市街・野 それぞれ草

 802編よりタイトルを「収蔵庫編」から「それぞれ草」に変更。この社会とぼくという仮想の人物の料理した朝食です。

第18回宮崎映画祭 カンヌ批評

2012-07-30 | 映画
 映画批評にかぎらず芸術批評は、物体を計測するように、いつ、どこでも計測結果が不変であるはずはない。批評する者の置かれている条件、その場、その時で変わってくる。そこで、カンヌ映画祭での批評とは、その批評にかかるバイアスが影響しよう。なにより映画は資本主義経済の生産物である。観客を動員し、興行収入がなければ、映画とはいえないのだ。その金額の大きさが価値である。芸術であるまえに商品である。こうみなればならないであろう。

 こうした映画産業に生きる俳優、監督、プロデューサー、資本家、批評家、ジャーナリストたちは、産業を担う。そこで商品価値の制約から完全に自由であることは不可能となる。精神的価値より物的価値によって支配される、また、それを善しとする俗物にならざるをえないであろう。カンヌ映画祭は、俗物となっている祭典であるともいえよう。映画を生業とするものは、この映画コンプレックスを擁かざるを得ない。カンヌ映画祭は、映画人たちを映画コンプレックスを解放する祭典となる。

 こうしてカンヌ批評は、企業生産品であり、大衆を捉える娯楽作品であるという意識を排除する。映画は芸術であるとの価値観に傾斜していく。価値観とは、欧米中心のヒュウマニズムであり、それにエキゾチシズムへの偏愛である。映画は欧米ではサブカルチャーとみなされ、伝統的教養をなす古典や、いわゆる芸術から、一段下の文化とみられてきた。その事実を意識から追い出すかのように、ハイカルチャーとしての映画をもてはやす。その意識は映画の特性を隠し、ありもしないハイカルチャーに酔うコンプレックスの裏返しにすぎない。カンヌ映画祭はオリンピック祭典に似ている。平和と友好が謳歌され、人類愛が高々と宣言されるが、本音は、金メタルの獲得である。この競争があるから、オリンピックは世界中の観衆を魅了するのであり、勝ち負けが問題ではないという競技なら、勝つことだけでは意味がないとうなら、だれがオリンピックをみて、歓喜できるであろうか。映画もまたそうだ。芸術性だけがあって面白くない映画がなんの意味をもつのであろうか。そんな映画をみるために金を払う大衆はいないのではないか。しかし、この「即物性」があるがゆえの映画特有の価値を認めるべきなのだが、カンヌにあつまった映画人には安心できない。それは豊かさに飽きて、豊かさを否定してみる表面的格好よさを超えるものでなないのだ。芸術の創造性もなにもあるのではなく、映画コンプレックスが、芸術映画偏重を生み出しているのだ。芸術映画作品は、映画劣等感の解放という虚ろな希望もしくは幻影をせおわされたにすぎないのである。

 ほとんどの受賞作品がおもしろくないか、あるいは、なんでこんなもの、他にあるじゃないかという思いを、させられるのは、このようなカンヌ映画祭の批評があるからだと、このごろだんだんきづくようになってきている。今回とりあげた河瀬直美の映画もこうしたカンヌ評の特質をよく体現しているといえよう。タイトルからして、ぼくらにとってもエキゾチックつまり異相である。読めない、意味がつかめないそのタイトルにおどろかされる。第60回カンヌ国際映画祭グランプリ『殯の森』第64回カンヌ国際映画祭コンペティション部門にノミネートされた「朱花の月」前者はもがりの森、後者は、はねづと読む。読めても意味不明である。映画は大衆のものでなく芸術であるという意識の反映であろう。すでにカンヌ映画祭向きである。カンヌ批評に適う。宮崎映画祭の冊子に「カンヌに愛された女、川津直美」と紹介されていたが、「カンヌに愛された」とはどういう意味か、この紹介者に聞いてみたいものだ。真意はどうであれ、まさに言いえて妙な河瀬直美のキャッチフレーズではある。

 「朱花の月」がおもしろくないのは、発想に冒険がなく平凡だからである。ヒロインは飛鳥村に住む
染色家、同棲する男は村のPR紙の編集者、彼女がこころを寄せるもう一人は木工家の男、いずれも現世に背を向けている。古代への愛を語るには、コンビニの店員では描けない。豊かさは人をこうふくにしないという消費社会を否定して無農薬野菜、手作り生産を営むライフスタイルという人物も、見飽きた生活でしかない。そして男が庭で取れた野菜を料理して食べるのが、豊かさと示されても、古過ぎ。この設定は、平凡なのである。日常に背を向けて逃避する生活を芸術とする豊かさ否定のありふれた若者たちが描かれていくのだ。このライフスタイルが芸術風にみえるとすれば、まさに発想はありきたりである。

 次に映像である。映像は次々にイメージを提供して観客を巻き込むように構成されている。だがはたして、その映像が、観客に自由で思いもしなかったイメージを与えてくるとはおもえない。映画の冒頭で、布を染色するシーンから始まるのだが、そめられる布は、内臓の動きのように見える。しつように長いこの染色のシーンが肉体の一部をイメージさせ、血を思わせる。後に、同棲の男が浴槽で自殺するが、まっかな血で染まった浴槽の中の男への導入にもなっているのだが、血のような布が、内臓のように見えるというのも、直接的な類比で、けっしてイメージが広がるとはいえないのだ。見下ろした眼下の竹林が強風で揺らめくのが、内面の衝撃を伝え、雨が涙をつたえと、シーンのそれぞれは内心の比ゆとなっているが決して隠喩にまではならず、直喩に終わる平凡さが不快である。
 
 この映画は、奈良県飛鳥地方を舞台としている。この自然の風景は、映画シーンとして作られたものである。飛鳥といえども戦後日本の消費活動から手付かずのままでいるはずがないのだ。郊外ロードショップが立ち並び、安宿からマンション、居酒屋からかフエ、住宅にコンビに、即物的現世的都市の開発に、切り刻まれててしまった飛鳥の自然を、映画的シーンで再構成したものである。これをもって日本とするならば、この映画を見て飛鳥地方を訪れる欧米人は、ショックをうけるであろう。芸術はどこにもないとあきれかえるであろう。

 この虚像の上に映画はつぶやくような台詞だけで進展していく。台詞もまた、虚像をイメージさせるためにだけに用いられる。この台詞を聞き、この映画で一人の女をめぐる2人の男の一人が勝つ、女を自分のものにするという主題が、納得できるものではない。なぜなら、なんの戦いも葛藤もこれらの登場人物には感じられないからである。あるのは、芸術という名の現実逃避である。

 この映画は奈良県の飛鳥村の自治体の支援で製作されている。まずは観光映画であるというのなら、それはそれでいいのではないか。カンヌで成功して宣伝効果おおありであるからだ。それは芸術とはなんの関係もない俗物性であり、まさにこれが映画の特色なのであることを再認識すべきであろう。
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第18回宮崎映画祭 今回おもしろくない映画

2012-07-28 | 映画
解説では激賞されながら、ぼくにはおもしろくない映画がつづいた。次に「果てなき路」について述べてみる。2010年のアメリカ映画、プログラム解説には『ー「断絶」のモンテ・ヘルマン21年ぶりの新作。伝説の映画監督と呼ぶにふさわしい堂々の復帰凱旋作品で、傑作という呼び名も色あせて見える現代アメリカ映画の最高峰。なんとこの宮崎映画祭が九州唯一の上映!-』とあった。これほどの監督が何故21年も新作を製作しなったのか、モンテ・ヘルマンとは聞いたこともない監督であるが、興味を引かれて調べてみると、ハリウッド映画の娯楽性には、背を向けた映画表現を試行する監督である。さして筋もなければ、ドラマもなく、ひたすら暗示的なイメージが核となり、観衆はそれによって現実を知ることが可能になる。いわゆるニューシネマと称される映画を志した監督である。この監督を知っている人はかなりの映画好き、また通であると思える。映画で考える習慣をもたぬぼくには、監督ばかりか、俳優も、どの映画にどんな役で出演したかに関心もないし、またその点は知らないし記憶にものこらない。通人とは、映画の見方はかなり異なろう。評価を論じるには、基本的情報がないのかもしれない。しかし、ぼくは、おもしろくないかを問題とする限り、この映画についても語らざるをえない、そんな思いをだまっているわけにはいかないのである。

 ぼくはこの映画をみて、なにがなにやら初めから終わりまでわからなかったのである。なせわからないのか、ノースカロライナで起きた飛行機墜落事故を映画で再現するという主人公の映画製作の動機もつかめない。なぜ、その映画制作が、傑作になると前評判があるのか、もちろん理解できない。この製作のためのヒロインを探し求め、どこがヒロインたる資質があるのか、それがわからない。たぶん、南米風のエキゾチックな表情が要素ではあるようだ。かれは、この女性と恋に落ちていく。監督と女優の恋など、それがどうしたというしかぼくにはうけとれないのだ。監督は女性に恋したのか、映画のヒロインに恋したのか、どちらとも受け取れる。かくして、よく分らぬ事件と、この事件の映画化にともなう進行が、ダブって、シーンが、現実なのか、映画制作なのか、現実としても今か、過去の事件なのかと、重なり合ってわからない。女優と監督の恋の進展が重要なのか、事件の解明はどうなるのか、現実世界は、現実と虚がかさなり、過去と現在が錯綜して、見るぼくの位置がきめられない。サスペンスは、だから、ぼくにはかんじられない。現実感がないものにサスペンスがあろうはずがないのだ。ないがなんだかわからない迷路のような「果てなき路」がつづくのである。

 こんな映画は、もしかしたらDVDで、前後を確かめながら見るならば、わからないというところがわかるのかもしれない。しかし、そうしたとして、わかったことになんの意味をみいだせるのであろうか。事件とはなにか。ヒロインとはなにか、監督の意図はなんであったのか。これらが、迷路のなかでつかめたとしても、それは、今を日本で生きているぼくには、おそらくなんの示唆も与えぬだろうと思う。なぜなら、こんな複雑な手続きをしなければならぬほど、社会はややこしいものではなくなってきているからである。3.11以後、もやもやしていた日本の現実は、実に明確な姿を見せてきだした。それは単純で明晰な構造をあらわしだした。それは、原発に依存しないエネルギー社会の実現であり、格差の克服を可能にする経済社会への革新であり、グローバリゼーションを可能にする世界の連帯である。それなしにライフラインは保障されない。そのための考える個人の出現であり、その連帯による政治機能の快復であろう。目標はきわめて明確に示されだした。そんな文化状況で、こんなややこしい表現に立ち寄りしている必要は無いといえるのだ。この意識が、ぼくをして、「果てしない路」をちっともお、おもしろい内容にかんじさせなかったのである。

 つまりかんたんに言えば、今を生きる意識と、はなれてしまっているということである。
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第18回宮崎映画祭 最初の二日

2012-07-22 | 映画
映画祭の初日に見る映画は、初めて入った食堂で注文した料理を食べるようなものだ。これが、うまいかまずいかは、この食堂の善悪を印象付けてしまいがちである。だから、よほどプログラム構成も慎重さを必要とするように思う。いや、観客の反応にいちいち神経を使って観客に媚びる必要はないといいう姿勢も大事なことかもしれない。ただ、見るほうにとっては、おもしろい映画に当たりたいという意識は強い。そこで、タイムテーブルを眺め、上映作品のかんたんな説明を見て、それぞれのタイトルを眺めたり、解説を読む。それで選ぶべき映画を選択をする。しかし、当たるも当たらないもわからない。当たればラッキーということとなる。もろに解説に沿って内容を想像すると、まったく別のものだったりする。解説は、この選択ではむしろ、邪魔になる。どうも過去18年の映画祭体験から、解説を信じるな、それがベターだと思うようになってきた。とくに近年の邦画のタイトルで、内容を想像することは間違いの元になる。料理は食ってみる、映画は見てみるしか、ぼくにっとっておもしろいか、つまらないかはわからない。プログラムで選んではみても、当たるも八卦、当たらぬも八卦の運次第ということになりがちだ。しかし、解説は後でもう一度かならず読む。その映画成立を知ることや、内容の記憶や、理解をするのに有効であるからだ。とくに小冊子して、入館時に配布されるプログラムは、資料としても貴重である。タイムテーブルもプログラムも、その点では実行委員会の努力に感銘している。

 ということで、最初に選んだ映画は「ミケランジェロの暗号」であった。このときに「愛の勝利をムッソリーニを愛した女」でなくて良かった。両作品とも、ヒットラーとムッソリーニのファシストの時代を背景にした物語であるが、前者がはるかにおもしろい。後者は、おもしろくない。なぜおもしろくないのか、これは後で述べる。

 だが、「ミケランジェロの暗号」のおもしろさも、ストリーとしては、オーストリア映画というけれども、ハリウッド映画のようなサスペンション・アクション映画であった。ストリーも展開も明快・単純なもので、ネタも途中でわかる。おそらくハリウッド映画の一作だとしたら、平凡な三流作品にすぎない映画であったろうと思う。これが、ハリウッド映画でなかったところが、おおいに興味をそそったのである。物語が、深みをたたえてくる。それがヨーロッパの風土である。暗い空に爆音が響く。夜空に航空機が接近してくる。どういうわけか、双眼鏡で追跡している男がいる。と男は撃てと叫ぶ。レジスタンスが、野原に待ち伏せしていたのだ。かれらの小銃が、いっせいに火を吹く。すぐに飛行機は撃墜される。1940年代、飛行機は小銃で落せたのだと、不思議な感慨がぼくをつつみこんた冒頭シーンであった。これがハリウッド映画であったら、紙芝居になるのだが、ヨーロッパの風土では、あの陰鬱さが、現実感を生み出してくる。ナチ、ユダヤ人迫害、レジスタンスと、生々しいレアル感と戦争の傷跡が観客を惹き付ける。それに登場人物を演じる俳優たちが、名もしられてないから、かえって登場人物に存在感がある。これらが一体となってこの平凡な内容にある重さと深さを与えて、かつエンターテイメントの愉しみをも満喫させてくれる。石像の画廊、石畳の光、服装、彫像、絵画と、その歴史の重さ伝統などがもたらす、各シーンの映像美に、ぼくはストリー展開よりも惹かれていたのである。

 これがヨーロッパで、ハリウッドでないのだと再認識しながら、どこかで、この典型的ヨーロッパ的雰囲気には、飽きも感じるのであった。今やアジア諸国より慣れ親しんで、新鮮度が薄れてきる。別に珍しくも無いように思えだした。年金生活者でも、シーズンごとにイタリア、スペインの南欧からドイツ、デンマーク、イギリスの北欧まで旅行をひんぱんにするようになった。そして、北欧から南欧まで何処に行っても変わらない市街、石づくりであるがゆえに重々しい住居、孤立して閉鎖的な家並み、あらゆる場所に、リアルな肉体をもつ裸体彫刻や、幾何学模様の庭園、これらが、どうにかならぬのかと
重苦しくてしかたがないようになってきているのだ。

 イタリア映画、フランス映画、ドイツ映画、英国映画と、1960年代ころまでは、ヨーロッパ映画はそれぞれに忘れがたい名作の数々をぼくらに提供してきた。映画産業が衰退してきて、ヨーロッパでは映画の製作が衰亡していき、やたら閉鎖的で芸術と言う名の難解な映画が製作されだした。この映画はその範疇でなくて、ハリウッド的なものをヨーロッパで制作したもので、マカロニーウエスタンか、ヨーロッパ寿司の類になっている。これを越えるものではないのだ。解説によると、昨年のベルリン国際映画祭(第61回)で大好評を博したとあるが、こんな程度でよろこべるとは、ヨーロッパでの映画の意識の古さを、思えてならない。このままでは、映画の復活はまだまだヨーロッパでは遠いのかもしれない。

 つぎに、おもしろくないといった「愛の勝利を ムッソリーニを愛した女」を話してみよう。この映画でおもしろくない点である。まずなによりも、この映画でいいたいことはなんなのかがわからないということである。したがって、ムッソリーニに人目ぼれして、すべてを捧げてしまったヒロインの愛がなんのかがわからないのだ。つまり人間が描かれていない。それは人間として、共感を感じることができないのである。冒頭、反政府のデモ決行の集会で演説する、過激なそして、哲学的な理性主義、神は存在しないというメッセージに、魂を吸い取られた若き美貌のヒロインがスポットを浴びる。その後の
ムッソリーニとイーダの恋の進行も、葛藤も無ければ、深まりも展開しない。すべては冒頭の衝撃的迫力の革命家の存在だけが、彼女を支配しつつけていく。

 この映画の主題をあえて探そうとしていくと、辛うじて主題と思えるのは、ファッシズムという魔力の真実を描こうとしてのであろうかとも思える。そうだとしたら、主人公の若きムッソリーニは、人間というより、怒号を張り上げて大衆煽動を繰り返す、ロボットのような役割にしかみえない。おまけに
その情念を性的魅力に変える肉体は、ほんもののムッソリーニとは、天と地ほどに違う。ほんものは不細工で狆のようなのに、この二枚目ぶりが、どこでどう狆になるのかがわからない。イーダの愛は、精神的な愛というより、抑えがたい性的魅力、情欲への抗しがたい衝動に貫かれている。彼女は偉大な首相という言葉を、離別の後で回りに語りつづける。それは、オームの女が麻原 彰晃にとりつかれたのとどう違うのかと思えたりする。あるいは、性的衝動を制御できない、ストーカーかとも思える。こういうようにヒロイン・ベニートの人間像が決められない。主人公はブッソリーニはたんなる機械にしかかじられないのであった。だから、そこに悲劇もないし、「愛の勝利を」とは、たいした意味はない。男を情欲で捕らえるという程度のことである。この映画は成人指定になっている意味もわかる。しかし、この程度で成人指定とは、なんか時代錯誤の感じさへするのである。どこをつついてもおもしろくないえいがであったのだ。イタリアもアメリカもなぜ批評家賞を浴びせたのか、欧米の映画評のつまらなさをあらためて感じさせる。
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第18回宮崎映画祭「おとなのえいが。」をかんがえた

2012-07-17 | 映画
  
 映画祭の週が終わった。今年(2012年)の梅雨は雨また雨だが、幸い、期間中は曇り空の日が多く、キネマ館へ毎夜通うのに助かった。さて、お好み焼きの店である「しぇ・こぱん」で、そのチラシを手にしたときの日だが、そこに「おとなのえいが。」とあった。そのキャッチコピーに、ぼくは、急ブレーキをかけられた思いがしたのた。やばいぞ、このフレーズである。そこには、まさに諸刃の剣の危険があると・・・。

 いったい「おとな」とは、何歳から言うのだろうか。法律では満20歳でおとなとみなされる。だが20歳は、「わかもの」である。還暦を過ぎ、古希(70歳)となり、米寿に到達する高齢者は、大人というよりご老人、お年寄りが似つかわしい呼び名である。となると、どうも30代後半から、40代、そして50代の現役ばりばりの世代が大人となるのか。とくに50歳代の勤め人となると、子どもは大学進学へ、職場は中間管理職から管理職への社蓄状にまみれ、体調は不調、日常に殺されかけ、映画どころのさわぎかとなる。だから、おとなとは、年齢呼称で区分するのは意味がない。年齢ではなく、知のはたらきなのである。常識的に言うならば、分別をわきまえ、人生体験を重ねて、あからさまな激情や欲望やを抑制できる、人格のもちぬしということになろうか。静かなる人生体験を味わう世代、一見優れてみえるが、中味はたいしたことはない、おとながほとんどとなる。これはNHK的教養番組の核にもなる。

 どうだろう、おとなの知は、退屈きわまる社会教育ではないのか。一月に一回まわってくる回覧板である。そこで、映画は回覧板ではないゲイジュツだとすれば、岡本太郎は「芸術は爆発だ!」と叫んでいる。村上隆は、美術はゲームだと宣言した。精神科医師で1990年代以降の日本現代美術の世界的コレクターとなった高橋龍太郎は、その作品をネオテニ・ジャパンと銘銘した。ネオテニーとは幼性成熟という生物用語で、幼児の特色をとどめたまま成虫になる動物をさす言葉である。人間も他の哺乳類動物とくらべると、成人しても赤ん坊のまま無毛であり、猿やパンダの成熟に至らない。村上隆、奈良美智、会田誠、鴻池朋子などなどの作品の、どこか漫画やこども絵本を想起させる現代日本美術も今は多くの目に触れるようになってきた。宮崎市でも鹿児島の霧島アートの森でのネオテニー・ジャパン展(2008年)を見た人もおおいだろう。まさにネオテニー作品の新鮮さに衝撃を受けた人も多かったはずである。
 
 おとなの絵に対してこどもの絵はへたである。しかし、ほとんどのおとなのえが空っぽであるのにこどものえは、おもしろさで満ちている。「へたうま」という概念が生まれてくる。その名付け親、キング・テリーこと漫画家にしてデザイナーである湯村輝彦の創発した「へたうま」概念は、70年代のデザインや美意識に革命的な変換をもたらしたといわれる。たしか、岡本太郎も、へたうまを 愛して止まない。宮崎映画祭のトークショウにも登場した漫画家、蛭子能収もへたうまの代表的作家である。つまりそこにあるのは、常識や既成観念や、世間の因習への否定であったのだ。こういう視点でみてしまった第18回の宮崎映画祭は、一つ一つの作品よりも全体の社会科学的な構造に関心を引かれていった。つまり芸術は、われわれの魂を揺り動かし、喜ばせ、楽しませ、新しい世界への刺激を与えねばならないとう視点で、眺めてみてどうだったのか、映画祭が終わってこのことを考えている。

 ますは、上映作品について語るまえに、もういちど、「おとな」「こども」の区分で、映画作品を区分すると、その概念にとらわれて、判断を踏み外してしまう危険性があことを、念頭に置いておかねばならないということである。こどもが未成熟であり、それゆえに幼稚であり、ヘタであるという概念の上で、しかしながら、内容は生き生きとしているのだ、という言い方では終わらないのである。90年以降の日本現代美術にしろ、日本映画にしろ、一見ヘタ、幼稚にみえながら、そこにはおそるべき高度な表現の技術が、もとになっているのだ。その技術そのものが新鮮なのである。だからヘタではくくられなくなってきている。ここには、まさに「おとな」の作業に基づく表現技術がある。へただけでは許されないのである。即席栽培するようなっへたな作品では、限界がある。こどもどころか、成熟したおとなの超技術というべき技法の裏づけが要請される。「おとな」「こども」とかんたんな区分を使うのは、通用しない。こんな判断で、映画、美術、音楽、などの芸術作品の中にはいっていくのは、ダイナマイトの埋められた野原に、ほいほいと足を踏み込んでいくようなものである。足をふっとばされるか、爆死になる。たとえば、アニメを残らず子ども映画と分類してこと足れりとしてしまう。このように意識が爆死する。ただ、この第18回宮崎映画祭の作品を見てみたが、ここに選ばれた作品群を「おとなのえいが。」とぼくは分類できなかったのが、幸いではあったのだ。だったらなんなのか、ぼくはぼくなりに、おもしろさをこの構成によって知ることができたのである。それを語りたいと思う。
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もう脳天気ではいられない「税」

2012-07-05 | 社会
 給与や年金からさっぴかれる各種の税額について、ぼくはほとんど考えることもなくすごしてきた。サラリーマン時代などは、ほとんど見もしなかった。残った手取り額がいくらあるかが、関心のすべてであったのだ。年金生活に入っては、差し引かれる「税額」について思うことさへなかったのだ。これでも生活はできたのだからありがたい身分でもあったのだ。しかし、ここ数年、どんどん税額が大きくなってきて、神経をいらだたせている。とくにスタッフの給与支給を計算しだして、足掛け10年目を迎え、スタッフの税額の負担は、どうも気になりだした。

 こんな背景の中で、事件が起きた。消費税10パーセントの増額衆議院法案可決だ。この増税に政治生命をかけるという野田総理の記者会見などを聞くたびに、税と社会保障の一体改革の道筋が、なんの疑問も困難もなく、消費税増額をもって堂々と可能でもあるかのような首相の美辞麗句の話を聞くたびに、言葉に酔っ払っている、床屋政談のおっさんの話を聞かされるような気分になってしまうのである。

 税額を調べてみようと思い立ったのは、こんな政治状況にいらだってきだしたからである。また折りしも、ぼくの住民税が、去年とくらべて毎月3000円も増加した。この異様な増加に仰天して、さすがに市にその理由を問い合わせたことから、住民税の計算法を、調べることが始まった。そして、税や保険税などの計算の仕組みを、やっと知る体験を持つにに至ったのである。

 給与から控除される税額は、所得税、これは毎年、確定申告をくりかえすので、だれしも自分で申告する限り馴染み深いものであろう。そのほかに、もっと恐るべきは県民税と市民税がある。そしてさらに、目に付かぬようにして、控えているのに社会保険料というのがる。これも税の一つと考えたほうがいい。なにしろ給与から天引きされるからである。社会保険料は健康保険と厚生年金と雇用保険であり、自営業なら国民年金保険である。

 ただちに分ることは、税も社会保険料も毎年上がってきていることである。所得から控除額を差し引いて、一定の率をかける所得税も、乗じる率が今年は変わる。それよりも控除の種目を減らすことによっても所得税は増額する。これが、社会保険料となると雇用保険の率は変わらぬか、6パーセントから5パーセントに今年は下がったが、厚生年金も健康保険も毎年保険料率がひきあげられていく。前者については平成16年までの13.58パーセントから毎年0.345パーセントづつひきあげられ平成29年の18.3パーセントまでとなる。健康保険は、自治体が前年度支払った医療費の増減によって率が決まってくる。これは、毎年一律というわけではない。このようなことで、わがスタッフの一例をあげると、彼女の21年度の社会保険料(健康保険、厚生年金)は毎月の支払いが21年の27214円から24年33566円と、この5年間で毎月の保険料が6352円増額となっている。おそらくこの値上がり分について、彼女も他のスタッフたちも、給与明細を調べて、増額を正確に把握していないようでもある。値上げが年に一回であると、ほとんど気がつかないのかもしれない。まさに知らぬが仏であるともいえる。

 県民税と住民税は、所得金額の市が6パーセントを取り、県が4パーセントを取る。県と市で所得の10パーセントを取られているのである。これがおおまかな税額となる。所得から控除とかのややこしい、説明読んでも理解不可能のわけのわからぬ計算も入っているが、おおよそ10パーセントがさっぴかれるのだ。恥ずかしながらぼくはこれを今度初めて知ったのだ!!ここで所得とは、これも金額ことに計算があるが、ようするに総収入から必要経費をさしひいた残額のことである。この必要経費というのは、具体的というより抽象的で、いっぱんには収入を4で割って、その額に応じて2.8とかなんとか係数を掛けた金額が必要経費ということになっている。

 これらの計算法を当たっていくうちに分ることは、税額の計算とは、一般常識ではかんがえられない、概念、もしくは法律からわりだされたものであるということである。ある率を給与収入、営業収入に掛けながら、計算して所得を割り出し、そこから扶養控除とか障害者控除、学生控除、配偶者控除、基本控除などなどを差し引いていく。すべて数値があたえられていて、総収入250万円からも650万円からも機械的にわりだされていくのである。

 そこで、想像してみれば、ただちにわかることであるが、税額が収入の21パーセント(だいたい21パーセントくらいが控除金額になる)を250万円からひかれるのと、650万円から引かれるのとは、その衝撃の大きさはまったく違うということである。650万円の収入は、地方公務員の平均給与であろうが、これだけの収入であれば、社会保険料の毎年0.345パーセントの増額などは、たいしたことはないはずである。250万円であるなら、生活のどこかを削らねばならなくなるということである。たとえば、食費を減らす。娯楽費を減らす。こどもの教育費、家賃支払い生命保険、がん保険、損害保険、自動車保険などと、生活のライフラインにも影響をあたえだす。この恐ろしさが、実は税額の割り出しには、反映されないのだ。

 わずかな出費が、税として差し引かれるとどうなるのか。この現実については、つぎの比ゆで、想像してもらえないだろうか。ぼくは、15年ほどまえに北海道を20日ばかり1人旅したことがあったが、そのとき、興味本位で、1000円刻みでホテルの宿泊を試してみたことがあった。確か旭川市で、北海道で一番安いと宣伝チラシでみたホテルに宿泊してみた。たしか素泊まり2900円であった。玄関をくぐると、すぐに10畳ほどの部屋があり、すでに蒲団が5組ほど敷いてあった。相部屋はどうもとごねると、曲がりくねった廊下の突き当たりの部屋に連れ行かれた。窓もない部屋で、異臭が立ちこもり、押入れを空けると湿り髪の毛がついた敷布団があった。引き出すと、汚れたパンツが残されていた。ドアを開け放し、異臭を追い出し、外出してこようと、受付に行くと、初老の男が何かをしており、鍵をこちらの顔もみすに、目の前の机に放り出した。

 これより1000円高いホテルでは、さすがに受付があり、部屋も窓があったが、部屋の下はラーメン屋で、その匂いでむせ返っていた。風呂はやはり共同であった。4000円代になると、寝具も古いものではあるが、取り替えられた気配もあり、バストイレもあった。ここまでになると、最低の基準はあった。ここから1100円さがると、宿泊客を客どころか人間とはみてない、なんというか、ただで泊まらしてやるといわんばかりの扱いを平然とやられるという状態に落とし込められるのである。わすか1100円の差である。この余裕がなくなれば、他人のパンツがまるめこまれ、髪の毛が付着している蒲団にくるまって寝ざるをえなくなるのである。

 これは極端な例ではあるが、0.135パーセントという税率の上昇であっても、低所得者層にとっては、1000円でも2000円でも、避けられない出費は、打撃を与えるのだ。それが毎年毎年の増加となると、だんだんボディブローのように効いてくるのである。このぎりぎりの増額のダメージについて、国民全員一人一人が等しく分かち合って苦難をともにしていこうではありませんか。消費税の増加だけでなく、子ども手当ても年金などのライフ手当ても医療費も、景気の浮上も、将来の財政再建もずべてやるのであります・・などと言葉を連ねる、消費税増加の賛歌はあまりにも現実無視の視点である。

 この宮崎市での平均所得は250万円くらいの中小企業の社員、自営業者それもほとんどが飲食などの小売業、そういう低所得層の家庭に増税のボディブローを与え続けてきているのを、あらためて浮かび上がらしてくれた。このような税率の基本的な改革がまず必要であろうと、素人のぼくでさへ思わずに入れない。脳天気で増税を説いている講談師もどきの政治の言説を、受け入れている場合ではないと思えだした。
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