市街・野 それぞれ草

 802編よりタイトルを「収蔵庫編」から「それぞれ草」に変更。この社会とぼくという仮想の人物の料理した朝食です。

とてつもないつながり

2010-01-29 | Weblog
 ひさしぶりの小雨で、朝から降っている。氷雨でないのでそう悪くは無い。

 その後、三木ちゃんから「もしもしガシャーン」の宮崎公演の4月公演受け入れについては連絡がない。今朝、どくんごのブログを見ていたら、同劇団のたかはしみちこが、3月からのどくんごの練習に、参加できるか、ということは客演できるかどうかということを、どくんごに問い合わせていた。となると、この春の宮崎市公演はどうなるのだろうか。

 この「もしもしガシャーん」という劇団は、宮城県仙台市に1999年12月に旗揚げ。2004年埼玉県に拠点を移して、現在、代表は奈尾真、所属人はたかはしみちこのふたりだけの劇団である。活動暦も10年を越える。実は、2005年4年6月19日、20日、21日の3日間、宮崎市の東宮花の森団地での劇団「どくんご」のテント劇「ベビーフートの日々」に二人とも客演した。東北大学演劇部のオービーというが、当時二人ともまだ20代そこそこの男女に見えた。とくにたかはしみちこは、どこか保育園のやさしい保育士のようだった。だが、舞台では、港町の食堂に働く女となり、蟹をばりばりと食いちぎり、夫を責めるというグロテスクと純真さが同居する怪優ぶりで、その土の匂いのする土俗的存在感で観客を魅了した。その後、どくんご巡演で、多くのファンが出来たようだ。そのたかはしみちこと代表の奈尾真の二人が、宮崎市で上演をしたいということだった。それも、どうしても宮崎市でやりたい、手間はかけさせない、観客も20名もあればいい、場所も自分たちで探すからというのだという。その話は、小春の最終公演の日12月6日に東宮花の森の会場で、三木ちゃんから聞いた。その後、自分が引き受けたいと決意を告げたのだ。ぼくがやれないし、だれもやらないなら、自分がやるというのであった。

 そこで思い出すのだが、前回書いた、実行委員が5名で、チケットが各委員5枚しか売ることができないなら、25名でやればいいではないかということだ。ところが、このもしもしガシャーンの公演は、多くの公演で、定員25名を標榜していたのだ。この一致がおもしろいのだ。さて、話はここから進めてみたい。

 委員が5名、各人が5枚のチケットを売って、25名の観客で一夜の上演を終るという演劇上演にどんな意味があるかということだ。まあ、一般からみると、好きなものが集まり、世に知られてない、マイナーな芝居を、対抗文化として公演する。25名の観客と5人の実行委員が満足する。それは、おなじ穴の狢である。感動しようと、しまいと、社会には。なんの影響もない、さらに意味もなければ価値もない、ということになろう。これが、これが観客数から判断する自明(当たり前)の理であろう。

 しかし、芸術的イベントの影響は、参加者の意識がどれだけ活性化されるかにある。つまりそこで一人、一人がどれだけ自分であるかということが問題である。宮崎市の行政イベント「えれこっちゃみやざき」で人は自分を自覚するより群集に化して、その一員となることだろう。そこには芸術によるほんとうの開放感はない。じつは群集として疎外されているのだ。群集の抑圧が解放されるのは、暴力においてのみである。このような大量のイベント参加者になんの意味があるというのだろうか。

 さらにまた、この5名の実行委員たちと集った25名のネットワークは、わけもわからず、あるいは割り当てられた動員であつまった一人、一人の「ふれあい」とは、本質的に違う。このふれあいは、文字通り体がふれあっているだけである。ふれあいとは、お互いに意識が触れ合うことが必須である。つまり心が重なるというか、そのような相手の許容が必要になる。5名によるチケット販売を通して集まった25名には、じつは、物理的に隣り合った関係でない、ハイバーリアルつまり超常的な関係がじつは発生しつづけるのだ。

 5名と25名、すべてにとはいわないが、この結びつきには、想像も出来なかった縁が、じつは現れている場合が多い。ぼくは30年ほど、このような実行委員会の経験を重ねてきて、
そのような例は無数にある。たとえば、昨年の小春公演で、最初に共催を進んで引き受けてもらえた「天空ジール」の福田さんとの出会いであるが、じつは、ジールのスタッフで、イベントマネジャーをしている中島さんは、1994年、インド旅行をやったグループの一員であった知人中島女子の息子さんであったのだ。この事実だけで3人の話し合いは、遅滞なくすすんでいく。また小春マイノリティオーケストラでは、そのテーマというべき選曲「不滅の民」は、たまたま同日やってきた「どくんご」劇団のかってのテーマ音楽として使用されたことがあり、そのぐうぜんにかれらはおどろき、小春との共感が深まっていくようだった。

 テント劇どくんごにテント設立を受け入れてもらえたヨートハーバーの社長は、ぼくの知人とスキューバダイビングをする同好の志であったことをあとで知った。さらにその臨海公園の社長を紹介してもらえた松浦さんの亡夫とは20年ほど前、ぼくの実行委員であったしのぶちゃンらとヨット遊びをしたときヨットを操ってもらった人であった。これも後で知った。その他、こんな縁というものはまだまだ無数にある。この縁というものは、このネットを起点として、一挙に拡大していける。なぜこういうことが起きるのか、それは、あるイベントを自覚的に着手し、さらに一人、一人にチケットを売るという選別の瞬間に無意識的に、自分との関係性に根ざすことになるのだ。そういう意識のつながりに自分との関係のある人々が、現れやすいということになるのではなかろうか。人とはまさに関係性の中にしか存在していないのだ。

 意識して自発的に集まる30名のネットワークは、この関係性の人間らしさで、発展していく動因を内在している。不思議な真理ではないか。そこに希望がある。

 ということで、この5名+25名は、まさに小さな観客であるが、実は細胞でいえば大きな自己発展のエネルギーを内部にもっている集団である。これはたんなる群集として集まっている集団とは、本質的に異なった生きている細胞といえるかもしれない。
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おもしろいことをやる

2010-01-22 | 宮崎市の文化
  4年ぶりにテント劇団「どくんご」の演劇「ただちに犬」と小春のマイノリティオーケストラの音楽ライブをやってみて痛切に思った。どうしてこうチケットが売れなくなったのだろうかということだ。初めは甘く考えていた。テント劇にしても、その珍しさだけでも好奇心をくすぐり売れるはずと、それに場所が臨海公園のヨットハーバーというのも魅力的ではないかと思えた。とくにそれまで演劇にしろ音楽にしろだれもここで上演の許可を取ったものはないし、それだけでも話題性はあると気勢もあがっていた。ところが、いざチケット販売をなると、ぜんぜん売れないのだ。テント劇にも、ヨットハーバーにテントを張っての上演にも、たいした関心がないのであった。

 ヘブンアーティスト小春の上演については、テント劇よりもチケットは売りやすいと楽観視していた。路上や公園でのライブという分かりやすさ、大衆性、それに彼女らのファッション、チラシのビジュアルな評判も良かったし、小春のアコーディオンの音源も一度聴いた人の注意を引くに十分だった。そんなわけで、大いに売れると踏んでいた。ふたを開けてみると、こんな前評判はチケットが売れる購入とは関係なかった。ここにも小春の公演そのものには関心が無かったという現実があった。

 チケットが売れないで、一番答えたのは、収益のことではなく、この無関心というぼくを取り囲んでいる壁であった。いくら面白いということを言っても、なんの反応もない壁の存在であった。昨年秋、10月から12月4日に至る3ヶ月間、チケット売りに歩き回っている内に、だんだんぼくの注意を引いてくることがあった。それは、多くの人々が、もう自分で面白いものを見つけ出すということをしなくなっているのではないかという無関心のありようであった。

 その面白いということは、個人の努力でみ付け出す、あるいは見つけ出せるのでなく、そのことは自分を越えたこととして在るというライフスタイルのようなものに、ぶっつかりつづけたのであった。自分が面白いと思っているのは、テレビが示してくれるものである。テレビのブラウン管のシーンが自分の日常に出現することなら、即座に、飛びついていくという現象である。多くのひとびとは、自分の意志で面白いことを見つけ出していると思っているかもしれないが、それは自分のテレビ化された意識でしかないという文化状況であった。

 その面白さは、まずはテレビによって普及化されて大衆化され、すでに常識として意識に和んできているものである。だれでも共通の認識ができるのであるから均一的であり平板で分かりやすい。そこには冒険も破綻も発見も成長もない。つまり、安全という存在そのものであり、安全であるかぎり、じつは生きるための苦悩も関心も不安も感じなくてすむものである。だから外への関心も抱く必要がない、つまり徹底した逃避としてのみ面白さが、意味をもっているのだ。ブロイラー的な享受が、多くの人々が慣れ親しみだしてきている面白いことであるとの趨勢を否定できなくなってきている。

 さて、今年、ぼくは昨年のように演劇、音楽のイベントに直接関わることはやらない。というのも、もう一人のぼくをなんとか見つけ出すことが必要だと思うのだ。というと偉そうだが、つまりは実行委員長の出現を希望せざるを得ないのだ。ぼくの周りから、この20年くらいの間に、このような実行委員長の能力をもった仲間が、ひとりまた一人と活動を奪われていった。世界が世知辛くなり、仕事をしながら、実行委員まして委員長などやっていける余裕も無くなったのだ。どこかで、まだ余裕なる人を見つけ出せるのではないかという希望もある。

 次に考えるのは、イベントの規模を100人以下のものする。これなら、チケット販促にエネルギーを消耗させられるのを、かなり軽減できる。実行委員が5名しかいなくて、一人が5枚くらいしかチケットが売れないなら、25人の観客で成立する演劇、音楽ライブを上演実現するしかない。そして、それをやるのだ。そのとき、必要なことは、われわれが取り上げた演劇、音楽は、観客に楽しみと感動と奮起を与えるものであることだ。これをやれるには、すぐれた批評能力が鍵である。

 こうして生まれるイベントの場が、ブロイラー的イベントでなく。アートという名のジャンクフード売りの消費販促行動でなく、水場を生み出すことになる。すくなくとも、その場で、面白いことを自分で見つけ出し、それを飲めるという体験を、われわれが感じ、共有できることになる。そのことから始めるしかないと、ぼくは思う。そして不可能ではない。
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小春が去って後

2010-01-13 | 宮崎市の文化
 今朝は、ストーブ(ブルーフレーム)を置いている台所でも刺すような冷気を感じるのだった。おかしいなといぶかりながら、ダウンを着込んでチップを連れて外に出ると、ブロック塀の上に霜柱が立っていた。地面も少し湿った感じであった。乗用車の多くが、そのボンネットや屋根に白い霜柱を載せて走っていた。後で、夕べ雪が降っていたと聞き、これらは残雪だったのだ。手袋していても指がかじかんできた。吐く息も白い、まさに厳冬である。小春たちが来た12月の初めの春のような宮崎もいっぺんしてしまった。今の宮崎市であったら、彼女らも、東京都と変わらぬ冬を感じたであろう。

 あれから一月以上経ったわけだが、カフェ天空ジール、清武町文化ホール、東宮花の森東集会所のコンサート会場にどよめいた観客の声や話が今も思い出される。「初めの一音節を聴いたとたんに、胸がこみ上げ、涙が溢れ出して、最後まで涙がとまらなかった、なぜなのか分からないけど」と話てくれた三木ちゃん、「やっぱり、人の思いはつながるのね、命はつながるのよね」と、60台の女性が話かけてこられた。お好み焼き「しぇこぱん」でアルバイトをしていた女子学生は、翌日、思い出して涙を流していたという。CDで聴いたときは、それほどとは思わなかったけど、実際は、これがプロの技かと、自分のバンドでのトランペット演奏を反省させられたと語ってくれたという。テント劇団「どくんご」の全員も根拠地となった出水市(鹿児島県)からバンで東集会所にやってきた。終ってかれらも感動をして、なかでも時折旬は、凄い、これは凄いと、ふるえるような声で顔を紅潮させて声をだすのだった。

 小春マイノリティオーケストラのコンサートが終った会場は、観客の興奮が舞い上り、どよめきがつづいた。CDも半数近くの観客が購入し、サインを求める輪ができた。送ってもらえた50枚は、チケット購入へのおまけとして小春さんの両親が送呈されたものだった。だが、おまけまでつけて売らなければならないほど、コンサートは中味のないものではないと販売促進には使用しなかったのである。これがどんどん売れていくのだった。8部をメディアに渡したが残り42枚は全部売れてしまい、持参したものを会せて、全部で82枚が売れたのである。

 この感動が、小春のコンサートの音楽の批評として正当かどうかは、はっきりいって、ライブハウスに行き、音楽を聴く習慣がないぼくに分からない。もっとクールにマイノリティオーケストラの芸術性を捉えよといわれるかもしれない。これほど音楽があふれかえっている時代にただの一片のコンサートの反応だけで、過大評価をしているにすぎないといわれるかもしれない。もっとクールに批評家らしく、たとえばエリオットの批評についていうように、隣の作品との、あるいは伝統の流れのなかのどの位置にあるかどうかを示しての音楽批評がなければ意味が無いではないかと思われるかもしれない。そんな評価はまた別のことであろう。今、言えることは、観客がこれほど感動した事実だけは間違いないということである。つまり、ぼくの意図は成功したのだ。それは楽しみ、考えさせられ、元気付けられるという上演を実現できたからである。他に何が要るというのだろうか。さしあたり、この宮崎市のアート状況で。

 さて、小春は、7日、宮崎市を去り、羽田に着き、翌朝、成田からバンコクへの演奏へ発つために帰宅せずに成田にて一泊した。12月9日バンコク着、14日まで大道芸の大会でジャグラーで出演、広場の大群衆のまえで14日まで4回の上演を行なった。当地の気温は35度の連日猛暑がつづいた。15日日本着、東京は気温零下1℃であった。宮崎市の春めいた暖かさ、そしてバンコクの盛夏、そして5時間後に東京都の零下1℃である。翌16日、午前中、ぱんやさんのこともイベントでちゃらんぽらんたん、夜、ライブ、19日は覆面食堂バンドと競演、20日高松市で大道芸プラノワ 21日も同じ。22日浅草でちゃらんぽらんたん公演、27日、レディオ湘南にて16時ライブ。30日晴れ豆総決算ライブをロッキン新天地。31日浅草クラウド、新宿でネイキッドロフトでライブ、大晦日24:00からロフトプラスワン(新宿ライブハウス)で年越しスペシャルに出演、で新年を向かえ、1月1日はNHKで8:00から11:45の生録となっていった。

 新年が始まり、すでに上野公園や、さいたま副都心の大道芸フェスティバルでの路上公演プラノワがつづいている。東京都の厳冬の路上で、アコーディオンを奏でるとき、指はどうなっているのだろうか。まさか手袋をしたまま弾くことはありえないだろうが、他の楽器にしてもそうだろう。このような激務の日々にクリスマスカードが届いた。小春さんとモモちゃんの添え書きがあった。また宮崎に来たいと。こんな日々にクリスマスカードを出すという行動に驚かされた。この自己管理力、これなら大丈夫、将来もっと、もっと多くの人々に知られていくであろうと思うのであった。これがプロの根性というものだろう。ぼくは正月まで、寝て暮らして年賀状も書かなかった。猛省、反省、多謝、多謝である。
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小春/マイノリティオーケストラ公演が終って 2

2010-01-05 | 宮崎市の文化
 12月7日午前7時55分発のANAで、小春、ふーちん、りえぼんの3人を宮崎空港で見送って、上演がすべて終り、2009年が終り、今日は1月5日である。この一ヶ月の時間の経過に実感がない。なにか読書中の本をパタリと閉じて終った感じである。なにか起きたのかさへ漠然としている。

 そう、ほっといていた虫歯を抜いた。ぐらぐらして鈍い痛みのまま3週間ほどほっといていたら、もう抜き取るしか処置のしようがないということだった。それでやっと29日に抜き、30日口から痛みが消えていた。しかし、翌日の午後から左側の犬歯が揺れだした。揺すると鈍い痛みがする。その夜、年越しそばに餅を入れて食べだすと、痛みは餅を噛むごとに、ずきずきとはっきりと反応しだした。またかあといやな予感がするのであったが、我慢して食べ終わって、数分もしないうちに、かなづちで歯をたたくような重たい痛みが脈打ちだしたのだ。

 幸い、抜歯したときのボルタリンが2錠のこっていたので、1錠飲むと,痛みは収まりだした。そして元旦の朝となり、雑煮を食べだした、そして当然、おなじ経過で痛みが正確無比に戻ってきた。2日目は、新春コンサートを日高プロショップに聴きに行った。このあと、もうボルタリンはなくなった。3日目は朝から夜まで、歯の痛みのため、お粥で過ごした。やっと4日になったが、痛みは治まらず、またお粥、不思議に空腹感はないのであった。その夜から痛みはだんだん遠のき、5日の今現在に至っている。午後1時半に診療してもらえることになった。生まれてこのかた、元旦から3日間、歯痛みで、お粥しか食えなかった正月とは初めてである。正月とはいったいなんであろうか。近所も中心市街地でも注連飾りも消えてしまった。正月らしき気配はまったくどこにも感じられなくなった。そして歯痛みである。これで、季節感などは吹き飛んだ。

 さて、小春/マイノリティオーケストラ公演の幸運について話をつづけよう。彼女らの滞在3日間に宮崎の自然が、これほど宮崎らしい装いを示したのは、ぼくにも驚きであったが、彼女らへのインパクトは、さらに強烈であったようだ。初めて宮崎市に来たという20歳そこそこの彼女らに、宮崎市は夢のような土地と、彼女らに思ってもらえたようだ。ちょっと効果あり過ぎというべきか。自然はなにを考えたのであろうか。

 そして、もう一つの幸運は、上演はヘブンアーティストをいう大道芸としての楽しみを越え、聴衆を感動させる深みがあったということである。これは幸運というより、ぼくが事前に予測できなかっただけの話で、うれしすぎる誤算でもあったのだ。

 もともと、小春のアコーディオンと、そのバンドに期待したことは、聴衆を区分けせずにだれでも惹きつけること。演奏者は演奏だけに没頭し、聴くものは聴くだけに集中しているだけ、そんな演奏会場にはあきあきしていたぼくは、両者は同じ場に立ち、同じ地平を見晴かしているステージはないのかと思っていたのだ。そんなステージを実現したかった。そして昨年5月上旬にユーチューブで見つけたアコーディオン奏者の小春こそはこの期待の奏者と思ったのであった。街角で群集を引き付けている演奏、その技量、プロフェッショナル性こそ期待に添えると判断したのだ。

 演奏を終ってみると、そこには楽しさだけがあったのではなかった。なによりも、感動があった。演奏者たちと、自分と、まわりの人たちとの共感が沸き起こり、自分と世界を再認識させたのだ。小春とバンドの音楽には、きわめて明快なメッセージがあった。それは個人という弱者への愛情であり、その個人を抑圧する不正や悪への抵抗である。去年の春、村上春樹が、イスラエル賞の授賞式で述べた、個人という卵をつぶす壁がある。その壁がいかなる正義をのべようと、私は卵の側に立つ、それが書くという意味だといったことと、ぴたりと通じているのである。もちろん、彼女らに社会主義や革命やイデオロギーなどの反乱の言動などはなく、ごく日常の感情として自然に溢れていることに、ぼくはなによりも共感できたのであった。

 小春が、ユーモラスに、ヘリクダルか、やや自虐的にのべるバンド紹介「ヘンテコジプシー音楽団」歌とアコーディオンのユニット「チャラン・ポランタン」が上演する「ヘンテコ・ブンチャカ・コンサート」いうタイトルに、音楽のまっとうな本質があるとは、だれも想像できないだろう。しかし、それがあるのだと、私たちは再認識する必要がある。

 上演は小春の作曲「消えたモーゼ」から開幕になった。これは彼女らが上野公演の広場で演奏するときに、いつも近寄ってきたホームレスのモーゼのような顎鬚を生やした老いたる乞食のことで、かれが差し出すへろへろのプラスチックの中の弁当を口にもっていくのが大変だったと語る。ある日突然、彼の姿は消えたしまった。ついに再会できず、この曲がうまれたという。ユーモアと不思議な躍動感のある曲で、決して暗くも憂鬱でもない。このあと、彼女らの日常が曲によって展開していく。大衆芸の楽しさと明るさ、なによりも個性と独創性があり、たぶんヘンテコという自称も、常識を超えたということでは当たる。その個性の激しさはチャラン・ポランタンでモモちゃん(小春の実妹)の歌声で度肝を抜かれる。

 その愉快な流れは、最終曲によって、突然、すべてが集約される。この曲はアルゼンチンの歌手ビクトールハラが1973年チリのクーデダーにより
連行されてきた多くの市民を励まそうと革命歌ベンセレーモスを歌ったところ、ギターを取り上げられ、「二度とギターを弾けないように」と両手を撃ち砕かれ、それでも歌いやめなかったため射殺されたと伝えらた、かれの偉業を歌った「不滅の民」の演奏になったのだ。これまでの笑いや軽さは一転して音楽の可能性、その可能性に寄せる彼女の思いが切々と語られ、聴衆は衝撃を受けたのだ。

 このホームレスに寄せる思いから、アルゼンチンの革命家へとこの構成は、まるで、ぼくの思いを推し量ったようなプログラムであったが、もちろん、彼女と交換したのは、ほとんどが事務的なものにすぎなかった。また孫ほどに若い彼女らにぼくの思いがとどけられるはずもないとも思っていたし、そんな野暮なことなどやって笑われたくなかったのだ。にもかかわらず、彼女はぼくの思いを見事に掬いとっていたのだ。もっとも、それは彼女には彼女の思いがあったためであろう。それが重なるところが、不思議である。

 あるいは、彼女の鋭い勘、状況判断が働いたのかもしれない。いずれにしても、彼女らの音楽は、音楽が歴史とともに嵌め込んで描こうとするパズル絵画のパズルの一片として、存在していることは、間違いないと思えたのである。

 それにしても小春(21歳)は、写真やそのブログでの印象とはまさに別人であったのだ。マイノリティ・オーケストラもヘンテコ・ブンチャカ・こんサートもまた然りである。
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