goo blog サービス終了のお知らせ 

市街・野 それぞれ草

 802編よりタイトルを「収蔵庫編」から「それぞれ草」に変更。この社会とぼくという仮想の人物の料理した朝食です。

谷本 仰ライブは、魔法のコンテンツ

2015-08-31 | アート・音楽
 前回(8月29日投稿の分)につづく。ここまで谷本仰のライブについて、そのチラシによる
先入観をながながと記した。その夜の谷本さんも演奏も、チラシの先入観とは正反対であったのだ。なによりも、谷本さんは、三木ちゃんの言ったとおりの気さくで、接しやすい人柄であった。また難しい話などは、ぜんぜんなく、要は、かれの演奏するバイオリンに話はこめられているのだった。その「話」は、その夜の「ひむかの村の宝箱」と、20人の聴衆と、台風前夜の風と驟雨と暗い闇の自然がくわわったその夜かぎりの話であったと思えた。つまりちらしのタイトル「Solo Dialogues」独奏者の対話であった。さらに言えばバイオリンが、ぼくと対話するという魔法のコンテンツを出現させたのである。

 何も知らず、ひたすら偏った先入観を抱いていたことが、かえって良かった。こんな魂消たバイオリン演奏があるのかという衝撃が心身をゆさぶった。クラシック音楽会などで手拍子をうったり、リズムの合わせて手足を動かしたり体をゆすったりすることはありえないのだが、幕開きの即興曲がクライマックスになっていき、まさに轟音となって満ちていくとき、ぼくはそうしていた。そのうえ、なぜか哄笑していた。三木ちゃんも先駆けていつものように声たてて笑っていたので、ぼくだけが変態ではなかったのを知った。

 夜の森の一本の木のしたで、狸や街から来た犬や猫がくわわって、バイオリンを中心に演奏をしているという様子を感じ取れたのだ。雨、風も強くなってきたので、それに負けじと、かれらは懸命に演奏をするのだ。負けるな、負けるなの演奏ぶりが、なぜか笑えるのだ。なにゆえか、犬や猫も狸も迫り来る台風の予感のなかで、ひたすらにバイオリンの曲をもりあげている。それはまさにドンキホーテのこっけいさを感じさせるのだった。ここは、人間という音楽家でなくて、動物たちであるのが、イメージとして心に響いてきた。つまり純粋さといえようか、ひたすらに生きていくために、目の前に音楽が演奏されている。どこかユーモラスなシーンにおもえたのであった。実現しえない魔法の国の光景に思えたのであった。こうして、怒涛が引くようにして、演奏は終わった。汗がどーっと吹き出すような沈黙が訪れた。その即興曲は、パンクという曲名にしたと、かれは汗をぬぐようにして告げた。高速道でパンクした経験で、生まれた曲だと説明された。

 以上は音楽エフェクトを併用し、エファクト自体も演奏されて展開した序曲のぼくの感想である。具体的な演奏法については、語れない。ただ聴いてもらうしかない。その高度なテクニックに裏打ちされたバイオリン演奏が、聴衆を魅了するに違いない。その意味でアートである。ここで、アートはステージから聴衆と対話するために降りてくる。この実感に興奮させられたのだ。そして、「パンク」という曲名自体も、ぼくには意味があった。なにかやろうとし、つらぬけば、人生、パンクの連続ではないかと。パンクにわずらわされていたら、一歩もまえにはすすめないという現実である。ここに谷本仰の生きる意味がこめられているような思いがした。

 つづけて、アメイジングレイスのバイオリンソロであった。それは、灼熱の砂漠の荒野で流れ出すようであった。鋼のような賛美歌になっていた。この演奏には、谷本さんの練達の技と冷徹な意識がこめられていた。甘い優美な優しい賛美歌のかわりに、立ち向かい、破れ、悔いる、立ち上がるという精神の賛歌のような力強さがこめられた、吸いこまれるような演奏になっていた。それから第2部のタンゴの演奏になっていったのだ。

 タンゴは、ぼくはあまり好きではないのだ。このグローバルになった世界のなかで、いまだにヨーロッパ至上主義のような雰囲気をかんじてならないのだ。あのリズムそのものもマンネリに覚えて退屈なのである。ところが、かれのタンゴの解釈は、えっという視点がかたられたのだ。タンゴは落ちこぼれて、アルゼンチンにやってきたなぐれものが、ここでふたたびなぐれてしまった男たちの嘆きと郷愁の歌だというのだ。男と女の華麗な駆け引きではなくて、女を追いかけても手にいれられぬ男の悲嘆だというのだ。希望を失った男がすがったヨーロッパへの郷愁だという。疎外された脱落者の歌という。夢なく、孤立し、生きる実感もなく、自分を喪った男のよりどころという。まさに「パンク」だ。この解釈はいい。それなら分かる。だが、かれのバイオリンだけによるタンゴには、まだついていけないものがあった。あのタンゴのリズムがあるかぎり、それはタンゴになるからである。いや、その夜ぼくは、序曲の即興曲と、谷本のアメイジンググレイスに意識をすでに占められていて、もう満喫していたせいかもしれない。それほど、かれの演奏の振幅は広かったともいえる。ただ、近く宮崎市民会館で、「トリオ・ロス・ファンダンゴス」というかれのばんどで、公演があるということを聞いた。その夜を待つことにしようと思ったのである。
 


 
 


 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

レコードコンサートが先なのか、真空管アンプが先なのかは

2013-12-19 | アート・音楽
 真空管アンプの視聴体験をもとに書いてきているが、熊本市に転勤になった記者のAさんが、昨日やってきたので、もともと学芸担当のベテランだった彼に、蓄音機や真空管アンプでレコードを聴いたと話をした。それはいい体験だったと喜んでもらえたが、彼本人も、自宅に100万円のオーディオを備えるレコードやCD音楽の愛好家であると始めて知った。熊本に赴任してから最近熊本市内でジャズ喫茶を発見、毎週通っているというのだ。その店で1000万円超のセットで聴くと、レコードはもちろんCDでも深みのあるいい音となるというのだ。1000万円!もするのと驚くぼくに、彼は笑いながら、実家に帰ったときは、オーディオ装置販売店の視聴室に行く話をしだした。その部屋にはジャズ、クラシック、ポップと1000万円どころか、2000円以上の装置がずらりと並んでいて、そのどれかで聴くわけで、それは驚異的な音質で音楽が聞こえてくるというのだ。ぼくの100万円のセットなど、オーディオという山の底も底でしかないものなんだというのだった。以前は阿蘇山中にある「オーディオ道場」という喫茶店に行ったものだが、ここはお城のような武道場を改築した建物で、体育館みたいな広い床にそれこそ1000万単位を真空管アンプやCDアンプがごろごろ置かれているとう。それも腹に響く音響でジャズを聴かせてくれるし、リクエストでも持参のレコードでもCDでも演奏してもらえるという。山の中だから巨大な音響も可能なのだそうだ。そのアンプの再生機能は、日常ぼくらが聴くアンプでは想像できないかもしれないとも話すのだった。

 アンプは、普通では、レコードの録音の17,8パーセントしか再生していないのだそうだ。だから、かれらはそのパーセントをアゲルために財力や工夫を注ぎ込んでいる。スピーカとアンプを連結する100万円の導線を、30万円の導線に変えてみたら、かえってこちらの安物のほうが、いい音になったと話したりするという。例のジャズ喫茶の親父さんも、スピーカーを支えるために置いていた樫の木の台を、桜に変えたところやっと思った音が出だしたと話したという。こんな話を聴いていると、蓄音機とアンプをちらと聴いただけで、アンプの話や、レコードの話などするのは、見当違いのことのようであると気恥ずかしくなってくるのであった。しかし、こういう話をきいていると、レコードの刻まれた演奏音楽の記録が再生されるということは、どういう物理学的現象が生じているのか、知りたくなってくる。17パーセントの録音記録の再生とは、具体的にはどういうことなのだろうか。アナログの溝を針が走りながら、その溝から17パーセントだけ振動をひろって電流に変換するのか、では高級アンプなら同じレコードからなぜ70や80パーセントの振動をひろえるのか。さらに電流となった記録が、マグネットを強弱にして、それがスピーカを振動させて音楽を再生するときに、導線を変えたり、敷物の材質を変えたりとしたら、いい音質になるというならば、その音質は後から加わったものではないのか。そうなると、音波とは何なのか。その音波を形成する素粒子の働きが問題になるかもしれない。いや、記録されたということは、実はその記録は、素粒子までいく、計測されるものでなく、音楽とおなじに実態として、計測することは不可能である音楽の本質が、記録にもなる。それだから、どこまで接近できていくかしかない、ゴールはないとうことになるのだろうか。物理的数量の世界が、どこかで消滅しているのだ。

 さて、今やレコード音楽の再生とは、理論的にこうであると、計測できないことだけはいえそうな気になってきた。で、このことは脇に置くしかない。そこでレコード音楽と真空管アンプのどちらが先、重要であるのかという問題は、貨幣の両面であると思うと考えやすくなるように思う。その際、表はアンプなのか、裏なのかは、どうでもいいことである。そこまでなら、人によっては表をレコード音楽にして、裏をアンプとうするとも、その逆とも気分の問題でしか過ぎない。例のオーディオ道場はたぶん表はアンプなのか、その道場のとなりにも喫茶店があり「SOUND・音・阿蘇」と看板だけが残存しているということだ。どちらもアンプが表であるように思う。彼は即座に音楽を聴くためにでかけるというからレコード音楽が表である。その関係を貨幣であるとみると表も裏もどちらが重要だとかは関係ないのである。表裏あって貨幣が成り立つ。表裏あって貨幣の価値を示すだけである。一円硬貨もあれば、百円硬貨も五百円硬貨もあり、その交換価値だけがある。貨幣をどう使用するかだけが問題なのである。つまりここではアンプと音楽レコードが生み出す価値、「音楽」をどう消費するかが問題となってくるのである。

 その後、ぼくが聴いた真空管アンプでのコンサートは、7年経った現在も持続されている。その後の記録によると、平成23年9月に「宮崎レコード音楽愛好会」が田中さん代表で結成され、まずは宮崎市の喫茶店「色空」で街角レコードコンサートとして実施されるようになった。毎回アンケートを取り、感想や意見そしてリクエストを募集してコンサート内容をアレンジしてきている。その演奏曲目(2011/6~2013/6)をみると、ジャズやヴォーカルも加わり、バッハ、モーツアルト、ベートーベン、シューベルト、ショパンなどなどと並んでいる。同時に再生装置は、毎回、会員各自がレコードプレイーヤー、MCトランス、カートリッジ、プリアンプ、メインアンプ、スピーカーと提供して構成されている。聴衆に可能な限りいい音で音楽を聴いてもらいたいという意図があるのが伺える。このコンサートの中で、ぼくが注意を引かれたのは、先月の16日(土曜)に県立総合博物館の保存建物がならぶ民家園の一棟・椎葉村古民家で実施されたコンサートである。これは第一部がなつかしの映画音楽、第二部がリクエスト音楽となっている。りんごの歌から青い山脈であり、太陽がいっぱいや、サントアマミー、津軽しゃみせんと演奏は、民家の囲炉裏の火をかこんでつづけられた。参加者は72名であった。このときも音響装置は真空管アンプとプレーヤーからカートリッジ、と会員3名がそれぞれ提供している。盛況であり、思い出に涙をながす人も見えたということである。コンサートにようやくテレビや新聞などメディアも報道をするようになって、知られるようになってきている。その結果、ウィークディに実施する県立図書館のコンサートも九月には52名となり、座席数が足りなかったという。現在、真空管アンプとレコード音楽の貨幣がこのようなレコード音楽コンサートを生んでいる。アンケートにも大アンプ、大スピーカで聴く迫力などの感想も寄せられている。ここでは、これなりの消費をしていっている。

 もう目につかなくなったと思っていた真空管アンプとレコード音楽が、絶滅を免れて生存し続けている。消費の拡大がつづけていけそうだ。原発ではないのだ。これがいい。これが文化だ。 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

蓄音機・真空管アンプとの可能性を求める人たち

2013-12-14 | アート・音楽
蓄音機を捜し求め当時のレコードを探し出して音楽を聴くのは、蓄音機とレコードの入手で、目的は達せられるように思う。だが、真空管アンプとなると、真空管にはじまり、導線、トランス、その設計と無数の工夫や、製作技術が必要だ。加えて、不可欠のスピーカーもその性能は、商品目録を埋め尽くし、自分でも、スピーカーの製作に没入しなければならない。配置、それを収める筺体の材質や形状などなど、技術的課題は、性能の発揮に向けて試行されつづけられる。こういうプロセスでの真空管アンプの到達点というものはあるのだろうか。また他方で、音楽レコードの音楽つまり演奏をどこまで再生すれば、完了するのだろうか。いや、レコードに記録された溝(記憶媒体)の再生は、どこをもって完全再生となるのだろうか。そういうゴールはあるのだろうか。それが確定されれば、そのレベル作業は終了となる。ゴールまでの作業となる。しかし、80歳近くまでアンプの作成をつづけてきて、まだ新たな目標があるという情熱も燃えていたお医者さんにゴールはないのであった。では、真空管アンプに心血を注ぐ人は、自分の再生しているレコード音楽が、満足なのか、あるいはまだ不満足なのかを、どこをレベルにして判定、納得するのであろうか。作品として発表する場があり、聴衆者があり、その反応を知り、また批評に出会えるなら、自分の位置はかなり分かるであろう。今、宮崎市ではそれはない。真空管アンプ愛好会が生まれ、20名ほどの製作者が集まったのには、このような自己研鑽もあったのだろうとおもわれる。そこで、思いだしたのは、その会が出来て、2回か3回めのレコードコンサートに田中さんから招待された日のことである。

 その日の体験は、当ブログの「なぜ真空管アンプなのか? 2007-10-23 」 おなじく 宮崎真空管アンプ愛好会 2007-10-22」に発表した。今、これを読み返すと、あのときもゴールと現在のレベルをメンバーはどう判定するのか、つまりなぜ真空管アンプなのかという疑問はもっていた。あの日から7年も経っていたのだ。今回は、別の視点で、あの体験を見直してみることが出来る。今年になって、メンバーの会にも数回出席したし、コンサートも数回は出席したし、なかんづく田中さんとは、アンプ再生について、疑問をぶっつけて意見を話し合える機会もあったから、あの会を現在では、一つの材料として捉えなおしてみる視点をえられている。

 まず今言えることは、当時は、はっきりしなかったが、あのコンサートは、真空管アンプの再生レベルを知る目的とレコードコンサートの目的が並列していたことである。そのことはコンサートおのレコード選定にも認められる。それを見てみると、まず、レコードは、一枚目はハイドンの交響曲「熊」ベルリン交響楽団でドイツ製のレコードという27分の演奏録音であり、次は60年代後半の録音というドヴォルザーク「スラブ舞曲集」36分、最後はリヒャルト・シュトラウス「最後の4つの歌」23分であった。この演奏曲目はクラシック音楽の選定というより、いわゆる名盤であったといえよう。これが、コンサートの基準として選択されていた。とにかく、一時間半のこの重苦しいクラシック音楽の視聴は、普通の人々、とくにわかものたちには耐えられないはずだ。幸いなことに聴衆は愛好家メンバーで例外は僕だけであったので、それなりの意味はあったわけであった。問題はレコード再生終演のあとの懇親会で起こった。 
 田中さんが、この会をこれからは、県立図書館に移し,図書館に保存されているおよそ4000枚のLPから選んで、レコードコンサートを継続していこうと発言したのだ。すると一人の会員が「わたしたちは、真空管アンプの会ではないか、ここを忘れて、レコードコンサートをするとは、話が逆だ」と強い口調で述べたのだ。と、田中さんが「レコードコンサートがあってこそアンプで、レコードコンサートのないアンプなどありえない、話が逆なのは、あなたのほうじゃないか」と日頃みせたことのない口調で言い返したのであった。だがこのやり取りよりも、おどろいたのは、会場はそのあとシーンとなって、話は展開しなかったことである。

 今思うと、愛好会の各人も、レコードコンサートが先なのか、真空管アンプが先なのかは、かんたんに答えられないことを、日頃からのアンプ製作の過程で体験することがつづいていたのだろうと思われる。レコードコンサートをアンプでやるということは、アンプの再生価値を評価できるからであり、しかし、その価値がその後のオーディオ再生、デジタル再生、パソコンやスマホと拡張しつづけているとき、なぜ真空管アンプなのかという回答を出来るには、真空管アンプ再生のレコードコンサートの価値をこうだと確信できなくてはいけない。それは、ゴールなき戦いであり、いまどの到達点にいるのかの把握であり、レコードはアンプ再生の手段でもあるわけである。そこで、問いは発せられる。あなたは、アンプを楽しみたいのか、音楽を楽しみたいのか、あるいは両方か、ではふたたび問いたい、このレコードコンサートの目的はなんなのか。もし、真空管アンプによるレコードコンサートが、他に勝るというのであれば、なにを根拠にそういえるかという問いは残ってしまう。蓄音機を愛するのも、真空管アンプを愛するのも、自分の好みとくくってしまう前にまだ論拠がありうる、それはなんなのか、試論を述べてみたい。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

蓄音機と真空管アンプで音楽を聴いた

2013-12-11 | アート・音楽
まだ、猛暑が残っていた今年の9月23日土曜日、宮崎市真空管アンプ同好会代表の田中さんに誘われて、小林市のお医者さんを訪問することになった。その家庭にある蓄音機で音楽を聴くということであった。こちらに蓄音機を借りてきて、みんなで聞いたほうがいいのではないかと、提案したのだが、それは出来ないという。たかが、蓄音機でレコードを聴くために、一日を費やして小林市に出かけることもないと、断っていたのだが、再度、いっしょに行こうよ、ぜひ聴いてほしいと言われて承諾したのだった。戦前、我が家にも一台蓄音機はあったし、20年代の始めころは、高校の演劇部や文学部のクラブ活動で、蓄音機で音楽を聴いた記憶は残っている。だが、その蓄音機でのベートーベン「運命」は、ぼくらにどんな風に聴こえたのか、そんな記憶はもう喪失してしまった。戦前、宮崎市でも蓄音機によるクラシック鑑賞会は、文学同人やいわゆる文化人たちのの間では行われていたが、いったいかれらが聴いたという蓄音機のクラシック音楽は、現在聴いてみて、聴くに堪える音質を奏でることが出来たのかどうか、この疑問は、ぼくのなかで燻っていたので、こんどは承諾して田中さんに連れて行ってもらうことにしたのであった。

 案内された部屋は、医院とは独立した別棟の居住宅で、その家屋に特別に接続され音楽室であった。そこは20畳くらいのホールであった。そこで分かったのは、このお医者さんは、蓄音機の持ち主でもあったが、なによりも、田中さんたちと同じ同好の士、真空管アンプの製作者であった。そのアンプでレコードを聴く鑑賞者であった。壁には数千枚のレコードジャケットが長さ5メートルほど天井まで収納されていた。その向かいの壁には、さまざまの真空管や、基盤、変圧機、導線や部品、棚の中にはいろんな工具もそろえられていた。正面に、ドイツの大ホールで使用されていたという人の背丈ほどあるタンノイとかなんとかいう名の大スピーカが2台左右に間をおいて据えられている。その真ん中に蓄音機が据えられ、米国製という蓄音機は、こちらの胸くらいまであり、レコードを回す筺体からは、巨大なにラッパが聳えていた。これらを目にしただけて、お医者さんは、そこらにはないマニアックなアンプ愛好者であること、理解できたのである。そばにあっった新聞の取材切抜きを読むと、小学生のころから、家にあった蓄音機やアンプのレコード音楽に魅了され、今日、つまり80歳ちかくまで、レコード音楽に惹かれてきたという記事も目に付いた。レコード音楽と再生アンプは、生涯の伴侶であったわけである。そこまでのめりこんだ、いやのめりこめる音楽の再生とは、なんなのか、その音楽を今日、聴こうとしはじめているのだという緊張感にぼくは包まれだした。すでに蓄音機の印象も変わっていた。かくも大きい蓄音機があったのだという事実を知らされたのだ。だが、まずは、真空管アンプで、レコードを聴くことになった。
 
 アンプにスイッチが入ると、20センチほどもある剥き出しの真空管の内部に赤い光が灯った。お医者さんの製作で、1球16万円!!かかったという。これが左右の大スピーカのまえに一個づつある。2球だけで32万円、そのほかもろもり全体の値段は、桁が違うのだ。これだけの金をかけて、どんな再生が可能なのか。興味は深まってきて、耳をそば立てた。レコード音楽は室内楽弦楽四重奏であった。曲名も知らなかった。音、つまり音楽演奏が両脇の巨大スピーカーから流れ出しだした。はっとというか、思わず注意が向いたというか、すぐに気づいたのは、それぞれの楽器の位置が分かったことだ。そのうちに楽器でなく演奏者の位置が分かり、その気配も感じられる。そして、このホールの正面は、パリかベルリンか、そんな異国の演奏室内が、まざまざと感じられてきだしたのだ。それにもまして、演奏者が弾いている息のようなものまであるようなきがしてくるのであった。これはまさに驚くべき体験であった。始めに期待した高音がいいとか、低音が効いているとかの域ではなかった。演奏している奏者の気配があらわれたのであった。さらに、後で思い出して興味があるのは、このとき、ぼくをつつんでいた感性は、室内楽の存在、その曲の芸術性、つまり音楽鑑賞であるよりも、このレコードの再現している音楽演奏という「気配」の出現であった。その後、歌劇や交響曲、バイオリンやピアノを聴いたのだが、この室内楽の再生音の臨場感は感じられず、鮮明な音楽としてのみ聴くことができた。それはまさに快適な音楽再生である。言ってみれば、ぼやけてない写真をみる快感である。アマのデジカメ写真にくらべてプロの写真であるということを感じさせられたのである。

 こういう体験をしたあと、蓄音機は、なにを訴えるのか、にわかに興味は倍加しだした。さて、ここで注意してほしい。蓄音機には、音量スイッチはないということだ。音を大きくしてたり小さくして聴いたり、まして低音を効かしたり、高音を効かしたりなどはできないことである。ラッパ型の集音器からあふれる音量で聴くしかない。音がぼやければ針を代え、手巻きのハンドルでばねを巻いてスピードを調節するしかない。電流は流れていないことである。これでレコードからどんな音を、ここではクラシック音楽を楽しむことができるのかだということになる。そこで、聴いたのは、バイオリンの独奏、オペラの一部、オーケストラ、なかんずくシューベルトの歌曲であった。それが結構聴けたのである。ああ、これなら、昭和の初期のころ、旧制高校生らが、クラシック音楽を、蓄音機で堪能できたことも想像できるのであった。お医者さんの蓄音機は大阪の中古市場で仕入れることができたといい、蓄音機時代のビンテージのシゲッティのバイオリンレコードなどで、音がいいということもあろうが、家庭用の蓄音機でもかなりの音楽を楽しめたと思えるのであった。そこで、最後で聴かしてもらったのが、昭和20年代末期に録音されたという美空ひばりのレコード一枚、6万円だったという貴重品だった。その歌声は、まさに10代の彼女であったし終戦当時の楽器の質の悪さまで伝わってきて、焼け跡の匂いまで漂ってくるノスタルジーがかんじられたのである。蓄音機から流れ出した音楽は、最高級の自家製真空管アンプから流れ出した音楽とは、また別の世界であった。蓄音機によるレコードの再生音は、針と集音機という物理的作用以外になにもないということで、こういう音をだすとしかいいようがない。音の波長を録音し、その波長を、逆方向にそのまま音にもどしたということで、録音の物理的振動の再生にもっとも忠実なのかもしれない。これだけで、有効だったのだということは、感動を生むのでもあった。

 さて、ここまでで、ぼくはひとつの興味ある事実に気づかされた。生涯を通してのレコード音楽の再生アンプの追求とは、どういう意味を持つのかということである。どこまで行ったら満足の位置に達せられるのかという、疑問である。これから先はぼくの頭の中の仮想実験になる。以下のべていこう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

蓄音機と真空管アンプで音楽を聴いた

2013-12-11 | アート・音楽
まだ、猛暑が残っていた今年の9月23日土曜日、宮崎レコード音楽愛好会好会代表の田中さんに誘われて、小林市のお医者さんを訪問することになった。その家庭にある蓄音機で音楽を聴くということであった。こちらに蓄音機を借りてきて、みんなで聞いたほうがいいのではないかと、提案したのだが、それは出来ないという。たかが、蓄音機でレコードを聴くために、一日を費やして小林市に出かけることもないと、断っていたのだが、再度、いっしょに行こうよ、ぜひ聴いてほしいと言われて承諾したのだった。戦前、我が家にも一台蓄音機はあったし、20年代の始めころは、高校の演劇部や文学部のクラブ活動で、蓄音機で音楽を聴いた記憶は残っている。だが、その蓄音機でのベートーベン「運命」は、ぼくらにどんな風に聴こえたのか、そんな記憶はもう喪失してしまった。戦前、宮崎市でも蓄音機によるクラシック鑑賞会は、文学同人やいわゆる文化人たちのの間では行われていたが、いったいかれらが聴いたという蓄音機のクラシック音楽は、現在聴いてみて、聴くに堪える音質を奏でることが出来たのかどうか、この疑問は、ぼくのなかで燻っていたので、こんどは承諾して田中さんに連れて行ってもらうことにしたのであった。

 案内された部屋は、医院とは独立した別棟の居住宅で、その家屋に特別に接続され音楽室であった。そこは20畳くらいのホールであった。そこで分かったのは、このお医者さんは、蓄音機の持ち主でもあったが、なによりも、田中さんたちと同じ同好の士、真空管アンプの製作者であった。そのアンプでレコードを聴く鑑賞者であった。壁には数千枚のレコードジャケットが長さ5メートルほど天井まで収納されていた。その向かいの壁には、さまざまの真空管や、基盤、変圧機、導線や部品、棚の中にはいろんな工具もそろえられていた。正面に、ドイツの大ホールで使用されていたという人の背丈ほどあるタンノイとかなんとかいう名の大スピーカが2台左右に間をおいて据えられている。その真ん中に蓄音機が据えられ、米国製という蓄音機は、こちらの胸くらいまであり、レコードを回す筺体からは、巨大なにラッパが聳えていた。これらを目にしただけて、お医者さんは、そこらにはないマニアックなアンプ愛好者であること、理解できたのである。そばにあっった新聞の取材切抜きを読むと、小学生のころから、家にあった蓄音機やアンプのレコード音楽に魅了され、今日、つまり80歳ちかくまで、レコード音楽に惹かれてきたという記事も目に付いた。レコード音楽と再生アンプは、生涯の伴侶であったわけである。そこまでのめりこんだ、いやのめりこめる音楽の再生とは、なんなのか、その音楽を今日、聴こうとしはじめているのだという緊張感にぼくは包まれだした。すでに蓄音機の印象も変わっていた。かくも大きい蓄音機があったのだという事実を知らされたのだ。だが、まずは、真空管アンプで、レコードを聴くことになった。
 
 アンプにスイッチが入ると、20センチほどもある剥き出しの真空管の内部に赤い光が灯った。お医者さんの製作で、1球16万円!!かかったという。これが左右の大スピーカのまえに一個づつある。2球だけで32万円、そのほかもろもり全体の値段は、桁が違うのだ。これだけの金をかけて、どんな再生が可能なのか。興味は深まってきて、耳をそば立てた。レコード音楽は室内楽弦楽四重奏であった。曲名も知らなかった。音、つまり音楽演奏が両脇の巨大スピーカーから流れ出しだした。はっとというか、思わず注意が向いたというか、すぐに気づいたのは、それぞれの楽器の位置が分かったことだ。そのうちに楽器でなく演奏者の位置が分かり、その気配も感じられる。そして、このホールの正面は、パリかベルリンか、そんな異国の演奏室内が、まざまざと感じられてきだしたのだ。それにもまして、演奏者が弾いている息のようなものまであるようなきがしてくるのであった。これはまさに驚くべき体験であった。始めに期待した高音がいいとか、低音が効いているとかの域ではなかった。演奏している奏者の気配があらわれたのであった。さらに、後で思い出して興味があるのは、このとき、ぼくをつつんでいた感性は、室内楽の存在、その曲の芸術性、つまり音楽鑑賞であるよりも、このレコードの再現している音楽演奏という「気配」の出現であった。その後、歌劇や交響曲、バイオリンやピアノを聴いたのだが、この室内楽の再生音の臨場感は感じられず、鮮明な音楽としてのみ聴くことができた。それはまさに快適な音楽再生である。言ってみれば、ぼやけてない写真をみる快感である。アマのデジカメ写真にくらべてプロの写真であるということを感じさせられたのである。

 こういう体験をしたあと、蓄音機は、なにを訴えるのか、にわかに興味は倍加しだした。さて、ここで注意してほしい。蓄音機には、音量スイッチはないということだ。音を大きくしてたり小さくして聴いたり、まして低音を効かしたり、高音を効かしたりなどはできないことである。ラッパ型の集音器からあふれる音量で聴くしかない。音がぼやければ針を代え、手巻きのハンドルでばねを巻いてスピードを調節するしかない。電流は流れていないことである。これでレコードからどんな音を、ここではクラシック音楽を楽しむことができるのかだということになる。そこで、聴いたのは、バイオリンの独奏、オペラの一部、オーケストラ、なかんずくシューベルトの歌曲であった。それが結構聴けたのである。ああ、これなら、昭和の初期のころ、旧制高校生らが、クラシック音楽を、蓄音機で堪能できたことも想像できるのであった。お医者さんの蓄音機は大阪の中古市場で仕入れることができたといい、蓄音機時代のビンテージのシゲッティのバイオリンレコードなどで、音がいいということもあろうが、家庭用の蓄音機でもかなりの音楽を楽しめたと思えるのであった。そこで、最後で聴かしてもらったのが、昭和20年代末期に録音されたという美空ひばりのレコード一枚、6万円だったという貴重品だった。その歌声は、まさに10代の彼女であったし終戦当時の楽器の質の悪さまで伝わってきて、焼け跡の匂いまで漂ってくるノスタルジーがかんじられたのである。蓄音機から流れ出した音楽は、最高級の自家製真空管アンプから流れ出した音楽とは、また別の世界であった。蓄音機によるレコードの再生音は、針と集音機という物理的作用以外になにもないということで、こういう音をだすとしかいいようがない。音の波長を録音し、その波長を、逆方向にそのまま音にもどしたということで、録音の物理的振動の再生にもっとも忠実なのかもしれない。これだけで、有効だったのだということは、感動を生むのでもあった。

 さて、ここまでで、ぼくはひとつの興味ある事実に気づかされた。生涯を通してのレコード音楽の再生アンプの追求とは、どういう意味を持つのかということである。どこまで行ったら満足の位置に達せられるのかという、疑問である。これから先はぼくの頭の中の仮想実験になる。以下のべていこう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

hou ちゃん 春の唄旅

2009-05-19 | アート・音楽
 彼女に13年ぶりに再会したのは、2007年の11月23日夜、宮崎市の「ニューレトロ・クラブ」でのライブであった。このことについては、2008年1月15日のブログでレポートしたので、読んでいただけると、これからのお話もしやすくなります。


公開 houちゃんのライブ 2008-01-15 10:21:44 生き方 音楽
   Hou ライブ 2 2008-01-15 11:04:35 生き方 音楽

 あの夜にぼくがおどろいたことは、彼女のヒッピースタイルへの変貌と、それにもまして関心をそそられたのは、2007年の11月この夜までにこの年、95回のライブを九州一円でこなしたという報告であった。そのころ、神谷君、ーHouちゃんは以前はかれのバンドのボーカルをやっていたし、彼女のライブをしらせてくれたのもかれであったがープロでも自主公演を月一回をかかさずやるのはなかなか出来ないと、ライブの現実のきびしさを話してくれた。そうそう一つのライブに毎月金をだすような客はふつうはいないというのであった。Houちゃんの場合は、自主というより声をかけられてであったと思われるが、それにしても、その回数にはおどろく。こういうことが、可能なのかとの思いはそのあともずーっと記憶に残っていたのだ。

 あれから、また彼女は旅に回りだして、一年あまり連絡もとだえていたが今年の冬、ぐうぜんに池辺宣子さんのNPO店「ヒムカの宝箱」でランチどきに出会い、明日から北海道を回るという準備で買い物に立ち寄ったようであった。こんどは一時間ほど昔の話などを交えて近況を語り合えたが、翌日はもうどこに旅しているやらとふたたび音信不通になっていた。ところが、今年の4月20日、このパソコンに彼女からメールが送信されてきた。ふたたび日本は不景気の時代となり、フリターは最悪の日々に変わった2009年をおくらねばならぬ毎日になってきている。彼女はどうしているかと不安に思っていた矢先であった。しかし2009年の春女の唄旅は、メールのとおりである。

        記

 おひさしぶりです。ホウです。
お元気ですか?


  私は二か月ぶりに旅から帰ってきました。
そしてまた春を迎えた宮崎を唄旅します。

 お知らせさせて下さいね~♪


4/24(金)
宮崎青島サウンダーズ
(青島1丁目6‐23)
福岡のアフリカンバンド『フォリカン』のたいこ叩きユウジマンとのライブ。
開場19:00、ライブ19:30~21:00、料金1500円
0985‐65‐0767

4/25(土)
one love soul cafe
(国冨町太田原)
w/きじは(サイクラブ)、vibration
開場19:00 開演20:00
料金2000円~スープカレーとドリンク一杯付
090‐8858‐1791

このあとは
26日鹿児島伊集院~28日熊本市~29日福岡宮地浜~30日大分~5/1北九州~とユウジマンとまわって、
5/3 虹の岬まつり
熊本阿蘇狩尾原野オケラ山

5/8(金)
『Jin Ja Jamming』
青島神社
開場18:00 開演18:30
前売1000円(200枚限定)当日1500円
W/Hadashi hula 、vibration 、熊谷もん、ラビラビ
※雨天時は青島儀式殿
INFO:Healing Natural
0985‐65‐2759

これからはホウもんツアーのはじまり
5/9~13
宮城県気仙沼出身の熊谷もんさんのつくるひょうたん三味線「モナケパ」の展示会をします。
音もかたちも素敵だよ。
9日と10日は『天空カフェジール』で。
10日(日)は14時~投げ銭ライブ
0985‐65‐1508

11~13は平和台公園内の『ひむか村の宝箱』にて展示します。
11日(月)に昼下がりライブ
0985‐31‐1244

5/9(土)
都濃 ロトハウス

5/16(土)
古民家カフェ コカプー(都城吉之元町~霧島神宮近く)
開場19:00、1500円
0986‐33‐1455


こんなかんじです。
時間があったら遊びに来て下さい。


 この日程を見ているだけで、何か気分をそそられる。「古民家かフェーコカブー」とか、国富町大田原の「きじは(サイクラブ)」それに青島一丁目の「宮崎青島サウンダーズ」とか、ちかく自転車で訪問してみよう。それに「熊本阿蘇狩尾原野オケラ山」の虹の岬まつりとは、どんな祭りなのかと、想像を駆り立てられる。

 カフェーあり、レストラン、雑貨店、神社、仏閣までと、彼女のステージに変わった様子が想像される。彼女、場所、観客の三者が共同して生み出す音楽空間の夜、また昼のひとときが身近な音をたててぼくを取り囲む思いである。

 5月12日、彼女は11日のヒムカの宝箱の庭先でのライブがひどく気に入って、つづけて翌日もやりたいとなり、ぼくは時間をみつけて再会できたのであった。彼女は
1年半まえよりもこころもちふっくらとなり、すばらしい狐色の日焼けと切れの長い
目がきらきらとしていた。ものごしは時間がないかのようにゆったりとして、ほとんどひとりごとをつぶやくかのように10人ほどの人々があつまったところで、唄を始めた。この雰囲気が人をゆったりとさせるのだろう。しばらくして山崎さんと席を立つと、すぐにぼくらのことを歌にしながら、元気でまた会おうねと唄ってくれるのを聞きながら、手を振ってわかれたのであった。また会う日が、楽しみだ。






検索:
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ソプラノを聴く  みやまコンセール・ホール

2009-04-28 | アート・音楽
  第77回日本音楽コンクール受賞記念演奏会を霧島町の音楽ホール「みやまコンセール」に聴きに26日に行った。お目当ては受賞者のなかの一人であるソプラノの馬原裕子さんであった。彼女は家内の生まれ育った鹿児島県姶良町出身だと新聞で報じられていた。あの狭い田舎町ならご近所だったかもというような好奇心もあったわけである。

 ソプラノはいい歌手なら、あの歌声につつまれるような快感がある。下手なら、これほど聴くに耐えられない歌もない、歌詞はわからず、節回しは単調、楽しむどころか苦痛である。

 受賞者は彼女のほかにヴァイオリン瀧村依里、ホルン福川暢明,ソプラノ岩下晶子,ピアノ喜多宏輔の4人でいずれも第一位受賞者、馬原さんだけが第三位受賞である。郷土出身ということで、みやまコンセールから出演を依頼されたのか。舞台最初の登場に割り当てられていた。

 なんとなく格下の扱いではなかろうかと思うのだったが、その歌は圧倒的なものであった。軽々と彼女の体を楽器のようにしてあふれ出してきた歌声で会場は満たされつつみこまれていくのであった。シューベルトの作品4曲で、その3曲目がアヴェ・マリアを選んであった。これがすばらしかった。感傷に流れず、誇張もなく、抑制された身体の動きでみごとなアリアが聴衆を魅惑していった。終って拍手は鳴り止ます、もう一度舞台に出てきての挨拶であった。こんなことなら、コンサートのトリでの出演であったら、いっそうコンサートは印象を深めたろうと思えたのだ。

 3位でこれなら1位はどうということに期待が高まるのだが、段違いにこちらが勝っているということではなかった。それぞれの演奏、表現力で、ぼくは、この馬原さんが、もっとも演劇性があったと思えた。

 田舎町で育ってこれだけのものをという思いをしたのだが、東京芸大声楽科卒、同大学院終了というエリートコースである。それと、豊富なオペラ出演が、あの演技力を獲得することになったのだろう。

 そのあとふと思ったのだが、あの声で、イレイヌ・ページのメモリーを歌ったらどうなるのだろうと、その他、なぜ、ソプラノ歌手は、この世にありあまるほどあるポップをうたわないのだろうかと残念である。スーザン・ボイルの圧倒的舞台を思い出すのであった。

 その他、ホルンもピアノもヴェイオリンもどれも超絶技巧とダイナミックなドラマ性を堪能できた。

 5人のうちホルンをのぞいて、全員東京藝術大学出身者である。東京芸大の独占企業ぶりが凄い。なぜなのだろう。司会者はいなく、受賞者もしゃべらず、アンコールもなく、清潔感あふれるコンサートだった。会場も簡潔、明快ないい音楽ホールであった。入場料2000円とは安かった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ビエント・デル・スール ライブを聴く 日高プロショップ・コンサート

2008-11-29 | アート・音楽
 11月8日〔2008〕日高プロショップ会場での昨年につづく諦鵬、金庸太、外山友紀子のタンゴトリオのライブを聴いた。その前から、ぼくにとって音楽を聴くとはなんだろうと、考えていた。そのスタンスがはっきりしないので、どうも、それは一時の快感であったとでも言うしかなかったのだ。映画なら面白い、美術ならハットさせられる、クラシック音楽ではなんだろう。

 それが、ロック(ROCK)でどうだろうかと思いついた。ロックは激しく揺する、打ち倒すという意味があるが、不思議なことにやさしく揺する、ゆり椅子(rocking chair)の両義性を持っている。このコンサートで、諦鵬が、激しい調子で癒すという編曲を頼まれて、どうも出来なかったというような話をしたときに、思いついたのだ。つまり、揺すって癒される、激しかろうと、優しかろうと、これが音楽にはあると、思えたのだ。

 ここ半年あまり丹念に60年代から現在までのロックバンドを、cdで聞いてきたのだが、最近のロックの多くが、美旋律も持つバンドほど聴衆を拡大しているようである、コールドブレイにしろ、アーケードファイア、REM,ボーズオブカナダと、旋律はバラードのように癒し系だ。とくにヘビメタのメタリカにいたっては、主題歌のナッシングス・エルス・マターなどは、ウィーン少年合唱団が、カバーしている。その美声と、ロック特有の危機感を盛り上げる展開との調和の美しさで、まさに全身をゆすぶられるのである。人は危機の底でこそ救いを与えられるのかと。

 そこで、今回、これまでのタンゴトリオから、ビエント・デル・スルー(南の風)と名前を変えたトリオは、微妙な立場に入ってきていると思えた。これまでは、タンゴ特有のエモーションで、激しく揺すってくる演奏が、静かな、旋律に変わってきたように思えたのだ。タンゴとか、ブラジル音楽とか、エスニックや民俗性よりも、どこか抽象化された旋律に変わってきた。旋律の繊細さが、これまでとは違ってきた。諦鵬も口数が極端に少なくなって、全体に緊張感が漂う。こうなると、ささいな三人のバランスの狂いも演奏をダメにしかねないのだ。そういう点では、タンゴの歴史が一番安定して豊かな深い調和感で、ぼくを癒してくれた。

 これまでのトリコン、2000年の外山友紀子の初めてのリサイタルから始まり、2003年の東宮花の森、2007年日高プロショップとつづいているスタイルは、タンゴから室内樂のような、優しく揺する、それはひじょうにソフィストケイテッドの高度な演奏に変わってきたと思えた。これはわざわざ困難な道程を選んだことになろうか。しかし、キャッチーな大げさな演奏をテレビでしてみせ、それを解説する司会者がばかげた賛辞を浴びせるのが主流になりつつあるなかで貴重な路線だろう。

 それと、もう一つは、こうなると、会場が大事だろう。今回のプロショップは、あの華麗な会場の運営をショップの運営でやり、会場の椅子のうえにプログラムをみな置いていた。なぜ受付でてわたさなかったのか。人手の節約だったのか。おかですこし遅れてきたぼくは、満席と勘違いして、後ろの隅の座席しか空き椅子を見つけられなかった。じつはどこもまだ空いていたのに、椅子の上にプログラムがあれば他人の席と思うではないか。

 これから、どこでビエント・デル・スルーのライブが公演されるとしても会場もまた演奏の要素であるという困難も抱え込むことになろう。きわめて、神経がすみずみまで行き届き、ごまかしの効かない演奏、派手さでなく地味さで、人を揺する演奏が、人を深く揺することになろうか。今回は70点の出来だったと思う。いつかた、かれらの高度の演奏を聴きたいを切に願っている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

金庸太のギターソロ 日高プロショップ・コンサート

2008-09-16 | アート・音楽
 金さんのギターは、ぼくにとってギターとは、むせびなくようなエモや、打楽器のようなビート、メロディアスで、演歌やジャズ、カントリーと思って、親近感を抱いていた思いを根底からひっくり返してくれた。

  開始は、カントールの練習曲、じつは、音楽家でなくカントールという19世紀の数学者の名前はしっていたが、その連想のせいか、高度な難曲と思える曲を滑るように演奏するテクニックに呑まれ、その技術に圧倒されて、ここではまだ曲を味わえる余裕はなかった。そして、ついで、シャンソン4曲をとの金さんの説明で、緊張が溶けるのであった。しかし、それはぼくのシャンソンの常識の埒外であった。

 その一曲エディット・ピアフ「愛の賛歌」は、越路吹雪、美空ひばり、本田美奈子、また1980年の引退コンサートの山口百恵で、別れの歌として歌われた。思うに彼女らは、だれも人生の難問を抱えていた。だから、愛は人生だとする彼女らのシャンソンが、感銘を生む。それは文学的である。それは他方ではくさく、おじさんおばさんの愛唱歌となってきた。だが、ディエンスは、フランスのギタリストというが、その限界を知ったのか、シャンソンから人間ドラマを引きぬいて、クールに現代化した。金さんの演奏はそう思わせてくれたのだ。

 それは、ギターのソロ演奏の可能性を、弾く、滑らせる、打つなどの多彩な演奏で、しかもそれは、耳をそばたてさせねば聞き取れないほどのの静謐さのシャンソンであった。メロディや物語性でなくどこか抽象絵画を見るように自由な想像を掻きたてられるのだ。

継いでのアリランは、まさにそうであった。そこに韓国の恨も風土もなく、どこか日本の山河、それも、もう失われてしまった自然の美でつつみこまれるようであった。アリラン峠そものは空想の峠というから、それは日本のノスタルジーに満ちていてもいいわけである。サロンは一瞬、その光景に満たされたのである。

 終曲はタレガのグラン・ホタであった。ここでギターは打楽器にもなり、低音の
響きに火花のような高速の高音が混じり、スペインの舞踏会が、アラベスクとなって展開していった。しかし、押さえて静かなのである。だから、集中させられる。
それはアンコール曲のタレガのアルハンブラの思い出でもそうであった。

 ギターが、これほど繊細で多彩な楽器であり、静謐で想像を掻き立てられる楽器であると、はじめて金庸太さんのコンサートで認識させられたのである。このとき
プロデュースした宮崎市のフルティスト外山友紀子の入場者を70名ほどに限定して、マイクをつかわないギター演奏を選んだことを評価したい。もしマイクを使ったら、あの澄んだ楽器を打つ音、一つ一つの高音の繊細さも、これほど美しく聞こえなかったろうと思われる。まさにサロンの特性を生かしたコンサートであったと
納得できた。

 終って、その夜渡されたチラシによると、同サロンの「みやざきアートフェスティバル2008」の中で11月8日、ビエント・スールライブ2008というタイトルで、金庸太、蹄鵬、外山友紀子のトリオコンサートが開かれる。こんどは、また別の期待で金さんを聴けるだろう。それで、できればこのとき、ディアンスのタンゴ・アン・スカイを、金さんに、アンコールでもいいから演奏してもらいたいと願っている。
 
 
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Another Violence

2008-06-11 | アート・音楽
今朝6月11日の午前10時ごろから土砂降りの雨になってきた。ギャラリーの壁をたたく音が轟音のようであった。その中で、ぼくは韓国のリーミョンバク政権に抵抗するここ一ヶ月から一昨日のデモの記録をユーチューブで視聴していた。
 雨音とデモの轟音とが、交じり合って息を呑む臨場感で、包み込んでくる。

「korean demonstrations」のキーワードで、検索した記録映像は予期したように
すざまじいバイオレンスが警官隊から、わかものたちに容赦なく振るわれていた。
よろよろとバスの車体に寄りかかった若い女性を引き倒して、顔にむけて軍靴で蹴り降ろす隊員、顔を盾で切られた男子学生、蹴られる男女、ものすごい、たえまない悲鳴、絶叫、そしてウオターキャノン(注水砲)で吹き飛ばされるデモ隊、車両上で抵抗していた学生は、顔を直撃され、ずり落ちる。鼓膜が破れたようだ。警官隊の囲みのなかに引きずりこまれ、血まみれの足と、暴力の実態が伝わってくる。

 デモ隊を形成する若者たち、おそらく男女学生の分厚い壁は、一歩も退かない。デモによっては、女子学生が先頭に立って鎮圧する警官隊と対峙しつづける。これはどっかで、見たシーン、60年代、70年代の学生闘争ではないか。あのエネルギーが再現されたごとくであった。

 今回のデモで違うのは、ゲバ棒をだれも構えてないこと、素手で声で暴力に対抗していることだ。そして、そのシーンは、一瞬で世界中の人々に視聴されているという現実である。韓国もいなおうなく民主化されていくにちがいないという希望が
あることだ。

 このでデモを豪雨のなかで視聴しながら、偶然にか最後に見たシーンは、WITH10v2というキャンドルデモのものだった。これは短編映画として構成されており、すばらしい作品である。何万人というデモ参加者のろうそくの前でつぎつぎに訴える中学生から高校生、大学生、一般成人のスピーチがつづいていく。次第に参加者は高揚し、最後は大合唱になっていく。片手をふりあげて、音楽に合わせてもりあがる若者たち。

 これはJポップのロック会場でないのだ。しかし、ここにある感動はなによりもアートではないか。こんなアートはもう日本からは消えてしまったのか。なにもない虚無のなかのバイオレンスのみ、これが人々を恐怖に追い込んでいる。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

音楽雑誌

2008-06-09 | アート・音楽
 昨日、日曜に若者の(という限定が可笑しいかも・・)音楽を見当つけたいし、CDコーナーに立ってポップやロックやと選べるようになりたいものと、ふらふら音楽雑誌のコーナに近づいて、書架の音楽雑誌を見たのである。そのしゅんかん、強烈なパンチを浴びたように、立ちすくんでしまったのだ。

 そこにある雑誌たちEYESCREAM、Noo,Barrn、SHOXX, Fool's
Mate,Luro,Loud, Remix などなどと、タイトルの雑誌が並んでいる。そのぎらぎらする表紙は、ミュージシアンたちの異様なファッションで埋められている。この中身はなんなのだ。どんな音楽とこのタイトルは関係があるのかと立ちすくんだ。いやこれほどの音楽情報があるのに、何十年もこの手の音楽に関心が向かなかったということに、ショックを感じたのであった。

 とにかくなんとかしなくてはとCROSSBEATというのを一冊購入した。BEATとあるから、ロックやらパンクやらと関係があるかもしれないと思って、そしたら半ば
当たっていた。

 この体験、これは18年前、はじめてパソコンをやりだしたとき、参考にとパソコン雑誌を覗いたショックと似ていた。あのときパソコン雑誌はまさに異界の
存在であり、自分のパソコンとどこでどう関係しているのか、何が内容なのかもま
まったく見当もつかず、呆然としたことがあった。とりつくしまもなかったのだ
今回もこれに似ている。

 しかし、一つだけ違う点があった。音楽雑誌の文章は読めば理解できるのだ。たしかに専門用語はあるが、辞書で明快に理解できる。パソコン雑誌は、あのときは
読んでわかるような文章ではなかった。辞書を引くと、辞書そのものが理解できなかった。パソコン雑誌が読めるようになり、楽しくよめだしたのは、数年もかかったのであった。

 音楽雑誌、すくなくとも、このCROSSBEAT は、読めばわかるし、読めるのだ、すこしも面白くないけど。しかし、取り掛かりは十分ある。よっしゃ、これからスタートかとおもうのであった。こんなことを書いたのも、この出会いのショックは、若者音楽を知らぬものの感覚として知ってもらいたいこと、また、一年後にどうなったのかを、この記事で比較できればと記す事にしたのだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする