市街・野 それぞれ草

 802編よりタイトルを「収蔵庫編」から「それぞれ草」に変更。この社会とぼくという仮想の人物の料理した朝食です。

あと一月か

2010-11-30 | 日常
  11月があっという間に消し飛んだように終わった。なにをするでもなく、日々が消え去っていったと思えた。ところで、当月の日記をくってみると、月初めの友人家族と人吉温泉旅行から、どくんご上演の実行委員会開設があり、なんとか、ぼくを除いての実行委員会のスタートがなり、すぐに知人たちの音楽ライブに参加、中旬にはバークレイから親類の人類学教授の来訪があり、耳のツボのピアス治療をやり、天井の太陽温水器の取替え工事をやり、デジタルテレビ買い替えたりした。部屋の整理のため書棚購入にかかった。どくんご上演のあとの反省会にも客員として参加したり、日高プロショップの個展を読売の記者に紹介したり、むしろ単調というよりなにやかにやとありつづけていた。にもかかわらず、この一ヶ月なんにも生じなかったよう単調な感じという記憶は不可解である。

 つまりそれはなにも実に入らなかったということだろうと思う。心に響くものが無いということであろう。日記に残った日常の記録がありながら、なにこともなくあっという間に11月が終わったという印象がふしぎである。おなじようにして、先月はどうだったのか、先々月は、先々先月はどうだったのか。こうして重ねて毎月を日記で調べていくと、さまざまの出来事で一年は埋まるのであろう。しかし、11月と同なのだ。この1年間は吹っ飛んだように、終わったのである。ということならば、むしろなにもしないで、いやなにも生じないように工夫して、なんとか、なにもないほうが、人生は面白いのかもしれない。そのほうが、日々は深く実っているのかもしれない。つまり、太平洋を一人でヨットで航海していく状況のほうが、はるかに複雑・怪奇、ドラマチックなのかもしれない。

 いよいよ明日から師走である。ぼくは、この師走は好きな季節である。この月くらい人々と反対の行動をとりやすい季節は無いからである。とくに宮崎では、都市的催しも限られていて、どこでもありそうなイベントの繰り返しだから、自分だけの足跡をつけやすい。もうすでにイオンモールでは、ジングルベルが響いている。ジングルベルは多くの人を悲しませるメロディである。そしてまず宮崎市中心市街地に電飾の飾り、豆電球何十万個がともされた。それは川南町にも国富町にも電飾がシャッター通りを華やかに彩る。電飾は、宮崎市ばかりでなく九州のいたるところに、日本大都市のすべてに、ニューヨークにロンドンにスペインに飾られ、式典という名の消費への誘いが企画される。あらゆる店が、忘年会の特別メニューを宣伝している。これはいい。なんとか乗ってあげれば、不景気である店をたすけられるかもしれない。ぼくはイブの夜は、一人でどこかのレストランで、食事をしてしわわでない人々を見るのを楽しみにしている。ついでに暗い住宅街をあちこちまわって、住宅のまわりに電飾ツリーをしている家をみつけるために自転車で廻ってみる。

 今年も酒やビールや、その他アルコールを一滴も口にせずに済んだことを感謝する。
今はよくなった。自動車でといえばアルコールを強要されることはないし、なによりも同僚という地獄の番人とかかわりがなくなったからだ。定年になっていちばんしわわでなことは人とつきあわないですむことであろうか。だったら、より徹底して他人のすることをしないことをやるべきだと意欲することだろう。年賀状を書かないこともその試みであるが、これ去年やったら、病気を心配されて、かえって面倒臭くなった。今年はかくことにしようか。いよいよ、12月4日は液晶テレビがわがやに来て、42インチの画面で、たのしめることになった。まずは年末・年始はDVDで映画だ。深更番組を録画してゴールデンタイムには、これを見ることにしよう。テレビを新しくして良かった。テレビを利用して大衆番組からとおざかることが可能になると思える。チップが冬が来てやけに元気になってきた。これまでは散歩を面倒くさがって、排便のあとはすぐに帰りたがったが、今は下手すると4,50分も歩きたがりだした。午前6時半の起床では、朝食を終わって「てつばん」を観るのに間に合わなくなった。あいかわらず、この直後の番組「アサイチ」でキャスターがてつばんミーハーをしゃべってから、情報を紹介するということをつつけ、その不用意な軽さが、いやでチャンネルをきりかえさせている。あと一月で師走も、それこそあっという間におわるだろう。元気で終わりたい!!
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あと一月か

2010-11-30 | 日常
  11月があっという間に消し飛んだように終わった。なにをするでもなく、日々が消え去っていったと思えた。ところで、当月の日記をくってみると、月初めの友人家族と人吉温泉旅行から、どくんご上演の実行委員会開設があり、なんとか、ぼくを除いての実行委員会のスタートがなり、すぐに知人たちの音楽ライブに参加、中旬にはバークレイから親類の人類学教授の来訪があり、耳のツボのピアス治療をやり、天井の太陽温水器の取替え工事をやり、デジタルテレビ買い替えたりした。部屋の整理のため書棚購入にかかった。どくんご上演のあとの反省会にも客員として参加したり、日高プロショップの個展を読売の記者に紹介したり、むしろ単調というよりなにやかにやとありつづけていた。にもかかわらず、この一ヶ月なんにも生じなかったよう単調な感じという記憶は不可解である。

 つまりそれはなにも実に入らなかったということだろうと思う。心に響くものが無いということであろう。日記に残った日常の記録がありながら、なにこともなくあっという間に11月が終わったという印象がふしぎである。おなじようにして、先月はどうだったのか、先々月は、先々先月はどうだったのか。こうして重ねて毎月を日記で調べていくと、さまざまの出来事で一年は埋まるのであろう。しかし、11月と同なのだ。この1年間は吹っ飛んだように、終わったのである。ということならば、むしろなにもしないで、いやなにも生じないように工夫して、なんとか、なにもないほうが、人生は面白いのかもしれない。そのほうが、日々は深く実っているのかもしれない。つまり、太平洋を一人でヨットで航海していく状況のほうが、はるかに複雑・怪奇、ドラマチックなのかもしれない。

 いよいよ明日から師走である。ぼくは、この師走は好きな季節である。この月くらい人々と反対の行動をとりやすい季節は無いからである。とくに宮崎では、都市的催しも限られていて、どこでもありそうなイベントの繰り返しだから、自分だけの足跡をつけやすい。もうすでにイオンモールでは、ジングルベルが響いている。ジングルベルは多くの人を悲しませるメロディである。そしてまず宮崎市中心市街地に電飾の飾り、豆電球何十万個がともされた。それは川南町にも国富町にも電飾がシャッター通りを華やかに彩る。電飾は、宮崎市ばかりでなく九州のいたるところに、日本大都市のすべてに、ニューヨークにロンドンにスペインに飾られ、式典という名の消費への誘いが企画される。あらゆる店が、忘年会の特別メニューを宣伝している。これはいい。なんとか乗ってあげれば、不景気である店をたすけられるかもしれない。ぼくはイブの夜は、一人でどこかのレストランで、食事をしてしわわでない人々を見るのを楽しみにしている。ついでに暗い住宅街をあちこちまわって、住宅のまわりに電飾ツリーをしている家をみつけるために自転車で廻ってみる。

 今年も酒やビールや、その他アルコールを一滴も口にせずに済んだことを感謝する。
今はよくなった。自動車でといえばアルコールを強要されることはないし、なによりも同僚という地獄の番人とかかわりがなくなったからだ。定年になっていちばんしわわでなことは人とつきあわないですむことであろうか。だったら、より徹底して他人のすることをしないことをやるべきだと意欲することだろう。年賀状を書かないこともその試みであるが、これ去年やったら、病気を心配されて、かえって面倒臭くなった。今年はかくことにしようか。いよいよ、12月4日は液晶テレビがわがやに来て、42インチの画面で、たのしめることになった。まずは年末・年始はDVDで映画だ。深更番組を録画してゴールデンタイムには、これを見ることにしよう。テレビを新しくして良かった。テレビを利用して大衆番組からとおざかることが可能になると思える。チップが冬が来てやけに元気になってきた。これまでは散歩を面倒くさがって、排便のあとはすぐに帰りたがったが、今は下手すると4,50分も歩きたがりだした。午前6時半の起床では、朝食を終わって「てつばん」を観るのに間に合わなくなった。あいかわらず、この直後の番組「アサイチ」でキャスターがてつばんミーハーをしゃべってから、情報を紹介するということをつつけ、その不用意な軽さが、いやでチャンネルをきりかえさせている。あと一月で師走も、それこそあっという間におわるだろう。元気で終わりたい!!
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国民の妹とはなに テント劇「ただちに犬 Bitter」つづき

2010-11-27 | Weblog
 この「国民の犬」とは、女子フィギュアスケートのキム・ヨナが韓国で国民の妹と呼ばれていると、テレビで聴いたことがあると思う。妹のように可愛いというわけ、つまり国民的アイドルだろう。ところが、はたしてそれだけですむことなのか。モモちゃんがおもしろがって「ただちに犬」で聴いた台詞を繰り返しているのを、ぼくらもやってみよう。国民のデイト、国民の数学、国民の宿題・・・とつづけていく。さて、国民の父、国民の母、国民の兄とだんだん広げていく。国民のスーパー、国民のテレビ、国民の買い物、国民の電車、国民の歯ブラシ、国民の電話、国民の洗濯機、国民の通勤・・・などと、家族、友人、暮らし、仕事などと拡大していくと、もはや国民的アイドルなどという可愛い姿などは消し飛んでしまう。「国民の○○○・・」となるだけで、こっけいになってしまうのである。観客はそのシーンで爆笑していた。なぜわらえるのか、国民の父といわれたとき、なぜ吹き出すのか、それは父という存在が虚ろになった実態をさらけだされてしまうからだ。そう、すべてが実態を失って、虚ろになる。私という自分までが、国民というものにかりとられて胡散無償して消滅し、国民という全体があたり一面にひろがりだす。まさにそれは北朝鮮国家の大砲砲撃である。それに対応するNHKテレビやその他の報道の画一さである。このあまりにわれわれの日常の実は正体をきづかされて、笑うしかなくなってくるのだ。モモちゃんにとっては、港小の校長先生、港小のPTA会、港小のクラスメイト、港小の便所、港小の卒業式などなど続けて唱えると、そういうことになりそうだ。もちろん、彼女にこんな発想は無縁かも、今の年齢では。

 舞台のやや汚れてくたびれてしまったキャンバス製の犬の縫いぐるみをひっくり返して、その後ろ肢の股の付け根から指で背中へ向けてなぞりながら、国境線があるという、四肢の先にはそれぞれの日本や海外のリゾートがあるとする。それは、世界が犬の縫いぐるみに縮小されてしまったおかしさである。ここでは、個人が夢幻の広がりをしながら主体となっている。ドンキホーテの自己幻想が、われわれを笑わせる。まさに国民の○○○での自己の無化と対象している。一方では無、他方では無限大、どちらにしても自己存在は消滅し、笑いだけが煌々と、テント内を満たしていく。どくんご劇の中心主題は、ここにあるとぼくは思う。

 おそらく、この台詞、つまり表現をしたのは、かれらのテント演劇活動によって意識された世界観であったと思えるのだ。それは頭や理論や、演劇的教養などでえられたアイデアではなくて、かれらの生き方が、どうしようもなく自覚を促す世界と自分の関係であったといえよう。だから、説得力があるのだ。つまりモモちゃんという純粋なこどもの心を動かす真実感があったのだ。

 このエッセイの初回にのべたようにぼくのどくんごテント劇のプロデュースは1995年の「トカワピークエンダワピー」であったが、実際に積極的に関わったのは、もっと早く1990年宮崎市の隣町旧佐土原町の一ツ瀬病院(精神科)で公演された同劇団の「パブリックな怪物 夢が役に立たないと、そうわかったので安心して眠った」であった。この劇では冒頭精神病院のシーンで病院長が登場、さんさん経営でわるいことをやると演じられ、観客の笑いを誘った。144名の観客のうち59名が一ツ瀬病院の患者であり、かれらの爆笑がすばらしかった。このころ、ぼくは1974年から宮崎市に来援していた黒テント(1968/71黒色テント)の上演を見てきており、1979年の「西遊記」「ヴォイ/チェック」「タイタニック沈没す」などと2004年の「ど」まで実行委員長を引き受けてきた。この黒テントも宮崎神宮神苑などで上演していた。外に「リダン」(実は漢字名)と今は名称さへ記録の無い「紫テント」が、新しいテント劇団として、市民をおどろかす公演をやっていた。このような劇団を比べてどくんごは、同じテント劇ながら、かなり違っていた。どこが違うのか、一言で言えば、どこかのほほんとしたエンターテイメント性をかんじられたのだ。とくに黒テントが、天皇制国家を問題とし、安保条約反対闘争の失敗などを扱い、昭和の時代の革命を模索するような反対制的内容を演じる思想性などはもはや無かった。またどこか学生っぽい若さがあって親しみやすかった。たしかにアングラ演劇とよばれた内容の激しさはうけついでいた。とくにリダンや紫テントはステージで火を燃やし、水をぶちまけ、裸、暴力といういわゆるアングラ的表現に力点が置かれて、もはやその衝撃を排してしてきている黒色テントの過去を想起させる激しさで興奮を誘った。それらに比べてどくんごは、なんとなく、思想性も衝撃性にも力点を置かずどこかのほほんとしたものがあったのだ。

 その後、アングラ演劇は小劇場運動としてさまざまの劇団・劇表現を生んでいった。そんな80年代となり、テント内でどのような表現を実現するかが、課題となり、挙句にテント劇は休息に消えていった。そんな時代の変化のなかで、ほとんど唯一といっていいくらいのテント劇団として「どくんご」が生き延びている。主催の伊能は、絶滅危惧種と笑っていたが、ここ数年、ふたたびテント劇での順延は、黒テントなどでも模索されている。時代はふたたびテントに注意を向けてきたのだが、実現している劇団はまだ皆無である。こんな流れのなかで、どくんごのテント劇だけがなぜ生き延びているのはそれだけの理由、つまり「なまけもの」が密林のなかで「生存競争」を勝ち抜いているのと似た生存可能性の理由があるのであろうとは、推測できるのである。

 そのひとつの理由として、ぼくは初期に感じた、街頭劇やテント劇ののほほんとした肩の力を抜いた特性があったのだろうと思う。思想性も革命も、教養もガンバリズムも経済も消費も関係なく、ただ好きなように生きているというだけの面白さ、その喜劇性が、すでに当時のアングラ劇を越えて新しさを持っていたのだといえるのである。テント内でふたたび表現を模索しながら、テントを捨てるしかなかったもろもろの劇団とくらべて、どくんご劇団のテントはすでにそのとき、かれらの甲羅になっていたのだ。中身はすでにおさまっていたのだと解釈することができるのである。この世界からまさに宙ぶらりんの生き方そのもの新しさが、80年代に確立されていたというのは、注目したい。

 さて、2010年11月の「ただちに犬 Bitter 」で、このエンターテイメントの笑いの要素がどれだけ有効であったかを、ぼくだけでなく観客の反応から検証していく必要があるのではないだろうか。どくんごの表現は2005年「ベビーフードの日々」から縫いぐるみの人や犬を登場させるようになって、笑いが複雑さと、他方単調さをもつようになってきた。ただ、2004年には映画「笑いの大学」ガ封切られ、2005年優勝賞金1000万円の漫才グランプリが開催され、笑いは表現として時流になってきている。この時流をつかめる時代をむかえているのだ。それが可能かどうか、どくんご劇団のふんばりどころであろう。その提言のいろいろかんがえるのであるが、ここでは、最後にもう一度モモちゃんに登場してもらって、ぼくの意に替えて提言してみたい。モモちゃんは、どくんごのシーンでつぎの台詞を記憶していた。しかも、毎晩のように今も風呂上り、自分のベッドの上で、この台詞で一人芝居を演じているというのだ。

 暗闇健太のモノローグを彼女はこのように記憶・再現して、これをノートに書いてぼくにあたえてくれた。

 「ある日、ばあさんが「ウイッ」とのんでしもうたのよ~~~。
  あのあのトカゲの目のように赤く血のように、どろどろにえきたいを~~~!
  ビールのむ、くすりのまない、ビールのむくすりのむ、どくのまない、のんでしまったのよへへへ!そんで「クイッ」とのんでしまったのよ~~~!それは人間のほかのものにするくすりだったのよ~~~!わしは、チョコレートになったのよ~~~!
かゆい、かゆい、かゆい、かゆい、かゆい、かゆい、かゆい、ここがかゆい。

 いやもっと上、いやもっと、もっと上や~!!
 あ~~~~~~
 わしは、ちぢんで、ちぢんで、ちぢんで、ちちんで、こんなに小さなチョコレートになった。ばあさんは、チョコレートの箱になってもんくも言えない。ビールのむ、くすりのむ、どくのまない。ビールのむ、くすりのむ、どくのまないや~~~~~~!」
(以上の台詞の行変え、その強調のための各種記号はモモちゃんの原文のまま)

 ぼくは、この台詞のおもしろさに仰天してしまった。それと台詞に加えられた強調のための感嘆譜の位置はモモちゃんが挿入したのだから、演出台帳としても、理に適っている。この表現のおもしろさを小学3年生の彼女が演出するかのように独自の視点で捉えていたのだ。

 そして、ぼくは、たぶんに多くの耳の遠くなってきた高齢者たちは、聞き取れなかったのではないか。そして、このおもしろさが爆発するまでには、至らなかったのではないのだろうか。絶叫の単調さが、誇張のひとりよがりが、観客を無視した印象もあったがひとりの少女にはこれほど心にとどくシーンでもあったのだ。

 かって、伊能はぼくらの演劇もまた「宝塚歌劇」と同じ構造ですよと言ったことがあったが、ぼくは、現在もこの構造に深く興味をもっているのだ。
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国民の妹 テント劇「ただちに犬 Bitter」を終わる

2010-11-20 | 演劇
 宮崎市も朝は手袋がいるようになってきた。そう、今年も年末へとまっさかさまにころげこむための季節になってきた。これから、年末にかけて大衆行動に駆り立てられる。文化の日、電飾の市街、お歳暮、クリスマス、年賀状、紅白歌合戦と波が襲う。この波をどう斜めにつっきるか、こんな日々がくる。大衆行動は快感か、あるいは恐怖か、ぼくにとっては浮遊感である。高野綾の絵画「Noshi & Meg, On Earth, Year 2036」の少女のように裸で「洋服の青山」の電光看板の目立つビルを取り囲む中心市街の空中に漂っている気分を共感できるのである。

 11月13日土曜夜、青島を見下ろせる丘に立つガラスのドームのカフェレストラン
「天空ジール」に設営されたテントントで「ただちに犬 Bitter」を観た。去年のただちに犬 Deluxe 」の続編というのであった。続編といっても、どこが続きなのかつかまえにくい、いやとらえどころのない漠然たる、これまにない絶叫劇が・・目の前を流れつづけていった。今までに無い全体像を要約しきれないままに。前回は、犬を殺した犯人さがしの堂々巡りという形式をもっていたが、それが乱れていた。前半と後半では、「犯人はお前だー」と指摘する仕方と指されたものの絶叫的反応は、後半では静かな口調で「犯人はお前だ」という口調となり、指されたものは、なにごともなかったかのように、ふたたび静かに、つぎに犯人を告げる、あるいは語るということになっていた。これは、前半との対象形なのだ。だが、なぜ対象にすべき必然があったのか、はっきりしなかった。そして全体のテーマ犯人探しは、劇の核とはなっていないということになったのであった。ならば、この劇はなんなのか・

 ここで一人の少女(小学3年生)に登場してもらう。知人の一人娘で、去年初めて
たたちに犬を観たあと、この劇というか、どくんご劇団そのものにはまり込んでしまった。ママが「モモが将来役者になりたい」と将来の希望を書いたと言って、笑いながらも不安げにいうのだった。「これあなたの責任だわよ」と脅しながらだ。なにしろクラスの発表会では、舞台装置を製作、役者をクラスメイトに指示し、童話を脚本にして上演したという。こんなことは前代未門のクラスイベントであったというのだ。その後も自宅の学習机の上にはどくんごの舞台写真の絵葉書が何枚も貼られ、ときどき人形を並べて芝居をさせているという。そのモモちゃんは今年もどくんごが来ると、店にはられたポスターでいち早く気付いて、指を折って上演日をまっているのだと、おどろくべき話を聴かされたのだ。また絵葉書を買いたい、そして、ぼくにお願いして欲しいのは、役者さんたちと写真を撮らしてもらいたいというのであった。上演の前後、伊能、五月、暗闇健太、みほなどにこの話をすると「ヤバイよ、それえ」とうれしそうに仰天していた。写真も全員がツーショットとなって、彼女を歓迎するのであった。五月さんが、あの子、絵葉書を何枚も買ってくれたのよとよろこびを通り越して驚いていた。モモちゃんは、5歳からモダンダンスを5年間習っていて、ステージでの体験も重ねてきているから、どくんごの舞台に対する反応も普通ではないのかもよと、ぼくはかれらと話すのであった。

 
 今週火曜日、店に行ってカウンターのマスターにモモちゃんの反応をさっそく確かめてみた。

 「それそれ、一番おもしろかったのは、劇のなかであった長いモノローグ「国民の妹」「国民とデイト」とはてしなくつづく国民のナニ、国民のナニ、国民とナニをべらべらとまねし出して、そこが一番おもしろかったらしいですよ。それともう一つは、犬の縫いぐるみが、去年より小さくなっていたと言います。それから犬の後ろ肢の間から背中の縫い目を、ここが国境といったり、肢の先がリゾートや、宮崎の都井岬だと話をするところも面白かったといい、今では犬のぬいぐるみをもってきて、両足の間から指を這わせながら、ここが国境などと一人でやっています。それと、-秘密を打ち明けてくれなくって結構ーという台詞を劇で言わなかったと言うのです。あ、この台詞は、ちらしの漫画の噴出しに小さく載っています・・」

 と、モモちゃんの観劇後のおどろくべき反応を語ってくれた。あのちらしにある漫画の役者の吹き出しにある「秘密を打ち明けてくれなくって結構」などの台詞など、気付いてもいなかったし、読んでも気にもしなかったことだろう。思うと、この言葉は、少女の人生にとっては、きわめて大切の日常感情を秘めているといえよう。ただちに犬は、彼女の人生と確実の交わっていたのだという驚きがある。つぎに驚かされたのは、「国民の妹」「国民とのデイト」と、国民のと果てなくつづく台詞のシーンを、犬の人形を自分を取り巻く世界・社会・故郷になぞらえて指でなぞりながら、つっこみをうけのお笑いをくりかえすシーンは、今回ではまさにここしかないほどの中心的主題であったと、ぼくにはおもえていたのだ。これは、ぼくの感性が少女並なのか、モモちゃんが大人並なのか、いや、大人にもこどもにも
「ただちに犬」が、見事に中心主題を伝えられる構造を宿していると、みなすことが可能であるといえるのに、驚かされるのだ。とくに「国民の何々」これは凄い。
このリフレインは何を表し始めるのか、自分で台詞をリフレインしていると、なにかかが、たちあわれてくるのである。モモちゃんとぼくにナニが・・・・?
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どくんご上演とピアス飾

2010-11-15 | 演劇
 土曜日のどくんごテント芝居が終わって、今回は実行委員を勤めなかったがやはり無事上演が終わってほっとした。日曜日は天空ジールの委員長のしのぶちゃんと団員を見送りにきた。いざお別れとなると一抹の淋しさも感じるのであった。上演中はひととき小雨が降ったが、暖かいしのぎやすい晩秋の夜であった。

 昼休み、武蔵野のてんぷらを食べに行った。カウンターに座り、今日は、肉天というのを選んだ。豚肉、鶏肉がメインのてんぷらセットである。飯は大盛りとしてもらったが、先日の飯とくらべると炊き上がりが、蒸したような感じであった。これにはちょっとがっかりしたが、食欲はあったのでたいらげられると思い、てんぷらのとどくのを待っていた。すると、大柄の30代後半の女性が、椅子一つ空いた隣の席に着いた。茶色の皮ジャンを椅子にかけ、ニットのタートルネックのシャツで営業の外回りの勤め人らしかった。なにより身長が1m70cmはゆうに越す大柄の色白、栗色に染めた短髪、ボインちゃんであった。彼女はセルフサービスのお茶を湯のみに注ぐと、スポーツ新聞を広げた。一面のカラーの競馬記事に目を留めた。4,5年前ごろから、ようやく喫茶店や飲食店で一人で席に着く女性がぼつぼつ現れだしたが、最近は女性の一人客は当たり前の風景になってきた。本を読んだり、携帯電話やパソコンを操作したり、ノートを広げて学習していたりで時間を過している。だが、新聞を読む女性というのはほとんど見ることがない。ましてスポーツ新聞の扇情的なカラー記事を見入っている光景など見たことが無かったので、なんかうれしかった。こういう女性がどんどん増えたらおもしろいのにとわくわくするのであった。

 表情がうかがえないのが残念だったが、彼女の真珠色のピアスが目に付いた。ふと、自分の耳にもピアスがあるのを思い出し、共通点がピアスというのがわらえるのであった。ところで、ぼくのピアスは耳ツボを押さえる医療器具で、目の疲労をとるツボをチタン合金が押さえているのだ。耳にはダイエットや自律神経、精神安定などのさまざまの重要なツボがあり、これらを押さえて、どうじにファッション性を兼ねる装飾が、ブームになりつつあるという。ぼくは、はじめなにもしらずに耳ツボ治療というので、鍼がマッサージだろうと、知人の娘さにお願いしたところ、ガシャンと宝石のような飾りを貼り付けというより埋められたのである。ブラウンの目立たぬものにしてもらったが、もう遅かった。有名なスワロフスキー社のクリスタルガラスで、光の当たり方によって、宝石トパーズのように黄金にきらりと光ってくる。ぼくの耳に気付く人は、たいてい若い女性たちであるが、男性は一日いっしょにいても気付かない。女性の観察力のこまやかさや、「かんがえるまえにみる」という本能的防衛弱者の行為を感じておどろくのであった。自分のピアスにもだんだんもう今では慣れてしまって、ピアスをしていることも忘れてしまっていたのだが、隣の女性のそれを見ておもいだしてしまった。一般の行動とはずれている女性を見るのは大きな喜びであるが、自分が外れて見られるのはおちつかない。しかし、だんだん、肉体を装飾するという快感が、あらためて興味をひきつつはあるのだ。文化人・芸術家の一部がピアスその他の身体装飾をするのことや、アフリカやパプアニューギニア高地人、下層階級インド人、わが国の女装学者や作家などの身体装飾が、快感であることをすこしわかるきにもなりつつあるのだ。

 他人と変わった行動をとるのは、実は快感なのである。とにかく人がやらないことを見つけると、じつにさまざまのことが身の回りに転がっている。そのおおくは決意だけあれば、金がなくともやれるのだ。今みたような女性であれば、カウンターで、スポーツ新聞を広げるだけで、特異性は他の注視を浴びることが出きる。自分さがしとか、生き甲斐見つけてとか、めんどうなことをかんがえずに、あなたが女性ならば、いい格好で競馬新聞を広げてみよう、それで世界から自分自身は飛び上るのである。自己は凝集していける。自分とはなにか、ここから具体的にスタートしてみることができる。埋没から脱出できるのである。

 どくんごのテント劇というのは、他人がやらぬことをやるということで、耳ツボのピアスに似ているのかもしれない。ますはここに根源があるとする仮定は、なりたたないかどうか、このことを考えてみることにしよう。当たり前でないこと、非日常が人を興奮させる、魅惑する、高揚させる、元気付ける、自信を与える、共有感を抱かせる、これらが、ある。なにが他とちがうのか、どうして、こうなっているのか、これからどうなるのか、果たして他と違うということだけで、可能性はあるのかどうか、帰しこし方をかんがえて、ぼくの身の処し方も考える時期になっている。
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明日夜のテント劇どくんご公演

2010-11-12 | 宮崎市の文化
  今年のテント劇上演は、ぼくは実行委員に参加せず、それゆえ、新しい実行委員会設立の希望をかけての上演となっている。シノブちゃん、梅崎さん、三木ちゃん、山崎さん4人が上演と新実行委員会の実現を図るべく、活動を進めてきた。観客数も50名くらいで納得してもらえるようにどくんごに頼み、快く了承してもらえた。場所は青島の丘の上のカフェレストラン「天空ジール」の前庭にテントを建てての上演である。昨日11月11日木曜日に劇団は到着、山崎、梅崎が劇団と接触、案内した。電話で一年ぶりに伊能さんと接触できたが、「いいところです、すばらしい・・」の一言にほっとした。

 1987年、宮崎市に来て、別府町の児童公園で、暗黒健太と山田零か、時折旬かと青空投げ銭の上演であった。そのとき、現在の女優まほさんが、中学生ではっぴ姿でちんどんの太鼓を叩いていた。なんで中学生が参加しているのかと仰天した。あれから数年後、ついにプロデュースを引き受けることを決意、1994年、折から改修拡張工事に入っていた宮崎駅前の広場を借りてテントをはり3日間の公演をした。このときの「トカワピークエンダワピー」(どこから来てどこへ行く)は連日満員であった。上演後、観客が数名実行委員会となってもらえた。引き続いて、幽霊船の話「ノン・ノット・ポケットゴーゴー」(1998年)をタバコ専売所の跡地で上演できた。この初日は台風の夜の突撃上演であった。二日目は観客が押し寄せ満席となった。ついで丘のうえにある東宮花の森団地の中央広場、西に霧島連峰、東に太平洋が望める場所にテントを立てて「踊ろうぜ」(2001年)を上演。3日間の上演、ついで同じ場所で2005年「ベビーフードの日々」を3日か雨天の最終日であった。最終日に団地の住人の通報によって警察が事情を聞きに立ち寄った。もちろん、何も問題はなかった。このときは、すでに団地は住宅が立ち並び、霧島も海も見えなくなっていた。そして2009年宮崎臨海公園で「ただちに犬 deluxe」上演であった。

 このように上演記録を並べてみたが、数年置きの公演は、劇団の全国上演は、毎年は不可能であったのだ。一回順延すれば数百万円の借金を背負うことになり、これを払うのに数年かかり、その後での順延となったからだ。しかし、劇団も根拠地を鹿児島県出水市郊外に移し、経営の合理化を図って、赤字を克服できるようになって、今年は去年から毎年上演ができるようになったと思われる。しかし、宮崎市は、2000年代に入って知らぬ間に演劇状況は変わってしまっていた。なにより上演実行委員に加わる人がほとんど無くなっていった。宮崎市での演劇上演活動も毎年減っていっている。理由ははっきりしている。不景気で時間を遊びに割ける余裕がなくなってきたのだ。この景気の停滞が10年以上とつづいているのだ。将来の暗さが、意識を縛っている。冒険も好奇心も薄れ、それが個人としての生きるエネルギーを低下させているように思う。疲労感があり、これが自覚できない。だから生活がせいいっぱいで、余計な無駄はしたくない。消費できない。そんな状況を感じざるをえない。まさに萎縮の時代であろうかと思う。

 ところが、他方では、一見、大衆の活動力が爆発する。つまり集団行動に駆り立てられるのだ。先週の土曜日に臨海公演で開催された今井美紀と、泉しげるのライブには一万八千名とか二万名とかの大聴衆が、宮崎はもちろん全国からも押し寄せたというのだ。しかし、ぼくには、これは音楽活動の盛況とは思えない。文化活動と思えるのは、個人の自由意志がなにより基本であるべきなのだが、ここには群集心理しか感じられない。いや、それはぼくの偏見にすぎず、こうした音楽活動こそエネルギーのある現代的状況として存在しているのかもしれない。まさに「どくんご」上演とは異次元の世界であると言っていいのかもしれない。

 しかし、問題は、この異次元だけの世界だけがあり、他は存在しない、ように思えることだ。テレビも各社新聞も一面にこの公演を大きく報道している。もっとも宮崎県の口蹄疫災禍からの復興支援という名目があったせいであろうといわれるが、ではどくんご上演もまた口蹄疫支援足りうるのだ。しかし、この無名の小断片は無視される。大きなものだけが存在価値を認められる。大通りだけがあれば、つまり街は官庁街(おおむねここは大通りである)だけあれば、それで十分なのか、他は不要なのか。そんな大衆の行動を思わせる。路地も横町も裏通りも存在できない市街、やほやも銭湯も、個人食堂も、小さなものは、存在できない市街が広がる。大規模郊外店だけの街、こんな都市に生活しておもしろいのか。市民は、もはや小さな満たされた生き方はできなくなる。公務員や大企業からもれたものは、プアになる。まさに格差社会にあった都市が出現する。しかし、それが不満ともおかしいとも自覚できなくなっている大衆行動がわれわれをつつんでいく。

 アートを考えるかぎり、小さなものを視野におさめざるをえない。この小さなものの存在の可能性をどう意識してもらえるのか、今回の上演には、このことを切実に思うのだ。これが2010年の宮崎市0年代末の文化状況である。
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あのテロップは脅迫なの

2010-11-05 | メディア批判
 とうとう液晶テレビを4日夜に購入した。20年ぶりにテレビが新しくなる。いつからか、テレビ画面の上下がカットされて、その黒い帯状の暗部に来年7月まででアナログ放送は中止になるというテロップが流されていくのだ。それが、映画などの放映のシーンなどに現れる。ただでさへ20インチ台のブラウン管テレビは、いらいらさせられて見る気分が疎外されるのだ。とくに会話翻訳の文字などぼけて読むこともできなくなる。そして、映画の内容よりも、アナログは使えません、中止になります、画面の右上のアナログという文字があるテレビはデジタル映像は受信できませんと、つぎからつぎへと、映画が終了するまで流れつつけるのである。これは広報のつもりなのだろうか。親切のつもりなのだろうか。そうではあるまい。たんに強制である。NHKさんよ、あんたは、ほんと成功したよ、遂に液晶テレビ、LEDライトの明るい未来志向型の42インチを買いました。

 これで古いブラウン管テレビからおさらばできて、利用の仕方によっては、かなりおもしろくなりそうな気配を感じ出した。一方的受像から、積極的介入がテレビ放映にできそうになってきたからである。ところで、今朝も「てっぱん」を視聴したのだが、今朝は3人キャスターがかならず、またミーハー話をアサイチ冒頭に交わすはずだと思ったら、そうだった。いわく、これねえ、最終回ではぼくな泣きますねえきっと泣きますよというのであった。たしかにうるうるのシーンは今週にはいって多い。父と娘、家族と孤独、思いやりの相互交換、ここからの勇気と希望へと、話は展開していく。もちろん真実感があるので、じゅわーっと涙がわいてしまうのだ。詐欺師の話には真実感が溢れているが、全体は嘘であるという現実を忘れるのである。テレビドラマを消費させるというシステムにいつまで抵抗できるのであろうか。キャスターたちのほうが、正しいのではなかろうか、変なのはぼくかもしれない。

-ンの「知識資本主義」という世界経済の0年代前半の分析を扱った本を読んでいた。この本は、まるで近所のおっさんが、悲憤慷慨し、自分たちの溜まり場で、政治がなっとらん、どいつもこいつもアホたればかりだと、机をたたいてぶちまけるような表現で溢れているのだ。ガルプレイスにしろ、昨年度のノーベル経済学賞のグーグルマンにしろ、大衆向けのくだけた経済書を書いているが、くだけてもなお論理性はそうかみくだけるものではない。しかし、しかしサローは一味違っている。彼は曰く、どんな先進国家も資本主義経済であるかぎり、絶頂とどん底を繰り返してきたし、未来もそうだというのだ。なぜなら、人は、欲(金)と楽観主義と、群集心理に囚われているからだというのだ。とくにこの楽観主義というのが、おもしろい。これは困難において、未来を明るくみるという楽観主義でなく、バブルのときに、株はいつまでも上がり続けると信じこんでいる楽観主義というのだ。別の言葉でいいかえれば脳天気ということであろうか。外は土砂降りでも、台風が上陸しかけようが、毎日、毎日、雨づづきであろうが、頭の中はいつも晴しかない。つまり脳天気である人ばかりであるのだよと言い切っているのである。


 てっぱんを視聴したあとの「アサイチ」の一部は、まちがいなく楽観主義つまり脳天気である。この脳天気のトーンを維持するため、その晴れ間を出現させるためにキャスター三人は仕事をしなければならないのではないかと、ぼくはそう思えだしている。これは消費資本主義に生きて、モノを売るときに避けられられない態度であろう。朝からうっとうしいかぎりの話を真実としてぶちまけるよりも明るい話がはるかに有効ではあろう。真実に目をつぶり、消費への勧誘に自己の意識を「消費」しまくるという生業の日々が課せられていそうである。それは誰にでも降りかかる。しかし、明るい話でも脳天気ではいけない。明るくて、脳天気で無い見本は、実はテレビ番組にかなりころがっている。たとえば、綾小路君麿の漫談にもである。くだけろ、しかし真実であれかし。レスター・サローの経済書にもそれがある。3人のキャスターは、放映後に控え室でどんな表情や姿態になっているのだろうか、一度見てみたい。女子アナは、控え室では灰色のつかれ切った表情をしているのだと、知人のアナウンサーが教えてくれたことがあったし・・。ほんとにキャスターの姿を見てみたいものだ。

 
 
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メディア批判

2010-11-05 | メディア批判
 とうとう液晶テレビを4日夜に購入した。20年ぶりにテレビが新しくなる。いつからか、テレビ画面の上下がカットされて、その黒い帯状の暗部に来年7月まででアナログ放送は中止になるという広告が流されていくのだ。それが、映画などの放映のシーンなどに現れる。ただでさへ20インチ台のブラウン管テレビは、いらいらさせられて見る気分が疎外されるのだ。とくに会話翻訳の文字などぼけて読むこともできなくなる。そして、映画の内容よりも、アナログは使えません、中止になります、画面の右上のアナログという文字があるテレビはデジタル映像は受信できませんと、つぎからつぎへと、映画が終了するまで流れつつけるのである。これは広報のつもりなのだろうか。親切のつもりなのだろうか。そうではあるまい。たんに強制である。NHKさんよ、あんたは、ほんと成功したよ、遂に液晶テレビ、LEDライトの明るい未来志向型の42インチを買いました。

 これで古いブラウン管テレビからおさらばできて、利用の仕方によっては、かなりおもしろくなりそうな気配を感じ出した。一方的受像から、積極的介入がテレビ放映にできそうになってきたからである。ところで、今朝も「てっぱん」を視聴したのだが、今朝は3人キャスターがかならず、またミーハー話をアサイチ冒頭に交わすはずだと思ったら、そうだった。いわく、これねえ、最終回ではぼくな泣きますねえきっと泣きますよというのであった。たしかにうるうるのシーンは今週にはいって多い。父と娘、家族と孤独、思いやりの相互交換、ここからの勇気と希望へと、話は展開していく。もちろん真実感があるので、じゅわーっと涙がわいてしまうのだ。詐欺師の話には真実感が溢れているが、全体は嘘であるという現実を忘れるのである。テレビドラマを消費させるというシステムにいつまで抵抗できるのであろうか。キャスターたちのほうが、正しいのではなかろうか、変なのはぼくかもしれない。

 今週たまたま、アメリカの経済学者でジャーナリストでもあるレスター・サロンの「知識資本主義」という世界経済の0年代前半の分析を扱った本を読んでいた。この本は、まるで近所のおっさんが、悲憤慷慨し、自分たちの溜まり場で、政治がなっとらん、どいつもこいつもアホたればかりだと、机をたたいてぶちまけるような表現で溢れているのだ。ガルプレイスにしろ、昨年度のノーベル経済学賞のグーグルマンにしろ、大衆向けのくだけた経済書を書いているが、くだけてもなお論理性はそうかみくだけるものではない。しかし、しかしサロンは一味違っている。彼は曰く、どんな先進国家も資本主義経済であるかぎり、絶頂とどん底を繰り返してきたし、未来もそうだというのだ。なぜなら、人は、欲(金)と楽観主義と、群集心理に囚われているからだというのだ。とくにこの楽観主義というのが、おもしろい。これは困難において、未来を明るくみるという楽観主義でなく、バブルのときに、株はいつまでも上がり続けると信じこんでいる楽観主義というのだ。別の言葉でいいかえれば脳天気ということであろうか。


 てっぱんを視聴したあとの「アサイチ」の楽観主義つまり脳天気である。この脳天気のトーンを維持するため、その晴れ間を出現させるためにキャスター三人は仕事をしなければならないのではないかと、ぼくはそう思えるのだ。これは消費資本主義に生きて、モノを売るときに避けられるものではないのだろう。朝からうっとうしいかぎりの話を真実としてぶちまけるよりも明るい話がはるかに有効ではろう。しかし、明るい話でも脳天気ではいけない。明るくて、脳天気で無い見本は、実はテレビ番組にかなりころがっている。たとえば、綾小路君麿の漫談にもである。くだけろ、しかし真実であれかし。スター・サロンの経済書にもそれがある。3人のキャスターは、放映後に控え室でどんな表情や姿態になっているのだろうか、一度見てみたい。女子アナは、控え室では灰色のつかれ切った表情をしているのだと、知人のアナウンサーが教えてくれたことがあったし・・。ほんとにキャスターの姿を見てみたいものだ。

 
 
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