市街・野 それぞれ草

 802編よりタイトルを「収蔵庫編」から「それぞれ草」に変更。この社会とぼくという仮想の人物の料理した朝食です。

今年も終わって

2006-12-31 | Weblog
 2006年12月31日午後9時、あと3時間で今年は終わる。明日は正月元旦だが、正月はテレビの中だけにある。だからテレビの中をのぞかず、バーチャルな空ろな正月を避けるのが、毎年の慣わしとなってきた。去年から青井岳温泉に30日から3日まで昼間に通っている。一日中、ただ温泉に入り、本を読み、ランチもしくは夕食を食べて終わるとう単純な行動が、時間を満喫させてくれる。一年は矢の如く飛んだが、今日は十分にたっぷりとした時間が流れていくのである。

 今日持っていって読んだ本は、宮部みゆきの「火車」と1975年12月発行の「新劇1976 1」であった。前者は平成10年2月発行、カード社会の自己破産者の破滅の人生をえぐる推理小説、後者は、75年、戦後アングラ演劇の新劇を駆逐した後の演劇状況で、黒テント、唐十郎、早稲田小劇場、つかこうへいの時代が展開する。

 毎年、毎年年を重ねていかざるをえない自分の人生であるから、自分なりの年を回顧してみたい。昨日だか、フセインの死刑が執行されたとテレビは報じたが、別に関係はないとしかいいいようがない。まして、一年の回顧などと新聞やテレビが連日、報じつづけるが、そのほとんどは知ったことかと思うばかりである。温泉は、ぼくだけの年の送迎を与えてくれる。
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宮崎県職員の2重の罪

2006-12-21 | Weblog
 安藤前知事は、先日述べたような論点で、県警の調査を反論できずにだんだん罪を認めだしていると、報じられている。ほんとに、下らぬ前知事の命令に反抗もせずに出納長、土木部長、環境労働部長は保身に走ったために、とんだ災難を自分や家族にこうむったわけだ。

 ここに至って、今度は、全宮崎県職員に、忘年会を自粛すべしと達しが出たと聞いた。

 忘年会をやらないのが、なんで自粛になるのか。忘年会とはそんなに罪深いものなら、毎年、自粛していればばよかったんだ。ばかばかしい。

 こんな目先のモラルに「いいだくだく」と従う公務員諸氏の行動を思うにつけ、こりゃダメだとため息をつくのは、ぼくだけだろうか。もっと正論を吐いて反抗すべしだ。かれらは、人間ではないのだろうか。


 いや、そればかりか、街は忘年会をキャンセルされて、ますます食えなくなり、暗い年末を迎えようとしている。全県職員は、正しい判断もせず。保身のまま、目先のモラルだけを通して、かきいれどきの暮れの街の活気を破壊しようとしている。これは公務員としての反省どころか、2重の罪である。



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電飾の街

2006-12-19 | Weblog
 あと2週間足らずで、今年は終わる。久しぶりに夜の街路を歩くと、まず目に飛び込むのは電飾の光である。黄色いまでの電球のつながりである。

 この電飾の街路は、ほんとに芸の無い凡庸な飾りではないか。宮崎市も博多も札幌も東京も田舎街も大都市もみんな同じ風景を作る。いや、ニューヨークもベルリンもソウルもどこもかしこも同じ電飾の街で、テレビはその光景を写しだす。

 この電飾は、電球の多いほど威力を発揮する。小規模より大規模が人を魅了するという点で、消費社会そのものをあらわしている。

 この電飾を見るたびに、うんざりしませんか。もっと個性的な風土的な冬の風物を語るものはないのかと。その中で、ただ個人の住宅が、がんばって飾りつけているもののみは面白みを感じる。そして、裏町の暗がりにそこだけ明るいのは、哀愁も感じる。
 これならいい。それに比べて公費を使って飾りつけられた電飾の街はうんざりだ。

 均質の風景、それが税金で演習されるとは不快きわまる光景でしかない。
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スッピンの中華料理店 2

2006-12-11 | Weblog
 小雨のうそ寒い夕暮れに、ガラス引き戸もがたがたな感じの店で、夕食は取る気ががしななり、こりゃダメだ、もっと暖かいレストランをと思った。6歳の孫も横文字のレストラン名をあげながらそっちに行くと言い出す始末だった。ぼくは家内に孫は父親に、たしなめられて、しぶしぶ店内に足を入れたのだった。

 意外と中は明るかった。新聞がかごに突っ込まれ、棚にはマンガ本がならんでいるだけて、なんの飾りもない単調な壁がぐるりと回り、奥が調理場で店主がむすっとした感じで炒め物をさかんにしていた。寂れた港町、たとえば油津の食堂という雰囲気で、おしゃれっけもムードもまったくない。気が滅入りそうだった。かすかに店内の清潔さが料理を期待させるのが救いではあったが。

 「チャーシュメン」「チャーハン」「マーボー茄子」「スーパイコ定食」「あんかけやきそぼ」と注文し、評判どおりおいしいのかどうかと試すつもりの注文をした。

 10分ほどして運ばれ出した、注文料理の皿を見て仰天した。どれもこれも洗面器か、手洗い桶なみの大きさにぶぁーっと料理が湯気を立てているのだ。たちまち食欲がうせ始める。いよいよ終わりかと、興味もなく箸を取った瞬間、「うめー!」次男が声を上げる、「おいしいっつ、この酢豚おいしいい!」と家内も声を立てだした。へえ、ほんとと、まずチャーシューを、次いで酢豚を口に運ぶとなんともいえない上品な味が口内に広がるではないか、まさに意外にも意外だったのである。

 ぼくの「マーボ茄子」は茄子一本が大きく切られたのが、たまねぎ、人参、ピーマンの大きな切身とともにマーボにまぶされ、野菜は大きく切ったほうが美味いという定説どおり、大胆にしてかつ微妙な味が出ていた。全体は上品なスープのような舌触りであった。どんぶり一杯のご飯がついていた。マーボ茄子を食べながら、ご飯をおかずのように口に運べた。それほど茄子が美味かったのである。

 孫もおどろいたことにチャーハンを3分の2ほど平らげた。日ごろは茶碗半分くらい食の細い子である。ぼくにしてもどんぶり一杯のめしを平らげるとは、ありえないことであった。とても食えないと思ったすべての皿を4人で食べつくしたのである。「美味い」とぱそういうことなのであった。

 まさに「食うだけ」に集中できる飾り気のないスッピンの見事な食堂だった。お値段も3100円くらいだった。「安くて、美味い」食堂の原点を、今もとどめた驚くべき「中華飯店」であった。この店は、どうやら10年どころか20年ほど前からあり、知る人は知るの店であったと、後で知った次第である。 
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スッピンの中華料理店

2006-12-09 | Weblog
 ある日、ぼくはコーヒーがうまいと聞いた「アーリー・コーヒー」(下北方島口)に初めて入った。そのとき目を剥くほどびっくりした。その室内いっぱいに座ってしゃべり続ける女性たちが、全員、老いも若きも、みんな今、台所から出てきたばかりのような格好だったのだ。イオンや山形屋でたくさんの女性と行き交うのだが、全員、お洒落している。グラビアからぬけでてきたような女性が、街での女性と思っていたので、このスッピンの集団女性は、目をうばったのだ。化粧は化けるというが、室内には化けていない恐ろしい女性たちの存在感があった。

 そこで、レストランにもスッピンのレストランがある。「めし」を食うだけという存在感の食堂である。山崎街道の始まる、一宮交差点から150メートル大淀川のほうへ行った通りに建つ「中華飯店」である。もう10年以上は営業しており、ここは毎日の通勤路なのに、言われて初めてあったっけと気づいた店である。

 周りは原色の黄色や橙色の自動車関係の大倉庫のような建物で、うずくまっていたし、おまけに看板はあっても昭和30年代を思わせる木造2階建ては、安アパートにしか見えない。そして、真正面は、汚い街路樹が立ちふさがっていて、道路にもゆがんだ柵がある。あらゆるものが、この「中華飯店」の邪魔をしていたからだ。

 この店、スッピンの店が想像を超えた店であったのだ。つづく。
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談合をやらされる

2006-12-08 | Weblog
 安藤知事の逮捕で、その真相が明かされるだろうと、思う。5千万円とか、元国会議員秘書とか、周りの役者も金額もちんけかった。

 それにしても、出納長、土木部長、次長、所長と階級をだんだん降りて「天の声」が伝わるとは、いまさらながら、彼らは気の毒という心情もないではないが。何で言いなりになるのと思う。喧嘩を吹っかける気位もなかったのだろうか。

 クビになることはないのに。左遷させられるなら、組合に訴えて事を明白にするとか、裁判で争う、それも最高裁判所まで上告して争うなら、結論がでるころまでは相手も打撃で壊滅するかも。

 要するに保身の気持ちが、闘争心を奪い、客観性を失わせ、船長の操舵を制止できずに、くだらん船長といっしょに沈むとは、家族も泣くに泣けないだろうに。公務員だから、「上には逆らえない」 「左遷が怖い」 そんなアホな話があるものか。逆らえるし、左遷も跳ね飛ばせる、その知性を持てるはす。

 難を免れた下級公務員諸兄姉に告げたい。
  上に
   抗するテクノロジーを、今こそ学ぶべし!!
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チップの皮膚炎

2006-12-07 | Weblog
犬のチップの皮膚炎については、何回も報告してきたが、つまりステロイド剤を控えてマッサージで軽減、終息させたことである。ただ、これはドクターに言わせれば不治の病、管理していくしかないというのだ。去年の9月から年末までマッサージをして、押さえ込み、ほとんど炎症が治まっていた。今年の7月24日からふたたび炎症がはじまりだした。

 マッサージしても押さえられず、8月には入ると真っ赤になり、四肢から首の下、腹部の後部とひろがってきた。朝、夕の散歩、起きたとき寝るときとマッサージしつづけたが、効果はなくなった。

 そのうち、四肢のすねから下は全部脱毛し、腹は真っ赤になった。真夜中に、なんども枕元で、ぼりぼり掻くので、こちらも寝不足になった。膿がにじみ、つになり、朝はぼくのまわりに、つがはがれておちているので、8月からは、起床と同時に、掃除機をかけねばならなかった。それでもマッサージをつづけた。やっていて、こんなことはオカルトかもと不安になったが、それが11月10日に後足の炎症が収まるのがみえ、14日にはっきりと炎症が治まる様子が見え出した。そのとき医者に行った。そこではじめて4回だけ投薬した。

 あれから一ヶ月、足はふさふさと毛がもどり、今朝の小雨の朝でもいきおいよく
散歩に行きだすようになった。これまで雨がぱらついただけで外に出たがらなかったが、雨嫌いでなく炎症のためだったのだとはじめて理解できた。

 今、マッサージも休止、もう掃除機をかけなくても良くなった。やはりマッサージ効果はあったと思う。それと体が自ら治癒しかけたときを見計らって、投薬すると効果は迫力がある。いかに生体を活性化させるかである。人も同じではなかろうかと思う。



 
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天気予報の安心感

2006-12-06 | Weblog
 寒いです。ぼくの仕事部屋には暖房が無いので、本日は暖かくなるのか、寒冷なのかの天気予報は、大変大事です。熱放射する下着を着て、温度が上昇すれば不快なことこの上なしになります。薄着して来ると、足元の電気ストーブだけでは寒いのです。

 こういうわけで、天気予報は1日の快適度を左右します。ソシテ、たびたび予測を外れます。スーパーコンピューターを駆使し、人工衛星を飛ばし、世界の各地の情報を分析して、明日の予想が外れるとは愉快です。ときには、ぼくの方が当たるのです。いやその確立なら五分五分で勝負できそうです。

 だから、反面では、外れよ、外れよと思うこともおおいにあるのです。スーパーコンピューターは一台何億円、一時間借りるのに何十万円とか、ソシテ衛星の費用は何百億円、それでぼくと勝負して負けるときもあるのです。科学は天気の明日の
予測さへできないという事実は忘れるべきではないですね。科学的思考や方法が世界をアメリカ中心のグローバル化に追い込んでいますが、科学の力など、一面ではこの程度のものかと思うと愉快です。
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駅前商店街の街づくり

2006-12-05 | 都市論
 駅前商店街組合から、意見が合わず抜けたという商店主から話を聞いた。その理由に、街づくりを宮崎大学学生の街づくり研究会にお任せだとうのである。組合員の意見も聞かないのならと止めたというのだ。これはぼくにとってもおどろきだ。都市研究会という宮崎大学生の学生たちが過去3年ほど宮崎市の街づくりを研究してきている。しかし、その実績はない。指導教官に期待しているのだろうか。平成元年の橘通り活性化のときも、都市論学者が提言しているが、結果は3丁目半分を除いて他は無残な崩壊を招いた。なぜ、またも期待を研究会に寄せるのだろうか。

 それと、商店組合では、アーケードの撤去に始まり、宮崎市の補助金をもらって実現しているわけで、これからの街づくりも補助金、補助金の掛け声が喧しいという。補助金をもらえるならもらえるでいいのだが、ただし、宮崎市は景観条例や、看板規制などを掲げて街づくりの柱としているのを忘れてはいけない。景観条例も看板規制も街の活性化と殺ぐ施策である。補助金はそういう街づくりから自由なのであろうか。いや、その景観づくりに一致する街となるように方向付けられるだろう。「ひさしを貸して母屋を取られる」というが、補助金もらって商店街が崩壊する可能性が大いにあると思われるが、いかがか。

 今、目に見えるのは、曲線の歩道、カラー舗装、植樹、ベンチ、駐車、駐輪禁止
清潔で管理されて、見た目はきれだが、面白みも活気もない冷えた道路が広がるだけの未来の商店街の有様である。たちまちカラー舗装道路の両側には、空き地を生かすためのマンションが、ここぞとばかり立ち並ぶ。そして人は街を歩かない。駅前商店街は消滅する。ちょうど、上野町のバージニアビーチ公園や、そこから南へ市庁舎までの300メートルが均質無味乾燥の道路になったようにである。

 別の異質の発想こそ必要である。これまでの発想では、活性化どころか、崩壊した商店街がまた増えるだけであう。彼を早急に組合に戻ってもらう必要がある。
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アメリカのイメージ つづけて

2006-12-02 | Weblog
 11月29日の当ブログ「アメリカのイメージ」にharuさんからコメントいただき、空港におけるセキュリティチェックで、まるで家畜を検査するかのような非情な扱いを知らせてもらえました。このアメリカの不快さ、いやらしさがまさに身の毛がよだつほど例示されているのが、「報道が教えてくれないアメリカ弱者革命―なぜあの国にまだ希望があるのか」です。

 フロリダのモーテルで著者と電子選挙の危険性を警告して回っているアメリカの
友人の二人は、ギャングそのものの警官から、宿を追い出されます。ブッシュの選挙区だからです。この情景はまさにハリウッド映画を見るような戦慄的な暴力社会の実態があります。アメリカ社会を支配しているのは、まさに恐怖だということがいやでもわかりますよ。ぜひご一読を。

 日本人はここまではならないでしょうが、それでもそうなりそうな予感があちこちに散在するのも恐ろしいです。とくに中高生を軍事化していく、洗脳していく国家的な仕組み、これなどわが国も明日にでも実行可能です。たとえば落ちこぼれの生徒たちに指導能力をつけるという目的での訓練、それはまさに軍事訓練なのです。さきのパソコンのアメリカンズアーミーとあいまって、生徒たちは軍事化されるというシステムなどです。ほんと恐ろしい文明社会です。
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安藤知事不信任可決

2006-12-01 | Weblog
 昼休み、知人と会うのにウイングに行くと、知事の辞職勧告の議会対応が話題になっていた。拒否したんだから、不信任案を即座に出すべきだと話を交わした。午後一時半、ウイングを出て橘通りにかかると、宮崎日日新聞のタブロイド判の号外「安藤知事不信任を可決」がさかんに手渡されていた。この情景に議会の対応が適切だったとほっとした気分になった。

 号外によると知事は、「監督責任を痛感している」とあり、辞職か議会解散かを熟慮して結論をだしたいと言っている。これは言い換えれば、自分は、談合には関わり無い、談合をやった部下たちの監督責任のみを感じるということではないか。

 あくまで知事が「天の声」を発せずとするなら、2週間に及ぶ県警の捜査結果、出納長が逮捕されたという事件の推移は、でっち上げのでたらめ、メディアはワイドショー的報道をしているということになる。しかし、この2週間の過程を新聞で読む限り、事件の核心への推移は、方程式を解くように論理に合っている。土木部長や次長が、自己判断で談合をやる理由はありえないという事実も納得できる。

 ヤマト設計社長が、1000万円を知事の政治指南役 石川元国会議員秘書に、知事の要請で顧問料毎月80万円振り込みつづけ、その代償に設計を受注するよう、知事へ要求する。そこで、側近の江藤出納長が、知事の火の粉を払う役割を押し付けられ、予算支出を図る。 そういうことを出納長が、自分のためだけに知事の意向なしに、やるという理由はまったくありえないと、これも事実として理解できる。また知事は、政治指南役石川にどういうわけか選挙後、自分の後援会をつうじて5000万円を届けた。それは送り返された。この運び役が石川から紹介されたヤマト設計社長であった。この不審な金の存在も、知事への圧力となりうる。そういうことで彼は知事室に仕事をよこせと直談判に行ったと話している。知事はこれを否定している。

 知事が自ら「天の声」を発せずとしても、安藤知事が存在すること自体が、重力場が発生するように空間が歪み、その部下たちが談合というブラックホールに落ち込んで行く論理的構造は、現段階では否定できなく、きわめて整合性がある。もし、知事が自分はまったく関係ないというなら、この理論構造を完全に否定できる事実を明かして、そうでない論理構造を提示して、納得いくようにしてもらいたい。それもまたきわめて関心を引かれる。

 こうなったら、議会解散をやり、別の真実を、これまでの事実関係は、警察も検察もメディアもでたらめな推論だという立証をしてもらいたい、それはそれでまた宮崎県を考えることになろう。

 現況では、なんといっても「監督責任」は、部下でなく自分にこそあるのではないか、県民のために「頭を上げて」仕事してもらいたいと、局部長クラスに訓示したというが、その自己確認の甘さ、知性の浅さ、部下の不徳は、自分の不徳というサムライの掟ともはるかに遠い品性の低さだけが漂っている。

 ほんとこういう公務員上役とういのがいっぱいいるなあ・・・・。そしてなによりこういう知事を選んだわれわれの「監督責任を痛感する」初冬を迎えている。

 
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