つまり総会で掲げられたのは、わが町内の発展、安全と融和の達成という目標であった。ばあちゃんやじいちゃんが半数を越え、20代はもちろん30代の若者の一人もない班長さんたちに掲げられたのは、わが町内、隣近所のために役割を果たすということを、自覚してもらうための集会であるのだった。70ページに及ぶ総会配布冊子には、おおむねこの発展、安全、融和、つけたせば文化の向上という名分が星のごとくちりばめられていた。しかし、ぼくは一瞥、読む気をうしなった。
いよいよ、最初の仕事として班内15世帯から2400円の半年分の町会費を集める集金を始めねばならない。隣近所という共同体、共同生活のための活動資金ということになるのだろう。具体的にこの資金がどう使用されるかというと予算書でわかるのだが、冠婚葬祭、敬老会、夏祭り、清掃費、街灯電気代などなどである。そのどの催しも全世帯主が町内でやってもらうことを必然とも希望とも思ってない活動なのだ。それにわざわざ班長がまわす毎月の回覧板による県広報も市広報も、読むものはほとんどいないようである。ぼくもまったく読む気がしなくて、そのまま資源ゴミにだしてきたが、それで困ったことはないのだ。テレビでほとんど用を足しているからである。
こうやってあらためてご近所を考え、思いだすと、どこがどう共同生活でありどう共同意識として共有し合っているのか、じつにあいまいのままなのである。この町は、宮崎市中心市街地から2キロほど離れた田畑の広がる地帯であったが1960年代から比較的土地が安いということで、住宅化が進んできたのだ。特に1980年半ばのバルブがはじけてあとから急激に住宅化がすすんだ。今は空いた土地もほとんどないほと住宅が建っている。まとまったビジョンも計画もなく、それぞれが、これでなんとか我が家が建てられたという一安心の思いの住居、それゆえにまさにごっちゃまぜの大、小の家が立ち並んでいる。この思い、思いの複雑な人生環境が集まっているのが、わが町内なのである。ここで、やれ一安心の終の棲家というのが、共通の意識が、まずは実態である。
わが12班も幸い仲はきわめていい。ご近所ではときどき旅のおみやげを交換したりということもする。ぼくの庭には、向かいの家の娘さんの軽自動車の駐車用に貸してあげている。ここに住んで30年近くになってきた。喧嘩もトラブルも一度もなかった。しかし、ご近所の人を家に招いてお茶を飲んだりとか、お隣に上がりこんで談笑したりということは、ただの一度も無かったのである。いや、前のWさんが娘の駐車の件で相談にみえたとき一度上がってもらったことはあった。このような隣近所が訪問しあって楽しむということは、ないというより、ありえないことなのである。昔は縁側で隣近所の付き合いがあったのに、縁側というコミュニティ空間がなくなったとかいうコラムなどもあるにはあるが、隣近所のご交際は、きわめてあっさりした挨拶に終始しているのである。
30年も40年も毎朝、毎夕、顔をあわせても挨拶を超えないというのは、ふと考えると不思議だ。なぜそれ以上に交際が深まらないのだろうと。つまりそれでなんの不便もないということだ。それはなぜか。ふと我が家のマーチを思い出した。この車に隣の人を招待してドライブするなどという発想はまったくナンセンスだ。また隣のトヨタクラウンで、ドライブに招待してもらえるとしても、行く気はしないだろう。そうだ、自家用車のドライブも、我が家での生活も、世帯で十分満足であり他人をたとえご近所であろうと、来てもらってはもてなしもできないし、快楽も生まれないということだ。この意識が原因である。これは隣近所の共通意識であろうと思う。だれも招きあっている事情を聞いたことも見たこともないのだから。
なぜこういう意識が生まれたのかは、戦後の消費生活のものの充実の成果であることは間違いないだろうと思う。人はものだけでは生きられぬという命題を、生きようとすれば、それは隣近所の共同意識からは生まれることはないのだ。隣近所の往来不足で、精神的な飢えが生じたわけではないのだからである。われわれは、ここに建てることが出来た住居で、自己充足的に生活しているし、さしあたり不便はないのである。隣近所が悪者でなければである。
一時間半あまり過ぎたところで、やっと総会議案のほぼ終わったところで、議事を進行してきた副会長さんが、どなたか緊急提案、ご質問はございませんかと、会場に沈黙のまま座り続けてきた班長さんたちに、言葉を投げかけた。誰一人発言はなくしわぶきひとつも聞こえなかった。やっと一人がぼぞぼそと冊子の一箇所に文意を確かめる問いをはっしただけであった。そして、以上によって議案を終了し手よろしいかという声で、拍手が沸き起こったのであった。
この間にちょっとだけ雑談のように役員らと班長さんの一人とで起きた話題は、もう私の班は超高齢者ばかりになって班長交代はどうなるんでしょうねという声であったが、まあまあ、無理をなさらないでくださいという慰撫の声で終わった。もし、これを議題にあげれば、けんけんがくがく、町内活動を揺るがすほどの事態になることであったろう。それほど、各班内の高齢化は進んでいるのだ。いやこれだけでなく、毎月、新しくできた建売住宅の入り口に少しだけ設けられた公園(というより飾り庭)をなぜ、わが12班が草むしりの整備当番の当たらねばならないのか、しかも3分の1が80歳を越えた独り者世帯の人々なのにである。こうした問題を論理的にぶっつけていく気分がどうしてもしないのであった。
なぜやらないか。直感的に分かるのだが、こんな問題は、だれもみんな、会長以下役員も各班長も、町内の一人、一人みな認識できていることだ。だがこれを議題としてはあげない。そんな面倒なことを挙げて議論が沸騰するよりも、なかよく終わりとしたいという気分がなにより大事なのだ。まさに漱石が「智に働けば角が立つ」であり聖徳大師が憲法で「和をもって尊しとす」としたごとく、理屈よりも協調。論理よりも気配こそが大事とは、明治はおろか飛鳥時代から今も変わらぬ日本人の根性であるのを、あらためて実感するのである。ついでに言えば会長、副会長などは男性、会計や衛生などややこしい担当はみな女性、班長のほとんどは主婦である。ぼくのところには毎月県から「男女共同参画社会」の冊子が送付されてくるが、この町内総会の男女役割の実態調査などは行ったこともないようだ。どこを見ての男女共同参画社会か、だから読む気もしないのだ。これも紙クスである。まったく1500年も同じままの袋のなかに、町内総会が入れられて捧げられるとは、あと5年もしたらわが班も町内もどうなるのか、だれも、今は考えてはいない。しかし、いつか論じたいのだが、この特性は、簡単に切り捨てがたいことでもあることを、今は付記しておきたい。
いよいよ、最初の仕事として班内15世帯から2400円の半年分の町会費を集める集金を始めねばならない。隣近所という共同体、共同生活のための活動資金ということになるのだろう。具体的にこの資金がどう使用されるかというと予算書でわかるのだが、冠婚葬祭、敬老会、夏祭り、清掃費、街灯電気代などなどである。そのどの催しも全世帯主が町内でやってもらうことを必然とも希望とも思ってない活動なのだ。それにわざわざ班長がまわす毎月の回覧板による県広報も市広報も、読むものはほとんどいないようである。ぼくもまったく読む気がしなくて、そのまま資源ゴミにだしてきたが、それで困ったことはないのだ。テレビでほとんど用を足しているからである。
こうやってあらためてご近所を考え、思いだすと、どこがどう共同生活でありどう共同意識として共有し合っているのか、じつにあいまいのままなのである。この町は、宮崎市中心市街地から2キロほど離れた田畑の広がる地帯であったが1960年代から比較的土地が安いということで、住宅化が進んできたのだ。特に1980年半ばのバルブがはじけてあとから急激に住宅化がすすんだ。今は空いた土地もほとんどないほと住宅が建っている。まとまったビジョンも計画もなく、それぞれが、これでなんとか我が家が建てられたという一安心の思いの住居、それゆえにまさにごっちゃまぜの大、小の家が立ち並んでいる。この思い、思いの複雑な人生環境が集まっているのが、わが町内なのである。ここで、やれ一安心の終の棲家というのが、共通の意識が、まずは実態である。
わが12班も幸い仲はきわめていい。ご近所ではときどき旅のおみやげを交換したりということもする。ぼくの庭には、向かいの家の娘さんの軽自動車の駐車用に貸してあげている。ここに住んで30年近くになってきた。喧嘩もトラブルも一度もなかった。しかし、ご近所の人を家に招いてお茶を飲んだりとか、お隣に上がりこんで談笑したりということは、ただの一度も無かったのである。いや、前のWさんが娘の駐車の件で相談にみえたとき一度上がってもらったことはあった。このような隣近所が訪問しあって楽しむということは、ないというより、ありえないことなのである。昔は縁側で隣近所の付き合いがあったのに、縁側というコミュニティ空間がなくなったとかいうコラムなどもあるにはあるが、隣近所のご交際は、きわめてあっさりした挨拶に終始しているのである。
30年も40年も毎朝、毎夕、顔をあわせても挨拶を超えないというのは、ふと考えると不思議だ。なぜそれ以上に交際が深まらないのだろうと。つまりそれでなんの不便もないということだ。それはなぜか。ふと我が家のマーチを思い出した。この車に隣の人を招待してドライブするなどという発想はまったくナンセンスだ。また隣のトヨタクラウンで、ドライブに招待してもらえるとしても、行く気はしないだろう。そうだ、自家用車のドライブも、我が家での生活も、世帯で十分満足であり他人をたとえご近所であろうと、来てもらってはもてなしもできないし、快楽も生まれないということだ。この意識が原因である。これは隣近所の共通意識であろうと思う。だれも招きあっている事情を聞いたことも見たこともないのだから。
なぜこういう意識が生まれたのかは、戦後の消費生活のものの充実の成果であることは間違いないだろうと思う。人はものだけでは生きられぬという命題を、生きようとすれば、それは隣近所の共同意識からは生まれることはないのだ。隣近所の往来不足で、精神的な飢えが生じたわけではないのだからである。われわれは、ここに建てることが出来た住居で、自己充足的に生活しているし、さしあたり不便はないのである。隣近所が悪者でなければである。
一時間半あまり過ぎたところで、やっと総会議案のほぼ終わったところで、議事を進行してきた副会長さんが、どなたか緊急提案、ご質問はございませんかと、会場に沈黙のまま座り続けてきた班長さんたちに、言葉を投げかけた。誰一人発言はなくしわぶきひとつも聞こえなかった。やっと一人がぼぞぼそと冊子の一箇所に文意を確かめる問いをはっしただけであった。そして、以上によって議案を終了し手よろしいかという声で、拍手が沸き起こったのであった。
この間にちょっとだけ雑談のように役員らと班長さんの一人とで起きた話題は、もう私の班は超高齢者ばかりになって班長交代はどうなるんでしょうねという声であったが、まあまあ、無理をなさらないでくださいという慰撫の声で終わった。もし、これを議題にあげれば、けんけんがくがく、町内活動を揺るがすほどの事態になることであったろう。それほど、各班内の高齢化は進んでいるのだ。いやこれだけでなく、毎月、新しくできた建売住宅の入り口に少しだけ設けられた公園(というより飾り庭)をなぜ、わが12班が草むしりの整備当番の当たらねばならないのか、しかも3分の1が80歳を越えた独り者世帯の人々なのにである。こうした問題を論理的にぶっつけていく気分がどうしてもしないのであった。
なぜやらないか。直感的に分かるのだが、こんな問題は、だれもみんな、会長以下役員も各班長も、町内の一人、一人みな認識できていることだ。だがこれを議題としてはあげない。そんな面倒なことを挙げて議論が沸騰するよりも、なかよく終わりとしたいという気分がなにより大事なのだ。まさに漱石が「智に働けば角が立つ」であり聖徳大師が憲法で「和をもって尊しとす」としたごとく、理屈よりも協調。論理よりも気配こそが大事とは、明治はおろか飛鳥時代から今も変わらぬ日本人の根性であるのを、あらためて実感するのである。ついでに言えば会長、副会長などは男性、会計や衛生などややこしい担当はみな女性、班長のほとんどは主婦である。ぼくのところには毎月県から「男女共同参画社会」の冊子が送付されてくるが、この町内総会の男女役割の実態調査などは行ったこともないようだ。どこを見ての男女共同参画社会か、だから読む気もしないのだ。これも紙クスである。まったく1500年も同じままの袋のなかに、町内総会が入れられて捧げられるとは、あと5年もしたらわが班も町内もどうなるのか、だれも、今は考えてはいない。しかし、いつか論じたいのだが、この特性は、簡単に切り捨てがたいことでもあることを、今は付記しておきたい。