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市街・野 それぞれ草

 802編よりタイトルを「収蔵庫編」から「それぞれ草」に変更。この社会とぼくという仮想の人物の料理した朝食です。

今年も本屋大賞 出版者と図書館の浮かぬ顔

2014-04-09 | 芸術文化
 今年も本屋大賞が決まった。大賞を受賞した本は、たちまちベストセラーとなり、作者の他の本にも関心が向けられ、ロングセラーとなるという。大賞候補として10冊を選ばれていて、決定後は、これらの本も売れはじめ、ここにも連鎖反応が生じるという。まさに、全国の書店員さんが選んだ「いちばん!売りたい本」の効果は予想以上の成果を挙げている。売りたいという熱意が、結実しているわけである。そこで、全国の公共図書館員は、「本のベテラン」として、どういう気持ちなのだろうかと、思うわけである。先日のテレビで、エプロン姿の男子書店員に若い女性たちが、知性とやさしさと、いろけを感じる「書店男子」なるものの姿が、放映されていた。「図書館男子」というのは、宮崎県立図書館で、イメージできそうもないが、どうだろうか。大賞本を手に手にした20人ほどの笑顔の書店男子、書店女子の輝かしい金メタルでもとったようよろこびにあふれたシーンが放映されたが、図書館司書たちは、それをみてどう感じているのだろうか。

 数日前、深夜のテレビ番組で、新潮社、もう一社、これも大出版社の社長をまじえて出版社の未来についての鼎談がつづいていた。出版社の現況は、耳をうたがうほど深刻に思えるのだった。新刊書は、今7万点(冊ではない、全集でも、上・下ほんでも一点として数えて、7万種の本)出版されるというのだが、ベスト・セラーやロング・セラー本を除いて、すべて赤字だとう。新刊を書店の配本しても60パーセントは売れずに返本されるという。あとは、その中でいくらかが、時間をかけて売れていくのをまつしかない。今、出版社が経営ができるのは、なんといってもベストセラー、100万部単位のベストセラーがでると、新刊本のマイナスを補ってもらえる。そのことで、売れる売れないということと関係なくいい本を出せるのだというのだ。なるほど、そうなのかと、ため息がでる話だ。なにしろ大学生の70パーセントが一日に一冊の本も読まないという時代が、もう何十年もつづいてきているんですからなあと、二人の慨嘆が出る。そして、つづけられた言葉に、ショックを受けたのであった。
 
「ですから、図書館がベストセラー本を何十冊と購入して、利用者に貸し出すというは
いかがなものかとおもうのですよ。」
 司会コメンテーター「しかし、住民にとって無料でおもしろ本が借りられるのありがたいわけでしょう。」
 「いや、貸すな、買うなというわけではないのです。この私の図書館に聞きましたが、同じ本を127冊購入し2000人以上の貸し出し申込者に貸すわけですよね。借り手は何ヶ月もまたねばならない。もし図書館が、同じ本をこんなに買うのを、一年でも待ってもらえれば、その間に本は売れ、われわれも一息つけて、新刊を出せるのです。ベストセラーなど、いや本は買って読んでもらいたいものです。」
 「というと、図書館がベスト・セラーの売れ行きを妨害しているというわけですか」
 「妨害とまでとはいえないですけど、少し、購入を待ってたもらえばいいのです。」
 大学生は本はよまないし、一般大衆は、本を買おうとしないし、出版社のベスト・セラー頼みの経営は切実で、胸をつまされる内実であった。しかし、公共図書館が昭和40年代から、アメリカや英国の公共図書館の活動を学び、だれにでも、どこでも、いつでも本を貸し出す、本の貸し出し、これが公共図書館のやらねばならぬ使命だと、てようやく、徹底した無料貸し出し、利用者への利便性実現、この目的に適う公共図書館が、全国的にも実現してきた。ただで、ただで、貸しまくる、そのためには、100ぺんでも頭をさげる、これが全国図書館員の魂であるとされてきた。だがしかし、今や、図書館の貸し出し活動が、出版を阻害するといわれるのだ。図書館が活動すればするほど、出版文化を破壊しかねないとは...、「本くらい自分で買って読め」で収まるのか。図書館は出版文化を阻害する。これはへりくつでもなんでもなく、現実として、わが国の文化を覆ってきている。繁栄した北京を覆う 大気汚染: PM2.5の灰色の空気が
ビルも歩道も覆うように読書環境を覆いだしている。どうすればいいのか。この社長さんたちの話には、矛盾点があるし、本屋大賞と読書とは、関係はないのが見逃されている。ここに解答があると思われる。北京からの脱出路がありそうだ。
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詐欺師の法則

2014-02-08 | 芸術文化
 聴覚を失った現代のベートーベン佐村河内守の作曲は別人だったとう朝のニュースだった。交響曲第一番HIROSHIMSAの公演記録が背後に流れていた。涙を拭くお年寄りが大写しになった。それは嘘であったのだ。このニュースを視聴しながら、ぼくは宮崎市を大騒動に巻き込んだ、一人の彫刻家の大嘘事件を想起したのであった。まずはこの事件を紹介しよう。

 70年代の初めであった。石油ショックのあったころで、ちり紙がなくなると、スーパーに人々が押しかけた群集行為が全国に起きていた。このころ、宮崎市に彫刻家、京都の仏師という人物が、宮崎市の文化人の仲間入りをしていた。名前はたしか浜田雄一郎ではなかったか、今はうろ覚えになってしまったが、どうせ偽名であろうから、この名前で話をすすめよう、記憶のある方は、京都の仏師や、事件の推移で、その人物のことと思っていただきたい。ぼくに耳に入ってきたのは、該博な知識で、当市のお茶、お花、写真家などに信奉者を増やしているということだった。目がほとんど見えない視覚障害を持ち、それでも仏の彫刻をつづけているということであった。幸いというか、不幸というか、ぼくは、日本の小説、日本の公募展作品を中心に芸術とか文学とかに否定的になっていて、浜田なる仏師に関心は持てなかった。だが、ある日、知人の文化人が、10ページくらいのライカの英文説明書を、翻訳して欲しいと持参してきた。依頼者はなんと浜野雄一郎というのだった。そこで、興味もあって、翻訳をひきうけたのだった。英文はカメラのマニュアルで、専門用語は分からず、そこはいいということを、知人から聞いて、数日後、かれに指定された喫茶店、そこで直接会い、訳したマニュアルを渡すことになった。

 戦前からのレストラン、食品などを販売する「三城商店」ビル二階の喫茶店、その名も「エリート」というから、当時は有名店で、文化人の常連も多かった店内で、かれにあった。長身で、杖を持っていた。濃いサングラスを掛けていて歩くの不自由のようだったが、和服の楚々とした女性がかれに寄り添って支えていた。奥さんというより愛人に感じられたが、後で聞くと、宮崎交通の観光バスガイドで、有能な美人だったという。彼女は反対を押し切って、退職し、かれと結婚したという話であった。目がほとんど見えないのは、イタリアで、彫刻の材料に大理石をダイナマイトで爆破したとき、その断片が目に当たった事故のせいだと、これはまわりに語られていたようだ。サングラスの長身が、ぼくの前の椅子に座った、寡黙で落ち着き払っていた。目が見えないということで、ぼくは訳文を読み、専門用語とそのあたりの不明な文は、原文のままで伝えると、瞬間的にああそうかと納得し、十分に理解を示した。数日経って、知人は、菓子箱をもってお礼にきた。その菓子は知人が購入したようであった。その後、彼に会うことも連絡もなかったが、こんなことで、浜田についての情報は、いろいろ入ってきだした。。
 
 信奉者にある老舗の一人娘でお茶の師匠をしている女性が、毎週のように教室に招いて、指導をうけているということも知るようになった。華道会もいろんな京都の情報をかれから聞き、ここも信奉者が増えてきているということであった。孤高で貧乏、目がほとんど見えないので、彫刻はできないが、お茶、いけ花、絵画、彫刻、数奇屋建築などの知識は、大変なものだという。かれを取り巻く女性たちは、争うようにして、彼との食事では金を支払うというのだ。かれは芸術家で金はもってないと理解しており、かれもそのもてなしを平然としてうけているという事実も知るのであった。どなんだろう、ほんとにかれは、知識人としても、それほどの実力者なのだろうかと、思えてならなかった。だが、かれは、宮崎大学工学部の非常勤講師として数奇屋建築の講義をするようになったのだ。当時、NHK宮崎放送局でドラマ脚本を書いていた知人が、自分が、浜田にあってほんものか偽者か、おそらく文化を語る偽者だと思うし、面接してくると、意気込んでいた。だがかれは、インタービューを終わり、イやあ、あいつは凄い、ライカについて聞くと、製造ナンバー何番から何番は出来がいいが、このナンバ-台は、欠陥があるなどをとうとうとしゃべり、それは当たっていたとおどろいていたのだ。

 そのような事実を知るようになり、それはそれでかれは文化活動を、この田舎町で信奉者を指導していけば、いいし、そんなことは、ぼくにとってどうでもいいことだったので、浜田雄一郎については関心がなくなっていった。そんなある日、宮崎日日新聞におどろくべきニュースが社会面3段抜きで、出てきたのだ。かれがやった告発記事であった。宮崎大淀高校の玄関に設置されたある教授の現代彫刻が、昭和30年初期のみずえに紹介されていたイタリアの彫刻に瓜二つ、その教授の彫刻は剽窃たと、かれは訴えたのだ。そして、雑誌みずえの写真と、ならんで、その現代彫刻が並んでいた。このスキャンダルは、反響を起こした。それから数日後、こんどは、浜田雄一郎が楽器店から銀製のフルートを持ったまま行くへ不明になったというのだ。楽器店主や関係者がかれの住居を尋ねると、金庫が一つ残っており、中身はモデルガンと、サド侯爵の本一冊だけだったという。弟子の話によると、自分はかれの彫刻を見たことはない、教えもまだうけてなかった。ただ、半年間、彫刻用の刃物を研ぐだけ、そして、竹を削り、割るというしごとだけをしつつけるように言われて、やってきたともいうのであった。

 校門の彫刻告発を新聞でやり、その大騒動を利用して、姿をくらましたということだったのかと、そのときは思ったわけだ。目が見えない彫刻家、京都、イタリア、芸術、舞台背景は、信奉者を信じさせる正義もしくは神話として眼前に広がっていたわけである。佐村河内守事件となんとも似ているのだ。その二人に共通するものは、考えてみると詐欺師の法則である。それはフレミングの右手の三原則に似ている。大神話、自分自身の正義ぶり、欲しいものを
得たい信奉者たちの存在。浜田雄一郎は、これらを満足させ、そして姿を消した。
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「ただちに犬 A Vital Sign 」(どくんごテント劇)と 「ただちに猫 A vital Sign」

2011-05-26 | 芸術文化
 今年の冬、夜中になると、猫の低い泣き声がどこからか漏れてくるようになった。聴覚の鋭いチップ(ペットシーズ犬)はいち早く反応して暗いうなり声を闇に向けて放っていく。こんな夜が、ときどきあった。やがて、家内も気づき、昼間、家の軒下や、隣家との堺の塀沿いに黒猫が子猫を連れて歩き回るのを目撃した話などをしだした。

 それから一月程も経ったころ、家内が黒猫と小猫2匹が、玄関脇の床下に暮らしているのを発見した。どこから聞いてきたのか、黒猫は、先日、こどもに引き取られていった一人住まいのご老人が、可愛がっていた猫だという話だ。ご老人は毎朝、几帳面に通学道路に黄色い旗を持って、立つていた。チップの散歩で、いつもかれのガイドに沿って、道路を横断したのだが、チップが来ると、ガイドも一時停止して、チップに優しげな声をかけてくるのだった。よほど犬好きかと思ったが、自分でも猫を飼っていた、その猫はすばらしく行儀が良かったという話も聞いてきていた。その猫が、今は2匹のこどもを連れて放浪しているというのだ。

 この話を聞いて、二人ともたまらなくなって、なにか食い物をやろうということになり、小猫の口にあいそうな小粒のキャットフードを買って、皿に入れて、床下の入り口に置いたのだ。キャットフードは、翌日には全部無くなっていた。そこで床下を覗くと、気配を感じたのか、2匹とも奥に逃げ込んで、泣き声も音も立てずに固まっている感じであった。餌を与えるなら、現れてからにしょうと、そのままにして、翌日、夕方、ふたたび、床下を覗きながらプラスチックの皿を引っ張り出そうとしたとき、シューット息を吹きながら、牙をむきだしにした母猫が、突然、飛び出して、ぼくを威嚇しにかかった。その激しい敵意に、思わずたじろいで、身をひいてしまったのだ。

 子どもを守ろうとするんじゃないのという家内の説明に納得して、黒猫の攻撃性が理解できたのであった。それから床下を覗くのを止め、したがってキャットフードも皿に入れなかったのだが、餌を与えるのを止めようと決断した。それは、家内も賛成であった。それは、母猫の恩知らずの態度のせいではなくその真剣さ、懸命さの衝撃からであった。遊び半分で餌をやり、そのまま途中で止めたりしたら、猫母子の生きる本能を弱めてしまうだろうと思ったからであった。餌さを、これからかれらの生涯を通じて与えつつける自信は、なかったからである。老犬になったチップの介護も必要になりつつあり、これに3匹の猫の世話は無理だと判断したからでもあった。それに床下の野良猫に餌を与え続けることは、放し飼いである。放し飼いは、犬猫条例では禁止される。そうか、放し飼いということではなく、飼うには責任がいる、これもチップに加えて猫3匹は無理と判断したのであった。これで餌をやるのは止めた。

 これもまた辛い。腹を床下ですかしているだろうな。水はあるのかなと、家内と話すたびに心配するのだが。ここを我慢しなければと踏ん張るのだ。しかし母親の黒は小猫2匹を、確実に育てつつけている。ぼくを見る目も攻撃的で、優しい声をかけても、とくに家内は孫に声をかけるがごとくだが、近づけばシューット牙をむく。あれ、ほんとにご老人の飼い猫だったかよと、ぼくは思うのだが、そうであるともないとも証拠は無い。もはや猫は猫で、今や野良猫であった。

 4月も末になり暖かい日がつづくと、夕方は、床下でなくて、コンクリートの庭や、濡れ縁で、3匹固まって過ごすようになった。近づくと小猫は逃げ去り、黒猫はこちらを凝視つつけて一歩も引かぬ意思を示す。家内は、母猫が毎日、昼過ぎになると、小猫を連れてきて、一匹づつ舌で毛並みを舐めて、汚れをとり、毛並みを繕いだすのを見るようになった。2時間ちかく子どもをそれは丁寧にあやすと、それから子どもを残して立ち去るのだという。おそらく餌を探しに行くんじゃないだろうかという。ライオンじゃあるまいし、そこまではしないだろうと言ったが、なにか食い物を準備しなければ小猫はそだたないし、立派な子育てよねと感心と同情もわくのであった。小猫の一匹は、ほかと違ってなにか話したげに、私の方を見つめているけどねえとも言うのだ。

 それが、連休日が終わってから、姿が見えなくなった。床下も乾いたようになってがらんとしている。どうやら、昼間も夜も床下には居ないのは確実だ。そこにはもう居ない。多分、餌を求めて他にいい場所をみつけたのか、あるいは通報されて捕獲されたか、どうもこちらのほうのようだと、可哀想なことをしたなあと、思うのであった。スペインでもノルウエーでも田舎町では、隣近所が餌や水を与えて共同で養っているのにな、いやベニスの街中でもそうなのに放し飼いを条例で禁じるとは、これじゃコミュニティも育たないわと思う。

 ところがである。火曜日の夕方、南端の生垣から灰色の小猫がさっと横切った。間違いなく、あの小猫たちであった。黒い縞があり、なにより双子のように2匹連れであった。もう倍くらいの大きさに育っていた。もう親離れ寸前かもしれない。黒猫のほうは、そのとき見なかったが、今もまだ姿を見ない。

 早速、これを報告すると、家内は、黒猫が小猫を2時間近くじつに丁寧にあやした後、さっとどこかへ餌を探しに行く行動を感心していたことを話すのであった。こうして、育て上げたのは間違いなかったようだ。

 ここで劇のVital Signであるが、生命反応とも言われ、熱、脈拍、血圧、脳波など生命の兆候がこくこくとグラフを描く。まさに生きている兆候のことであるが、日常生活で、生きている兆候とは、なんなのか、これを思うのだ。なによりも生きるとは、自らの意思によって生き抜くエネルギーのことではないかと思う。他人任せ、生命維持装置に繋げられていても生きる意欲、意思、集中力などが存在していれば、それはバイタルサインであろう。猫母子もまた、水も餌もないに等しい環境で、それを生き抜いている。まさにバイタルサインを示してあまりある。どくんごのテント劇ただちに犬も、冒険の全国巡業に出発していったが、まずは、だれかの給餌を当てにするでなく、まず自らの生きる意志で生命活動をつづけているのだと、そのバイタルサインが観客を元気づけええくれる。このただちに犬、ただちに猫にくらべて、億単位の高額補助金にすがりっぱなしの芸術イベントにはたしてバイタルサインはあるのか、どこの県でもそんなイベントが用意されているが、もう時代はそんなイージーな文化・芸術を許す状況ではなくなっているのではないだろうか。ぼくの思いはそこに向かっている。
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チケットを売る 8 なんかが起きる

2009-11-16 | 芸術文化
  15日、日曜日、晴天でやや風が強く、サイクリングには向かない。いや、向いていてもチケット売りが優先だ。しかし、その日もテント劇「ただちに犬 deluxe」を観た印象を先方から熱く語ってもらえて、それを聞くのに気持ちを取られてチケットはまたの日をと引っ込めるのだった。

 興奮させられ、圧倒され、すごく面白かったと話された。それぞれにまた面白かったシーンを話してもらえたが、写真をやっているSさんは五月の人魚姫の泡になって自分が消えていくというモノローグに涙が出たといい、別の人は彼女のモノローグは退屈だったという。健太のは、マンネリ化したという人がいれば、今回はこれまでになく動きが大きく新鮮だったという長年のファンもいる。みほしのあのドスの聞いた関西弁で笑わせるのは、たいがいの観客を魅了していたが、一人は
どくんごに馴染んでいず浮き上がっていると批判する。テント外の幻想的シーンをただイメージとして楽しんだ人もいれば、セリフを聞き取って楽しめる人もいる。こんな話を聞いてくると、まさに「ただちに犬」は、結晶のような本体が、光を発散し、それぞれがその光を自分なりに楽しんでいるかのようだ。

 ただしかし、その光がたのしめるのも、光を発散する本体の存在があるからである。その本体の演劇的本質とはなんなのだろうか。その魅力とはなんなのだろうか。そこのところをことばで捉えていくと、共通の客観的な演劇としての価値が捉えられるはずである。「よくわからないが、じつにおもしろい」という印象記を一歩越えて、演劇の評が可能になるように思う。この点、ブログmk365日映画を吸うhttp://d.hatena.ne.jp/nogu40/ は、この劇を臨場感で再現しているばかりでなく、批評的にも冷静に捉えている。「ただちに犬」こういう演劇なのだと、客観的に解釈して見せている。mkさん(女性)はいろんな人に印象を聞いて、その上でこのエッセイを書いた、書かざるを得なかったと言っている。この作業はきわめて貴重な作業であったと思われる。こういうエッセイが多く書かれて、本体が明らかになることは、今後のどくんごテント劇には必須の批評になるであろう。

 この日は、午前10時に家をでて、あっという間に喫茶店2店、大門ラーメン、あるべろべろと飲んだり食ったりも交えて、午後4時45分、話ばかりに熱中して、日が終わった。午後7時、東宮花の森e-ミュージックの実行委員会に出た。

 この日、会の冒頭で、実行委員長は、チケット売りにまわったときある人が「なんでこんな集会所で、オーケストラをするのね、おーけすとらは県芸術劇場や、市民文化ホールでやるのがほんとでしょう」と突っ込まれたと報告があった。

 マイノリティオーケストラの上演を、なぜ芸術劇場や、音楽ホールでやらなくて、集会所でやるのかという詰問が起こりうるとは、想像すらできなかった。音楽を音楽ホールでやらないとは、ある意味では、いやま自明のことと思っていた認識にアッパーカットを食らった感じであった。これもまた、芸術を捉える価値観である。この集会所での小春のヘンテコブンチャカ・コンサートはどういう衝撃を巻き起こすのか大きな楽しみである。

 チケットは目的数量に次第に近づいているようであった。しかし、今は、枚数よりも上演実現しさへすればなにかが起きると思えだした。


 
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チケットを売る 7 二方向のエール

2009-11-14 | 芸術文化
 山崎のアイデアと彼自身による看板製作に入って二日目の昨日は、朝からの雨は正午過ぎには土砂降りとなり、ごご3時過ぎには強風も交え、コーヒーでもイオンの街角風カフェで飲もうかという気分転換もできなくなり、せっかくやっと休みがとれましたというKさんも参加したいと電話してきていたが、取り止めを伝えることになった。

 発砲スチロール板にパソコンでの製作文字を貼り、一枚の入場券を貼った。「チョット早めのXmasプレゼント」その下に「は、この一枚」つづいてチケットを貼り「当店販売中」がメイン。その直下にチラシの拡大コピー。全体を透明セロファンで保護した。あまり上品すぎるので、ちょっと俗悪になるよう銀メラのきらきら虹色に光るテープで額縁になるようにセロファンを固定した。いずれ写真を掲載したい。これは「ひむか村の宝箱」に掲示してもらう。もう一枚は、「東宮花の森東集会所」の玄関ホールに掲示、チケット予約受付ノートを添える。要は小春&マイノリティオーケストラの宮崎市上演を知ってもらうことである。もう記憶にないほど遠い昔、学芸会で舞台装置や小道具を作った日を思いだしていた。ギャラリーで資料の整理をパソコンでしていた長男の嫁が、ぼくらをおもしろそうに、自分もたのしそうに笑って見ていた。

 チケット売りといえば、前回のどくんごテント劇のとき、私のまわりでは10枚もしかするとそれ以上売れますと預かってもらえた女性、テント劇は大好き、ここのお客もきっとよろこぶと、いちはやくポスターを貼ってくれた店主、結果的には3枚と0枚だったけど、あのスタート時のエールは力となったのも事実だ。

 カウンターを挟んで、ぼくの大学の後輩のマスターは言う。もう時間がないですよ。いやあるよ。もう3週間でしょ、もう時間ないですよ。と独り言のようにいうのだ。もう時間がないから、むりしなさんな、こうなったんだからあなたの責任でないと、これも逆エールであろう。ところでぼくはこれはゲームだと思っている。ゲームでは、勝負がつくまで時間はあるのだ。ここで「無い」という認識は何の意味も語っていない。時間がないと自覚して、どうするのか、答えはただひとつ、止める、終る、放棄する、ということだろう。時間がないという意識そのものはここでは弱気に通じる。日常で弱気も必要であろうが、なんかをやりとげようという場合に最大の障害は自分の弱気に判断を置き、かつ神のように仰ぐごとである。

 さらにいえば強気は、かならすしも無謀ではない、じつは一瞬にかける合理的判断、創造的行為の一連のプロセスによって危機を突破する行為であり、そこには危険もあるが、幸運もあるということである。多くの試合は、逆転の勝ちをつかめるのは、この精神のプロセスがあるからである。この行為においては幸運の確率は、悲運のそれよりも高いとぼくは信じている、これが時間が無いというエールに対するぼくの回答である。

 さて、ここでちょっと私のイベントの宣伝。じつは「天空ジール」で宮崎市の市街論をトークする。ここ数年撮影した街角写真や、明治・大正、昭和初期の市街写真を交えながら、「電灯紙芝居」という大道芸的に演じる。これは2003年に宮崎市の喫茶店「ウイング」その他でシーリーズでやった最終回7回の巻きである。数年ぶりにスライドを見直して、まったく新しい編成にしていかねばならない。当時のタイトルは「崩壊都市 宮崎市街 観光案内」であり、都市開発についての批判をぶっつけるものであったが、も早、開発は極限に行き着き、街は別物に変わってしまった。そこでタイトルは「街角が遺した言葉」として、街がぼくに示唆するライフスタイルはどうすべきなのかを話してみようと思う。つまりここでしゃべるのは、街づくりでなく自分づくりであるわけである。街なんか作っても、創れないし、作っても意味なし、税金の無駄遣いであるのだ。 所詮街はハードであり、そこで生きる人が問題なのだ。街はひとにどんな言葉を語っているのか、もし関心がおありなら、口コミ頼みます。
 
 とき 11月21日(土曜) 午後6時会場 午後7時開演
 場所 カフェ天空ジール
 料金 無料

    無料については小春上演にだれよりもはやく協賛をしていただいた
    感謝の意味であるし、それにチケットを売る苦労をおかけしたくな
    かったからだ。
    無料だから、中味が薄いということは絶対にありえないのですから。


  ということで以上よろしくお願い申し上げます。






  
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チケットを売る 6 普段着で藪に入る

2009-11-12 | 芸術文化
 11月10日火曜、朝から土砂降りの雨が、午前10時になってもまだ雨脚を弱めない。小林君が予定通りに来たので、新聞社まわりをすることにした。ただし、この雨では駐車場のある社だけを訪れるしかないなと、半ごろ出発した。うそ寒い、暗い街路と、雨しぶきのよどむウインドウで、気分までうっとうしい。

 この小春の宮崎市上演についてスタートしたときのことを思い出した。あのとき、毎月決まって文化イベントをやって、200人くらいの参加者でにぎわうという催しをしらされ、かつ主催者の代表にその情報を教えてもらえた喫茶店主に小春マイノリティオーケストラ上演趣意書と資料を渡して、代表に上演イベントとしてどうですかと聞いてもらった。翌日、彼女の回答は、上演費用が高すぎるということですということであった。出演料だけで、他の費用は、3万円くらいを分担してほしいという金額であった。旅費、その他はべつなのに、それでも高すぎるのですかと、がっかりして言うと、彼女はもう一度説明してみますと約束してくれた。

 翌日、彼女の店に行き、まずランチを頼み、客が空いたところで彼女に結果を聞いたところ、代表は、一万円ならということでしたと告げるのだった。一万円!!これじゃおはなしにもなにもあったもんじゃないですよ。6人の航空運賃、ホテル代だけでも何十万円ですからと言うと、彼女は、つづけて、代表はうちでは、こういうライブなどは、みんな一万円でやっているのだとおっしゃいましたというのだ。そうか、こういうライブか、一万円ライブという見方に小春のライブも加えられれたというわけであった。東京からわざわざなんで、この程度のミュージシャンを連れてくるのかという代表者のみごとな常識がありありと想像されて、腹がたつより、ぼくらの甘さ、ひとりよがりと、代表の井戸のなかの蛙ぶりの常識の強固さとが、がらんがらんと宮崎市という空間で転がりあい響きあうのを、聞く思いに襲われたのであった。三ヶ月前のことであった。

 新聞社にはデスクが一人で淋しげに座っていて、受付テーブルには、テーブルを拭き掃除していた中年の女性がいて、名刺と資料を渡すと、すぐに愛想良く受け取って、そのまま後の言葉がないので、ではよろしくとひきかえそうとしたら、デスクが、なんだろうという気持ちで近寄ってきた。そこでそのまま彼女から資料を渡してもらい、来意をつげ、かんたんに趣旨を説明すると、かれは、おあずかりしますと儀礼的な受け取りをしてくれた。ただ、それだけであった。

 ぼくらがあっさり、外に出たのも、やっても無駄だろうということを多少の経験で知っていたからだ。こちらの望むような記事、あるいは広報でもやってもらおうというなら、まえもってアポが必要だったかと思いだしたからだ。おたがいそれが無駄を省ける。時間もかからずに済む。宮崎市の文化情報としては、かなり記事にする価値があるということを、説得してみたかったわけだが、これには、ゆっくり話合う時間がいるのだ。デスクも忙しそうだし、こっちも忙しい。おまけに気分も冴えなかった。

 しかし、なによりこちらの時間がない。余計な労力は省かなければならない。よし、今日はこれで引き揚げよう。あんたとおれで知った記者やテレビのプロデューサに電話して、能率化するしかないなと、降っている雨のなかを引返した。

 日曜日からは、蟻のいる藪のなかを普段着で踏み込んで、草花を探し出そうとしているようなものだ。あちこち刺されて、目的の花を探し出すのに、痛さが邪魔をしつづける。
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チケットを売る  5

2009-11-10 | 芸術文化
 
 11月2日、3日夜の寒風の吹いたのが、嘘のような暖かい日曜8日の午後6時25分に東宮花の森・東集会所に着いたが、だれもいなくて、集会所の明かりもない。今夜は実行委員長の久島さんが急用のため、出られないということで委員会は取りやめになったのだろうかと思った。昼間の連絡では、進行を山崎さんに頼んだと言われたが、その後、また変更があったのだろうかと、いぶかっていたらかれが定刻に到着、とつづいて車も2台ほど入ってきた。

 かくして6時半に集まった委員は、ぼくら二人のほかに久島さんの奥さんと、2名の奥さんたちで、7時になっても他の委員たちはあらわれず、開会となった。山崎も議事案の検討ということなどは抜きにして、今日までの販売枚数と、チケット販売の実情、とくに売るに当たってどんな問題がありますかとすぐに切り出した。

 やっぱり予想はしていたが、内容がよくわからない、どう説明すればいいのかなどと、口々に言われだした。先週の日曜から、奥さんたちは、かんたんに買ってはもらえないという壁に突き当たっているという実情が手に取るように分かってきた。このコンサートを「大道芸」として説明していいのでしょうかと、不安げに問うAさん、いや、そうですけど、ちんどんやさんというイメージとは違うですよねとしかぼくも答えようがない。すると、Bさんが駅前やアーケードの下でギターなど弾いて歌っている兄ちゃんたちのようなもんじゃないのと言う。そうそう、そんな感じかな、ただ、小春さんたちは、プロとして活躍、宮崎市ではみられないほどのレベルの高さと言っていいと思いますよ。などと、こちらも懸命のうり文句を言ってみる。
 ヘンテコ・ブンチャカ・コンサートとをいうチラシを見るなり、わしにはわからんと言われてひっこんだという話もあって、この「ちらし」そのものが、説明できないことにもなっているという事実をも知らされた。チラシを見たとたんに「これは行くわ」と購入を決めた若者は何人かあったし、天空ジールの福田さんもそこのイベント担当の中島さんも、チラシをすばらしいというし、チラシを挟んでまっぷたつに印象が分かれている。もうひとつの反応で、ヘンテコというのを、そのままへんてこと思いこまれて、あげくにこんなの見てもとしり込みされたという話もでてくるのであった。どうもおもしろくもないと思われるフシが、かなりあるのにおどろかわれるのであった。それで、ぼくは、説明を始めた。
 
 ヘンテコと彼女らは言っているけど、まわりの社会もずいぶんヘンテコじゃないですかと、言ってみてはどうだろうか。ちょっと思い出しても、曲がったキュウリは売ってないし、ミニトマトは一ミリも狂いがないような同じ大きさだし、これは変ですよ。宮崎市街では、もう横町も裏町も片っ端から広げられ、どの街路も同じデザインに、毎年、毎年なってきて、ついこの前、駅前商店街のアーケード撤去のあとの道路改装で、ここも青空市場の前の道路と同じデザインになった。昔のノスタルジックなさべれた感じの商店街のほうがよっぽどましでした。改修はされたが、かえって単調になり、人通りは減っていくはずです。どこもかしこも、みんな同じ規格に統一されていく、これはヘンテコを通り越して異常ですよね。これが見慣れた日常風景ですね。こんな社会であれば、ずれてヘンテコであるほうが、多様で見慣れぬゆえに、おもしろいということになるのでス云々とつづけていると、こりゃあ、難しすぎる説明ですよと、山崎が口を挟む。ぼくも、すぐにそう思って話は止めた。

 そのとき、Cさんが「わたしゃね、これは変わってる変わってる、変わってるからおもしろいでしょうが、みらんけりゃわかるもんね」と、うりつけるんじゃが、強く発言してくれた。そこで、ぼくも勢いをえて、いちどだまされたと思って買ってくださいと、言うしかないかもしれませんねと、付け加えた。説明などは、今は不必要です。おもしろいことは、請合いますというしかなくなった。

 次回は、音源、ユーチューブの動画などで、おたがいに理解を深めて、売り作戦をかんがえようと、山崎が提案、委員会は終った。ところでほかの12名の委員たちは、委員長の欠席を知ってみえなかったのかと聞くと、知ってはいないという。ただ今はチケット売りにまわっているので、それをやるのに懸命、委員会に出てるよりはという気分じゃないですかと、おくさんたちの説明でやや安心できた。

 あと、小春さんとメンバーにどんな手料理をするかの話になったが、そこは楽しそうだった。また、これまでになくぼくらふたりとも打ち解けた感じになってきだした。

 毛色の変わったヘンテコブンチャカ コンサートという東京都を舞台にした小春さんたちの登場は、団地になにをもたらすか、その反応はどうなんだろうか。チケットの販売状況を聞くにつけ、この団地のコミュニティ意識が、予想以上に複雑、多様であるのに気づかされ、にわかに興味が沸いてくるのである。 
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チケットを売る 4

2009-11-08 | 芸術文化
 11月7日土曜日、小林君と打ち合わせを終わってギャラリーにもどると、すぐに山崎から携帯があり、午後暇ができたのでやってきたいということであった。今日はどうしたことか、先方から会いたいものがやってきた。

 今回の観客のアンケート調査の結果を聞いた。次回は、実行委員をやってみたいという人が6名いた。実行委員に関心があると回答した人が13人いたという。およそ回答の3分の1が、実行委員会参加への関心を寄せているのを知って、以外でありうれしくもあった。

 この回答は、べつの見方からすると、劇の好評を語っている。事実,回答全員がおもしろかったというのであった。ただ、4年前の終演後に残った観客との懇親会でも、つぎに宮崎市に巡演されるときは、私たちが実行委員長を引き受けると熱いメッセージを発言した二人の女性がいたが、しかし、4年も経たあとの今回の巡演になってからは、彼女らにチケット販促を頼む日に、訪れると、二人とも自分たちがそんな発言をしたことも記憶にも残っていないようであった。今回のアンケートの結果もまだ劇の興奮の名残かもしれない。それでも、この回答の結果は、心を慰めてくれる。

 さて、小春&マイノリティオーケストラの公演は、「カフェジール」「NPO法人もやい」「東宮花の森e-ミュージック」は、それぞれが上演の実現に取り組んでいくことになり、かれらが目的を達成できるように、側面から援助し、どうじに観察するという位置に立てることになった。どくんごは過去3回10数年にわたって、ぼくは委員長ではあったが、いつのまにか、他になり手がないから仕方なくぼくがやるというような、役回り、世話役になっていたのだ。どくんごのテント劇上演の実現という「志」(こころざし)の部分はいつまにか、抜け落ちたまま、どくんご好きのお祭りを、くりかえしてきたように思う。それなりに観客もきてもらえていたが、なにかが変わってきていた。時代もまた変わっていたし、実行委員をともにしてきた多くのひとたちも境遇も変わってしまっていた。この5月にふと小春に意識がうつり、かつその宮崎市上演を実現することに入っていったのは、この志を生かそうという衝動が無意識に働いたのであったろうと思う。新たな実行委員会の誕生を望む衝動がつよく働いたのであろう。

 小春上演では、実行委員会が委員会らしく機能していくだろうという予測が、だんだん見えてきそうになっている。もやいのチケット取り扱いをしてもらっている「ひむかの宝箱」に行って様子をみてみようかと、山崎とふたりでますます暖かくなった午後1時すぎに平和台公園のカフェ雑貨店に向かった。店主の池辺さんはいなかったが、スタッフの女性がかわいいい子猫を抱いてでてきて告げるのであった。その猫のかわいらしさにまたもやショックを受けていると、この猫は犬に育てられたのだという。その犬もきていますよというので、その犬と飼い主の夫婦にあい、その育ての経緯を聞き始めた。驚くべき話だ。草むらに捨てられていた鼠よりも小さい猫を口でくわえてきてそのままでない乳を真っ赤にしてすわせながら、育てあげたという。子猫は、チップや小鉄のように両腕でぼくの手首を押さえて噛んだ。まるで犬であった。

 「店先に看板を展示させてもらう案を相談するためであった。「早めのクリスマスプレゼント」として、ヘンテコブンチャカ コンサートの入場券を買ってもらうというものである。入場券を貼り付け、これをクリスマスプレゼントに贈ってという提案である。買う人がいるとは、まあ思えないが、マイノリティのチラシとCDジャケットを配置して張り付ける。なんだろうと覗きみることは間違いない。注意をひくだけのチラシのデザインである。差異化はこれで可能になる。ここが狙いなのであるが、果たして結果はどうか。

 午後3時、イオンショッピングモールの2階の喫茶店に座った。ここはテーブルの数セットが通路とすれすれに配置してあり、まるで、街路のテラスに座るようである。緊張がとれて、気分が落ち着いてくる。ここは土曜とあって、まるで中心市街地の雑踏だ。この付近のそれぞれの店先に置いてある看板を参考にして回り、休憩のために座ってコーヒーを啜った。バーチャルな街路をみながら、街を思う。まさにこのテラス、虚構の時代の名にふさわしい虚構の街路である。まさに消費社会の現実である。山崎とバーチャル街路をを眺めながら、ふたたび実行委員会とはなんなのだろうかと、思いは深まっていった。これが現実感をもつにはどうすべきか。

 チケットを売り切る行動の主体であるが、そこを超えていける核は何であろうか。そのような実行委員会は可能なのであろうか。ありうるのだろうか。

今日は日曜日、あと一時間後に、東宮花の森東集会所でe-ミュージックの実行委員会(毎週日曜午後7時開催)に出会する。今夜は実行委員長久さん休養ででられなくなった。山崎が代行する。
 




 
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チケット販売奮戦記 3

2009-11-07 | 芸術文化
 
 今朝は、初冬というより晩秋のような朝である。自主公演のチケット販売はまさに奮戦の毎日であったが、もっと無理をせずに売れる範囲で、奮戦ということでなくて、もの静かに、公演が実現していけるようにならねばと、その思いはますます強くなってきている。

 昨日は、旧知のテレビ番組制作会社をやっているKさんと、話してきた。ぼくらの座った窓際のソファーから右端のテーブルでは、3人ほどの若い男女のスタッフが編集作業をしている。窓の下は宮崎市街が南の双石山、鰐塚山の裾野までひろがって展望できる。この宮崎市で、かれらは宮崎市をとらえようとしている。ぼくはチケットを売りさばいて東京都のヘブンアートティストの音楽を知ってもらおうとしている。

 ほとんどこの空の下の街で知られていない自主上演、それもマイナーな常識からするとヘンテコな演劇や音楽となると、売るのはひどく難しい。説明も困難、買う気にさせるのももっともっと困難である。こういうチケットを売るとなると、いくら実行委員となっても一人で売れるチケット枚数は7人くらいが限界かもしれないと「どくんご」の売り券実績は示していたのであった。公演チラシをたまたま手にとってそれでチケットを求めるということは、ほとんどありえないようだ。この嘆息から、Kさんとの話は始まっていったわけだ。だからこそ、今回はメディアによる広報が必要だということを訴える。かれはぼくのために、知人のテレビプロデューサーにすでに話を通してくれていた。そして言うのだった。いつものように静かな声でぼつり、ぼつりと語るのだった。

 宮崎市でのケーブルテレビは音楽とか演劇、アート関係の広報番組は少ない。どこの店でどんなうまいものがあるとかいうような番組はどんどん製作されているのにねと。まさにそのとおりだ。そのかれの慨嘆を聞いて思うのだった。しかし、おそらく、みんながみんな食い物だけに執着しているというより、宮崎市では、いまや食い物商売しかできないほど専門店はなりたたなくなっているのかもしれない。一方、音楽などの催しは、あまりにも上演がありすぎる。しかも、悪貨が良貨を駆逐する状況で、だれもチラシだけでは判断がつかなくなっているし、また価値判断を積極的に寄せる関心もなくなっているのではないか。多種多様の品物があふれかえっていながら、どの一つも惹きつける情報を伝達できないでいる。

 しかし、なにかのシグナルがある品物から発せられると、爆発的にその一品に
群がってくる。個性の大衆化ではないか。個性があるようで、多種多用があるようで、実は一色しかない、実は昆虫的群集行動しかないのではないだろうか。だからこそ、こういう文化状況のなかで、これはと評価できる音楽を、自主公演で実現して、これを見てもらいたい。ぼくにとっては、これはまずは、自分の批評行為であるわけだ。心の奥では、この社会でなんの価値があるのか、影響を及ぼすのか、そんなことよりも音楽そのものは、この現世的価値を超越したところで存在している。その存在から、それぞれが多用な価値を受け取り、生きていく力としていけるのではないか。その力は、今は一番必要なのではないかと思うのであった。

 さて、話がまたややこしくなってきだした。こんな思索に耽ってばかりいられない。幸い、小林君ガ、約束どおりギャラリーに来てくれたので精神障害者支援組織のNPO法人の文化事業として、小春&マイノリティコンサートのチケット販促の具体策をどうするのか、その作戦と見通しを聞くために、安くてコーヒーが何倍も飲め話しやすい近くのマクドナルドに出かけた。この店のそばにイオンモールがあり、まだまだ畑や空き地がひろがり、初冬の柔らかい日差しでつつまれている。かれの戦略の現状と展望を聞きだした。いい日になりそうだ。つまりこの重たい疲労感からだんだんゆったりと快復できそうだ。

 さて、ここで小春さんのご両親(二人ともイラストレーター)が、販促へと協力をボランティアでしていただき、おどろくほどのみごとなマイノリティオーケストラ宮崎市公演のサイトが製作していただいた。このほど開設されたので、訪問していただくようお願いします。きれいだし、わかりやすいし、写真も地図ものっていて、宮崎市が別の魅力を発しているようです。以下のURL もしくはキーワードで検索してください。

http://bunchaca.jpn.org/index.html

または、キーワード「ヘンテコブンチャカコンサート」in 宮崎 で検索。

 ぜひご覧ください。
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チケット奮戦記 小春&マイノリティへ移る

2009-11-04 | 芸術文化
 どくんご公演を3日、4日と終演した。あと20枚くらいはどうしても欲しかったのに。無念のきわみである。それでもテントは興奮に満ちて、観客の反応は素晴らしかった。ぼくの聴いたところでは、こんなの初めて観た、脳みそが自由になったという人やがいた。観客の反応は素晴らしかった。

 さて、思念を振り絞って、小春公演の実現について、述べておきたい。この10日、とくに一週間のリセットの間に、ひたひたとおしよせてくる小春公演のチケット販促については、販売、つまり観客動員のやり方をどくんごの場合と違えることに意識を集中してきた。

 まず、どくんごと小春の上演条件の大きな違いは、小春は、出演料が決まり、その上演に要する費用は実行委員会がすべて負担することになっている。どくんごは、出演料もなく、上演のための直接費用、ちらしから旅費、宿泊、食料などはかれら持ちである。会場費、通信費、販促経費などはこちらが持つ。出演料がないということである。小春の場合は、出演料をふくめた上演費用を達成することが、まず目標なのである。

 そこで、まずは、アートという精神性の実現というより、優れた売れるアートつまり、芸術作品を販売するというシステムに立つ、そう立てるかどうかということが一番肝心である。そういう視点から東宮花の森の実行委員会で、こども券の値段が高すぎる、パイプ椅子の座席はメディキットホールや、宮崎市文化ホールとくらべて、安いのは当然という思考は、きわめて理にかなっていたことになる。そこで、そういう線で、まず費用を回収できる販売枚数を予測して、15名の実行委員が販売に取り組むことになったのである。

 昨夜、ようやくNPO法人「もやいの会」の小林君に会えた。かれはどくんごにチケットを5枚販売して、上演を見に来てくれた。とにかく他の行事に駆り立てられ、多忙極まる日々であったようだ。ようやく、12月5日の公演に集中できると言うのだった。

 小林君に言った。ぼくもポケットマネーをだす。だから、最低枚数は保障が欲しいというと、いや、NPO法人として、事業の実績を残す必要があるのだ、この小春のマイノリティオーケストラは、どうしてもやりたい事業だ、最初の目標枚数240枚数は当然視野に入っている。精神障害者の支援組織も販売に取り組めるというし、かなり期待できるという。今回は、基本的には、NPOの法人事業だと、重ねての事業意識を強調するのであった。

 そこで、二つとも事業という線がでた。ただし、経済活動ではなく、基本は利益は、アートの実現による文化の実現である。気持ちを奮い立たせて、ぼくは、チケットの責任販売枚数達成という南京鼠から、もっと有効な戦略を立てられそうだ。この2事業を成功させる活動をしていくことで、二つの取り組みの成功になお努力を注がなくてはならない。

 
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チケット奮戦記 どくんご & 小春 2

2009-11-02 | 芸術文化
11月1日、朝食を終ってすぐにサンマリーナ宮崎の多目的広場へ向かった。

劇団は思っていたより早めについていて、現場に実行委員は見つからず、携帯で連絡がはいった。雨雲が低く垂れ込めたままで、霧のように小雨が残っている。おどろいたことには、広場いっぱい周りを囲んでテントが並び、まるで運動会のような催しが開催中になっていた。大掛かりな舞台ステージも設置されて、その隣接したところにテントを設置する予定だった。これはどうしたことかと、思って劇団の伊能をみると、かれはいやテントの位置は、東南の隅がいいと判断して変えたのでということだった。なるほど、この位置のほうが、景観もよく駐車にもトイレにも便利であった。

 このドッグショーの本部はすぐ近くにあり、挨拶に行ってテント劇場をやるためにテント設営をしたいと言うと、すぐに了解された。こちらは、みやざき動物フェスタという催しだった。あとで、11月1日はイチがならぶので犬の日だとラジオがいったいた。さすが、ここにきている犬はどれもこれもカッコ良く、気取って歩き回っているのであった。その犬より欲しかったのは3匹の子猫、飼い主探しで養い親を待っていた。もって帰りたがったが、やっと踏みとどまった。

 団員は半年のテント劇巡演をこなしてきたにもかかわらず、今、風呂から上がったようにつやつやとして生気にあふれていた。実行委員も集められず、チケットも十分売れず申し訳ないといいながら、小春の上演プロデュースをしていると白状した。そのチラシをいのさん、五月さん、時折旬などに見せて説明していくと、いのさんと五月さんが、これわたしたちも見にくると声を発した。さすが直感で、見るに値すると判断したのだ。かれらが義理でいうのではい。それがわかるのだ。このへんの感性がかれらとつながっているのだ。これには元気を与えられた。

 雨がまた本降りになってきだした。高鍋町の三木ちゃんに電話したら、あと40分でここにつくというので後の世話を頼んで山崎とぼくは現場を去った。

 看板製作に現代っ子センターの協力申し出を受けて、襖のようなボール紙で小春販促立て看板をつくる目的だったが、ボール紙が大きすぎて乗用車では運搬できないと分かった。現代っ子ミュージアムのカフェキンヤでコーヒーを飲む。カオリさんが、コーヒーに自家製の蒸しパンと沖縄黒糖を使った小豆ジャムをそえてくれて飲む。飲み終わってしばらくすると、お茶とキュウリのぬかづけと昆布の佃煮の小皿をお盆にのせて差し出された。これで400円、つりはいらないからと1000円だしても受け取ってくれなかった。ここも開いて満10年、客はほとんどいつ来ても、この数年ほどご無沙汰していたが、やはり客はいない。それでも水を打ったように清潔で張り詰めたような気配が置物ひとつ、展示物それぞれにあり、それらがいつも新鮮であった。彼女は藤野さんの次女で長女のア子さんのように絵は描かないが、やはりこのカフェ全体が、カオリさんの表現になっている。この持続力にはいつも、感動させられる。スタイルも抜群にいい。意識の反映かも。

 看板については、別のアイデアを山崎が提案、ハンズマンで材料をととのえ、100円ショップで、今夜の受付用に懐中電灯、ノート・ペン、両面テープなども購入、ストラン大江戸屋でランチをした。山崎が知らぬまに大盛りにしていたので、やっ食べ終わったが、この新米ライスがうまかった。ふたたび、サンマリーナに様子を見に行く。幸い雨がかんぜんにあがり、青空が覗き始めていた。三木ちゃんはすでに到着、彼女は、たまらずに3日間の休暇をとって川崎市の公園を見に行ってきたのだと恥ずかしそうに語るのであった。今回、また3日の休みをすべてどくんごに費やすというのだった。このパッションはなんなのか。
 
 午後6時35分、東宮花の森東集会所の玄関口で、ぼくの携帯が鳴り出した。かまわず、会議室に入ると、実行委員長の久島さん、福委員長の湯地さんと山崎など実行委員が席についていた。携帯は、ぼくへの呼び出しであったのだ。現在、15名の実行委員会が生まれ、今夜の初会合になるという。あいさつで小春・マイノリティの話をするが、こんな話、たいして興味を起こさない感じである。それはそうだろうと思う。音盤でも聞いてもらったほうがよっぽどいい、すぐに話を切り上げた。と、奥さんの一人が、こども料金が高いと発言、と久島さんが前回はたしか300円でしたというと、2,3百円ではやすすぎるかもねとみながいう。300円!!げーっとなる。と、椅子もパイプ椅子でしょ、文化ホールなどの立派な座席とくらべると、安いのが当然だとおもわれるのですよねともいう。この発言は意外であった。ストリートに近い演奏をかんがえて、わざわざこの集会所をえらんだのに、こういうかんがえ方もあるのかと、おどろいたのだった。

 話は、なまなましく、生活臭に溢れていた。ゲイジュツも音楽もその生活感のまえには、まだことばで太刀打ちはできない。しかし、この感触こそ大事なのかもしれないな。生活が一番、ゲイジュツがその下、このほうが、ゲイジュツという幻惑にだませれずに音楽に遭遇できるかもしれない。話は盛り上がりだして、これから毎週日曜日に開催、成功しようという話になっていった。今夜の大きな収穫の一つは、奥さんたちにマイノリティオーケストラ6名のために、ランチを料理してもらう提案を了承してもらえたことだった。煮付けとか、みそ汁とか宮崎の味を満20歳の彼女たちは、食することになる。食えるのだろうか、楽しみでもある。この15名のまわりに、委員をたすける人たちをさらに組織したいと、久島さんはいい、いよいよ実行委員会活動がスタートしだした。あとはもやいの会であるが、そのご連絡なしの状態でやや不安がつのっている。
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記号「大江健三郎」の「壁」 その仕組み

2009-03-13 | 芸術文化
 さてつづけよう。大江のエッセイ「定義集」のきわだつ特徴は、「石川啄木に始まる時代区分だから・・・」で段落が変わり、「ある朝、新しく増刷されたちくま学芸文庫版の広告を見て、胸騒ぎがしました。」とつづき、それという文庫本を購入して、帰りの電車で「自分についての有り難い論評を読み」となる。ここでだれしも「有り難い論評」とはなんなのか、それはどの本のどこに載ってるかがエッセイを理解するに必要と思うだろう。しかし、すぐつづくのは「私はそこを読んだ後だったら、晩年の加藤さんに『九条の会』でお会いしても、こちらから気軽に話しかける勇気はなかったろうと、思いました。」となる。この意味、わかるものがいるのだろうか。『有り難い論評』はなんだったのか、なぜ『九条の会』で、晩年のかれに気軽に話かけられなかったと思ったのか。ここで推量するのは、この九条の会という言葉で自分と加藤の社会コミットを示していると主張である。

 ここからいよいよ、定義集のメインのコンテンツが述べられだす。ここのテーマは、どうも自分の思い込みと加藤さんの定義にズレがあるから、単語は辞書にあたっていると言うことらしい。ここで、『分化』という言葉が広辞苑でどう定義されているかが詳しく引用されている。アカデミックというのか、微細な定義が、だんだん広辞苑なのか、大江の解釈なのか、加藤の定義なのか混沌としてくる。
 
 そして、『分化』とは自分にとってどんな意味?と考え、『次の最初の転換期で分化という言葉がこう使われるのを、しっかり受け止めたのでした。」とおわる。ここも次の転換期でとはなにを意味するのか。とりあえず、その部分が引用あれているの一部だけ孫引きしてみる。「後世日本文化の世界観的基礎は、その淵源を奈良朝以前にまでさかのぼることができる。しかしその世界観的枠組みのなかで、分化した分化現象の多くの型や傾向、世にいわれる文化的伝統の具体的側面の大きな部分(しかしもちろん全部ではない)は、九世紀までさかのぼることができて、九世紀以前にさかのぼることはできない。」と、ここで分化が登場した。
 
 この引用にもはっきりしないあいまいな表現はままあるが、さきにすすもう。「ようやく最近あまり見かけない言葉を、加藤さんが自然に使って、私らに今日の社会への反省を導かれる例も多くあります」として、さらに展開する。その節も意味がとらえにくいが、どうやら流行言葉を歪曲し愚民政策をやっているということを批判することにつながる。ここまでくると、加藤の自分についての論評は消滅、なんだったのか、またこのエッセイの冒頭にいわれていた加藤氏の「新聞の訃報が柔らかい敬意に充ちているのに共感しながら、ひとつだけ訂正を申し込もうかと考えました。」という展開は、途中で捨てられてしまっている。

 そして、最終節で結局、「加藤さんが啄木のその時代(一九一0年前後)の閉塞への批判を強く評価される文節を思いました。」とし、今の若者が「ふさがれた社会を見つめ打ち開く方向に出て行かず、自らを閉じれば、暴発よりほかにないと思い詰める不幸はさらに続くでしょう。」と終るのである。

 若者に思いつめるな、とざされた社会を打ち開く方向に出て行けということを提言したかったのだろうか。この部分が全体の韜晦なる展開と何の関係があるのだろうか。こんな結論など、いまならだれだって言ってることではないか。たったこれだけのために、本を色鉛筆で極彩色になるまで熟読したのだろうか。

 思うことは、その教養主義の執拗さである。ぼくは本に書き込まない。いつかは他人の手に渡っていくからだ。それに「アンダーグラウンド」にしても色鉛筆で筋をつけた瞬間に全体が消し飛んでしまう。そうした本は無数にある。全体はやわらいバランスでできている本がある。さらにマンガを色鉛筆で書き込みなら読書することなどかんがえられない。携帯小説は、あるいはウイアム・ギブソンの「ニューロナンサー」その他のエンターテイメント、そして東浩紀の「動物化する世界の中で」の批評対談は。一期に読みぬける経済書の多くなどなど。

 色鉛筆での読書の熟読が真実を明かす唯一の読書法ではない。それはある意味で終った時代の読書でもあるのだ。「ちくま学芸文庫版」などというまえにその文庫本の「タイトル」を明確に言うのが筋だろう。つまり、ここにあるのは、教養芸術をという壁である。幸いにしてもはやそんな壁のやくにたたなくなった、終った時代になったのではないか。いたずらなる教養という壁は、知識人の明晰でないことを回避する、暇つぶしではないのか、そう思うのである。

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記号「大江健三郎」の「壁」 その仕組み

2009-03-13 | 芸術文化
 さてつづけよう。大江のエッセイ「定義集」のきわだつ特徴は、意図的にされるあいまいさである。

 昨日の引用「石川啄木に始まる時代区分だから・・・」で段落が変わり、最後の「・・・」のつづきは、こうだ。「ある朝、新しく増刷されたちくま学芸文庫版の広告を見て、胸騒ぎがしました。」とつづき、それという文庫本を購入して、帰りの電車で「自分についての有り難い論評を読み」となる。ここでだれしも「有り難い論評」とはなんなのか、それはどの本のどこに載ってるかがエッセイを理解するに必要と思うだろう。しかし、すぐつづくのは「私はそこを読んだ後だったら、晩年の加藤さんに『九条の会』でお会いしても、こちらから気軽に話しかける勇気はなかったろうと、思いました。」となる。この意味、わかるものがいるのだろうか。『有り難い論評』はなんだったのか、なぜ『九条の会』で、晩年のかれに気軽に話かけられなかったと思ったのか。ここで推量するのは、この九条の会という言葉で自分と加藤の社会コミットを示しているとの顕示であろう。結局、「・・・」の後はなんなのか、不明のままつぎに移る。

 まあ、それでもここからいよいよ、定義集のメインのコンテンツが述べられだす。ここのテーマは、どうも自分の思い込みと加藤さんの定義にズレがあるから、単語は辞書にあたっていると言うことらしい。ここで、『分化』という言葉が広辞苑でどう定義されているかが詳しく引用されている。アカデミックというのか、微細な定義が、だんだん広辞苑なのか、大江の解釈なのか、加藤の定義なのか混沌としてくる。
 
 そして、『分化』とは自分にとってどんな意味?と考え、『次の最初の転換期で分化という言葉がこう使われるのを、しっかり受け止めたのでした。」とおわる。ここも次の転換期でとはなにを意味するのか。とりあえず、その部分が引用あれているの一部だけ孫引きしてみる。「後世日本文化の世界観的基礎は、その淵源を奈良朝以前にまでさかのぼることができる。しかしその世界観的枠組みのなかで、分化した分化現象の多くの型や傾向、世にいわれる文化的伝統の具体的側面の大きな部分(しかしもちろん全部ではない)は、九世紀までさかのぼることができて、九世紀以前にさかのぼることはできない。」と、ここで分化が登場した。
 
 この引用にもはっきりしないあいまいな表現はままあるが、さきにすすもう。「ようやく最近あまり見かけない言葉を、加藤さんが自然に使って、私らに今日の社会への反省を導かれる例も多くあります」として、さらに展開する。その節も意味がとらえにくいが、どうやら流行言葉を歪曲し愚民政策をやっているということを批判することにつながる。ここまでくると、加藤の自分についての論評は消滅、なんだったのか、またこのエッセイの冒頭にいわれていた加藤氏の「新聞の訃報が柔らかい敬意に充ちているのに共感しながら、ひとつだけ訂正を申し込もうかと考えました。」という展開は、途中で捨てられてしまっている。

 そして、最終節で結局、「加藤さんが啄木のその時代(一九一0年前後)の閉塞への批判を強く評価される文節を思いました。」とし、今の若者が「ふさがれた社会を見つめ打ち開く方向に出て行かず、自らを閉じれば、暴発よりほかにないと思い詰める不幸はさらに続くでしょう。」と終るのである。

 若者に思いつめるな、とざされた社会を打ち開く方向に出て行けということを提言したかったのだろうか。この部分が全体の韜晦なる展開と何の関係があるのだろうか。こんな結論など、いまならだれだって言ってることではないか。たったこれだけのために、本を色鉛筆で極彩色になるまで熟読したのだろうか。

 思うことは、その教養主義の執拗さである。ぼくは本に書き込まない。いつかは他人の手に渡っていくからだ。それに「アンダーグラウンド」にしても色鉛筆で筋をつけた瞬間に全体が消し飛んでしまう。そうした本は無数にある。全体はやわらいバランスでできている本がある。さらにマンガを色鉛筆で書き込みなら読書することなどかんがえられない。携帯小説は、あるいはウイアム・ギブソンの「ニューロナンサー」その他のエンターテイメント、そして東浩紀の「動物化する世界の中で」の批評対談は。一期に読みぬける経済書の多くなどなど。

 色鉛筆での読書の熟読が真実を明かす唯一の読書法ではない。それはある意味で終った時代の読書でもあるのだ。「ちくま学芸文庫版」などというまえにその文庫本の「タイトル」を明確に言うのが筋だろう。つまり、ここにあるのは、教養芸術をという壁である。幸いにしてもはやそんな壁のやくにたたなくなった、終った時代になったのではないか。いたずらなる教養という壁は、知識人の明晰でないことを回避する、暇つぶしではないのか、そう思うのである。

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フィギュア

2008-12-20 | 芸術文化
 2週間ほどまえNHKのテレビで「フィギャア」の特番が会った。村上隆のフィギュアが記憶にあったので、思わず視聴したのだが、村上とフィギュアの関係は、ますます理解不能になるばかりであった。だが、興味はなお深まってきた。どうしてこんな人形模型に魅力をかんじるのだろうかと、こればかりは感覚の違いで埋めようが無い。しかし、おもしろい。

 この会場になだれこんでくる数千人の人々〔主として若い男性)は、どんな層なのかというのはテレビではわからない。ただ、かれらが、一般の群集というようにはどうしても思えない。映画や公募美術展を観にくるような層では、なんとなく違うのは、数人のインタービューの語り口からもうかがえた。フィギュアの主役は漫画やアニメの美少女キャラクターだが、ぼくなんか、ただでもそんな人形を部屋に飾るという気持ちにはならないのだ。

 美少女フィギュアが、オタクという層のなかで育まれたことは、まちがいないようだが、この美少女模型をみて「抜く」〔マスターベーション)できる能力こそオタクの特性と、斉藤環は精神分析医として言っているが、といってロリコンなどの倒錯者ではない。セクシュアリティを漫画のキャラでも感じうる感性があることを、オタク系のわかものたちへの研究から明快に述べている。

 こうした性の問題と、もう一つ興味があったのは、フィギュアの製作は通常は30センチくらい、それ以上になると製作はきわめて困難になるという。平面の漫画キャラを立体化するとき、これは原型師という職人がやるのだが、立体化するとバランスが異常になって建てられなくなる。2次元の人物像のうそがあるからだ。これを克服するのに手間隙がかかるというのだ。なるほどである。

 村上隆の作品は2メートル半を超えたフィギュアで、BOMEという原型師が原図を立体に仕立てた。今回の放送では、一メートルくらいのフィギュアの製作過程を追っていた。鋳型にとり、樹脂で各パーツ30をこえる部品をしあげるまでに3ヶ月あまりもかかるというのには、息をのまされた。

 村上のフィギュアを最初に画廊に展示し、500万円でアメリカの美術館に売却できたというギャラリー経営者、小山登美夫によると、村上は、海洋堂の原型師の作業場に研究のため2年半ほど通い、その調査のあとにフィギュアの製作にかかったというのだ。思いつきで依頼したわけではないのだ。どこに、このフィギュアの2年半も研究調査する材料があったのかという、これがまず脅威的な情熱であり、発想であり、視点と運動ではないか。

 かれの「芸術企業論」でこの原型師や海洋堂の社長との交渉などが、のべられいるが、宮脇修社長も原型師BOMEもとりつくしまもないような激しい職人気質で、ものも言わない信念の人柄を感じたのだが、テレビで見る限り、話好きな、気さくな人柄を感じた。とくにBOMEにいたっては、すかっとした青年にしか見えなかった。これは、ぼくにフィギュアを見直させるくらい興味ある人物像であった。

 村上は、このフィギュアから、芸術の発想を得て、自分の作品としたばかりか、欧米のコレクターを、この作品を契機にして現代日本美術へと向かわせたということになったわけだ。どこにこれだけの未来が、フィギュアにかんじられたのか。かれは1990年代に、その可能性を見出したのである。なぜなのか。そして、では、そのフィギュアの文化とはなんなのだろう。ここのところ、何ヶ月も、そのことばかりがぼくの思考を引きずり回してきている。フィギュアが好きだとか嫌いだとか、関心があるとかないとかの問題ではなく。なんか、この壁の向こうにある、現代文化を覗きたい。

 というようなことで、もんもんとしているうちに今年もあと十日になってしまった。連日連夜、派遣切りが、発生し、一夜にしてホームレスに転落するしかないのかという労働者があふれ出してきている。こんなとき、芸術とはなんなのかと考えること、それを書くことさへもなんか気が引ける。アア今年も終る。罪深くに・・
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NHKと毛沢東と村上隆

2008-11-21 | 芸術文化
 先週のクローズアップ現代「村上隆」で、毛沢東の「芸術家とは・・」ととびたしたときは、どうして今頃、毛沢東かと。ただ、国谷キャスターは、宮崎駿さんが毛沢東を引用されていらっしゃるのですがとの言葉で、皮一つ首がつながったように、NHKと毛沢東はつながった感じであった。

 毛沢東は、芸術家とは金などに目をくれず、有名になろうとせず、ひたすら自分の創造に集中する存在であるというのだが、あなた〔村上隆)は、もう金もあり有名となり、これから芸術家としてどうされるのかという問いかけであった。かれはこれから老いをどうむかえうつかです、エイジングこそがこれからの主題と、答えていたが、わかったようでわからない回答であった。この質問とかれの到達した芸術家の位置のあまりの隔たりを埋める回答ではなかったからである。

 この距離の違いはどうしても埋めてもらわなくてはと、今も思っている。というのは、地方、つまり宮崎市で美術活動をする芸術家たちのことを思うからである。ここで、かれらの活動展開の主たる場は、公募展である。二科や光風会、新制作など全国的な公募から、県展、宮崎日日新聞社展などである。ここで、芸術家たちはますは、入選、奨励賞、特選と精進していく。そしてグランプリと到達する。

 この上がりのあと、プロの画家として名がブレイクし、名誉も金もどんどんはいってくるという事例は聞いたこともない。ところが、村上に言わせれば、絵は値段がついてこそ絵であるという。しかも、その絵はこれからも値上がりしていかねばならない。このような最高の完成品をつくるには、最高の技術を結集しなければならない、そのために専門家での共同作業が必要、さらに商品として美術作品を売るには、企業戦略も必須と芸術企業の方法が避けられぬというのである。

 この方法を、宮崎市の芸術家の活動に当てはめることは、ほとんど現状では不可能に近い。なにしろ活動の母体となるギャラリーもほとんどないからである。


 こういう文化状況では、この毛沢東の言葉が生きてくる。貧乏であれ、無名であれ、よけいなことに頭をわずらわされず、芸術の道の精進せよで、すべてかたがつくではないかということになる。そして、双六の道中をつづけて、一丁あがりという終点にたどりつくということになる。

 問題は最後のグランプリという到達点、それは双六の上がりにも似て、ここで終わり、そこから先の道はないのである。ここで、無鑑査などという処遇があったが、今はどうなっているのか。それなりの尊敬やあとは県文化賞とかの名誉もあたえられる。そう金がなくとも、そこそこに人に知られて、尊敬もえられだす。これは、一つの幸福への目標であり、それはそれで否定できない。
 
 しかし、問題は作品である。どうしてもはっと衝撃を受ける作品におめにかかれぬのである。世界が新たな世界になったような、前に立つと知的なゲーム性を感じさせられるような、超絶的な完成度という美の輝く作品に出会えないのだ。双六の限界はここにある。

 毛沢東の芸術家論は、宮崎市の環境では、美術家を消費生活、情報過剰、メディアの洪水、インターネット、携帯、デジタル文化の侵蝕などの日常から、バリアを
張って豊かな胎内のような静かさに導いてくれるのではないだろうか。これも人生ではあろうが、若者なら、ここを突き破るしかないのではないか。胎内よさらばだろうといえないか。だとしたら、毛沢東から、村上隆へと足を進めざるを得ない。その方法をどうやって、宮崎市での環境に移し変えるかを学ばねばならぬはずだ。




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