ぎの130メートル競争まで出番はないのだ。あまり興味はわかないが、それでもひとつひとつを見ていくしかなかった。それにしてもやけに陽射しは強く、ビニールの上は大きな蟻がはいまわって手や足に執拗に登ってくるのであった。土の香り、蟻のうごめきが意外に懐かしいのでもあったが。

 学年リレーとか、球戯、また集団ダンスなどの競技が終わると、優勝団に優勝旗が手渡される。しかし、テントの中でよく見えない。ただ放送で、「白団に宮崎市教育員会次長○○△△様により優勝旗授与が行われます」とアナウンスが流れる。競技ごとになんなに課長様とか、PTA会長さま、町内会長さまとか、優勝旗授与者が登場するのであった。なんになるんだろう、こんなこと。昔は、いや数年前や長男の小学校ではこんなことはなかったがと、思うのであった。

 やっと昼休み直前のリレーが終わって、午前の部が終わることになった。そこで今度は、この運動会の意義についてのえらい人の祝辞があり、それにつづいて宮崎県とか、宮崎市とかの長やら次長やらの祝電の電報文がよみあげられだした。その後は、なんなに幼稚園さまが、10数箇所幼稚園名だけで助かったがつづいてようやく終わった。すると、こんどは先生が児童たちにこまかい昼休みの注意をこまごまと述べだした。もう時間超過、休み時間は短くなる。昼ごはんが終わっても運動場で遊ばぬようにという注意が終わると、やっとこどもたちはそれそれの家族のもとにぞろぞろとちり始めたのである。

 食事の細さは相変わらずだが、とにかく運動場で遊ぶのが大好きで連絡簿にもそのことが書かれてきた。食事を終わると、すぐ出て行こうとすのを次男も嫁も「ここでじっとしとらんね。運動場で遊んだらイカンといわれたでしょうが」と叱った。まわりにこどもたちのざわざわした気配がたちこめだしたが運動場で遊ぶこともたちの姿は一人も見なかった。

 かくして食時も終わり、孫に元気な様子も見られて、後は午後2時過ぎの競技を見るだけでとなった。その走りでは、孫は,5人走者のなかの2位であった。保育所から走りはどんじりか下から2番か3番であったのに、粘りに粘ってゴール10メートルくらいのところで、一人を抜いて2位になったのだ。後で電話すると、うん、うんと言っていたが、走りに自信がついたろうというと、ついたと答えてくれたが、本気かどうか、どこか無関心な返事ではあった。

 この競争で、先方のじいちゃん、ばあちゃんもぼくらも終わりをまたずに帰ることにした。自動車は、校門の近くのファミーレストランに停車してあった。ぼくは自転車で、青島の帰途に予定していた清武町、池田台団地、天満橋を廻って、帰宅に向かった。走りながら思うのであった。これまでは、こんな運動会ではなかったのにと思いつづけるのであった。運動会と遠足はどこが違うのだろうか。遠足に祝電を打電する「様」「様」はいないだろうに。運動会とはなんなのだろうか。まごついたのは会場ではなく、運動会をどう理解できるかであった。



 

 

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自転車ぶらり 泣いてみても

2010-10-16 | 自転車
 NHK朝ドラ、なぜかこれは正式には「朝の連続小説」というようだ。何でこれが小説なのか、つまり60年代以前の文学教養への思いがある。事実、この通称アサドラを連続小説と銘したのは、その発足した60年代であった。この時期、まだ文学は大衆の教養でもあったのだ。まさにNHK風な銘銘ではある。そして現在もまたその教養主義の尻尾をつけたままであるようだ。そうでありながら、この朝ドラ「小説」がおわると、すぐにつぎの番組でアナウンサーたち三人によるミーちゃん、はーちゃん的な物語へのどうしたこうしたのよいしょ感動話が交わされる。矛盾してないか。おまけにこのごろは、わざわざ父親役の俳優遠藤憲一をこの番組に招いて、かれの高校生のころのつっぱり写真や、残りの強面と今の落差などをやいのやいのと、囃子たててよろこんでいる。これまたみーちゃん・はーちゃんの評ではないか。かくして前後にむだなひらひらの飾りがつてき始めた。前の「げげての・」のときと同じことだ。ただし、ドラマは毎朝、感動のシーンがとどけられ、抵抗のしようもなく涙がほほをつたう。

 感動といえば、2010年10月15日わが国でのチリの炭鉱坑道地下720メートルに閉じ込められた鉱山労働者全員救助の実況中継もまた感動ものだった。それに世界中で感動が渦巻いているのが、報道される。まさに世界はグローバル化したと肌身で感じさせらる。どこもかしこも感動、感動で溢れかえっている。すばらしいと、思う。しかし、朝ドラの感動、またチリ炭鉱の33人の全員救助の感動も、テレビ視聴によるものである。世界同時感動もテレべ受像だけによって可能になった。テレビに存在しないものは、存在しないに等しい。まさに社会科学者のいうように、テレビという虚構が現実となり、日常の生きている世界、ほとんどテレビ放映にならない「現実」のほうが、虚構となって関心を失う。

 自転車でぶらりとするのも、街をほっつきあるくのも、喫茶店をかなり愛するのも、実は虚構ではあるまいかと、情けない思いに追い込まれるときもある。さて体育の日の代替休日、10月11日は、雲の多い晴天の日であった。午後1時近くになって、ふと外にでると、完全な無風状態であった。気温は27℃前後か、このおだやかな日は、自転車行にとってベストコンディションなのだ。一年に何回しかない日なのである。ただちにサイクリングへ出かけることにした。午後になったので、今回は青島へ行く。県総合運動公園に入り、その南の加江田川に架かっているトロピカルブリッジを渡り、「こども国」公園沿いにつづくトロピカルロードを走りながら青島の正面に出る。ここから国道269号線を経て、清武町に入り、池田台団地を越えて天満橋に至り、市街地に着くということにした。まさに走るということは、具体的でかつ現実そのものではないかと、思えるのではあった。

 午後1時半丁度、長袖シャツ一枚では、肌に風邪が冷たいほどだ。盛夏の35℃前後の走行とくらべると、ほんとに楽なものにかわってきた。赤江橋を越え、その取り付け道路が延長されて、2キロほど伸び、つきあたりの角を右折して国道269号に入った。ここから、飛行場も自動車が気付かないというか、不安で入れぬ間道を抜けて、ただちに空港につき、いっきに青島バイバス沿いの自転車道を走っていく。赤江橋が出来ない前とくらべて空港も20分でここから行けるようになった。

 今回は、前から思っていたのだが、運動公園から、橋に直接入れるはずで、それを探すことであった。正面の堂々たる幅員50メートル近くもありそうな道路にはいっていったが、たちまちどこに橋に向かう道路があるのかわからなくなった。亭々と並ぶ大樹に囲まれ、その奥に、あちこちと、さまざまの運動施設が見えるが、その内、南北東西もはっきりしなくなった。波の音さへ聞こえない。なんでこんな巨大施設をつくったのだろうとおどろくばかりだ。その内にシーガイヤのオーシャンドームに匹敵する施設のドームが見え出して、その方向が海岸だとわかり、その側面にすすんだ。すると赤い色のやや狭い舗装道路があり、ここが運動公園の外を廻る道路になっていると思えた。と、その道路のもう一つ向こう、ちょっと見上げる位置に道路があり、高校生の数人連れが自転車でわいわいいいながら走って行く。その道路こそたしかに橋に入れる道路と気付いたが、そこは公園の外であり、ここから行けないのだ。しまったと思いながら、さしあたりここを進んでいくと、なんとここがすんなりとトロピカルブリッジにつながっていたのだ。外側の道路は、一度、海岸の駐車場に至り、そこから橋に上がって入るようになっていたのを、思いだした。かくして、ぶじにブリッジに入れたのだ。

 橋から眺める景観、ハワイのホノルルワイキキの人口海岸の何十倍のある広大な自然の白砂の海岸は圧倒的な存在感でひろがり、ここに来るたびに宮崎市を誇りたくなるのだ、シンガポール幻想の津村市長さへつづかなかったなら、東国原知事が黒木知事のすぐあとになっていたら、宮崎市はもっと別の市街になっだのであろうと、景観の感動が押し寄せてくる。と、そのときだ、胸に急激な焼けるような痛みが襲ってき始めた。胸焼けのどはずれのものといえようか。この疼痛は、年に何度か、あるいは数年に一度かと起きることがある。ぼくは自分なりの判断で、心臓の不調としてきている。胸焼けの原因としてほかに想像のしようがないからだ。それで力を可能な限りゆるめて、自転車を漕ぐ。一向に痛みは治まらない。

 橋を渡りきり、こどもの国公園の遊園汽車の線路を走る汽車が虚ろに見える。ちょっときびしいな、いつもよりしっこいなあと、自転車を降りた、すると、急に脈拍が速くなり出した、運動を突然停止すると心拍数が激しくなる、この症状だ、すぐに自転車に乗り、ふたたびゆっくり、ゆっくりと漕ぎ出すと、まもなく正常にもどってほっとした。これまで運動中にこの胸焼けがおきたことは無かったなあと、あらためて感じるのであった。だんだん呼吸も平常にもどったところで、海岸に東屋があり、テーブル・ベンチもあったので、ここで自転車を降りて、座った。どうやら心拍もあがらず、ほっとして、休息しだした。風はないのに適当な波が押し寄せ、サーファーが波乗りをしている。ほとんどはボードを胸の下にして遊んでいるのだが、何人かは乗っていた。かなりうまい。内の息子はどの程度なのだろうか。まだみたことないのだ。読みかけの文庫本をズボンの後ろポケットが取り出して読み始めた。

 あっという間に半時間ほど経過した。もう胸の疼痛は消えていた。さらに読む。

 残った部分100ページ部分の現代アートの現況の部分を読了した。丁度、休憩して一時間ほど経っていた。もう体調はもとの通りであった。そのときはっと気付いたのは、本がこれほど集中して読めたことであった。これまでは、外で本を読むというのは、いつもタリーズか、サンマルクか、マクドナルドなどの喫茶店で、若干人々がざわめいるほうが集中できたのだ。この孤立した海岸のベンチで水もコーヒーも、音楽もなく、これほど本がよめるとは、おどろきであった。

 頭を使うと、疲れは実は飛ぶ。これはあんがい人は気付いていないようだ。場合によっては、運動で気分転換するよりも頭脳労働で、気分を高揚させたほうが、エネルギーが涌いてくるのだ。とくに年寄りは、スポーツよりも読書と考察をやったほうが、はるかに生命活力に効果がある、ぼくはそう思う。とにかく気分爽快になったが、帰りは、もと来た道を素直にたどって帰るほうがいいと、なぜか思えた。快楽をどこまでも追い求めてはなならない、そんな風に感じたのだ。来た道をただ帰りにするのは単調であると思えたが、そうではなかった。なにか、楽で悠然と散歩しているようにゆったりと帰れたのであった。腹八部はやってみて後が快適とわかるのだが、ほとんど出来ない。運動もまたたいていそうだ。今回は胸の疼痛によってそれができた。運動八部も想像以上に快適であったのだ。
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NHK朝ドラを見るために

2010-10-09 | 日常
  昨日、今日と朝小雨が降っている。チップは散歩に行きたがらない。いつものように引き綱を力任せに引っ張って歩かせるが、チップが勝つか、こっちが勝つかの勝負は、神経を磨耗させる。今日はダメであった。その後の楽しみは、朝食をつくることだが、なんとパンも切り餅も残っていなかった。今朝はごはんで納豆と豆腐にしよう、スープを作るわというので、仕方が無いので彼女に任せた。幸い、銀座のコーヒー店から、定期購入のコーヒー豆が昨日届いていたので、コーヒーを淹れるだけにした。ただ、彼女の朝食つくりがいちだんらくするまでは、流しもまわりも食卓も材料や、食器であふれかえって、ドリッピングに集中できるものではないので、しばらくぼつねんと、食卓の椅子に座って、なぜこんなにちらかるのだろうと、妻の朝食づくりを考えてしまうのであった。

 とどいたばかりの豆はすばらしく、甘みをふくんだ深いコーヒーが出来た。しかし、楽しめないのだ。なぜなら、シンクもテーブルもカフェのように片付いていないからである。それと納豆、豆腐、椎茸のすープにご飯と、コーヒーは相性が悪いかんじであった。食事を終わって、しばらくして、リビングのテーブルでコーヒーならまた別の味わいとなったのかもしれないが、なにしろ、午前8時からは、NHKの朝ドラ「鉄板」を二人揃ってみることにしているからだ。前回の「げ、げ、げの鬼太郎」からすると、毎朝、半年以上は朝ドラを視聴してきているのだ。朝ドラなど何十年もみたことはなかったのだが、げげげは、毎朝、節子が熱心に視聴しつつけていたので、ふとのぞいてみて、そのままぼくも見るのがくせになってしまったのだ。そのげげげもやっと終了して、ついでに「てっぱん」を初回に見たら、そのままはまってしまっている。

 こういうわけで、朝食は、毎朝、午前8時までに料理を終え、隣のリビングに大皿、小皿、3品と、コーヒーカップとグラスをならべる。その前にチップの食事を終えさせておく。仏壇の水と、数日おきに灯明も。すべてが終わり、テレビのスイッチを入れるとブラウン管からややにじんだ画像ではあるが、げげげではあの透き通るような、というよりノーテンキな明るさいっぱいの「あ・り・が・と・・・・・・・う」の主題歌が流れ出すのだ。この世界には青空しかないなと、かんじさせられくるのだ。今回のは、ヴァイオリンのリズミカルな旋律に合わせて、ご町内のみんなや、学校や保育園や公園で、みんなが、なんの心配も不安もなく、軽快のダンスを踊るシーンで幕が開くということになっている。このダンスをみていると、ぼくの近所15世帯のうち7世帯が後期高齢、来年は4世帯が80歳超の世帯になる現実がふと遠のいていく。

 ぼくも今月で班長さんの半年の当番を終わり、節子と二人で、ノーベル賞も関係なく、ふたたび静かな毎日になってきているのだ。さて、前回は、夫婦愛と、明るい未来のげげげ夫婦の成功物語であったが、今回は、家族愛のすばらしき物語が展開していくようである。で、この二つともぼくには、なんの関係もない。妻もげげげの女房の正反対、ぼくも水木しげるのつめの垢にもおよぼない夫の役割、しかたがないというか、生きる目標にいい加減というか、なんのために生きてきて、まもなく人生の週末を迎えるのかというか、そういう夫であるしかない二人が、夫婦愛の朝ドラを、飽きずに毎朝、視聴していけるというのが、凄いといえば凄い人生のクレバスあるいは隙間では、ないのだろうか。それは、反抗か、自嘲か、諦めか、もう無くなってしまったぼくらの両親が、この現実を知ったらなんと思うだろうか、そして、このような夫婦生活を長男・次男たちはやらずにすむのだろうか。そんな思いがいつも流れてはいた。でも惹かれるのだ。

 この二つの夫婦愛、家族愛のドラマは、この世にありえないものをあるように見せることで、そして、この語りによって相手を信じさせることで、詐欺師の話と同じであろうかともいえるのだが、この場合は、だれでもこんな話はウソであると見抜いているうえで楽しんでいるということで、詐欺師の話として楽しんでいるわけではないらしい。ウソとみぬけた話はたのしめないのだ。おそらくこの朝ドラに惹かれるひとつの要因は、これは歌のようなものだからだと思える。感情にうったえつづけるあのリズム、メロディー、おもわず体が揺れ、歌いたくなるような感情の高揚感が吹き上げてくることと共通しているのかと、思える。

 人生はこうありたいものだ・・と、視聴者であるわれわれは「泣ける」のだ。泣ける歌が、毎朝聞けるのだ。泣くことはストレス解消に効果があるといわれる。そういう受け取り方は、健康そのものではあろうかと、思うのだ。それにつけても、げげげ,てっぱんが終わると、同じブラウン管で3人の若い男女のアナウンサーか入れ替わって、次の番組に移行するまえに、今見たシーンで、主人公がどうしたこうしたと、これから彼女はどうなるのだろうかと、メロドラマの展開を、しゃべって内容の共感を煽るシーンがたびたびある。彼/彼女は、ドラマを「歌」として語るのでなく、内容を日常に現実の起きたこと、起こることとして語るのである。だが、かれらは、あのドラマにリアリティをほんとに感じているのだろうか。それならすごくアホであろうかと思う。あるいは、意図あることだろうか。たとえば、どしどし結婚して、夫婦愛、家族愛を実現してこどもを生み、国益に沿うような若者たち、それを可能にする社会を実現できるとドラマを共感しているのだろうか。それなら、もっとアホである。この、ぼくにはよくわからないかれらのおしゃべりシーンに顔を背けたくなる。ただちにチャンネルを替えて、ニュースを見ながら、出勤の準備を終えて、家をでるのだ。いってくるよというと、このごろ、返事をかえすようになった。ドラマのせいだろうか。まさか、そうではあるまい、妻はそれほどアホではないと、ぼくは信じている。
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ときには劇的であることを

2010-10-02 | 日常
 2010年の9月が今週、過ぎ去った。昼間に雨が降ったのは宮崎市では3週間ぶりで、冷え冷えとした秋が来ている。雨の日も、晴の日も一日も休み無く、朝、夕のチップの散歩をしてきた今年も、はや残りも三ヶ月となった。そのチップであるが、いつのまにか、12歳を越える高齢犬となってきた。この犬はほんとに変わっていて、散歩をよろこんでしていたのは3歳くらいまでで、後は、仕方がないというふうにだらだらとついてくるようになった。たいがいの散歩する犬は飼い主を引きずるようにして前をあるいているが、チップは後ろを歩く。そればかりか、決まったコースを取らせるには、叱咤激励をしなければ、進まない。もう何十回、何百回とすれ違う近隣の人から「かわいいね、かわいいですね」と声をかけられても、反応をしないまま。ときに気が向くと声の主に近づくこともあり、その人がかわいい、かわいいとなぜようとした瞬間、ぱっと、顔を背けてしまうのだ。「この犬は、ほんとに愛想がないんですよ」と、ぼくはいつも言い訳をしなければならなかった。ぼくに積極的に抱かれたことも無く、食事、風呂、寝る以外によんでも来たことはない。しつけがまちがったというわけでもなく、マイペースの犬のまま高齢犬になった。

 この犬の風変わりのところを、まだまだ書きたいが、一見して、そう見えない典型的なシーズの愛くるしさをいまだに漂わせているのが、まったく買い損なったという気分にさせられることもある。しかし、こういう犬だから、いつ死んでくれても気が楽であろうかと、ぼくとの配剤をおもうこともある。ところで、高齢になったので便秘しがちになってもいる。チップをうまく排便させるには、かれとの長年の付き合いがなければ難いだろう。

 散歩のコースでだいたい決まったところで、立ち止まり、くんくんと鼻を地面につけながら、右、左と数歩移動を何十回と繰り返しながら、やがて便意を催して、排便するのだ。今朝は曇り空だったので、いつものコースは行きたがらず、反対方向に歩き出した。家の前のどうろを100メートルほど東に行くと十字路があり、その南の空き地の角のブロック塀の下がお気に入りのトイレでもあった。そこまでくると、いつものように左右の移動をし始めだした。しばらくして、ふと人の気配で目をあげると、小さな小学生の少女と、その兄らしい男の子が、チップをこわごわと見ていた。その近くが登校班の集合場所なのかもしれない。ほとんどの幼児、小学生は、犬に親しみを示すが、ときには怖がる子供たちもいる。そんな兄妹であった。チップはやがて排便をしだした。女の子は、まじまじとそれを見ていて、終わると兄に向かって、気持ちわるそうなそぶりを示していた。それを横目でみながらぼくは、トイレットペーバーで、「うんこ」をつつみこんで手にすると、少女は声もうしなうほど気持ち悪そうで立ちすくんでいた。兄もショックでみているようだった。その瞬間、ぼくは、このトイレットペーパーにつつまれたうんこを、女の子に「はい、プレゼント!」とぐっとさしだしたのである。彼女は声もあげられず、兄のほうにとびすざった。「プレゼント要らないかい」ともう一度、声をかけ、「要らんのかい、それじゃ持って帰ろう」と、白玉模様のあるビニール袋に収めて立ち去った。二人とも呆然として、ぼくをみつめて立ちすくんだままであった。

 さて、あの小学一年生くらいの女の子は、この朝の出来事をどう感じたのであろうか。これが冗談であることは十分に認識できたことは間違いない。しかし、彼女のおどろきは、すでにチップに遭遇したときから始まっていたのだ。犬の排便のおそろしさ、その便を手でひろう大人の男の不愉快な行動、そしていきなりプレゼントとさしだされたショックとなったわけである。それは、彼女が思いがけなく出会った朝のドラマであったのだ。おそらく彼女は、チップと飼い主の異常な行動をこれからも長く記憶にとどめざるをえないのではないのだろうか・・。テント劇団「どくんご」の役者の一人「暗闇健太(クラーク健太)」が自分の芝居出演について語ったことで、観客にドラマのどんなシーンでもいいから、記憶の残してもらえるような芝居をやりたい、それだけでいいと言ったことがあった。芝居が、何を言いたいとか、意味は何なのかと、そんなことはそれぞれが想像してもらえばいいけど、いつかどこかで、ぼくの出たなにかのシーンを思い出してもらえればと思いますよねと話してくれたことがあった。ぼくはこのとことに、なによりも納得できるのであったが、ぼくが今朝、やったことも、こういう意味では役者につながるかもなと思うのである。(笑い)

 ところで、このぼくの行為に、なんの意味があるのかと言われても、説明のしようもない。なぜ、少女をおどろかしたかったのか、意味もなく、衝動的にそのような行為をしたのかと、詰問されると、ただおどろかしたかったとしかいいようがない。意味もなく人それも無垢ないたいけない少女をおどろかすとは、何の意味があるのかと、といつめられると、それに答えることは不可能である。ただ、これが許されうるアソビのある世界、これだけがあれば、生きるに値する社会になるのではないのだろうか。単調な機械的な、テレビでコントロールされた自分から、ちょっとだけのがれられる空隙がだれでもやれる世界、これが理由だったかもね。






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