市街・野 それぞれ草

 802編よりタイトルを「収蔵庫編」から「それぞれ草」に変更。この社会とぼくという仮想の人物の料理した朝食です。

市街・野、ふたたび再会(必須)

2016-10-04 | 日常
 昨年12月20日、ベッドからを書いて病状回復を報告しようと思ったところ、そのままとなり、今年も早10月となってしまった。
実は、腱鞘炎、擬痛風という病気はステロイド錠の服用で炎症が抑制され痛みもなく、次第に関節の動きも日常生活に適応できるようになってきました。もっとも関節の壊れが直ったわけではなく、この破壊は自然治癒をまつしかないわけでした。それでも半年もこえると、生活に不便はなくなっていました。しかし、ラジオ体操の膝を曲げて両手を上にという運動はうまくできないし、床や畳に正座もあぐらもかけないのです。また寝ころぶことも、寝た状態から起きて立ち上がることもできないのです。へえ、こんなことが不可能とはかんがえもしなかったのです。座ることや寝て起きることは日常、つまり普通の生活には、ないことなんかと、おどろくことでした。それでも2キロは歩けだし、20キロは自転車で走ることもできるようになってきまっした。この自転車の復活こそ、ぼくにとっての生活復帰でした。
 そして9月、去年の9月は、両肘と両またのほかは、全関節が腫れて、でくのぼう状態だった自分が、このようにもどってきたと、よろこびをかみしめるという日々になってきたのです。そんな日々の9月1日、午後3時ごろ、イオンモールのスポーツのプールに行こうと、自転車で家をでました。湿度が70パーセント、気温32度を置き時計が示しているのを確認しました。無風でこの湿度と温度、体がだるい、このけだるさを水中歩行で吹き飛ばそうと、自転車に乗ったのです。すると前車輪がかたかた、かたかたと、音をたててきだしたのです。そこで、右足先で、車輪をささえているフォークをたたきました。たたいて、なにかごみでも落とそうとしたのです。しかし効果はなく、さらにもういちどと足先を動かして、たたこうとした、その一瞬、なにものかがぼくの右足首をぐいっとひっぱったような衝撃を感じ、フォークと回転している車輪の数センチの隙間に足先が引き込まれたのです。かって経験したことがない異変におどろきで、判断が停止、足をひきぬくことを忘れてしまったようでした。どうする間もなく、自転車はブレーキがかかったようになり、まえのめりとなって、ぼくを地面におしたおしてしまったのです。地面にたたきつけられた感じですが、ぼくを襲った狼狽は、激痛よりも、回復途上の両肩の関節がもとのもくあみになったという不安、恐怖感でした。ついで自覚したのは、地面におしたおされた状態から立ち上がれないということです。どうあがいてもびくとも体がもちあがらないのです。通行人がこの光景を見たら、脳梗塞か心臓麻痺で死んだと思うだろうと、必死で身体をおこそうともがいてみても、どうしようもないのです。そのとき、ハンドルに付けている網かごが目の前にあるのに気づく、それに手をかけて、ようやく半身を起しだしたのです。そこに一人の男性が、かけよってこられ、大丈夫ですかとなんども声をかけながら、ぼくをひきおこしてくれました。
 激痛はやや収まり、自転車にはまた乗れたので、帰り着き、そのまま風呂場で水シャワーを右肩に数分浴びせていると、次第に痛みがひいていきました。あーあ、これで両肩の痛みが去年とおなじになるなと、がっくりしたままベッドに横たわったのでした。ここで、残っていた鎮痛剤1錠を飲むと、さし当たり右肩の激痛は急速に鎮静し、その効果になにかみちたりた気分になるのでした。この程度なら骨が折れていることはないなという安心感もわいてはきたわけです。翌日、年のために近くの善仁会病院に行き、レントゲンの結果、右肩の鎖骨先端の手前にひびがはいっているのがわかり、腱は異常はないということでほっと安心したのでした。鎖骨の治療は、たすきのように固定バンドで、保護するという忍耐のいる養生を続けることになったわけです。きつくバンドをしめたままベッドで寝るわけです。これは問題はありませんでした。しかし、昼間はとどどきはずしているし、自転車は禁止されましたが、必要なときは乗っています。こうして早一ヶ月先週金曜日のレントゲンでは、ひびはずれていない、新しい骨ができつつある、あと一ヶ月かなあと診断されましたが、まだ一ヶ月もかかるんですかと、不満をのべると、なにをいってるんですか、これは早い方ですよといわれた。
 ちょっとした油断で、残り少ない人生の歳月の2ヶ月が、しなくてもいい無駄をくりかえすことになっているわけです。人生とはこういうたちの悪い仕打ちを与えるものです。こうなったらどうするのか、ブログを再会しようと思う要因の一つでもあるわけです。

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ベッドから

2015-12-20 | 日常
 9月9日の投稿「2020年東京オリンピックと不幸」から、今日まで投稿を休んでいましたが、今朝、やっと投稿の原稿を書き出しました。実は、7月から右肩の腱鞘炎が左肩にも生じて、両手が不自由になっていきました。朝もベッドからかんたにおきられなくなっていきました。なんとか、手で体を引き起こすようにして起こすことはまだ可能ではあったのですが、9月になると、両手首も腫れてきて、起床は不可能となりました。それは電動ベッドを借りて、なんとかなったのですが、激痛が日夜を問わず襲い掛かって、不眠がはじまり、鎮痛剤の最後の頼みの綱、ボルタリンを服用したところ、激痛にほとんど効かないのに驚愕させられました。あの抜歯の痛みさへ簡単に止まったのに、なぜだ!!という驚いたのです。

 ただ、どんな激痛であろうと、耐えられないことはないので、耐えられなければ死んでしまうわけですから、まだ死にたくはないので、その欲望で、痛みをしのいではいけました。その対処については、いずれブログで詳細にのべてみたいと思います。

 9月中旬になると、手首ばかりでなくて、膝から下も腫れだして、歩行も困難になって、一日中、ベッドで寝ているばかりの毎日となっていきました。痛みも慣れてきたせいか、なんとか耐えがたい激痛は弱まっていきました。不眠も日常になってきたので、これもなれてくるのですね。

 ただ、両肩、両手手首、膝から下の腫れというのは、ほかの症状ではないのかという、まわりの懸念や僕自身もそうかもと思い出して、近くの善仁会病院に行きました。そこで宮崎医大から派遣さこれはれていた若い女医の診断と彼女との対話でいろいろわかってきたのですが、いくら両肩を無理したからといって腫れるということはないということを知ったわけです。そして,原因はリュウマチか、なにかがある、リュウマチなら一発で治せるのにと言われ、、検査したところリュウマチではなくて、感染症にもなっているということも分かったのです。炎症係数もふつうなら0.2なのに12もある、この炎症の原因はなんなのだろうと彼女がさぐっていってもらい、上司の外科医とも相談の結果、「偽痛風」を突き止め、その対症療法で、ステロイド投与(関節ない注射)となったのです。
 
 その処置が功を奏して、ようやく激痛から解放され、進行も止まり、11月の下旬から、ベッドからでられるようになったわけです。ようやく自転車で5キロくらいは走行できだしました。3時間くらいは、起きていて行動もできますが、そのあとはベッドで休んで、体力を回復させる必要があります。いまは、ステロイド剤のプレド二ゾロン錠と鎮痛剤セレコッコックス錠を服用して、自然治癒をまっているわけです。

 うまれきりて初めての長期療養で、身体に自由を奪われ、激痛の数か月という体験は、まさに意味深で興味ある毎日です。体重は56キロから48キロ台になり、主として40年間に蓄えてきた筋肉が削げ落ちてしまったのがわかりました。こうしてぼくの人生は症状前とは、別の次元に入っていったことを自覚させられました。もう自転車で50キロを走ったり、500メートルを一気にクロールで泳ぐような体にはもどれないと思います。それはそれでいいですね。痛みも消え、一人で衣服も着脱でき、毎度に食事もおいしいのであれば、これ以上の欲望はないとつくづく
感じますね。ということで、ブログ復帰をご報告いたしました。
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猛暑、サンダルを求めて

2015-08-06 | 日常
 現在、九州全域はもちろん日本列島でいちばん炎暑を免れているのは、宮崎市である。太平洋で
ひやされた大気が、東風となってこの低い家並みとビルと野原の市街地を20キロ先の九州山脈まで
吹き抜けていくからである。しかし、太陽光線は圧力を感じるように照射しつづてて、コンクリー
ト道路は摂氏50度を超えている。

 歩行するのに靴と靴下では歩けるものではないので、サンダルを求めて、店を先週日曜以来、ひま
をみて回った。自転車で5分のイオンショッピング・モール、川向こうの新しくできた大型店のニトリ
や、スポーツ店などである。またダイエーの流れを汲む百貨店の靴売り場、イオンの旭スポーツ、良
品計画、大型靴店、ユニクロ、ブティック、セレクトショップつまり雑貨店、スーパーなどなど。だ
が気に入ったものは、見つからなかった。2年ほど前までは、安売り店でも、スポーツ専門店でも、か
んたんにみつがったのだが、ないのだ。これらの店、店でぼくが手にして、履いてためしたのは、ほ
とんど格好だけで、機能が、満足できないものばかりであった。

 あるスポーツ店で、店員にどういう基準で、サンダルを選んで品揃えしたのかと聞くと、おしゃれ
感覚ですと一言で答えられた。なるほど、てかてかと光ったもの、あちこちに余計なバンドがくっつ
けられて、かんたんにつっかけられないもの、綺麗は色彩で、板のように平板なもの、またゴム草履
風なもの、曲がりくねったもの、ボート状で、ふちがつき、下が平底、サンダルの案内に海辺の楽しも
うなどとある。そうか、サンダルを海用としか考えてないのかと、はではでで、安っぽい草履風のサン
ダルも納得はできた。そして、全体の印象は、派手に見えて、安くて、手軽で、使い捨ての製作意図が
ありありとかんじられるのであった。こんな劣位のひと夏の日用品などに手間はかけられぬという販売
意識に不快感をおぼえてくるのであった。

 たしかに、この宮崎市では、家から自転車なら30分で海辺にいけるし、自動車で30分も走れば有名な
青島海水浴場、ここからはじまる日南海岸のさまざまの海水浴場にいける。しかし、小学生のこどもで
もいなければ、ひと夏に、海浜に行くことはないのが普通である。まして、自動車で3時間もかかるよう
な、東京などの都市住民が、海浜に行くことは、何べんあるのだろう。サンダルなどで楽しむひまなど
ないだろうと思う。サンダルは、海浜だとか、避暑地用ではなくて、炎暑の市街地を、靴よりも快適に
歩けるという機能の履物なのである。炎暑の街路を、快適に歩けるサンダル、これが、ぼくの求めるサ
ンダルなのだが、サンダルなどは、以前は手軽に簡単にすぐ見つかったものだが、デザインや装飾や、
低価格の保持のために材質が悪くなり、手抜きがあり、派手な形だけで用を足すに至らないというサン
ダルが山積みされていた。 
 
 ただ、なんとか、一点だけ、ぐうぜんに靴専門店「てづか」で見つけた。しゃれている。むだがない、
ウレタン底で、かかとがある。全体は紺色で瀟洒である。その商標が底にはりつけてあるが、あの映画
のトラック野郎の電飾看板のようである。そのアンバランスな商標に同社の時代ばなれした職人気質が
あるのかもしれない。MADE IN JAPAN と刻印されている。これもほっとした。しかし、はきごこちは、
おととし購入したサンダルよりも劣る。ここで、ふと連想した。サンダルも、冬、年末のNHK紅白歌
合戦のように外面だけがはってんし、中味はからっぽになった、あの勘違いの流れになったのか。

 サンダルよ、お前もかである。もうすこし、サンダル探しを、この夏探しつづけてみよう。見つかれば
いいけど。
 
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住宅街のパン屋さん

2015-01-26 | 日常
 土曜日の午後自転車で、宮崎駅西口から北へとゆるゆると走っていった。快晴で冬というのに、無風、真昼の日差しを受けて、マンションや事業ビルが白やピンクに輝き、何キロ先まで続いている。目を眇めなければならないほとの陽射しが、街を大都市のように感じさせてくれる。このままどこまでも行くことでもいいのだが、路地があったので、とにかく右へ曲がることにした。まもなく宮崎神宮の森に突き当たった。正面の鳥居から、境内を左周りをしだして、また路地があったので、ここを左折した。辺りは、低層のマンションや新築の住宅が区画整理さてて、並ぶ住宅街となった。午後1時半とうのに、自動車のエンジン音も、人声もせず森閑とした住宅街となった。

 と、角にパン屋さんがあった。ショーウィンドウからみえた棚は空っぽだが、オープンという案内は下がっていた。おそらくカフェかもしれない、となると、今ランチをパン食で終えたばかりなので、入っても注文できないなと、気になりながら通り過ぎて行った。

 次の角の二階建てのアパートの西壁に薄紫の地の看板が目を惹いた。細い針金をくるくるまいて一匹の犬にしてあり、毛深い犬の毛を針金が表していたのだ。あまり上手でない手描きの英語で、dog trimming FAIRY TAIL と描かれ、右下に電話番号があった。たったこれだけだ。fairy tail は、fairy tale のもじりなのか、尻尾(tail)が同じ発音のtaleといれかえられたのだろうか。ふさふさした尻尾を、おとぎ話と詠ませた。そのセンスの面白さが、人の気配の耐えた住宅地の真昼に密かにかかっている。パンの無いパン屋さんといい、にわかにここらの雰囲気に興味がわいてきて、あのパン屋さんに入ってみようと、自転車をめぐらせたのであった。

 こんどは、店から女子高生が一人出てきたので、パンはここで売っていますかと声をかけると、売ってます、だけどもうほとんどないですと、にこにこしながら答えてくれた。中に入ると言われたとおり、左右の籠に大きな丸型のドイツパンが数個あり、ほとんどパンは無かった。人も居なかった。奥の部屋から上品は40代半ばの女性が、出てきて、もうこれしか無くてすみませんと挨拶された。すぐにぼくは、同じ形、同じ色をした大型の丸パンを指して、どう違いますかと訪ねた。こちらは小麦100パーセントですが、あちらはライ麦が入ってます、値段は高いですけど返答された。ではライ麦の方をくださいというと、小さいほうの丸パンを手にしたので、大きい方をというと
有難うございますと大きい方を手にした。
 「このパンを切ってもらえますか」
 「どの厚さにしましょうか」
 「まあ、このくらいでしょうか、いや10枚くらい」
 と遠慮がちに言うと、
 「もっと薄くても大丈夫ですよ」といわれ、
 「では、8ミリくらいでもいいですか」と申し出た。
彼女は、すぐに奥の部屋に入ったが、また出てきて
 「このパン半分でもお売りできますよ」といわれるので
 「いや、全部いただきます」というと、安心されて、薄く
  切りそろえたパンが出来上がった。それを手にすると、今は
はっきりと、これは、ドイツのミッシュブロートと分かった。
ドイツパンを焼くところは、宮崎市では、珍しい。ライ麦のシュヴァルツ・ブロートの重たい黒パンなどとなると、2店舗を知っているばかりである。
 「奥さん、このパンはここで焼いていらっしゃるんですか」
 「はい、この部屋で焼きます」
 「このお店はいつごろ開店されたのですか」
 「今年で9年目になります」
 「そんなになるんですか。その頃、ここらに住宅はあったのですか」
 「古い家はありました。このビルが出来たのは3年前で、それ以前は、店も木造の小さなも  のでした。」
 「その当時でも、ここらでパンは売れたのですか」
 「え、なんとか、ここは、抜け道のような道路でして図書館  や芸術劇場などに行く人た  ちの通り道になってました」
なるほど、そういう地の利もあったのかと、想うのであった。

 帰って妻に見せると、なにかというと、こっちの買い物にケチをつける彼女が、人目みただけで気に入ってくれた。その一切れをちぎって口にすると、ライ麦の酸味と香りが豊かさを感じさせ、塩味ながら、かすかな甘味もあって重厚であった。これは材料がいいわねえと、彼女は賞賛した。あんな住宅地にこんなパン屋さんが、あったのだ。こうした意外性に、市街を自転車で彷徨っているとであえるのだ。自分でみつけるということは、この価値感が錯綜しているなかで、大きなもうけものをしたような気持ちにさせられる。 
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目で見たもの どっちがほんとうなのだろう

2013-06-19 | 日常

 赤江大橋から目を射る一列の輝く照明は、宮崎空港の空港ビルにとりつけられた投光照明であったと確認できた。一昨日は、日中30度ほどの猛暑であったが、日が落ちると、午後8時過ぎには、涼しい風が吹き出してきた。投光照明の正体もわかったし、今夜は、幽霊の正体みたりという気分を味わおうと、大橋に出てきた。照明は、橋上に出ると、20メートルほどでぎらぎらとした光の並びが一直線に並ぶのが目を射た。

 それにしてもこの輝き、現場で光っているのに比べて、なんばいも輝きを増しているのだろう。それにその大きさも、そしてその直線のならんだ行列の長さ、どうみても、前夜に見た空港ビルの壁面に収まっているようなものではなかった。これは目の錯覚なのだろうと、街灯風の照明を確認しながら歩いた。黄色味をおびる照明は、赤江大橋から見えてくる、あらゆる光のどれよりも明るいのだ。あの黄色の光線のせいであろう。それにしても大きい。大きいのは満月が出てくるときに天空にあるときの何倍も大きくなるのと同じ理屈であろうと思った。

 あの空港の金網に手をかけて眺めたときは、はるかに輝きは弱弱しかった。それに、目の高さくらいの位置にしかなかった。それが高いポールの上の街灯に見えるのは、どういうわけなのだろうか。なぜ、この位置からは地上からそびえるポールの上にみえるのだろうか。その街灯風の並びをあらためて見ながら、歩き、停まり、全体を眺める。なぜ、これほど、橋の上からは、一キロ近くも直線になっているのだろうか。空港ビルは長くても200メートルくらいではないか。300メートルほど前方の川岸にそって7、8階建てのマンションが蛍光灯の外灯を光らして、建っている。直線にならんだ照明は、その2個の照明の間にこのマンションの一棟を楽に挟んでいる。ということは、マンションが小さく見えるから、比較して照明が大きく見えるのだろうか。これも錯覚か。そのとき、はっと気づいたのは、マンションが遠方で小さくみえるのなら、空港ビルはもっと小さく見えるはずではないかということだった。照明だけがなぜ、拡大しているのだ。さらに目の先に2キロほどはなれたところに橘橋がある。その外灯は、線香のあわい光のようにかぼそい。1キロさきの大淀橋のものでも、輝いてはいるが、小さい。同じ距離にある空港ビルの照明が、なぜその何倍も大きく輝くのだ。目の錯覚だけでは、説明が聞かない。

 この照明については、説明が不可能になってきた。となると、結論は、空港ビルの照明ではないということだ。じゃあ、その夜、ぼくは何をみたのだろうか。別の照明をみたのか。この照明は、まだべつのところにあったのか。結局それを確かめるしかない、こうしてあらたな疑問が出てきだした。これじゃ眠れそうも無いと、ウォーキングを終わった。

 翌朝、土曜日、幸い臨時休業となったので、午前10時半ごろ、双眼鏡を持って、(この手のひらにはいる倍率8倍のニコン双眼鏡)赤江大橋から、あの照明の正体をたしかめようとしたのだ。だが、双眼鏡では、見えないのだった。空港のビルさへ視界に入らない。たぶん、もう30年前ごろ登山を毎週のようにしていたころのもので、長時間ほっといていたため、視界もにごり、レンズもカビが生えて解像力は低下しているせいかもしれない。そこで、ふたたび、照明を求めて空港に自転車をはしらせていった。今回は、前夜とは別の西から細い農道風な道路をぬけ、ダイキン工場横から、エコア工場にいたり、例の鉄条網についた。みると、ありました、8メートルほどのポールの天辺に左右に並んだ4個の投光灯がついていたのが、それは空港ビルについているのでなく、ポールで、11個が並んでいた。その間隔はおよそ100メートルであった。これであったのだ。だが、それなら、ぼくのみたものはなんだったのか。そこで、疑問がまたわいてきた。

 日曜日の夜、ふたたび、ぼくの見たであろう空港ビルの照明をたしかめるために空港に向かう。いったい何を見たのかと、鉄条網の前に近づくと、はじめて、同じ照明を見ていたのがわかった。実は空港ビルの輪郭は、見えなかったのだ。ビルの1階と2階の並んだ窓の灯りだけが、実は見えていたのだ。建物は、この窓の灯りのほかは暗闇の中に消えていた。空中に光っている投光照明はそこで、見えない空港ビルに設置されたように見えたのであったわけである。つまりビルの輪郭は見えないが、ビルの全体が見えていると錯覚した。投光照明のポールは、ポールをみることができず、ビルに設置されているように見た。あるべきものが見えず、存在しないものが、存在してみえていたのだ。

 それから、ふたたび、ぼくは、その夜、橋上からあの外灯風に堂々と夜の闇にならぶ照明を見るために歩き出した。なぜ、外灯が、たかだかと道路上高く並んだ街灯にみえるのかを確かめた。わかったのは投光照明部分しか実は見えないのだが、つまりそれは、バイパスの有料道路の土手の上にわずかに出ている部分だけが見えていたのだが、道路の土手の部分と、その手前の平野や住宅は全部、暗闇に溶けてしまっていたので、その暗闇が空間になり、照明は、空中に高く輝くように見えていたのだ。おまけにそれはあるはずもないポール支柱の上だとみえたのであった。つまり見たというが、自分で想像していたのだ。つまり客観的存在は、いとも簡単に夜の闇によって、消滅し、かわって思い込みや既成概念による存在に変じてしまうことを、あらためて実感できたのである。かんがえてみると、この錯覚の必然に起きることはじつに恐ろしいことである。
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目を信じない その2

2013-06-14 | 日常

 真っ暗闇をランプで足元を照らしながら進んでいくと、小川があり、橋に突き当たった。そこから左のほうに住宅が寄り集まって団地のようになっている。そこは10年ほど前に次男夫婦が格安の一戸建てがみつかったと借りていたことがあった。畑も30坪くらいついていて、閑散とした一軒屋であった。村でもなく新しい住宅地であったが、コンビニと美容室があるばかりの侘しい住宅街であった。2年ほどして、二人はいわゆる団地の家を建てて引っ越した。かれらのあとを借りた若い夫婦は、まもなく畑にマリワナを栽培していたとして、逮捕された。この住宅街を過ぎると、200メートルして、ふたたび、道路脇に家が並びはじめる。家といっても住居ではなかった。

 住居ではなくて、工場、倉庫、事務所などの広がりである。樹木一本もなく、道路も構内もセメントの舗装で草も生えていない。人の気配もない。薄暗がりの中で、建物の看板を判じながら、ここは工場、ここは事務所、ときにはオーナーの住居があるが、日常生活の気配はまったくない。犬もいないし、猫が一匹だけ道路に出ていた。腰を下ろして、手をさしだすと、さっと逃げ去った。
ぼくの日常とかろうじてつながっているのは、看板から推察できる建物の内容であったが、それさへも、ほとんどわからなかった。ただ一つ、「奈良鐵工」をみたとき、あの工場は、ここに移ったのかと、懐かしかった。城か崎の通りにあって、昭和30年代、40年代と、ここのオーナーであったか息子さんだったかしらないが、資産家として大分貢献して、宮崎市文化協会の事務局長なども引き受けた人だったが、その後、消息も絶え、工場もなくなっていたのだ。こういう場所でその名をしるとは、驚いた。

「液化石油ガス製造」という赤い文字だけの看板などもあったが、ただの大きな倉庫のような建物で、製造しているとは、想像できなかった。いや製造するとしても何を製造品としているのか、つかめない。電話番号も会社名もない。ここにあるだけである。ダイキン工場もあった。さすがに門柱があり広い構内に数台の車も駐車していたが、人の気配はまったく無かった。ダイキンといえば空調の一流企業だが、ここでなにをしているのだろうか。そういえば、この一帯の入り口にはダイハツがあり、ムーブ、ミラなどの車名が4種類ほど書かれていたが、整備工場にも、車販売所にも事務所にもみえなく、なにをしているのだろうかと、その門内をうかがったが、これも不明。隣は巨大な倉庫があった。番号で区切ってある入り口が17番から30番まであるのだが、「菓子入庫」とあった。どんな菓子がこの巨大な倉庫に収められているのだろうか。17番以前の番号はなく、こんどは1番から14番まで、やや小さい数字で書かれて入り口がならんでいた。「雑貨庫」と表示されていて、この番号は右の「菓子入庫」の番号とは関係ないようだ。両者の間には、シャッターのしまった部屋が3部屋ならんでいた。雑貨のほうは、どうして「雑貨入庫」としないのだろうか。ここも謎だ。宮崎畜産というのがあった。かすかに「豚舎」の匂いが当たりに漂うが、それにどどどという音も聞こえてくる。どこでなにをしているのか見当もつかない。そんな建物の並びに組合もあり、個人の事務所兼住宅もありで、すべてが、ばらばらで、関連もなく、闇のなかに孤独に立ち並んでいる。だが、その一つに「宮崎高等技術専門校」とあった。誰もいない。侘しすぎる。こうして、横に入ったり、引返したりして、とうとう道も尽きるところで「エコア」という看板で、鉄条網の塀があって、行き止まりになっていた。

 その鉄条網の向こうが宮崎空港であった。真正面に空港ビルが建っていた。屋上がデッキ,2階部分が送迎ロビーか、横に長いが、およそ200メートルほどだ。その建物に探していた照明がついていたのだ。これか、これだったのかと、唖然として光る照明の列を眺めるのだが、あの赤江大橋からみるのと、とても同じ照明とはおもえなかった。まずか細く小さい。なによりも、目のやや下に見える。ビルにつけられて、到着した飛行機周りを明かす投光照明器であった。こんな当たり前のどうということはない、景観であった。それは、ぼくの見る橋上の照明のイメージを、容赦なくぶち砕くのであった
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アベ成長戦略 スローガンとポスター取引

2013-06-06 | 日常
 朝のNHKテレビ番組は、安陪首相の演説、そのしめくくりシーンが放映された。・・一人ひとりがその生き方に誇りを持ち、それぞれの持ち場で全身全霊をぶっつける。「芸術は爆発だ!」岡本さんの言葉は実は人生論であり、成長論であると思う。今こそ日本人も日本企業も「爆発」すべき時だ。民間活力の爆発ー。これが成長戦略の最後のキーワードだ!!
 おいおい一人で爆発しているのは、あんたやないかと、その舞い上がりぶりはクライマックスを迎えてきていると思えたのだ。後、演説要旨を読み、成長戦略目標をみると、相変わらず3本主義で「女性の活躍」「世界で勝つ」「民間活力の爆発」となり、
 
3年間で、民間投資70兆円を回復
2020年にインフラ輸出を30兆円に拡大
20年に外国企業の対日直接投資残高を2倍の35兆円に拡大
20年に外国企業の対日直接投資残高を2倍の35兆円に拡大
20年に農林水産物・食品の輸出額を1兆円に
10年間で世界大学ランキングトップ100に10校ランクイン

などなど...だがどうやったらそうなるの?である。とにかく世界に勝ちたいらしい。それはそれでやればいいだろうと思うのだが、やるにしては、世界無視のおのれだけの宇宙での物語としか思えない。世界企業が日本の思惑通り、直接投資を2倍に拡大するのだろうか。世界に2020年までになにが起きるのかも予測されてなく、たとえばアメリカがずっこける、ドイツが停滞する、中国のバルブがはじける、中東で戦争が拡大する、何が起きても、日本の経済は甚大な危機に直面するわけで、それが年平均3.5パーセントを、日本だけがつづけて、国民所得が、一人あて150万円増加するとか、現実を無視し、排除して、自分だけが世界の中心のようなイルージョン・・・。

 花は咲く、花は咲くだが、咲いた花が、写真になり、ポスターを彩っているばかりだ。どうやって花が咲いているのか、これから咲かせるのか、その土壌は、肥料は、根はどうなのか。爆発だ、
「芸術は爆発だ!」岡本太郎のとうのたった言葉などをもちだして、国民の自覚をうながすなどとは、どういうつもりなのだろうか。「進め一億火の玉だあ」とか「欲しがりません勝つまでは」とか「鬼畜米英やっつけろ」とか、どこか戦時中のスローガンと似ているように思えてならない。ぼくなんか、あんたから言われなくても、爆発!などという人生論など、無用である。世界で勝つなどなんの目標でもない。だいたいぼくの人生には、スローガンとポスターはない。もっと一人一人の人生目標に基づいた、やさしい犬や猫のような地について生き方があるのだから。

 明日の就職も、定かならず、100社以上の企業をまわっても就職できず、大学も大学院浪人までしても派遣社員のまま、法科大学院を出て弁護士になってもコンビンでアルバイトするしかない若者たちの、こんな状況を改革するための実現は、それこそ人生論に基づいて哲学的回答までもふまえた成長戦略がかんがえられるはずである。

 首相にとっては、爆発興奮状態に陥った国民が、個人より国家を上とみなし、つまり基本的人権を国家にかなり返上し、主権が国家にもどり、国の1000兆円の借金を返済するために社会保険料の削減、増税を、国民が積極的に取り組む、この取引に応じるための戦略が、本音では画策されていることではないかと、思えて仕様がない。まさに魂と物をとりかえようとする灰色コートの男(シャミッソー影をなくした男)ファウストのメフィストの取引を連想させる。取引ポスターとスローガンを、市場が判断を降ろす。市場の冷酷さが今は救いである。

 今朝は夕べからの雨が止んで、冷え冷えとしてきだした。爆発したいやつはしろ、ぼくは冷える。

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総動員風 国民

2013-06-05 | 日常
ゲーテのファウストは、いよいよ悲劇第2部の冒頭に入ったのだが、昔は、偉大なるゲーテ作品ということで、恐る恐る読み進んだのだが、西欧教養主義が吹き飛んでしまった今は、なんだこの本はと寝転んで速読していける。大仰な自然描写はあい変わらず、舞台風景であるが、いよいよ悪魔から自分を取り戻すファウスト博士の大団円へと向かっていく。しかし、神様がどうだこうだと、天使が空を舞うとか、恩寵の光が、山肌をなめるとか、そんな宗教風景は退屈である。ただ悪魔メフィストの誘惑をどう断ち切り、人間の本来にかえれるかどうかのプロセスが見ものである。
魔女たちの祝祭をするブロッケン山を降りながら、彼は聞く、悪魔の声。

メダカも群れればさまになる。こわがり、意気地なし寄っといで!
ブロッケンお山とドイツ文壇は 幅広主義で、みな仲間

 幅広主義という訳語が生硬で、意味がはっきりしないが、なんでもありとか、定見がないとか、だれもかれもいい加減なあほだという軽蔑が含まれている。明治時代ちょっと前のドイツもまた産業国家への脱皮へと時代の変化に出くわし、その激変に対応できぬあるいは、する気も無い文学者仲間ににゲーテは、憤激を覚えていたのだろう。そんなことは、おいといて、文壇のかわりに、ここを、テレビの中ではとすると、意味がおもしろく通る。「ブロッケンお山とテレビの中は、幅広主義でみな仲間」で、ちょっと刺さってくる。さらにつづけてファストは言う。「自分は進んでいるつもりでも、実は押し流されているんです」と。夕べのサッカー日本対オーストラリア戦の実行中継をみると、ぼくはサッカーの試合もさることながら、あの青のユニフォームで統一してしまった、6万2千人という観客、そのほとんどが若者たちの光景に息をのまされたのであった。実は息を呑まされるのは、かれらの行動ではなくて、その報道の仲間ぶりである。日本中が、日本国民全員が、こうなってしまったという現実で、すべての話をつくりだしていく一斉報道である。

 この前、銀行の給与振込み日で、近くの宮銀支店に行った。月末はどこの中小企業も個人商店も
支払いなのか、混んでいる。その場には、この不景気の街でありながら、どこかに活気があり、それぞれの個人にある緊張感を感じるのであった。ぼくの目のまえにも、背の高い若者のやや猫背になって順番を待っていた。黒づくめのドレスの下は筋肉質の肉体が、その肩までしかないジャケットの下に想像できた。まもなく呼ばれて立ち上がったかれは80近い背丈に感じられたが、かれは彼女であったのだ。彼女はゲイでもなんでもなく、その声、改めてみる肩までみえる腕の白さ、柔らかさがまごうことなく女性であったのだ。行員との応対も自然と女性の対応であった。その横顔を注視した。それはまたショックを与えたのだ。その年齢が見当がつかない。30歳を回った年頃なのか、もはや60歳をうわまわった悠々自適の身分なのかがあいまいなのだ。顔のホウレイ線が、彼女を老女とかんじさせるが、体躯といい肌といい、つやのある声といい老女にはみえない。さらにどういう職業、身分これもわからないのであった。

 性別、年齢、身分がなんとでも取れるという多様性が、圧倒的存在感となっていた、彼女が、この銀行を利用するぼくの街のどこかに住んでいるということに、おどろかされたのであった。個人というのは、これほどの差異があるのだ。こうした日常に出会えることを思い出した。総動員されるまえに個性をもつこと、それはなによりもおしゃれであろう。こういう夢を与えて欲しい若者たちが、まだまだいっぱいるのだと、ぼくらは知っていくことが肝要であろうかと思う。
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国家と自分 温泉つづき

2013-06-03 | 日常
土曜日の午後でかつ小雨が肌寒く降るとなると、予想以上にカエダ温泉の浴槽は満杯であった。浴槽の縁にそって、お湯に浸かっているご老人たちが気持ちよさそうにしていた。蛙が田んぼで並んで、口をぱくぱくしているのどかな風景でもある。ぼくも一匹の蛙であると思うと、愉快になる。カエダ温泉の午後、浴槽に並んだ蛙たちは、一匹も国家のことなど考えているものなどはいない。耳を澄まして蛙の声を聞いてみても、憲法改正などという気配すらない。これが暮らしというものではないか。僕の心は豊かなお湯のように浴槽からあふれている。おい、こういう蛙は、非国民だと矢が飛びそうな、あんたは非国民だ!!と、矢が飛んでいた、そんな戦前時代を、多くの蛙たちは知っている。もうだれもそんな国家なることなど考える気分もない。国家などは蛙が考えなくても、いい国家を実現していくのが、民意を代表する政治家の義務じゃないか。そのために権力と高所得を与えられているのだ。蛙は温泉でのんびり、あんたらは国家のために日曜日もなく働く、どちらも人生である。選んだ人生に忠実でなければと思う。この温泉蛙たちを自己実現の材料や道具にして踏ん張っていくならいけばいい、知ったことか。こちらとはなんの関係もないのだ。国民総動員で、国が強くなって何の得があるものかと思う。だから、撒き餌がいるのかな。蛙を釣るために。これアベノミクスじゃないのか。国ゆたかにして山河滅ぶ。

 次の朝の日曜日は、小雨模様の朝であった。午後はまた温泉に行こうかとなって、午後4時ごろまで掃除や昼食の炊事など家内とやり、空いた時間は、本を読む。ぼくは小説など何十年もごぶさたしてきたが、先日、書架から本を一掃するなら、とボール箱に山済みにしていたら、岩波文庫のゴーゴリーの「死せる魂」があった。ふと手にして読み始めたら止まらなくなった。死んだ農奴の戸籍をあちこちの地主から買い取ってまわる男の物語だが、この死んだ魂でなにをするつもりかと疑心暗鬼やら、売るにしろ売らないにしろ、死んだ農奴で、なんとしてでも利益を取りたいという地主たち、県知事や判事や、政治家たち、この底知れぬ欲望にまみれたものたちの行動、かれらこそまさに「死せる魂」、これらが演じる報復絶倒の喜劇に、笑えに笑えるのであった。昔はここまで面白さがわからなかった。さらに本をほじっていると、ゲーテのファウストも目に付いた。読見始めた。これは大人のための仰々しい大絵本である。だが辛うじて、あちこちに埋められている行間の言葉が、光る。たとえばこう。
「無理にも相手を言い負かす気で 馬鹿のひとつ覚えをくりかえす奴は、議論に勝つに決まっている。さあ行こう、もうおしゃべりは沢山だ。」ファスト3070行 まさに誰かさんのことだ。

 家内にせかされて、タオルなどを温泉グッズにくわえていると、「あなた、こんげな分厚い本を温泉なぞに持っていかないでよ!!」と叱るのだ。偉そうに本を読むのを、人にみせびらかすなという注意である。そうでもないんだけど、まあいわしておくか。

 ところで、青井岳温泉の夕飯、季節限定メニュー「くんぱちのあら煮定食」1050円は、想像以上に美味かった。こんない美味しいあら煮とえび、野菜の天ぷらを料理する、シェフこそ、彼は国民料理家ではない。英雄でもない。まさに料理人であるかと、うれしくなった。
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温泉 小雨の土曜日午後

2013-06-01 | 日常
宮崎市は、朝から久しぶりの雨だ。冷やりとして湿気を感じさせない日中になっている。午後から休みなので、温泉に行くことにした。その温泉の電話しようとして電話帳を探してみると、その名称が乗ってないのだ。カエダ、カエダと言い習わしているのがない。おそらく、カエダ温泉のに国民休暇村とか、休養施設とか、みんな調べてみてもない。もしかしたら、これに宮崎市とかまだ加わっているのかもしれない。たとえば「国民保養センター国民宿舎石崎浜荘」という正式名称の温泉もある。なんのかんのびらびらが、核心の名称にくっついてしまって、企業名電話帳や、職業別電話帳のどこに記載されているのか、わけがわからなくなるのだ。30分もかかって検索をこころみたが、ついにダウンしてしまった。もう時間がない。出発の待ち合わせの自動車がくる。

 留守の自宅で、こどもやまごに何かがあって、すぐに電話したいということが出来したときに、
電話番号が探せないということになってしまうのだ。これは危険なことである。

 日常感覚とはなれた、呼称の形式で、電話帳の形式とととのえるという間違った発想を、編集者はもう一度きづくべきであろうし、いい宣伝だと思って、自分の店のレストラン名を載せたところ
レストランなになにとか、西洋厨房なになにとか、お好みの店なになにとか、その店について、思いつくことも出来なくて、宣伝効果どころか、店自体が消えてしまう。それで毎月かなりの掲載料をとられるということになってしまう。

 日常感覚にもどろう。これが国民の願いではないかとおもう。
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白内障手術 裸眼1.5の視力

2012-12-01 | 日常
目の前が見えさへすれば、それが出来ないから、ここ20年近く、いらいらしてきて、なんとかしのいできたのだ。それもだんだん出来なくなり、たどり着いたのが白内障の手術だったのだ。それが、一夜にして、裸眼1.5の視力(右目)となったのだ。乱視も矯正されたので、焦点のあった写真を見るようにみえだした。夜の赤江大橋から川上の小戸之橋、ここからさらに800メートル先に大淀大橋が、そこから600メートルはなれて橘橋が架かっている。その橋それぞれを走る自動車のヘッドライトの流れを見ることができだしたのだ。2キロ先の橘橋の上のライトは、なにか薄い針の先端よりも細かい点がときどきちらちらすると思えただけで、自動車のライトかどうかは、判断できなかった。そこで掌中型のニコンの双眼鏡で覗いてみた。光はまったく見えなかった。そんな弱い光点は、レンズが集光できなかったのだ。だが肉眼で、毎晩、眺めているうちに、今ではそれが橋上の往来する自動車のヘッドライトだとわかるようになってきた。1.2キロさきの小戸之橋までは、橋の姿は見えるが、橘橋は見えない。光点は、空中をゆっくりと移動するミクロな細菌か血球かのように幻想的に見えて、見飽きない。双眼鏡でも捉えられない光点を、目が捉えているという肉眼の能力に驚くのである。

 これまで、街路に溢れる看板は、デザインでしかなかった。だが、今は文字の情報であり、看板を代表する店名とか、販売品のほかに、店や物品の特色や電話番号、ときには番号に振られたカタカナ、町名などなど、看板には、懸命の工夫で各種の情報が集約・配置されているのを、あらためて知ることができるのであった。それが、何十枚、何百枚と、市街を自転車で走ると目の前につぎつぎと現れ流れていく。この商業の営みの真剣さ、切実さ、哀しさに胸を撃たれるのだ。これらにすべて、平方メートル当たりの看板税を書けている宮崎市の安易きわまる徴税に、あらためて怒りを感じるのだ。いや、これを黙って諦めている宮崎人のふがいなさ、人の良さを思わざるをえないのだ。取るべき税金はもっとほかにあるだろうが、いや、そんな姑息は手段で、宮崎市の商業を閉塞させる手段よりも、ほかにいくらでも手段があるだろうにと、思うのである。これが裸眼1.5が感じさせた認識の一つでもあった。

 先週日曜日に、ひさしぶりにサイクリングで国富町まで大淀川堤防沿いに走っていった。この日はサングラスをかけての走行だった。数百メートル先の樹木の葉の一枚一枚が確認できるほど、はっきりした映像が広がり続いていくのだ。それまででも、走って見える風光は楽しめたのであったが、いつも涙目になるので、なんども涙を拭う必要があった。これがまったく無くなって、走っている間中、何時間でも遠景も近景も注視つづけることが可能となった。5キロ先ほどの家屋や電柱を捉えて、あと15分で到達できるなとかを、計れるので走行がより快適になってきたのだ。

 毎日、このように見飽きぬ風景に溺れている日常がつづきだしたのだが、これが70年前の少年時代に眺めていた風景なのかと思うと、俺は子どものときにこんな風景をみていたのかと感動するのだが、もちろん、そのときの自分にとって、目に映る風景など、まったく自明のことで、これがどうなのと、自覚などしているわけではなかった。比較できるものが生じて、おどろきがうまれたのだ。なんといっても、この感覚は、天が与えてくれた、予想もしなかった贈り物であると思わざるをえないのだ。これは金銭や権力とは、関係ない果実でもあろう。

 ただしかし、この視力とは、瞳に埋め込まれたレンズに拠って、ぼくにうまれてきた視力1.5なのである。つまりこの部分が人工なのである。つまり半人造人間になったのではないか、アンドロイドである。自分自身を出来損ないの人間と生涯をとおして感じつづけてきた自分にとって、この人造人間化はまた愉快なことであり、人生への復讐心を満足させてくれるのでもあると、いうと大げさかもしれないが、この感じはたしかにあるのだ。島田雅彦はあまり好きな作家ではないが、「僕は模造人間」という小説を書いているが、自分をいうことからどこまでも逃れたいという思い上がった文学を今思い出した。それよりも現代美術の山口晃(やまぐちあきら)の画「富世おばか合戦 おばか軍本陣図」を思い出す。それは戦国時代の武者行列だが、それをみると、なかには腕が機関銃になっていたり足が単車になっていたりと、現代の武器となったアンドロイドになった武者がかくされているのである。つまり、昔の武者が現代と融合している。この快感が楽しい。あるいは、小沢剛(おざわつよし)の人と物を合体させた日本画である尾形光琳のリメイク、あるいは加藤泉の人と動物の合体人物の連作、あるいは幼児と自分を融合させた奈良美智(ならよしとも)などなど現代美術作品のあれこれを、つぎつぎに思い出してきた。人は人から、自分から逃れたいと、たくさんの人が願っているのかもしれないのかと思うのであった。

 そして恐るべきなのは、瞳でさへ、手術によって交換すれば、別の世界がみえるほど、変わるのだとすれば、脳の構造も白内障的故障は、かならず生じているはずと思えるのだ。それを取り替えたとしたら、自分の意識というものは、それまでとは一変する。どこまで白濁した意識で見なれていた世界をそのまま現実として認識してだけという体験の甘さに、どれほど「愉快な」ショックをうけるのだろうかと思うのだ。80歳になって、まだ自分が天下の政治家だと思っている石原慎太郎などの脳みそは、どうなんだろうかと思うのだ。多分、かれはもうすぐ、脳の白内障を自覚せざるをえなくなるのではないだろうか。それいぜんに肉体はミイラ化、意識はツンドラ化、これが人生なのを自覚できるのが、超高齢なのである。ただ、天はこの段階の人生でも贈り物を忘れていないのだ。これをもらえるかどうかが、いちばん生きている意味ではないのだろうか。今は毎日、この新視力に心を奪われている。やがて、日常になってしまう感覚を書き留めておきたいと、記した。
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白内障手術 手術を終わって

2012-11-29 | 日常
 翌朝、目が覚めると、目の中のごわごわした違和感も無くなり、沁みるような痛みも消えていた。眼帯が突っ張るだけで、きわめて平常な目にもどっていた。このことが、これまでの不安感を拭い去ってくれるのだった。今朝は午前8時ごろに来院してほしいということなので、定刻に8キロ先の宮崎市下北町の新城眼科に長男の嫁に送ってもらった。ややあって、順番が来て、看護師が包装紙でも剥がすように、あっさりと手早く、眼帯を剥ぎ取ってしまった。もう目を晒して大丈夫なのかと思う暇も無いくらい、いっしゅんの作業であった。そのとき、術後最初の世界がみえたのだが、新しい視界はよくわからなかった。ほっとした気持ちだけがつよく、ものを見つめる意識がわかなかったのだ。担当医から、異常なしと告げられ、あっという間に診察も終わり、右目は、見るべく放置されたのであった。そして、見て分かったことは、色彩が冴え、輪郭が明晰になり、やたらとまぶしい光景になっていたことだ。左目だけでみると、黄色い光で覆われた世界は、右目では、白い光で冴えていたということであった。

 もう痛みもなく、目の不快感もなく、日常の体調にもどったので9月以来つづけている夜10時のウオーキングに出て行った。近くの赤江大橋の往復である。2ヶ月ほどの間に早足で歩くほうが快適になってきていて、目を使わぬ夜の散歩でなく、エクササイズとしての歩行となってきつつあった。だが、この夜は違った。なにがどう見え出したのか、これがなによりの関心となっていたのだ。こうして初めて世界を本気で、新しい目で見ることになったのだ。

 まず目を凝らしたのは、この橋の川上600メートルところに架かる「小戸乃橋」の上を走る自動車のライトであった。赤江大橋に上ったとたんに見える往来する自動車のライトを見ると、今回は、その光があきらかに左右2個のヘッドライトとして見える。さらに後ろの赤い左右の2個のテールランプが走るのがみえるのだった。それまでは、輪郭のぼけた光の行列だったのが、モノとして認識できたのであった。どうもこれまでの乱視もなくなっていた。思わす驚嘆して、ヘッドライトとテールランプの往来する様を見続けた。すると1キロ先の鉄橋の上を轟々と音をならしながら列車が渡っていく音が、いつものように聞こえだした。音のほうをみると、列車の走る姿が見え、その客車の窓が並んでうすく黄色く光っているのが見えたのであった。それまでは、音しか聞こえなかったのが、窓が闇夜に並んで走っているのが幻想的に見えたのだ。

 橋を渡りきり、対岸につき、欄干から川岸を見下ろすと、駐車場の白い枠が並んでいた。そこに堀があり、土橋がかかり、草原の広場になっていた。これまでは、土橋の向こう側は2メートルほどの潅木の群れにみえていた。つまり橋の影が地面に落ちて、黒い潅木の藪に感じさせていたのだ。なにもかもはっきりしてきたではないかと不思議な気持ちであちこちと、見回し続けるのであった。そして、この対岸からふたたび、帰ってきて、橋の取り口から川上の方を眺めたときに、おどろくべき光景がひろがっているのに見入っていったのである。

 それまでは、暗闇の漆黒の空間に無数の明りが、綺羅星となって咲き誇っているのが、夜の光景として、一人歩きの寂寥をそれなりに慰めてくれていた夜の空間が、別の空間になって迫ってくるのであった。そこにあったのは、漆黒の闇ではなくて、重なりつづける建築物であったのだ。戸建の住宅、長屋風のアパート、低層のマンション、覆い被さるような大型マンション、商業ビルやデパートやホテルなどが、複雑な大小の形態を示し、そして黒から灰色までのグラデーションで、闇のなかにどこまでも重なりつづけているのがみえるのであった。そして光は、その建物の外灯や窓から発していた。空間はのっぺりでなく、立体として奥行き、巾、それにリズムをもって何キロも先まで重なり続けて闇のなかに広がっていたのだ。思わず息を呑んで、この空間に吸い込まれるような光景であったのだ。

 こればかりでなく、まだまだ光景の新しさについては、あるのだが、差し当たり、この目がどうなったのかを、述べてみたい。さてこの夜の後には左目の手術になるのだが、その時点での右目の視力は、乱視は強制されて、1.5になっていた。1.5というのは視力検査表の下から2番目の位置である。この最下位の標識も、目を凝らして推察でやれば、半分くらいは当たるほどの視力になっていたのだ。つまり裸眼1.5である。これがどのくらいの視力なのかは、手術後一ヶ月ほどの間に経験してきたことを述べて見たいと思う。裸眼1.5の人々は自分の視力の価値が分ってないと思うからだ。自分の価値は自分だけでは測れないのだから。
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白内障手術に踏み切り

2012-11-28 | 日常
 今年の3月中旬ごろから、パソコン使用も読書も15分とつづけられなくなってきていた。目のまわりの筋肉のこわばりをとくためにお湯に浸したタオルで暖めたり、パソコンや読書を控えたりで、なんとかしのいでいたのが、いよいよ効果がなくなりだした。そこで、7月からは夜は、読書もテレビもパソコンもやらずに過ごすように決意、そのような夜が流れ出した。また、眼精疲労に効くというビタミンB群の摂取、眼精疲労薬、ブルーベリーカプセル、ブルーベリーの300倍というポリフェノールをふくんでいるというボイセンベリーという植物からの抽出サプリメントの服用、豚肉料理の食事などを心がけた。夜はテレビもみれられず、本も読めずで、9時過ぎてウォーキングをやっていた。

 3ヶ月ほどして少しは良くなったような気がしたが、とても3時間も読書はつづけられないのであった。つづけるには、30分置きの休憩、目の筋肉をゆるめるための湿布、サウナでのもみほぐしなどもやった。そのうちに、老眼鏡をかけても細かい字は読めなくなっていった。そして、いつも目のまわりはこわばっているのであった。これだけやっても、ほとんど効果がないというのは、どういうことだと、さすがに疑問を感じ出したのだ。そんなある日、眼精疲労は肩の凝りとおなじで、治ることはないのだと聞いたのだ。なるほどと、そのことを理解できた。眼精疲労の原因があるはず、これが問題なのだと悟れたのだ。栄養や休息だけではどうにもならない原因があるのかもしれないと理解できたのだ。そこで眼科の診断を受けることにしたのだ。

 新城眼科に行くと、両眼に白内障が入ってきていると診断された。左目は加齢黄班変性の初期と診断された。どちらも視力の低下の原因であり、とくに加齢黄班変性は、視力のもっとも関わりの深い黄班の老化現象によって、ゆがんでみえたり、見たいものがはっきり見えなくなる症状となり、失明の危険もあるというのだ。ただ、まだ手術する段階ではないということであった。そこで、白内障だけでも手術しますかと、その場で言われた。自分で判断はできないので、医師の判断にまかせますと返事したところ、では専門医のもう一人の判断にあわせましょうといわれて、その日の診断は終了した。数日置いて、ふたたび別の医師の診断を受け、その場で手術を薦められ、10月17日右目、19日左目を施術することに同意した。そのときの視力は、右目は0.5、左目は0.4であった。

 白内障の手術が20分かそこらで終わるほどになり、手術後も30分ほどで帰れると聞いていたので、ほとんど気にもならなかった。心配なのは術後、目の視力が本当に戻るのかどうかであった。さらに週術中に注射針やメスやが目のなかにつっこんでくるのは気分がわるいなという不安もあった。ただ、ちょっとの辛抱だろうと思うのであった。

 施術前の検査が30分ほどあり、いよいよ、局部麻酔の投薬や注射が終わり手術台に横たわると、瞼が開いたまま固定され、すると、目に飛び込んでくるのは、輝く丸い光点が三つあり、それしか見えなくなっていた。目にどのような処置をされるのか、されているのかは、まったく分らなかった。これから水晶体を取り去りますという医師の声で、これまでぼくを楽しませてくれた水晶体が去っていくことに一抹の愛惜は感じたのであった。これからレンズを挿入します。はい、挿入をしました。まもなく手術はおわりですという医師の声をききながら、具体的な施術は、なんにも判断できず、ただ、輝く丸い光点だけがあり、スーと消えて手術が終わった。最後に消毒液が流され、その沁みる痛さと、ごわごわした違和感がのこったが、どうということはない痛みでしかなかった。眼帯をされ、30分ほどして、医院を去り、帰宅してみたが、痛みもごわごわもだんだん強くなってきて、なにをする気にもなれず、そのままソファーに寝そべって時間の過ぎるのに任せた。目のごわごわは執拗につづき、明日、眼帯は取り去るということだが、果たして、この違和感はどうなるのかという心配が大きくなっていった。しかし、悔やんでも仕方がない、理論的には見えるはすだからそれを信じていこうと、思うのであった。
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シグナルを規則正しく押す日本人

2012-09-08 | 日常
 
 四車線はあるが、真ん中は分離帯となっているから、この優に一車線分はある区分に入ると往来する自動車からを避シグナルを規則正しく押す日本けることができる。こんな道路ならば、シグナルが赤でもたやすく横断可能だ。このシグナルは押しボタンで赤になる。そこで、自転車で横切る中学生も、スーパーへ買い物に入る主婦も、散歩中のおじさんも、自動車が走っていようが、いまいが、決まってボタンを押してシグナルが赤になって横断する横断するのを見かけることがおおい。なんのためにボタンを押すのか、決まりだからである。十分、安全に道路を渡ることができるのに、ボタンを押す。すると、一分以上も赤のまま、単純に点いたままなので、通勤時間帯の朝や夕にはたちまち何十台の自動車が並んで停車、排気ガスをはきつづける。たった今自転車の高校生が数秒で渡ったためにである。なんでボタンを押すのか決まっているからである。これが日本人である。もちろんそういう人ばかりでなく、中学生でも老人でも、自動車往来の状況を見てシグナルを赤に変えずに簡単に渡るものもいる。判断ができない、決まっているから、ただ守る。こういう人が新興国との熾烈な競争をしなければならぬ企業で働いていくとなると、創意工夫や危機管理能力などは期待できぬわけである。したがって、生産も販売もかれらに勝て無いと、思える。

 香港で、中国政府は愛国主義教育を導入するということで、市民の猛反発を食っている。これが日本だったら、現況ではかんたんに導入されそうな気がしてならない。なにしろ、状況判断よりもなによりも規則は規則で守るという日本人であるからである。シグナル赤は安全のために設置されているのを理解しないで、規則としてしか理解できないのだ。つまり思考停止を日頃から習慣化してきている日本人であるなら、愛国主義などには、複雑な日本人の行動など考えずに済むはず、いっせいに決められたシグナルにそって行動できることには、なんの疑問もなく賛成することになるはずである。

 毎朝、毎夕、規則正しくシグナル・ボタンを押す、日本人をみるたびに不安と絶望を覚えるのだが、しかし、たくさんの知人たちはシグナル・ボタンを押さずに、危険を余裕をもって横切っていくのもみることができる。かれらの行動が、ぼくを勇気づけてくれる。

 学校現場の教室で、シグナル・ボタンは、状況を判断して押すと教える教師はいるのだろうか。交通整理のおじさん、おばさんたちは、今はわたりなさい、という勇気があるのだろうか。こんなことはありえないということだ。こんな教育で、日本の未来は、この閉塞した現在から未来へとぬけだせるのだろうかと思えてならぬ。タイや、インド、中国でシグナルどおりに横断する国民はいないのである。だから、かれらとの競争にまけつづけているのではないか。

 読書の秋がきたのに、思考停止の日本の今を見るしかない。
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人間か、自動販売機か

2012-05-24 | 日常
 今朝、朝食の料理にかかつたら、大根が切れているのを思い出した。早速、歩いて5分のスーパーイオンマックバリュー(暮らし館)に行った。大根はまた高値2倍になってきていて、上下半分に切ったものが、それぞれ98円であった。おろし大根には、上半分と下半分のどちらが美味いのか、どっちだったか、急に思いだしたが、どちらがどうとは記憶にない。そこで、レジの女性に聞いてみることにした。
 
 「あのー大根は上と下では味が違いますよね?」
 「ええ、下のとがった部分は一番辛いです。」
 「上半分のほうが、すり大根(宮崎でのおろし大根)は上がいいでしょうか?」
 「上のほうにいくほど、水気が多くて柔らかい味がしますから・・」
 「そうか、じゃ上と替えてきますから」

 と、大根の笊にとってかえした。それにしても彼女には、数ヶ月前も、ピーマンの袋を持っていって、これ少し古くないですかと聞いたことがあった。すると彼女は、手でポット押して、これダメですといい、残っていた3袋をすぐに笊から取り出して引っ込めてしまったことがあった。あれから、ぼくはピーマンの新鮮さを硬さでみることになった。
 
 「でも、夏大根となると、どうしても渋みがでてきますよ」と、言い添えて大根をわたしながら、彼女はいい添えるのだった。
 「あなたには数ヶ月前、ピーマンの古いのを教えてもらったことがありました。今回も精しく教えてもらったです。」
 「精しくなんかないですよ・・」(笑い)
 「農学かなんか学んだことがあるのですか?」彼女は大学を卒業したばかりに思えたので聞いてみた。
 
 「いえ、お婆ちゃんが大根とピーマンを栽培しているので、しっているのですよ」
 「ああ、それなら本物だ!」

 どこのスーパーでもレジ係りの女性の前にはよく行列ができる。ぼくの見るかぎりで、レジの女性に声をかける客はほとんどない。まるで、目のまえにいて、会計をしている女性が、自動販売機のように感じるのか、始終無言のまま、顔もみずに黙って金銭のやり取りをして、立ち去る人はほとんである。どうもとか、ありがとうくらいは口にのぼらないのだろうか。もちろん、ぺらぺら、ぺらぺら話かけるのは、みっともないことではある。しかし、人間としての対面をしない、相手を機械とみることが可能になる感覚、そういうものが自然に出来てきているのではないかと思うのだ。

 これは、レストランでのウエイトレスのサービスについてもたびたび観察してきた。たとえば、典型的なものでは、トンカツ定食などで、つぎつぎのトンカツに添える、タレ、ゴマのすり鉢、漬物、キャベツがテーブルに運ばれ、さらに味噌汁の赤味噌かしろ味噌の選択、白ご飯か麦ご飯の選択と、ウエイトレスはかなりのサービスを手際よく説明し、選択を聞きとっていくのだが、その間を、顔も上げず、下を向いたまま、ほとんどうなずきもせず、赤、麦などの単語をぶっきらぼうに言うだけ、最後まで、ほとんど無言で押し通し、彼女がありがとうございましたと立ち去るやいなや、連れの仲間や相手とわーっとしゃべり始める光景をなんども見てきている。これは年齢、性別にかかわらず、そういう無言の客もかなりひんぱんに目にしてきている。

 黙っているのが、お上品とか、礼儀とかお客の威厳(立場)とかが、意識にあるのかとも思えるのだが、ぼくは、その態度はどうみても、思考停止の状態としか思えないのだ。だって、目の前にいるのは、自分にサービスしてくれる人間ではないかという判断を停止できるということは、思考停止、判断停止が、ごく自然にできないと、相手を黙殺しままでいることは、できないからである。

 これをあえて、脳死状態ということで言うことにしよう。さて、本題は、だから、人には礼儀正しくとか、絆が大切とか、そんな道徳を言おうとしているのではないのだ。なぜ人間無視の感覚、意識が醸成されるのか、これが一番問題なのだ。実は、これはダイハートだけがあれば、世界は完璧という意識の醸成と関係があると思えるのだ。このことは、他のさまざまのわれわれの行動に観察できる。脳死の実例は日常生活のあちこちで観察される。これが問題なのである。ぼちぼち、折にふれてこれらを取り上げてみようと思う。

 註:ダイハードは前々回のブログ「今年も連休ダイハード連想」を参照してほしい。
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