ロウ・イエ映画について語っている最中に中国で高速鉄道の追突事故が起こった。政府のとった対応は国家の威信であったが、個人の命を無視した対応に中国の民衆の反乱が起きている。政府の力ではどうしようもない民主化が進んでいくことを、この高速鉄道事故は、図らずも実証した。政府の都合だけで、民衆をコンとロールすることは不可能になってきたのだ。新聞も雑誌など大衆メディアも、個人インターネット情報メディアも世界の情報のネットワークも、当然のごとく活動し、真実を公開するように中国政府を圧し始めている。共産党一党独裁の全体主義支配などとは、現在の情報化社会、グローバル世界のなかでは、幻想にすぎないことをはっきり示しだしてきている。時代はすでに天安門事件でなく、本質的に変わってきているのをまざまざと知ることができる。
その「天安門、恋人たち」が公開された2006年は、折りしもカナダ人の写真家エドワード・バーティンスキーを追ったドキュメンタリーが公開された。彼は中国をはじめアメリカ、ドイツなどと産業発展で影響を受け、開発を強いられた風景の変化を取り続けている。2008年6月に来日して『いま ここにある風景 エドワード・バーティンスキー:マニュファクチャード・ランドスケープ「CHINA」より』のドキュメンタリー映画が公開された。かれの写真や映画の一端を、ーチューブで視聴して欲しい。経済発展の裏でどれほど破壊が進んでいるのか、その歪みの想像を絶した破壊と非人間的風景が、この小さなパソコンのモニターからさへ、圧倒的に伝わってくる。そこで、にもかかわらず、そこには否定しようもない美があるのだ。文明がわれわれを否応なく飲み込む悪魔の魅惑というような美があるのだ。これが映像の強さとなって、多数の人々世界の大衆の注視をひき付けている。まさに美こそ核となるアートの普遍性と凄さ、これがある。この普遍性がある。中国の今を考えるとき、どこまで普遍性を引き出すかが、課題であろうと思う。それは、もはや独裁とか中国政府のエゴといった問題よりも同じ環境の危機を背負う人間の問題としての「視点」が必須になろう。ロウ・イエの映画作品をつづけて語ろう。
『スプリング・フィーバー』(2009年ロウ・イエ中国・フランス製作 監督ロウ・イエ)
男たち3人の同性愛を描いたこの映画もまた暗い結末で終わる。なぜ、かくも暗いのか。それにやっぱり前作天安門とおなじように、たんたんたる日常性が描かれる。禁断も劇的反転も反抗も非日常性もないのだ。およそフィーバー(熱狂、興奮)の気配は実は描かれてない。暗さと日常性、これが2作の共通の特性である。
ただ、「スプリング・フィーバー」を「天安門、恋びとたち」の前に見たなら、ロウ・イエ監督の映画製作にかなりの斬新さを受けたのではないかと思う。政治とかなんとかの問題よりも映画としての独特の表現に惹かれたかもしれない。しかし、そうだとしても、やはり中国の政治への批判が根底にあることはまちがいなく、これぬきに彼の映画は語れないとは思う。監督は、こんどこそ純粋なラブストーリーだと語っているが、ラブ・ストーリーをなぜかくも平板な日常性の域にとどめているのか。前作の共同脚本を担ったメイ・フォンに今回は担当させている。人と人の間の日常を描くという意図をかれが生かすことができると、任せたということだ。
さて、登場する3人の関係は、主人公ジャン・チョンと、同性の恋人ワン・ピン、その妻リン・シュエ、、リンに夫の尾行を依頼された探偵ルオ・ハイタオと、かれの恋人リー・ジンの相関関係として愛がもつれあって進んでくわけである。異性の愛、同性の愛がもつれあい、尾行するルオもジャンを恋するようになり、リージンと関係は危機になる。この相関は、同性愛とい社会的に否定される愛ゆえに悲劇の結末を迎えるということになる。これだけの相関であれば、ストーリーはどこまでもドラマチックに展開するのだが、映画に挿入された作家ユイ・ダーフの小説「春風沈酔の夜」の一節「こんなにやるせなく春風に酔うような夜は、私はいつも明け方まで方々歩き廻るのだった」と恋人たちは読み上げる。この個人の繊細な情感にこそ焦点はあるということが主題とされている。一見狂おしい同性愛という愛を主題にしながら、これもまた個人のさけられぬ感情であり、人生であり、「人間の間に存在する愛である」ことを描いたのだという。この個人であること、このいわば当たり前のことが「全体性への帰属、個人を飲み込む集団志向」を強行する中国政府への告発となることを、かれは訴えているといえるのではないか。
「天安門、恋人たち」での彼の表現は、まったく同じ手法である。まさに、ロウ・イエの世界であり、ゆえにロウ・イエを好きなものにとっては、すプリング・フィーバーはいっそう魅力的な作品であろう。このことを否定するつもりは毛頭ないし、話は、このことでなく、別の視点のことを語ろうとしている。今思い出しているのは、1994年オーストラリア映画「プリシラ」である。この映画も3人のゲイ、ドラッグ・クィーンの物語である。1人が性転換者、1人はバイセクシャル、もう1人は若い女装フェチで、砂漠の真ん中で開かれるショーに参加するため「プリシラ号」というバスにのって、砂漠を旅していく。そのドハデで衣装と荒涼とした砂漠の対比が目を奪った。3人ともお笑い芸人だが、旅の先々で差別や同情やと出会いながら、次第に人間愛を深めていく。とくにバイセクシャルのかれは、ショー会場で別れた妻と息子に再会し、はじめは仰天して失神するが、やがて息子にゲイの愛も人間愛だと理解させることになるというハッピーな結末に至るわけだ。
移動、行動、非日常、熱狂と興奮、歓喜と、派手派手で、脳天気で、楽天的で、かれらも同性愛の差別に苦しめられながら、幸運を戦いとるという物語でスプリング・フィーバーと逆の世界が展開する。こういうデザインが描けたのは、国という土台が違うからである。この二つの作品を併置して、どちらが優れている作品かと、問うことはおよそ意味がないだろう。しかし、どちらが面白いかということは、問うことができる。そして、答えも明快であろうと思う。どちらも好きだという人もいるかもしれない。それはそれ、こんな馬鹿話は意味が薄いという人が、スプリング・フィーバーを挙げるかもしれない。だが、自分はどちらかと自問の材料にはなるにちがいない。ちなにみ「プラシラ」は1996年第2回宮崎映画祭の上映作品の一つであった。当時のぼくは、映画祭の実行委員でもあったので、この映画を記憶していたのだ。
あ、ついでに言い忘れたが、ぼくはプリシラを、もう一度見たいと思う。
さて、もう一つの作品は、『いま ここにある風景 エドワード・バーティンスキー:マニュファクチャード・ランドスケープ「CHINA」より』のドキュメンタリーである。この映画もさることながら、バーティンスキーの撮影した中国の今を撮った写真に現代文明の黙示録を知らされるような現在の今、そこに未来の恐ろしい崩壊の予兆を受け取らざるを得ないのだ。この風景は現代中国のまさに人間個人の埋没を推し進める風景でありながら、日本の風景であり、未来でもあるからだ。ここで、われわれは、中国と共通の問題をかかえていることが、即差に理解できよう。すでに共産党一党支配体制による個人の抑圧という強権は鉄壁ではなくなってきている。その壁の向こうにあるものが、解放でも天国でもなく、新たな人間生存の問題として横たわっている。このまさにSF未来風景の環境にいかに向き合えるか、この現実の克服へと、アーティストの課題は向かいはじめているのではないかと思う。とくに3.11の東日本大震災、福島原発事故炉心崩壊を起こした以後の日本社会を考えるときは、中国もアメリカもないように思えてならないのだ。ロウ・イエ作品はこの課題へと向かっているとはおもえないのである。いや、そうでないかもしれない。こういう言い方はまちがっているかも。しかし、これまでの2作品からは、こう言うしかない。
その「天安門、恋人たち」が公開された2006年は、折りしもカナダ人の写真家エドワード・バーティンスキーを追ったドキュメンタリーが公開された。彼は中国をはじめアメリカ、ドイツなどと産業発展で影響を受け、開発を強いられた風景の変化を取り続けている。2008年6月に来日して『いま ここにある風景 エドワード・バーティンスキー:マニュファクチャード・ランドスケープ「CHINA」より』のドキュメンタリー映画が公開された。かれの写真や映画の一端を、ーチューブで視聴して欲しい。経済発展の裏でどれほど破壊が進んでいるのか、その歪みの想像を絶した破壊と非人間的風景が、この小さなパソコンのモニターからさへ、圧倒的に伝わってくる。そこで、にもかかわらず、そこには否定しようもない美があるのだ。文明がわれわれを否応なく飲み込む悪魔の魅惑というような美があるのだ。これが映像の強さとなって、多数の人々世界の大衆の注視をひき付けている。まさに美こそ核となるアートの普遍性と凄さ、これがある。この普遍性がある。中国の今を考えるとき、どこまで普遍性を引き出すかが、課題であろうと思う。それは、もはや独裁とか中国政府のエゴといった問題よりも同じ環境の危機を背負う人間の問題としての「視点」が必須になろう。ロウ・イエの映画作品をつづけて語ろう。
『スプリング・フィーバー』(2009年ロウ・イエ中国・フランス製作 監督ロウ・イエ)
男たち3人の同性愛を描いたこの映画もまた暗い結末で終わる。なぜ、かくも暗いのか。それにやっぱり前作天安門とおなじように、たんたんたる日常性が描かれる。禁断も劇的反転も反抗も非日常性もないのだ。およそフィーバー(熱狂、興奮)の気配は実は描かれてない。暗さと日常性、これが2作の共通の特性である。
ただ、「スプリング・フィーバー」を「天安門、恋びとたち」の前に見たなら、ロウ・イエ監督の映画製作にかなりの斬新さを受けたのではないかと思う。政治とかなんとかの問題よりも映画としての独特の表現に惹かれたかもしれない。しかし、そうだとしても、やはり中国の政治への批判が根底にあることはまちがいなく、これぬきに彼の映画は語れないとは思う。監督は、こんどこそ純粋なラブストーリーだと語っているが、ラブ・ストーリーをなぜかくも平板な日常性の域にとどめているのか。前作の共同脚本を担ったメイ・フォンに今回は担当させている。人と人の間の日常を描くという意図をかれが生かすことができると、任せたということだ。
さて、登場する3人の関係は、主人公ジャン・チョンと、同性の恋人ワン・ピン、その妻リン・シュエ、、リンに夫の尾行を依頼された探偵ルオ・ハイタオと、かれの恋人リー・ジンの相関関係として愛がもつれあって進んでくわけである。異性の愛、同性の愛がもつれあい、尾行するルオもジャンを恋するようになり、リージンと関係は危機になる。この相関は、同性愛とい社会的に否定される愛ゆえに悲劇の結末を迎えるということになる。これだけの相関であれば、ストーリーはどこまでもドラマチックに展開するのだが、映画に挿入された作家ユイ・ダーフの小説「春風沈酔の夜」の一節「こんなにやるせなく春風に酔うような夜は、私はいつも明け方まで方々歩き廻るのだった」と恋人たちは読み上げる。この個人の繊細な情感にこそ焦点はあるということが主題とされている。一見狂おしい同性愛という愛を主題にしながら、これもまた個人のさけられぬ感情であり、人生であり、「人間の間に存在する愛である」ことを描いたのだという。この個人であること、このいわば当たり前のことが「全体性への帰属、個人を飲み込む集団志向」を強行する中国政府への告発となることを、かれは訴えているといえるのではないか。
「天安門、恋人たち」での彼の表現は、まったく同じ手法である。まさに、ロウ・イエの世界であり、ゆえにロウ・イエを好きなものにとっては、すプリング・フィーバーはいっそう魅力的な作品であろう。このことを否定するつもりは毛頭ないし、話は、このことでなく、別の視点のことを語ろうとしている。今思い出しているのは、1994年オーストラリア映画「プリシラ」である。この映画も3人のゲイ、ドラッグ・クィーンの物語である。1人が性転換者、1人はバイセクシャル、もう1人は若い女装フェチで、砂漠の真ん中で開かれるショーに参加するため「プリシラ号」というバスにのって、砂漠を旅していく。そのドハデで衣装と荒涼とした砂漠の対比が目を奪った。3人ともお笑い芸人だが、旅の先々で差別や同情やと出会いながら、次第に人間愛を深めていく。とくにバイセクシャルのかれは、ショー会場で別れた妻と息子に再会し、はじめは仰天して失神するが、やがて息子にゲイの愛も人間愛だと理解させることになるというハッピーな結末に至るわけだ。
移動、行動、非日常、熱狂と興奮、歓喜と、派手派手で、脳天気で、楽天的で、かれらも同性愛の差別に苦しめられながら、幸運を戦いとるという物語でスプリング・フィーバーと逆の世界が展開する。こういうデザインが描けたのは、国という土台が違うからである。この二つの作品を併置して、どちらが優れている作品かと、問うことはおよそ意味がないだろう。しかし、どちらが面白いかということは、問うことができる。そして、答えも明快であろうと思う。どちらも好きだという人もいるかもしれない。それはそれ、こんな馬鹿話は意味が薄いという人が、スプリング・フィーバーを挙げるかもしれない。だが、自分はどちらかと自問の材料にはなるにちがいない。ちなにみ「プラシラ」は1996年第2回宮崎映画祭の上映作品の一つであった。当時のぼくは、映画祭の実行委員でもあったので、この映画を記憶していたのだ。
あ、ついでに言い忘れたが、ぼくはプリシラを、もう一度見たいと思う。
さて、もう一つの作品は、『いま ここにある風景 エドワード・バーティンスキー:マニュファクチャード・ランドスケープ「CHINA」より』のドキュメンタリーである。この映画もさることながら、バーティンスキーの撮影した中国の今を撮った写真に現代文明の黙示録を知らされるような現在の今、そこに未来の恐ろしい崩壊の予兆を受け取らざるを得ないのだ。この風景は現代中国のまさに人間個人の埋没を推し進める風景でありながら、日本の風景であり、未来でもあるからだ。ここで、われわれは、中国と共通の問題をかかえていることが、即差に理解できよう。すでに共産党一党支配体制による個人の抑圧という強権は鉄壁ではなくなってきている。その壁の向こうにあるものが、解放でも天国でもなく、新たな人間生存の問題として横たわっている。このまさにSF未来風景の環境にいかに向き合えるか、この現実の克服へと、アーティストの課題は向かいはじめているのではないかと思う。とくに3.11の東日本大震災、福島原発事故炉心崩壊を起こした以後の日本社会を考えるときは、中国もアメリカもないように思えてならないのだ。ロウ・イエ作品はこの課題へと向かっているとはおもえないのである。いや、そうでないかもしれない。こういう言い方はまちがっているかも。しかし、これまでの2作品からは、こう言うしかない。