宮崎映画祭が終了した二日後の月曜日に、この映画のDVDが妻のもとにとどいた。
監督の母堂が、高校時代の同級生だった妻に贈ってくださったのだ。映画祭では3作品の映画、うち1品は「接吻」、他に2作品を見た。いつも感じることだが、映画祭という会場になったとたんに臭さがでる。臭さは、この映画に浸れという強制感、これは芸術だという使命感、高踏感、さらに市長挨拶をトップに掲げた回覧板的地域コミュニティ行事感などが匂い立つ。この臭さを感じない人も、匂いを大嫌いな人もいる。
ぼくとしては、実行委員会があつめてきたまあ珍しい映画をみることに興味はあるわけだから、せっせとみるわけだし、それと10年前の何人かの委員たち、その後顔見知りになった委員たちとも、一年ぶりの再会は楽しい気分にさせられる。3本しか見られなかったが、そのうちの「接吻」と「スール」2本は、「鬱陶しい系」の観念映画であった。見終わって、受け止めた観念をどうすべきかという気分のときに、吉田大八監督の「腑抜けども、悲しみの愛を見せろ」というDVDが、手元に来たというわけである。
このタイトルの開放感がいい。どうしようもない怒りがあり、それでもマンガチックでジョークっぽいところがいい。つまり批評性がある。このがつんと存在感のあるタイトルは傑出している。ここにわれありではないか。こんな監督が保守的といわれる鹿児島県から生まれたということに感動する。
この映画は、どうしようもない活気を奪われ、負け犬になり、閉塞感にとらわれ未来の希望がない片田舎の町で、姉と妹、一家の長男である腹違いの兄とその妻の奇妙な人生を描いている。姉は女優に、妹はマンガ家に長男の妻は家族の実現に、兄だけは希望はもてなくて、姉と不倫し、うっせきを妻にむけ暴君となっている。兄を除いて3人の女たちはどんな状況にもめげずに希望の実現に向かって行く。
田舎の風景は、これもマンガチックで、誇張された田舎の一本道や畑、林の風景がこっけいなまで、どんづまりと行き詰まり感をただよわせていて、かえって現実感がありかつ不思議とここちよい風景となっている。この背景なしには、映画の喜劇性は効果を発揮し無かったであろうと思う。懐かしくもおかしな風景である。
そしてつぎに「セリフ」が、マンガの吹き出しのなかの言葉のように簡潔・明快で生き生きとしていて、人物といっしょになって、こっちも喋ってみたくなるのだ。その中でもおもしろいのが女優志願の姉のものである。
「あたしは自分が大好きです。」いいですねえ。そして「あたしは絶対、人とは違う。特別な人間なんだ。」と。「あたしは絶対女優になるのっ!!」と絶叫する和合澄伽22歳。
女優になれそうな美貌と痩身をもちながら、オーディションには採用されず、事務所からは傲慢、無知、才能なしと首を切られ、それでもオーディション面接を受ける。怒りの演技は、怒っているのか、フリをしているのか、どちらかと審査委員に詰問されると、そんなことを考えるひまはないといい、女性審査員がオーディションを受けるならセリフくらい覚えておいでというと、「待ってください。なんか、あたし、あたし意地悪されてます?」とねめつけ、もう結構ですという審査員席にむかって。「ふざけんなっ」と椅子を投げつけるシーンは、爽快きわまりない高揚感があるのであった。
引きこもりに似た妹はこんな姉の女優志願の執念をホラーマンガにして認められつつあるのだ。姉からあんたのおかげで演技に集中できなくなったと、妹を責めたれる日々「ごめんね、お姉ちゃん。」と反省はするが、かげで「やっぱお姉ちゃんは、最高に面白いよ。」と姉ちゃんの女優になれない物語をホラーマンガにしつづける。
希望のない田舎町で希望実現だけが命綱の4人の男女の物語であるが、具体的な希望をイメージできなかった長男は自殺とも事故とも知れない火災で焼死してしまう。妹はついに姉題材のマンガでグランプリを獲得、上京の日が来る。嫁は自由になるが、家族は四散する。妹には女優への執念を燃やす姉がくっついて離れない。だれも希望がこれで実現したわけではない。希望はつづく。
だが、この明るさはなんなのだろうか。それは、それぞれの留めようも無い欲望のマグマのような深さとエネルギーの存在感を共感できるからではないか。なぜ彼女らは欲望に走れるのか。それは、自己愛からであろう。まちがっていても、こっけいであっても、自分を信じられる。あるいは自分の弱さや、疎外感などの不安を意識できているのかもしれない。だからそれゆえに必死で自己を愛しつづけ、なにかを実現しようとする。弱い人間であるからこそ、持てるこの自己愛である。「悲しみの愛」とは、こういうことではないかと、ぼくは見終わって思うのである。
ついでに「接吻」と比較してみる。この主人公と主人公に自分との同質性を感じて獄中結婚にいたるヒロイン、主人公が無差別殺人を犯す住宅街のとある家、どれもこれも疑いなく現実である。この種の映画では、ほとんど無駄がなく、じつは観念性もなく描かれているが、結果的には、現実感は消し飛び、現代人の極限的な孤独を感じれれるが、それは心理学の常識的解釈をこえるものでなく、現代社会の複雑な多様性と普遍性はとらえられていない、作者の思い込みでしかないのである。これがうっとうしいのだ。
しかし、吉田大八監督・脚本のこの映画「腑抜けども、悲しみの愛を見せろ」は非現実が、現代社会の普遍性をとらえ、人間の希望を訴えてきて開放感をもたらすのである。
監督の母堂が、高校時代の同級生だった妻に贈ってくださったのだ。映画祭では3作品の映画、うち1品は「接吻」、他に2作品を見た。いつも感じることだが、映画祭という会場になったとたんに臭さがでる。臭さは、この映画に浸れという強制感、これは芸術だという使命感、高踏感、さらに市長挨拶をトップに掲げた回覧板的地域コミュニティ行事感などが匂い立つ。この臭さを感じない人も、匂いを大嫌いな人もいる。
ぼくとしては、実行委員会があつめてきたまあ珍しい映画をみることに興味はあるわけだから、せっせとみるわけだし、それと10年前の何人かの委員たち、その後顔見知りになった委員たちとも、一年ぶりの再会は楽しい気分にさせられる。3本しか見られなかったが、そのうちの「接吻」と「スール」2本は、「鬱陶しい系」の観念映画であった。見終わって、受け止めた観念をどうすべきかという気分のときに、吉田大八監督の「腑抜けども、悲しみの愛を見せろ」というDVDが、手元に来たというわけである。
このタイトルの開放感がいい。どうしようもない怒りがあり、それでもマンガチックでジョークっぽいところがいい。つまり批評性がある。このがつんと存在感のあるタイトルは傑出している。ここにわれありではないか。こんな監督が保守的といわれる鹿児島県から生まれたということに感動する。
この映画は、どうしようもない活気を奪われ、負け犬になり、閉塞感にとらわれ未来の希望がない片田舎の町で、姉と妹、一家の長男である腹違いの兄とその妻の奇妙な人生を描いている。姉は女優に、妹はマンガ家に長男の妻は家族の実現に、兄だけは希望はもてなくて、姉と不倫し、うっせきを妻にむけ暴君となっている。兄を除いて3人の女たちはどんな状況にもめげずに希望の実現に向かって行く。
田舎の風景は、これもマンガチックで、誇張された田舎の一本道や畑、林の風景がこっけいなまで、どんづまりと行き詰まり感をただよわせていて、かえって現実感がありかつ不思議とここちよい風景となっている。この背景なしには、映画の喜劇性は効果を発揮し無かったであろうと思う。懐かしくもおかしな風景である。
そしてつぎに「セリフ」が、マンガの吹き出しのなかの言葉のように簡潔・明快で生き生きとしていて、人物といっしょになって、こっちも喋ってみたくなるのだ。その中でもおもしろいのが女優志願の姉のものである。
「あたしは自分が大好きです。」いいですねえ。そして「あたしは絶対、人とは違う。特別な人間なんだ。」と。「あたしは絶対女優になるのっ!!」と絶叫する和合澄伽22歳。
女優になれそうな美貌と痩身をもちながら、オーディションには採用されず、事務所からは傲慢、無知、才能なしと首を切られ、それでもオーディション面接を受ける。怒りの演技は、怒っているのか、フリをしているのか、どちらかと審査委員に詰問されると、そんなことを考えるひまはないといい、女性審査員がオーディションを受けるならセリフくらい覚えておいでというと、「待ってください。なんか、あたし、あたし意地悪されてます?」とねめつけ、もう結構ですという審査員席にむかって。「ふざけんなっ」と椅子を投げつけるシーンは、爽快きわまりない高揚感があるのであった。
引きこもりに似た妹はこんな姉の女優志願の執念をホラーマンガにして認められつつあるのだ。姉からあんたのおかげで演技に集中できなくなったと、妹を責めたれる日々「ごめんね、お姉ちゃん。」と反省はするが、かげで「やっぱお姉ちゃんは、最高に面白いよ。」と姉ちゃんの女優になれない物語をホラーマンガにしつづける。
希望のない田舎町で希望実現だけが命綱の4人の男女の物語であるが、具体的な希望をイメージできなかった長男は自殺とも事故とも知れない火災で焼死してしまう。妹はついに姉題材のマンガでグランプリを獲得、上京の日が来る。嫁は自由になるが、家族は四散する。妹には女優への執念を燃やす姉がくっついて離れない。だれも希望がこれで実現したわけではない。希望はつづく。
だが、この明るさはなんなのだろうか。それは、それぞれの留めようも無い欲望のマグマのような深さとエネルギーの存在感を共感できるからではないか。なぜ彼女らは欲望に走れるのか。それは、自己愛からであろう。まちがっていても、こっけいであっても、自分を信じられる。あるいは自分の弱さや、疎外感などの不安を意識できているのかもしれない。だからそれゆえに必死で自己を愛しつづけ、なにかを実現しようとする。弱い人間であるからこそ、持てるこの自己愛である。「悲しみの愛」とは、こういうことではないかと、ぼくは見終わって思うのである。
ついでに「接吻」と比較してみる。この主人公と主人公に自分との同質性を感じて獄中結婚にいたるヒロイン、主人公が無差別殺人を犯す住宅街のとある家、どれもこれも疑いなく現実である。この種の映画では、ほとんど無駄がなく、じつは観念性もなく描かれているが、結果的には、現実感は消し飛び、現代人の極限的な孤独を感じれれるが、それは心理学の常識的解釈をこえるものでなく、現代社会の複雑な多様性と普遍性はとらえられていない、作者の思い込みでしかないのである。これがうっとうしいのだ。
しかし、吉田大八監督・脚本のこの映画「腑抜けども、悲しみの愛を見せろ」は非現実が、現代社会の普遍性をとらえ、人間の希望を訴えてきて開放感をもたらすのである。