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市街・野 それぞれ草

 802編よりタイトルを「収蔵庫編」から「それぞれ草」に変更。この社会とぼくという仮想の人物の料理した朝食です。

バンコク 市場 企業化

2007-11-27 | Weblog
 この巨大な「チャトチャック市場」を想像することは宮崎市で暮らしていると不可能に近い。宮崎市には市場として今も辛うじて生きているのに「青空市場」と「文化
マーケット」「江平市場」がある。青空も文化も崩壊がすすみ、どちらも廃墟の様相を呈している。7年ほど前、文化マーケットにまだあちこちに店があったころ、空き店を修復して若者にも安く貸したらと、提案したことがあった。店のオーナーたちは
うさんくさそうな面持ちで、こんな崩れかかった建物でなにが出来ようかと、せせら笑われたことがあった。

 さて、バンコク市内のあちこちには、これとたいしてかわらない廃墟寸前の建ても物が何百メートルも連なるのだ。一度、文化や青空の路地に入って、ここが何百メートル四方に広がる空間を想像して欲しい。これは想像を絶した風景であり、同時にそのずべてが生き生きと活性化している様は、言いようもない生命力、存在感に衝撃をうけざるをえまい。

 その生命力、生態的多様性をうまく引き継いで、現代ショッピング施設として企業化したのが、バンコクの現代市場ということができよう。この計画され、企業化された市場に、数千、一万に達する屋台、露天、テントの市場が集まっている。もともと市場は、個人が露天に風呂敷一枚、戸板一枚に品物を並べて商ったことに根源があった。それは計画的な企業のシステムとはべつの個人の生業であった。この事実がまた生かされいるのにおどろかされたのである。

 ナイトバザールやチャトチャック市場のような市場でなく、通りをすすむと、ビルの切れ目やブロックの端っこに突然、コールタールを流したような道路を挟んで、真っ黒な低い家屋やテントが広がる地帯が、ところどころに展開していた。これも典型的な市場なのであろう。その風景は異様なほど、ぼくを魅惑した。

 またねっとりとよどんだ古い運河沿いに水面に倒れこむような戦前の個性的な家屋の連続も、郷愁を沸き起こす風景であった。

 ぼくが宮崎市に帰着した瞬間に、これは家内もそうだったが、なんとも紙かボール紙を切ってつくったような街並みに仰天したのである。街はもっと奥深い存在感をもつものであることを、いまさらながら痛感させられたのであった。
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バンコク 市場(バザール)

2007-11-24 | Weblog
 市場にはツアーの観光先に組み込まれていた「ナイトバザール」というのに案内された。そこにはバスが並ぶ駐車場もあった。20メートルほどの高さの塔があり、
巨大なネオンサインでナイトバザールと広告していた。

 市場内は、人が並んで二人分くらいの幅の通路で碁盤目に仕切られ、おそらく何千もの店が、生活雑貨を店に充満させていた。人が溢れるその狭い路地用の通路は、あまりに多く、その一つをみるだけで時間が無くなった。

 この市場の周りの道路を挟んで、長さ50メートルを越えるビア・ガーデンがあり、ステージでは、中年の男性歌手が、大音響のカラオケで歌っていた。しかし、がらがらであった。ガーデンは露天であり、飲み客は、ほとんど見えず、なにか空っぽの荷台を並べた貨物列車のようだった。ここはなにより観光場所として計画的に作られたのかもしれない。

 次に行ったのは、タイで6年目という杉岡広子さんの案内で訪れた市場である。
「チャトチャック市場」別名「ウィークエンドマーケット」という。中心市街地から地下鉄で20分ほど「ガーンペンペット駅」という駅で降りると目の先に広がっていた。ここもまわりは道路で囲まれているらしい。らしいとはあまり広すぎて先が見えない。それとその周りにテント、露天と群がっているので、もはや完全に迷路化している。人々でこの通りはごった返していた。驚くのは、ただ一人の物乞いもいなかったことだ。

 マーケットの路地は先が見えないほど深い。店はあらゆるものを商っているということだ。杉岡さんも食料品から衣服、日用品のほとんどを、ここで購入しているという。面白いのは負けろといっても負けない。買わないといっても顔色も変えない、つまりガイドブックが市場では「定価は無い。交渉によって決まる」とか偉そうに忠告しているが、ここらの店では、30円の品物(ゴム銃)から全部定価がついていた。

 外のテント店や露天とくらべると、路地を挟む小店はがっしりした鉄骨構造の建物の中である。BGMが流れ、蛍光灯が天井に列となっていた。つまり完全に企画された市場ではあった。しかし、周辺には、露天、テント店が岩礁に密集する牡蠣のように生息し、人で溢れる市場は、わい雑、多様、迷路の混沌でむせ返るような人間くささがあった。

 ここではおそらく数万人の個人が商売するのを可能にしている。ウイークエンドになると一万店余の露天、屋台、バザールが展開するとうのだ。市場は公園内にあるとガイドブックに記されていた。公園の活用とは驚きだ。

 それにしても一万人の3,4倍はが自分の意思で生きていける。これは凄いことではないか。
 
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バンコク 屋台+タクシドライバー

2007-11-20 | Weblog
  ニューヨークのタクシードライバーは移民がほとんどであるという。朝日新聞はその現況を特集していた。ただ一人ニューヨーク出身の白人の女性ドライバーがいて、彼女はもともと広告社のコピーライターだったが、倒産で、かねがね興味をもっていたタクシー運転手の仕事についた。
 
 運転手ならだれでもなれるし、仕事は運転席で自分一人の自由な世界だと、まんざらでもないと言う。しかし、健康保険もない、社会保険もない、豊かなアメリカでこの労働環境は「発展途上国並」であると嘆くのだ。

 こう聞くと宮崎市民のほとんどは、なるほどと納得するはずである。この認識が諸悪の根源である。豊かさとは何か。貧しさとは何か。ものが豊富なことが、豊かさで、ものの不足が貧しさで、貧しさは労働環境を最悪にするという盲信だ。バンコクで見た屋台、市場、ビルの空き地の露天、公園のテント市場、そして街路で人々は生業をやっている、それは楽しげであった。バンコク暮らしの杉岡広子さんは、ここでは風呂敷一枚でだれでも商売できるといったが、納得だ。

 宮崎市では一人では商売できない。パートタイマーか、派遣労働者、そして
そうなればほぼ全生涯をフリターと生きるしかなくなる。問題はその労働環境である。その特徴は、企業の収益を上げるためにタイムカード、監視システム、巧妙なサービス残業のからくり、つまり管理体制のなかで、自由意志はよほどの根性と工夫がなければ崩壊させられるという労働環境である。もちろん、米国はもっと完璧な管理体制が文明化されている。同国の負け犬と労働環境をレポートしたかずかずのレポートのひとつでも読むと、空恐ろしくなる。

 真の「貧困」は、豊かな国ほど実現している。実現とは、豊かになろうとどうしようと、その貧しさからは解放されないとうことを意味するのだ。

 貧乏人も金持ちも、ジャンクフードを食べ、テレビ付けとなり、明日はなく、
より豊かさをもとめて南京ねずみのように無期限のこま回しをつづけねばならないからである。宮崎市民もその方向に向かうことを現況は示している。
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バンコク 屋台とレストラン

2007-11-14 | Weblog
  バンコクでの生活6年目を迎えた杉岡直樹さんから、タイレストランに連れて行ったもらった。ホテルから15分ほど走ったところで、そこに近づいたとき、砂地で海岸が近い感じがした。宮崎市の一つ葉海岸に点在するレストラン地帯に似た空気だったのだ。杉岡さんは、ここから海は遠いです、海岸のような感じとおっしゃれば、ここは水路を埋め立て場所だからでしょうかねと言う。一本、一本の樹木も細く、松に似ていた。

 そのレストランというのが、これが海水浴場にあるような、バラック建てといった雰囲気なのだ。壁をどんとつくと倒れるような・・・そうだ、この雰囲気は屋台とどこか通じるのだ。それでかなりの客でにぎわっていて、そのごったがえしに街路の屋台の雰囲気と共通するものがあるようだった。屋台の気楽さ、野放図さ、わいざつさとがレストランへと連続している。それが客を呼ぶのかもしれない。

 一つ葉海岸のレストランは、ひとつひとつが、建物、室内とデザインに贅を凝らし、いわゆるおしゃれ、ファッションをきわだたせている。これには投資もかなりかかるだろう。とても気軽に開店できるものではない。ぼくが聞いたあるカフェのオーナーの話では、ここらがレストラン街になるまえに土地を入手していたといい、ほぼ5千万円だったという。幸い繁盛していたが、油断はできないという緊張した面持ちでの話しだった。ところが、バンコクでは、バラック建てで、これほどの客が呼べるなら、相当の収益はまちがいない。

 おそらくこういう手軽さでレストランがかなりの数あるように思えた。バンコク市内の道路が大型の乗用車で交通渋滞をつねに引き起こしているのは、こうした企業家もおおいに発生しているからではなかろうか。

 この案内されたレストランばかりでなく、翌日、ツアーバスが夕食に立ち寄ったレストランもそうだった。運河の岸の砂地に広い敷地をとり、家屋はまさにバラックの感じであった。ここも客であふれて活気があった。屋台の延長でこれだけ収益が上げられる。これはひとつの豊かさであろう。新しさ、ファッショナブル、垢抜け、そして、過去との断絶、失った損失の大きさ、現代風とは、裏返せば貧困への転落が近くなることかもしれない。アメリカで病気になるのと酷似して。
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バンコク インターミッション(休憩時間)

2007-11-13 | Weblog
 書くという急流に流される、その緊張と不安について夕べ述べた通りだった。ところが、そのことから開放されたのだ。とつぜんに。

 もともとこの本は刊行実行委員会によって、旧友を支援する実行委員会メンバーの自費出版という刊行形態ですすめられていたのだ。ぼくはかれらとは初対面だったが、旧友とは長い付き合いで、たまたま書く人だったので、その編集を依頼されていた。
 
 ところが、途中からさる出版社から自社での刊行したいと依頼が実行委員会に寄せられ、発行委員会は経費、全国版図ということで、その線に乗ったわけだ。ぼくもそれに賛成した。ただ、あとがきはぼくにと強く依頼され、ぼくも断ると角が立つので引き受けていた。

 この出版社の編集担当とは一面識もなかったし、編集内容についての話合いをしたわけでもなった。そのぼくが、あとがきを書くということは、その編集者の意図と重なる可能性はかなり少ないわけだ。その宣伝コピーやタイトルもぼくの意図とは違っていた。ぼくがあとがきを書くと、その刊行や本の雰囲気という全体の意図とちがってきやしないかと思っていたのだ。これがより緊張を、強いていた。

 今日、実行委員長から電話があり、かれは旧友と同席する喫茶店で僕に面会をもとめてきた。出版に問題が発生したという切羽詰った電話だったので、金額を要求されるのか、ここで話がだめになるのかと思えたが、そうでなく、あとがきは執筆者だけにお願いしたいという編集者の申し入れだった。出版について、編集の自分の知らぬところで、執筆者を決められては困るというきついメールがとどいていたのだった。

 それは当然の話であり、すぐに僕は納得できたわけだ。二人はぼくにたいして申し訳ないと緊張しまくっていたが、そうではなく、ぼくにとっては、あとがきを書かなくて助かったのだ。ぼくにっとっては、あとがきでなく、批評を書くことが筋なのである。

 これで制約と、なにより時間が稼げた。多分、この本の出版されるクリスマスのころ、このブログに批評性のあるレビューを載せる楽しみが出来たことを報告しておきたい。いよいよ刊行が公開されたら、著者、タイトル、出版社などをブログで伝え、購入の協力をお頼みしたいと、あえてここに報告した次第。
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バンコク 川は生きている

2007-11-12 | Weblog
 突然、書くという急流に巻き込まれてしまった。出版がまだ先と思っていた旧友の本の解説、これはとても大切で、このあとがきの内容次第で、本は価値を失いかねない、不安だ、でも書かねばならない。

 もう一つ、一昨日土曜、熊本市から宮崎演劇祭に来た木内里美さんに会えた、数年ぶりではあったが、時間の経過は感じられなかった。彼女の脚本・演出・出演の「やまとなでしこ」は、ぼくのバンコクでの思いをそのまま語るほどの共通性を感じえた。彼女はぼくの思いを即座に理解してくれた。それを書いてほしいと言われ、約束した。これにも神経がいる。週末か、来週早々には、二つとも書き上げねばならない。

 こうなったら、ブログは暇があるときに、せっせと書くしかない。というわけで、本日2回目のバンコクレポートを投稿するわけである。

 バンコク市を流れる大河のほとりに建つ暁の寺に向かうために、小船で川に出た。そして目に映ったほとんどパノラマの河畔の光景は、息を呑むほど魅惑されるものだった。川岸ぎりぎりに立ち並んだ建物は、年代を経たものから、現代のビルまで、実に複雑な連なりを見せて、見飽きず、吸い込まれるようだった。川岸には堤防がなく、川の上にテラスを伸ばした住居、船着場と連なっていた。どの一つとして同じ形はないのだ。

 ぼくら30人ほどを乗せた小船は揺られながら、つぎつぎと大小の舟と行き違った。50メートルを優にこえる運搬船が象のように漂っていたり
トラックのように全身を愉快なデザインで飾って漁船、こちらはふんだんにすれ違った。そして、これらの船舶の背景に広がる川岸の街の姿は
どの一角も多様性をほしいままにしていた。

 川は生きている、それが、この川を語る実感であった。生きているこのような川はもうわが国ではみられなくなっている。川は堤防で無機的に制御され、川は水が流れるだけである。水辺の生き物、なかんずく渡り鳥の生息する空間もなくなってきた。都市に川は無く、排水路しかなくなっているというのを、バンコクの川面で思いしらされた。そんな川しか、もうながれていない。これを自覚できたのだ。


 
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バンコク 生態系の公園

2007-11-12 | Weblog
 ぼくのバンコクレポートにしぇこばさんが、コメントを寄せられた。

(しぇこぱ)

2007-11-12 01:09:41

現代ビルと廃墟の共棲、おもしろいですね。都市にも生態系があるのでしょうね。森の狼を殺し、鹿が増え、鹿が森を食い尽くすように宮崎の場合は行政の規制で町の生態系が崩壊し、どうにも手のつけようがなくなっているような気がします。
 
 たしかに。生態系では、そこではどんなものでも役割があり、欠かせない要素で、共存しているわけだ。ところが、わが宮崎市では汚いものは、不要として排除される。古いものはやくたたずとして破壊される。それは住宅で便所を撤去することだ。生態系の各要素は、便所のように明快でないので、排除の過ちが認識できないでいる。便所のない都市、それは楽しみ難い。(イギリス、パリー、ベルゲンの思い出・・・)

 夕暮れのバンコクはさすがに涼しくなってきた。犬たちが起き上がって人たちのまわりを生き生きとすり抜けている。公園のまわりの街路にもたくさんの人がでてきて、露天で、飲んだり食ったりしている。自動車の窓からこの光景を眺めるだけで楽しい。公園もまた生態系であろう。なにをしてはいけない、遊ぶにはここ、公園で一番偉いのは花壇とベンチ。「ここで犬を放し飼いをしてはいけません」というような掲示板を見てしまうこと、そんなこれまで思っていたのとは、まさにちがう楽しめる空間だったのかと、公園を眺めていた。

 と案内していた杉岡さんが、今日は給料日で街で人でいっぱいになります。街路は込みます、ちょと時間がかかるかもとハンドルをさばきながら言った。タイでは年中夏で、衣服も少なくてすむし、安い食べ物はあるし、露天で商売はできるしで、給料をもらったらぱっと使って貯金などしませんよというのだった。

 貯金しないということは、消費好きとか、南国気質の陽気さとか、いろいろあるかもしれないが、将来の不安がないからであろう。年金の制度が日本ほど充実しているとはとても思えないが、それでも安心なのだろう。そう思うと、
公園や街路でもだれでもいつでもどこでも、生きていける商売ができるということ自体が、社会保障制度を生んでいるのではないかと思うのである。

 それは、昔、大淀川の洪水が、山の森林の潤沢さ、その手入れで防げたのと
同じことではないか。つまり、生態系を保持して可能だったわけだ。金をかけなければ解決できなくなった制度は、若者の不足で、危険にさらされだした。
それを守る生態系はすでに消滅している。そうではないのだろうか。


 

 
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バンコク 公園とは

2007-11-11 | Weblog
 バンコク市街地には、公園が多いようだ。市内の観光にツアーバスが走り回るたびに、その公園が目に入った。その公園はもちろん巨大とも
いうべき広大なもの、それがほとんどだが、小さなものもある。といっても宮崎市のものと比べると大きい。そのどれもが、公園というより野っ原のようにぶっきらぼうに見えた。樹木も無造作に植えてあるだけで滑り台も砂地も目につかない。トイレもあるのかどうかわからない。樹木も草地(とても芝生といいがたい)も埃をつけ、11月というのに気温35度、強烈な日射の下であまり生気を感じさせない。

 しかし、ぼくはこれらの公園に入ってみたかった。観光地よりこっちがはるかに興味を引いた。ほとんどの公園は、えんえんとしてテントが張られ、豆電球がはりまわされ、人々が往来していた。そこでは、市場が開かれていたのだ。その市のまわりに例の黒い廃材によるテーブル・ベンチの露天食堂、リヤカーのゆで麺売り、一本の日傘のしたのジュース売りと、それはテントと並んで店を開いていた。ここでは、犬たちも起き上がって往来していた。(昼間は歩道で犬は寝ている

 サッカーをしているところ、踊りをやっているところとさまざまのことが、演じられていたが、いずれもこの市場と露天のように、民衆一人一人が、生活の場として活用しているのである。公園もまた街路の延長のように人々でにぎやかだったのである。

 20年ほどまえ、宮崎市の橘通り活性化計画で、橘通り全体を公園化するという絵に描いたような計画が策定された。その公園は、太陽の場とかウエルカムの場とか、名前がつけられ、河畔の公園は、名前が忘れたが、恋人が肩をよせあって大淀川を眺める場とあった。言うことも芸もこまやかだが、どれも夢想であり、なにも生じなかった。

 今の公園のほとんどは、おしっこをする公衆便所だけを利用する場でしかない。ほかには利用は許されないのだから、使用はそれだけだ。

 公園をみなの市場に毎日開放していくこと。人々が公園を自分のもとして楽しむとはどんかことか、夕日などを眺めるためにあるのではないこと、生きるということを自覚させる場であることを、バンコクの公園は示唆していた。
   、
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バンコク ゾンビの息する街路

2007-11-10 | Weblog
  都市の廃墟とみえたものは、すべて活気をもって生きていた。そのゾンビたちが並ぶ街路なのである。街路は人々で沸き返っている。

 ヨーロッパの都市の街路にくらべて日本の街路は、歩くだけにしか利用されていない。もったないことだと、和辻哲郎は、有名な「風土」のなかで言っている。この本は1931年の刊行であるから、近代化を終えた日本で都市は戦前から21世紀の今日まで、まさに歩くことにしか利用されていなかった。

 バンコクのゾンビの息する街路からみると、宮崎市のメインストリートは、歩くだけに利用されているというより、歩くことを禁じてきたといったほうが理解しやすい。つまり街で歩くとは、なにか。ここは、ぶらぶらする、語る、食べる、憩う、歌う、踊るの、日ごろの抑圧、うさばらしの街路なのである。それが、買い物という消費による欲求実現とおなじに自分を解放する、だから街は楽しい、歩くに値するのだ。この一切を歩道でやることを宮崎市は、禁じてきた。それは街歩きの禁止そのものではないか。

 中心市街地の衰退というのは、自動車のせいでも、イオンショッピングセンターの進出のせいでもなく、そうなる前から街は衰退しつづけていた。真の原因は、他人のせいでなく、街路のこのいわば行政の封鎖と街路への自覚を喪失した市民の意識、そして、新品の建物だけで、ゾンビになる建物を放逐した、この姥捨て街路の間化が原因であったといえないか・・・。。

 土曜の朝九時だった。すでに人々は露天の食堂で、ほぼ食事を終えたようだ。コンビニのまえのリヤカー店でゆでた麺を買って行く若い女性がいた。バンコの整理をしている若い男がいた。そして、道路は、およそ隙間のないくらい自家用車で4車線道路が埋まっている。バスもトラックもタクシーもその海で停泊したままだ。そして街路は人々で賑わい、ホテルも、その門前町の露天も活気があった。

 なにが自動車のせいであることか、街は生きていけるのだ。街路で。
 















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バンコク  街路

2007-11-09 | Weblog
  ウィンザースイーツホテルは、大通りから50メートル横道に入った場所にある。この横道の左角はセブンイレブンである。もうひとつファミリーマートがホテルの正面を過ぎた駐車場角に隣接している。宮崎市では、これで他の商店は、沈滞してしまうのだが、ここではこのコンビニは場所に似合わぬ派手なスカートをはかされたぽっと出の姉さんに見えた。まわりは、みなどす黒く、どっかりと落ち着いた、したたかな、陽気な露天商のおばさんたちや、陽気な即席バーの親父や、おねさんたちが、がっちりと客をひきつけていた。

 傾いたテーブルとベンチまたはバンコともいう板の長いすだけで、アルコールから食事まで販売している。長さが1メートルほどのリヤカーで
めんをゆでたのを売っているおばさんもいた。歩いていくと、ホテルの右正面は、テントの下が、スナックバーで、半分は路上で、携帯ラジオからテクノポップががんがん流れ、超ミニのスリムは女性が二人踊っており、白人の親父がむっつりとビールを傾けていた。

 この露天のならんだ歩道に、ドイツ料理の店がドイツ語のネオンサインを青く照らしていた。店まで60坪の庭先が開け、この角も露天商で埋まり、そのためかこの店もテント張りに見えた。もちろんビルもあり、その1階は商店がつづいていた。そこには、タイ式マッサージの店が2店並んでいた。青い制服の店と赤い制服の店である。いずれの店前にも二十歳くらいから四十歳過ぎくらいまでの陽気な女性たちがうんこすわりで、笑いながら客を呼んでいる。呼び込むというより、彼女らも陽気にはしやいているといるという屈託の無さ、ガラス張りの店内は空っぽのままであった。

 裸電球が、白熱灯から蛍光灯とあり、豆ランプがいたるところに青く赤く、点滅し、ネオンが光る。街灯も店の照明もないが、かえってそれが、夜祭の気分にさせる。100メートルにも満たない通りだが、ここなら何時間居ても退屈はしないすみそうだと思う。

 街路の劇場性、そこにある人々の息吹、それは自然に生まれたイベント、夜明けまで終わらぬ連続ドラマでだといえる。

 宮崎市の大通り、高千穂通りに「T ステージ」という県産材の木製のステージが設けられた。昨日行ってみたら、自転車駐輪監視員が、懸命に自転車の駐車の指導と、ステージ脇の自転車の整理をしていた。白く乾いて塵ひとつなく光っているステージは、神かおまえはといいたくなるのであった。
 
 こんな街路に人が集まるものかと、またまた思うのであった。




 

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一瞬のバンコク ビルとの共棲

2007-11-08 | Weblog
 そう、ビルの前の歩道を車窓越しに覗いてみたときだ、ビルの前の都会的な専門店街が軒をつらねているとばかり思っていた目に飛び込んだのは、都市の廃墟だった。ビルの前に何十年も経ったような低層のビルが連なっていた。1階は穴倉のようで、上は木製の窓がよろい戸を閉めている。その低い軒先にトタン葺きの臨時の店があり、また、木造トタン葺きの掘っ立ての住居がビルの切れ目の歩道にいきなり現れる。そして、そこは路地が奥に何百メートルと入り込み、人々が往来している。

 驚くべきことに、歩道には、露天がえんえんと連なっているのだ。それは小さなリヤカーであったり、机ひとつだったり、支柱とテーブル、椅子を並べた店風だったりして、どれひとつとして同じものはなく個性的である。そして、わが国では絶対購入不可能な、椅子、テーブル、棚
家具、調度品など、つまりそれは日本では産廃処理場でしか入手できないようなものである。それは、こうしてならべられると存在感がある。

 高層ビルは銀行だったり、ホテルだったり、企業向けの貸しビルであり、歩道に面して広い占有の広場を持っている。その広場の角や門脇、
歩道との境界には、露天の店があり、そのビルを前に門前市のように賑わっている。来客は、露天と並んであるビルの階段やテラスをラウンジとして談笑をしている。

 廃墟と見えたものは、たんに外観であり、それらは、活気にあふれていた。現代ビルと都市の廃墟が、共存している。そういう共存をなんら苦としてない、都市の管理のあり方が驚異である。なぜ、そんなことが許されるのか、自転車の駐輪監視員を20年ちかく配置して、歩道から一台の自転車さへも放逐することに成功した宮崎市の都市行政とは、まさに天と地のちがいである。

 ここでは、ビルとの共棲によって、市街がエネルギーを生み出しているのであった。ここで、ビルはなんら他を支配できるものではなかったのである。行政もまたそのように感じられた。
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一瞬のバンコク ビルと安穏

2007-11-07 | Weblog
 まず、ホノルルでもラスベガスでも一週間も滞在したら、なにもかも分かった気がして、もういいという感じになった。ところがバンコクでの5日間は、表面を一瞬かすめただけの思いが残るのだ。なぜなのなのか
それは、目にしたものの多様性、瞬時に衝撃的テーマにひきつけられるからであり、それが、いたるところ、それこそバンコク市街全体に広がっているからである。しかも奥深くにである。

 そこで、その一瞬、意識に刻まれた現実をホットなうちに記しておきたいとブログを書くことにした。そしてまず、空港に着き、スクンビット通りのウインザー・スイートホテルに向かう高速自動車道で、最初に見たものは空中に伸びるビルの群立であったわけだ。

 地平線まで広がるような平坦な市街に並んで立つ高層ビルは、これまでなんども見たアジアの新興都市の都市写真風景であった。どのビルも
どのビルも、視線を集めるべくデザインに全力を投入している。50階建ての30階分くらいを獅子のデザイン画にしたもの、ここは前東芝は入居していたという。ビルを横切る30メートルもある女性の寝姿の写真、ビルというより塔、屋上に寺院を重ねたような構造、斜めの壁面、金色、白色と、臆面のない自己主張を全身に漂わせる。低い家並みを制圧するように聳えるビルが、いかに制圧的であるかを、あらためて感じることができるのであった。


 バンコクよ、お前もか、現代消費社会の動くままに駆り立てられて、そのくび木からのがれられないのかという思いが車窓をかすめるビルを見て感じるのだった。そして、中心市街地スクンビック通りにバスが入り、ビルは高速道脇に接近してきだした。そのビルの下に商店街がまたつらなるはずであると、開架下をのぞき込んだのだ。

 そこにとんでもない情景が、目に飛び込んできだした。それが始まりだった。

 
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宮崎市の印象 バンコク体験より

2007-11-06 | Weblog
 バンコクから帰った。昨日、午前3時発(現地時間午前1時)のタイ航空で午前8時15分福岡空港着、午前9時50分博多初の高速バスで午後2時15分宮崎駅着、ハイヤーで午後3時前に帰宅できた。

 バンコク5泊6日のパック旅行は、それ相応のきびしい内容であった。
能率的で数量的で、安くあがれるように工夫されていた。食事は、毎朝
バイキング、昼は、中華料理の回転テーブルで皿をまわしながらの見知らぬ人との相席料理、夜はまたも回転テーブルで皿を回して、タイ料理を探すが、やはり中華料理風だ。飲み物は別料金で、水、コーヒー、ジュースですら2倍から3倍くらいの値段だ。
 ぼくは、このバイキングと回転テーブル式の食事は一番嫌いな食事スタイルである。それとうすくらがりでの食事も食った気がしないのに、なんと3日目の夕食、タイ舞踊を観ながら提供された夕食がそれだったのである。憧れのタイ料理は失われてしまっていた。それでもおぎなってあまりあるおもしろさがあったのだ。

 観光は、毎日、お寺,王宮、遺跡(ここも王宮の跡)だった。市街の非日常性は、その貧民窟らしきもの、わいざつないかがわしい繁華街、犯罪的な匂いの漂う路地、エネルギッシュな都市バザールから、つまりその無限の非日常性の胸をしめつける衝撃から、観光というどこの土地でもあるデジャブーな観光地という日常性へと運ばれた。だから、この訪れるひまがなかった非日常的バンコク市街が強烈に記憶に残っているのである。

 毎日、目の前にタイ料理という見事な料理が運ばれるのに、それは提供されずに隣席へと運ばれるのであった。しかし、それがかえって、よかったのかもしれない。そんなわけで、バンコクをありきたりに観光しただけの5日間であったが、刷り込まれ、手のとどかなかったバンコクは大きかったと、おもわれる。それは、昨日宮崎市街にバスが入ったときに、バンコクの記憶をとどめた意識が、ぼくの宮崎市街をプリズムを通して見るように変えていた。

 それはなんと薄っぺらな特色の無い、紙細工のような建物のつながりが広がり続ける街であることか。住居、施設、ビル、繁華街、宮崎駅、そして市街地のすべては、「街」というより、装置とでもいうか、ミニハウステンボス装置というようなものとしか感じられなかった。

 ここでは、歴史が消え、景観が消滅し、コミュニティが感じられず、人工的なムードだけの街という名の紙細工があった。ここで、人それぞれの生きている匂いがしないごとくであった。

  街を作る活性化するもなにも、それ以前に街に生きる人間の匂いがしないのである。シャッターを下ろさざるを得なかったのは、個人商店ばかりでなく、人の生きるスタイルではなかったのかと、不安で強烈な印象が、現実感に変わっていくのであった。
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