市街・野 それぞれ草

 802編よりタイトルを「収蔵庫編」から「それぞれ草」に変更。この社会とぼくという仮想の人物の料理した朝食です。

NHK子ども番組

2006-03-29 | Weblog
 NHKのブログ紹介番組の批判を書いたついでに、もうひとる迷惑しているNHKの番組について、書いてみたい。

 毎日、午後6時ごろから、その子ども番組が始まる。おそらく主婦たちの夕食の時間に邪魔にならぬように子どもをテレビの前に釘づけするためだろう。主婦はおおよろこび、こどもも大喜びという図である。

 この番組の耐え難い愚劣さは、だれも感じないのであろうか。

1: 登場するこどもたちは、地域性もなければ、日本のこどもという風土感も    ない。いうなればテレビのブラウン管に生息するタレント卵だ。
 2 そのタレント卵がぎゃあ、ぎゃあ、ぎゃあと騒ぎまくる。それを大人たちが
   懸命にあおりたてつづけて、一時間もつづくんだ。
 3 言葉が汚い、ジョウキマホンズとか、こどもたちに阿る用語の乱発で、卵た   ちのこましゃくれたセリフがあふれかえる。
 4 ネタは、アメリカ映画の借り物である。アメリカンフットボールの仮装で、   手に内輪、紙飛行機を飛ばしてゴールに入れるという馬鹿げた遊びなどな    ど。
 5 はじめからおわりまで、ゲーム、ゲーム、クイズ、クイズのタレント番組で
  こどもを考えさせるとか、感じさせない。かんがえさせない。感動させない。

 幸いぼくの孫もさすがに、折り紙や模型づくりやをしながら、見るようになったので、ほっとしているところだ。
 
 こんなものを毎晩一時間も見せられたら、こどもたちはどうなるんだろうか。その有害度ははかりしれない。そして、そんなものに料金を支払っていることに、われながら腹がたってくる。 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ブロッガー 恥ずかし

2006-03-28 | Weblog
 一年ほど前、毎日新聞の宮崎のページにコラムを頼まれ、肩書きをブロッガーとした。評論家とか劇評家とかがいいのではと言われて、いや、ブロッガーは、そのうち、ファミレスとかコンビニなみに周知の名称になるし、評論家などと偉そうな
呼び名よりいいからと、この肩書きで執筆した。

 ほんとにブログは、豆腐やパンのようにだれでも知る呼び名に、この一年でなってきた。で、夕べNHKで成功するブログの仕方みたいな番組が放映されたので、見たわけだ。テレビはほとんど見ないのだが、主題によっては視聴する。そして、
やっぱり落胆のきわみであった。こんなくだらぬことが、ブログを書くということかと思われたのではないかと、いまさらブロッガーという肩書きが、恥ずかしい。

 離婚した男の愛犬との交友日記とか、ばあさん(本人がそういうので)が爺さんにつくる料理とか、年寄りのうまいもの探訪、南極冒険自転車旅行などなどと、これじゃテレビ番組と変わらない。インターネットテレビ版でしかない。テレビを見たうえで、なおこんなものを読むとうのになんの意味があるのだろうか。

 ぼくがブログをはじめたきっかけは、イラク戦争開始のとき、バグダットからの
一人の若者による空襲のレポートだった。その前に、これはまだブログではなかったが、Eーメールによる9.11テロのニューヨークからの毎日の通信であった。
世界の事実を一人の人間がメディアと同等に伝えられる可能性についての驚きであった。ブログには、現在もこうした事例は無数にある。RSSリーダーで収集すればいくらでも出会える。

 にもかかわらず、NHKのブログ紹介はまさにテレビの補強剤としてのブログの紹介であり、テレビの影響で、ほとんどの大衆はブログとはこういうものだと信じこまされるはずである。そして、こういうことをやっているオノというブロッガーと思われる。恥ずかしい話である。そうじゃないですよ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

チップのマッサージ その後

2006-03-27 | Weblog
 昨年、ぼくの愛犬チップのアレルギー皮膚炎をマッサージで抑えた話を、ブログに発表していた。今朝、知人が、次のメールを送信してくれた。

 {今日、いいとも増刊号」でネコのストレスをとってやるためにマッサージが有効という話をしてました。犬も一緒ですとのことでした。小野さんの実践が正解だったようで、今、同ぬ津病院とかで飼い主に教えているらしいです。小野さん、先見の明があったね。 」}

 それで思うのだが、ぼくらは、犬でもストレスがあると想像できなくなってきているのではないか。犬でもストレスがあると思えるならば、マッサージは思いつく。ただ、ぼくらは、そんな想像もできない犬・猫以下の、畜人になってしまっているわけだ。

 僕は、新聞とテレビが畜人を生み出したと思う。犬のほうが、正常な人間に近いのだと確信できる。だから、ストレスは大きいのである。寿命も短い。ああ!!
 
  以下に参考参考ブログ: 

 チップのマッサージ 医院に行く 2005-12-14 11:19 Weblog ウェブログ 公開中 0 0
 
 チップのマッサージ 2005-12-13 23:17 Weblog ウェブログ 公開中

 幕間 マッサージ 2005-11-06 10:50 Weblog 公開中





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

野草の

2006-03-25 | Weblog

 食物という視点からは、野草を食べても野菜には劣る。
だからといって、野草食を無意味というのではない。  野
草を食するとは、食事ではなくて、ぼくには快楽であった。
今、椿の花弁を食っているということは、耽美的な快感を
感じた。エロスでありセクシュアルでもあった。そして、同時
に、グロテスクな非人間的な文化・文明状況に背を向ける
快楽である。くそくらえの現況否定が高揚した。勝ち犬、負け
犬に組せぬ野良犬の快楽である。  

 日本の野原ほど豊かな自然はないのではないか。
野草の宝庫である。イギリスなど北欧に過ごしてみ
たまえ、青い芝のような草しかなくて、しまいには胸
が苦しくなる。枯れ草もないのだから。まして、アフガン
やソマリアやアルジェリアの砂漠ではどうなんだろう。
そこでの極限状況にくらべたら、日本の野原は、乳と蜜
の流れるカーナンの地そのものである。

  70年代のヒッピー、ナナオが金を持たずに生活できる
と主張したのは、この豊かな日本の野原に由来した。野
草を食べると、またその夢を思わざるをえなかった。
文明と文化は、しかし、その枷から、かれらを自由にさせな
かったけれども・・・・ヒッピー崩壊の事実を・・・・。 
  写真が大ですので、文面は下部をクリック移動して
  読んでください。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

演劇「エキスポ」の宮崎演劇協会合同公演

2006-03-24 | Weblog
 演劇「エキスポ」の地方性は、70年大阪博の「人類の調和と進歩」は、エキスポにあらず地方のどろくささにあったという皮肉に込められているというのが、ぼくの読みであり、深読みでもある。そこで、もうひとつ深読みをお許しいただこう。
  
 この上演成功が、宮崎演劇協会の合同公演に帰せられるとしたら、それは間違いであるということだ。20年ほど見続けてきた劇団SPC、劇団220を中心とした自立劇団の成果こそ本質だ。ここを読み違うと、宮崎演劇協会合同公演こそ偉大なりと、協会主体の演劇活動に帰着していくかもしれない。
 
 協会は劇団ではないのだ。管理された組織にすぎない。協会の合同公演は、大公演はやりやすく、行政の補助金ももらいやすい。メディアは考え(批評意識)もないしにやんや、やんやと紹介しまくる。つまり組織、行政、メディアの三位一体の地方文化賞賛となる。そこには批評など介在しなくなる。個人の創意も消える。

 自立劇団は、個性を失い団子となり、演劇上演は「だご汁」の提供となる。

 「エキスポ」上演の成功は、各自立劇団の積み上げの結果だと再確認し、自立劇団の自主的活動をさらに充実・推進してもらうことを強く提言しておきたい。それがなかったら、宮崎の演劇状況は30年前の「トロア」時代に還る。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

野草と野菜

2006-03-23 | Weblog
 野草は、どれもこれも同じ味だったのはおどろきだった。庭に枇杷の木があれば、新しい葉を天麩羅にして食べれば、ほとんどの野草の味とはこんなものと類推できるのだ。枇杷の葉とユキノシタとが同じ味とは、見た目からは信じられぬ。野菜ならキャベツとレタスは、まったく違う味だし、なすときゅうりは天地ほど味は違う。野草では、その区別がないのである。

 野菜は農薬まみれとか、添加物とか、遺伝子組み換えとかで、その品格を貶められ、信頼もかなり薄れている。野草こそ天然の無農薬、健康にベスト、なんか野菜などは、野草の足元にもおよばぬひ弱な食物と思われかねないような有様である。しかし、こうなってみると、やはり野菜こそ食物としては正しい。つまり野菜とは、その固有の味を持っている。この固有の味を生んだ野菜とは、まさに人間の文化と文明の産物であると、つくづく再確認されたのであった。

 食物もまた文化化され、文明化されて、その仕組みからわれわれは逃れることができない。野草はやはり食い物ではないのである。これを食い物とするには、文化と文明の否定、もしくは超文化、超文明の視点がいるのではなかろうか。ぼくには
それがないのである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

野草を食べて

2006-03-22 | Weblog
 きのう3月21日春分の日、宮崎市のなずなの会主催の野草を食べる会に参加、野草を食べた。自転車で、会場になった国富町の喫茶「深緑庵」に向かった。

 野草が食べられるとは、昔から知っていたが、食べてみようと思うことはなかった。柿の葉は、風雅として、天麩羅の店でだされたことはあったが、それはもはや野草などとは感じられなかった。どくだみを食べてこそ野草食なのだ。そんなものに食欲を感じなかったわけである。

 野草に囲まれた庭のテーブルは、野草たちのてんぷらの色、匂い、形で百花繚乱し、目を見張るばかりであった。何枚もの大皿にびはの葉、スギナ、ユキノシタ、どくだみ、野ばらの花弁、野えんどうなどなどと信じがたい食材がつぎつぎと天麩羅になって盛られていった。

 やがて試食会が開始、大盛りの野草てんぷらを口に入れてみて、ショックを受けたのだ。なによりもまず、野草の形、その生態と味はまったく別物だという驚きである。びはの葉も天麩羅になっては、葉脈の浮き出た葉形も、産毛のある厚さ、色も味とは何の関連もなかった。ただあっさりとした味だけがあった。他はすべて消えていた。すぎなも、ユキノシタも、野エンドウも椿の花弁もどれも同じ味だとは
想像も不可能であった。

 コーヒーがブルマン、マンでリン、トラジャ、ツッカーノブルボン、モカワイルドと恐るべき名前をもっていても相互に区別できる味でないのと似ていた。ああ、これが野草なのかと、妙に親しみが感じられたのである。野草をがんばってるなという親しみなのである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

エキスポを観て

2006-03-20 | Weblog
 宮崎県日南市出身の脚本家中島淳彦の作・演出「エキスポ」を観た。

 70年のエキスポを時代背景に,宮崎県日南地方、片田舎のとある一家の葬式にまつわる騒動が、喜劇的に描かれている。一見どたばた喜劇であり、笑いとせつなさ、地方のにんげんくささをテーマにした人情劇に見える。だが、奥は以外に深いと思えた。宮崎のアマチュア劇団の合同出演であり、その宮崎弁が飛び交い、日南の風土性も生き生きと感じさせた。
 
 連れ込み宿を女手一つで経営してきた母が急逝し、その葬儀を執り行う一家が舞台である。家族のだれもが、どうも母の風俗営業の高収入に依存して、生活してきたようで、真剣に働いてない。いや、不景気で、働ける場所もない。父親も一円の蓄えもない様子だが、妙にファミリーの長として家を治めている。集まった親戚や隣人は、飲めや食えやの葬式を実は楽しんでいる。あるある、どこでも転がっていた地方風景だ。

 ドラマは長男が他人の女房との浮気を隠すため、母の経営日誌をどうにか、人目を盗んで、火葬に付してしまう終幕に向かって展開する。かくして、村がひっくり返るような羽目になったかもしれない、事実は封じられた、と葬儀を取り仕切った長男や従兄弟は胸をなでおろした。そう、ありそうな話に笑えた。

 だがここに犯罪とか、裏切りとか、そんな気配はない。「嘘も方便」という人間のせつなさ、哀れさ、そして暖かさという人間関係の潤滑油が匂い立つ。その複雑な平凡な、負け犬人のありようがリアリティをもって描かれる。

 このとき「人類の調和と進歩」といい「世界の国からこんにちわ」と日本を誇った「エキスポ」の過ぎ去ったお祭り騒ぎが懐かしく思い出される。万博のもつ経済万能、科学と進歩の盲信はなんだったのかと。ほんとうに調和しているのは、実は負け犬的な地方ではなかったかと。この人間くささにこそ、平和と安心感があるではないかと。しかしそれも、今やますますノスタルジーに化しつつある。そして、「エキスポ」は、まさに格差社会、勝ち犬と負け犬だけの価値観を生み出した。もっとも、このような風刺の意図は作者は込めたようにも思えないので、かえって今日性が、あぶりだされてくる。ここに、「エキスポ」上演のきわめて優れた地方性と普遍性が感じられた。
 















 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ふたたび「黒テント」劇上演

2006-03-16 | Weblog

 5月20日宮崎市に黒テントがまたやってくる。前回は2003年10月9日宮崎市の振興団地「東宮花の森」の東集会所での公演だった。あの金玉ムスメというタイトルのチケットは、毀誉褒貶の渦で、よろこんで買うもの、軽蔑で退けるものと別れたが、結果は大好評で終わった。演劇は、見るまで分からないって。  

 今回は、「ど」というタイトルである。「」は、吃音をあらわす「」という昭和30年代の喫茶店に集まる3人の吃音者の物語である。「か、か、か、かかか」と発音できずに「カレーライス」がどうしても注文できない男とか、世界はこの3人にとっては、ど、ど、どどどうにも困る世界なのだ。時は70年安保の昭和時代、レトロが現代をあぶりだす。  

 いやあ、言われてみるとぼくにとっても、どど、ど、どどどうしようもないような小泉社会である。吃音者にっとは世界は不透明、そして切迫した状況を生み、必死になればなるほど悲惨とこっけい感を生じる。ぼくにもあなたにもそれは、ある。   

 この芝居は、すごく笑えるという。 笑うだけではないとしても! 

 5月20日(土)19:00会場 19:30開演
  東宮花の森東集会所 

  前売り一般3500円 学生2500円

    予約・販売 事務局「ウイング」 0985-28-4014

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ナナオ サカキ 2

2006-03-15 | Weblog
 冷たい。  二月は雨つづき、三月は寒波襲来である。  二月は逃げ、三月は去りという。決算の資料チェック、そして、僕自身の個人確定申告とくだらぬ日々が去っていった。   

 さて、第2回目にナナオに会った記憶は、宮崎市稲荷町の銭湯「稲荷湯」の洗い場である。ナナオは隣で体を洗いながら、今日、宮崎交通の社長と会ったら、金銭を差し出されたので、金は持たない主義なのでと断ったよというのである。金を持たんでも生きていくには困らんというのであった。言われてみると、こうして銭湯に浸っているのもぼくの貧しいオゴリによって可能になっているのだ。

 金が価値判断の基準、その唯一の物差しを放り投げて見せてくれたわけだ。口だけでなく実践している生き様にショックをうけたのである。あれから40年多分、その方針を貫いてきたようである。
 
 翌朝、彼が宮酒県立図書館に来るのを玄関ロビーで待っていた。そこの壁に一枚の絵があった。瑛九の作品「つばさ」を野島に住んでいた後藤章と見に来るというのを待っていた。やがて到着したとき「ハエがうるさくつきまとう」といきなり言うのであった。と、どたどたとテレビや新聞記者が入ってきた。メディアを嫌った
のである。70年代の初め、宮崎ではまだまだ新聞・テレビの文化は信じられていたので、この行為は、威張っているのかと思ったが、今にして思えば、メディアの崩壊をすでに予言していたことになる。

 ナナオというのは、その生活を通して、時代相を抜けていたと、今は思えるのだが、当時はとても思えず、かれにはいろいとと理屈を捏ねたのである。それで
妙に楽しかった。かれは、伊東旭に「小野君は固いんだヨねえ」と言っていたと聞いた。思考の膠着をするどく突いていたわけだ。今も変わらぬ僕かも。一生はあっという間に経つし・・・
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ナナオ サカキ 再会

2006-03-02 | Weblog

 2月23日、宮崎県平和台公園「ひむか村の宝箱」(日向特産品,無農薬食材、売店&喫茶店)で、ナナオ サカキの詩の朗読会を開くという誘いを、経営者の池辺さんから電話された。詩の朗読云々よりも、「ナナオ サカキ」の名に驚いた。70年代世界的に広がったヒッピー運動の指導者だった人物である。かれとは10年ほどまえ、画家の伊東旭の家で、再会した。その後は音信普通だった。すでに80歳にはなったはずと言うと、池辺さんが83歳だそうですと答えた。  彼の風貌が懐かしく蘇ってきた。

 今から40年ほどまえ、伊東旭と連れ立ってひまわり画廊の目野順也個展会場に入ってきたのが最初の出会いであった。長髪、顎鬚、ジーンズの短パンでバイプを手にしたナナオは、上背のある強靭な体躯に、とても日本人とは見えない彫りの深いハンサムで、圧倒的なおしゃれを感じさせた。そして、ぼくらに注意も払わず、響くような深い声色で言葉を旭と交わし始めた。こいつは何者だと、目野とぼくはぼうぜんと彼を見詰めたのを思いだす。  

 当時、宮崎市の一ッ葉海岸の松林にヒッピーコンミューンをつくるためにヒッピーを連れて来たのを後で知った。昭和42年ごろに宮崎市でヒッピーなど見たことも知ることも無かった。異様な長髪、不思議なデザインの衣装や装身具、ジーパンさへ珍しかったのだ。そんな風体でぞろぞろ街を連れ立った歩くヒッピーには、異様なインパクトがあったが、近寄りたいとは思わなかった、まさに異邦人だった。まもなく海岸にコンミューンが出来た。ヒッピーの若者たちが、小冊子を街で売り出した。その表紙にインドの聖者とコンミューン名があった。  

 「夢見る やどかり族 」 そのやどかり族の族長としてのナナオがあったわけだ。その近寄りたくもなかったやどかり族と、やがて交際を深めることになろうとは、そのとき知る由もなかったのである。

 

  

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする