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市街・野 それぞれ草

 802編よりタイトルを「収蔵庫編」から「それぞれ草」に変更。この社会とぼくという仮想の人物の料理した朝食です。

2020年東京オリンピックと不幸

2015-09-09 | 政治
 2020年東京五輪・パラリンピックのエンブレイムをテレビ公開で初めて目にしたとき、がっかりしたのを今でも思い出す。なんだこれ、煙草の箱か、清涼飲料の缶のレッテルにしかみえなかったのだ。オリンピックという人間ドラマも、世界の中心という存在感もない、ただ商品のモノを目立たせる幾何学的デザインにしかみえなかった。なんで、こういうものを公募の結果、決定したのかといういらだちだけはのこっていた。ところが、このデザインの盗作疑惑が発生し、かれの否定にもかかわらず、かれの他の作品に盗用がつぎつぎと発見されて、ついに作者、佐野研二郎デザイナーが撤回を組織委員会に申し入れ、撤回されたわけである。はじめ、公募条件などと考えてもみなかったのだが、今度は、公募条件をゆるめるなどという報道をしって、最初の条件はどうだったのかと、にわかに興味がわいて募集要項をみると、以下のようなものである。

 「応募資格があるのは、東京ADC賞やTDC賞、ONE SHOW DESIGNなど組織委員会が指定した国内外の7つのデザインコンペのうち、2つ以上を受賞しているデザイナー。エンブレムはオリンピックとパラリンピックの両大会を対象に様々な場面で活用されるため、単なるアイデアだけではなく、様々なシーンでの汎用的な使用も考慮したデザインであることが条件になっている。」

 まず、このばかばかしい権威づけ、聞いたこともないコンペの賞、その国内外7つのデザインコンペで2つ以上の受賞者というのだ。つまりコンペ賞さへとっていれば世界をおどろかす作品が可能という、その意識があるのだ。しかして、その結果は煙草ケース・缶ジュースのラベルになったのだ。むしろ既成の受賞者よりも、未知のアウトサイダーのほうに、時代を動かすアーティストが潜んでいる確実が高いはずである。曽木委員会のメンバーには、アートのそういう常識さへないのだろうか。その愚弄さにおどろかわれる。さらにエンブレイムについては、様々なシーンでの汎用的な使用も考慮したデザインであること」という条件も付けられていた。なるほど、これじゃ、商品パッケージにもなるようなデザインになるだろう。一方では、国の威信、他方ではさまざまのシーン、この意味の格好付けした文句にそって、応募者は、煙草箱やジュースの宣伝ラベルにも使用可というデザインに至るのをさけられなかったのかと、思うのだ。で、その賞金は、デザイン料と著作権譲渡料を含めて100万円というのだ。1000万円のマチガイじゃないかとおもえるほどの金額である。

べ この公募にうかがえるのは、大衆を、つまり安倍首相のいう「国民のみなさま」を愚弄した、下位にみた、権威こそすべて、であるというかれの知性の低さ、そして、国民を教導せんとする思い上がりと、に従った役人根性である。世界の中心で美しい日本をさけぶという趣旨のオリンピックはないよりもそこに人間個人の存在は、じつは消えているのだ。こうみたとき、すでにその不幸は、この前のイラクの建築家、ザハ・ハディドの新国立競技場の設計撤回にも、おなじ権威主義があったと理解できる。あのグロテスクな巨大感だけが売りのような建築物が、日本の存在の権威づけに適すると、組織委員会が、思い込んだと考えられる。だが、コストが高過ぎた、というより、やはり大衆感情を逆なでするような国威発揚の不快感が、人々の反感を買ったのだ。大衆はばかでなにのだ。

 今、東京オリンピック開催は、国民を上からの教導という安倍政権の本質が生み出している不幸なのではないか。かくして、不幸は条件がのぞかれないかぎり、なんどでもつづくと思えてならない。ことわざにも言う、不幸は重なるもの、二度あることは三度ある、不幸はつづくもの,Misfortune never come single.不幸は重なるものである。もう一つ条件をつけくわえるならば、異常気象の5年後は
どうなっているのか、原発が災害に遭うかもしれないのだ。
 

 
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2020年東京オリンピックと不幸

2015-09-09 | 政治
 2020年東京五輪・パラリンピックのエンブレイムをテレビ公開で初めて目にしたとき、がっかりしたのを今でも思い出す。なんだこれ、煙草の箱か、清涼飲料の缶のレッテルにしかみえなかったのだ。オリンピックという人間ドラマも、世界の中心という存在感もない、ただ商品のモノを目立たせる幾何学的デザインにしかみえなかった。なんで、こういうものを公募の結果、決定したのかといういらだちだけはのこっていた。ところが、このデザインの盗作疑惑が発生し、かれの否定にもかかわらず、かれの他の作品に盗用がつぎつぎと発見されて、ついに作者、佐野研二郎デザイナーが撤回を組織委員会に申し入れ、撤回されたわけである。はじめ、公募条件などと考えてもみなかったのだが、今度は、公募条件をゆるめるなどという報道をしって、最初の条件はどうだったのかと、にわかに興味がわいて募集要項をみると、以下のようなものである。

 「応募資格があるのは、東京ADC賞やTDC賞、ONE SHOW DESIGNなど組織委員会が指定した国内外の7つのデザインコンペのうち、2つ以上を受賞しているデザイナー。エンブレムはオリンピックとパラリンピックの両大会を対象に様々な場面で活用されるため、単なるアイデアだけではなく、様々なシーンでの汎用的な使用も考慮したデザインであることが条件になっている。」

 まず、このばかばかしい権威づけ、聞いたこともないコンペの賞、その国内外7つのデザインコンペで2つ以上の受賞者というのだ。つまりコンペ賞さへとっていれば世界をおどろかす作品が可能という、その意識があるのだ。しかして、その結果は煙草ケース・缶ジュースのラベルになったのだ。むしろ既成の受賞者よりも、未知のアウトサイダーのほうに、時代を動かすアーティストが潜んでいる確実が高いはずである。組織委員会のメンバーには、アートのそういう常識さへないのだろうか。その無知におどろかわれる。さらにエンブレイムについては、「様々なシーンでの汎用的な使用も考慮したデザインであること」という条件も付けられていた。なるほど、これじゃ、商品パッケージにもなるようなデザインになるだろう。一方では、国の威信、他方ではさまざまのシーン、この意味のあいまいさ、こんな格好付けした文句にそって、応募者は、煙草箱やジュースの宣伝ラベルにも使用可というデザインに至るのをさけられなかったのかと、思うのだ。で、その賞金は、デザイン料と著作権譲渡料を含めて100万円というのだ。1000万円のマチガイじゃないかとおもえるほどの金額である。

 この公募にうかがえるのは、大衆を、つまり安倍首相のいう「国民のみなさま」をバカにした、下位にみた、権威こそすべて、であるというかれの知性の浅はかさ、そして、国民を教導せんとする思い上がり、その天命に従った役人根性である。世界の中心で美しい日本をさけぶという趣旨のオリンピックはなによりも必要な、人間個人の存在は、じつは消えているのだ。こうみたとき、この前のイラクの建築家、ザハ・ハディドの新国立競技場の設計撤回にも、おなじ権威主義があったと理解できる。あのグロテスクな巨大感だけが売りのような建築物が、日本の存在の権威づけに適すると、組織委員会が、思い込んだと考えられる。だが、コストが高過ぎた、というより、やはり大衆感情を逆なでするような国威発揚の不快感が、人々の反感を買ったのだ。大衆はばかではない。

 今、東京オリンピック開催は、国民を上からの教導という安倍政権の本質が生み出している不幸なのではないか。かくして、不幸は条件がのぞかれないかぎり、なんどでもつづくと思えてならない。ことわざにも言う、不幸は重なるもの、二度あることは三度ある、不幸はつづくもの,Misfortune never come single.不幸は重なるものである。もう一つ条件をつけくわえるならば、異常気象の5年後は
どうなっているのか、天候異変、超台風、噴火、巨大地震と目白押し、再稼動しだした原発が災害に遭うかもしれないのだ。2020年夏にである。
 

 
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安倍戦後70周年談話と、みんなの広場投書(毎日新聞投書欄)

2015-08-26 | 政治
お盆休みの二日目2015年8月14日、安倍談話を聞いた。うん、なるほど、いいじゃないかと、戦後70年の談話としてわが国の侵略戦争のまちがい、その謝罪、そして反省と、戦争放棄の戦後70年の平和主義
を誓うという、いつもと違って聞きほれていた。ところが、これで終わるかとおもったところ、まだまだつづきだした。おわるどころか、ここからが本番とばかり、わが国がなにをアジアで貢献したか、これからどうするかとことばがながれていく。そのうえで、国民の立場大きく前面に出てくる。それを聞くうちに、だんだん社長が、えんえんと社員に訓話を垂れるのに似ているとかんじだした。わが会社つまり「わが社」を発展させること、わが社の社員としての誇りと使命とかが、いかに世界に貢献できることであるとか、聞いていて気分はだんだんしらけてくるのだ。第一、「会社」とははあんたのものじゃないだろうという気分、なにがなんでも会社に尽力をささげる使命などと、やってられうかという気分に似てきたのだ。

 こいつはぼくの安倍嫌いの偏見がなせる業かと、やっとおわった安倍首相談話がテレビから消え他跡で思ったのであった。翌日、毎日新聞に談話全文章というのが掲載された。文章なら、感情的にならず、判断できるはずとさっそく、読み出した。すぐに形容詞や修飾が、数多くあるのに気づいた。挙げると「二十世紀という時代を、私たちは心静かに振り返り」とか、「広大な植民地」「悲惨な戦争」「壮絶な犠牲の上」などなどがつづく。心静かにとか悲惨とか壮絶という形容は、戦争や犠牲、そして反省を、おおげさな修飾によって、かえって本当の現実を黄な粉まぶすような甘いものにしてしまっているのだ。
 
 もう一点は、美辞麗句が、あちこちに散在している安倍主観的表現である。「祖国の行く末を案じ
家族の幸せを願いながら、先人に散った方々。」映画のシーンじゃあるまいし、甘すぎル形容ではないか。「灼熱の、遠い異郷の地にあって、飢えや病に苦しみ、なくなられた方々。」こんな流行歌の言葉で戦争で犠牲になった兵士や市民の死が総括できるものではないのだ。そして、どこまでもこの種の文章がえんえんと流れ出していく。「一人ひとりに、それぞれの人生があり、夢があり、愛する家族があった。」いまさら、こういうことを言うよりも、もっと切実な平和への実現への具体的な意思、つまり謝罪と反省と不戦を、よけいなことばをつらねるより、ばしっと一言と極めればいいのだ。だが、それをしないで、かくもつづくのはと、かんがえてみると、謝罪と反省が、美辞麗句でなされるということ自体が可笑しいのだ。この部分は、ほかの主題と関係しているのではないかと思えることだ。

 そうかんがえたとき、わかってきたのは、安倍首相の胸中にあるものだ。それはお詫びと反省ではなくて、それよりも日本国への偏愛である。あやまります、土下座もします、それでもわが国は偉大なのですという感情である。ぼくが、テレビ談話を視聴しながら、だんだん社長訓示におもえだしたことは
この社長の高揚感であった。そして想った。戦争はだれが起こしたのかということだ。一般大衆、徴兵されて何百万人と戦死した人々は、国家権力の起こした戦争の犠牲者にすぎなかったのだ。「今なお、言葉を失い、ただ断腸の念を禁じ得ません」といわれているが、いったい、さしあたりそうしているのはどこのだれなにか、じつにあいまいである。日本人みんなのようでもあり、だれひとりそうでもないようでもある責任不在のあいまいさが漂う。まるで、自分自身がしているような高揚感の独りよがりが忌々しいではないか。

 文章が長すぎる、本質がぼやけている。このとき、ふと脳裏にうかんできたのは、ときどき毎日新聞の投書欄「みんなの広場」の文章である。ここには、戦争について、平和について、日本と世界について、明晰で主題の透徹した説得ある文章にたびたび出会える。長さは400字内外である。しかし、なんという無駄のない、わかりやすい、そして真実である文だろうか、それでいて、かれらのほとんどは文筆にたずさわる人ではないようだ。世界に向かって発信する文章なら、有識者などにたよらず、一般大衆に1000字限定で公募したほうが、おそらく比較にならぬくらいの優れた談話を見出しうるだろうと想う。二言目には有識者のご意見とか、ご検討をいただいた結果とか、錦の御旗のような権威付けも、それほど意味があるわけではないのを、現実に知らされた思いのする戦後70周年談話であった。世界のみなさん、どうか、新聞投書欄の読者の文章もぜひよんでいただきたいと念願してます。

 
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熱中症と全体主義

2015-08-04 | 政治
 先週水曜日から、宮崎市も猛暑という日々となってきた。午後からは、ぼくの事務長室の南の診療棟との間には海岸からの東風がびゅうびゅうと吹きこんでくる。午後3時頃はそこに椅子を出し、熱いお茶をすすり一時間ほど過ごしている。吹き抜けの天井をもつ、ギャラリー兼用のの事務長室(通常一人執務)では、クーラーは使用せずに扇風機だけである。たまに院長(長男)がが顔をだして、なぜクーラーをかけないのかと不審がってきたが、必要がないと返事してきている。やがて、パソコンが傷むとか、使用しなければクーラーもダメになるから、かけよと命令しだした。じゃ、かけるからといって、じつは、かけない。窓を閉めてしまうのは、はなはだ不快、この開放感には替えられない。

そうこうするうちに毎日、テレビで熱中症が事件のように報じられだした。今年も盛夏になったのだなと、熱中症報道を、帰宅し、夕食のあと、風物詩として、その数字を眺める。この時はもちろんクーラーは、かけている。なぜかけるのか、住宅ではかけなくては過ごせないからである。クーラーなしには不快だからである。事務長室はかけないほうが快適、自宅の居間はかけたほうが快適だからである。要は、快、不快が基準であるにすぎない。  

クーラーは熱中症予防のために使用するわけではない。最近は、救急車で搬送される熱中症患者は1000人を超えるようになった。そして、危機感を募らせる、アナウンサーの声を聞き、数字を眺めると、熱中症が、日常身近に迫っている猛暑の日々を、えらいことだと感じだす。だが、しかし、ちょっと数字を分析してみると、この数は、平成二七年夏の国内日本総人口1億2699万人(総務省統計平成27年7月1日現在)の1000人内外である。その割合を計算してみると、およそ0.000008人である。10万人に8人ということ。ということは、ほとんどの人が、熱中症患者を目撃することはできないということである。だれか、ご近所で、職場で、熱中症で倒れた者を見たことがあるのだろうか。ぼくはかって見たことはないし、これからも見ることはないはずである。この患者に出会うのは、ジャンボ宝くじで100万円が当たる確立に相当する。当たらないし、死ぬまで一万円ずつ買い続けても当たらないということと同じである。つまり、普通の日常生活を送っていれば、熱中症にはならないということである。
 
そればかりか、かなり過酷な炎天下でもならない。ぼくは、その実験も気温36度以上になる猛暑日が週末であると、サイクリングをして試してきた。このブログにも、そのことを何度か発表している。午前11時ころから午後3時ごろまで、炎天の野や日陰のないバイパスの勾配を上下できる往復して50キロくらい走行するのだが、かんかん昼間を、西都市まで走ることであるが、危険をかんじることはなかった。首に湿ったタオルをまき、手首までの黒シャツをじかに着て時速17キロで走行すれば、紫外線をカットする黒シャツだけでも冷やりとするが、湿ったタオルは体温を奪い、クーラーとなる。半時間ごとに自動販売機での飲み物は、最高の玉露だ。要は、無理しない走りを、すればいい。ギヤは24段階ある。その最適の組み合わせで脚力を抑えられる。ただこれは経験がいるかも。そして、炎暑の熱気の陽炎のなかを走るのは、空中を飛んでいるような快感がある。

 というような体験を述べるのだが誤解しないてもらいたいのは、ぼくは、人一倍元気だということではないのだ。標準的な『老衰』を日々味わい、顔にはしみができ、関節は軋み、ラジオ体操は、できないといっていいほどぎこちない。まっすぐ歩けず、肩や足はがたがたとして、年中痛みや故障が発生しはじめている。僕自身は高齢疾患群と名薬もかかせないようになっているのだ。その高齢シンドロームでも、日射病にはかからないということを証言したいだけのことである。
 

 そしてもう一点強調したいことは、テレビ報道の数値などは、つねに相対化して、計算しなおしていくことである。つまり、自分の判断を中心にすることを習慣づけることを、しようじゃないかという点だ。安倍政権が、推し進める全体主義への抵抗は、それこそ熱中症への予防どころのいい加減な問題ではないのだ。一人、一人が、疑えること。われ疑う、ゆえにわれありという、個人の能力を高めることこそ、この盛夏の課題であるということを伝えたいのだ。
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橋下さん・民主主義 うん?

2015-05-18 | 政治

 大阪都構想は否決された。ぼくは反対派で、午後9時から開票速報を眺めだしたのであった。そして10分も経たぬ内に、賛成が、反対をうわまりだした。その差はあっという間に、五千なり、すぐに一万をこえてきだした。もはや決着がついやようだと、呆然として速報値を眺め、疲れがどっとでてきた。ところが、そのころから全投票各区別の投票率、反対・賛成の投票数が報告されだした。そこで、注意を呼び覚まされたのは、この時点でも、まだ開票が4パーセントとか、8パーセントとかで賛成1000と反対1000とか、なかには4パーセントで500対500があるのが、報告されだしたのである。そうした区は、低所得者層が多いとか、高齢者マンションの地区とか、人工密集地帯とかと、説明があった。やがて、多くの区の開票が終わっていくなかで、まだ集計が数パーセントという区が、一つ、一つとあらわれだした。そこで思え出した。この開票がなぜか遅れていて、しかも賛成・反対の差が無い地区とは、高齢者、低所得者層、人口密集地帯などなど、そこに、逆転の可能性がありそうだ。他方、その差は5000位になってきていた。未開票の地区はまだ5地区あり、まだありそうだ、その地区でそれぞれ反対が賛成より1000票を越えれば、逆転できると確信できたその臨時、臨時ニュースで賛成派が勝ちました、と出口調査の結果が報じられたのであった。午後10時半ごろであった。終わった、これで眠れる。明日は、忙しいのだ・・・だが、橋本さんの心境を聞きたい、その本音を。

 11時10分に、橋下さんの記者会見がホテルであるということで、がんばって目をさましつづけた。ほんとうに彼は政界から身をひくとうのかと、この弁を聞かずに就寝できるわけがないと、かれの登場を待ったわけである。

 登場したかれは、これまでテレビで見た表情でもっとも魅力に溢れ、語りも爽やかで、ある種の感動をも与えてくれた。一流の役者だな、これでもう一度人気があがるだろうなと、かれのキャラの吸引力に驚くのであった。

 かれは満面の笑みをたたえ、「民主主義は素晴らしい、民主主義の日本は世界一」と。ぼくが彼に政治界から引退してもらいたいとううののは、ここのところなのだ。民主主義というのは、個人の力に基礎が置かれる。一人、一人の判断力、その判断を可能なかぎり保障する制度のうえで、真価を発揮する体制である。今回、これまでも彼がやったのは、宣伝とスローガンの波状攻撃であった。如何にして、賛成表となる大衆を生み出すかに、全精力が注がれた、今回の結果が若者を中心にして積みあがり、僅差の結果をもたらしたというだけである。イメージでもって、大衆を絡め取るは、全体主義である。全体主義の身体を民主主義の衣でおおった、一人の政治家が、破れ敗退し、政界を惹くと、ここは未練なく誠心に語り続けた。この点では感銘させられたこれは立派である。政治家をやめるというのは結構なことである。

 最後に「独裁者は使い捨てが一番だ」と橋下さんは、なんかをふっきたような満面の笑みで、宣言した。しかし、独裁者が自ら身をひくことはない。独裁者の首を切るのは、ひとりひとりの判断力にたよるしかい。その判断力の正当な集計が、なされていないという現実をあまりに忘れた言い草ではないかと、思えるのである。

 
 このとき痛烈に思うのだが、「おいちょかぶ」のようなことを日本人に強制して、丁か半かで、都構想や道州制を決めたり、ついには、日本国憲法の改正をきめることになるとは、民主主義の最悪の利用にすぎないことを、あらためて知らされたおもいである。
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ピケティ現象

2015-01-31 | 政治
またまたベストセラー本のわけのわからぬ日本人の読書行動が起きている。ピケティの「21世紀の資本」が売れまくっている。去年の暮れにぼくもつたや宮崎店で、手にしたのだが、統計を駆使した分析という分厚い600ページの本を読解する暇はないということと、6千円という価格、また読んだ後の置き場もないということで、買う気はしなかった。ところが、これがベストセラーとなりつつあるという。一体どんな層が買いかつ読むのだろうか。いや、いつどこで、600ページの難解な読書を持続するのだろうか。学生も一般人も、本を読んでいるシーンを見たことが無いのだ。ぼくは、ややこしい本は、温泉に行っては、ラウンジで読んできた。かれこれ10年は一年のうち何十日はそうしてきたが、その間、本を読んでいる人をみたことは、まったく無い。だから、家内は温泉で本をよまないようにと文句をいう。難しい本はたいがいものものしいハードカバーの本である。見たからに重々しく近寄りがたい、こんな本を温泉の休憩室で読むというのは、私はこんなに教養があるというのを、見せびらかすという卑しい自己顕示でしかないというのが理由である。いわれてみるとその通りだ。ただ、目が長時間酷使できず、温泉で血液の流れとどこりなく、かつリラックスできて集中できる時間は、ぼくにとってかけがえのない読書時間なので、他人の目などはかまってられないのだ。それほどに大衆から読書という週間は消えてしまっている。本のベストセラーというのは、どこからとなく、100万単位で、読む人が現れてきて大衆現象となってくるのだ。だれがよむのであろうか。

 いろいろ解説をみると21世紀の資本主義社会では、格差は広がるばかりで、資産家は遊んでいてもいっそう資産がふえ資産の無いものは、働いても働いても、資産はふえないので格差がますますひろがっていくと、のべられているということだ。そして、格差を解消するには、金持ちの税金を増大して、これを貧乏人に還元するというしかないというのだ。なんだ、こんなことは、こんな大層な経済学書を読まなくても、暮らしのなかで実感している。ぼくの知人でも、たまたま街のど真ん中で自動車工場をしていたが、なんと自動車技術が進歩して修理が激減、ために工場を閉鎖したところ、その跡地を全国的なレストランに貸したので、毎月200万円の地代収入が入り始めた。あれから25年以上も経っている。かれはますます資産家となっていった。こんな例は、この産業のない宮崎市街ではごろごろと転がっている。

 だから、働かないものこそ、ますます金持ちになるという資本主義社会の非合理世界が、もはや矛盾の限界状態に近づきつつあるとき、どうするか、ピケティは、金持ちの税金を増やせというのだ。まったく当然きわまる話である。そこで、もう一度問いたい、だれが読んでいるのかである。どこから、この大衆が、地上に湧き出してきたのかである。かれらは、この格差社会の流れを変える力となりうるのだろうか。そこが問題だ。たとえば、自民党政権を支持する30パーセントの日本国民の対抗勢力になりうるのだろうかである。自民党では、金持ちから税金をとるどころか、税金を減らしていることが、貧乏人を豊かにするとしているのだ。その矛盾をどうするのか、ピケティ読者は気づくのだろうかが。読破と6000円の資源をどうか生かしてもらいたいものだ。
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兵庫県議 野々村竜太郎

2014-07-03 | 政治
 2014年7月5日今年の宮崎映画祭が始まった。午後3時20分上演の米国映画「ビフォア・ミッドナイト」から見始めることになる。願わくば、この作品がおもしろい作品でありますように、できればさすが映画祭とうならせるものであってほしい。このスタートで、がっくりするような、二度と見たくない、不愉快きわまる愚作の上演と、言葉を失うほどの傑作では、これからはじまる一週間が虹色か灰色かになってしまうのだ。これは現実の映画祭内容とは、関係ない期待感というバイアスでしかないのだが、人間の弱みだからしようがない。
 
 人間といえば、人間は犬・猫よりもはるかに劣悪な動物であると、また確認させられた報道を朝のワイドショー「トクダネ」で出勤直前にみせられて、昨日は一日中不快感が、シャツに反吐の汚物となって染み付いて仕事がはかどらなかった。兵庫県の野々村竜太郎という人間であったが、ワイドでは、案外、正直な人かもとか、まじめなのかなとか、言う言葉ももれたが、そうでもいわねば話題にもっていきようもない人間という動物であったせいかもしれない。いや、動物ではない、人間という生物とでもしたほうがいい、どんな動物であろうと、これほど下劣の意思を持って生きている動物など存在しないからである。

 かって哲学者アンナ・ハーレントは、同胞であるユダヤ人をナチ国家の命令のまま数百万人をアウシュビッツに輸送しつづけた「アイヒマン」の裁判をみつづけ、「考えない」人間の犯罪を生む体制の底知れぬ20世紀的犯罪を告発した。だが、今回のなきわめく人間は、その分類とは別の人間ということができる。この人間は、考えないのではなくて考えている。その卑劣さにぼくらは気づかねばならないと思うのだ。

 あの大泣きを法廷でやったとしたら、それは国家や現況への反抗として自分を賭した戦いとして、認めうる部分を感じたかもしれない。彼は決してそのような正義を問われる場では、やることはできなかったろうと思う。「大の男が子供のように」になってという評は、根はいがいと正直という評とおなじ間違いである。こどもでも、公の場では自制できる。とくに小学生以上になれば、学校で注意されたからといって、あんな泣きで自己主張することはしない。
 
 野々村議員は、自分が構築した会見の場が、正義を問うよりも市中引き回しの舞台であることを察知していたのだ。正義という名で、大衆の低劣の情欲を満足させる会見の本質部分に、訴えたのだ。つまり甘えたのである。そこは、かれにとっては、公の場ではなく、わがやのまさに
私的な場であり、甘えの十分に聞く、相手であったのだ。そしてかれは甘えた。泣いた、吠えた、身を捩った。ペットが、そういうことをすることがあったか、ほんと、チップ(シーズ犬14歳没モ、ムゲン(三毛猫 15歳没)もその生涯、一度もそのような甘えはしなかった。

 非動物的生物となった人間を、維新という名に釣られて一票をとうじて、県会議員にした選挙、その悲劇というか、喜劇というか、その避けがたい不備という現実をあらためて思わざるを得ない。ということで、この不浄感を映画祭に、清めてもらえたいものである。曇った蒸し暑い午後で、週末にむけて台風もちかづいてきている。
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吹け吹けど踊らず

2013-12-07 | 政治
 学生がまったく踊らなくなった。秘密保護法案という大笛が鳴り響いてきたのに学生は踊らず、笛は吹き終えた。シーンとした静かな朝が、また開けた。国家の明暗、そんなものは意識にないというのか、しかし、思えば、これは凄い自律心かもしれない。政治もここまでくると、学生は何らかの反応を起こすと思えたが、やはり踊らない。今思えば、非日常性であるテント劇団の公演とか、実験的な野外のアート展とか、外山恒一のトーク・ライブとか、路地でのイベントか、映画祭とか、演劇祭とか、街での実験的試みなどにも踊るどころか、無関心であるのを、もう15年くらい経験してきている。かれらを新しい、批判的な、挑戦的な企てに参加の声をかけても踊らなかった。笛吹けど踊らずである。情報過剰で、情報に踊らないのである。しかし、就職活動には、踊りまくっている。
 
 生きるためにはやむをえないといえば、それまでであるが、学生の大半が就職活動などは、放り投げて、社会の理想を実現しようと人生を賭けて活動するとなると、企業もかえってやる気のある学生を見つけやすくなるのではないだろうか。何万枚という休職申し込みを上場企業は、受けて、その選別をまずはアウトソーシング会社に任せている上場企業まあるという。また学生は一人平均60社に面接して回るという。こんな学生の応募を受けて、お手上げの企業もでてくるわけだ。膨大な社会的エネルギーが、学生・企業ともに消尽されているのだ。こういうことじゃ、未来の成長戦略などは夢想か、スローガンで、新年度は消えるのではないかと予想できそうだ。今朝のテレビは、女性と中高年だけが、何万人か集まっての、秘密保護法案反対のデモの実況をしていた。また作家、評論家、メダイア記者、もろもろの芸術家、大学教授などが集会を開いた。会議場の光景と、そしてかれらの反対声明(まったくどこからどこまで凡庸な宣言文であることか!!)を読む一人の記録文学者の表情を映し出した。かれの体力の無さそうな姿を見ただけで、そこに集まった知識人・芸術家の職業集団には、反対運動を持続し、かつ戦える体力と意思をかんじられず、まただれもが、暇もない暮らしだろうと、もろもろの疲れている表情から見てとれるのであった。これだからこそ学生の自由と暇と体力を集合した巨大な反体制エネルギーがいるのだが、かれらは、そういう人種、大人たちのために就職活動を犠牲にするほど、ばかじゃないと思っているようにも想像できる。かくして学生はさわがず、受けて立つ側は、女こども、中年、高齢者のデモ参加者や、声明をだした知識人も芸術家の声も、せせら笑える犬たちの遠吠えでしかなく、まもなく静かになると、安心しているのではないだろうか。まもなく新年だ、いい年が明けるとかれらは正月準備に帰郷していくのであろう。

 だがそうだろうか。表面に出たものは、大危機、大災害の兆候ではないのだ。大地震も巨大台風も兆候なく、表面に出さず、突然、躍り出てくるのだ。笛吹きにあわせて踊るのでなく自ら暴発して荒れ狂う踊りをしだすのである。11月23日彼岸の昼間、ぼくと家内は半年ぶりで、日帰り温泉に行くことにした。ここ3年余りは、温泉、温泉で日曜、祭日も元旦、正月も出かけていた。ややこしい本は、その温泉で読み上げていた。7月家内は腰椎の手術、ぼくはひざ関節強打で、温泉に行けなくなった。行かなくなると、これまた、ぜんぜん苦ではなくなるのだ。かって温泉のプールで歩行運動をしていた家内は、我が屋の台所から仏間、廊下、書斎、寝室、客間とぐるりとまわる歩行運動を始めた、着替えなくてもいいし、自動車や転倒の心配もないし、この運動は手軽でいいわと悦びだした。試しにぼくもやってみると、部屋をぐるぐる、いろんな品物を避けながら歩くというのは、以外に退屈しないでできるのを発見した。こんなことをしつつ、すごしてきた温泉なしの日々だったが、半年ぶりの温泉は、さすがに気分を沸かせるものではあったのだ。

 ところが、青井岳温泉に着いてみると、運動場ほどある駐車上が満車であった。あわてて普通は行くこともなかった隣接した第3駐車場にまわると、ここもやっと一番奥に一台分だけ見つかった。先に下ろしていた家内は、玄関に戸惑ったような顔で立っていて、どうしようもないわ、帰ろうと言ったのだ。これまで、多少の混みようでは、こちらが帰りたくても帰るといったことがなかった温泉好きの家内の反応にも驚かされたのだ。さて、問題は、この温泉大盛況である。ここ数年、青井岳温泉の客はしだいに増えつつあった。とくに正月はもちろん、連休、祭日は、ほぼ満席になってきた。以前は1月1日元旦といえば、のんびりとした温泉を楽しめたのだが、今では休日となると、押しかけてくる家族連れ、とくに若い夫婦づれの客、年寄りや中年サラリーマンなどであふれるようになってきた。この有様は、宮崎市の国民健康村の市の温泉にも当てはまる。半年ぶりに行った青井岳温泉では、もはや余裕もないほどの入湯客でごったかえすほどになっていたのだ。なぜ、こうなってきているのか。

 温泉の開設が数多く、市町村でみられるようになってきて、温泉は、かっての銭湯のように日常のものになってきたということが大きな要因であると思える。温泉の入場料は、ここは400円、市の施設は市民なら60歳以上は200円である。このおどろくほどの温泉の低廉さが、大衆をよびこんでいるのであろう。それが、国民の祝日、まして連休となると、温泉がごったがえす。これがぼくの心を引くのだ。連休といえば、もっと金を使って快楽できる場所はあちこちにあるだろう。にもかかわらず、400円を払って一日を過ごすという消費のあり方は、興味深いではないか。近場で低額で、連休を享受するというライフスタイルを取られては、高速道路通行料金を半額にしたために、国家は赤字となる。目論見は破られている。これは愉快ではないか。消費の復活に自分たちの生死を賭けてしまったアベノミクスは、景気がもどってきたというが、大衆は近場・低額の楽しみをつづけている。この大衆は、踊らないのだ。この現実を法によって金を消費させることは現況ではまだ不可能なのである。見方によれば抵抗勢力であり、内需拡大の負のエネルギーでもある。やがて、地下のマグマとして溜まりつづけていく。こうした大衆現象は、あちこちで見られるのではないか。学生たちの沈黙も、社会を変革する地下エネルギーとして増加しつつあるようにも思える。これらに注意をはらわずに表面だけを見て天下を取ったように思っているのが、自民党・公明党の今ではないのかと、人はなにをかんがえているのか、どのように自分を護る行動をとるのか、ここをしっかり見ないで、政策を押し通していけば、それはマグマとなって地下に溜まり続ける。
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墓穴を掘る者は自覚はできない

2013-08-24 | 政治
人は、自分で進んでいく方向を破滅であると、自覚できない。自覚できたら、行動を一切止める。破滅への道を希望と信じているからこそ、進んで行くことが可能となる。墓穴をほってることは自覚不可能なのである。

 自民党の圧倒的大勝は、墓穴を掘ったことである。安陪首相は、墓穴を掘った。しかし、その自覚はない。あるのは、希望ばかりである。自民党の成功は、あのときに消失したのである。なぜならば、野党とのねじれが残ってなければならなかった。それが消滅した。この大勝で、政権の担保であるアベノミクスをなにがなんでも成功させ、経済はデフレを脱し、大企業から零細企業までが賃金増となり、消費も活況を帯びる。税収は増え、1000兆の財政赤字も解消へ、経済大国日本がよみがえり、憲法改正を実現して、強国日本の再生という日本の未来像を、安陪首相は、実現しなればならない。

 今年の夏は、東京で、東北で、北陸で、記録にない豪雨が襲い、それは、次第に西日本に及び、島根県に大豪雨が連続して襲いかかっている。にもかかわらず、豪雨下で、ダムはからからに干上がっている。異常気象は、もはや異常気象でなくなってきた。地球温暖化が日常的な危機として現れだしたとしかいいようがない。福島原発の汚染水は、現状でも防ぎようがないほど、困難を極めだした。あの1000の鋼鉄の貯水槽が、一日に2タンクづづ増えていくという。その継ぎ目のゴムのパッキングは、何年の耐久力があるのだろうか。そこから、もれだしたらどうするのか。津波復興をするにも、物資の輸送も人手も足りないという。あちこちの洪水災害の復旧はどうなるのか。シリアもエジプトも内戦の収まる気配も無い。中国も韓国も国内危機の内在的圧力を日本に向けて噴出させて解消をつづける。TPPは、米国の圧力によって本年中に解決を迫られる。景気を左右する株価は、外国のファンドの投機によってリードされている。ファンドを制御できるものは、市場である。市場を制御できる政策はない。

 国内問題、国際問題、地球的環境問題をかかえて、日本人は生きている。これらを解消していかぬ限りあり積極性に満ち足りることはできない。現在かかえなければならぬことはそれだけである。ややこしい意味というのはないのだ。具体的なデーターにもとづく対処をとっていくばかりであう。


  しかし、安陪首相からは、そんな具体性はいっさいきれいさっぱり布巾でぬぐわれ、かれの政治信条がテーブルのうえにならべられる。そこにあるのは、希望のスローガンであり、データーにもとづく予測ではない。力強く消費は回復しています。かならず、実現します。解決しますなどなど、の希望を訴えられる。しかし、そこにあるのは精神力でしかない。これは現実ではなく、非現実であり、つまりスローガンであり、そこを掘っていくと、いくら掘っても土があるばかりである。

 かくして、安陪首相の日本歴史は、一冊の豪華絵本にまとめられる。つまり、時代、時代を、一枚の絵本の一ページとなり、そのページごとの一枚の絵は、相互の関連も、原因・結果として歴史的展開をしているのではない。教訓としての絵物語である。その一ページだけが精神力であり、現況の説明材料となる。歴史は止まり、世界もまた一枚の絵のように固定化して日現実となる。かくして、かれのスローガンだけが、現実を幻想させる。

 その幻想は、もはや一年とまたずに破れていくはずだ。さてそのとき、われわれどうサバイバルすべきか、これが問題であろう。
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弱い国、強い国 余計なお世話

2013-07-18 | 政治
 強い国、日本を取り戻そう、世界一の国にしますとくりかえされると、現在の日本は弱い国であり、不景気で閉塞し、豊かさを失ってしまった不幸な国ということになる。だが、考えてみると、弱い国も強い国も、その国民にとって具体的にどんな暮らしを保障してくれるのかは、なんにも語られていないのにきづかされるのだ。ただわかるのは、弱い国では駄目であるというメッセージだけがあるのだ。

 さて、ここ20年余、平成不況といわれ、消費は低迷、われわれは、不幸な生活を送ってきているという現実を、問われる。そこで、貧乏暮らしよ、さようならと、デフレ脱却、株も上がり、消費も旺盛な豊かな、強い日本を取り戻そうというのが、アベノミクスの目標であると、安陪首相は言ってるようだ。

 そこで、私は言いたいのだ。この20年間、日本での暮らしの水準が下がり続け、貧窮の毎日を繰り返す日々であるかどうかを問いたい。ここ数年、宮崎市の街で暮らして体験していることを述べてみたい。

 「しぇ・こぱん」のマスターが、7月8日、日南海岸の富土という海水浴場に泳ぎに行って驚いたと話してくれた。まったく人がきてないというのだ。昔は海の家も設けられ、夏は海水浴客でごったがえしていたのだが、ここ数年こんな光景はみられなくなったと、地元の人は話してくれたという。今は店もでてなく、ただ休憩場があるばかりであったというのだ。もう海で泳ぐというような遊びは、廃れたようだ。ぼくもかれの話をきいて、70年代、自家用車で一家そろっての海水浴などとは、昔の物語になってしまったのだと、あらためて知ったわけであった。海岸で遊ぶよりも、ほかに楽しみはいくらでもでてきているわけである。

 ぼくの事務長室から歩いて自転車で5分のところにデサキデポの文具・雑貨の店舗に併設された窯焼きパンのカフェがある。ここは、店でお好みのパンをえらんで、窓際のテーブルで食べることができる。コーヒも冷たい麦茶も何杯でも無料で飲めるので、パンのランチをすることも多い。コロッケとパセリ、キャベツを挟んだやわらかいコッペバンが140円で、あと一個100円くらいのパンを選んで、コーヒで食べるのだが、窓の外はまだまだ広々とした風景が広がり、アメリカの郊外を思わせる。樹木の緑が鮮やかで、光が強烈である。コーヒーは美味しい。なんか気の毒なくらいの安い料金で、楽しめるランチになる。このような快適なカフェは、ここばかりでなく、あちこちに何箇所がある。デフレ下で大資本が生み出した低料金の小売業のたどり着く岸辺なのである。

 100円ショップもそうだが、インターネット通信販売や価格の相互比較から商品を選ぶなどの、低価格制度の殺人的浸透が、ぼくらの生活をこの20年のデフレ下で起きてきているのだ。そしてこの経済状況は、それなりの安定でぼくらの生活を規定してきているのだ。いや、それなしには、もう合理的生活ができなくなってきている。もちろんこの快楽生活は、格差社会や若者の失業、定年制度の崩壊、年金や医療制度の崩壊の危機などを生み出している。

 つまり弱い国の快楽は、ものの貧困でなくて、格差社会の底辺の層の厚さを、やわらげるシステムとして生み出された快楽機構であるとわかるのだ。

 日本国民の3分の2以上は、デフレを楽しんでいるのだ。だれもデフレを不満として排斥しようとは思っていないのだ。アベノミクスはこれを変えるという。その変え方というのが、所得倍増であり、今以上にモノの豊かさを与えてというのだ。もうこれ以上、モノをあたえられてもどうしようもないのである。だから、この路線には、希望など見つからないのである。万が一、アベノミクスの成長戦略が、成功するとして、成功した瞬間に、快楽はむしろ失われる。かわりに現れるのは、精神の飢餓感であろう。それゆえに、アベノミクスの成功はあってはならぬことになる。弱い国であってどこが悪い。強い国の危険性よりもはるかにましではないかと思う。少なくとも、韓国や中国の経済状況よりも日本は、はるかに豊かであることを思い浮かべるのだ。これでいいではないか。これ以上何を望むのか
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安陪晋三首相と会話するならば

2013-07-12 | 政治
 
前回にのべたように、なにを話すにも、自分が、自分がと自分中心の話題しかない人間と、話を交わすことほど、空しく時間の無駄をかんじさせられるものはない。日常にありあまる、不完全な会話、人生の大半は、この会話にさらされながら空費していかざるをえないのだ。自分の上司(自分が自分がの話者がなんと多いことか)だったり、親類のおじやおばだったり、儀礼的な結婚式とか葬式とか、誕生日とか、進学祝いとか引篭りの息子や娘のこととか、出世祝いとか、いろいろ日常でのどうしても相手に気を使う会話のとき、その場の状況も相手の心理も察知できずに、自分が、自分がと言いまくるやつほど、不愉快きわまる相手はいないであろう。安陪首相との会話するとなると、まさにこれを想像させられる。いったいオバマ大統領と、どんな会話が成り立ったのか。6月19日のロンドンでG8の大統領や首相たちとの会話で、ほんとにかれのアベノミクスなどを、彼が言うほど評価しまくったとは、とても思えない。

 アベノミクスの三本の矢は、もうこどもでも知ることになったのだが、なぜかれは、そういうことを言い出したのか、これも自分か自分がの意識の産物なのであることはまちがいない。三本の矢といえば戦国時代毛利元就が三人も息子たちに一本では折れるが、三本では折れないと結束を訴えた逸話からであろうか。あるいは三種の神器からか。いや、要するに「三」がなにをやるにも方針になるというとんでもない発想からではなかろうか。御三家、三本締め、三人娘、三度目の正直、三文の徳、三度目の正直、石の上にも三年、この三でくくり世界をまとめる思考法は、まさに哲学的、社会学的思考法と対極にある思考、認識法であることに気がつく。世界を簡単に自分中心にまとめる、ここに自分中心の思考になじめるものがある。

 いや、三本でくくってみると、訴えやすくなる。理解させやすくなる。ここにまさにかれの戦略があるともいえるのであるが、ぼく安陪が射ち込む三本の矢は考えてみると、実は三で締めくくることが不可能である事実に、ぼくらはすぐに気がつくのだ。アベノミクス三本の矢の「第三番目の矢」は、一番、二番とは、同じ矢ではない。まさに、矢としては、くくられない、最初の二本の矢の存在する世界とは、まさに位相の異次元に存在するなにかなのである。

 一番の矢、財政政策、二番目の矢、金融緩和では、財政出動も国債の日銀買い入れも安陪首相と、黒田日銀総裁で可能である。しかし、三番目の矢、成長戦略は、安陪も黒田も、誰も一人で放たれるものではないのである。平成20年間のデフレを脱却できる成長戦略が、自民党党首にして首相安陪が、示してそれで日本がデフレを脱却し、かっての栄光を取り戻し、世界経済をリードしていく日本となるということはありえない。これは経済学など関係ない常識の判断である。安陪首相は、7月の参院選挙までに、6月までに成長戦略をしめす矢を射ち込んでみせるといい放った。こんな方策があるなら、韓国も中国も、ギリシャもスペインもフランスもアメリカも、この戦略を自国でも採用して不況を脱出できるということになる。そんなばかなことは起こりえない。

 成長戦略とは、グローバル化した世界諸国との連帯関係のなかで、可能性を見出していかねばならぬ気の遠くなるような戦略であり、日本独自では、既得権をすべてぶちこわすという実践で新産業を興すか、それが果たしていいかわるいかもかんたんに決められない実験にとりくむか、そして、どんな企業でも、この20年間余り、それぞれの企業が、生存をかけて成長戦略を模索している現実である。この現実を一本の矢にたとえて射ち込むと、三本ならべて宣言したのだ。

 アベノミクスで、二本の矢で抑えておけば、かなり、かれの賭けは成功したはずであると思った。もともとかれの経済政策は、かれの本心とは思えない。すぐに思いだしたのは、ひとびとの欲望を満足させて、その魂をもらうというのが、安陪政権の狙いというのは、おもしろいことには公言されている。まずは経済、それから憲法改正、かくして「強い日本をとりもどす」と、安陪首相は言いまくってきている。この単純明快さには、ある種のおどろきをかんじざるをえないのである。ゲーテのファストで、悪魔のメフィストが、ファストの欲望をつぎつぎと満足させていく。シャミッソーの「影をなくした男」の灰色服の男が、風呂敷の中から、黄金でも家でも馬でもあらゆる欲望に答えるものを出して提供するかわりに、男から影をもらう。その寓話に似ているが、安陪首相は、まず相手の欲望を満足させられないことを、スタート時点でさらけだしてしまったのだ。要は悪魔でなかっただけである。しかし、悪魔よりも始末に悪い面がある。つまり、会話がなりたたないということである。自分が、自分が、の人物が、世界中を相手に会話をしかけだしていることである。
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