市街・野 それぞれ草

 802編よりタイトルを「収蔵庫編」から「それぞれ草」に変更。この社会とぼくという仮想の人物の料理した朝食です。

今年も終わって

2007-12-30 | Weblog
 年末は、思いもかけなかったことに出会い、その3分の1位に対応できて他は年が明けてからということになった。すべてに親しい知人が関係しており、まことに申し訳ない。乳がんの手術を終わったばかりのお二人、どうしても書きたい「大和なでしこ」(木内里美作・演出・出演)の批評、昨年制作したドキュメントムービー「宮崎は劇場」の公開、年賀状の発送などが残った。

 今年はあっという間に終わった。一年の短さ、もう終わりかという感じは、まわりでだれでも言っている。この異様なまでの瞬間的な一年というのは、加齢のせいばかりではなさそうだ。
 
 いわゆる文化的イベントや会合にもなんどか出かけたが、その知性と感情の低下は、想像を超えていた。考える力も感受する感覚も、個人の意識の発露というよりは、テレビ受像機のブラウン管をみるようなものにすぎなかった。経済原則にとらわれた価値観、常識で拘束された全体主義国家の民衆を見るかのようなものだった。

 考える能力も新しい価値観に出会う事も無く鈍化してしまった人々の集う文化的イベントは、滓として、ぼくの意識のなかに溜っている。

 ただ、どこかで可笑しいとだれもが感じていたことが、はっきり可笑しいという常識になり、世論となりメディアの方向を変えるということもしばしば現れるようになった。時代の変わりの早さからであろう。
そこに希望がる。これが一年の速さなら大いに歓迎できよう。

 それにしても、これまでの一般常識を、非常識へ。今の非常識を常識へと、知性と感情が人間のものなら、当然の動きかも。
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青空市場

2007-12-22 | Weblog
  宮崎市で終戦直後から開かれた露天市場からつづく青空市場は、昭和30年初期には生鮮食材に特化、天蓋をつけて利便化を図り、もっとも成功したマーケットになって市民に親しまれてきたが、ここ数年で、80パーセントは崩壊してしまった。残った路地100メートルも空き店舗が連なり、寂れて風前の灯火となっていた。

 そこに突然、レトロを売りに屋台的な店が開店したとメディアが報じだした。写真にもレトロとむんむんとした路地的な、バザールのわいざつさを感じられた。

 今週、月曜の昼休みに行ってみた。昼間のせいだったのか、人通りはなく、空き店舗がひとつだけ新装開店しただけのことであった。写真は大げさだった。しかし、なんといっても市場的な商店活動に注目したことで画期的であろう。

 その前後だったか、NHKテレビで「ワーキングプア」問題の特集番組が放映された。2年ほど前の、ワーキングプアは負け犬、自己責任という意見も交差する格差社会を論じた2時間討論番組と比べると、まさに時代の変わりを感じさせられた。その解決について識者、研究者、文化人などがコメントをしていたが、ワーキングプアを生むのが、社会全体の不幸であると、この程度の常識を深刻そうな表情で語る。が、どうすれば解決できるのかという発想は、じつに貧弱極まるものに過ぎなかった。

 人が働くということは、働いてなお自己変革のための時間が残り、働いて自己の
価値が認識できなければならない。そんな仕事は、ほんとに一握り、正規社員でも
低賃金、長時間労働で奴隷状態にすぎないのが普通ではないか。解決方としては、労働基準法の徹底厳守だけでもかなりの効果があるはずなのに、どうやって働き口を確保するかしか思いは及んでいなかった。その論は結局は正規雇用をどれだけ確保するかということでしかなかった。そうなっても奴隷の増大にすぎないであろう。

 バンコクでみた一万テンポの露天が凝縮する市場、その活気を思い出すのだ。人を凝集させ、しかも人はそれぞれ独立しているという構造を市街地の街路にもビル前にも、中心市街地のデパートのまわりにも、さびれた公衆トイレなみの公園にも、ありとあらゆる街角に、街中に出現させる。これはワーキングプアを孤立と無意味から解放する手段たりうるのではないか。

 市場的混沌は、その一つの解決策であろう。

 宮崎市は、橘通り800メートルのメイン商店街の600メートルを癌になったとして切捨て、公園にしてしまうというプロジェクトに躍起となっている。現にある公園にどれだけ人が歩いているのか。それでは3丁目の商店に人を集めさせるだけで終わる。

 「公園作るより市場を作ろう」 だれかこれをコピーにして、ポスターや歌にしてもらいたい、これを青空市場に癌になった街路に特効薬として投与しよう。
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バンコク 官庁街

2007-12-18 | Weblog
 旅の最終日に、バンコクの官庁街が観光コースとなっていた。そこになんとか5世の王の旧別荘もあるとかで、ここは厳重に管理されているという。数年前にここの調度品である陶器を盗んだものがいたためにという。

 さて、官庁街に入ると、バンコク市にもこんなつまらん街区があるのかと、驚き、かつどこも同じ景観美化かと面白く感じた。つまり,塵一つ無く、看板もなく、人通りもなく、統一と調和という基準で、景観は死んでいるということだ。今、宮崎市が目指している方向でもある。

 王の別荘は、木造の王宮としては世界最大とガイドは説明していた。たしかに大きい。部屋が果てしなく連なり、どの部屋にも軍服姿の役人が何名も見張り番についており、全体では100名を超えるのではないかと思われた。部屋に飾ってあるのは椅子、テーブル、書棚、礼服、勲章、飾り棚、食器や絵画などなどである。とくに各国が送ったという陶器が各部屋に飾られていた。どれみても欲しい物は無かった、つまらないステレオタイプの沈うつな芸術もどきの、人を馬鹿にしたような装飾・家具品であった。

 木造といいながら和風建築とは大違いで、どちらかといえば、板張りの巨大な空間を、四角形や六角形に裁断して分けていった感じである。それと細工は大まかで、廊下も室内も同じような板張り、でぼこぼこしている。そこが書斎だったり応接間だったり、寝室だったりする。その各部屋から見える風景は、公園風な単調、均質な庭であり、室内の飾り物の多くは、儀礼的贈り物である。

 王はこの別荘にはほんの数日しか滞在しなかったらしい。こんな別荘にいて、外のバンコク市街の魅惑的風景を楽しむ自由というのも無いという生活は、大変な苦痛であったかと同情を感じたのである。タイを独立国家とし、近代化を憎みながらも西欧列強と妥協し、国家を繁栄に導いた偉大なる君主だったというが、その生活はこんなまがいの西洋風な別荘ですごさねばならぬ苦労があったのかと思えたのである。

 くだらぬ近代化を王が一人で背負ったところにタイの偉大さがあったのだ。これが現在のタイの魅力を作っている。
 

 
 
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