市街・野 それぞれ草

 802編よりタイトルを「収蔵庫編」から「それぞれ草」に変更。この社会とぼくという仮想の人物の料理した朝食です。

10年ぶりの東京 2

2007-04-30 | Weblog
 六本木ヒルズも東京ミッドタウンも、来てみるまではつ次のようなイメージを新聞によって抱かされていた。

 ア) 今もっとも注目を集めている「東京ミッドタウン」。住む、働く、遊ぶ、憩う…そのすべてが一体となった複合都市が、いよいよ六本木に誕生します。

 
 イ)「都心の上質な日常」をコンセプトに約130店が出店予定 。

 しかし、後で考えてみると、「複合都市」とか「都心の上質な日常」という表現の具体的な内容とはなんなのか、はっきりしていたわけでは無かったのだ。要するに
中心市街地よりももっと胸をわくわくさせる街が、ぼくをつつみ込むに違いないという単純なあこがれを新聞の記事などで抱かされていたのである。上質な日常とはなんなのか、この気取りまくったことばに、今となっては腹が立ってきた。

 ぼくは、神田神保町の「ホテル若葉館」という、ホテルというより旅館、旅館というより宿という、いや民宿のようなホテルから歩いて、地下鉄駅に向かい、六本木駅で地下鉄を降りた。この間に歩いた神保町の路地商店や飲食店、喫茶店、そしてタワービルを囲む六本木の歓楽街に街をシャワーのように感じ、興奮していた。この興奮は、上質とか低劣とかのことばなどでくくれるものではなかった。

 2メートルもある黒人や、ギャングの親分のような白人たちの呼び込みも目にも映らぬように流れていく群集の流れ、大小無数のネオン、自動車の警笛や、若い女性の嬌声など、街路は煮え滾っていた。それでいて道路は、適当に狭く、横断もしやすい。まさにここに住む、働く、遊ぶ、憩うの都心があるとわくわくした。わざわざ複合都市と呼ばれた闇の中で全身を光らせて、かぶさってくるように浮かぶタワービルに向って歩く前にすでに感じていたのであった。


 そして、そのミッドタウン、ヒルズの中の商店街に入ると、均一な蜂の巣状に割り当てられたショップに、商品が美術品のように一点、一点、額縁に入って飾られているのであった。一枚のワイシャツがなぜ絵画のように飾る必要があるのだろうか。多分、日本人のアート好き、あるいはアートにめっぽう弱いコンプレックスにつけこむ販売戦略によるのであろう。ものの売り買いが、アートの鑑賞に化けるということが上質な都市生活というのだろうか。

 こんな上質には、直感的になじめなかったのである。
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10年ぶりの東京

2007-04-28 | Weblog
 変わった、なにもかも記憶を失うほど東京は変わっていた。同窓会のメンバーの風貌も変わったが、意識は学生時代を色濃くとどめていて落ち着けたのに。環境は激変とは。
 
 ショッピングモールを味わうというのが、もう一つの目的であった。ぼくの毎日過ごしているギャラリーから自転車で5分のところに九州最大のイオン宮崎が開設されて2年、今ではすっかり慣れ親しんでいる。このイオンでさへ失った中心市街地の雰囲気を楽しめるのだが、これが東京の大ショッピング・モールならどれほどの快楽があるのだろうとう期待で来たわけだ。

 東京ミッドタウン、六本木ヒルズタワーと、来て見てがっかりした。衝撃も興奮も起きず、きらきらとしたコンピュータグラフィックなビルが聳えてはいたが、心は冷えた。夜のせいだったのだろうか。つまりそれは、なにも異質感が感じられなかったのだ。通り過ぎた街中のほうがより興奮を煽り、ビルのなかもタワーのなかも外と変わりなく、いや外よりもちゃちで人口的空間に過ぎなかった。生活の匂いがないのだ。きらきら、きらきらとネオンサイン風の照明が空しく、モールに植えられた孟宗竹というのはプラスティックであった。

 52階から眼下に展望する夜の東京都は、こう見えるだろうと思ったとおりの夜景にすぎなかった。宮崎市街を14回のホテルの展望室から見るほうがまだスケールにリアリティが感じられた。暗い室内にぼちぼちとアベックがいただけであった。

 人気の少ないわけのわからぬ大きすぎる、ショッピング街は、空しく活気がない。その大きさがなじめなかった。大きければいいというものじゃないというのが
実感できるのであった。

 森美術館で、日本は笑うという絵画、彫刻、版画、インスタレーション、動くアート、ビデオアートなどの笑うを主題とうする作品展があった。現代作品にみるべきものはなかったが、さすがに江戸時代の作品は、その大胆な構図、発想で欧米の美術を圧倒する奇想に仰天させられ、ここは楽しめた。しかし、なにを笑っているのだろうか。なにを、どこを、なぜ笑っているのか。そのテーマはない。笑っている作品を集めて並べ立てただけの美術展であった。

 森タワーズを笑っているのではなかろうか。それまでさんざんタワーズや、ミッドタウンの間違ってイメージを作り上げた新聞や週刊誌などのメディアを笑っているのではないかと、ぼくは笑ったのだが・・・・。

 
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選挙終わる

2007-04-09 | Weblog
 東京都知事は石原知事が圧倒的多数で再選された。どうしてだろう。かって宮崎県でリニアモーターカーの実験設備を再検討にやってきたとき、「鶏小屋と豚舎しかないところに、リニヤーモータを走らせてなんにある」と言った大臣だった。弱いものの立場や、個人の多種多様性、少数派への配慮を感知できないかれの本質を都民はどうして肯定するのだろうか。この東京都民の無批判層の巨大な群が怖い。東京が右でも左でも向けば、地方など抵抗のしようもない。昔は都民の選挙で示した革新の風が、宮崎市民の希望の星だったが、今はむしろ逆転してしまった。

すくなくとも、今回の県議選挙では自民現職5人が失脚、10人の新人が当選という現状を変えたいという県民の意欲はしめされた。 


 東京都は、ますます管理都市への強権が都民を支配していくのではなかろうか。朝日新聞が、石原知事は当選するやいなや、謙虚さはふっとび、もとの傲慢な知事にもどったと嘆いていたが、そんなことは当たり前の話ではないか。かれにとっては、役人とか支持層とは、ある種の愚集という意識があるのではなかろうか。愚民をリードするには号令あるのみである。力を誇示する為政者は、か弱きものに、愚かなるものに、やさしく配慮してては勤まらぬわけではないか。その本質を備えた強権政治家であることは変わるはずはない。今日まで、朝日新聞はなにを見てきたのだろうか。
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 外山 恒一都知事候補

2007-04-07 | Weblog
 外山恒一都知事候補には、2001年に宮崎市で劇団「どくんご」の「踊ろうぜ」の公演で会っている。物静かな大人しい平凡な若者にしか感じなかった。受け取った彼の過激な政治運動的なちらしとは、結びつけようもなかったし、それに今は70年代ではないのだから、どくんごをこんな運動と関連付けられるのも時代錯誤と、あまり関心もなかった。風変わりなどくんご追っかけと思っただけだった。
 
 つぎに会ったのは、2005年、どくんごの「ベビーフードの日々」を上演プロデュースした6月だった。かれはスキンヘッドでテント脇の受付にぽつんと立っていた。まだ追っかけしているのという感じしか受けなかったが、3日間の上演が終わって、かれがぼくら実行委員会に手渡してくれた本を読んでみた。まさに70年代の過激派ぶりで、このときは、刑務所での獄中闘争という記事が展開し、そのあまりにも自己本位な主張には、あきれもしたが、すがすがしさも感じたのであった。しかし、このときもその主張とかれのイメージが結びつかず戸惑ってしまった。
 
 その翌年、つまり去年の6月、鹿児島県桜島で前衛演劇、革命演劇を上演するのでと案内を受けた。どうもちがうんだよなああ、演劇はもっと娯楽なんだからという思いで足が進まなかった。ところが実行委員だった1人の女性が、ただ1人で観劇に行ったのある。このときの模様を彼女は、ただただ苦痛の連続だったと話、大笑いしたことがある。4月6日、鹿児島港から連絡線に乗せられ、島に上陸するやチャーターのバスで、行く先も告げられず暗闇を走って連れ去られて行ったという。異常なほど冷える夜で、寒くて、寒くて、おしっこに行きたくて、早く終わって終わってという願いだけで耐えまくった芝居だったというのだ。
 
 外山恒一、脚本、演出、出演の演劇は、超過激なアングラ風だったのだろうか。
とんでもない自分勝手な上演だったにちがいないと、それ以来かれのことは念頭から蒸発してしまっていた。

 それが数日前、グッグルニュースで、都知事立候補を知ったのだ。そしてユーチューブでテレビの政見演説を視聴したのだ。ほんとぶっ魂消るとはこのことだ。

 外山恒一は、これまでの印象とはまったく一変してしまっていた。なによりも
かれは役者であった。これは6分間の最高の演劇であった。すばらしいギャグ、明日のジょーからセンチな部分を抜けば、寅さん映画を劇画にすれば、このような
生き生きした漫画チックなドラマが可能なのだと、底抜けに愉快を感じた。かれとはいったいどんな人物だろうか、にわかに興味がわいてきた。またかれを囲む
メディアのうろたえぶり、くに週刊朝日もまたギャグマンがに見えたのだ。地代は換わりつつあると面白かった。多分彼は20万票くらいを集めるのではなかろうか。
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 外山 恒一都知事候補

2007-04-07 | Weblog
 外山恒一都知事候補には、2001年に宮崎市で劇団「どくんご」の「踊ろうぜ」の公演で会っている。物静かな大人しい平凡な若者にしか感じなかった。受け取った彼の過激な政治運動的なちらしとは、結びつけようもなかったし、それに今は70年代ではないのだから、どくんごをこんな運動と関連付けられるのも時代錯誤と、あまり関心もなかった。風変わりなどくんご追っかけと思っただけだった。
 
 つぎに会ったのは、2005年、どくんごの「ベビーフードの日々」を上演プロデュースした6月だった。かれはスキンヘッドでテント脇の受付にぽつんと立っていた。まだ追っかけしているのという感じしか受けなかったが、3日間の上演が終わって、かれがぼくら実行委員会に手渡してくれた本を読んでみた。まさに70年代の過激派ぶりで、このときは、刑務所での獄中闘争という記事が展開し、そのあまりにも自己本位な主張には、あきれもしたが、すがすがしさも感じたのであった。しかし、このときもその主張とかれのイメージが結びつかず戸惑ってしまった。
 
 その翌年、つまり去年の6月、鹿児島県桜島で前衛演劇、革命演劇を上演するのでと案内を受けた。どうもちがうんだよなああ、演劇はもっと娯楽なんだからという思いで足が進まなかった。ところが実行委員だった1人の女性が、ただ1人で観劇に行ったのある。このときの模様を彼女は、ただただ苦痛の連続だったと話、大笑いしたことがある。4月6日、鹿児島港から連絡線に乗せられ、島に上陸するやチャーターのバスで、行く先も告げられず暗闇を走って連れ去られて行ったという。異常なほど冷える夜で、寒くて、寒くて、おしっこに行きたくて、早く終わって終わってという願いだけで耐えまくった芝居だったというのだ。
 
 外山恒一、脚本、演出、出演の演劇は、超過激なアングラ風だったのだろうか。
とんでもない自分勝手な上演だったにちがいないと、それ以来かれのことは念頭から蒸発してしまっていた。

 それが数日前、グッグルニュースで、都知事立候補を知ったのだ。そしてユーチューブでテレビの政見演説を視聴したのだ。ほんとぶっ魂消るとはこのことだ。

 外山恒一は、これまでの印象とはまったく一変してしまっていた。なによりも
かれは役者であった。これは6分間の最高の演劇であった。すばらしいギャグ、明日のジょーからセンチな部分を抜けば、寅さん映画を劇画にすれば、このような
生き生きした漫画チックなドラマが可能なのだと、底抜けに愉快を感じた。かれとはいったいどんな人物だろうか、にわかに興味がわいてきた。またかれを囲む
メディアのうろたえぶり、くに週刊朝日もまたギャグマンがに見えたのだ。地代は換わりつつあると面白かった。多分彼は20万票くらいを集めるのではなかろうか。
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