市街・野 それぞれ草

 802編よりタイトルを「収蔵庫編」から「それぞれ草」に変更。この社会とぼくという仮想の人物の料理した朝食です。

班長さんになる 隣近所のために 

2010-04-24 | 文化一般
 つまり総会で掲げられたのは、わが町内の発展、安全と融和の達成という目標であった。ばあちゃんやじいちゃんが半数を越え、20代はもちろん30代の若者の一人もない班長さんたちに掲げられたのは、わが町内、隣近所のために役割を果たすということを、自覚してもらうための集会であるのだった。70ページに及ぶ総会配布冊子には、おおむねこの発展、安全、融和、つけたせば文化の向上という名分が星のごとくちりばめられていた。しかし、ぼくは一瞥、読む気をうしなった。

 いよいよ、最初の仕事として班内15世帯から2400円の半年分の町会費を集める集金を始めねばならない。隣近所という共同体、共同生活のための活動資金ということになるのだろう。具体的にこの資金がどう使用されるかというと予算書でわかるのだが、冠婚葬祭、敬老会、夏祭り、清掃費、街灯電気代などなどである。そのどの催しも全世帯主が町内でやってもらうことを必然とも希望とも思ってない活動なのだ。それにわざわざ班長がまわす毎月の回覧板による県広報も市広報も、読むものはほとんどいないようである。ぼくもまったく読む気がしなくて、そのまま資源ゴミにだしてきたが、それで困ったことはないのだ。テレビでほとんど用を足しているからである。

 こうやってあらためてご近所を考え、思いだすと、どこがどう共同生活でありどう共同意識として共有し合っているのか、じつにあいまいのままなのである。この町は、宮崎市中心市街地から2キロほど離れた田畑の広がる地帯であったが1960年代から比較的土地が安いということで、住宅化が進んできたのだ。特に1980年半ばのバルブがはじけてあとから急激に住宅化がすすんだ。今は空いた土地もほとんどないほと住宅が建っている。まとまったビジョンも計画もなく、それぞれが、これでなんとか我が家が建てられたという一安心の思いの住居、それゆえにまさにごっちゃまぜの大、小の家が立ち並んでいる。この思い、思いの複雑な人生環境が集まっているのが、わが町内なのである。ここで、やれ一安心の終の棲家というのが、共通の意識が、まずは実態である。

 わが12班も幸い仲はきわめていい。ご近所ではときどき旅のおみやげを交換したりということもする。ぼくの庭には、向かいの家の娘さんの軽自動車の駐車用に貸してあげている。ここに住んで30年近くになってきた。喧嘩もトラブルも一度もなかった。しかし、ご近所の人を家に招いてお茶を飲んだりとか、お隣に上がりこんで談笑したりということは、ただの一度も無かったのである。いや、前のWさんが娘の駐車の件で相談にみえたとき一度上がってもらったことはあった。このような隣近所が訪問しあって楽しむということは、ないというより、ありえないことなのである。昔は縁側で隣近所の付き合いがあったのに、縁側というコミュニティ空間がなくなったとかいうコラムなどもあるにはあるが、隣近所のご交際は、きわめてあっさりした挨拶に終始しているのである。

 30年も40年も毎朝、毎夕、顔をあわせても挨拶を超えないというのは、ふと考えると不思議だ。なぜそれ以上に交際が深まらないのだろうと。つまりそれでなんの不便もないということだ。それはなぜか。ふと我が家のマーチを思い出した。この車に隣の人を招待してドライブするなどという発想はまったくナンセンスだ。また隣のトヨタクラウンで、ドライブに招待してもらえるとしても、行く気はしないだろう。そうだ、自家用車のドライブも、我が家での生活も、世帯で十分満足であり他人をたとえご近所であろうと、来てもらってはもてなしもできないし、快楽も生まれないということだ。この意識が原因である。これは隣近所の共通意識であろうと思う。だれも招きあっている事情を聞いたことも見たこともないのだから。

 なぜこういう意識が生まれたのかは、戦後の消費生活のものの充実の成果であることは間違いないだろうと思う。人はものだけでは生きられぬという命題を、生きようとすれば、それは隣近所の共同意識からは生まれることはないのだ。隣近所の往来不足で、精神的な飢えが生じたわけではないのだからである。われわれは、ここに建てることが出来た住居で、自己充足的に生活しているし、さしあたり不便はないのである。隣近所が悪者でなければである。

 一時間半あまり過ぎたところで、やっと総会議案のほぼ終わったところで、議事を進行してきた副会長さんが、どなたか緊急提案、ご質問はございませんかと、会場に沈黙のまま座り続けてきた班長さんたちに、言葉を投げかけた。誰一人発言はなくしわぶきひとつも聞こえなかった。やっと一人がぼぞぼそと冊子の一箇所に文意を確かめる問いをはっしただけであった。そして、以上によって議案を終了し手よろしいかという声で、拍手が沸き起こったのであった。

 この間にちょっとだけ雑談のように役員らと班長さんの一人とで起きた話題は、もう私の班は超高齢者ばかりになって班長交代はどうなるんでしょうねという声であったが、まあまあ、無理をなさらないでくださいという慰撫の声で終わった。もし、これを議題にあげれば、けんけんがくがく、町内活動を揺るがすほどの事態になることであったろう。それほど、各班内の高齢化は進んでいるのだ。いやこれだけでなく、毎月、新しくできた建売住宅の入り口に少しだけ設けられた公園(というより飾り庭)をなぜ、わが12班が草むしりの整備当番の当たらねばならないのか、しかも3分の1が80歳を越えた独り者世帯の人々なのにである。こうした問題を論理的にぶっつけていく気分がどうしてもしないのであった。

 なぜやらないか。直感的に分かるのだが、こんな問題は、だれもみんな、会長以下役員も各班長も、町内の一人、一人みな認識できていることだ。だがこれを議題としてはあげない。そんな面倒なことを挙げて議論が沸騰するよりも、なかよく終わりとしたいという気分がなにより大事なのだ。まさに漱石が「智に働けば角が立つ」であり聖徳大師が憲法で「和をもって尊しとす」としたごとく、理屈よりも協調。論理よりも気配こそが大事とは、明治はおろか飛鳥時代から今も変わらぬ日本人の根性であるのを、あらためて実感するのである。ついでに言えば会長、副会長などは男性、会計や衛生などややこしい担当はみな女性、班長のほとんどは主婦である。ぼくのところには毎月県から「男女共同参画社会」の冊子が送付されてくるが、この町内総会の男女役割の実態調査などは行ったこともないようだ。どこを見ての男女共同参画社会か、だから読む気もしないのだ。これも紙クスである。まったく1500年も同じままの袋のなかに、町内総会が入れられて捧げられるとは、あと5年もしたらわが班も町内もどうなるのか、だれも、今は考えてはいない。しかし、いつか論じたいのだが、この特性は、簡単に切り捨てがたいことでもあることを、今は付記しておきたい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

班長さん ご近所とは何?

2010-04-17 | 生き方
 去年の一月は、村上春樹の「アンダーグラウンド」でスタートし、今年は小熊英二の「民主と愛国」をぐうぜんに読むことから年が開いた。前者が777ページ、後者は999ページだった。こんな本だれが買って読むんだろうか、とくに後者の一抱えもありそうな分厚なはハードカバー、定価6615円を買うやつがおるのかと、これがなによりも本を手にしての第一印象であった。偶然がなければ、こんな本を読むなどとは、思いもしないし、多分一生手にすることもなかったはすだ。とにかく温泉行きの正月休みに、この分厚い硬い本を持参して読みにかかったわけであった。あんた馬鹿じゃないのこんな本を何で読むのと節子は、とくに「民主と愛国」とぼくをにらみながら言い放ったのだ。こんな本を読む暇があったらしてもらいたい家事労働は山のようにあるのにという思いはそくそくと伝わってくるのであった。といわれながら、読み始めたら、体裁とは反対にひどく面白い、濃い内容で知的スリルもあり、止められなくなったのだ。こんなことで、この分厚い本は知人の支局長のO記者に返却するのが残念であったし、中央公民館から借りた「アンダーグランド」は後で、ブックオフの文庫本で見つけ出して50円で入手できたのであった。

 今この二書が記憶に甦ってきたのは、いずれも「大衆」というキーワードが大きな意味を担わされていた。前者はオームのサリン・テロの犠牲になった62人の犠牲者のインタービューであった。1995年の早朝、東京の地下鉄でサリンを吸う人々には有名人も会社の重役も、マスメディア関係者も、高級官僚も、芸術家も作家も居ない。生きるためにこんな満員電車にぎゅうぎゅうづめで出勤する必要はないわけであるから、このしがない企業のサラリーマン層こそ、大衆そのものといえるかもしれない。また、「民主と愛国」戦後思想を担ってきた学者、知識人、作家の国家か自分かという生き方を、かれらの膨大な著書を分析して明らかにした内容であり、このとき、これらインテリゲンツィアの「大衆」への解釈が、自分の立ち位置を示すものとなっていた。大衆は革命の主体であったり、戦後民主主義を崩壊する愚集であったり、大衆から学ぶのか、啓蒙するのか、全体主義を下でささえる無批判の群集と否定されたり、それぞれであり、その見方によって自分の人生を左右されている。

 右から左まであり、英知から痴呆まであり、純粋から卑劣まである、戦後思想家や芸術家の断定する「大衆」とは、どれがほんとうの姿なのか、それぞれの論拠によりながらわからなくなってくる。だんだん読みながら、ぼくは、大衆とは具体的にどこのだれなのか、論者たちは指すことが可能なのかどうかと、この一事に興味を惹かれだしてきたのだ。かれらが、国家か自己かに賭けて、自分の人生を問いつつけているその視点に大衆観が物指しのように置かれているのに、具体的な大衆がはっきりしていないというのは、ぼくにとっては大変な驚きであったのだ。大衆は善なのか、悪なのか、そして生きている大衆の一人に今どこで会えるのか?それがわからないのである。そんな問いそのものが無駄な問いであるのか。

 先週、これもぐうぜん手にした小谷野 敦(コヤノ アツシ)の「すばらしき愚民社会」は、「大衆論とその後」という序文から始まるのだが、「今や「大衆」は司馬遼太郎さへ読まない」「ハリポタをリクエストする東大生」という小見出しからみて、まずむつかしい本を読まないやつと規定されている。もっとも内容はそれほど単純に割り切れるものでなく、どうも難しい本を商売道具とうる同業の大学人たちへのルサンチマンがあちこちに噴出している文化論であるようだ。ほんとうのバカはかれらであるというような内容ともとれるのであるが、大学人が、バカが利口かは、ぼくの関知することでなく関心も今このときには無いのだが、ただ小谷野の大衆概念に興味があるのだ。しかしこの本を読んでもやっぱり大衆とはなんなのか、はっきりしない。彼は、この本のあとがきで「・・・私は、そこに働く三人〔父、母、娘 筆者註〕、三島由紀夫やトルストイの名を知らなかろうと、一向に構わないんだ。彼らは選挙になれば、テレビでおなじみのタレント候補に投票するかもしれない。が、それがかれらの罪だろうか。かれらは「愚民」ではない。」とサンドウッチをつくるパンやの一家をたたえる。じゃあいったい彼らはなんなのだろう。多分大衆の範疇には定義では入るだろう。しかし、あいまいではなにか、つづけてかれは結論を述べる 「私はビニール袋に入った、あまり美味しくもなさそうなサンドウィッチを購って、本当の「愚民」たちの群れ集う「学会」に向かった。」と終わる。そうか愚民というのは学者という名の業界人なのか、これも不可解な断定でしかぼくにはないのだが。

 そのときだ、ぼくが突然思いついてしまったのは、小谷野敦教授が、もしぼくのご町内の班長総会に群れ集う集会に着てもらったとき、かれはこの総会をどうとらえるかを知りたいのだ。たぶん、どこからみても、この集会の役員たち、またじいちゃんばあちゃんが奥田英二や村上春樹のこの著作を読むことはありえないと思えるし、その言動から判断して、あるいは日本現代美術の尖端についての探索をしているとも思えないし、現代の文化・芸術の評論を読んでるとも思えぬし、つまりかれらは、大衆か、それとも、愚民か、そこで小谷野教授はなにをすべきか、判断がつくだろうか。ここが知りたいのである。つまりご近所で暮らすとは、なにか、なにに遭遇するのかと聞きたいのだ。 
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

班長さんになる、ふたたび

2010-04-14 | 生き方
  
 隣近所というよりご町内、近くの孫が通った保育園、また散歩道にある小学校で有名になっているのは、ぼくがチップを朝夕引いて散歩しているからだ。これも10年以上なると、多くの奥さんたちが、チップちゃーんと声をかけてくださる。孤立主義者であっても、多くの縁に囲まれてくる。とくに小学校新入生、保育園で孫の同級生だった一年生がトナミ君のおじーちゃーんと集団で声をあびせることもあったのだ。もうあれから丸三年たったのだが、孤立が好きだといっても、ご近所の奥さん方が声を下さるとはありがたいことだ。今、チップの体調は、絶好調に近いかも。排便大量,良便。皮膚炎沈静中、食欲旺盛、毛並み良しで、鼻ツヤあり。だが、歩行能力はどこかよちよちである。老犬になったのは否定できなく、悲しい。そうだなあ、もう11年散歩の毎日だもんな。

 ところで先日の自転車ぶらりで悪化しだした「魚の目」〔左足指間)とそれをかばおうとしての右足膝関節の痛みである。経験した方はわかると思うが「魚の目」の痛みは、どくとくの不快感がある。痛みが、胸に響くというか、気分がなえるような痛みなのだ。冷えた足元からずきずきという鈍痛、ごんという激痛、とまらないじんじんという痛みが錯綜して一日中、ふとんに寝てまで止まないのである。これに耐えかねて、なんとかしたいと治療法を調べていたら、にんにくが効くという民間療法を知った。さっさく試していると、もったいない、100円3個の中国にんにくにしてねと節子が言うのだ。わかったと毎朝使っているのをスライスしかかっていると、これがいい、これがいいと、チューブ入りのにんにくを冷蔵庫からひっぱりだして、手渡したのだ。2年くらい前のやつで、にんにくには変わらないからと言い張るのだ。

 09年7月24日期限の桃色のちゅうぶに入ったもので、黄色いにんにくがどろりと出てきた。これを小指と第4指の目に塗り、間に綿を挟んで、靴下を履いた。その弾力で綿も安定できるのだ。すると、なんということだ、たちまち不快な痛みが潮が引くように引いていったのであった。すごいよこれ!!と思わす、節子に歓喜の声を掛けると、まだどうなるかわからないわよと、返答するのであった。あれからもう10日あまり、痛みだけは解放されてきている。これはぼくにとって恵みの雨である。しかし、右足の痛みは執拗につづいている。日常に差し障りはないが、痛みは頑として自転車ぶらりには使用不能と警告を発しつつけているのである。節子が昨日、桑畑整形に行ってドクターから聞いた話では、高齢になって膝の軟骨や靭帯の伸びなどをしたら、もう快復不能だから、行動に用心するようにとの話を告げるのであった。

 そうか、ひょっとしたら、これ治癒できぬかもナ、70キロの自転車走行は、無理だったのかも。そうか、加齢とは、あちこちが、回復不能で、一つ、一つと停止状態化していくことだなと、あらてめて自覚できるのであった。しかし、これはいいことだと思う。だんだん死への準備を自覚できるし、しかも死こそは人間すべて平等という現実、幻想でない民主主義そのものではないかとうれしくなる。だれでも年をトルそして死んでいく。ざまあみれということになる。生き物は人間だけではないのだ、この地球上での自然の法則に歓喜を感じるのである。

 こんな日々、思いもしなった隣組の班長さんになることになった。4月10日、町内総会があった。2005年の同じ日からだから5年ぶり。あのときは8年ぶりだった。
3年短くなったというのは、半年交代だから6人分早くなったのだ。その間に亡くなったひと、年寄りになって持病をかかえこんでて動けなくなった人たちが6人でたということである。老いてシングル所帯となり80歳代の所帯も半分くらいに及んできているわが隣組は、班そのものが後期高齢となってきてしまったのである。チップもぼくも隣近所も、老いという日々になってきたのだ。

 前回の班長さんのときは、ぼくはぼくなりの誠実さを班に注ごうと決意したのであったが、こんどはそうは行かなかった。ぼくの意識を占有しているのは、どうしようもないシニシズム(cynicism)である。こんな馬鹿なことにつきあってられるかという思い、それでもせざるを得ないという立場をぬぐいきれない思い、そんな目にふたたび遭遇という不快感を、持ちこたえるには、皮肉と冷笑で〔シニシズムまたはシニカル)意識で支えとするしかないのである。さらに意識は、すでに班をこえて、この町内、わが町を越えて宮崎市、そのシンガポール幻想都市をこえて地方都市へ、さらにこえて日本という方向にふらふらとさまよい出している。今からまずは総会の夜の話からスタートしようか。

 午後7時半、30分ばかりわざと遅れて、遅れてきたのはたったぼく一人でしかなかった。なるほどやっぱしと思いながらも、役員さんたちはにこやかにぼくを迎えてくれて、席に案内してもらえた。席は、知人の中年御夫人と退職互助会の老女の間であった。副会長の挨拶はすでに済み、今や第2号議案という予算執行についての話にはいろうとしていた。日常会話では聞くこともない議案だとか、決議とか報告とか、現状とか、問題とかの言葉が会場に流れていく。しわぶきひとつ無い会場は、これらの言葉に威圧されたかのようで、しーんとしていた。ぼくはふと思いついて中年の美人の御夫人に、小さな声でささやいたのだ。
「どうです、この会場、ばっちゃまとじっさまばかりじゃないですか!」
 と小声でささやくと、とたんに彼女はプーット噴出して、顔を真っ赤にしてなんとか笑いを押し込めようとするのであった。互助会の知人ばっちゃまは、ほんまや、これからどうなるんかと冷笑を浮かべるしで、ぼくの席だけが、ゆらめくのであった。ぼくはうれしかった、このお二人、じつに反応がいい、この笑いもあでやかでいい。そしてなにより一瞬にして、この町内総会の形式主義を捉えられた感性が、いいではないかとおもえたのであった。

 もはや楽隠居状態になってしまっているばっちゃんやじっさまに町内の発展がどうの、互助精神がどうの、予算執行がどうのと大問題をぶち上げていってどうすんだという空ろな議場のおかしさを彼女たちはすでに知ってしまっている。おそらく会場の高齢者すべてが、このことを把握しているのではないかということ、それでも総会はつづく。5年前、ぼくが班長生活半年でとことん知りえたのは、この日本人特有の和の集団のスノビズムであった。会議は踊るのでなく、会議は天を舞う。その舞の空虚さを理解していながら、その舞に自分を合わせて澄ます気取り、スノビズムがどう現実に日常生活と折り合いをつけてくるのかであった。今回もまた間違いなくそうなる。この意識が隣近所を超えて飛翔していくのである。日本の大空へと、なんのために、なんの目標へ向かって,今回はここを学んでみようかと思い立てた一夜であった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

無縁社会の快楽

2010-04-07 | 生き方
 
 困ったことになったと思っていた左足小指と第4指の「魚の目」のため日曜日は自転車は止めて、橘通り3丁目辺りをぶらぶら散歩して回った。偶然声を掛ける夫妻がいて、誰かと思ったらAさんとご主人であった。彼女はぼくのかってのスタッフで、1989年にぼくにパソコンの手ほどきをしてくれた有能な人であった。その後、ぼくのプロデュースするアングラ系の演劇にも興味をもってくれて、しまいにご主人もまたテント劇団の支援を惜しまなくなってもらえた去年のどくんごテント芝居と、「小春とマイノリティオーケストラ」のコンサートもあれは良かったと、しばし、話が弾んだ。

 久しぶりにぶらぶらした3丁目の裏通りのレストラン街は、新装の居酒屋、カフェ、チェーン店、バーや専門料理店が現れ、街が一変していた。といっても変化にともなう革新的エネルギーを感じるわけではなく、商売の大変さをもろに受けるような差異化にすぎなかった。いつごろからか、ぼくはもう街に出ると、時間的存在としての街というものを感じなくなっている。そこは、シーンごとに取り替えられる舞台装置でしかないのだと思うようになっている。いくら変化しようと、舞台装置にすぎず、おののくような衝撃などどこにもない。それでも装置をみることは退屈ではなく、ぶらぶらをつづけた。

 ちょうど午後5時をまわったころ、Tカードの更新をするためカリーノデパートの一階にあるつたや書店のカウンターに向かった。その更新を終え、隣のタリーズの前を通りすぎたとき、ふと見ると室内は人もまばらで、ここでコーヒーをいっぱいと強い欲望が沸いたのだ。が、入れなかった。家でチップが散歩を待っているし、節子は夕飯の支度にかかったころだし、朝から出てもはやこれ以上ぶらぶらしているわけにはいかないと欲望をおさえ込むしかなかった。そのあと、網膜に焼きつくように赤い椅子で、本をもっと読めなかったのが心残りで網膜から消えなかった。

 じつはこういうことを報告するのも、その前日の夜にみたNHKの「無縁社会の恐怖」の番組が気になっていたからであった。いったい無縁社会とはなんなのかが、今ひとつ分からなかったのだ。この社会に生きている限り「無縁」でありうることが、ありうることだろうかと、思うのだ。かならず人との関わりが生じてくる。とくにわずらわしい人との関わりを浴びながらでないと生きてはいけない。それは避けようとしても避けられるものではない。そういう思いをもつぼくにとって無縁こそは、自由としてのエネルギー源であって、いかに無縁の一刻を人生からもぎとろうかと、虎視眈々、詐欺師的機敏さ、狡猾さ、不道徳、非常識の策を弄しながら、瞬間的に続けているのである。それを労せずにして多量に身元に置いている人々が、なぜ恐怖のどん底を味わっているという構図のテレビシーンの無縁社会は、一歩引いてみると、ここにあるのは、なにかの意図でしかないように思えてならなかったのである。

 10件あまりの無縁の人たち、それは婚期の遅れてきだした女性とか、家族を失った寡婦や、都会に出てきて孤立化して社会との連絡を失った勤め人とか、いわゆる一見わかりやすい無縁者の人々であり、その生活が紹介される。これらの人々をみると、かれらが無縁なのは、世間常識から外れたためであると、いうことくらいしか論理は無いのである。これはとんでもない話である。結婚、家族、故郷、会社、近隣などと、かれらの無縁はこれらと2項対立の素朴な図式で示されている。

 故郷に暮らし、留まり、居続けて、しかるべきときに結婚するという図式が、ツイッターで番組へと寄せられている。あるいは誰にも知られずアパートの一室で孤独死する悲惨さを思って怯える。つまり、この幼稚な2項対立の図式で、無縁の逆が結婚であり、見取られて死ぬこととなる。そんな図式など、成立しえないのである。それは、考えれば理解できるはずであるのにである。

 この点では、孤立こそまずは自由ではないかというと、奥さんが死んだら、はじめてさびしさが骨にしみるのだと言われる。離別をしたら、その地獄を知るとしたり顔で言うのだ。配偶者が死んだり、離婚したりしてしまったら、そのときあなたはどうなるという仮定は、まったくナンセンスなのではないか。そうなってみなきゃ、そのときの現実は知りようが無いのではないか。それは死んだら地獄があるとか極楽があるとかとう仮定と同じナンセンスなことなのである。あろうが、なかろうが、それは死んでからの話ではないか。その時点で行動が起きるし、人間の思考や行動もそういうものであろう。

 それにしても、この[無縁社会の恐怖」というテレビ番組が、3万2千人余のツイッターを呼び寄せたという。かれらは、その恐怖を現実感として引き寄せ、自覚しているとうのだ。しかし、かれらは、いったいなにを知ったのか。ここではっきりしておきたいのは、[無縁社会の恐怖」という事実は、テレビ映像であるということ、そこが肝心ではあろう。編集された映像は、現実ではない。なるほど現実を指し示してはいるが、現実そのものではありえないということである。映像を批判的にみることをしたのかどうか、映像を越えて存在する現実に思いを馳せたかどうか、映像で、無縁社会を知りえたのかどうかを、自問すべきなのである。

 こう自問したときに、ぼくは、この無縁者たちは、無縁であるために恐怖なのではないという事実を感じざるを得ない。もともと多縁であるべき社会へ感応する意識が絶縁体で覆われてしまっているといえないか。その原因はなんなのか、ここを探らねば問題は、明確にならないのだと思う。そこで、さしあたり、ぼくが若い孤立した人々に呼びかけたいのは、孤立こそ行動の原点、自由だということを言いたいのだ。かくも潜在力をもつ無縁の日々を、なにをもって怯えねばならないのかと思う。ゆえに恐れるな孤立無縁を快楽せよということだ。

 午後5時すぎ、犬の散歩に8年間をしつづける多縁(堪えん)にくらべて部屋中を、ごみ芥で埋め尽くし、パソコンゲームに埋没できる環境の潜在的可能性を想像すべきであろう。無縁が恐怖なら多縁も恐怖であろうに。無縁にも多縁にも恐怖などないのではないか。ただ瞬間を生きるのみではないか。この戦争もない飢餓のない、明日もかなり安全であるこの日本でなにを恐怖の怯えるのかと思う次第だ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

無縁社会の快楽

2010-04-07 | 生き方
 
 困ったことになったと思っていた左足小指と第4指の「魚の目」のため日曜日は自転車は止めて、橘通り3丁目辺りをぶらぶら散歩して回った。偶然声を掛ける夫妻がいて、誰かと思ったらAさんとご主人であった。彼女はぼくのかってのスタッフで、1989年にぼくにパソコンの手ほどきをしてくれた有能な人であった。その後、ぼくのプロデュースするアングラ系の演劇にも興味をもってくれて、しまいにご主人もまたテント劇団の支援を惜しまなくなってもらえた去年のどくんごテント芝居と、「小春とマイノリティオーケストラ」のコンサートもあれは良かったと、しばし、話が弾んだ。

 久しぶりにぶらぶらした3丁目の裏通りのレストラン街は、新装の居酒屋、カフェ、チェーン店、バーや専門料理店が現れ、街が一変していた。といっても変化にともなう革新的エネルギーを感じるわけではなく、商売の大変さをもろに受けるような差異化にすぎなかった。いつごろからか、ぼくはもう街に出ると、時間的存在としての街というものを感じなくなっている。そこは、シーンごとに取り替えられる舞台装置でしかないのだと思うようになっている。いくら変化しようと、舞台装置にすぎず、おののくような衝撃などどこにもない。それでも装置をみることは退屈ではなく、ぶらぶらをつづけた。

 ちょうど午後5時をまわったころ、Tカードの更新をするためカリーノデパートの一階にあるつたや書店のカウンターに向かった。その更新を終え、隣のタリーズの前を通りすぎたとき、ふと見ると室内は人もまばらで、ここでコーヒーをいっぱいと強い欲望が沸いたのだ。が、入れなかった。家でチップが散歩を待っているし、節子は夕飯の支度にかかったころだし、朝から出てもはやこれ以上ぶらぶらしているわけにはいかないと欲望をおさえ込むしかなかった。そのあと、網膜に焼きつくように赤い椅子で、本をもっと読めなかったのが心残りで網膜から消えなかった。

 じつはこういうことを報告するのも、その前日の夜にみたNHKの「無縁社会の恐怖」の番組が気になっていたからであった。いったい無縁社会とはなんなのかが、今ひとつ分からなかったのだ。この社会に生きている限り「無縁」でありうることが、ありうることだろうかと、思うのだ。かならず人との関わりが生じてくる。とくにわずらわしい人との関わりを浴びながらでないと生きてはいけない。それは避けようとしても避けられるものではない。そういう思いをもつぼくにとって無縁こそは、自由としてのエネルギー源であって、いかに無縁の一刻を人生からもぎとろうかと、虎視眈々、詐欺師的機敏さ、狡猾さ、不道徳、非常識の策を弄しながら、瞬間的に続けているのである。それを労せずにして多量に身元に置いている人々が、なぜ恐怖のどん底を味わっているという構図のテレビシーンの無縁社会は、一歩引いてみると、ここにあるのは、なにかの意図でしかないように思えてならなかったのである。

 10件あまりの無縁の人たち、それは婚期の遅れてきだした女性とか、家族を失った寡婦や、都会に出てきて孤立化して社会との連絡を失った勤め人とか、いわゆる一見わかりやすい無縁者の人々であり、その生活が紹介される。これらの人々をみると、かれらが無縁なのは、世間常識から外れたためであると、いうことくらいしか論理は無いのである。これはとんでもない話である。結婚、家族、故郷、会社、近隣などと、かれらの無縁はこれらと2項対立の素朴な図式で示されている。

 故郷に暮らし、留まり、居続けて、しかるべきときに結婚するという図式が、ツイッターで番組へと寄せられている。あるいは誰にも知られずアパートの一室で孤独死する悲惨さを思って怯える。つまり、この幼稚な2項対立の図式で、無縁の逆が結婚であり、見取られて死ぬこととなる。そんな図式など、成立しえないのである。それは、考えれば理解できるはずであるのにである。

 この点では、孤立こそまずは自由ではないかというと、奥さんが死んだら、はじめてさびしさが骨にしみるのだと言われる。離別をしたら、その地獄を知るとしたり顔で言うのだ。配偶者が死んだり、離婚したりしてしまったら、そのときあなたはどうなるという仮定は、まったくナンセンスなのではないか。そうなってみなきゃ、そのときの現実は知りようが無いのではないか。それは死んだら地獄があるとか極楽があるとかとう仮定と同じナンセンスなことなのである。あろうが、なかろうが、それは死んでからの話ではないか。その時点で行動が起きるし、人間の思考や行動もそういうものであろう。

 それにしても、この[無縁社会の恐怖」というテレビ番組が、3万2千人余のツイッターを呼び寄せたという。かれらは、その恐怖を現実感として引き寄せ、自覚しているとうのだ。しかし、かれらは、いったいなにを知ったのか。ここではっきりしておきたいのは、[無縁社会の恐怖」という事実は、テレビ映像であるということ、そこが肝心ではあろう。編集された映像は、現実ではない。なるほど現実を指し示してはいるが、現実そのものではありえないということである。映像を批判的にみることをしたのかどうか、映像を越えて存在する現実に思いを馳せたかどうか、映像で、無縁社会を知りえたのかどうかを、自問すべきなのである。

 こう自問したときに、ぼくは、この無縁者たちは、無縁であるために恐怖なのではないという事実を感じざるを得ない。もともと多縁であるべき社会へ感応する意識が絶縁体で覆われてしまっているといえないか。その原因はなんなのか、ここを探らねば問題は、明確にならないのだと思う。そこで、さしあたり、ぼくが若い孤立した人々に呼びかけたいのは、孤立こそ行動の原点、自由だということを言いたいのだ。かくも潜在力をもつ無縁の日々を、なにをもって怯えねばならないのかと思う。ゆえに恐れるな孤立無縁を快楽せよということだ。

 午後5時すぎ、犬の散歩に8年間をしつづける多縁(堪えん)にくらべて部屋中を、ごみ芥で埋め尽くし、パソコンゲームに埋没できる環境の潜在的可能性を想像すべきであろう。無縁が恐怖なら多縁も恐怖であろうに。無縁にも多縁にも恐怖などないのではないか。ただ瞬間を生きるのみではないか。この戦争もない飢餓のない、明日もかなり安全であるこの日本でなにを恐怖の怯えるのかと思う次第だ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自転車ぶらり 背広で、書き残したこと

2010-04-02 | 自転車

 先週月曜22日の連休日に節子を自転車ならず、自動車で野の中の雑貨店に連れて行ったことを書いたが、もう一箇所、山の中のコーヒー豆屋さんにも行った。ここにも迷わずにたどり着けたのは、ぼくにとっては稀なことである。とにかく宮崎市北の丘陵南面沿いの道路は一本しかないので、ここを行けばこの店の前に至るしかないわけであった。生垣の濃い古びた木造平屋で、その板壁に200号くらいの大きさの垢抜けした看板が打ち付けてあった。玄関はガラス引き戸で昭和40年代そのままの住宅であった。その半坪ほどの土間から奥へ向かって並べられていたのは、まさに駄菓子の類であった。誰も居なくて、ごめんくださいと奥へ向かって声をかけると、老女がゆったりと現れてきた。

 そう、ここはまさに駄菓子屋さんそのものであった。老女もこどもたちが可愛くて、店を開いているだけという。壁にはそのこどもたちの描いたいろんなマンガのキャラクターが何枚も貼ってあった。現在でもまだ宮崎市の商店街や住宅街には何軒かの駄菓子屋さんはあるので、それほど珍しいとも思わなかったし、ノスタルジーを感じるほどでもなかったが、ただ、コーヒー豆販売とのコンビネーションが不可思議である。聞くと、これはUCCから配送されてくる豆であり、僕が思った自家焙煎のコーヒ豆ではなかった。曇ったガラス壜に3種類くらいの豆があったが、いずれもやや古びている感じであった。

 山の麓の住宅の北壁に打ち付けられた、この看板の都市風と、UCCコーヒー豆と、駄菓子の取り合わせは、どこまでも異質の組み合わせである。聞けば理由もわかろうが、そのまま謎のままが、いいと思って、こういうご商売は楽しいでしょうねというと、はあ、生きがいでございますと返事された。後で家内が言うには、それでも庭は花がいっぱいできれいだった、テーブルが一つあってカレーを出したようだったわというのだ。庭といっても建物と生垣の間の幅2メートルくらいの通路であった。そこでカレーを食し、コーヒーを飲む粋人がいるということであろう。こどもを連れてきた若い母親がのむのだろうか。これが、楽しみのひとときとなるのであろうか。そこでコーヒーを飲む人の優雅さ、まさに人生捨てたものじゃないなと、感動できるのであった。

 この自転車ぶらりの週末に西都市に背広で行ったのだが、このときのもう一つの目的は、一月ほど前にその前を通り過ぎた、瀟洒なカフェに行くことだった。あの日、午後一時ごろで、このカフェを発見したときは、よろこんで軽い食事とコーヒーをと、花壇の前で自転車を止めた。そしてジャンバーのポケットに手を入れて、5000円札を引き出そうとしたら、無い!のだ。あわてて内ポケットもズボンのも探したが、影も形もなかった。多分、ハンカチや携帯、カメラを出し入れするときに、5000円札がいっしょに外にでてしまったらしかった。金よりも、このカフェに入れなかったことに腹が立ったのだった。その恨みをはらすべく、今回は、出かけたのだ。この前と同じように、背広の右ポケットに5000円札を納めていた。

 一ヶ月ぶりにこの店に向かうのだが、西都市市街の外れからすこし東の間道に入った場所というのを頼りに行ったのだが、国道10号線からサイトに向かう219号線沿いには、市街に近づけども、東への間道などありえないのだ。これじゃ、記憶違いか、となると再発見はむりかもなと、とうとう市街へたどり着いた。そのとたんに記憶がよみがえった。宮崎ー西都自転車道の西都から、走って帰っていったら1キロも行かぬうちに、自転車道はいきなり、舗装が剥ぎ取られ、鉄道跡だった土手の鉄道レール面が平坦に掘り崩され、むき出しの泥土となって消えていたのだ。途方に暮れると、右手に土手が盛られ、そこに道路があるようだった。そこにのぼると工事中で、その土手を越えて、普通の道路が伸びていた。そこを走ったときに、すぐ交番があって、その先の道路反対側ににカフェがあったのだ。この記憶を思い出して進んでいくと、花に囲まれてカフェの正面にたどり着けたのであった。確かに市街の東ではあった。ここからさらに東に219号線はありそこに突き当たっていた。カフェの入り口で、右のポケットに左手を差し込むと、5000円札は瞬間的に指に触れた。この明快さ、この出し入れに背広の機能性は見事に応えてくれた。

 かくして注文できたメニューのインドカレーとコーヒーは、しかし大きく期待はずれであった。が、しかしチラシをみて面白そうだと観劇したが、たいしたことは無かったということは何度も味わっており、それでべつにがっかりもしなかったのと同じことで、ひとときの夢を与えてくれた1050円也は高くは無い訳である。つり銭の5枚の500円と100円コインも3枚の千円札も背広の右ポケットに投げ入れ、安定感を感じるのであった。この土曜日は曇りで寒かったが、午後4時半になると、さすが、シャツ一枚背広一枚には寒気が染み込んでくるのであった。

 帰りは急がないと日が暮れる。幸いバイパスで佐土原工業団地の丘を越え、いっきに一つ葉有料道路の終点から国道10号線に入れる。ただし、坂がつづく。このバイパスに入るための側道の坂を上りきると、すぐに512メートルのトンネルがある。この側道は優に車が走れるほど広く、出口まで坂道、出てもさらに200メートルほどゆるい坂となり、ここから一挙に下り、すぐに一つ葉有料道路に接続する道路は、だらだらと2キロほど上り勾配となり、ふたたび下り、また上がると、いきなり車道となって、車といっしょに走行することになる。ここまで来ると、冷たさなどよりも体温で背広を脱ぎたくなってくる。そしてようやく10号線そいの側道を、走って北高校下のバイパス沿いの粗末な側道を登って下るとようやく宮崎北バイパスとなり、大型店舗群を見ながら、中心市街地に至というわけだ。その間、体力の消耗や、交通煩雑の緊張やで寒気もなにも感じず、背広を着用していることも感じていなかった。つまり、背広は自転車走行に十分適応していたのだ。

 あれから一週間になったが、2日前から右膝が痛み出した。指で圧すると、内側の骨が痛む。理由がわからない。この自転車走行しか原因を思いつかない。走る前まで、左足の小指と第4指に「魚の目」が出来て、ずーっと痛かった。ほっとけば治ると思っていたところ、治らず。そのまま走ったため左足をかばおうとして、右足に負担がかかったのかもしれない。ただ走るときは、そんなことには気づかない。快楽だけに気を奪われて、走るわけだからだ。

 この「魚の目」が生じたというのも38年ぶりだ、当時、山歩きにのめりこんである日、新品のきつい登山靴で高千穂を登って、魚の目を持った。それは何ヶ月も治らず、治りきれず、それで登山からサイクリングに快楽を変えた。足に幅の広い靴を履いたので、そのうち自然に沈静化していったのだ。あれから38年目の今年、布製の古くなって形の崩れたぼろ靴でチップの散歩をやっているうちに、その崩れた形状が足に無理をさせたのだろう。かくして、魚の目が復活した。そういうことである。これはやっかいなことになったようだ。治らなければ自転車に乗れない。しばらくは自転車には乗れないことになるだろう。背広を着ようが着まいが、それが人生となんの関係があるのか、世界にはもっと大事な関心をもたねばならぬ大きな物語があるではないかと、そんな戒めであるのだろうか。そうは思わないけど。はっきりそうではないはずと思うのだが、魚の目は歩くたびに痛み、なにかの警告を止めない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする