市街・野 それぞれ草

 802編よりタイトルを「収蔵庫編」から「それぞれ草」に変更。この社会とぼくという仮想の人物の料理した朝食です。

路地マーケット「文化ストリート」の再生

2014-03-29 | 宮崎市の文化
 文化ストリートの再生といっても、都市開発による市場復活ではなく、むしろ変身といったほうが、いいかもしれない。この市場は以前は文化マーケットの通称で、宮崎市民に親しまれていた。今思えば、はるか露天市場から生き延びてきた市場だったのだ。が、今、マーケットは、最後の姿を留めている。敗戦直後、だれでもまず食うことが、生きることであった市民の飢えを満たす、闇市であったのだ。食うというだけの、生存への逃げられない消費欲望が、満たされる場であった。この単純明快、動物的な、ある意味で純粋きわまりない消費生活はここから拡大し、進化し、戦後生活の歴史を つまり果てしない欲望の満足と拡大、快楽生活への道をタートさせていったのだ。たちまち、そこは、軽量鉄筋の2階立て建物と改造され、天蓋でおおわれた下に店舗が集まって、食料、衣料、日曜雑貨を売る店が並び、その路地には買い物客が流れ込んできて、活気が溢れ、人間の生々しい生活感があふれる市場となっていった。昭和30年代にすでに「おにぎり」を売る店もあり、婦人服を仕立てる店もあり、快楽流行の先端を担う雰囲気もあった。しかし、表通りの商店に活気がもどりだし、商品が、もはや日曜必要品の範疇を超える種々さまざまの商品が、怒涛のように繁華街の人々を襲うようになりだした。昭和40年後半ごろから、この路地裏マーケットのチンケサでは、人々の快楽的消費生活を満足させることが不可能になりだしたと勘違いされ、足は遠のくようになってきた。その傾向に追い討ちをかけるように、それまでもつづいていたように、路地を汚いもの、遅れたもの、市街の面汚しとする、都市開発、道路交通規制、消防、治安という正義の美的モラルの意識が行政、メディアにより、浴びせかけられ、その崩落を押しすすめていった。昭和の終わりとなり(1989年1月)平成となり、90年半ばにいたると、このマーケットのあちこちで、店がドアを閉ざし、空き家となっていった。ただ、当初は、閉店となった室内を汚れたガラスショーウインドウから覗くと、どういうわけか、埃まみれの商品たちが放置されたままではあった。

 1995年宮崎市に宮崎映画祭が始まり、その委員のおおくに宮崎市の建築協会の青年部のメンバーも加わっていた。あるとき、実行委員会の歓談のときに、ぼくは、文化ストリートの空き店舗を、臨時的にライブハウスや、画廊や、小ホールにする簡単な設計をして、文化イベントをやらないかと、話題にしたことがあった。そのとき、その若き建築設計者の何人かが、文化ストリートは何処にあるのとか、中に入ったこもないという反応をみてショックを受けたのだった。かれらの関心は、橘通りという中心市街地の活性化の問題こそ、緊急の課題だと知らされたのであった。ぼくも、この思いつきでしかなかったアイデアも忘れ、映画祭や、80年代からやってきたテント演劇(現在の劇団黒テント、テント劇団どくんご)の宮崎市公演の受け入れで、文化的イベントへの欲求を満たしていた。あれから10年、2005年には、すでに、文化ストリートは、正面入り口に沿ってばらばらと店が並ぶほかは、路地迷路に並んだ店はほとんど閉じてしまっていた。残った商店主たちに聞くと、こんな場所はどうにもならんという返答ばかりだった。」(2005年10月4日 市街・野ブログより)正面入り口は夜になると頑丈な格子戸が閉められ、ここが、文化ストリートという市場であったと知るものは、もう年寄りだけになっているようだった。橘通りのほうの入り口だけはあり、奥のほうにあったかなり知られていたうどん店も手前の銀細工の店も、そのまえのブティックや雑貨店も無くなった。まるで劇場の奈落であった。その崩落のなかで新規開店した占いの店の、タロット占いの象徴的な記号看板が夜の闇に浮かんでいるばかりであった。そのとき、ぼくはふたたび、こんどは、じかに、商店主や、正面入り口(文化ストリートという看板がかかっている)に近い婦人服「たなか」や、その正面の野菜店などの店主に、空き店をライブや画廊や劇場に利用できないだろうかと聞いてみた。店主たちの一応の答えは、いつぶっ倒れるか知れない店で、危険だというのであった。確かに言われてみると、天井は破れ鉄骨の柱は傾き加減であったのだ。

 この2005年から、さらに、10年の歳月が、流れたわけである。時の流れのなんと速いものであろうか。数年前、タロット占いの店をやっていた、40代の店主(男)は、亡くなったという話を聞いた。宮崎市の一つ葉海岸に70年代初期にヒッピーコンミューンが出来ていたが、その最後のシーン(1979年ごろ)に加わったという話をかれから聞いたことがあった。かれもここから居なくなったのかと、感無量を感じたものだが、文化ストリートももはやここ数年訪れることもなくなっていた。そのようなとき、去年の11月、宮崎駅前の基点広場公演でテント劇団どくんごの「君の名は」の公演が終わったとき、観客の一人の若者から「文化ストリート」で演劇を公演すると聞いたのであった。






コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする