市街・野 それぞれ草

 802編よりタイトルを「収蔵庫編」から「それぞれ草」に変更。この社会とぼくという仮想の人物の料理した朝食です。

熱中症や猛暑や菅船長など

2011-06-28 | 社会
  
 台風5号が去ったので、今朝は日本晴れとなった。午前6時10分というのに
強烈な日射で、照りかえるコンクリート舗装の道路を12歳となったチップを
歩かせるのは無理なようだ。猛暑の夏がいよいよやってきたと実感できるのであった。季節はいきなり梅雨から盛夏となる。菅首相は止めない。常識的判断の出来ない異常性をこんどの人事でも感じざるをえない。このような判断をする菅さんは、日本号という原子炉事故を起こした豪華客船を、操舵しつづける。だが、到着する現実の港は、菅首相がイメージする幻想の港である。乗客は、夏台風で沈没する危険の前に、船室からどう逃げ出すか、生き延びるか、これが問題だ。

 この虚港への旅の毎日に、毎晩今日の熱中症患者数がテレビ報道される。しかし、その678人、死者1名という数は、130000000分1の死者であり、病者であるわけで、宝くじの一億円が当選するよりも少ない確率である。ということは、だれも普通の生活をしておれば、熱中症にはならないということである。ことさら対策なども要らないと考えて差し支えないのである。暑ければだれでも水を飲んだり、風に涼をとったり、扇風機もクーラーもあるしでなんとかなる。普通の生活をやってれば、熱中症にかかることはないのだ。それが、こう毎日、毎晩、報道されると、先々恐慌の心理になり、気の弱いものは、これだけで熱中症を呼び込みかねない。

 危ない危ないと身をすくめて、逃げるよりも、立ち向かうことが大事であろう。いや、立ち向かわざるをえない人々の存在をどう見るのか、その見解を聞いてみたい。工事現場で、ショッピングモールで、イベント会場で、ダンプや乗用車やバスを交通整理しているおじいさん、おばあさんたち、お年寄りには、こんな仕事しかないのに、日射病予防はどうしてるんだと思ったことはないのだろうか。今日の外出は控えましょうなどという他人事みたいなアドバイズは有害でしかない。ぼくが仲良しになった50代のおばさんは、首まで覆った厚手の制服に白手袋、ネクタイ、制帽をかぶり、デパート前に直立不動で立ち続け、笑顔を忘れずに、開店午前10時から閉店夜9時まで、毎日、強烈な陽射しの下で、デパート前に自転車を止める自転車の整理や、正式の駐車場への誘導をしていた。なんで日射病にならずにすんでいるのかテレビアナは、こんな事実を見たことや聞いたことはないのだろうか。

 ぼくは、気温35℃になると、日曜日であれば、午前10時から午後3時まで
50キロから70キロくらいのサイクリングをやってきた。単純に、日射病には罹らないということを、言いたいだけの実験のつもりであったが、じつは快適なのである。こんなことはやってみない限り想像もできないことだ。部屋のなかでクーラーつけて脅えているより、炎暑の道路は、やり方次第で実は涼しいのだ。立ち向かい方によって、十分に猛暑をしのげるばかりか、逆に快感に変えることも可能なのである。そのことについては、このブログでもなんどか書いたことがある。この夏、35℃になる7月末から8月にかけて、こころみて、また報告してみようと思う。要は、暑さに向かうという意思が大事である。

 とにかく、猛暑の夏にも、制服制帽姿で働かねば生活できない高齢者が、なんと多いことか、日射病にかかった人数の報告しているひまがあったら、もっと本当の弱者にどう立ち向かうべきか、そのことを問題にすべきではないかとつくづく思う。
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紫陽花の花と菅政治

2011-06-22 | 社会
 
 菅首相が、今も総理の座にとどまり、そこを降りる気配もなく、また降りさせることも出来ない。民主党も自民党も手を失いつつある。前回は、菅首相をことばで説得し、動かすことは不可能なのだと仮定したことを投稿したが、その通りになってきた。なぜ、ことばが通じないのか、常識からすると、まさに明晰な論理がなんの効果もないのは、すでにことばの解釈機能を菅首相自身が失っているからである。ちょうど、登校拒否や、引きこもりの若者にことばで説得するようなものである。「もうがんばらなくっていいんだよ、人生は長いんだ、ゆっくりとすべきよ」とか、「もっと気楽に、楽しく、あそべるように仕事できるのよ、行こうよ、集まりに」とか、いくら、わかりやすい、妥当なことばを与えて生活を正常化させようと促してまったくムダだという症状に酷似していると思えるのである。かれらは、言葉の通常の意味は問題なく理解は出来る。しかし、自分にとってのことばとは、ことばの持つ常識的意味ではなく、そのことばが、自分の欲望にどれだけ有効かということしか判断できなくなっているのだ。だから、ことばで動かされることはない。石破 茂 議員は菅の強さを警告しだしている。舛添要一議員は、政治と評論を取り違え、しかもそのことさへ意識できず、大物政治家になったつもりだと批判したが、ここまで粘るとは予測もできなかったのではないか。

 今や、ねばり強い菅首相といったイメージさへメディアに出てくるような状況になってきた。週刊紙もここにいたって申し合わせたようにペテン師とか詐欺師とかのパッシングが消えてきている。まったく、面白い光景が菅と議員をめぐって日々展開していく。こんなとき、孫正義社長の猛烈な接触がテレビのワイド番組を盛り上げた。次第にメディアの矛先は、民主党幹部のだらしなさや、自民党の駆け引きとかに焦点をずらしだした。まさにそこには大震災や原発による被災者の存在はなく、日本政治の完全な劇場化、そして菅首相を主役とするパーフォマンスになっていく。

 一昨日のニュース番組だ、孫社長が、菅さん、粘りに粘り、最後までやり抜いてくださいと抱きつかんばかりのエールを送って、菅首相は、笑顔満面ジョーク連発であった。大震災100億円寄付のヒーローの支援とあっては、ことばなどとても及ばない元気薬が注入されていく。ふと思いついてソフトバンクの株価のチャートを調べてみた。

 4月7日の100億円寄付を宣言して株過は上昇を加速していく。その20日後、4月27日から株価は下がり始めていく。3月当期の決算はマイナスであり、その決算が公告されたてから、5月7日以後も下がり続け、6月14日現在で、3500円から2800円と下がってきた。その谷底での菅と孫の大合唱というのである。ソフトバンクは総資産4兆で、有利子負債も2兆円ある。投資家の目は100億円寄付というような美談には、注目していない。市場のクールさを示す株価チャートが、その冷酷な判断を示している。孫正義の兵法という投書があった。曰く、
 
  「缶もおだてれば木に登る」というのであった。

 この菅首相をめぐる政治ドラマのなんといっても恐ろしいところは、政治の世界とは、利己的保身しか考えない嘘八百の世界であるという現実を、またしても知らされることである。そのニヒリズムを背負うことである。それが、なにより一部の知的な若者たち、いやこどもたちにテレビを通じてありありと示されることである。これはまた、教育上の問題そのものである。石原都知事も漫画の検閲よりも、大阪府の橋本知事も国旗掲揚、君が代の斉唱を条例化するよりも、この問題を重視しなければならないだろう。それにいろんな知識人が菅のねばりとか、菅卸しが間違いではあったとか、ときには、がんぱれとかミーちゃん・はーちゃんの言葉を吐いたりと、知の放棄に至るものもあちこちで出てきている。何をかいわんやである。

 そういう週がつづいていた。

 土砂降り雨天が先週はつづき、土曜日、日曜日も雨は降りやまなかった。今朝も午前8時には雨が降り出した。ところが、午後3時ごろになって、突然のように降り止んで、薄日が射すような晴れ間になった。そこで、先日から気になっていた、駐車場の南西の隅、建物の角にある紫陽花のところまで花の様子を、見に行った。ぼくには、花を見に行くというような習慣はないし、花には関心がないのだが、この花だけはべつなのだ。なぜ別なのか、今年まで、だれもその花に注意を向けるものもなかった。庭隅の雑草のように見捨てられていた。それが、今年の梅雨空の下で、いつの間にか、これまで見たこともないような濃い紫の花を咲かせていたのだ。ふつう紫陽花は、こましゃくれたように紫と白が夏の浴衣のように入り混じっているのだが、この花は、紫一色なのである。こんな紫陽花は、見た覚えがないのだ。スタッフに聞いてみると、去年までは、ほとんど花もつけることもなかったという。脇には毀れえ捨てられた木製の植木鉢もまだ残っている。それが、この開花であったのだ。聞けば、茎を切って植えれば、すぐ移植できるというので、自宅の花壇に植えようとかんがえだしたのだ。花を植える、こんなことは、ぼくにはありえないことだったがそれほどに美しい花になっていたのだ。

 みにくい家鴨の子が、知らぬ間に白鳥になった物語を思い出した。それが雑草にも等しいうち捨てられた紫陽花の開花であるのが、胸を打つのだ。この孤独の花の華麗なる成長に、感銘をうけるのだ。半分は、毀れて産卵したままの植木鉢が、花の足元に散乱したままで、おそらく捨てられたのが、わきの土壌に根を張って、数年かけてみごとに成長し、ハッとするような美しい花を開花させたのである。これがなんともすばらしい。花はがんばろうとか、目標とか、達成とか、そんなことを言わないのがいい。黙って喪失した環境から脱出して、遂に凡百の紫陽花を圧倒するほどの個性的な開花をしたのに、おどろかされた。花に感動させられるとは、思いもしなかった梅雨時であった。今日からは明けが近づく気配を感じさせられるようだった。
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ゾンビ言語に憑かれる菅直人 -Readable- 編

2011-06-09 | 社会
 
 この投稿エッセイは6月9日の「ゾンビ言語に憑かれる菅直人」を読み易くしたものです。ぜひ、再読してください。闇夜の荒海を航行していく船を進める菅船長が、いかなる人物であるかを知ることは、乗船者が遭難からサバイバルできるベストな手段であると思うからです。

菅首相は7月中には退陣するという予想が現実味を帯びだしてきている。これでとどめを刺せるのかというと、どうも予断はできない。かれの進退を左右するのは、党内や野党による首相の退陣再確認という言語ではなくて、菅直人言語とでもいうべき言語だけが、かれの行動を決定させるからである。その言語とは、ゾンビー言語というべき言語である。

 ゾンビー言語とは、本来の意味を失いながら、まだ生きている言語のことである。たとえば、格差社会での自由・平等、その現実では、人間は生まれながらにして自由・平等であるなどという言語はナンセンスである。土地は値下がりしない土地神話も、意味をうしなった。「原発安全」も「想定外」も東北大震災や福島原発事故で、それまで、あれほどの明白な日常言語が、死んだ。もちろん、本来の意味は生きている。まさにゾンビである。
  
 菅直人が、政治家となり権力の頂点まで上りつつける過程を調べていくと、このようなゾンビ言語の使用が、見事な効果をあげているのを知ることができる。上昇階段を押し上げるばかりでなく、首相になってからの失策も、悪評も、責任を問われそうな危機も、あれよあれよと下馬評をやってる間に乗り切らせ、面目回復の原動力となってしまうのだ。例えば、昨年10月の尖閣諸島沖衝突事件を取り出してみよう。菅内閣が中国の圧力に屈し、船長を処分保留のまま釈放してしまった事件で、菅総理のうむやまな対応が、批判を浴びることになった。だが、菅首相は、翌月、ブリュッセルでのアジア欧州会議の際、温家宝首相との「廊下懇談」を成功させたと意気揚々の談話を語った。それは、温首相が「中国漁船衝突事件については、あなたは日本の立場がおありでしょうから、今日は言いません」と語った。この懇談を、かれは、同行記者団に「温首相から原則的な話があり、私も尖閣諸島はわが国固有の領土であり、領土の問題は存在しないという原則的なことを申し上げた」と報告した。すぐに、これは嘘の報告だったことが、関係者により漏れてしまった。これでは、菅首相の尖閣諸島は、日本領土であるということが、恩首相を黙らしたということになる。そんな話ではなかったのだ。要は、温首相が廊下の立ち話で、菅首首相の立場に理解を示しただけ、いわば武士の情けという行為であったのだ。それを拡大解釈し、尖閣諸島は、自己の領土であるから領土の問題は存在しないという主張にまで、拡大されていった。その後もこの原則は何度もメディアで踊った。固有の領土かどうかは、裁判によって明かすしかないのであるわけだが、固有の領土ということばだけが、まかり通っていった。「廊下の懇談」というありえない首脳会談のゾンビ言語が、ここでは巧妙に生かされており菅首相も、ここで息を吹き返してくるのである。

 しかし、さらにぼくをおどろかせたのは、この一ヶ月後の2010年11月、メドベージェフ露大統領の(北方領土)訪問についての菅首相の対応であった。首相は「ロシア大統領の北方領土訪問は許しがたい暴挙である」と、その前の中国への対応とは、同じ人間の反応とは思えない居丈高な口調で、ロシア大統領を難詰したのである。戦争でもしかけるつもりかと、おどろくのだ。もちろん戦争するのは、かれでなくて日本国民となる。この態度の急変は、世論や野党の弱腰外交の非難を、意識してのことであり、ここまで言っても、いや言うからこそ、喝采を浴びるという計算があったと思える。発言の場は、北方領土返還要求全国大会での講演であった。つづけて、かれは北方領土問題を最終的に解決し、平和条約を締結するという基本方針に従い、ロシアとの交渉を粘り強く進めると論を進めていった。この後段は、前段の「暴挙」の一言で消し飛んだのを、自覚もできず、話は高揚しつづけていった。かれについては、格好のつくゾンビ語「暴挙」が、なんの考慮もはらわれず口につき、その結果がなにを生じさせるかも感知もせず、不安も感じず、ただ生き生きと菅直人の口から出てきたことには、驚愕させられた。このとき、ぼくは初めて菅首相がゾンビ語に憑依されているという風に考えると、かれを理解できるとかんがえだしたのである。

 それにしても、彼の言語感覚はどうなっているのか、ぼくは、このことにだんだん興味を惹かれだしたのだ。このことに関するもう一つの事例を上げてみよう。今年2月になると、菅内閣の支持率は、ついに20パーセントを下回り17.6パーセントの支持率まで下がってきた。ここで彼が示した言語感覚がある。

 そのとき、つまり今年2月、彼を取り巻く政治状況は、菅直人首相の退陣論が急速に広がっていく。しかし菅首相は退陣を拒否し、衆院解散・総選挙をチラつかせて退陣論に対抗した。記者団が衆院解散の可能性をただしたのに対しては「国民にとって何が一番重要かそのことを考えて行動する」と可能性を否定しなかった。ここで、「国民」が口に出てくる。これもまた彼にとってはゾンビ言語なのである。かれにとっては、実体としての「国民」は後でのべるようにすでに存在していない。「国民にとって何が重要か」ではなくて「自分にとってなにが重要なのか」が、生きたことばなのである。ゆえに内閣支持率には、かれも弱気になっていったようだが、そのときに菅夫人ば「支持率がマイナスになることはないから、続けなさい」という励ましたという。支持率調査でマイナスになることはない、これが大きなこころの支えになっていると記者に語った。「支持率がマイナスになることは、ありえない」とは、表現のトリックでしかない。かれも理工学部出身であれば、支持率17.6パーセントの残り82.4パーセントがマイナスの支持率であることは、直感で理解できるはずである。しかし、ここに目をつけなくて、このトリックにかぶせて、だからたとえ支持率1パーセントになっても、私は総理を辞めるつもりはないと決意を述べている。

 では、この決意は、なにを語っているのか、この一連の表現のナンセンスが明らかにしているのは、市民運動家であった政治家菅首相にとって市民とは、あるいは大衆は、居ても居なくてもなんの関係もないという本音の意識を表しているのである。市民という実態は、ゾンビ言語に憑依された菅直人にとっては、もう意識にも登ってこない。かれは、意識して正しい行動をしているつまりであるが、無意識の中に棲息するようになった行動原理が、かれの行動を決定づけているのだ。しかも、かれは、それを自覚も認識もできない。

 実は、もう市民とか民衆とか、生きた実態としての人間は、かれの市民ということばにはないのだ。まさに市民はゾンビー言語に変わっているのだ。その生々しい例をもう一つ挙げてみよう。4月2日、かれは岩手県で震災被害が大きかった、陸前高田市を視察した。だが、その振る舞いは被害者を激憤させるものであったと、報じられている。以下はそのときの状況の引用してみよう。

 
「菅首相は、がれきの山となった市街地を見て、眠そうな目で『津波ってすごいんですね…』とつぶやいていました。まるで、人ごとのような口ぶりでした」(前出・官邸関係者)
(中略)
だが、菅首相が避難所の一つである、米崎小学校を訪れたときのこと―。
「菅首相は、被災者が寝泊りしている小学校の体育館に、土足で上がろうとして、あわてて周囲に止められたんです。目を疑いましたよ」(前出・地元関係者)
 おろしたての靴を気にして、泥水のたまっている場所は『靴が汚れる』と避けていたり。地元の人間として、怒りを感じました」(別の現地関係者)
この首相の様子に視察を願い出た黄川田議員も、ショックを隠せなかったようだ。
「あの、すさまじい被災地の光景を目の当たりにして、涙ひとつ流さず、防災服や靴の汚れを気にしているような人に、国民の命は任せられないと漏らしていましたよ」(前出・官邸関係者)
(引用「女性自身」より)

 被災者救済という言葉は、ゾンビー言語としてかれを生き生きとさせるのであるが、現実の被災者は、ことばのなかには存在していないのだ。

 菅直人にとって、言語とはなんなのか、それは実体が、ないのだ。実体の重たさ、困難さ、多様性、矛盾や混沌、つまり生きた現実がそぎ落とされている。輝くことば、だれもが、なかんづく市民という民衆が、その輝きに目が眩むという言語が、かれの使用する言語なのである。しかし、それは、かれが、努力してつむぎだして手に入れる言語でなく海岸の砂に埋もれている貝殻のようなことば、川岸にある置物にすぐ変えられる、かっこいい小石である。その貝殻や小石を、必要なときに、一瞬で拾いだせる能力に長けているのだ。しかし、このように拾われたのは、言葉の死骸なのである。

 かれはその言語を口にしたとき、その言語の意味がまさに実現したような陶酔を覚えているにちがいない。震災地復興計画で菅首相は、復興のイメージとして『世界で一つのモデルになるような新たな街」づくりをめざしたいと強調した。「山を削って高台に住むところを置き、海岸沿いの水産業(会社)や漁港まで通勤する」「植物やバイオマスを使った地域暖房を完備したエコタウンをつくり、福祉都市としての性格も持たせる」などと構想を述べているが、これも実体はない。まさに言葉のポンチ画で、どこまでも実体を喪失したゾンビ計画でしかない。また主要国首脳会議(G8サミット)で、国内1千万戸の屋根に太陽光パネルの設置を目指すと話した。これは「国際公約」にもなる。これについて海江田万里経済産業相は27日、「聞いていない」と語った。後にこの話は演説草稿には書いてなく、菅首相が、その場で思いついてしゃべったとも報じられている。またテレビ番組で、この話は首脳会議に出張する先夜にソフトバンク社長の孫正義の話を受け売りしただけと笑っていた。いずれの場合も、かれは、自分の発言した言葉の表す現実を、想像することが出来ないのである。まさに言葉は、かれの理性を超えて、彼自身を支配しているがごときである。
 
 菅直人についてはさまざまな否定的言語がある。イラ菅に始まり、あ菅、い菅、空き菅などなどのあだ名から、ついに腹黒、権力亡者、ペテン師、詐欺師などという人間像まで語られるようになっている。しかし、ぼくには、人間像を語る言葉には違和感を覚える、かれには腹黒とか、亡者とかペテン、詐欺師とかの人間としての実体を感じることが出来ないのだ。まさに言語のゾンビーに憑依されていき、われわれの常識をはるかに超えた憑依者になっていると思えてならないのだ。常識社会でなく、あっち側としかいいようのない異次元との境界に閉じ込められているのではないかと想像する。現実の意味を失った言語だけが、自分を強固に支えていると自覚する首相となった菅直人は、つまりゾンビではないのか。「死んでいながら生きている」(20世紀初頭、急速な産業化で金のことしか関心がなくなった人間を指したジョージ;・オーウェルの表現)から、簡単に命を絶つことは、傍からも彼自身によっても不可能かもしれない。
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台風一過の土曜日に猫の生活を想うのだ

2011-06-02 | 生き方
  土曜日に洗濯、夕べも選択した。梅雨になり晴天のつづく日は、貴重な洗濯日になる。それに太陽熱温水器から、浴槽に熱水が注水できる。この熱水を盥にも分けて、水を加えて41℃にした湯のなかに衣類を浸す。綿パン3本、下着4枚,その一枚は分厚目の長袖、パンツ一枚、靴下2足を入れて、洗剤を小さじいっぱいを加えた。夕食を終わり風呂に入り、家内も長い風呂を上がるといよいよぼくの洗濯が始まる。といっても足で踏むだけである?!!

 盥の衣類を足で踏むのだ。今回はちょっと多すぎたので、半分づつに別けた。踏みはじめると、たちまち盥は黒い泥水状態となる。タイマーで3分間、踏み、回し、踏み、回しとつづけて、汚水を捨てる。浴槽から湯を汲んで、盥に流しこむ。二度目はタイマーを2分に設定、踏み、回し、踏み回しにかかる。終わると水を捨て、また浴槽からお湯を注ぐ、再び2分に設定、踏み、回しをはじめると、すでにお湯は透明に近い水と澄んでくる。ほとんど汚れは落ちたのである。3、2、2、1分間の4回で終了、あと洗濯機で脱水をして終了する。盛夏になると、手で絞るだけにする。この盥洗いは洗濯槽内の衣類の動きを単純に真似ただけのものである。

 真っ白な下着などは、真っ白になる。靴下の汚れも落ちる。これはまた、恐るべき洗剤のパワーでもあるので、洗剤はなるべく少量ぎりぎりにしたほうがいい。

 今回は、衣類を2回に別けて、洗濯したので、足踏み回し時間は、16分ということになった。これは、ママチャリでおよそ3.5キロを走った足腰の運動量になる。この程度なら誰でも出来よう。ランドナータイプであれば、5キロ位の運動量、ランドナーでは一気に25キロくらいは走るから、洗濯足踏みは、わずかな運動量にすぎない。これも誰でも可能だと思う。どうだろう、やってみられよ。

 節電効果ということだが、省エネルギーセンターの「生活の省エネ」によると、家庭の電気消費は、エアコン〔25.2%〕冷蔵庫(16.1%)照明器具(16.1%)テレビ(9.9%)が突出、電気洗濯機はその他のなかにあるにすぎない。しかし、水道はお風呂の残り湯を利用すれば、年間6.75立方メートルを節水、約3950円の節約になるという。

 ただし、ぼくは省エネのためにやってきているのでなく、自転車漕ぎの脚力保持のためにやるわけであったが、福島原発事故以後、世界は変わった。節電、省エネは、時代のキーワードになってきた。しかし、ぼくは、犬や猫の生活を見るたびに、いつも痛感されていたことは、人間は犬・猫に劣る生活力になってしまっていることであった。つまり、生活は一指し指一本しか使わなくなってきている退廃である。洗濯はもちろん、炊事、掃除、娯楽、移動、みな火葬場で最後の火を入れるかのように指一本のスイッチを押すことでしかなくなっている現実である。前回も書いたように一匹の野良猫の母猫が、子どもを清潔に保護し可愛がる労働、巣を獲得する行動。餌さを探し与える行動、それは体全体を駆使しての行動である。その生活力の発揮に比べて、人間は、指一本しか用いない。指一本が、有害なエネルギーを発生させ、地球を老化させているわけである。最近の異常気象は、地球のこのための老化が原因であると、のべる科学者もいるのだ。犬・猫は、ゆえに人間に勝る生活をしているとは、このことである。せめて犬・猫の何分の一でもいいから、体のすべてを使う生活力に立ち返る必要があるのではなかろうか。

 この夏、節電は、もう引けないキーワードになっている。誰でも出来る節電方法一覧などもあちこちある。待機電力のコンセント抜き、エアコン対策、扇風機で部屋の空気をかき回す、冷房は家族全員一つの部屋で、照明対策、テレビ対策、音量は小さく、画面は少し暗めに、ぼくに言わせれば見らないのが、ベターか。冷蔵庫対策、 お風呂対策、残り湯は洗濯に、パソコン対策、デスクトップよりノートパソコンを使う(笑い)電気ポット対策、ポットは必要ない(これ笑い)炊飯器の対策、ご飯を炊いてすぐ冷蔵庫に保管、電子レンジでチン!(私見、これじゃ電気消費量は同じじゃが)洗濯機の対策、まとめ荒いは基本です。ほんとだろうか!食器洗い乾燥機の対策、基本的には洗いで十分・・早速対策しましょう。(いわれなくてもわかってるわ)と言う具合にならべられているのだ。読んでいくと、ほとんどギャグである。

 節電対策とは、指一本の人間生活を犬・猫生活に近づけることで、大きく前進できる。人間こそ節電機器なのではないか。また、自然エネルギーに風力、太陽熱、水力、地熱、バイオ燃料などがあるが、人力は、それらに匹敵するのではないか。国民が、足踏み洗濯をやり、週に三日自転車を移動に使えば、原発の一つくらいはまかなえるのではないか。

 原発事故以後の世界は、人間が指一本の暮らしから解放されて、犬・猫に近づく勇気と行動力を復活させることであろう。夢はかくして広がる。
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