市街・野 それぞれ草

 802編よりタイトルを「収蔵庫編」から「それぞれ草」に変更。この社会とぼくという仮想の人物の料理した朝食です。

宮崎についての定説について

2005-03-31 | Weblog
   異動の4月になると、メディアの支局長クラスも九州本社、東京本社へと去っていく。かれらの中には、宮崎についての評価をコラムなどで語った。取材という職業が生んだ実際体験は、宮崎を語る定説として蓄積されてきている。ところで、その評価に到るステップには、以下のようなパターンが認められるのである。それを列挙してみると、こうなる。

ステップ 1 遠い土田舎に着任した。
ステップ 2 眠ったような街じゃないか。なんにもない。
ステップ 3 現状保持、やる気も文句もいわない市民の群。
ステップ 4 権威に弱く、役人が決め、役人が支持し、役人が威張る街。
ステップ 5 産業も文化も遅れ、人は働く気もなさそう、こりゃダメだ。 

とこまでで何年かすぎると、とつぜんの反転が生じる。

ステップ 6 なんにもないが豊かな自然は、美しい。
ステップ 7 人々はのんびりとして、和やか、親切。
ステップ 8 これでいいじゃないか、あくせくしても始まらんぞ・・・
ステップ 9 他県のまねはするな、経済の奴隷や、このスローな生活こそ
真実だわい!!

 かくしてステップの最終段階は、哲学的思念つまりハッピーとは何かで終わるのである。そしてかれらは去って行った。しかし、よく考えると、このハッピー感は、宮崎市で暮らすには十分な年収と、孤独を救うそこそこの社会的尊称というマンションに住んでいたからではないか。ここでは六本木ヒルズも新宿三井ビルもお台場や品川の高層マンション群もない。まわりには低層のマンションがあるばかり。見晴らしはよく、わがマンションでもなかなかのものと思えだす。東京のど真ん中でないからだ。ハッピー感とは、まさに相対的であり、主観の抱く幻想といってもいい。でもハッピーならいいじゃないかと、こういうことだ。ただ、そいつは客観的事実ではぜったいない。

 低賃金労働、一時間600円内外で働き、年金も満足に支払えず、社会保険もつかず、何十年もその仕事をしてきている人間にとって、宮崎はハッピーなのか。つまりビンボー人はすごい数なのよ、あんたが知らぬばかりさ。で、ぼくは、じつはビンボー代表ではないの。かなりあんたに似たマンション暮らし。だから、こんなことを書いても、うそ臭い格好つけたリベラリスト、と自己暗鬼、不安、エッセイばか、あほと恐怖感に付きまとわれる。

このハッピーとは悲しくないか。なんか悲しいよね。ぼくのまわりから、ここ10年あまりで、10人をこえる若者が、能力を生かす職場がなく、宮崎市を出て行った。ともに行動してきたネットワークの鎖があちこちで千切れてしまった。スローな生活はぼくのようなトシヨリがやればいいのだと、思う。他県に似ようが似るまいが、そんな念仏はどうでもいい、すべての人々が働ける場をもてる街でなければ、青空も豊かな自然もあったものかと、ぼくは思わざるを得ないのだ。
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チケット売り

2005-03-30 | Weblog
 手提げバッグをもって、はじめに子育て支援のNPOの事務所にチケット売りに入った。すると一人が、そのバックにはなにが入ってるの~と聞くのでいつ家内から追い出されても間に合うようにというと、爆笑。三人の主婦たちは、これなら亭主も数日はすごせるわねと、話が弾んだ。なんでもやる、もう止められるものはいないという、主婦の勢いをぼくは感じてしまった。

 現代美術のキューレターをめざしているウエイトレスは、あら、かわいいとバッグに注意をはらった。チケット売りの終わりは行きつけの喫茶ウイングであったが、ここではモバやテイトギャラリー、パリ、バリ島、と美術や雑貨好きの高校教師の知人が、いいじゃんとほめてくれた。なになに、いい年こいてバッグの自慢かよ、ちょっと待って、そうじゃなくて、話はこうなんだ。

 じつはこのバッグ、100円均一の店で家内がみつけ、ぼくに持たせたものであった。これほど注目をあつめる品とは思いもつかなかった。デパートでも専門店でも、このバッグの登場するステージが違えば、それなりの価格で売れていくだろう。ステージと商品が、コンテンツ(商品の情報)を生み出し、それを購入する消費行動を、ぼくらは無意識のうちにやるようになった。

 このセンスが、藝術とか、文化とかの商品にむかうと、なぜ働かないのか、情けない。メディアがたいこたたくものなら、なんにでも飛びついて不当な代価を払っている現状はまだ変わってない。ただ、県立劇場、美術館の催しもだんだん観客数が減少してきているから、ここもダイエーのように商品を映えさせるステージが崩壊していく気配は感じられる。百均でコンテンツ商品を発見するような藝術消費行動が、やがて芽生えてくる可能性をわずかながら感じつつ、今日もまたこのバッグのようなチケット売りにまわった。
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宮崎謎所4 臨海公園

2005-03-28 | Weblog
 マリーナ宮崎(ヨットハーバー&人工ビーチ)は、宮崎が誇る公園である。石原都知事をヨットの縁で、完成式典にきてもらった。その式典開始後すぐだったかMRT宮崎放送の一人の記者が、知事は、公務で出席したのかと質問した。これを受けて、石原都知事は、激怒した。おれは、宣伝になると協力したのに!! 失敬な、止めたっ!帰ると、席をけって帰ってしまった。その数年まえ、都農町のリニアモーターカー実験場を視察したとき、石原運輸大臣は、鶏小屋と豚舎しかないところを、リニアが走っているとそっちょくな感想をのべた。

 田舎と思ってバカにしとると、われわれは反感をつのらせた。ぼくは、このむき出しの言動に、くそー負けるわと、痛みが深まった。もはや戦後でないの昭和30年、かれは「太陽の季節」で芥川賞をとった。その小説は、ジョウシキ的な教授や、とりまきの学友たちの知的教養を、痛罵した。そのハイライトは、主人公が勃起した陰茎を外から障子に突きたてたシーンである。わからぬやつに衝撃を、であった。体制反抗であった。今も似ている。しかしあれから半世紀たち、今や主人公は資本主義社会、消費社会の権化として、陰茎を勃起させているとぼくは感じる。

 さて、その後、「みやざき臨海公園」となづけられたヨットハーバーはどうなったのか。海岸にむかって椰子のはえる遊歩道があり、人工ビーチは、こどもたちも安全に海水浴もできる。ひろくあかるい浜にシーガイアの諸施設が映える。このカンヌのような景観には抵抗できない。コーヒーを求めて港の遊歩道からあかぬけしたレストランらしきものにむかって歩いた。海辺に向かったレストランらしき建物に窓がないというのは前衛のつもりかと、さらに近づくと、それはトイレだったのだ。このトイレのほかには、夏場だけ使用される休憩棟だけしかなかった。喰うものも、買うものも、ただ陰茎を握る場しかないのであった。

 これだったら、なにも石原都知事なぞ招聘することはまったくなかったのだ。彼は俺をメディアとして利用すれば、この臨海公園は日本のハイライトになったのにと宣言して帰った。しかし、そんな当事者にはこの欲求はなかったのだ。公園だけ抱いたいればそれで満足なんだから。公園と世界との接点がなく、ただひたすら公園、つまり公園フェッチなのだ。これは正常なのであろうか。ついでに言えばリニア実験線は20年間、農地をつぶして走らせたが、その間、まさに石原都知事の言ったとおり、鶏小屋と豚舎があるだけだった。今、リニア実験場は山梨県に移り、富士五湖の観光コースのカルチャー観光として注目をあつめている。消費社会の花が咲いた。これがいやなら公園フェッチでなく、世界の必要とするあるいは、反消費社会としてそれでいて大衆を引き付ける公園とはなにかを示すべきだったのだ。
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イオンと肝っ玉

2005-03-26 | Weblog
  一ヶ月半ぶりにイオン宮崎ショッピングモールの建物を見に行った。印象はがらりと変わってしまった。巨大から広いになった。建物より場の広さが圧倒した。すぐに隣接するレストラン喫茶「森の詩季」に向かい、入るなりクニちゃん(オーナー)を探し「聞きたいことがあっちゃが」ときりだすと、「なんね、なんね」と2階の窓際に席をもうけてくれた。この窓いっぱいにイオンが広がっている。

「気持ちはどうね?」
「えっ?!」
ぼくの指差す窓いっぱいのイオンだとわかって
「じつはね、こん土地を隣の稲荷さんから買うときに、神主さんとイオンに反対しないと約束したんよ」
「ここらの地主さんたちは、イオンに土地を貸したがっていた。私も親の代から宮崎に入ってきたニンゲンだから、地元から助けてもらわねば、喫茶店はできないとわかっちょったからね」
両親は県庁前の喫茶「詩季」の経営者で、その教えは染み付いているというのであった。

「イオンってなんかしっちょったつや!」
「知ろうか」

 「森の詩季」は、10人こえるスタッフでもまかないきれないほど繁盛している。ロココ風の店舗は、イオンにない土着の匂いも発散している。彼女ならやりぬくかもと思う。20歳の学生のころから実務的な肝っ玉母さんの精力があった。ダメならどっか移ればいいし、なんの心配はしないよというのだ。

「なんで、そんなにイオンなのね、研究しちょっと?」
「いや、べつに・・」
「ちっとも変わらんが。すぐ好奇心だすし」

 36歳になり子どももいる彼女は、ますます生きるエネルギーに磨きがかかってきた。彼女に比べると、ぼくにとってイオンなどとは「研究」という絵空らごとかもしれない、と言葉につまるしかなかった。「これから、ときどき顔だしてね、近いんだから、順ちゃんも土、日はくるよ、まだ独身だから。大丈夫、大丈夫女30も半ばになればびくともせんて、銀行の肩たたきなんか平気よ」というかっての実習生の近況も聞き、辞した。3月の宮崎は初夏の陽射しだった。
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ぼく自身のニュース

2005-03-23 | Weblog
 ぼくのニュースだけど、一つは、なんと町内の班長さんになった。当番制だから仕方が無かった。班長になったらと、ブログに冗談で書いたところでした。家内が前期と後期の前期の分をかんたんに前期いいですと、どうせこっちに押し付けるから、自分はいい子になって引きうけてきたのです。前期は夏祭りがあって実行委員をやらねばならぬし大変なんです。例の町内変遷記を書いて回覧のついでにまわす案はやめるけど、回覧される県・市の広報誌を毎回、分析批評してここに載せましょう。なんでこんなにおもしろくないものが、できるのかという分析。このくらいはさせてもらわなくちゃね。

 もうひとつは、某新聞宮崎支局の依頼で、4人交代でのコラムを引き受けた。原稿料も安い、取材費もない、こんなことをしているから新聞の地方面は、ジャンクフードのような原稿で埋まってだれも見向きもしなくなると、文句を言ったら、考慮してもらえた。実現するかどうかは、まだ未定、まあ金よりも面子のもんだなので、これでよしとするか。

 新聞原稿で困るのは、「肩書き」をつけさせられることだ、評論家とか都市評論家とか、演劇評論家、ついにはフリーライターとか、たんに批評家とか何回もかえてきたが、どれもこれも目をそらしたくなるような肩書きであった。

だが、やっと納得できる肩書きにたどりつけた。ソレハ「ブロッガー」である。
これならすべてを包括する。さらにそれ以上に満足なのは、もうすぐにこの名称はメールとか、ケイタイというのと同じ日常用語になっていくだろう。しかもコンテンツ制作者であることは明確なのだ。だれでも製作者、それからは肩書きでなく、当人の個性と独創性の勝負というのは、スポーツのようで快適だ。偉そうななんなん論家と作家とかこれでバターのように溶ける。これは
いい。こういう時代はほんとにすばらしい。ということで、おわり。


 

 


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宮崎市謎所案内・花

2005-03-22 | Weblog
 花を街の景観を美しくするという信仰によって、中心市街地にも花が並べられる。橘通東2丁目の花をもう10年近く見てきた。この花の鉢をこの位置で、このような並べ方で置くというのはいつも興味があった。花は風景をうつくしくしているのだろうか。風景をかなしくしているだけではないかとみつづけてきた。これが街の装飾と見えるという感性のあり方が不思議なのだった。

 中心商店街「橘通」は大淀川べりから宮崎駅まえの道路の十字路まで、およそ900メートルあるのだが、この十字路から80メートル下がると、往来する人の気配は消えてしまう。人のあるかぬ商店街は、森閑として胸をしめつけられる悲哀がただよう。街の魂が抜けてるのだ。もう人なら洋服もはだけて呆然として歩くボケ老人を思わせる。やがて一つ、一つと商店は店を閉め、病は重篤になっていく。かっては電光看板で、人を招き寄せた看板もこわされ、なかの蛍光灯がむきだしになっている。

 花は墓標を思わせる歩道の車止めのまえに、他界した身内の霊にささげられたようにみえるのである。街は死ぬのだろうか。死んだ街を美しくするのは、花ではなく生命のあらたな誕生なのに。
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伊東マンショ西洋音楽行脚

2005-03-20 | Weblog
 竹井成美さん(宮崎大学教授)の伊東マンショの西洋音楽行脚というレクチャーコンサートを県立劇場で聴いた。およそ400年もむかし、、マンショは日向から長崎、マカオ、インドのコチン、アフリカ喜望峰をまわってリスボンに上陸、スペインを南下、イタリアのピサ、フィレンツェを経てローマに、2年半の時間をかけて到着している。この間に体験した音楽というのだが、マンショの意識に日向と世界がどう写ったのかと思うと、音楽どころでなくなりそうで、この思いをおさえおさえしながら、目の前で演奏される16世紀の音楽を聴いた。
 
 古楽器のせいなのか、演奏される作曲のせいなのか、清澄としかいいようのない音楽世界、音楽が、おれも、われもと、自己主張しない。掌中の玉のような優しい音楽が目の前にある、こんな感じであった。プログラムⅡのピサ宮廷舞踏会のダンスをマンショはどう感じたのだろうと、想像を駆り立てられる。あの衣装、男と女が体をよせて踊るとうようなダンスを400年前、日向で育った少年はどう理解したのだろうか、などと思う。それを振り払いつつ、目の前の西洋というよりどこかのエスニック舞踏のようなダンスに見入る。

 しかし、レクチャーはマンショの意識体験を扱うのでなく、かれが聴いた西洋音楽を実証的に提示したものである。このように目標を限定したことに、このレクチャーの企画・構成の成功があったと思う。それに加えてレクチャーでなく、演奏そのものでわかるようになっていたのが、16世紀音楽をより身近にしてくれた。彼女は、ほとんど司会ていどの短い話をしたが、その一秒も聞き逃すのが惜しいほど、音楽とむすびついていた。終わると、深くおじきされるので、今おこなわれた話がすごく大事なことだったのだと思ってしまうのだ。これは作戦だったのだろうか。

 16世紀の音楽を伊東マンショを通して扱うというのは、よほどの学識、慎重な知的作業がなければできないことだろう。伊東マンショが聞いたというリアリティが感じられねばならない。そのことで、400年前の日向と西洋がつながるし、いったい文化とはなにか、人間とはなんなのかという興味ある問題をつきつけられる。今も田舎である宮崎市で、16世紀のマンショが聞いた音楽を聞けるという知的刺激は快適であった。宮崎という特殊な問題をかぎりなくひろい普遍的な価値のなかでとらえなおしてもらえるとう作業は、まさにわが意をえたりというコンサートであった。ここで小生も竹井さんに90度おじき・・をかえしたい。



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蒸発した市街

2005-03-18 | Weblog
  宮崎市街のどこからでも、シェラトン・グランデ・オーシャンリゾートのホテルがみえる。うすあおく陽炎のように孤立してうつくしい。2月27日、流感にもかかわらず、割安の41階デラックスルームに一泊したことをのべた。咳きと食欲不振で空ろな一泊であったとすでに伝えた。しかし、じつは、あの部屋の窓からの光景で、忘れがたい印象が残っていたのだ。それを書く体力がのこっていなかったので、今、書いてみる。

 それは、41階から遠望できた宮崎市街であった。市街地を見ようと思ったのに、あるのは、田んぼのひろがりだけだったのだ。市街はどこに消えたんだ!なんども目をこらすが、熱のせいか、悪寒のせいで、市街が見えないのだ。ここ10年あまり、市の中心部には土地の値下がりで、マンション住宅ビルが建てこんできた。そんなビルの一つからまわりを写真撮影すると、その都市風景は、仙台やさいたま市、博多や神戸、なんと大阪、東京とも酷似しているのである。

その体験のうえで、市街が蒸発した光景は、信じられない光景であった。シェラトン・グランデ・オーシャンリゾートからでの宮崎市街の展望は、市街蒸発ともいえる光景だった。45階のホテルも市内からみると陽炎のようにみえる。逆に、ここから市内をみると低層のビル群は、地にはびこるコケか水溜りにみえたわかけである。

さて、このことで、宮崎市は豊かな自然に恵まれた都市というのが妥当かどうかということである。豊かな自然、みどりと太陽、神話の国、この一連の呪文は、なんにも解決してこなかったのではないか。そのあげくが、カジノ開設への幻想となって求められ、松形県政は終わった。蒸発してしまった市街、自然環境-小さな街=豊かな自然 こんな算術でしか、自然をみなかった甘さを皮肉くるように、宮崎市街地は姿を消していた。
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公共性

2005-03-12 | Weblog
 宮崎県立図書館、宮崎美術館、宮崎藝術劇場のある宮崎県総合文化公園の駐車場利用のマナーについて、近くの住人の一人が、公園管理がなっとらんと、ねじこんだ。 そこで、びびった管理者は、駐車場の有料化、管理人の配置を検討し始めたというのである。そのことで、街のレストラン・オーナーからメールがとどいた。

「12年間公園を見つめてきた私としてはいずれも(有料化、管理人配置)反対です。商売の関係もありますが、なんといっても街の活性化がおちるとおもいます。各館に来て蕎麦屋により、お菓子を買って知人をたずねる。車でお弁当をたべる土木工事のおじさん、タクシーの運転手、お昼寝の営業マン、駐車場だけ使う人もいます。でも少数です。月曜はがらあきです。以前とくらべると各館の利用者は減っています。南九大が移転して来て、学生たちが車を置き公園は学生たちで溢れて、路も華やいでいたのですが、締め出しにあい、今は淋しくなりなました.どうおもいますか?」

 米国の都市論者ジェーン・ジェコブス女子は近代都市化について、世界最初に異議を申し立てたことでしられているが、彼女は、美術館や劇場、音楽ホールのまわりには、喫茶店、雑貨や、レストラン、ブティックなどの店がならんでいることは、その施設よりも大事かもしれないと主張している。ぼくもそう思う。公共の駐車場が、このメールのようにかくも多角的に利用されている実情こそが、まさに公共性なのだと信じる。ねじ込んだアホが日曜箒一本でも持って公園まわりを掃除したことがあるのかといいたいね。あんたも自分の都合しかかんがえてないんだと断言できる。それでもいいんだ、都市は、そういう欲求をうまくバランスをとって満たしていくものです。オーナーのメールは、その現実を報告している。

 そこでバカが登場して、管理を始める。ブルータスよおまえもか!である。
橘通りを駐輪禁止にして崩壊させたまちがいをまた、再現することになる。
役人とは役に立たぬ人という意味ではないかとつくづく思いますね。


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テント劇公演

2005-03-10 | Weblog
  さいたま市のテント劇団「どくんご」の上演を受け入れることになった。足掛け4年ぶりである。テントを建てる会場は、あのときとおなじ宮崎市の「東宮花の森団地」である。あのとき、ここは宅地ばかりがひろがり、西は霧島連峰、東は太平洋の海岸線がみえた。いまは、住宅でびっしり埋まっている。近くの自治集会所も家屋の向こうにみえなくなった。集会所では、外山由紀子のフルートコンサートや、東京からの劇団「黒テント」の公演も行った。まだそのころまでは、あたりは、のっぱらの感覚が残っていた。

 集会場の九島館長と、団地の販売センター浜武所長を2年ぶりに訪ねると、所長は、ぼくの名前も顔も覚えていてもらえた。あっさりと、あまりにもあっけなく6月18日から23日までテントを建てる承諾をもらえた。
「実は借用費ですが・・・」ときりだしたとたん「金はいりません」と所長さんはそくざに言うのだ。「あんときは、たしか挨拶に焼酎かなんかやなかったかな」と館長が口ぞえをされたので、「そうでした。それに菓子折りを持ってきました(笑い)・・・、すみません、かれらも今回もまた赤字でしょうから、こんなことで」 本当は、かれらの西日本巡演での赤字は、宮崎公演でいっきょに埋めることができてきたのだ。この地で借金がチャラになっていた。

 終わってみると30分足らずの相談であった。テントなどを建てて芝居をするという常識はずれのパーフォマンスは、融通無碍な判断、モノにとらわれぬ柔軟な判断力ができるひとでなければ、話のもっていきようがないのだ。市街には公園は、はいてすてるほどあるが、ここでテント芝居をやれば住民にとってよほど便利なのに、規則によって貸してもらえない。かびのはえたような滑り台と、ション便臭い砂場の公園なのに、なにをもったいぶって貸さないのかとおもうのだけど、融通の利かぬ管理意識のためである。

 田んぼの高級音楽ホールでクラシックを聞くだけで、ほんとに、何かが、残るのだろうか。自分の暮らす場所での演劇や音楽、これがいい。生活の場に藝術があること、キューバや、アイルランドや、アジアの諸国のように、この団地がそういう状況に近づいてきたのが楽しい。
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ご町内、足元とは?

2005-03-08 | Weblog
 回覧板は、町内の班長さんが責任をもって、家庭に回すように手配する。月に2回くらいまわってくる。あるときの班長さんが、自分の時事エッセイを回覧板につけてきた。なるほど、回覧板で自分の思いをまわせるのかと、そのアイデアにびっくりしたことがあった。では、お前もやってみるかといわれたら、どうもやれそうなものがない。

 なにを書けるか。いろいろ考えてみたら、一つだけ思いつけた。戦前、この住宅地は、競馬場だったのだということなどから、どんなにここらが変わったかなら書けそうだ。大淀川河口から1キロ半ほど上流の北岸にそったこの辺りの住宅街は、競馬場の上にできたのだ。やがて、戦争が激しくなって水田にされ、ほりあげられた土は、堤防になった云々と、変化を戦前から、戦後へと書いていけそうだ。

1964年以前は、ここらの宅地は坪5千円以下であった。1975年には
それが坪30万円まで高騰した。こうして消費社会の成員となって消費が娯楽として楽しめるようになった。幹線バイパスが3路線開通し、近くイオン宮崎ショッピングセンターが開店する。風景も環境も意識も変わってきた。この変化を宮崎市街地図、地方新聞、統計、郷土出版物、県庁古文書などをデーターに使いながら、班長任期の半年間、回覧板の配布回数15回くらいの間に読みきりで書くことは可能かなと思った。

 ただ、これも書けないだろうと気づいた。つまり興味が続かないのである。ということは、自分の町内には、ほんとうのところ関心がないのであろうか。では現実の足元とはいったいなんなのだろう。今また思い始めている。
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今日は演劇

2005-03-06 | Weblog
 今日は昼から、演劇とひさしぶりに関わりあう一日となった。昼はラーメン店のカウンターで宮崎日日新聞文化面の本県の自立劇団時評が目についた。一読後 その苦々しさはおりのように胃にもたれていた。どうして、たかが劇団をこうも権威づけることに、終始するのか理解に苦しむ。大衆の注意を演劇に向けようとする啓蒙的意図があるのだろうか。とすれば、完全に逆効果である。時評氏の権威付けた自立劇団の演劇は、面白くないことで、大衆の不評を買い続けている劇団だからである。

 午後3時半、デパート・カリーノの8階にある百人収容の小劇場で一年ぶりに熊本市からかけつけた木内里美と当市の浜崎けい子の「ふたりでばー」(ばあちゃんシリーズ)を見た。ホール内は笑いであふれた。何十年も家事をやってきた女性ならではつたえられぬ日常にひそむおかしさ、しぶとさが、リアリティをもっていた。思想とか、芸術性とかそんなものを学ぶために演劇を見に来るわけではないって。
 
 午後6時、鹿児島市に来ていた浦和市の劇団「どくんご」の伊能代表から今宮崎市に入ったと電話。午後7時、喫茶店「ウイング」でかれと3年前の実行委員5名を誘って会い、その6月テント公演を引き受けることにした。一昨年の斎藤晴彦主催「黒テント」受け入れを最後にもう二度と演劇上演は引き受けないとは、おもっていたが、結局またやることにした。伊能をみると、どうしても肩をいれざるをえなくなったのだ。テントの持つ人間くささは、理屈も精神も超えている、もんくなしに面白い、ただそれだけである。だからやるのだ。演劇とはとどのつまりこれだけのものだとぼくは思うのだ。

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より危険なピンクちらし

2005-03-04 | Weblog
  先日、宮崎市のピンクちらし配布規制条例設定の動きについてのべたが、3月1日には配布行為等防止推進大会が市民プラザであった。利用、要求、収受を禁止する運動というのである。戦争中の贅沢追放運動や、全体主義国家の個人主義克服運動とどこがどうちがうのかわからぬ大会が、平然とおこなわれるのは、宮崎市のど田舎ぶりを天下にしめしたようなもんだ。まあ関係者ばかりが100人くらいで気炎をあげただけだから、市民の大半は冷ややかであった。

 おんなじようなことが20年ほどまえ「悪書追放運動」としてやられた。このときは白いポストを街中に立てて、悪書つまりエロ週刊誌やエロ本などを放り込む運動であった。結果的には、20年経った今では、当時のエロの何十倍ものリアルなエロ描写が、小学生の雑誌にもふんだんに掲載されるように進歩しただけだった。ただ、街角ごとにあった何とか余命を保っていた小書店が、店先から自動販売機を撤去させられ、息の根をとめられてしまった。
街は火の気を失った。

 今回の推進運動もまたお題目の「青少年の健全育成」とうい錦の御旗をふりたてて「安全で安心、快適な街づくり」を実現するというのである。安全で安心、快適な街とは、若者が仕事があって、明日も仕事が保障されて、将来の計画もたてられる、自由に個性的に働ける街のことである。今、中心市街地が崩壊をつづけ、イオン宮崎ショッピングセンターの進出によって止めをさされようとしている矢先に、ピンクちらし規正などという愚行に現を抜かしているとは。この意識こそ街の安全にとって、何倍もの危険を生み出していく行為ではないだろうか。
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南セントレア市

2005-03-02 | Weblog
  sahi.com : 社会面で. 来年3月の合併を目指す愛知県美浜町と南知多町の法定合併協議会は27日、新しい市の名称を「南セントレア市」とすることを全会一致で決めたとあった。これがそのままスーッと決まったとしたら・・とんでもないニュースであった。全国から抗議の電話やメールが殺到、協議会も決定を見直さざるをえなくなった。住民投票により市名どころか合併までも否定されてしまった。まだまだ世論の良識は狂ってないのを知りえてほっとした。

 自分の市が勝手に特殊浴場かパチンコ店、ブライダルホールの店名のようなものに変えられるとしたらどんな気分がするか、町長も協議会も思ったことがあったのだろうか。セントレアという造語、つまり欧米系カタカナ地名という記号は、たちまちその種の施設に転用されていくのだ。なぜなら他と差異を際立たせられるからだ。こんな記号としての運命も予測できなかったのか。この地名は珍奇なゆえに否定されたわででなく、ぼくらの風土、歴史、文化を否定する暴力であることだったのだ。

 これが否決されたとき、町長は、筆でへたくそな習字を書き、聞くにたえない篠笛を吹いてみせた。いったいなんのつもりだったのだろう。その愚鈍さははかりしれない。新聞メディアも当初は、それほど否定的ではなかったのだ。こんな男と同類であっては困るのに。新聞止めたい。
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