市街・野 それぞれ草

 802編よりタイトルを「収蔵庫編」から「それぞれ草」に変更。この社会とぼくという仮想の人物の料理した朝食です。

お盆休み、世界の中心で『ここだ』を叫ぶ

2015-08-12 | 生き方
 
 新鮮なにがごりを、両親が育てたと職員の看護師さんが、プレゼントしてくれた。今日は街中
をぶらつくので、明日もってかえるから、スタッフ室の冷蔵庫へ入れてくださいと頼んだら、皆
が、明日から盆休みですよといっせいに言い出した。えっ盆休み!だったのかと、おどろいたわ
けであった。そのあと、なにかもうけた気分になっている。明日の木曜日から日曜日まで休みに
なったのだ。

 ところで、なにをしようか、なにをすべきかと、この日曜日の塊が、そのままにはしておけない
気分になりだした。春に行った臼杵市にまた行くか、熊本の現代美術館か、福岡市か、あるいは鉄
道での九州一周か、韓国への3泊4日の旅行や台湾か、中国かと、いや、東京かと、考え出すのだが
手配も計画も、これからすると、一日がふっとんでしまうほど、手配がむずかしくなるようだ。
日帰りするしかないようである。ホテルは詰まっているだろう。


 旅行とすれば、韓国がいいかもしれない。今はわすれられていそうだから。だが、体力がない。家
内は、長距離の歩行はできない。観光地は、歩けなくては、おもしろくない。歩かずになにかをやれ
る、美術館だとか、演劇とか、映画とか、そんな観光となると、わざわざ観光地にいかなくても家の
なかで十分やれる。一日中テレビをみるとか、レンタルビデオをみるとか、読書だとかだ。
 
 この世の充実した遊びとは、どんな遊びなのだろうか。そうかんたんにおもいつけないのだ。ますは
体力と、かなりの努力がなければ手に入らぬもののようだ。あれをしようか、これをしようかと、迷い
かんがえだしてきたら、時間はどんどん経っていく。もう午前11時前になった。これでもし、300万円
でも、盆休みに使える一日平均のお金があったら、さらにぼくは、有効な休みの過ごし方にむかって、
ベターを求めて心労をしなければならなくなるだろう。幸いその必要はない。

 充実した盆休みの処し方などというめんどうな計画や実行は、もうかんがえるの止めた。時間の無駄
である。思えば世界の中心は、自分であり、自分の居場所が、世界の中心である。ということは、どこ
にいても、自分の位置が中心なのだ。ほかのところに行く必要はないわけである。今、ここで、盆休みを
愉しんでしまうことは、可能である。昼になった。今日は午後2時で終わる。が曇りだした。

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

思考と食うこと 殺人事件

2015-03-07 | 生き方
先月26日の朝、もはや毎週、心理的に三日ごとに殺人事件が起きる現実を本ブログに投稿した。その殺人が、幼児、小・中学生・女性・高齢者に向けられている、無抵抗で安全で殺すことが可能だからである。3月に入って第一週に、殺す対象は、ついに赤ちゃんと癌患者もしくは肝臓病者へと、絶対無抵抗者に及んできているのが報道された。赤ちゃん、重篤な病人を殺すことが可能なのは、殺しているという意識が無いから可能なのである。無抵抗者に対する恣意的な殺人は、殺しているという意識がないということを、今回の殺人事件で象徴している。

 そして、さらに嘔吐感がするのは、この殺人事件に当事者がだれも止められなかったことである。経過についてテレビ番組では大衆を相手にして、ということは高視聴率をも期待して、しかも経済的に、ニュースはもちろんワイド番組で、具体的な殺人までの経過を執拗にまで、毎日、アキがくるまで、コメンテーターが分析し、意見をのべつづける。これも呆れた番組であるが、それはそれとしてそのプロセスは、テレビで知るかぎり、嘘八百とは思えない。だとすれば、なぜ、これほその予兆をだれもきづかなかったかということである。分かるのは、殺人が起きる後まで、だれも無関心であったという事実である。そして、無関心の巣は、考えない脳の中であるということである。従って、この殺人は「考えない」日本人の犯罪であるということである。

 今、われわれがやれることは、考えることと、飯を食うということは、同じことであるという自覚を実践することであろうと思う。生きているかぎり、考えることを停止してはならないということである。飯を食うこと、また同じである。しかし、考える行為も食事も、消費社会では、本質を遠ざける。消費行動は、快楽になって欲求を満足させ、快楽が目的となる。食事も生きるためでなく、ファッション化され、食事ではなくなる。考えることは、考えるを停止したときが、快楽の充実感を保障する。これが、今の日本である。従って、無抵抗者の殺人は、現況では、これからも三日置きにつづきつづけていく予感がする。そのうちにだれもが、もう取り上げない些細な事件となって、狎れて行くのであろう。その後にはどんな殺人行為が出現していくのであろうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

とある街角の物語

2015-01-20 | 生き方

その街角には旧知のたばこ屋さんがあった。以前は街角のあちこちにあったたばこ店での一つで、たばこの販売だけで商売が成り立っていた時代には、たばこ店は街の風物詩であった。その一店が、平成に入っても生き延びていたのだが、もはや生業となってはいず、自動販売機のような機能を、その街角で果たしているに過ぎなかったようだ。店先には自動販売機もすえられ、三畳の店先に座っている店主の姿もなくなっていた。ただ、その店はあった。知人の暮らす住居でもあったのだ。大正期からつづいていた小売店であったとも聞いていた。

 
 昨年、平成14年11月3日文化の日の連休日、たまたまいつものように自転車で、裏町の路地をあちこちとぶらぶらと辿っていたとき、そのたばこ店に気づいたのだ。長い間ここに来なかったなあ、それに店主のかれとも、2000年に山形屋前で立ち話して以来、音信普通になっていた。あのとき、ぼくはバイオ茶というお茶を、無理に買ってもらったことで、気の毒なことをしたと自責の思いがして、しばらく会わぬうちに連絡がとだえてしまっていたのだ。今日は店を覗いてみよう、そこに居るとは思えないが、会えるかもと、自転車を押して道路を横断し店先に近づいた。

 店は完全な廃屋に変わっていた。木枠の正面ドアの硝子は一枚が割れて、敷居から外れたまま傾いて停止していた。陳列棚の硝子窓はさすがに割れてなかったが、汚れ果てて、顔をおしつけて、中を覗くと、床も奥の畳間もみえ その天井には半メートルほどの穴が開いていた。二階の畳敷きの破れが荒れた模様を強めていた。店は黒いビニールのゴミの山でびっしりと覆われ、土間にも流れ落ち、うずたかく積みあがっていた。奥の居間の天井から赤い傘のついた室内灯が、電線一本に引っかかって、首吊りのように下がっていた。猫がとつぜんごそごそと奥に逃げていった。店先の煙草自動販売機は、倒れて壁に支えられていた。中をみると、ハイライトやマイルドセブン、ラークなどがあり、みたこともない「さくら」というパッケージもあった。こんなのは何時販売されていたのだろうか。店の壁にマイルドセブンの広告が一枚だけ残っていた。奈良の大仏さんの大きな顔が描かれ、真っ黒な背景に青白く例のおだやか表情が描かれ、紫色の右手の指に一本の煙草が挟まれて、吸い口は赤く光っていた。大日如来とシガレットの取り合わせとは、奇抜でかつまだ喫煙が平和な時代であったのかなと思いつつ、マイルドセブンがひらがなで書かれているのもおもしろいと、もう一度読むと、それは「まいるぞせぶん」であった。ふだんなら吹き出すところなのだが、この笑いの空しさがたまらなかった。やはり彼はすでに他界していたのだと、廃屋に変わり果てたたばこ店をみたのだ。写真を撮っておこうと、板ガラスの引き戸から内部にカメラを構えようとしていたら背後から「なにをしていますか」と声をかけられたのだ。とがめるとうより、様子を聞こうとするおだやかな声であった。なんとか説明できそうと、ふりかえると、目の先に死んだと思った知人が、立っていたのだ。仰天して、生きていたのかという声を寸前で押さえこみ、「元気でしたか、おひさしぶり」と返答できたのだ。「あなたもお元気そうで」と一五年の年月が無かったようないつもの彼がたっていたんだ、

 ネクタイ・背広姿で色白、小太りで、その姿が生活のゆとりを以前のまま匂わせていた。それからぼくらは、それぞれの近況を伝え始めたわけだが、ぼくは、この廃屋化したわけを問うことは出来なかった。かれもまた、この廃屋には、なんの関心もないかのようであった。そんなことより、お互い健康が一番大事だというようなことに話は落ち着いていくのだった。どうですか、お茶でもしませんかと提案すると、そうだ食事でもしましょう、ぼくが案内しますと、彼は即答してくれたのだ。もっと話をつづけるのに、依存はないばかりか、ひさしぶりに旧交を温めるという心情も感じ取れてうれしくなった。かれはもともと美食家だったし、書道家であり、短歌を詠み、薔薇の花を育てるのが趣味であった。そのどれもぼくは、関心がないことであるが、不思議とうまがあっていたのだ。かれのイメージがだんだんと、前のままにもどってきて、ぼくはデパートのほうへと、彼と一緒に歩いていったのだ。

 まだ午後5時前でかれのいう店はしまっており、近くのカフェに入り、やや込んでいたが、席も確保できた。かれはここにはよく来るから、ぼくが注文していいかというので、よろしくと頼むと、しばらくして、コーヒーと上等のスイーツを盆にそろえてもどってきた。そしてかれの話をききはじめたのだ。コーヒーは熱く、気分はくつろぎ、静かな時間が流れていった。一時間半ほどその店にいが、今、思い出してみると、かれの話は、以下のようなものだった。あの家には住んでいる、裏のほうに住んでいるということだ。住んでいるといわれて、それ以上、よごれているとか、危険だとか、どうのこうのと詮索もできず、そうと、頷くしかなかった。住居の話はべつとして、かれのライフスタイルについては、聞き出せるので、話を聞いていくと、それなりの変化は起きていた。短歌は、もうやらないという。本気で熱心もやるものがいなくなった。情熱もないし話も合わない、短歌の内容もつまらなくなり、将来性もあるとは思えないのでグループは辞めた。毎年鹿児島の短歌の集まりも意味がなくなったので、それも止めたとうのであった。温泉は好き、青井岳温泉にも、月になんどかは行く。一番行くのは青島の温泉だ。あの温泉で時間をゆったりと過ごす、また海岸で、暮れを見るのは至福のひとときであると、その耽美を語ってくれた。青島には週に3回ほどは温泉に行っている。それはいいことだねえと、ぼくも温泉通いを話した。この住居の庭にあった樹木は大部分引き抜いて、薔薇園にした。その薔薇が宮崎市の展覧会にだしたとき、宮崎交通の岩切社長さんが、これはいいとほめて貰えたと話すのだ。薔薇はとても金がかかり英国の宮廷の庭園に育つ薔薇について具体的に話しだした昔のようにうまいビフテキを出す店も少なくなったなという。そんな話であるが、婦人雑誌の口絵をみるような、贅沢の香りがかれをつつむのが、どこかで安心させられるのであった。すべてが、ゴミで覆われた廃屋と化したたばこ店となんの関係も関連もなかったのだ。そのまま店の件について、まだ彼が住んでいるということ以外は、知ることもできず、住所と電話番号を交換して、そのカフェで別れてしまった。彼はもうしばらくここでコーヒーを飲んでいるというので、別れた。あれから、電話もなく、ぼくもまた電話してない。

 平成15年となり、1月13日成人の日の連休、ふたたびたばこ店に行った。板壁は一部が剥げ、割れ竹を格子にして、わらを刻んで入れた粘土を塗りこんだ壁の土台が、剥き出しになり、その漆喰の滑らかな仕上げが黄色く変色していた。棟も真ん中ころで折れまがって落ちこんでいた。ガラス戸の硝子は割れてしまい、木の枠だけになっていた。荒廃が一段とすすんでいた、ここには彼は住んでいない、住めるわけがない、いったいなぜ裏に暮していると、彼は言ったのだろうか。裏とは、この家の裏でなくて、店の面した表通りの裏の区画ということだったのかもしれない。だが、そんなことはどうでもいい。かれがまだ生きているということでいい。その優雅さを、以前として寸分違えず保持していること、そのモノにとらわれない、まけないスタイル、これがぼくを感銘させてくれたのだ。家は廃屋と化したが、かれの品格は健在であったのだ。これでよしである。電話などかけても意味はないとおもうのである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

晩秋とランチパス

2014-11-08 | 生き方
今度、またランチパスポートに参加するときは、500円で利益がでるようにやらねばと、店主夫婦は言う。1000万円の売り上げを達成した出版社と本屋に、死ぬほどの働きを、90日間無料奉仕したのが、日本国宮崎市(パスポートの表紙記載)の店主とその使用人たちは、そう決意するのは当然であろう。パスポートが終わると、だれも来なくなった店先で、店主夫婦はそう決意した。だが、どんなメニューが可能なのかと、頭をかかえるのであった。

 来店者は、来店者で、700円以上のランチが、ごまかしなく、そのまま提供されているかどうかについて、注意おこたりなかったのだ。写真と違ってないかどうか、これは序の口である。仲間の一人が通常料金で注文して、500円のものと、直接比べてみるという手段がとられたりと、こまかいですと言う。品質を落としたり、量を減らしたりは、いっぱつで見破られるというのだ。この話は、別でも聞いた。彼女はあるレストランの店の待合室で、あの店のこの料理はいいが、この料理はだめだとか、ことこまかに評価し、あの店はいい、この店はだめだと、お互いが、情報交換で盛り上がっているのだと話てくれた。

 800円が、500円になって感謝するどころか、だまされずに800円のものを500円でたべられたかどうかに、関心があるのだ。感謝もなければ恥じらいもない。やっている消費行動の意味も理解できない。「得」だけが、命なのである。世界がどうなろうと、明日がどうなろうと明日も過去も未来も、今だ、今、200円得したかどうかに、意識はすべて、そこに集約されている。こうしたランパス人のなかには、3ヶ月で40店舗以上を回って人もいるという。

 ある店では、使用人たちが、こういうのだそうだった。ただ今、1000円のお客さまお帰りですと、アナウンスされると、店舗内で、働いているシェフもウエイターたちも、ありがとうございましたの斉唱があがる。500円の客には、だれも言葉をかけないで無視したというのだ。ここにも感謝という行為は消滅した。この店に存在したものはなんのなのか。それは、ランパスが図らずも生みだた虚無であったと言えよう。実数と虚数を組み合わせた複素数は、現実社会を見事に示すこともあるのだと、感銘した。

 それにしても、2度目のランパスでは、レストランもまた実数になるべく、その難問を解いて欲しいものだ。それは、食事の貧魂を救うためにも必要である。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

夜の視界 サッカーワールドカップ ブラジル大会

2014-06-26 | 生き方
 夜の闇に映える街角は、ただあちこちの照明看板が、一箇所に集まって見えただけであった。それが、にぎやかな街角だと判断できた。そこへ向かって歩きだすと、街角はなく、コンビニや、街灯や、シグナルがぱらぱらとあっただけであった。つまり闇は照明の相互の距離感を視界に感じさせなかったからである。

 サッカーW杯でだれもが一次予選どころか、準決勝どころか優勝も視野のうちとう盛り上がりは、終わってみれば、夜の赤江大橋で、街角を見た視界ともいえそうである。話を聞くと
これまで日本チームは、W杯は前回も一次予選で敗退だったというし、世界の強豪と試合した経験もほとんどなく、ただアジア大会で最強であったということである。サッカーの世界大会というのは、闇の世界であったわけである。闇の作用を無視して、日本チームの煌々とした灯りを視界に入れ、おおいに盛り上がりまくっていった日々が何十日とつづいたのであった。それはそれで、よくもまあ、これだけ、日本全国つづうらうらまで、サッカーサッカーに愉快な日々にファンも選手もメディアもテレビのコメンテーターも歓喜にあふれていたのだから
結構な話であったと、言っていいのではないかと思う。

 世界のサッカー競技の質・量を実際に測定できる手段がなかったのだから、自分中心で判断するしかないわけでアジア大会優勝のレベルで、世界大会のレベルを推し量るしかないわけで
ある。それにチームのほとんどの選手がイギリスやスペイン、ロシアのチームで活躍、それなりの実績を加算して、灯りを見るわけであった。夜の闇の力が、盲点となっていたことはだれも自覚できなかったのだ。つまり盲点があった。その盲点で負けた。盲点は意識できないから
盲点なわけで、せめられる筋合いはどこにもないわけだ。終わってから初めて気づくだけだ。
橋上の闇のかなたに遠望できた街角がなかったからといって嘆くことはなく、理由がわかって
かえっておもしろかったのであった。
  
 選手もファンも、歓喜の日々は終わった。たのしんだだけ、得だったといえるではないか。ブラジルまで、日本から一番遠い国まで、応援にかけつけたファン、その礼儀正しさが世界から賞賛されたという情熱と名誉は、いい日々であったはずである。今を嘆き、悔やみ、未来に
暗たんたる思いを抱くのは、よろこびのあとの苦しみで、いいことばかりが永遠につづくというわけではない。要するに闇の力が見えなかっただけの話である。あるいはバイアスの力は自分が生み出す力である。その力を、こんどは闇の克服に合理的に向けていくことを、自覚すべきであろう。






コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鼻水がとまらない 中心は誰

2013-06-22 | 生き方

犬や猫は鼻水が止まらないという症状はないようだ。14才で無くなったシーズの愛犬チップも鼻水をたらたら出すのを見たことは無かった。アレルギー性の皮膚炎を死ぬまでもっていたのだが、鼻水をたれながすことはなかった。朝、夕の温度差がひどいときや、温度でなく湿度の変動、とくに台風接近の毎日などになると、毎回ではないが、日によって鼻水が止まらなくなる。一昨日がそうであった。朝6時半に起床してすぐに鼻水が出始め、朝食の間も、テレビで朝ドラをみているときも、事務長室でパソコンにかかっても、それこそ何十秒の休みもなく、鼻水は出てくる。こんなに流れでると、脱水症状になるのではないかと思えるのであった。鼻水の間にくしゃみがでる。ただ、それほどキツイというわけではなく、面倒くさいのだ。どうしてこういうことが生じるのだろうか。温度アレルギー、湿度アレルギーとでも名づけてはいるが、たしかに温度・湿度の変化が関係するが、だからといって毎回起きるわけではない。そのときの体調、精神状態つまりストレスなどなどもかかわっているのだろう。原因がわからないから、対処できない。耳鼻科に行けばということになるが、それほど苦痛ではないのだから、ちり紙を山のように使って対処しているわけである。この対処も人前ではなかなか難しい。

 水曜日は、午後2時から休みになるので、このごろは、たいがい本のつたやで、すごすのだが小さなテーブルを挟んで見知らぬ人と向き合って座り、雑誌を読んでいると、鼻水が絶え間なく流れる。これをハンカチで押さえつつ、2時間ほど過ごすと、目が真っ赤にはれてくる。首まわりも肩もコンクリートでかためられたようになる。それでもおもしろい記事に出会えるので、まさにつたやさまである。たまにはお礼のつもりで雑誌を買ったりする。佐賀ではつたやが図書館業務を委託で請け負ったというが、わが国では、それは残念ながら、公共図書館を行政が開くより有効であるように思う。本当は図書館はそれではない機能をもつのだけど、どっかの知識人も言っていたように図書館は無料化資本屋でなんで悪いのかと、本まで書いているやつがいたが、県立、市立の図書館は、街の貸し本屋にも至ってないことが問題なのであった。今、やっとか貸し本屋の水準になったということだ。しかし、これを越えなければ駄目だ。彼の本をよんでないのでわからないが、かれは無料化資本屋をこえる図書館について想像しているのであろうか。

 話が飛んでしまったが、顔がつくくらいの小さなテーブルで、若い女性と向かい会いながら、鼻水をたらしながら、それを防御しながら、読書していった3日まえの体験が、ぼくに鼻水への対処法を考えさせてくれた。あの2時間、ぼくはちり紙で鼻をかまなかった。おさえつつ、ちり紙がしめると、ひそかにあたらしいちり紙にとりかえていたのだ。帰宅すると、もう遠慮会釈無く、このやろうとばかり、鼻をつまみ、鼻を圧死、横にもたてにもゆすり、とまれはなみずやろうと、むちゃくちゃに攻撃の手をゆるめなかったのだ。こうしてよるの11時、就寝の時となり、布団に横になると、鼻も就寝につくのであった。

 そのことを朝に思い出したのである。朝は体力も、もどってきているし、だれも遠慮する奴もいないし、そのとき、突然思いついた。よし、鼻水が出よと、くしゃみがでようと、おれの知ったことか、もうとめようと、努力するのはやめたという、決意であった。決意すると、そのとたん、鼻水が、たらたらたらと、鼻水でなくて水として流れ出したのだ。まさに水なのだ。この流れがなんと、なんだか気持ちがいいのだ。ある程度ながれると、水がなくなるのか、止まるのであった。水が無ければ、止まるのか、おもしろい、とめようとする必要はないわけである。これはシンプルだと、おもしろくなった。それで、100円ショップで買ったハンカチを、鼻水受けに使いながら、水の流れのままにすごしていったのだ。

 そしたら、夜にはもう鼻水は止まってしまっていた。鼻もやりたいことをやらしてもらって抵抗感がなくなったのだろうと思う。鼻は鼻、腰は腰、首は首、足先は足先で、それぞれが独自の生き方をしていると、ぼくは以前からときどき感じるときがあったのだが、鼻もそうだった。ぼくはいつも思う。自分の体は、自分がすべて支配し、動かし、停止させる、すべて命令によって、ときには、何十年もつかってきた肉体をなお奴隷化して使うということは、間違いであると、これは体験的に感じてきたことである。鼻は鼻にまかせよであった。自分だけが世界の中心だと思うなであろうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

国民の温泉

2013-05-27 | 生き方
 また週末に温泉に家内と行った。彼女は、そこの歩行浴槽で一時間ほど歩くのにほとんど毎日のように通っている。ぼくも週末には付き合うことが多くなった。ぼくは30分で出て、休憩室で本を読んで過ごしている。彼女は2時間くらい出てこない日もある。夕飯は、温泉の食堂で食べることが多い。僕は夜はあんまり食べないので、カレーとか親子どんぶりだが、彼女はあら煮定食とか、刺身定食を好んで選ぶ。あら煮定食はこのシーズンの限定メニューとあり、かんぱちのあら煮にえびとやさいの天ぷらがつき、味噌汁とご飯とサラダもついて1050円である。 あんたも、もう先がしれてるのに、どんどん美味いものを食わなきゃね、なんでカレーなのよと慨嘆するのだが、朝も昼もたっぷり食ったし、軽いのでいいのだと言うと、食わん食わんといつも言いながら子供たちも孫も、いつもびっくりするくらい食うんだからと、攻撃の手を緩めない。朝も昼も彼女はやせるためにこのごろは努力しているのだが、夜、こんなに食えば終わりではある。食わんといったら食わんを実行しぬかんかぎり、肥満からの逃走はありえないのだ。まあしかし、先が迫っているのだからといってもぼくより7年は若いが、食いたいものは食えばいいじゃないかと、ぼくは彼女のあら煮定食には内心で賛成はしているのだ。また、人生を美味いものを食って、満たすとか締めくくるとは、する気は無い。結構、ほかにも楽しみはいっぱいある。この温泉で裸のままで遊べるのも最高の快楽にひとつではある。

 週末、土曜日(2013年5月25日)午後5時ごろの温泉は、思いがけなく閑散としていた。珍しいなというと、今は農家の人たちは農作業と忙しいはずと、彼女は言う。彼女は近所の人たちには恥ずかしいとかなんとかで人見知りするが、温泉ではいろんな友達が出来てきた。農家の主婦だったり、公務員退職者、土地持ちでアパート経営者とか、大学教授の奥さんで絵描きとか、70歳に及ぶ年頃でキャンピングカーでいつも旅をするやせこけて小さいおばあちゃんとか、まさに多種多様の人生物語を知って、面白そうにいつも話してくれる。この時期農家が忙しいという指摘もその交際から実感できるのだと思う。忙しい人がいっぱいで、温泉ががらんとしているのは、ぼくにはうれしい。これはエゴなのだろうが、エゴでしか生きられない部分はおおいにあるのだ。それはそれとして、 今日こそはと、ぼくは好きなジャグジーの噴出孔の前のあぶくにつつまれて座り、改めて浴槽内を眺めると、6人しか浸かってないのだ。兄弟らしい小学生が二人ジャグジーの泡を手で押し返そうとしている。ぼくの右側で、浴槽の縁に背をもたして目が動かないじいちゃん、真っ裸で股を広げたままの正面の若者、その横の寝風呂でいびきでもかきだしそうな屈強な50台の男、やせさらばえた貧髪のおじいちゃん、そんなかれらに、高さ3メートルもある窓から緑陰に染まった光線がグレコの絵画のように降り注ぐ、のを飽きずに見つづけていた。。

 この2013年5月25日のある時間、ここに集まって、入浴を享受していける6人をなんと呼べばいいだろうか。仮に、ただ今、国民が温泉の入浴を楽しんでいますと、実況報告するとなると、この国民という言葉はまったくそぐわないのがわかる。こんな実況するアナウンサーの役割を仮想してみた。当然、かれらを国民と呼ぶのが、ことばとして、まったく合わないのに気づかされるのだ。そうか、この光景は国民の入浴とは、呼べないのだ。だんだんいろんな状況に国民をつけてみる。家内のあら煮定食も、国民は、あら煮定食を食べるとしたら、なんか刑務所での麦飯定食というよううなイメージがしてしまう。ぼくは、家内と二人暮らしで、12班という隣組で生活している。3回班長をやってきたが、かれらは国民であろうか。向こう隣のご主人とは、朝、夕、挨拶ばかりか、ちょっとした立ち話もしたりする。その彼を国民として意識することはない。いったい国民は、具体的になると誰が当たるのだろうか。まこと日常生活で、国民とは、誰さん彼さんではないのを、痛感できるのである。どうも当てはまらない。逆に、ぴったりと密着するのもある。たとえばマイ・ナンバーである。国民総番号とすると、じつに明瞭に意味がとおるのに、なぜ、マイ・ナンバーなのか。自家用車のナンバー、貯金通帳のナンバー、保険証のナンバーと同列になったようなマイ・ナンバーは意味がぼやける。なぜそうするのか、もちろん、国民番号制ではあまり露骨だからである。国民はここでは避けられる。まあまあ、それを今どうこう論じるのは置くとして、肝心なのは、国民という「ことば」は、ぼくらひとりひとりの日常の姿には、そぐわないのである。

 このように、温泉の湯煙のなかで、思いつづけるのであった。ところで、なぜ安陪さんは、朝も晩も国民、国民と魔法使いの呪文のように言い続けるのだろうか。毎朝の安陪首相動静が、新聞では一欄としてまとめられるが、その分刻みの彼の行動は、未来に何を望んでいるのかが、見事に伝わってくるように思える。全国あっちに走り、こっちに走り、どうも国民をがっしりと捕らえる行動のように見える。しかし、国民とは一人一人の生きている現実ではないのである。それを現実として捕らえようとする、かれの欲望は、この捕獲に燃え上がっているようだ。しかし、国民とは存在していないのだ。存在せぬものを追いかけ、捕まえようとする、この矛盾が、近い将来爆発するのではなかろうか。言ってみれば、国民憲法改正運動など、これも国民ということばがよく合う。だがしかし、だれも憲法などを話題にしたり、考えたりして過ごしてきた60有余年ではなかったのだ。そこには語る必要も無いほど、厳然として憲法がわれわれの生活にみっ着していたからなのだ。憲法は一人の個人の行動のように戦後の日本人になっていた。これを国民運動にすることそのものが、憲法破壊であることを、ぼくらはかなり認識できているように思う。つまりアベノミクスに投機市場の市場の反応のように明快、具体的、現実的反応が、あるわけである。この戦後平和のつづく60年余、これが現実である。それを無視して、国民のための、憲法改正など、無用きわまることなのではないか。これが現実であろう。憲法改正の呪文などに惑わされるような日本人は、さすがに情報化、国際化の時代には、もう少なくなっているのを、安陪さんは気づかないのではなかろうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

橋下維新の会共同代表の「それぞれの思い」を思う

2013-05-20 | 生き方
 個人には、それぞれに思いはあるのだと、慰安婦発言の弁明で共同代表は言っている。そのことは、ぼくの注意を引いたのだが、その後のテレビやメディアで、かれの口から出てこない。これは実に大事なキーワードだとおもえるのだが、消えてしまった。

 ぼくはそれぞれ草と、ブログの主題を名づけている。これもまた個人それぞれの思いを書くということで、サブタイトルにしている。しかし、橋下代表とぼくとでは、そのコンセプトは正反対である。ぼくの思いは、100パーセント弱者への思いである。代表の思いは、強者への思いである。つぎにぼくは大衆から距離を置く思いである。橋下氏は大衆と離れず、意思でコントロールする。どうやら、大衆とかれは表裏をなす、一枚のコインである。ぼくは太平洋ひとりぼっちの航海で思い続ける。橋下大阪市長兼維新の会共同代表は、艦隊の一戦闘艦・駆逐艦のデッキで幕僚に囲まれ、戦闘を思いつづける。こういう風に違う。ついでに言えば「草」とは雑草であるとも言い添えよう。魚雷をぶっ放すのはかれであり、戦場、戦争を放棄して逃げ惑うのはぼくである。こういうやつは、生きていても仕方がないかもと、かれはいうかもしれないな。だが、そう長くは生きていられない。その事実はわりと気楽である。

 毎年、5月になると、ぼくは連休の毎日をどう過ごしてきたかを綴ってきたが、今年はその日々を語るには、日が経ち、トウが立った。ただひとつ連休での温泉入湯の日々については、今回も述べておきたい。温泉、その快楽は、ぼくにとっては至福の空間である。湯煙が浴室に漂い、その中であちらに一人、こちらに一人と湯治客がひっそりと浸かっている。からんと木の洗い桶が響いたり、天井から落ちる雫がお湯の中に落ちたり、そんなことも浴室の静寂をさらに深め、窓外の樹木の生命を身体にかんじさせもするのである。心身は、かくして、くつろぎ、時間は流れ、ストレスは温泉の湯に溶けていく。

 これは典型的温泉風景であろうが、ぼくの通ってきた温泉には、こういう情景は、ほとんど消失してしまった。浴室は入湯客で沸きかえり、大声で語りあうもの、子供の甲高い声が飛び交い、体にお湯を浴びせる気ぜわしい動作、その騒音、湯温は42度余りに保たれ長湯は出来ない。鏡を前にはめこみ、蛇口があり、プラスチックの洗面桶と腰掛をそなえた洗い場は、順番待ちになりがちである。この光景はまさに昔の街角にある銭湯風景である。いつ行ってもほとんど銭湯風景であり、今日こそは、ウィークデイの朝や夜でも、銭湯であり、たまたま偶然に温泉に還るときもあるが、いつもそこは銭湯になった。

 この市民であり、60歳以上であれば入湯料は200円、山間の温泉は大人400円である。たいがいどこも500円以下である。ゴールデンウィークの毎日、ぼくは家内と、どちらかの温泉に通ったが、毎日混み会う銭湯風景であった。しかし、慣れてしまえば、それはそれで楽しめるのである。どう慣れるのか、これは後で語りたい。問題は、この光景の出現である。500円以下で、ゴールデン連休を一日楽しめる人々の群れである。いっぺん湯につかり、そこの休憩室で過ごすなら一日はだいたいそこで終わることになる。

 このつつましい遊び、遊興の値ごろ感、これで十分という休日の遊びに、これほどの人々が集まってくるという日常をみると、景気が回復したとか、そんなことは、とても現実に起きているいるとは思えない。いや、この金を使わぬ消費行動は、ちょっとやそっとで変化するとは思えない。もっともっと金を消費する日常、休日行動が大衆に可能になる日本の景気回復、デフレ脱却は、ちょっとやそっとや、三本の矢でどなるなど、ありえないのではなかろうかと思うのである。これが、今年のゴールデン・ウィークの感想である。

 
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

テレビ見ない読書しない

2012-06-30 | 生き方
 6月が終わる。雨か曇天の日々、晴の日は、この地では6月22日台風4号の過ぎた翌日の昼間だけであった。今年こそは、ここ何十年ぶりの梅雨らしい梅雨だった。これは記憶に残るに違いない。この期にぼくは、前から考えていたことを実行している。それはテレビを見ない、読書をしないという実践である。もちろん、一晩にテレビを一番組、読書を100ページ余り(50分)は許している。これを実行しながら今更ながらにわかるのは、夜、この二つなしには、過ごしようがないほど夜は長いということである。

 通常、ぼくは自宅に帰り着くのは午後5時15分前後である。そして就寝が午後11時前後である。こうして、夜がぼっかりと空くのだ。夕飯は午後7時ごろ、その間にチップの散歩があり、夕食の準備を手伝ったり、掃除したりと時は流れていく。夕飯はいつも人間らしい食べ物にありつける。ラスベガスやワイキキのレストランのジャンクフードのような馬の餌さのようなものではないのが、いつもありがたい。その夕食を終わって、NHKの番組でも見るかというのが、消えてしまった。午後8時までの時間が長いが、やっと午後8じなると、外の暗さと同じくらい暗がりの時間が開く。ここで、読書という没入できるものがないのだ。そして、なにもすることなく、午後9時までの長いこと、ようやく午後9時のテレビニュースや映画やドラマやその他のテレビ番組となるのだが、これはないのだ。そして、ここにも深い穴が、ぼかりと開くのだ。

 午後10時ようやくテレビのニュースを見る。この時間までに夕食後に3時間余りの時間を埋めねばならない。これまでは、読書さへしていれば、どんな環境であろうと、何時間であろうと、時間をつぶそうとかいう意識さへなく、充実したつまり自分なりの時間を生きて楽しめたのだが、それはないのだ。こうして、ぼくは初めてのように痛感させられているのは、テレビと読書なしに生きている充実感がないほど、これに依存して生活してきたのだということである。

 で、今やっていることはどういうことかということである。ますは、なにもせずにぼーっとソファに座り込むか、籐椅子をやや傾けてリラックスするかでは、冬眠への誘惑を感じ出すので、これを避けるために室内運動を持ってきた。ストレッチ、腕立て伏せ、腹筋などを加える。かなりやったつもりが、時間はたった15分過ぎたばかりだ。なんとか30分を目標にしているが、どうなることやら。ただ15分くらいはやれだしている。この後、外での運動でサイクリングすることにした。これは、読書と同じ、あるいはテレビ視聴に勝る快適さで、快哉を上げることが出来たのだが、妻が猛烈にこの自転車走行を非難しだしたのだ。

「馬鹿じゃないの、雨の降る夜道を一時間も走っているのが、いいとでも考えるのでしょうが。はた迷惑も大変だわ」
「なんではた迷惑かよ」
「暗がりでの自転車がどれだけ運転者にとって迷惑か、あんたもわかるでしょうが」
「歩道とか、邪魔にならぬように走ってるが」
「邪魔になるのよ、道路を走ってるのが」
「こっちは何十年もサイクリングしているんだ、事故など起こしたことはないぞ」
「これで、事故になって、新聞にものって、夜に爺さんが自転車で事故に遭ったと名前も出たら、こどもたちも大恥を書くでしょうが」
「事故、そんなもんがあるか!!」
「あんたはどうかしてる、ボケがはじまっているのかしらね、止めなさい、雨の夜にサイクリングするなら、部屋の掃除、片付け、食事の後片付け、書棚や書類の整理、本の廃棄処分、なんぼでもすることはあるじゃないのっ!」
「ふざけるな、家ン帰ってまで勤めするか」という口論をかわしたわけである。

 この口論の根底をなしているのは、人生を遊びで過ごすか、実用で過ごすかの優劣を問うという価値観の対立であるようだ。ぼくは、基本的には、人はこの下らぬ社会に生きる限り、遊べる時間をそれなりに最大限に確保しなければならないとする。先日ひさしぶりにあった三木ちゃんは、またもや残業、残業の日々に追い込まれていた、彼女の音楽や芝居に対する感性を生かす時間が、学校事務に収奪されつづけているのだ。帰宅が毎晩、土曜もなしに午後10時ごろというのだ、それもこの残業の減ることは、見えないというのだ。現在の正社員にもどこにもありうる話だ。なんという卑劣なげんじつであろうか。まさにヒトゴロシである。なんとか、彼女に言ったことは、まずは同僚と話し合って、一時間だけ残業を減らす事務処理の合理化実現するように、それを実現して次のステップに移行することと言うしかなかったのだ。と、彼女もそれをかんがえだしたところと、話に乗ってくれたのだ。いかに自分の人生に自分の遊び時間をぶち込んで確保するかが、あらゆる人がそうすることをと、これが、ぼくの念願である。

 本当の遊びの種類や方法を広げるために、テレビと読書の習慣を排除して、それに劣らぬ方法をもさらに確立できないかと、探しているともいえる。テレビと読者なしにも遊べる、充実できる手段は、あるはずと探しているわけである。今年の秋まで、このような夜を過ごしてみようと思う。まだまだ夜は長いが、残業に駆り立てられる人に比べたら、この遊びもまた快楽にすぎない。しかし、何かが見えるかもと思う。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

テレビ見ない読書しない

2012-06-30 | 生き方
 6月が終わる。雨か曇天の日々、晴の日は、この地では6月22日台風4号の過ぎた翌日の昼間だけであった。今年こそは、ここ何十年ぶりの梅雨らしい梅雨だった。これは記憶に残るに違いない。この期にぼくは、前から考えていたことを実行している。それはテレビを見ない、読書をしないという実践である。もちろん、一晩にテレビを一番組、読書を100ページ余り(50分)は許している。これを実行しながら今更ながらにわかるのは、夜、この二つなしには、過ごしようがないほど夜は長いということである。

 通常、ぼくは自宅に帰り着くのは午後5時15分前後である。そして就寝が午後11時前後である。こうして、夜がぼっかりと空くのだ。夕飯は午後7時ごろ、その間にチップの散歩があり、夕食の準備を手伝ったり、掃除したりと時は流れていく。夕飯はいつも人間らしい食べ物にありつける。ラスベガスやワイキキのレストランのジャンクフードのような馬の餌さのようなものではないのが、いつもありがたい。その夕食を終わって、NHKの番組でも見るかというのが、消えてしまった。午後8時までの時間が長いが、やっと午後8じなると、外の暗さと同じくらい暗がりの時間が開く。ここで、読書という没入できるものがないのだ。そして、なにもすることなく、午後9時までの長いこと、ようやく午後9時のテレビニュースや映画やドラマやその他のテレビ番組となるのだが、これはないのだ。そして、ここにも深い穴が、ぼかりと開くのだ。

 午後10時ようやくテレビのニュースを見る。この時間までに夕食後に3時間余りの時間を埋めねばならない。これまでは、読書さへしていれば、どんな環境であろうと、何時間であろうと、時間をつぶそうとかいう意識さへなく、充実したつまり自分なりの時間を生きて楽しめたのだが、それはないのだ。こうして、ぼくは初めてのように痛感させられているのは、テレビと読書なしに生きている充実感がないほど、これに依存して生活してきたのだということである。

 で、今やっていることはどういうことかということである。ますは、なにもせずにぼーっとソファに座り込むか、籐椅子をやや傾けてリラックスするかでは、冬眠への誘惑を感じ出すので、これを避けるために室内運動を持ってきた。ストレッチ、腕立て伏せ、腹筋などを加える。かなりやったつもりが、時間はたった15分過ぎたばかりだ。なんとか30分を目標にしているが、どうなることやら。ただ15分くらいはやれだしている。この後、外での運動でサイクリングすることにした。これは、読書と同じ、あるいはテレビ視聴に勝る快適さで、快哉を上げることが出来たのだが、妻が猛烈にこの自転車走行を非難しだしたのだ。

「馬鹿じゃないの、雨の降る夜道を一時間も走っているのが、いいとでも考えるのでしょうが。はた迷惑も大変だわ」
「なんではた迷惑かよ」
「暗がりでの自転車がどれだけ運転者にとって迷惑か、あんたもわかるでしょうが」
「歩道とか、邪魔にならぬように走ってるが」
「邪魔になるのよ、道路を走ってるのが」
「こっちは何十年もサイクリングしているんだ、事故など起こしたことはないぞ」
「これで、事故になって、新聞にものって、夜に爺さんが自転車で事故に遭ったと名前も出たら、こどもたちも大恥を書くでしょうが」
「事故、そんなもんがあるか!!」
「あんたはどうかしてる、ボケがはじまっているのかしらね、止めなさい、雨の夜にサイクリングするなら、部屋の掃除、片付け、食事の後片付け、書棚や書類の整理、本の廃棄処分、なんぼでもすることはあるじゃないのっ!」
「ふざけるな、家ン帰ってまで勤めするか」という口論をかわしたわけである。

 この口論の根底をなしているのは、人生を遊びで過ごすか、実用で過ごすかの優劣を問うという価値観の対立であるようだ。ぼくは、基本的には、人はこの下らぬ社会に生きる限り、遊べる時間をそれなりに最大限に確保しなければならないとする。先日ひさしぶりにあった三木ちゃんは、またもや残業、残業の日々に追い込まれていた、彼女の音楽や芝居に対する感性を生かす時間が、学校事務に収奪されつづけているのだ。帰宅が毎晩、土曜もなしに午後10時ごろというのだ、それもこの残業の減ることは、見えないというのだ。現在の正社員にもどこにもありうる話だ。なんという卑劣な労働制度の現実であろうか。まさにヒトゴロシである。なんとか、彼女に言ったことは、まずは同僚と話し合って、一時間だけ残業を減らす事務処理の合理化実現するように、それを実現して次のステップに移行することと言うしかなかったのだ。と、彼女もそれをかんがえだしたところと、話に乗ってくれたのだ。いかに自分の人生に自分の遊び時間をぶち込んで確保するかが、あらゆる人がそうすることをと、これが、ぼくの念願である。

 本当の遊びの種類や方法を広げるために、テレビと読書の習慣を排除して、それに劣らぬ方法をもさらに確立できないかと、探しているともいえる。テレビと読書なしにも遊べる、充実できる手段は、あるはずと探しているわけである。今年の秋まで、このような夜を過ごしてみようと思う。まだまだ夜は長いが、残業に駆り立てられる人に比べたら、この遊びもまた快楽にすぎない。しかし、何かが見えるかもと思う。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

喫茶店ai 愛の人生

2012-06-13 | 生き方
  ここ10年ほど、綾町でテント劇どくんごの上演をやってきていた川野幸三さんに一年ぶりに会った。そのときの四方山話に末広町の古民家を改造した喫茶店「ai」が開店したという話を聞いた。喫茶店好きなぼくには、気をそそられる美味しい話であったので、すぐに出かけたのだが、見取り図が不正確のため、たどり着けずにいた。この日曜日、図を宮崎市街地図と比べて、aiを訪問することができた。末広町は、表通りは県庁前からまっすぐに西へのびた明治末からの旧街道である。この通りはまだ昭和40年代の面影を感じさせる店がシャッターを下ろして並んでいる。日曜日でも人っ子一人通らない淋しい町となってしまった。この通りの裏に屋敷が広がっていたとは、あまり知らなかった。ただ表の錆びたトタン壁や廃墟になった食堂、商売を止めた瓦屋、その間に並ぶ麹やとか薪店、漬物屋とかノスタルジーを求めてくることはあったが、裏の住宅街には、あまり関心が向かなかったのである。aiはその屋敷の一つ、角地の屋敷であった。優に300坪はあるかという敷地の西北の住宅を改造し喫茶店になっている。

 庭を入ると、正面のドア越しに背の高い男性が、1人だけ明るくは無い部屋立って、ぼくを見下ろすように立っているばかり、思わす今日は休みですかというと、笑顔で開いていますと招かれたのであった。室内もかなりの広さであり、カウンターの前にはグランドピアノが据えられていた。カウンターは、この部屋の正面から左の部屋にまでのびており、その部屋や柱の影になっているので、複雑な陰影が部屋にあり、落ち着いた雰囲気をかもしていた。いろいろ細部を見たいので、川野さんから紹介されてきたと挨拶すると、かれつまりオーナーは、すぐに改造、開店の話を語ってもらえだした。住宅は築40年ほどだが梁はわざわざ100年くらい経ったものを用いたという、その真っ黒い梁が下のグランドピアノとマッチしていた。

 ピアノは奥さんが結婚する前から習っていて、今は弾いてないけれども調律だけは毎年ずーっとやってきているといわれた。ここでイベントもやってみたいというので、このピアノの存在は大きいと思うのであった。室内の壁や部屋の改築はもちろん、カウンターやテーブル、イス、それと食器類の棚、書架まで全部、川野幸三さんの製作であると聞いて、改めて室内を見回すのであった。かれのこうした店舗設計や製作は、日高本店の3階のギャラリー(1995年ごろ)や、同店の毎年開催されるミックホールの展示場設計・製作などをみてきたが、この喫茶店は、一番落ち着いているように思えた。

 話は、屋敷の残る界隈として、小戸小学校南の通り、松橋町の川野酒造の石倉などの話をした。どこもかしこも一変してしまいましたが、この北の元宮町や高松町にまだ昔の面影はありますね、高松には清武の財閥谷口家の門灯庭付きの貸家4等と長屋があったのですが、数年前に全部駐車場になってしまいました。ここは高松町角の福林寺からまっすぐきたところですね。お寺の町は、戦時中は恵比寿町といい、その以前は涙町といっていたのですけどと、話をすすめたのも、かれは他県から移住してきたと想像したからであった。実は宮崎市出身であった。上野町の帝国館の近くがこどものときの遊び場でしたが、学校を出ると延岡で過ごしてきたので、今では地名がぴんと来ないというのであった。

 「私の家は、帝国館の隣の今村羊羹だったのです」
 
 今村羊羹、この一言、この店名、これがぼくに衝撃を与えたのである。なんという奇遇であろうか。人生にはこんな偶然が起きるのかということが、まあも私を揺さぶりだしたのであった。

 「今村羊羹ですって!それならお姉さんか妹さんがいらっしゃるでしょう。じつは、その人と日向幼稚園から第2小学校(現小戸小学校)まで一緒でしたんです。こども心にも大変な美人でした。すらりと背も高く、いつも綺麗な洋服で、勉強も出来て先生の覚えもよく、なによりも上品でしたね。」

 「その今村さんに、ぼくはいたずらをしたのです。小学校一年でしたか、今おぼえているのは机の並びですから幼稚園ではなかったようです。昼ごはんのときに、すぐ斜め後ろで食事をしていたのを見て、自分の弁当からこぼれたご飯粒を彼女がよそを向いた瞬間に指ではじいて、洋服にとばしたのです」

 お上品な彼女がご飯をこぼしたらどうするのか、それが見たかった。いや、お上品ぶりをひっくりかえすという意図もあったのです。今村さんが気付いた瞬間、ぼくは、ごはんをこぼしたぞと囃子たてたのです。そのとき、彼女は、息が詰まったような凍てついたような表情で、ご飯つぶを指でつまむと、丁寧に口に入れて食べたのです。それはぼくの弾いたご飯だと、調子づいたぼくの前で、彼女は一言も発せず、黙って目をそらしたまま、食事をつづけていったのです。その悲鳴も上げず、抗議もせず、動きもせず、無言で堪えた今村さんの反応に、わたしはショックを受けたのです。もし彼女が担任教師にこのことを告げていたら、竹の鞭で首筋をいつものようにたかられるはすでした。それはなかったのです。

 その後、教室で彼女とどうなったのか、あれから口をきくことがあったのか、記憶はこの瞬間しかないのです。ここだけがスポットとなって残っているばかりです。あれから映画の帰りに今村羊羹の前を通るたびに思い出していたのですが、帝国館も閉館してしまい、店もガラス戸がいつも閉まっているようになってしまいました。あれから何十年、それが今、突然に、この記憶がよみがってきているのです」

 今村さんのことは、記憶に長く残っていた。喫茶店aiを訪ねて、そのオーナーが、忘れられずにいた今村さんの姉弟であるとは、奇遇も奇遇である。あのご飯粒のいたずらから、こんな遭遇を迎えるとは、ちょっと言葉を失うほどであった。今彼女はどうされているのかということで、現在は、神奈川県の川崎市で健康にすごされているという。NHKの職員と結婚されたということだ。これを聞いて、いかにも彼女らしい人生を送られたのだと想像できたのがうれしかった。どうかよろしくお詫びをと、頼むのであった。

 マンガの安倍夜郎作「深夜食堂」は、人生の不思議な縁が、深夜から夜明けまでの吹き溜まりのような小さな食堂で展開する物語である。映画にもなって店主を小林薫が演じて人生のささやかな縁が食欲と心をみたしてくれる。ユーチューブで視聴できる。この映画の完結編で、店の常連の若者が、やっと旅にでて、自分を見つめ直そうと旅たつとき、店主が「人生なめんじゃねーよ」とエールを送るシーンで終わる。人生はどんな些細なことでも繋がっていると思う。ありがたく思って生きるしかない。
 
 喫茶「ai」 への行き方。橘通り2丁目の「日高菓子店」なんじゃこらだいふくで知られている。この店から西へ進むと200メートルでバイパス道路となり、300メートルで、天満橋からのバイパスと交差する。十字路になるが、前方は進入禁止の狭い道路、この道路の最初の角進行方向の左にaiはある。自動車はこの道路には侵入できないので、左折、川野酒造の石倉のみえる路を入り、最初の角を右折して同店の正面に至る。 
コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

幸福な朝が来た

2012-03-19 | 生き方
  今朝は晴、暖か、チップを散歩に連れて歩いていると、異様なほどの幸福感につつまれていくのを感じた。この感じはなぜだときづくと、なんといつものチップの散歩と違って、この労役からの開放感からもたらされているのを知ったのだ。

 毎朝、毎夕、雨の日も、寒風であろうと、猛暑であろうと、一年中、一日足りと休みのない朝夕の犬の散歩が、なんとも快適に変わった朝であったのだ。ゆったりとした、雲の漂うおだやかな朝、寒気はなく、じとしとした雨降りでもなく、老犬とぼくは、なんの苦痛もなく、のんびりと通りをぶらぶらと歩いているという状態であったのだ。老年チップは13歳をこえまもなく14歳、人間でいえば82歳に達してくる、左目は緑内障ですでに失明、右足の股関節が故障、気管支炎に小一ヶ月ほど悩んでいる。心臓の薬は、死ぬまで服用しなければならないといわれている。よたよたとして歩き、じつに頻繁に立ち止まり、試案下にようやく次の一歩を踏み出す。

 寒冷の朝、震え上がるのは、チップよりもこっちだが、よたよたされると冷気がたまらなし。雨のさなかによたよたされ、泥水を跳ねながら襲ってくる自動車を路地で避けながら、歩くと早く歩けよと叫びたくなる。こんな散歩が1月、2月、3月と休み無くつづいていて、今朝は春の朝となっていたのだ。これからは、春なんだという、変化、これが全身の開放感となってつつんでくるのだった。おまけに夕べ、風呂に入れて毛並みを洗ったチップの体は、若いときのようにつやつやとし、彼ものんびりした散歩ぶりであった。

 なんとう単純な幸福の到来であろうか。この悪天候の連続が3ヵ月もつづいていたから、この開放感が楽しめるのだ。この不愉快きわまる、冷気寒風、じとじと雨がなく、日曜日のない13年間の労役散歩が無かったらこの開放感は、味わえなかったはずだ。毎日がサンフランシスコやホノルルのような晴天の毎日であったら、その切れ目のない晴天の毎日であったら、この幸福感が味わえることは、ありえない。人生の幸福というのは、不幸という背景がなければ浮上できない。これは、晴れのち曇りというか
干天の慈雨というか、じつに有り触れた、常識的な格言に古来からいわれてきている人生の真実にすぎないが、今朝、なんと、突然、あらためて、老犬チップの散歩で確認しえたというのが、愉快であった。

 不幸があるからこそ幸福である。不幸でなければ幸福はない。不幸は実は幸福であり、幸福はそれだけでは不幸である。こんな春が来た。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

フェイスブックの愉しみ(快楽)

2012-03-03 | 生き方
 実はとうすれば、フェイスブックから快楽を引き出せるかと、かんがえながらはきているが、一歩の踏み出しができないでいる。つまり、そこまで手がまわらないというか、そんなことを考えている暇がまだないのだ。この間すでに半年余もながれてしまった。年末には、なにかをやれそうとフェイスブックのノートの書き込んだところ、数人が「いいね」」というチェックがあった。その後何も投稿していない。おどろくべきことには事務局は、ほとんど一週間おきには、誰さんと誰さんが、誰のコメントにいいねとしたとか、知人の今日は誕生日とか、この人はあなたのお友達じゃないとか、こんなイベントのお誘いが誰さんからありますとか、知らせてもらえるのだ。この勤勉さ、粘り強さ、持続力を見せられ、ほとほと感心させられている。このメールが、とどかなかったら、すでにフェイスブックを降りていただろうと思う。

 実は、あれから、これまで、上演にともに関わったり、企画をしたりした、知人以上ともだち・恋人以下のだれさんかれさんが、友達承認の要請をしてきたが、承認する気にはなれなかった。理由は簡単、なんで、わざわざフェイスブックでやりとりをするような手間をしたいのかという理由不明のことだからだ。電話一本で連絡できるわけだから。

 考えてみると、ぼくは、人の誕生日とかにはなんの興味もわかない。自分が企画するイベントのほかにどんな優れたイベントがあるというのか、わらわせるなという傲慢さをもっている。同窓会は、金をいただいても出ない。ぼくは、そんなことよりも、喧嘩をするとか、まわりの奴の悪口を言いまくるとか、あんな奴の顔もみたくないとか、こんな話が、極上のうまみと清新な活性をもたらしてくれるのだ。それが批評の根底であると、信じている。だから、あ奴の不幸が味わえる話とかに、この宮崎市でのなによりの快楽を感じるのである。ぺらぺらとお上品なことを会話して、なんの役に立つというのか、そんな話は聞きたくもないし、もちろん、だれかれと見境もなく、この悪口・不幸話をするほど、アホにもなれないので、毎日の日常は、耐え難い時間なのである。しかし、今、フェイスブックはぼくにっとって、まさに日常なのである。悪口やあやつの不幸話を投稿したいと思いをもつぼくには、およそ常識はずれの場違いの場であるようにも思う。しかし、フェイスブックの可能性は、快楽という世界への可能性は、必ずあるというのが、またぼくの立場である。今すこし、とんでもない悪い仲間と快楽を共有できるかどうかを、探ってみたいという意欲は残っている。ただ、後、一年くらいはかかると思う。もう少し、ぼくの投稿が開始できる日を気長に待ってほしいと、ひとえにお願い申し上げたい。

 実を言えば、フェイスブックは、世界を変えられるという思いがすてられないのである。 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

この青空も敵の空 この山河も敵の陣 

2011-07-04 | 生き方
 このタイトルは、「空の神兵」の歌詞である。もちろん「空の神兵」は軍歌である。前回に述べたように、軍歌を超えた普遍性があると言ったが、それを語ってみたい。この一節は、じつは、曲そのものを聴き、前後の歌詞を知り、その中から生まれてくるイメージを直接耳にしていただけば、もっと話はわかりやすくなるはずである。

 1942年に発表されたこの曲は、およそ日本の戦争中の軍歌とは想像も出来ないようなエキゾチックな雰囲気で始まる。なによりもおどろくのは、まさに敵国のどこか西欧の広い野の村にある教会の鐘の響きとともに曲ははじまるのである。もしくは、勇壮な軍歌らしい前奏のメロディで、歌詞が始まる寸前に、この鐘の音が響き渡る。それは空をイメージさせるのだ。その空に落下傘が開くのだ。戦闘よりも、落下傘が開く美しさに作詞家梅木三郎と作曲 高木東六は意を注いでいるのがわかる。この導入部の美しさに聴くものはまず打たれずにおれない。その一番の歌詞は、

  藍より蒼き 大空に大空に たちまち開く 百千の 
  真白き薔薇の 花模様  見よ落下傘 空に降ふり  
  見よ落下傘 空を征く 見よ落下傘 空を征く

である。ここには、落下傘の美を歌う以外のなにもない。戦争中に軍部にむけて、このような大胆な歌詞を冒頭に置いたのは、稀有のことといえよう。

 つぎに問題の2番の歌詞は、以下のようである。

  世紀の華よ 落下傘 落下傘 その純白に 赤き血を  
  捧げて悔いぬ 奇襲隊  この青空も 敵の空 
  この山河も 敵の陣 この山河も 敵の陣

である。ここで、ようやく軍歌、つまり戦意高揚がうたわれているが、それでもなお、軍歌とはどこか違う。それは、パラシュートで空を降る若き兵士の赤き血を捧げて悔いぬ、純粋きわまりない心情を感じさせるからである。大空で孤独である。しかし、怖れない。この決意で空を降るかれらの美しさに感動させられる。戦闘ではなく、人を歌っているのだ。もし、この敵ということばを「困難」とか「不正」とかに置き換えてもいい。これは人生の在りかた、現実を象徴している。青臭いとよく言われるが若者の純粋性は、社会と戦っていかねばならぬ孤立を、抱え込む。それは人生の現実であろう。こう思い、その兵士に思いが重ねると、感動と、現代に生きる勇気をあたえられて、胸が熱くなる。これは戦争ではない。生きる勇気を鼓舞してくれるのである。このような解釈で、3番、4番も十分に受け止めることが出来る。

  
  敵撃砕と 舞い降る舞い降る まなじり高き つわものの  
  いずくか見ゆる おさな顔  ああ純白の 花負いて 
  ああ青雲に 花負いて ああ青雲に 花負いて

最終歌詞:

   讃えよ空の 神兵を神兵を 肉弾粉と 砕くとも 
  撃ちてしやまぬ 大和魂 わがますらおは 天降る  
  わが皇軍は 天降る わが皇軍は 天降る

 
 ここで、私が言いたいのは、すぐれて芸術は、時代を超え、普遍性をもっているということだ。この芸術性が、人々に真実を自覚させ、生きる目標と行動を示唆するということだ。たとえ、戦時中の軍歌といえど、芸術の普遍性が滅びないということである。

 この軍歌にはジーンときて、いつでも涙することができる。あさいちでは泣けない。このドラマには、本当の現実がないからである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

台風一過の土曜日に猫の生活を想うのだ

2011-06-02 | 生き方
  土曜日に洗濯、夕べも選択した。梅雨になり晴天のつづく日は、貴重な洗濯日になる。それに太陽熱温水器から、浴槽に熱水が注水できる。この熱水を盥にも分けて、水を加えて41℃にした湯のなかに衣類を浸す。綿パン3本、下着4枚,その一枚は分厚目の長袖、パンツ一枚、靴下2足を入れて、洗剤を小さじいっぱいを加えた。夕食を終わり風呂に入り、家内も長い風呂を上がるといよいよぼくの洗濯が始まる。といっても足で踏むだけである?!!

 盥の衣類を足で踏むのだ。今回はちょっと多すぎたので、半分づつに別けた。踏みはじめると、たちまち盥は黒い泥水状態となる。タイマーで3分間、踏み、回し、踏み、回しとつづけて、汚水を捨てる。浴槽から湯を汲んで、盥に流しこむ。二度目はタイマーを2分に設定、踏み、回し、踏み回しにかかる。終わると水を捨て、また浴槽からお湯を注ぐ、再び2分に設定、踏み、回しをはじめると、すでにお湯は透明に近い水と澄んでくる。ほとんど汚れは落ちたのである。3、2、2、1分間の4回で終了、あと洗濯機で脱水をして終了する。盛夏になると、手で絞るだけにする。この盥洗いは洗濯槽内の衣類の動きを単純に真似ただけのものである。

 真っ白な下着などは、真っ白になる。靴下の汚れも落ちる。これはまた、恐るべき洗剤のパワーでもあるので、洗剤はなるべく少量ぎりぎりにしたほうがいい。

 今回は、衣類を2回に別けて、洗濯したので、足踏み回し時間は、16分ということになった。これは、ママチャリでおよそ3.5キロを走った足腰の運動量になる。この程度なら誰でも出来よう。ランドナータイプであれば、5キロ位の運動量、ランドナーでは一気に25キロくらいは走るから、洗濯足踏みは、わずかな運動量にすぎない。これも誰でも可能だと思う。どうだろう、やってみられよ。

 節電効果ということだが、省エネルギーセンターの「生活の省エネ」によると、家庭の電気消費は、エアコン〔25.2%〕冷蔵庫(16.1%)照明器具(16.1%)テレビ(9.9%)が突出、電気洗濯機はその他のなかにあるにすぎない。しかし、水道はお風呂の残り湯を利用すれば、年間6.75立方メートルを節水、約3950円の節約になるという。

 ただし、ぼくは省エネのためにやってきているのでなく、自転車漕ぎの脚力保持のためにやるわけであったが、福島原発事故以後、世界は変わった。節電、省エネは、時代のキーワードになってきた。しかし、ぼくは、犬や猫の生活を見るたびに、いつも痛感されていたことは、人間は犬・猫に劣る生活力になってしまっていることであった。つまり、生活は一指し指一本しか使わなくなってきている退廃である。洗濯はもちろん、炊事、掃除、娯楽、移動、みな火葬場で最後の火を入れるかのように指一本のスイッチを押すことでしかなくなっている現実である。前回も書いたように一匹の野良猫の母猫が、子どもを清潔に保護し可愛がる労働、巣を獲得する行動。餌さを探し与える行動、それは体全体を駆使しての行動である。その生活力の発揮に比べて、人間は、指一本しか用いない。指一本が、有害なエネルギーを発生させ、地球を老化させているわけである。最近の異常気象は、地球のこのための老化が原因であると、のべる科学者もいるのだ。犬・猫は、ゆえに人間に勝る生活をしているとは、このことである。せめて犬・猫の何分の一でもいいから、体のすべてを使う生活力に立ち返る必要があるのではなかろうか。

 この夏、節電は、もう引けないキーワードになっている。誰でも出来る節電方法一覧などもあちこちある。待機電力のコンセント抜き、エアコン対策、扇風機で部屋の空気をかき回す、冷房は家族全員一つの部屋で、照明対策、テレビ対策、音量は小さく、画面は少し暗めに、ぼくに言わせれば見らないのが、ベターか。冷蔵庫対策、 お風呂対策、残り湯は洗濯に、パソコン対策、デスクトップよりノートパソコンを使う(笑い)電気ポット対策、ポットは必要ない(これ笑い)炊飯器の対策、ご飯を炊いてすぐ冷蔵庫に保管、電子レンジでチン!(私見、これじゃ電気消費量は同じじゃが)洗濯機の対策、まとめ荒いは基本です。ほんとだろうか!食器洗い乾燥機の対策、基本的には洗いで十分・・早速対策しましょう。(いわれなくてもわかってるわ)と言う具合にならべられているのだ。読んでいくと、ほとんどギャグである。

 節電対策とは、指一本の人間生活を犬・猫生活に近づけることで、大きく前進できる。人間こそ節電機器なのではないか。また、自然エネルギーに風力、太陽熱、水力、地熱、バイオ燃料などがあるが、人力は、それらに匹敵するのではないか。国民が、足踏み洗濯をやり、週に三日自転車を移動に使えば、原発の一つくらいはまかなえるのではないか。

 原発事故以後の世界は、人間が指一本の暮らしから解放されて、犬・猫に近づく勇気と行動力を復活させることであろう。夢はかくして広がる。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする