市街・野 それぞれ草

 802編よりタイトルを「収蔵庫編」から「それぞれ草」に変更。この社会とぼくという仮想の人物の料理した朝食です。

まわりはドラマなのに

2010-08-11 | 楽しみ
   先週末の土曜日、節子が青井岳(温泉センター)に行かんねというので、日中の暑さをひと風呂浴びて、流すのもおつなものかと、出かけることにした。午後4時ごろ、広い浴場はそれなりに入浴者があちこちいたが、のんびりとした感じで、うーむと声をあげながら、ジャグジー風呂に横になった。真正面の床から天井まであるガラス壁面から、まだ夏の強い陽射しが、降り注いでくる。と、唐突に今日は8月7日、ああ、今年もあと4ヶ月かとはっと気付いた。何もせぬうちに今年も、残りはあと4ヶ月となったのだと、驚愕したのであった。こんなに時間の経過がとぶようであるのなら、人生50年の昭和30年代のほうが、もっと長生きしたことになったろうと思う。

 温泉から帰ると、次男の嫁から電話があり、トナミが市立図書館に行きたいというので、連れて行ってもらえないかというので、そうか、いつの間にか夏休みが始まったのだと知らされた気分であった。共稼ぎで家には誰もいなくなるのである。すぐに承知して、孫(男子9歳/小4年生)を迎えた。市立に行く前に近くの中央公民館図書室で、おもしろい図鑑がたくさんあるからというと、すぐに承知した。そこで、出かけたのだった。その建物の南の樹木の下をあるいていると
 
 「じいちゃん、地面に空いている丸い穴は、なんで空いてるのか、知ってる・・」という。
 見るとあちこちにまんまるいけ直径2センチたらずの穴が、点々とあったのだ。おどろいてなんだこれと聞き返すと。蝉の幼虫が出た後の穴だよというのだった。なんということだ、今人生まさに終ろうとするときに、蝉の幼虫が数年を過ごした穴だったと、初めてしるとは!!うぇーおれは、なにを見て、なんのために生きてきたのだろうと、ふと悲しみをおぼえるのであった。すると、孫はふたたび質問を始めた。
 
 「じいちゃん!あの入道雲は、積乱雲だよね。」
 建物を覆いかぶさるように盛り上がる入道雲、南にも向き合った地平に真っ白に輝く入道雲が山の頂をみるようだった。おもわず見とれていると、孫は質問した。
 「あの積乱雲がすれちがうとき、何が起きるかしっちょると・・」といいだした。すれ違う!のか・・。あの入道雲が、おたがいに近寄ってすれ違うとは。
 「分からん、雷かな」
 「雷や稲光は、あの雲の凄い上昇気流の運動で起きる静電気でしょうが。そういうもんではありません。入道雲がすれ違うときは、竜巻が発生するのや、竜巻、なんよ」と言うのだった。

 それが、本当かどうか、わからないが、なんといってもあの雄大な積乱雲が、おたがいに巨歩を進めて、すれちがうという天空での動きのイメージに圧倒される思いだった。

 ここ数年、彼は、図鑑にはまり込んできているが、そういうものの効果かもしれない。それはそうとして、昆虫も水族館の魚類も草花、樹木、その樹木に生息する虫なども名前をかなり知っている。先日、動物の名前のつく花の展を見に行ったとき、その植物名ばかりでなく、類似の草花の名前や、絶滅危惧種かどうかまでべらべら説明しだして、ガイド役の若い女性、なんでそんなに知ってるのと驚いていた。こどもというのは、図形の把握能力が、成人とはけたちがいに有能であるし、そして記憶力もそなわっている。これは、孫だけのことでなく、一般に言えることであろう。たいがいのこどもは、タマゴッチなどのカードの架空の動物の数百の名前ばかりか、その特徴、勝負どきの能力などを諳んじて遊んでいるはずである。

 そういうこどもたちに認識される世界、社会、自然は、ぼくらには想像もできないほど、多様で、明細で、複雑でドラマティックであるのだろうと思う。かれらにとって、まさにまわりは豊かな脅威に満ちた宇宙空間なのであろうと思う。それを感じると、今からの世界もまだまだ、可能性を彼らが生み出していくような気がするのだった。ぼくにとって、速すぎる一年だが、かれらにとって長すぎる一年の夏が来ているのかもしれない。毎日、何をしているかと聞くと、ともだちと近くのやまの公園に行っているということだった。まだ、この東宮花の森団地は、山をのこしたままの公園があるのだ。そうか、楽しめよと、エールを送ったのであった。
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ゴールデンウィークの日々 むさぼりたがった休日

2009-05-11 | 楽しみ
 ゴールデンウィークが過ぎ去って、まだ丸五日目だが、もう何週間もまえに終ったような気分である。だからその日々を書くことなど場違いの感もする。さて当初の鹿児島市の水族館に無事到着したの三日の午後5時ごろであった。水族館は夜が本番という感じが、おもしろい。エイの出産シーンのビデオ公開、いるかのショー、夜には魚はどうなるのかの生態観察などと、午後9時の閉館まで、あの迷路同然の空間を地下から劇場、一階から3階となんどもぐるぐるあがったりさがったりと孫にひきずられて回った。

 あのあとつまり帰宅してから、昨日も撮影したビデオ録画を見てみた。水族館の水槽を泳ぐ魚のシーンは、きわめてリアルである。もともと水槽を覗くのもビデオ画面的であるから、ビデオ映像が似たような感覚を生むのだ。こうしてみると、タツノオトシゴの不思議な形、ふぐのかわいらしさ、イカの宇宙船のような動きと、これらは水族館でみるよりもおもしろい。ということで意外なお土産を入手できたのであった。

 帰宅したのが午後11時半、寝たのが午前2時、起床午前7時半だったので、日中になって、重い疲労感が全身にじわりと広がってきだした。すると、妻が「極楽湯」に行ったらと、提案してくれて、自転車でヒムカ・チリを走るのを止めて、昼に同湯に行った。12時半ごろには浴場であった。たぶん空いていると予想したとおり、屋上露天では3,4人しかいなく、まるでひなびた温泉にいる気分であった。これは、もうけものであった。入湯料金は割引で390円であった。

 ここで昼食、味噌汁の定食を頼むと、キュウリが浮いているみそ汁で、珍しいと
思ったら、なんと冷汁であった。つかれもかなり軽減されたし、ここから自転車で
5分のデパートカリーノの一階にあるスターバックスに行き、4時ごろまで文庫本を読んで過ごした。ここもまたしづかな部屋となっていた。4日は、人のいないゴールドな休日を存分に享楽できたのであった。もっとも市街にも人はあまり群がってなかったのも事実である。写真は極楽湯のレストランから撮影した。人がいない、裏道も表道も。
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ゴールデンウィークの日々 遺跡と廃墟

2009-05-08 | 楽しみ
 
 上野原縄文の森には隣接してテクノパークらしき残存建築がまたある。そのひとつがふもとから見える展望台である。3階までのエレベーターがあって、そこから屋上となり展望が楽しめる。その基底の部屋で男性がひとり事務をとっていた。まさ
にガラーンとしたエントランスと廊下があるばかり。それに展望台までひろびろとした階段があり、エレベーターに乗るより快適に楽に屋上に行けるのである。あとで、家内がトイレに行ったらきれいだったけど、あちこち錆びだらけで、使用する気が失せたといっていた。

 そして隣のブロック、つまり縄文の森展示館にも同じ3階展望台があるのだ。こちらは、適当な訪問者があった。レストランも生きており、13時だったので、立ち寄ると、もうライスものはないというのだ。なぜと聞くと、売り切れましたという。
うりきれるほど人が押し寄せたとは、ありえない。日ごろの感じで、これくらいと準備したら、本日は売れてしまったということであるらしい。いかに訪問者が日ごろないのかを想像できるのであった。

 途中、末吉町で10号線沿いの「道の駅」に立ち寄って昼食しようとしたのだが、人でごったがえし、ここのバイキング食堂は100人をゆうに超える順番待ちが、待つの楽しみという様子で椅子に群がっていた。この木造のレストランは、おそらくあの吊橋の何分の一くらいの費用で建てることができたろうが、その繁盛ぶりは脅威的であった。

 ただ、ぼくとしては、こちらの人も少ない、大公園のほうがはるかに性にはあっていた。それに、この台地に入ると、たしかに縄文の遺跡の存在を感じ取ることはできるのだった。想像を刺激される。おそらく1万年前、この台地で朝夕、巨大な日の出を仰ぎ見た縄文人の生活ぶりがよみがえってくる。しかし、まわりは、すでに人のおとずれぬ廃墟と化している。テクノパークは30年たらずで廃墟、一方は一万年を眠ってまだ生きている。

 パークも縄文の森もどうやらスタートから廃墟であったのだ。この施設を税金を消費して建設した瞬間から役目はすべて終了したのだろう。そして建設者たちの所有となった金は、やがてデリバティーブの投資となり、マネーゲームに繰り込まれ、昨年、霧となって空中に四散してしまったにちがいない。そして廃墟がのこった。廃墟といえば崩壊し、錆びくれた鉄鋼やコンクリートの残骸などをイメージしてきたが、新品のまま廃墟化する都市施設があるのを、興味をもって再確認できる思いがした。公園という大儀名目だけで、人とはなにかをかんがえぬけない机上の公園化、まずこれがまちがいなく廃墟と化していく。そして、ぼくは廃墟が好きでもある。
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ゴールデンウィークの日々 文明

2009-05-07 | 楽しみ
 次男一家と初日5月3日、メディアに煽らずに、人々とは反対に行こうと、宮崎市から千円高速に入らずに、鹿児島市の水族館に入館することにした。何回見ても、水族館で生きる生物は驚異的な存在であるからであった。とくに径一センチに満たないクラゲ、生物はなぜ、動くのかと見れば見るほど気の遠くなるほど思考を捻じ曲げられる。糸がなぜ意志をもって動きつづけるのか・・・。

 国道10号線を通って鹿児島市へ走るのは何年ぶりだろうか、いつもは山麓線という霧島山脈よりを通り国分にでて、隼人、加治木と向かっていたからだ。しかし今回はふと思いだして、国分市にある「上野原縄文の森」の遺跡を訪ねてみることにした。前も何回もこの遺跡を示す表示を見ながら、そのまま走り過ぎていた。なぜか、わざわざ狭い坂道に逸れて、遺跡まで行く気にならなかったのだ。墓標のような墨書の標識が淋しげに建てられていて、狭い道路の奥は藪の押し茂るうっとうしい場所だろうと、行く気にならなかったのだ。だた、最近は青い道路標識のような立派な案内が鉄柱の上で、入り口を示していた。

 9800年前という縄文の遺跡がこの山地にどんな文明を、もたらしたのか、ふと想像を掻き立てられ今回は行ってみる気になった。これもゴールデン・ウィークという気分であったからであろう。こうなるとやはり縄文という言葉が呪縛する。森といい住居跡といい、そしてなにより一万年前に、ここに古代人が暮らしていたという想像を絶した出来事は、思いを馳せるとわくわくしてきだすのであった。

 すると、運転中の次男は、縄文時代、そんなものはどこにも感じられないよ、ばーっと広がった近代的公園があるばかりだ、ほら下から見えていた、あのホテルだろうか、なんだろうかと、山の上で輝いていたガラスのドームがあるでしょう、あれがあるところさと言うのだった。
 
 瞬間、そうだ、それはそうだろうなと、かれの言葉に納得してしまうのだった。というのもヒムカ・チリや下北方、青島三丁目の開発を見てきた体験から、同じ開発にさらされたはずと、そう断定できる思いがぼくには沸いたのだった。だが、縄文遺跡へのロマンもあったのだ。

 峠道から横にそれて10分も上らぬうちに、たちまち、山頂が広大は高原となってひろがった。藪どころか、桜島火山灰大地である。垂直な断崖となって縁取られ西のほうには、同じ断崖をもった姶良町台地が連なっている。それは、ミニチュアのヨセミテ渓谷に感じられるほどであった。また、東側の縁から桜島を見ると、湾の海原と島が見えるだけで、あの篤姫が幕末末期に見た桜島はこうだったかと思えるほどの自然風景であった。

 縄文遺跡は完膚なきまでに観光資源化されて公園化されていた。そして、閑古鳥のなく空間として、ここ何十年かが経過していた痕跡があちこちにかんじれる場所になっていた。これは縄文の遺跡よりも、強烈な文明となって、ぼくを魅了したのである。縄文の森展示館から埋蔵文化センターまで長さ100メートルほどもある吊橋がかかっていた。おそらく億の金がかかったであろう橋であった。〔写真参照)
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自転車

2008-08-18 | 楽しみ
 盆休みには、例年のように綾、青島、西都原へのペタリングをやろうと思っていたが、来客、訪問などとあっというまに時間がなくなった。最終の日曜日に、曇った夕方、青島へ向かって、一つ葉大橋を渡って出発できた。

 すぐに気分は爽快になってきた。一センチ刻みで反応するハンドル、車体というぎしぎしした感じのない感覚、軽く、靴を履いたよりも違和感がない車体が快感
である。日ごろ乗っている普通の自転車、これもかなりいい自転車だが、まったく
同じ自転車というには、あまりに動く感覚がち違うのだ。ひさしぶりに感じるこのサイクリング感覚に、朝から不快であった気分も体調もぐんぐん晴れ上がっていくのであった。このスポーツ用に特化された自転車の素晴らしさは、なんど言っても言いたいりないくらいだ。自転車でもなく、自動車でもなく、肉体の一部となる機械とは、発生期の未来派の絵画を感じるようなものであろうか。

 普通の通勤用のものは、もう8年乗ってきたが、やっぱり自転車という感じだ。あちこちで、がたがたときしみや異音がする。車体は、思うように反応しない。重く、鈍く、取り回すにも、時間がかかる、つまり一瞬で思いどおりに動かない。まさに手になじまない道具を使っているようなものである。だから、市内をあちこちするには、かえっていいのかもしれない。がたがた、ごとごとと街路をこいで行くほうが、街という感覚、さびれた夕方の街の哀愁を感じることも出来る。

 青島前の商店街は、猛暑の夏で人通りも多くシーズンの活気があった。しかし、建物のほとんどは、手入れがなく、看板は古び、おまけに廃墟のような無人の観光ホテルが通りを覆っている。いかに普段が寂れた観光地なのかを、隠しようもないのだ。阿蘇外輪山を取り巻く、観光地とくらべると、その衰退ぶりは恐ろしいくらいだ。だれがこういう街にしたのか。というような憤りも覚えながら、声につられてカキ氷の店に入った。ガリガリと氷の粒のある懐かしいカキ氷であった。

 帰途、子供の国と海岸の間を木花運動公園に至る、遊歩道を走る、ここは、雄大な海岸風景を楽しめる、この景観に比べるとハワイなど玩具の人口海岸にすぎないのである。この手付かずの自然をまだ残す海岸は、全国に誇りうる景観であろう。
それにしても、なぜ、観光客は、毎年、宮崎県庁に何十万人と押しかけ、物産館で行列しておみやげを買い、それだけで帰っていくのだろうか。ここまで、やって来て、この自然を満喫して欲しい。

 ここを一気にはしり抜け、飛行場脇を抜け、一つ葉大橋を超え、山崎街道入り口に着いた。55分かかった。一時間足らずで、日常を、まさに超えられるとは、かんがえてみるとすばらしい自然都市ではないだろうか。これも自転車あるゆえだ。

 なんかおもしろことないかという人に自転車をおすすめする。

 
コメント (2)
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