市街・野 それぞれ草

 802編よりタイトルを「収蔵庫編」から「それぞれ草」に変更。この社会とぼくという仮想の人物の料理した朝食です。

どくんごテント芝居「OUF」宮崎市公演

2014-11-19 | 演劇
公演当日。2014年11月14日(日曜)夜は雨という天気予報が出ていた。どくんご到着の14日金曜日は最低気温3度、真冬並みの寒波が来ると予報された。金曜日現在、直接売った券は、去年の半分に届いていなかった。雨に寒さ、観客は来るのかと、不安が膨れ上がってくる。それでも冷たい曇り空の下、KITEN広場にテントが設置されると、賑わいが生まれ、劇団員に混じりつつわれわれ4名も、高揚感が沸いてきだした。雨でなく曇りとなり、曇り空が寒気をゆるめ、無風となった。気温もゆるんできた。予感どおり出足があまり良くなかった。そして夜の暗闇が広場を覆いだしてきた。そのとき、暗闇からぞくぞくと来場者があらわれだしたのだ。午後5時半の開演時間を越えると、心配をよそに、またたく間にテントは、満席となり、臨時の席を舞台ぎりぎりに並べ、テントは、観客で沸きかえったのであった。昨年と同じことがおきた。新しい観客の来場であった。

 どくんごテント芝居公演は、1995年宮崎東口公演を受け入れて19年目にして、公演場所の安定的提供を受けられ、売券の労苦から開放される見込みができたようだ。探検地への道が出来たようなものである。リスクはつづくが、目標には近づける。この探検の冒険の意味はなんなのか、観客とテント劇団「どくんご」は、なにを冒険しているのであろうか。それは、生きる場所と自分についてである。つまりどう生きるかという共有点を課題としうるのではないかと、ぼくはこのごろ、思うようになってきていた。

 今回ほど終演後の観劇アンケートを読んでみたいと思ったことは無かった。今はまだその機会がない。なにが、観客にその若者たちに、生じた意識を知りたいのだ。そのことで、当ブログに先日紹介した森川弘子さんの「テント芝居を観に行こう!!」に沿って芝居と観客の接点を推し量ってみよう。前々回のブログでも言ったように、文章では表現するのが難しいどくんごテント芝居が再現されている。今もう一度みると、「こんなにおもしろいものが、まだまだあるんや!!」「あふれる魅力、パワーに圧倒された」の駒と「その名は劇団どくんご」の団員の似顔絵が駒の並んだ2駒に前に見落としたものを気づかされた。これは、芝居の面白さへの賞賛だけでなく、かれらの生き方にむけての賞賛であったのだと・・。このマンガの本質は、ここにあるのだと思えだした。まだこのように生きられる、このような楽しさが、破れかかった地球に咲いていると、この希望が彼女をゆすぶったのではなかったか。その後、彼女はテントの四国順延17日に同行、ブログにただ一言だけ、観に来てくださいとだけ、毎日書き綴った。この行為の純粋さに圧倒された。「いつでも楽しく 暮らしたい!」この連載マンガのタイトルである。現在、希望をもつことの意味は、消費という受身でなく、冒険であり、それこそが、楽しく暮らす意味であることを、どくんご芝居で語っているのだ。

 この生き方が、どくんごテント芝居が、観客を納得させる、実は内容なのだと、ばくはこのごろは思えるようになった。どくんごテント芝居には、われわれがいつのまにか忘れていた、脱ぎ捨ててかえりみなくなった生活衣装を、気づかせる。その最大のものの一つは恐れるなということである。消費社会という繭を目的もなく編み続ける安全な暮らし、この生き方を止め、繭の外に出て、裸の無防備の幼虫となる。自分で生きると嘯く。安寧の繭の外部に転がり出て、怯えるものに今日も立ち向かう。まさにドンキホーテ的幻想と行動に観客は哄笑しつつ、いっしゅんにして、自分の現実を見る目を与えられるのだ。実は繭の中こそ、繭を永遠につむぎ続ける暮らし方こそ幻想ではないかと、気づかされるのである。
 
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内と外 テント劇

2014-10-30 | 演劇
いよいよ11月(2014年)16日劇団どくんごのテント芝居「OUF!」の公演がやってくる。今回は、森川弘子さんのマンガ(PHP雑誌くらしラク~ル10月号掲載テント芝居を観に行こう!!)で、これまでのように内容説明をいちいちしなくて済むと、おおいに宣伝に楽観していた。先日、銀行の支店長さんがみえて、テント芝居公演の話を始めた。早速マンガを差し出して、こんなものですと、かれの反応を期待した。折からマンガのコピーしたのを持参してくれた実効委員のしぇ・こぱんのマスターと、今回は説明は楽だと小話を交わした。支店長さんを見ると、憮然とした様子で、チラシにも見入っていた。どうです、テント芝居おもしろいでしょうと、声をかれにかけた。

 「どこがおもしろいのか、ぼくにはさっぱりわかりませんけど・・」
 
 と、思いもしなかった返答であった。いや、このマンガではストリーとかテーマとかはでていません。しかし、歌、踊り、役者の特色、観客の反応、テントにどよめく、共感、興奮は、このマンガの通りでしょ、そこ、そこがテント芝居なんですけどと、はなすと・・

 「それが、このマンガのどこにでているんでしょうか?」
 「どこにというか、全体にあの活気みたいなものがあるでしょ」
 「いや、なんにもわからないんですよ、それが」
 「受付嬢も、楽器を引いている役者たち、ステージの掛け合い、客席
  の興奮する観客たち、そのリアルな表現を、感じませんか」
 「ぜんぜんわかりません」

 かれは40代半ば、都市的な洗練された紳士で、ぼくの奇妙な情報をいつも楽しんでくれて、ここにくると、いつもそんな非日常の話でもりあがれる人なので、好奇心は旺盛なはずであるが、この反応はなせと仰天したのであった。つづけて、かれは聞いてきた。テントとはどんなものですか。何人は入れるのですか。100人くらいは可能、テントはチラシに写真がありますと示すと、かれはその白黒の写真を見詰めだした。

 「寒いでしょ」「寒いです」「雨がふったら、ござのうえでどうなるんですか」「ござ?! 客席はちゃんと階段状に設けてあるんです」
と答えつつ、いったいぜんたい、かれはテントについてどんなイメージをいだいているのだろうと思い、いきなり聞いてみた。チラシの写真を指し示しながら。このテントに入って芝居を観ますかと。
 
 「いや、わたしは、このテントに入ろうとは思いません。そんな
  気分にはとてもなれません。うっとうしいし、みじめです」
 
 そこでぼくも写真を検めてみると、どこかの空き地に設営されたテントの写真は、どんよりとした曇り空の下に地を這うように、まるで小屋のようであり、さびれて、旗も垂れたまま、まるで疲れたホームレスの
ハウスに見えるのであった。その瞬間にぼくは気がついたのだ。このマンガの一こま一こまは、ぼくの記憶の再現であるのだと気づいたのだ。演出家どいのをはじめ役者たちの出演のシーンもすべて記憶の再現である。観客のどよめきも音楽の盛り上がりも体験の再現、このこまは、ぼくの記憶の再現であったのだ。テントは写真であるまえ、体験の再現なのである。

 このマンガは、記憶のあるものにとっては、リアルであるが、ないものには、そのリアル感を伝えるものがないということである。もっともマンガをみて、テント芝居をおもしろいという人もいるかもしれないがぼくのもつリアル感は、マンガからは得られない。

 ここで改めて再認識できたのは、自分がおもしろいと思うものを、他人がおもしろいと思うことは、ある条件をクリアしなければ、ありえないということである。内なる自分と外なる他人を、頭から能天気に同一視することは、とんでもない独りよがりである。共有するものを、慎重に見出し、それを他に自覚させるワークがいるということである。自分の欲望を他人も欲望するということ、つまりこの画一化、非人間的精神・意識である、内も外もない世界は全体主義国家の構造である。そうはなりたくないものである。

 ここで、切実な追伸!! ここでぜひ森川弘子さんの楽天ブログを訪問してほしい。9月30日から10月28日まで21回、ブログはどくんごを観てほしいとほぼよびかけのブログ。数回は舞台写真、その美しさを見てしまえば、だれもテント芝居に魅惑されてしまう。もう写真なら現実感を共有できそうだ。10から27日まで、彼女は四国巡業ツアーに同行しながら、ぶろぐをつないていった。対象にこれまでのめいりこめるという情熱に、彼女の想像力の力をかんじざるをえない。僕は、所詮まだテントを目でおっているしかない、知識人にすぎない。なにかが創造されるのは、彼女のような人からであろうと思う。適わない。ぼくらの実行委員で三木ちゃんが、宮崎市にはいる、女性の力を感じさせられる。
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どくんごテント芝居OUFコンビニに出来(しゅったい)

2014-09-25 | 演劇
電話で知らされた。コンビニにならんだ雑誌の一つにどくんごが載ってる!と。雑誌名はなんというのですか、覚えてません、どこにのってるの、後ろのほう、小さくて、薄くて、文庫本なの、いや、やや大きいくらい、あ、PHPの本、女性の暮らし向け、テント芝居を観に行こうとありました。でも、お知らせしたらよろこばれるかもと・・、オーケーわかりました。ほとんどわからなかったけど、とにかく道路の向かいのセブン・イレブンに入ると、窓際の書架の端、入り口に近い位置に小ぶりの小冊子が3種類ならんでいた。PHPとあったんで、片端からみたが、広告などどこにも載ってない。新刊号でないのかもしれないと聞くと、この10月号で新刊です。なるほど、まだ9月であった。そこでまたみていくと、「毎日がもっと充実!朝時間・夜時間の過ごし方 すっきりお目覚め、夜はゆったりリラックス」と、表紙に大きなタイトルが並んだのが、見つかった。この中105ページにあった。それは広告でなくマンガだった。作者は森川弘子とあり「いつでも楽しく暮らしたい!」その7が、まんが「テント芝居を観に行こう!!」だったわけである。この雑誌のタイトルはPHP10月増刊号 くらしラク~る♪と右上にあった。奥付も同じで、通し名はなく、次号予告で、くらしラク~るとあったので、こえが正式雑誌名である。奥さん方よ、暮らしをラクに楽しくと、いうわけである。そこに「どくんご」が登場することになったというのが、じつにおもしろい。まさに、時代は変わったである。
 
テント芝居は面白い、無類の面白さ、あふれるエネルギー、この夜、夜時間がひっくり返る、さあ、行こうと、この20年こう言っては、チケット売ってきたのを思い出す。それにしてもマンガというのは、一瞬のことばをもって、どくんごテント芝居の雰囲気を、余さず捉え、納得させうると、感銘させられた。「歌あり踊りあり 話はあるようなないような」「今まで こんなの観たことない」とおどろきが、この一こまの両脇の吹き出しにある。そのことばが伝えたい、芝居の興奮が、このこまに描かれた役者のしぐさ、観客の仰天する顔、音、どよめきなどが描かれて、味わえるのだ。5ページ23こまのなかに、作者とどくんごテント芝居との出会いから、観る前と後、そして、彼女がはまったしまった心情、公演の追いかけ、かれらの全国移動の様子、鹿児島本拠地出水市の様子、そして今年のツアーまで、みごとにまとまっている。これを文章で書いてみよ、長くなり、雰囲気までは伝えがたい。まんがには、無縁であるが、その表現の機能にはおどろかされた。

 それにしても、森川弘子さんに1995年宮崎駅西口正面(駅改装工事中)での「トカワピー・クエンダワピー」や、1998年の旧タバコ専売公社跡地での「ノン・ノット・ア・ゴー・ゴー」のテント芝居を見てもらいたかったと残念だ。このことは、宮崎市民のだれかれについても言いうるのだが、あの驚天動地、無常・無類の強烈なテント芝居を、もうだれも二度と観ることは絶対にできないのである。生きていて魂の覚醒はめったにないし、その衝撃も、出会えることはないのである。こちらの言うことを信じてもらい、興味をもってもらえたら、これまでどれほどのラクをあなたたちは、味わえたことかと、残念でならない。最後に森川弘子楽天ブログに森川さんが並べたUFOの舞台写真は、美しい。ぜひ観てほしいものだ。
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平成14年度どくんご宮崎公演

2014-09-19 | 演劇
  今年もどくんごの季節がやってきた。11月16日日曜夜午後6時、宮崎駅西口前の「KITEN広場」が、会場だ。「OUF」という出し物である。OUFはUFOの文字の置き換え、この遊び感覚がいい。UFOにないニュアンス、ちらしにあるOUFに、思わず目がひっかかる。どくんごテント劇団も、新旧交替が、進み、新人の個性が羽ばたきだした。全国ツアーの第二日目、5月11日、本県都城市の神柱神社公演で見たが、繭から蛾が外に体を出してきた印象であった。蛾はそのまま雌のファエロモンを嗅ぎ出せて合体できるかどうか、楽しみである。

 しかしこの祝いの日から、梅雨 夏、秋とごちゃごちゃとなる、雨と泥の災害がつづいている。異常気象がふつうになると、他人事のようにワイド番組で言われる。あちこちで地球がやぶれ、大国、小国、戦争を起こし、止む気配もない。もうこの地上もだめなのか。このときOUFという異常物体が、われわれに接近、接触してきていると、思えよう。テント劇「太陽がいっぱい」(2012)「君の名は」(2013)の地上性つまり日々が暮らせる、懐かしいは、2014年、摩訶不思議にも、ゲリラ豪雨の巣から、地上を注視させられる事態となったというわけだ。これはどくんごの予言であったというのは、過剰反応かもしれないが、今年の現実を予言していたかのようである。この意味でも、今回の公演には新鮮味を感じたのであった。

 ほんと、テント劇場のことばを観てもらいたい。その匂いを舐めてほしい。ぼくの孫は団地の生きのびた一欠けらの林に基地を作り、遊ぶ。大人たちが、川原で料理を楽しむ。高齢者が、登山でテントに泊まる。日常の利便性から、わざわざ不便性へ赴く衝動をぼくらは遺伝子のなかに組み込まれている。その快楽を軽視してはいけない。劇団は公演「ただちに犬」のシリーズでは、犬小屋劇場と自称していたが、不便性に快楽を楽しむというのは、贅沢なのだ。真の贅沢。犬小屋の贅沢に目覚めよである。そうなれば、異常気象も大地震も、心配の種は一つ減ろうというものである。

 だが、しかし、おそらく今まで同様に、わけはわからないが、おもしろかったという強烈な印象につつまれるだろう。このごろ思うのだが、どくんごのテント劇の内容は何という問いに、わけがわからないが、おもしろいというのが、正真正銘の内容だということである。わけはわからない、うえにおもしろくもないという演劇でなく、おもしろくなっているという、この違い、飛躍、この本質、これが内容であると思う。もう一点忘れられないのは、「笑い」である。その笑いには、切実さがある。笑いながら泣いているのだ。さくらが咲いたとかどうかの説教ではなく、ただ泣く、この切実さ、あるいは情熱、これがテントを満たしていく。今年もまたこの一夜を楽しもう。
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未知座小劇場宮崎公演 非物語性の物語

2014-05-20 | 演劇
 これから宮崎市公演の井筒の内容について話してみようと思う。実は、いわゆる未知座の井筒には、物語の主題にまとめられる内容はない。なぜなら物語を離れているからである。三人の女優が演じる人物を能になぞって、一人を里の女(打上花火)たかはしみちこを業平の妻、もう一人を旅の僧(西行)としてみても、相互の関係、行為の意味は物語りを形成していない。物語の制約から自由になる、解放されるという趣旨で、この形式はすでに小劇場やテント劇でのパターンとなっていた。そして観客から物語を奪って与えられたものは、脱日常とう軽さであった。笑い、ギャグ、アイロニー、パロディの万華鏡のような変幻模様が、日常風景を超えさせるともいえた。それは間違いなく演劇の快楽足りえたが、その軽るさに体制批判という毒が仕込まれてはいたのだ。日常生活のやりきれぬ単調な繰り返し、世間体、組織からの逸脱を可能にする軽さだったのだが、80年代になると、軽さは、軽さだけとなり、過剰なまでの消費生活の気楽さと見事に一致していった。軽さの王国となり、考えるとか、批判するとかのうっとうしい奴は、苛めの対象でしかなくりだした。そして、現在、軽い、軽い、だけの日本に、憲法改正、軍事国家、集団的モラルの復権への日常が、踊りでてきている。

 このような背景を思うとき、未知座の井筒は、笑いを駆動力としながら、観るものをまさに井筒の底にひきこむ重力があった。三人の衣装も持ち物も、今様でもなく、平安時代でもない。土地謄本というサンスクリットの巻物を掲げる西しゃん、井筒に投げ込まれうペットボトル(マラカスにもなる)遊女風な業平の妻、作務衣で白髪で、吠え立てる里の女と、舞台は道化たちの登場なのである。しかし、笑えない。衣装も小道具も象徴として、観客の意識を引き付ける。どこにむけ、意味するものはなんなのかと、観客を誘い込む。舞台では、日常の立ち居振る舞いは消され、動きは様式化されときには、不思議な三人の舞踏のような動きにもなる。われわれは、その象徴を解こうとする。しかし、言葉という手がかりがないのだ。そのうちにわかってくる。三人のだれも、、自分の欲求が適わないこと、いつまでもどうどうめぐりで、問いも答えも水月のようにくだけちることが、みえてきだした。井筒の周りで今宵は月見を楽しむ宴は、無意味なのかもしれない。台詞の意味・内容を理解できない観客にも、無意味を知ろうとするストレスが高まっていく。これは意図されたことか、ぼくのたんなる受け取り方だろうか。手につかめない欲求に、三人の煩悩がもえつづけることが、劇を進めていく。この舞台の流れを、ぼくは本を読むように解読しようとし、その衝動を避けられずにみつづけていかざるをえなかったのだ。だからこそ思う。では、本を読まない世代、あるひは、読書好きでも読書に値する読書をにまで足していない世代、感性が理性よりも働くも若者の受け取り方はどうであったろうかと、知りたい思いがするのであった。かれらは、だれよりも息を呑んで舞台を見つめていた気配が感じられたから、彼らの心中になにが生じていたのか、知りたく思った。それは今はおいて、だれしも共通したことは、台詞の具体的な意味をつかめなかったことであろうかと思う。台詞により、筋道をつかまめなかったことは、まちがいない。それでいて、三人の台詞、行為、有無をいわせぬ吸引力の重力に観客はとらえられたと、ぼくは思う。

 そして比喩的に言えば、その重力に引き込まれ「井筒」の底の水月見の水面で、なにを見たのかとなる。これが井筒の終わりだが、この終局の数分間は、その意外性によって圧倒されたのである。そのシーンは、いきなり現れた。舞台は荒れ寺からコタツのある彼女らの大阪の町の4畳半の部屋になった。業平の妻は、現実の働き人になり、ラジオのスイッチをいれる、コタツにはお茶が準備される。古いラジオから流れ出したのは、ケイウンスクの「すずめの涙」である。どこかささやくようにして、上手で井筒の女(打上花火)は白髪の鬘をあっさりと剥ぎ取り作務衣の上義をゆっくり抜くと球団の野球服であった。大阪のこんなおばさん居るという実感が、4畳半のアパートにリアル感を高める。演歌が圧倒するような音量で部屋も、登場人物も観客を覆いつくしていく。すべてを日常に返し、日常の繰り返しを受け止め、もういいと、葛藤も争いも理屈も消え、あるのは涙だけじゃないか、つまり涙こそだと、日々を再確認させてくれるのだ。過去、現在、未来をつなぐ共時的な、もののあわれこそ、美であり、愛である。それが日常を浄化して超えさせうる。、観客は、感情の水面にに身を浸してく。この終局、井筒の予想もできなかったクライマックス、ここに作家・演出の黒木明のこの劇の寄せた思想を納得できたのであった。この重力の中心に向かって劇は集約されていたのだとわかるのだった。

 意味がないからこそいいのだ。NHKの大河ドラマや海女ちゃんのようにモラルの意味に塗りこめられないのが、いいのだと言える。三木ちゃんが、こんな清らかな演劇はないと泣いたのも、理解できるのであった。

 こうして内容は、三人の女優の表現力、彼女らの思想にあったのだ。それを引き出して表現にした演出者黒木明氏の思想も含めて、彼女らを讃えたいと思う。あの台詞のつややかさ、聞き易さ、リズム感、マグマのようなエネルギーと変幻性(つまりどんな人物像、悲劇・喜劇にも変化しうる幹細胞的台詞)それを生み出す身体に甘美な演劇性をあじわえたのであった。

 最後に、今宮崎市のアマチュア劇について思うことを述べおきたい。まだ、現状ではこの三人の演技、そのような台詞・身体の域に達するのは、きわめて至難の業である。だからこそ、劇の物語が、俳優たちの演技を支える。つまり、彼ら、彼女らは、物語という「いかだ」にのり、あるいは「松葉杖」で歩行をささえながら、観客という川、あるいは観客の群れのなかを、渡っていける。しかし、物語=筏を、非真実と侮蔑し、筏つまり物語りから飛び降りて、観客の川に身を投げる。すると、そこに生じたのは、もはや演劇ではなく、叫び声でしかなくなるのだ。物語を非真実として、たしかに多くはそのとおりではあり、物語を投げ捨てる判断は悪くはない。しかし、ときにはそれは野暮となる。いきがったあげく、演劇が消滅することになる。嘘つまり非真実が、かれらの演じる内容になってしまう。問題はその状況を自覚できないことにある。そのままだと何十年も先きまでもだ。真実として信じてうたがわない非真実の出店を、観客のまえに未来永劫に開くことになっていく。このような状況のときに、井筒の非物語性を上演した2014年5月12日の公演は、宮崎市の演劇界に大きな意味を残すことになったと、ぼくは思うばかりである。
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未知座小劇場のホームページチックして

2014-05-10 | 演劇
昨日の当劇場の宮崎公演を述べたが、未知座小劇場についてはのべてなかったので、一言付け加えておきます。インターネットで劇場名で、検索すると、同劇場の公式ホームページに入れるので、その軌跡(歩み)や上演記録、上演チラシ集が一覧できる。この中で、チラシは、かってアングラといわれた70年代の匂い濃厚なチラシを懐かしいです。これを眺めて劇団を判断することは、もはや出来ないかもしれませんが、スタートはこのチラシのようだったと想像してもいいのかもしれません。上演記録一覧がありますが、出演者も内容も記載してないので、残念ながら、チラシをみての印象しかえられません。これはまちがっているかもしれません。ただ、ばくには楽しめたのです。
 
 劇場の軌跡と要約すると、1972年2月「ゴドーを待ちながら」(ベケット作)を公演、この上演委員会から未知座小劇場を結成、」1975年「ぼくらが非常の大河をくだる時」(清水邦夫作 闇黒 光 演出)が旗揚げ公演となっています。その後、1996年第36回公演「レスビレーター」まで、旺盛なテント劇巡演をつづけています。この公演をもって集団としての未知座小劇場を解散し再編とされていますが、その理由は、ぼくにはわかりません。とにかく36回という
公演を代表の闇黒 光(河野 明)脚本・演出で公演されてきています。打上花火さん、曼珠紗華さんも70年代から、これらの劇に出演していた様子が、辛うじてチラシから判読できます。それにしても、劇団の活動暦には驚嘆させられました。この活動は、黒色テント(佐藤 信)の活動どかさなっていて、製作本数としては、未知座小劇場が多いようです。ちなみに黒色テントは、宮崎市でも1973年の「嗚呼鼠小僧次郎吉」から、新井純主演の「阿部定の犬」斉藤晴彦の「ヴォイチックと初期の傑作が宮崎神宮の境内で、上演されてきました。これは、ほとんどしられてない事実で、全国にほこっていい記録だと思います。それはそれとして、未知座小劇場も関西のテント劇団としては、群を抜く軌跡を残した劇団だったと知ることができます。

 2000年代に入って第38回公演に2005年「大阪物語」が打上花火、曼珠紗華2女優出演で、大阪、新潟でえんじられています。今回乃宮崎公演は続大阪物語と副題がついています。2006年第39回は闇黒光の作品名月記、独戯、大阪物語がシリーズとして上演され2008年「シェーマ」が第40回となり、今回につながります。なぜか、今回の「井筒 続大阪物語」には何回かの表示はありません。

 以上、かんたんに軌跡をピックアップしましたが、内容は、サイトからは、具体的にわかりません。ただ、代表の河野明さんは、「力場の論理」という
演技についての詳細な評論があります。ヨーロッパの思想書、哲学、社会科学に加え、日本の古典文学、謡曲、能、民俗学、小林秀雄、吉本孝明、柄谷行人
など現代評論家などと文献を渉猟しての演劇論を、まとめています。さらにおどろくことは、かれは現在、劇団旗揚げの時点で、パソコンにリナックスというソフトを用い、「Linuxをインストールしよう」という著書もあります。また株式会社オフイスの代表取締役で、情報技術の企業を運営しています。この読書体験、40篇におよぶ脚本、そして、出版は、オンデマンドをいう電子書籍として、自分の会社、オフイスゼット オンデマンド出版となっています。この活動領域を知ると、哲学と日本古典、現代文学とITビジネスによる情報産業の経営とどういう相互関係になっているのか、きわめて興味をそそられます。まだ、ぼくは河野さんに一面識もないし、かれの評論も読了していません。今回たかはしみちこさんのことで、彼に会えることは大きな楽しみです。
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未知座小劇場公演 宮崎市

2014-05-07 | 演劇
  大阪の未知座小劇場の宮崎公演が、5月12日(月曜)午後7時開場7時半開演されます。会場は「阿弥陀堂」(宮崎市駅前自治公民館)入場料は1000円、客席は50席です。予約は、072-996-5078 090-3722-6950 です。予約できないとき、もしくは当日来場できない人は、5月11日(日曜)の午後6時からのとおし稽古、本番前12日、午後2時からのとおし稽古を自由にみていただきたいとうことです。このほうは、もちろん無料です。

 上演演目は「井筒」 このタイトルは世阿見の謡曲からと作者で演出をする未知座小劇場代表の河野明さんは述べています。出演は打上花火、たかはしみちこ、曼珠沙華の女優3名です。宮崎公演にいたった経緯をかんたんに述べます。この発端はたかはしみちこさんのここ数年の宮崎で演劇をやりたいという切望が実現できたということになります。彼女は仙台市で小劇場「もしもしがしゃーん」の女優として、名をなしていて、2005年テント劇団「どくんご」の「ベビーフードの日々」に客演してから宮崎市とも縁ができたわけです。この劇で演じた熊本の港町の女、蟹をばりばり食いちぎりながら、朝帰りした夫を責める妻の悲愁とグロテスクな愛情、悲嘆と滑稽さのわけられない情念の修羅場を演じて、観客を魅了しました。この年のどくんご全国旅公演で、公演先でたかはしみちこファンが出来たことを、後で知ることができましたが、さもありなんと了解できたのでした。その後、ときどき彼女は宮崎市にどくんごの手伝いでみえてはいたが舞台に端役で出たのは、一昨年と昨年の2回でけでした。もっと主役をと思っていたころ、彼女自身は、宮崎公演をもしもしがしゃーんでやりたいという希望をいだくようになっていたのです。なぜ宮崎なのか、理由は聞いては居ませんが、彼女の再演を希望している仲間も数人いたので、こころよく今回の公演を引き受けたわけです。

 さらにここで、宮崎市公演の実現について、予想もしなかった情熱に出会えたのです。それが、未知座小劇場です。たかはしさんは、この劇場に入ることになったのですが、代表の河野明さんは、宮崎市公演をたかはしさんの話を聴いて賛同することになったと思われます。しかし、それは、劇団自身の公演として、宮崎市だけで公演するとう企画となったのです。ぼくは彼女からその計画をきいたとき、宮崎市公演だけなら、100枚2000円のチケットを売ったとしても赤字だよと言ったのですが、経費のことはかまわないと、座長のことばを伝えました。さらに観客動員するにしても、100枚でも無理と重ねると、観客も何人でもいい、観客はイメージの中にあるのだからと、即答されたのでありました。大阪からのカーフェリー代、2泊3日のホテル代、食事代、会場費、舞台装置、チラシ、チケット、その他の通信連絡などなど、脚本代はただとしても、数ヶ月に及ぶ練習にかかわる費用と、コストは積みあがっていくわけです。そして、ぼくが引き受けた阿弥陀堂のホールをの入場者数は50人内外なので、チケット収入は、多くて5万円である。ホール代を支払えば、実質収入は3万7千円となる。これで宮崎市未知座小劇場「井筒」公演の収支です。このことは、宮崎市の受け入れ側に負担はかけたくないという配慮からであろうかと思うのだが、それにもまして、未知座小劇場の宮崎市公演の情熱を感じざるを得ないのです。

 ここまでして、上演したいという「井筒」はどんな劇なのかということを
説明しなければならなくなります。上演の意義はとか、そんなむつかしいことを置いても、いつものようにチケットを売るときに、観るに値する、つまりチケット購入の価値があると、「この劇の価値」を説明しなければならないわけです。ただ、今回はぼくの知人がほとんどで、かつ小劇場についての関心をもっている人たちを選んで勧誘したので、どこで受賞したとか、内容の物語性などについて語る必要はなかったのです。ぼくが、はっきり言えることは、内容はようわからんけれど、おもしろいですよということです。これはテント劇の観劇アンケートにもっとも現れる観劇感です。これはさらにおどろいた、はじめてみた、すばらしい役者たち、その情熱、非日常感、元気をもらえた、自由、飛翔、次回もみたいなどと敷衍しだす感想に及んでいくわけです。ぼくは脚本は読んでみたけれども、舞台はみたこともありません。謡曲といえば、井戸の枠、ススキのある荒れ寺、などお能の舞台と似ているらしいけれども、大阪弁の台詞が、3人の女優のかけあいて、飛び交うさまをまのあたりにするとき、それもほんの目の前の女優の迫力に圧倒されるはずと思います。たかはしみちこはそういう女優だし、打上花火さんも曼珠沙華さんも関西の小劇場界をしるものはだれでもしっているカリスマ的存在だということです。それにたかはしみちこが、もっとも尊敬する二人の女優といいます。宮崎市の小劇場ファンの知人が、大阪の友人に二人の名前をつげたところ、即座に見にくるという返事であったといいます。その実力のほどがしのばれます。

 チラシには坂本明さんの5200字余のエッセイ「井筒と水月見」というエッセイが書かれていますが、これは、かれの上演する演劇への思いです。しかしきわめて難解で、ぼくが辛うじて判読できたことは、演劇は「井筒」の底の水面に亡き夫(業平)を観る井筒の女のように現世と他界をつなぐ水面のように演劇も過去と現在、現実と超現実を媒介できるものとしてあると、河野さんは言っているように思えます。また、このエッセイのまえに書かれた公演企画書の中では、西行の「撰集」に触れて、この西行の著作というものがじつは西行の名前を語る作者たちが、中世から江戸、現代まで書き加えたものであるということが、今では分かってきていることを踏まえ、捏造であるが真実であると言うのです。つまり、嘘でありながら真実である、それが演じるということだとも言っています。さらに本居宣長の思想や西行、空海、親鸞などの、現世と来世、現実と超現実、おそらく近代合理主義の超克として、もっと、合理的な理論を越えたところの思想があるのではいかとかたられているとも思えました。構造主義の言語、無化、差異などの概念もあり、残念ながら、哲学や日本古典に弱いぼくには、このエッセイは理解することはできませんでした。しかし、脚本は、もちろん、哲学を語るのではなくて、続大阪物語と副題があるとおり、現代の物語です。そこは、謡曲井筒にしばられず、自由に、その内容をどうとらえるのかは、観たものの受け取り次第ということでしょう。それにぼくは、感動は、ステージで演じる役者たちの存在感から受け取れると思うのです。すでに内容は、かれらの存在に移っていると思います。かっこいい役者は、一言のせりふをはっしなくても、見るものを引きつけてしまうものです。そうとすれば、この三人の女優の演じる「井筒」は観客を堪能させうる濃密な時間を、つまり井戸の底(河野さんによる現実と他界の鏡面)を覗く意識を、観客に感じさせてくれるのではないかと思うわけです。こうなったことが、内容でしょう。それはそれぞれの皆さんの織物となって広がるのでしょう。後はどうそれを着るかです。
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2013・11月 劇団どくんご宮崎市KITEN広場上演の来年を思う

2013-11-21 | 演劇
  今日2013年11月20日水曜日は、正午に近づくにしたがって、冷たさが増してきた。ダウンを着てくるべきだった。さて日曜日の夜,KITEN広場のテント周りには、のぼりや、ランタン、看板がテント劇場を取り囲んで光を発していた。風も無かった。なんとか40人は来てほしいと、暮れていくテントの前で不安を感じていた。開場時間の午後5時半、辺りが薄暗くなってきたら、来場者が闇から現れだしてきた。ぼくの予約者5人もも約束どおり到着した。チケットを渡し、チケットナンバーを記帳し、つり銭を探して、ひさしぶりとの挨拶を交わしたりしていると、かなりの来場者がテントの入り口に群がっているのに気づかされた。その後、ぞくぞくと来場者があって、見る間にテントの座席階段は、一番下の座席前の床にビールケースの臨時座席を設けるほどになってきた。テント天井に手がとどく最上段の階段座席まで、観客で埋まってしまったのである。予想もしなかった、おどろくべき現象、「満席」が実現したのである。実行委員A、B、Dの女性トリオはいつ準備したのか、金髪のコスチューム姿となって、「せんぐまき」をはじめだした。せんぐまきとは宮崎方言で、餅まきだが、ここでは駄菓子を客席に向かってまきはじめたほど、活気でテントはつつまれだしたのである。都城や鹿児島市の実行委員会メンバーや宮崎市の関係者、これらを含めて100名近くの観客で開場は埋まった。チケット販売枚数は80枚であった。切望した希望の倍となった。まさに喜ばしいどん底から歓声への倍返し?である。

 新聞、テレビ、タウン誌にも広報を依頼する暇もなかったのに、この来場者はどこで動機づけられたのだろうか。ぼくら4人だけで、広報をしまくったわけでもなかった。ということは、実行委員会の売り券活動を超えた、観客動員の要因が働いたことになる。さらに驚いたのは、およそ半数3分の2位は、新参の客であったことだ。この客層は、公演情報を、行きつけのバーやカフェ、ライブハウス、イベント会場(これは雑貨店からお寺、アートセンター、お好み焼き、託児所など)でのグループが、ゆるくつながって情報を共有できた要因が働いた結果だと、思われる。上演後のテント内のどくんご、観客、実行委員会の懇親会で、確認できたのであった。このネットワークの出現は、ここ数年、新たな実行委員を募りながら、新メンバーを得られなかった現実を、別の形で実行委員会ができたようなものである。テント演劇公演は新たな関心を集める可能性が大きく出てきたようである。さらに上演は、かれら初めての経験として、好評だった。

 来年もこのKITEN広場での公演は、可能となってきた。この趨勢を持続し、さらに発展させるには、なにが必要なのか・・。

 なんといってもまず再認識すべきなのは、テント劇団どくんごは、絶滅寸前の動物種であるということだ。この動物を生存させる環境の変化がある。環境に加えて、この動物を絶滅に追い込む人間がわれわれである。絶滅は、それゆえに、動物にも問題があるので、これはかなり大きい。環境に適応できないということだ。つぎに動物を絶滅に追い込む環境にまったく無関心、鈍感である人間に原因がある。したがって、絶滅を免れ生存を可能にするには、動物側・テント劇団どくんごと人間・われわれ側に環境適応への変革が迫られているということになる。では具体的にどうすればいいのかと、問われるのだが、これがわかれば世話はない。具体的な方策、手立ては、これから、日々、どくんごが探っていくべきだ。そしてわれわれは、かれらを守る、公演が持続可能にし、演劇をわれわれもつくりあげるという方向をとる。これだけである。

 そこで言いたいのは「テント演劇」は、反主流であること、快楽提供について反資本主義的であることだ。それゆえに時代の画一化、均質化の壁に罅(ひび割れ)を穿つ機能をもてるということだ。思えば、本年度テレビドラマの最優秀賞をNHKは「あまちゃん」とした。この半年に及んだ連続ドラマの二人の女優が、ヒロインと母親が本年の最優秀の女優だとした。ドラマは、だんだん内容を変更しだして、しまいに、東北大震災復興の物語と化していった。ついには、被災者の一部に視聴してもらい、このドラマは、果たしてかれらの意にそうのかどうかの、その反応を、ドキュメント報道するまでになった。製作者、出演者は、被災者へ最大の気遣いに気を取られだし、ドラマの登場人物でなく、出演者自身が震災復興にどれほど貢献していかねばならぬかの漂白の芝居になっていった。NHKは、無意識に被災者を検閲官にする無礼と、ドラマを国策映画にする暴挙を犯してしまったのだ。いやせざるをえなかったのか。画一化、均質化は、人間の思考と行動を、このように腐食させていく事例である。テント劇は、この人間喪失に抵抗できる可能性をもっている。

 なんといっても、テントの内部はだれにも気兼ねのいらない祝祭空間である。その観客は、見せてもらえるから、見る、という位置まで高くなっている。芸術劇場との違いは、観客のポジションである。見せていただくではないのだ。このことは、演劇という祝祭に、あるいは盆踊りに自分も参加して踊りまくっていくということになる。、一夜のテント劇で、僕らが、このお祭りをすることとなる。昼間のぼくらは、まずここで反転して、さらに内容において反転する。画一化・均質化の壁に罅を穿つことになる。かくして祝祭の内容は自ずと決まってくる。新たなる日常の発見なのだ。その夜は、自分が、ロイドメガネを外して、悪魔の世界・社会を見るわくわく感、、高揚感である。今思い出すなら1995年、同じこの場所、宮崎駅正面の改装工事場に紛れて工事現場のようにテントを設立、「トカワピー・クエンダ・ワピー」の公演だ。どこから来てどこへ行くというスワヒリ語と聞いたが、このタイトル自体に意気込みが感じられた。この混迷の世界であくまで自分の信じる道を行くという意思のメッセージがあったことをだ。1998年は、「ノン・ノット・ポケット・ゴー・ゴー」であった。ポケットはここでは、幽霊船のことだ。この船に貴族は将軍や金持ちなどが乗り込んで、おごそかにディナーを毎晩行う。かれらは、死ねない呪いを背負って、永遠に船から降りられない。この痛烈なギャグに爆笑を誘われた。2009年からの毎年の全国順延が可能となり「ただちに犬」シリーズがあり、そのシーンで、オリンピックでの金メタリスト、キム・ヨナを「国民のキム・ヨナ」とたたえた韓国を逆手にとって、国民のラーメン、国民のサラリーマン、国民の遠足、国民の電車などなどと国民という言葉ですべてをからめとる滑稽さとナンセンスをみせてくれたシーンがあったのを、思い出せる。このようにテント劇は、画一・均質の透明な膜を破る、あるいは気づかせる
棘が、罅を拡大させていく。そのギャグ、皮肉、喚起、哄笑が、一秒の緩みもなく最終の幕で流れつづける。それはベートーベンの第9番合唱に、一秒間の隙間もないのと同じことなのである。これほどに完璧な、客観的な表現に至らねばならない。素人が歌う三つの金の合格者でも、圧倒的な歌い手がいるのを忘れてはならない。このことが、演劇の誕生であり、これが、環境に適応するということである。いや、そうならねばならないと今こそ思う。他方、テント劇団どくんごは、この表現を生む土台に他に勝る
実力があることだ。演劇のすべてが、生まれてくるのは、かれらの教条的運動でもなければ、屁理屈でも、社会理論でもない。それは、彼ら自身のテント生活から、樹液か脂(やに)のように流れ出してきたものなのだ。だから、観客に直裁に響いてくる。かれらの反主流、反資本主義の行き方が、たえず流しだす汗でもある。この汗の尽きることはない。尽きるときは、かれらが絶滅したときだ。ぼくはそのように、これからの劇団どくんごのあり方を思うのである。幸あれかれら、われわれにである。
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2013年11月劇団どくんご公演「君の名は」

2013-11-19 | 演劇
  去年と同じ宮崎駅まえのKITEN広場での公演が終わった。宮崎市での受け入れ態勢は、実行委員会というより、A、B、CにD店主の協力者が、出来る範囲の協力を寄せ集めての実現であった。ぼくは、チケット枚数が公演をささえるほどにならないという予測で、受け入れをことわった。しかし、AもBも、主婦業と職場の両立だけでもなかなかなの日常でありながら、昨年同様にやりたい、やるということを主張してやめないのであった。ぼくは、あなたちの売り券だけでは、やれるはずはない、やるなら売券だけは、責任をもって果たす、これをやらねばならないのだよと、くどいほど言い募ったのだが、何枚売るとは、彼女らは言い得なかった。今は確実な枚数は言えないだろうが、かならず売る、これだけは義務だ、その義務を果たすかどうか、これが可能なら、やることを、ぼくは止めない。ただし、ぼくは実行委員にはならない。ぼくは、売る手伝いはするだけだと、この立場を確認してもらった。こうして、ぼくらのどくんごの代表伊能との話会いは終わった。4月ごろだった。その中心を担ったAは、彼女の話によると、7月にはトライアスロン(青島で実施、ハーフに出場)に出場するため、すぐに体重減量から、水泳の訓練にかかるという。職場の通勤も一時間あまりかかるうえに、トライアイスロンかとあきれもしたのであった。やれるわけないじゃないかと、ぼくは納得して、今年はどくんご公演はないなあと、4月に断念したわけであった。他方、Aも、テント劇の受け入れなど無謀なことをやらなきゃいいがと思うのであった。こうするうちに5月になると、劇団は5月11日、例年通り都城市、神柱神社境内の公演を封切った。毎年宮崎市の実行委員会もこれを見に行くのだが、今年はこれもなくなった初夏であった。Aからも、それを見たという連絡もなく、もちろん誘いもなく、彼女も無謀をあきらめたかと、思うのであった。

 それから、月は入れ替わり、10月のはじめだったか、ひさしぶりにどくんごのホームページをみてみると、11月宮崎・KITEN広場公演とあるではないか、えっ、だれが受け入れたのかもなく、いったいどうしたのかと、仰天したのだ。D店主によると、お客の何人かが、今年はどうするのかときかれていたので、旅先の劇団に問い合わせしたら、なんとAが実行委員長だということであった。清算はあるのか、責任はもてるのかと、いぶかりながらも、やっぱり、猛進するのに、彼女らしいと思うしかなかった。すすると翌日の午後、やあーと、前触れもなく、屈託も無く、ダンボールにチラシとチケット、まるめたポスターをかかえて、これここに置かして、ポスター貼るとこある、チケット預かってよと、そしてチラシとチケットはかならず一緒にして売って欲しい、チケットには場所も日時も印刷してないから、かならずペアでわたして説明してね、かならずよと、立て続けに言うのであった。つまり、その瞬間にぼくは、文句なしにチケット販売の協力者にならされたのを自覚できた。これを断れるわけはないのだ。なにしろ過去25ねんほどもどくんごの受け入れに身を入れた来たのだからだ。ぼくの実行委員辞めるの決断など蒸発してしまったのである。

 しかし、辛うじて、ぼくの主体性が残ったのは、今回はいままでと違った気持ちがあるにはあった。それは、チケットを知人や友人たちに無理やり押し付けないということだ。かれらには、過去連続して4年間の公演ごとに劇団の案内状がとどいてきた。その案内を見て、今年も見たいを思うのは、彼等の決断である。こっちがわざわざ出かけて行って、セールスすることはないはず、下手すると、それは押し付けになるし、それよりも、卑屈に頭下げて買ってもらうというか、こどもにお使いを頼むようなばかなまねは、もうごめんだという心情になれたのだ。それは、受け入れ側としての販売枚数という責任を負わないで済むという立場になっていたからである。ぼくらの販売能力に、後は当日券や、未知の予約申し込みに賭けるしかない。そうなると、販売枚数は、50枚なら大成功と思うのであった。

 そして、あれよあれよという間に、公演日は近づき、劇団は公演日の二日前(2013年11月15日金曜)の午後11時に宮崎入りしてKITEN広場にテントを設営できたのであった。一年ぶりにあう再会は愉快だった。いつものように悠然として、物静かで、知的で、積もる話題は山積みであった。ぼくらには、居住テント内で、もう明日、何人来場者が来るのかの杞憂なども吹き飛んで、話が弾んだのであった。2時間ほどして、Cがかれらを食事につれだしたので、ぼくはそのまま、家にいったん帰ることにした。
 
 日曜日、公演当日の午後5時にテント前に、来場者の到来を迎えることにした。5人の前売り券をあずかっているので、かれらの来場を心待ちにしたのだ。今夜、すべてで、40人くらいは、ここに来場してくれよと、祈るばかりであった。Aと、その友達のTさん、Cの3人の女たちは、どうしたのか、今夜は金髪の鬘をかぶり、サンタクロース・コスチュームで、手に手にタンバリンをにぎって、華やいでいた。どうしたのかと、このコスチュームで景気付けをして、テント会場をもりあげるつもりなのか、少ない来場者で冷えるの防ぐ、苦肉の策かと、あきれながら、それでも意外と美人にみえるのを、偸み、ながめるのであった。
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2012年5月どくんごテント劇「太陽がいっぱい」 あなたを「いっぱい」にするもの

2012-05-16 | 演劇
5月12日(土)都城市神柱神社境内のテント劇団どくんご公演を観た。実行委員を黒テント公演(1986年)以来ともにやってきた盟友「しのぶちゃん」のバンで宮崎市から走ってきた。夕暮れの境内にテントは、電飾がすでに点灯して輝きを発していた。どくんごが、毎年、全国巡演をやれるようになって、4年目を迎えた。その間、芝居小屋としてのテントは祭礼の夜店、その夢、華やぎ、暖かさ、子どもの夢、冒険、欲望、自由を見事に放射する美的空間として洗練されてきていた。芝居が開幕する前に すでにまわりには芝居が始まっているように思えるのであった。

 今年の芝居「太陽がいっぱい」の役者は、五月うか、どいの、の他は2B、内田裕子、サンチョJr、たかはしようこが客員出演である。どいの(劇団代表)もここ10年以上演出をしていて役者を演じたことはなかったんで、かれも客演だともいえる。ステージのバックとなる垂れ幕には、港町やカフェ、花畑などが描かれ、絵本のように次々にめくられていく。物語は、背景に沿っているようで、そうでもなく、背景は音楽のように流れるにまかされているようにも、思えたが、それも正確ではないかもしれない。なにしろ年のせいか、台詞が聴きとれなくなったので・・・。役者は、その背景に出ては引っ込みを繰り返し、絶叫の台詞で身を捩じらせ、終幕へと速いテンポで進行していく。これまでの役者の華をみせるようなモノローグの見せ場はほとんどなくて、集団の演技がダンスのように会場にとどけられていた。初めはやや違和感を覚えたのであったが、やはりそこにはこれまでとの連続している芯が見えてくるのであった。

 その芯とは、テントである。そう、テント公演という形態である。芸術劇場とか、美術館とか、市民ホールやアートセンターという「ダイ・ハード」(大・ハードウエア)での公演ではないという形態ともいえる。20年以上もかれらの上演をひきうけてきたのも、テント劇に、ぼく自信もこだっわってきたし、かれらもテント芝居上演にこだわってきたのだ。テント芝居とは、ぼくにとって皮膚のようになじんだモノであり、違和感がないので、これがなんなのか論じてみることもなかった。ただ、今回、ふと、テントが、連続しており、今日も、かららとぼくを繋ぐものであったと、あらためて感じさせられてテントを意識してしまったのであった。テント公演とはいったいなんなのであろう。


 「テント」公演とは、なによりも意義申し立てオブジェクションである。これがます最初の根拠である。ダイ・ハードのなかで、ジャンクフードなみのありきたりの弁当やテレビの排出物を拾ってきたような地方ダイ・ハード公演をゲイジュツとかブンカとして大衆をたぶらかす税金浪費行動へのオブジェクションであると、ますは言ってもいいかもしれない。元々テント芝居は、60年代から70年初期の、唐十郎の赤テント、佐藤信の黒テント、その他さまざまの大小のテント劇団は、ダイ・ハードそのものを生む体制そのものの否定として、続けらていった。だが、70年代までにほとんどが消えていった。それは体制否定が、実効力を失ったからである。否定すべく体制のほうがより人間の欲望を満足させる安定的な保証、個人の欲望のかぎりなき保障に応じていったからである。血みどろの内ゲバまでをかかえた体制否定の運動は意味を喪失していかざるを得なかった。60年代から70年代初期にかけアングラといわれたテント芝居は、もはやノスタルジーのカウンターカルチャーでしかなくなった。そのなかでどくんごは、誕生したのである。1984年から1987年にかけてテントや野外で公演をつづけ1987年より全国テント旅公演をスタートさせた。

 この時代、1985年、日本は国民一人当たりのGDPがアメリカを抜いて世界一位になる。世界最大の債権国、金持ちとなり、一人一人のデザイア(欲望)は、果てしなく未来永劫に満たされると希望に溢れかえった。その源泉こそ金であり、大企業も主婦まで財テクが、なにより幸福への正道として精励した。まさにジャパンアズナンバーワンの豊かな時代であった。体制否定というイデオロギーなどとは無縁、国民の欲望は、思想、モノを超え、金こそ真実なりという時代であった。この時代背景で、テントはたしかに常識否定でありおどろくべき非日常へのこだわりとみられたことだろう。それは体制否定というよりも、わが道を行くの宣言であった。この80年末、金の狂奔したバブル経済は崩壊、やがて、2000年代には、「いくら働いても報われない時代」、国民の4人に1人が、生活保護水準になるとは、だれも想像もできなったろう。その意味でテント芝居は、2000年代を予兆する先駆性もあったといえる。だが、そのライフスタイルは、当初からじつに柔らかく、なめらかといえるほど、日常ともみごとにつながっている。これがどくんごが、示してきた基本的特色である。なぜ、常識と非常識、日常と非日常が、つながっているのか、これをひゆを使って説明してみよう。

 ブルーシートで出来たホームレス人の家もテントである。建築家の坂口恭平は、東京都内に棲息する無数のそれらを0円ハウス0円生活として密着取材し、写真に収め、内部を建築設計家の目で図にして、ホームレスは理想の家をもっているとまで、憧憬のまなざしで本「TOKYO 0円ハウス0円生活」(2008年発行)にまとめている。この0円とあるように、欲望の充足を金に依存せずに実現している生活を賞賛するのである。つづけて翌年2009年、坂口は「TOKYO一坪遺産」で、一坪という極小空間で営まれる多種多様の建築物を探って報告している。たとえば一坪の売店宝くじ売り場などに視点をあてながら大都市における極小空間の機能性や、完全性の可能性をあきらかにしていく。

 この空間へ惹かれる坂口の原点は、かれの語るところによると、3人兄弟にあたえられていた子ども部屋で、自分だけの空間を作った実験からきている。そのとき、かれは机に毛布をかぶせて、机の下にできた空間にもぐりこみ、イスを机がわりにし、スタンドを置いて勉強部屋に変えることに成功したのであった。その快適さが、かれを歓喜させた。大きなモノは要らない、まわりは自分の手足のようにコントロールできると実感を語っている。この回想を読んだとき、ただちにぼくが思ったことは、この机の下を利用したミニハウスは、住居という建物が確固として建っているから出来た現実ではないかということであった。道路脇に、毛布をかぶせた机の勉強部屋は出来ない。おなじようにブルーシートハウスを住居とするには、巨大都市の空間があるからこそできることである。宮崎市街ではそんなことは不可能である。

 さて、この比ゆは、テントは体制を利用してこそ建てられるということである。体制に変わる未来の姿ではないのである。テント劇は新しい体制を、資本主義体制に代わる未来体制を示唆するものでもないし、そのような体制への探検でもないのだ。かってのテント運動の体制否定の未来志向とは関係のなことである。では住宅を利用して、別空間を作ったこども部屋や、ホームレス住居と大都市の関係は、寄生関係なのか。テント劇団もホームレスも体制内寄生虫なのか、利用しているという点では、寄生であるが、家や東京から栄養を奪い取って、寄生主を弱らせる機能などありえない。あえて言うなら共棲である。その共棲によって、ヤドカリはなにを生み出すのか・・・?ここで、もう一例のミニハウスを挙げてみよう。先月、ぼくは数年ぶりで、綾の川野幸三氏に会った。かれもまた、ここ数年、どくんご上演実行委員長をやっていたのだ。かれの工場を移転して作業場と展示商店を作ったという写真が興味があり訪問したのだ。そのとき、かれがいま一番製品として興味をもっているという作品を見せたいというのであった。

 それがミニハウスだった。木工創作家であるかれの作品は木材で人一人の座れる広さで座れば頭がとどくほどの天井高である。障子の開き戸があり、小机が備えられている。かれは、自分の部屋が欲しいなら、わざわざ増築するより、この箱の隠れ家でいいというのであった。木を通してはいる空気で気分が落ち着き、集中力も高まるという。これはキッドにしてだれでもかんたんに組み立てられるようにするのだというのだった。かれは建築家坂口の本については知らなかった。だが、ミニハウスの省エネ性、非日常の空間、身体に適合した空間の無駄のなさなどで、同じ体験を述べている。住宅や部屋という居住空間への常識をこえた提案、日常から非日常への移行の効率を語るのである。それは日常の否定ではなく、日常が別のものに変わる驚きと発見なのである。

 共棲によるテント劇場が、生み出すものは、まさに日常への見方の転換である。あるいはテントによって裁断された非日常的な空間の快楽である。開幕でサンチョJrがこのお芝居は、映画「太陽がいっぱい」とは何の関係もありません!(爆笑)「宴会で歌いおどりだと思ってみていだだけたら」と口上を述べたが、宴会の日本人社会ではなくて、なんどもいってきたようにサバトか、ワルキブスの夜に匹敵できるようだ。つまり表にたいしての裏の快楽を感じさせるようになっている。つまりこの日常では満足できない、歓びの空間であるのだ。ゆえにそれはオブジェクションであるのだが、体制の変革ではなく、個人の変革である。なによりもそれは、快楽を保障する、つまり欲望を担保するものが「金」への依存でないことを、かれらの実態として爆発させていることである。金へのエネルギーでなく金否定のエネルギーがテントに充満し、テントそのものもダイハードと比して、それを象徴しているのである。その意味で、魔女的であり、誘惑的であり、魅惑の夜となる。しかし、この一夜こそひと時ではあるが、人生をリセットしてしまう。

 欲望・資本主義は、金への果てしない欲望であり、それは世界の隅々まで、一定のライフスタイル、生産様式、都市構造と画一化に歯止めが利かなくなっている。どこもかしこも同じ風景である。同じ明るさ、同じ匂い、同じ色、同じライフスタイル、同じ判断と行動に取り込まれている。変わったものに意識は向かない。意識はテレビで示されたものにしか向かない、貧困も格差もこれによって救われるという虚妄の時代がなおつづく。テントはその時代に一つのアナを空けてみせるともいえよう。それがテントの意味である。
 

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テント劇「ただちに犬 バイタルサイン」と「こどもたち」

2011-11-21 | 演劇
今年5月に宮崎県都城でのバイタルサインをみて、全国巡演を経た後、ふたたび宮崎市での公演が実現された。これまでどおり、ぼくは、チケット売りに廻ることになったが、なかなかチケットを売るのが困難であった。ああ、また同じものかという気分を感じられたのだ。違うのだということを具体的にはっきりさせることがきわめて難しかった。なにしろ、ストリーも、表現も、主題も違いを納得させられるように言葉にできなかったのだ。その代わりに初めてテント芝居を観てみようという人にも出会えて、そういう人たちの一部からは面白がられてチケットは売れていった。

 「どくんご」テント劇の初めての人は、同じものでなくて大感激であった。物珍しさで、なにがあるのかという期待は、裏切られること無く興奮の渦に巻き込まれていったのだ。なかでも、まだ20代そこそこの保育士という女性の物語にぼくは胸を突かれていた。まだ午後6時ごろ、彼女はいきなりテントの入り口に自動車で近寄り、停車した。あわてて、他の場所に駐車してもらったのだが、芸術劇場でチラシを取って、来ることにしたという。「いいセンスですね、うれしいです」というと「同僚にみせると、みんな引くんですよ」との答えにうなづけた。さらに面白かったのは、「このチラシを家にもってかえったら、母が気づいて、どくんご、これ観たことがあるというんですよ」という。それなら、宮崎駅前で15年ほどまえにやった「トカワピークエンダワピー」か、翌年の専売公社跡地で台風の夜に初日をヤッタ「ノンノット ポケット ゴーゴー」だったと思われた。そのときに、今の娘の年頃であった女性の観客は、母となり、彼女の娘もまた偶然、このテント劇に迷い込んできたのだ。母親は一度もテント劇のことは話もしなかったという。終わって彼女も大満足であった。帰って母とどんな話になるのだろうか。はやぶさの子は、はやぶさになったのかと思うのであった。

 将来役者になるといいだして、母親を心配させた小学校4年生の百ちゃんは、今回で3度目の観劇で、今年はデジカメで165枚撮影していたそうだ。帰ると早速、芝居のシーンと、台詞を再演しているという。なにしろチケットを小学校に持参、友達や(一枚も売れなかった)や先生にも売り、買ってもらえたというのだ。シナリオを書き、役者をつのり、舞台装置をつくり、演出をやって、学級会で発表したというから、一歩間違えば天才、一歩すすめば問題児、にされかねない現代学校教育の谷間に芽をだした百合の花であるようだ。

 こどもに好評なのは、全国各地での公演記録や感想を調べるとはっきしする。これをみた子どもたちが「ただちに犬」ごっこをしだすというのがよく報告されている。ドラの音がジャーンで、「お前が犯人ダー」と1人が名指すと、全員が凍りつくシーンなどである。これをえんえんと繰り返しながら、楽しんでいくのだ。抑圧された日常が、犯人はだれというリフレインで、しだいに解消されていく。たしかに「ただちに犬」のなかには、説教じみた社会教育的な、自己反省や道徳や批判の言葉はない、総じて教育とか教養とかを説くものはない。たとえば、今回のバイタルサインでは犬の縫いぐるみに暗闇健太の女が片手に扇をかざしながら、「ね、飛び込んでごらんなさいよ」と、同じ言葉を繰り返していく場面がある。台詞これだけである。「飛び込む」という決断の怖さと勇気が、だんだん観客に伝わってくるのだ、その表現はきわめて洗練されて高度である。この一行の言葉の重さが、こどもにも伝わっていくのだ。一見、そのばかばかしいシーンは、人間とはなにかを具体的に示して、まさに教育的であるわけだ。今回は親子劇場の役員さんたちや、小学校児童のお母さんがたも何人か見えていた。一見でたらめで放埓にみえる、いや常識では、計られぬはちゃめちゃのやりたいほうだいのテント劇に、クールな内容があることを、直感的に感じられ、観ることが出来たのではなかったかと思うのだ。秋の「課題図書」とただちに「犬」こどもにとっては、犬のほうが必要である。

 40代の若い奥さんと小学生の女の子の二人連れが、ぼくの前に座っていたが、なんと奥さんは、劇の間中、笑いで、上半身を折り、こらえられなくて、ボトルの水を自分だけで飲み下し、合間に笑いの衝動に揺すられるのか、助けてえーと、娘にしなだれかかる。まるで、こどもよりもこどもとなる意識状態に、こちらも仰天させられ、かつ、こっちも笑いが止まらなくなった。押さえた積もりだったが、ぼくの笑いも突出していたと、後での実行委員たちの話であった。

 テントにこのように観客を沸かす波動が沸いていく。それはなんでだろう。この分析を求めて客観的な批評もあちこちで書かれてきている。読んでみると、それはそれぞれに違うのだ。三角という人もおれば、四画という人もいる、いや立体であるとか、球体であるとか、黄色とか赤とか、それそれの批評人が、自分の形を説いている。テント劇「ただちに犬 バイタルサイン」のグラフは、批評人それぞれのモニターに光るグラフの通りである。芝居の実態は、一つでなくそれそれのグラフに移っている。まさにロラン・バルトの主張したとおり、作品は作者に無く、それを手にしたものが、これを材料にして織り出した織布に移行するということを実証している如しだ。

 テント劇という大地と同等の空間が、観客を巻き込んでいく、観客もまた主役になっていくのだ。笑いという主役に。ステージから、社会教育的餌さを与えられ、やがて食鳥や食肉に育成されるのと違う次元の芸術空間の体験を味わうことが、可能になる。そのような可能性を発揮するテント劇という試みはもっと多くの劇団で試みられるべきなのだが、これはやろうとしても、やれない。かってのテント劇の勇であった劇団黒テントも、テント劇の巡業、再演を試みてきたが、全国巡演はほとんど不可能になってきている。テント劇をやろうとすれば、この資本主義の世界に金を持たずに、豊かな生活をしていくような技術と強いそして柔軟な志が必要であろう。ぼくが知るかぎり、どくんごは1987年ごろから代表に伊能、その妻五月、団員、暗闇健太、みほ、今は休演しているが時折旬、今年帰って来た空葉景朗を中心メンバーとして持続してきた。

 かれらの生そのものの不可思議さが、魅力的なのだ。これほどの批判的な意志をもちながら、劇は重苦しくなく、軽さがある。音楽は、どこかノスタルジーのあるアニメの音楽であり、大声で叫びながら、通常の台詞を遠ざける。しかし、それは一歩まちがえば、転落しかねない、綱渡りのようなものである。もし、観客が身を引けば、なんともばかばかしい虚ろなものしか見つからないからだ。しかし、観客を引かせないところにかれらの表現の鍛錬と力量があるのを感じさせられる。全国巡演の間に、都城市で観たときより、シーンは余計なものが省かれて純度が増していた。あのときの健太と五月は脇役のように影が薄かったが、今回は、やはり大きな存在感があり、内容を深めていた。こんな経過をしらないと、全体の表現の高さは感知できないかもしれない。観客に媚びず、それでいて唯我独尊にならず、おふざけの笑いをふりまきながら、実は一歩ひいているという表現方は、なかなか見えてこないであろう。このようないわゆる誠実さのような生き方が、ブロイラーから観客を解放する。こどもが、本能的に解放を直感するのは、この要素である。

 「ただちに犬」シリーズ、ビター編、バイタルサイン編と完結した。演出の伊能も、やるだけの表現はしたといっていた。また、あたらしい企画での芝居が出来るのが期待できよう。

 最後に一言、これからもやっぱり批評は、必要であろう。とくに批判する批評がこれからは必要だ。仲間という意識が観客に芽生えてきているので、批判意識が消えてしまう。しかし、これは危険である。同じ空間で、仲間となって固まると、ひろがりも客観性も喪失していく、自分たちだけが世界の中心になっていく。地方において芸術活動するときの大きな陥穽は、これであった。ただ、どくんごは、全国巡演において、この危険からかなり救われているように思う。それと、金をもたなくても生きていけるという全国に賛同者のネットワークも出来てきている。このことが、またわれわれに開放感と勇気を与えてくれるのである。人生は楽しめると、また未来のこどもたちに柔軟な人生模様への希望を与えると・・
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特設テント犬小屋劇場 どくんご劇はヴァルプルギスの夜となり

2011-05-14 | 演劇
 「ただちに犬 バイタル・サイン」は、かくして開幕した。そのバイタル・サインとは、そもそもなんの意味か、それに引っかかっていた。バイタルはバイタリティというが、命溢れる活力として一般的である。しかしバイタルは致命的という意味もある。バイタルワンドは致命傷、バイタルクエスチョンは死活問題となり、命ぎりぎりの限界状態をも表す。この陽気な活気と、危機の命の不安の両義とがある。正と負、光と影、昼と夜、まさに命のもつ複雑な両サイドを捉えている言葉なのである。このような両義性は、また「どくんごテント劇」の本質を伝える言葉にもなっている。たんに笑っているだけなら、脳天気であり、重々しいだけなら、中身は空っぽである。そんな演劇から、身を一歩引く、そん思いを託したのかと感じ取れる。それはまた、かれらのぎりぎりの演劇活動の本音を晒しているのかもしれない。

 今回のテント芝居も、ぼくは台詞を明確に意味として辿れなかったが、台詞はテント内で、小道具、照明、はためき、風、観客のひとりひとり、音、音楽とすべて融合したメロディ、リズムであるという受け取りしかできなかった。それはもうぼくの言葉に対するおどろきが擦り切れていってるせいであろう。それに比して、子どもたちは、ステージの台詞に鋭く反応できるし、その台詞で気に入った節を暗記して、後で日常的に再現して遊んでいけるのだ。これはすばらしい能力である。ただ、それはぼくには消えてしまっている。たいがいの大人たちはそうなのかもしれない。だから本文は、ただちに犬 バイタル・サインの批評でもレビューでもない。その演劇がぼくに生起させた感情の起伏と捕らえてもらいたい。

 今回、生のエネルギーに溢れていたのは、ワタナベ・ヨウコであったようだ。彼女は昨年から客演して、そのまま今年も旅公演に加わったのだが水を得た魚のように陽気に変幻自在に、ステージを泳ぎ、跳ね、観客をどよめかせていた。まさにバイタリティが溢れるばかりの艶姿であった。それを受けて立ったのが、10年ぶりに帰ってきた空葉景朗のプロレスラー並の肉体と、際立つ明瞭な台詞回しにあらためてその演技力を再発見した。そして、もう1人ワタナベと同じく客演の2B 昨年はまだ丸太棒のような動きであったが、それは見違えるような身体表現になり、鋭い動きが楽しめた。動きといえば、女優みほが、陰影の深さをようやく表しだした。これは伊能の演出も功があるのだろうか、これまで一本調子に叫ぶばかりの表現をしていたのが、静かな口調のどこか放心したようなつぶやきを添えるのだった。これほど、正確の内面的な台詞を語れるのか、やはりプロだったのだと再認識させられるほどだったのである。これからの彼女の変貌が楽しみなった。

 かれら三人のバイタル・サインの明るい生命力の標しと比べて、暗悪健太と五月うかは、対照的である。3人が奔放に舞台で新しい試みを演じているのと比べると、二人は、なにものも加算してなかった。脇役として背後に引き、影に徹しているのであった。かれらは、表現を発展させるかわりに絞ってきている。ぼくにはそう見えた。それはまた、なぜここまで自粛しなければならぬのかという思いにもつながった。かれらが内面が蔵しているバイタリティを、爆発させる時期ではまだないのだろうか。客演人に安定したステージを提供するための戦略であったのだろうか。今回まさに主役は客演参加の空葉景朗、ワタナベヨウコであり、2Bであり、若いどくんご女優のまほであったように思う。
 
 また、笑いのギャグは、今回も堪能できたのであった。去年は「国民の妹」のシーンがあったが、今回は、リビヤやエジプトの革命兵士の将校が、破壊された市街の瓦礫の広場の隅で、お茶のお手前をしながら、市民の虐殺された悲惨さを報告するシーンが笑えた。軍服と茶、戦場と瓦礫の茶室、幻想と現実の乖離、そのアンバランスの意外性はまさに現代アートのシーンとして、楽しめた。そして、中ごろに挿入された集団のダンスは、テントを沸かせるのであった。

 この一夜はまさにヴァルプルギスの夜である。北欧の春の到来を祝う5月1日の夜である。そしてまたゲーテの戯曲「ファスト」の魔女たちがブロッケン山に集まり酒宴を張るという祭りでもある。変わったものたちのサバトであり、それはデンマークやフィランドやドイツの田舎でわかものたちがやる青春の馬鹿騒ぎでもある。唄え飲め、この夜は、そして春の到来を祈り、生気をとりもどすフリークたちの集合であり、そして一夜明ければ、もとの日常の平凡な人生にとじこめらていく。これが人生であり、バイタル・サインである。これで良い、ぼくはそう思った。11月中旬、ふたたび宮崎市で上演される。全国ツアーのあと、ただちに犬はどう変化するのか、それも楽しみ、さて、今日、宮崎は、いきなり夏になったしまったけれど、かれらの全国旅ツアーの安全と成功を祈って筆を擱く。


 






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国民の妹 テント劇「ただちに犬 Bitter」を終わる

2010-11-20 | 演劇
 宮崎市も朝は手袋がいるようになってきた。そう、今年も年末へとまっさかさまにころげこむための季節になってきた。これから、年末にかけて大衆行動に駆り立てられる。文化の日、電飾の市街、お歳暮、クリスマス、年賀状、紅白歌合戦と波が襲う。この波をどう斜めにつっきるか、こんな日々がくる。大衆行動は快感か、あるいは恐怖か、ぼくにとっては浮遊感である。高野綾の絵画「Noshi & Meg, On Earth, Year 2036」の少女のように裸で「洋服の青山」の電光看板の目立つビルを取り囲む中心市街の空中に漂っている気分を共感できるのである。

 11月13日土曜夜、青島を見下ろせる丘に立つガラスのドームのカフェレストラン
「天空ジール」に設営されたテントントで「ただちに犬 Bitter」を観た。去年のただちに犬 Deluxe 」の続編というのであった。続編といっても、どこが続きなのかつかまえにくい、いやとらえどころのない漠然たる、これまにない絶叫劇が・・目の前を流れつづけていった。今までに無い全体像を要約しきれないままに。前回は、犬を殺した犯人さがしの堂々巡りという形式をもっていたが、それが乱れていた。前半と後半では、「犯人はお前だー」と指摘する仕方と指されたものの絶叫的反応は、後半では静かな口調で「犯人はお前だ」という口調となり、指されたものは、なにごともなかったかのように、ふたたび静かに、つぎに犯人を告げる、あるいは語るということになっていた。これは、前半との対象形なのだ。だが、なぜ対象にすべき必然があったのか、はっきりしなかった。そして全体のテーマ犯人探しは、劇の核とはなっていないということになったのであった。ならば、この劇はなんなのか・

 ここで一人の少女(小学3年生)に登場してもらう。知人の一人娘で、去年初めて
たたちに犬を観たあと、この劇というか、どくんご劇団そのものにはまり込んでしまった。ママが「モモが将来役者になりたい」と将来の希望を書いたと言って、笑いながらも不安げにいうのだった。「これあなたの責任だわよ」と脅しながらだ。なにしろクラスの発表会では、舞台装置を製作、役者をクラスメイトに指示し、童話を脚本にして上演したという。こんなことは前代未門のクラスイベントであったというのだ。その後も自宅の学習机の上にはどくんごの舞台写真の絵葉書が何枚も貼られ、ときどき人形を並べて芝居をさせているという。そのモモちゃんは今年もどくんごが来ると、店にはられたポスターでいち早く気付いて、指を折って上演日をまっているのだと、おどろくべき話を聴かされたのだ。また絵葉書を買いたい、そして、ぼくにお願いして欲しいのは、役者さんたちと写真を撮らしてもらいたいというのであった。上演の前後、伊能、五月、暗闇健太、みほなどにこの話をすると「ヤバイよ、それえ」とうれしそうに仰天していた。写真も全員がツーショットとなって、彼女を歓迎するのであった。五月さんが、あの子、絵葉書を何枚も買ってくれたのよとよろこびを通り越して驚いていた。モモちゃんは、5歳からモダンダンスを5年間習っていて、ステージでの体験も重ねてきているから、どくんごの舞台に対する反応も普通ではないのかもよと、ぼくはかれらと話すのであった。

 
 今週火曜日、店に行ってカウンターのマスターにモモちゃんの反応をさっそく確かめてみた。

 「それそれ、一番おもしろかったのは、劇のなかであった長いモノローグ「国民の妹」「国民とデイト」とはてしなくつづく国民のナニ、国民のナニ、国民とナニをべらべらとまねし出して、そこが一番おもしろかったらしいですよ。それともう一つは、犬の縫いぐるみが、去年より小さくなっていたと言います。それから犬の後ろ肢の間から背中の縫い目を、ここが国境といったり、肢の先がリゾートや、宮崎の都井岬だと話をするところも面白かったといい、今では犬のぬいぐるみをもってきて、両足の間から指を這わせながら、ここが国境などと一人でやっています。それと、-秘密を打ち明けてくれなくって結構ーという台詞を劇で言わなかったと言うのです。あ、この台詞は、ちらしの漫画の噴出しに小さく載っています・・」

 と、モモちゃんの観劇後のおどろくべき反応を語ってくれた。あのちらしにある漫画の役者の吹き出しにある「秘密を打ち明けてくれなくって結構」などの台詞など、気付いてもいなかったし、読んでも気にもしなかったことだろう。思うと、この言葉は、少女の人生にとっては、きわめて大切の日常感情を秘めているといえよう。ただちに犬は、彼女の人生と確実の交わっていたのだという驚きがある。つぎに驚かされたのは、「国民の妹」「国民とのデイト」と、国民のと果てなくつづく台詞のシーンを、犬の人形を自分を取り巻く世界・社会・故郷になぞらえて指でなぞりながら、つっこみをうけのお笑いをくりかえすシーンは、今回ではまさにここしかないほどの中心的主題であったと、ぼくにはおもえていたのだ。これは、ぼくの感性が少女並なのか、モモちゃんが大人並なのか、いや、大人にもこどもにも
「ただちに犬」が、見事に中心主題を伝えられる構造を宿していると、みなすことが可能であるといえるのに、驚かされるのだ。とくに「国民の何々」これは凄い。
このリフレインは何を表し始めるのか、自分で台詞をリフレインしていると、なにかかが、たちあわれてくるのである。モモちゃんとぼくにナニが・・・・?
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どくんご上演とピアス飾

2010-11-15 | 演劇
 土曜日のどくんごテント芝居が終わって、今回は実行委員を勤めなかったがやはり無事上演が終わってほっとした。日曜日は天空ジールの委員長のしのぶちゃんと団員を見送りにきた。いざお別れとなると一抹の淋しさも感じるのであった。上演中はひととき小雨が降ったが、暖かいしのぎやすい晩秋の夜であった。

 昼休み、武蔵野のてんぷらを食べに行った。カウンターに座り、今日は、肉天というのを選んだ。豚肉、鶏肉がメインのてんぷらセットである。飯は大盛りとしてもらったが、先日の飯とくらべると炊き上がりが、蒸したような感じであった。これにはちょっとがっかりしたが、食欲はあったのでたいらげられると思い、てんぷらのとどくのを待っていた。すると、大柄の30代後半の女性が、椅子一つ空いた隣の席に着いた。茶色の皮ジャンを椅子にかけ、ニットのタートルネックのシャツで営業の外回りの勤め人らしかった。なにより身長が1m70cmはゆうに越す大柄の色白、栗色に染めた短髪、ボインちゃんであった。彼女はセルフサービスのお茶を湯のみに注ぐと、スポーツ新聞を広げた。一面のカラーの競馬記事に目を留めた。4,5年前ごろから、ようやく喫茶店や飲食店で一人で席に着く女性がぼつぼつ現れだしたが、最近は女性の一人客は当たり前の風景になってきた。本を読んだり、携帯電話やパソコンを操作したり、ノートを広げて学習していたりで時間を過している。だが、新聞を読む女性というのはほとんど見ることがない。ましてスポーツ新聞の扇情的なカラー記事を見入っている光景など見たことが無かったので、なんかうれしかった。こういう女性がどんどん増えたらおもしろいのにとわくわくするのであった。

 表情がうかがえないのが残念だったが、彼女の真珠色のピアスが目に付いた。ふと、自分の耳にもピアスがあるのを思い出し、共通点がピアスというのがわらえるのであった。ところで、ぼくのピアスは耳ツボを押さえる医療器具で、目の疲労をとるツボをチタン合金が押さえているのだ。耳にはダイエットや自律神経、精神安定などのさまざまの重要なツボがあり、これらを押さえて、どうじにファッション性を兼ねる装飾が、ブームになりつつあるという。ぼくは、はじめなにもしらずに耳ツボ治療というので、鍼がマッサージだろうと、知人の娘さにお願いしたところ、ガシャンと宝石のような飾りを貼り付けというより埋められたのである。ブラウンの目立たぬものにしてもらったが、もう遅かった。有名なスワロフスキー社のクリスタルガラスで、光の当たり方によって、宝石トパーズのように黄金にきらりと光ってくる。ぼくの耳に気付く人は、たいてい若い女性たちであるが、男性は一日いっしょにいても気付かない。女性の観察力のこまやかさや、「かんがえるまえにみる」という本能的防衛弱者の行為を感じておどろくのであった。自分のピアスにもだんだんもう今では慣れてしまって、ピアスをしていることも忘れてしまっていたのだが、隣の女性のそれを見ておもいだしてしまった。一般の行動とはずれている女性を見るのは大きな喜びであるが、自分が外れて見られるのはおちつかない。しかし、だんだん、肉体を装飾するという快感が、あらためて興味をひきつつはあるのだ。文化人・芸術家の一部がピアスその他の身体装飾をするのことや、アフリカやパプアニューギニア高地人、下層階級インド人、わが国の女装学者や作家などの身体装飾が、快感であることをすこしわかるきにもなりつつあるのだ。

 他人と変わった行動をとるのは、実は快感なのである。とにかく人がやらないことを見つけると、じつにさまざまのことが身の回りに転がっている。そのおおくは決意だけあれば、金がなくともやれるのだ。今みたような女性であれば、カウンターで、スポーツ新聞を広げるだけで、特異性は他の注視を浴びることが出きる。自分さがしとか、生き甲斐見つけてとか、めんどうなことをかんがえずに、あなたが女性ならば、いい格好で競馬新聞を広げてみよう、それで世界から自分自身は飛び上るのである。自己は凝集していける。自分とはなにか、ここから具体的にスタートしてみることができる。埋没から脱出できるのである。

 どくんごのテント劇というのは、他人がやらぬことをやるということで、耳ツボのピアスに似ているのかもしれない。ますはここに根源があるとする仮定は、なりたたないかどうか、このことを考えてみることにしよう。当たり前でないこと、非日常が人を興奮させる、魅惑する、高揚させる、元気付ける、自信を与える、共有感を抱かせる、これらが、ある。なにが他とちがうのか、どうして、こうなっているのか、これからどうなるのか、果たして他と違うということだけで、可能性はあるのかどうか、帰しこし方をかんがえて、ぼくの身の処し方も考える時期になっている。
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どくんご上演まであと10日

2009-10-22 | 演劇
 どくんごテント劇「ただちに犬 Deluxe 」のちけっと売りもやりつくし、あと10日でここ宮崎市の臨海公園広場での上演となった。来週26日から31日までどくんごのことはいっさいかんがえない、チケット売りもしない、なんにもせずにぼんやりとして過ごしたい。ほんとになにもしないという時間にすることだ。これなしには、つぎの展開が不可能になる。

 ああ、それにしてもチケット売りとはなんなのだろう。売れないと言う、みんな言う。売れるとから売れないと言う問題じゃないのだ、ぼくにとっては、うれないでは済まないのである。もちろん、これはだれも命令するものでもなく、どくんご劇団自体も何枚売れということはいっさい言わないし期待してもいない。だから、なんとしても売りたいのだ。

 買ってくれるはずの人が、買えなくなる、これは応える。そういうとき、もうひとふんばりしていると、買ってもらえると思いもし無かった人が5枚も買ってくれたりする。すると世界がパッと明るくなって、売りこみに元気がでるのだ。だが、それもつぎの瞬間、売れない不幸で気分は消し飛んでしまう。委員のだれに会っても売れないことが数回もつづいて、もうエネルギーが尽き果てるということになっているようなのだ。こうなると、ふんばりは、強制か、自己責任によるふんばりかという動機がいるが、実行委員長以外にそんな動機があるはずはないのだ。

 実行委員長として、ぼくの動機というのは、なんなのだろうと思う。それは意地でふんばっているというしかないのだ、実は。芸術もくそもあったもんじゃない。
このこころは、ダニの意識で猫のように売却相手に擦り寄るということになる。くいつく、しかし、相手に不快感を与えないという手段が要るわけだ。これは疲れるし、なんでこんなことをせにゃならんのだと腹もたってくる。
 
 これがつづくのは、売れた!!という瞬間の快感を味わえるためなのかもしれない。しかし、それは、すぐに売れないという現実でシャボン玉よりもはかない。パチンコのようなわけにはいかない。つねに抑圧と不発とやりきれなさとの連続が
つづくのだ。それでも売る、売り続けるのは、義務感でさへない。つきつめると、おれに勝ちたいということになるのかもしれない。

 こうなってくると、もう、どくんごとも関係がなくなっている。なんのために自分に勝たねばならんのだ。なんで負けたくないんだ。その理由はなんなのだということに思いを寄せると、そこには回答できるものがないのだ。不思議だ。あの南京ねずみが、くるくるまわる回転どらむをいつまでも踏み回してとまらない行動と似ているのかもしれない。かれらもたんに本能だけでやっているのだろうか。意識があるのかもしれない。回転ドラムを踏みまわさずにおけないという強烈な夢のような内部衝動が作用しているのかもしれない。ぼくの行動も南京ねずみと似ているのだ。こういう内部衝動が、他人との関係で世界を作っていく可能性もあるかもしれないと思ってもみる。しかし、どくんご演劇を実現できるよろこびをここらで味わいたいのだ。それには、来週は意識をリセットして(なにもかんがえずに)、スタートに戻す必要がある。
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