市街・野 それぞれ草

 802編よりタイトルを「収蔵庫編」から「それぞれ草」に変更。この社会とぼくという仮想の人物の料理した朝食です。

さよならセントラル会館つづき

2005-05-05 | Weblog
  「橘国際観光ホテル」が建設された昭和37年夏は、全国から観光客が宮崎に押しかけ始めた時だった。とくに新婚夫婦の評判を呼び、新婚特別列車「ことぶき号」というのが、京都―宮崎直行で運行されていた。昭和42年新婚さん90組が宮崎駅に到着すると、宮崎市長をはじめホテル・旅館の従業員、観光関係者が300人が出迎え、ホテルに送り込んだという。こうして春、夏の結婚シーズンで運ばれた新婚組みは503組だったという。どうだろう、そのもりあがりぶりは。
 
ところが、その同じ昭和42年、宮崎空港に到着した新婚組は2万2千組に達していた。翌年は3万2千組になった。豊かな日本になっていた。次は、まちがいなく海外へ飛んで行く。本物の南国、ハワイ、グアム,バリ島へ、ロマンを求めてヨーロッパへ。だが、新婚列車は48年、石油ショックで高度経済成長が終焉するまで続けられ、宮崎市は、せっせと農民のまじめさで、中央分離帯にワシントニァ・パームの植栽をつづけ、ようやく昭和49年に完成、同時に県外観光客は減少に転じた。

 観光客を目当てに椰子を植えるよりも、楠を植えるべきだった。街は豊かになったのに。少し注意すれば時代の変化が読めたのに新婚列車に魂を抜かれたままであった。時代の兆候を見抜くことはほんとに難しい。

 この後、昭和52年に「橘国際観光ホテル」は映画劇場「宮崎セントラル会館」に改装、斜陽の映画をとにかく今日まで上映し続け、儲けも少なく、設備の更新もままならず、若者にぼろくそに言われる老体になった。ここも精一杯時流に沿おうとしたようだ。いや時流に媚たが、相手にされなかったようだ。じつは、このホテルには当初から地下に宮崎市で最初の地下映画館「テアトル橘」という洋画専門館があった。どうせ儲からなかったのなら、この映画館を、建設当時のまま椅子一つ、内壁一つそのまま今日まで保持したなら、レトロ空間としてそれなりの注目を集めたはずである。

 すなわち、時流に媚びず、時流に抗して欲しかった。時流なんかくそ食らえである。ま、それにしてもシネコンへの発展的解消、おめでとう。ぼくも楽しもう。そして時代はこれからどうなるのか、興味尽きない!!


 

 
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