市街・野 それぞれ草

 802編よりタイトルを「収蔵庫編」から「それぞれ草」に変更。この社会とぼくという仮想の人物の料理した朝食です。

浜の真砂は尽きるとも・・・世に残るもの

2008-07-30 | 文化一般
 毎日新聞の今朝の第一面、右上に5段抜きで、全国教委に教職採用の不正無しとの活字が躍っていた。全国の教育委員会からの回答によるのだが、何処だって、採用に不正ありと回答はしないだろうに。これじゃ、県政の回覧板といわれても仕方がない。

 不正採用も昇進登用も権力を使った、地位のドロボー、人物の産地偽装、品質欺瞞であるが、それにくらべると、船場吉兆で、食い残りをまわされて、ありがたがっていたセレブお客と、吉兆のおもてなしは笑えてしまう。そんな有名につられて高い金払って、食ったやつがアホでしかない。結果は、だれも人生が転落するわけでもないし・・。

 故人となったロシア語通訳、エッセイスト、米原万里の文庫本「魔女の1ダース」のなかの第3章、<言葉の呪縛力>で,福島県の山菜袋詰めの喜劇を書いている。話というのは、知人がそばが好きで、この福島県山採れならではの、購入した山菜入りのそばを料理、家人一同大喜びで大好評だった、ところが、後で残りのビニールをみて、悲鳴を上げた、空豆大の黒々としたかたまり、まがうことなくゴキブリの胴体だったのだ。もはや吐きながら、怒り心頭にはっし、ゆるせぬと袋の電話番号に電話した。

 その顛末が凄い、飛んできた販売会社の社長、作業服の50過ぎの男は、その対応のまさに見事さには、読者も大道芸をみるように面白い、圧倒される。以下、本文から抜書きさせていただく。この展開、読者よどう判断されるか。

 「イヤー、奥さん!悪かったねえ。いやだったろうねえ。気持ち悪かったろうねえ。」
 「だどもねえ、奥さん。無理もないのよ。あの山菜はねえ、中国からドラム缶詰めで来るの。・・・ベルトコンベアにドラム缶の中のものを開けて、まず、その上を何度も強力な磁石を走らせるの。なぜだかわかるかね。」

 ・・・・・・・
 
 「釘やら、ブリキの端っきれやら、錆びた工具やら、いろんな鉄クズが山ほど吸い寄せられて出てくるのよ。つぎに強力な扇風機を当てるの。なでだかわかるかね。」

 「したらば、奥さん、出てくるわ、出てくるわ!髪の毛とか、藁とか・・・」

 「次がパートのおばちゃんたちの出番。おばちゃんたちの目と手先で、選り分けていくのね。ここでまた出てくるのよ、ピラピラしたのとか、ヌルヌルしたのかとか、色々。ゴキブリなんていいほうだよ、奥さん。ヌルヌルしたのなんか、イヤでしょ!」
 
 「だからして、ゴキブリ入ってくるっなんて無理ないのよ。許してね。・・」
 
  ・・・・・ 
  (筆者註・このセリフのなんと素晴らしいこと、まるで、良質のアングラ芝居を視聴するごとしではないか。しかもこれ12年前の実話らしいのだ、12年前すでに産地偽装はあったのだ!)

 そして、その奥さんは、この耳を疑いたくなるような話の展開に好奇心いっぱいで聞き入り、いつのまにか怒りも忘れ去り、あっというまに代わりの袋をもらって、男は風のようにさって行った。あとで、気がつくと、山菜の「販売元」が福島県で「産地」ではなかった。福島は山国、なら山菜との連想、この偏見に満ちた、
東京人のイマジネーション、その言葉の呪縛にわれを失ったのである。

 全国教育委員会の教職採用に不正なしとは、回答用紙に回答されたことであるのだが、そうおもえた読者がどれほどいたのだろうか。だから、新聞を読んで、信じてはいけないと思うのだ・。まあ、出来れば読まないこと、これしかない。


 
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メタ犯罪

2008-07-20 | 文化一般
 ここで、メタとは超という意味であるが、それ以上になにか犯罪を変態(メタモルホーズ)させたもの、もはや犯罪とはくくられぬ超犯罪と解釈していただきたい。

 大分県教委の教職採用、委員会での昇進にともなう贈収賄の犯罪は、メタ犯罪と名づけてみた。ぼくはそこに「ムラ」の慣習があると言ったが、メディアでは毎日新聞のコラムで、御茶ノ水大の教育社会学の耳塚寛明教授が、「教育村が存在」した教委の犯罪と述べていた。ただ、教育村の内容の記述はない。新聞各紙、テレビ報道などで「村」を問題にした唯一の言及だったので、印象に残っている。

 「教育村」的シーンで、ぼくはさきのA退官名誉教授の自伝的回想を紹介した。ここには村の特性が、きわめてリアルに、著者の意図と関係なく、現れている。有力者を中心にあつまる祝宴、床の間を背にして悠然として杯をうける上司、かいがいしく酒宴をささげる「武士の妻」の慰撫が語られている。

 この情景からぼくらは、有力者の縁を見出して「ムラビト」として集まった県庁、教委職員が、かの有力者、つまりは権威をうたがいようのない人格であり、また道徳の規範として自分の内面に取り組んでいる心理をうかがい知りうる。そこでは、権力のアイコンが確認され、そのアイコンをクリックすることで、この集団の行動がスタートする。ここにあるのは、個人という現代社会の独立した人格であるまえに有力者、権力を核としたオペレーション起動ソフトである。

 しかし、この上下関係、非人格的関係を忘れるために、有力者は、やがて「正さん」とか「正ちゃん」とかと、名前でよばれるようになる。また酒宴は、相互の開放感を可能にし、擬似自由空間を共有させる。さらにその平等感は、贈与、返礼という相互報酬の交換で支えられていく。

 したがって、そこにあるのは、外面的には、礼儀正しい、人格の認証であり、ここにモラルが発生し、美しさが発生する。ここには、乱れきった人間社会の低俗さがない、すべては秩序たち、それぞれが位置を決められ、それぞれが権力の階段を上っていくというステップが展望される。かくして、それは内面化される。

 やがて、外面という建前は消え、自分の美徳として自覚されだしてくる。そして、贈与は、日常の儀礼的贈与と本質的にかわらぬ「村」の慣習と意識され、また
このその相互報酬は、掟として位置づけられてくる。この一部の報酬が、近代法からみれば犯罪であるが、しかし、それは、通常の犯罪の粋を超えて、われわれの内面に組み込まれている村の美の、モラルの行動にすぎない。ここにメタ犯罪が発生しているのだ。

 この構造は、近代化が残している我が社会の遺伝の発揚であり、これがすぐに
教委内だけ消滅するはずはない。

 こういう「村」に参加できるものは誰なのか、どういう資質が、その村を形成しうるのか、その比率はかなりのものなのか、希少なのか、その実態は統計でしめされているわけではない。しかし、われわれは、だれしも経験則でその存在を感知できている。

 さて、では自分自身は、村型か、自分型が、判断をしなければならない。もし、自分型が、無理して、権力欲に向かい、村人に安易に加わったら、その人格は、スキゾフラニーの心身の分裂に見舞われて崩壊する。私は、この例をかなり見てきている。

 若者や、その両親にそのことを、警告したい。ベクトルの方向とは、その意味である。






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ベクトル再考

2008-07-18 | Weblog
 昨日の投稿「教職ベクトル」のベクトルがわかりにくいという指摘があったので
説明をしたい。この概念は、今年の4月にこの市街・野「ベクトルの方向 2008-04-18 22:45:08 」で、以下のように述べた。

  力の向かう方向と、その量を示す矢印、それはベクトルと習ったことを思い出していただきたい。・・・ 方向は360°に向いているのだが、実生活では、矢印は一方方向しかない。正規社員になりたいというベクトルだけあり、正規社員になりたくないとうベクトルは無視される。

 ・・宮崎市には校長会館、教頭会館というのがある。・・・・教頭にも、ましてや校長になるなど、「とんでもない」とうベクトルは無いと信じられている。
 
 この逆方向のベクトルは、確実にあるのだ。ただ希少で目に付かないだけだーー

 
 あれから3ヶ月後、大分県教育委員会、ぼくには、蛙の棲む池の比ゆでしか考えようが無い魅力のない機構なのだが、その池の中で、校長、参議、課長、審議官などと、うごめいていた蛙たち。権力を求めて、顫動し、ナキワメく。いや、蛙に申し訳ない、蛙の美しさなどなにもないのだ。テレビに放映されるあの悪相、品格もなく、知性もなく、感性もない、いやしい顔、顔、顔の行列だ。顔をみたとたんに、逃げ出したくならなかったのだろうか。そんな連中が、顔をつきあわせ、毎日、犯罪的仕事を友情と勘違いしてやりつづけるとは、こんなベクトルが、現実に存在していたのだ。
 
 これと逆方向のベクトルを自分に課して、そのためのエネルギーを自分に集中していく、そして、人生の何十年の蓄積を想像すべきであろう。

 後期高齢期は想像以上に早く、自分の人生に到来する。死神も戸口に迎えにやってくる。そのとき、権力、地位、金を死神に差し出して泣き喚いてもね、駄目だ。

 西洋の諺で、人は生まれてくるとき、周りはみんな笑って祝福し、自分は泣きながらこの人生に生まれる。そして死ぬときに、周りからはみんな泣いて惜しまれ、自分は笑って死にたい、そんな人生が最高というのだそうな。

 死ぬとき、みんなが、笑い、本人だけが、泣きながら死ぬのではたまらない。これは死でなく、地獄への誕生ではないか。

 ベクトルの方向は、それぞれ考えに考えて、後期高齢期に焦点をあわせなければならないと思う。つまり人間の価値とはなにかを思考続ける他にベクトルは存在しえないのではなかろうか、とさへ思えるほど重要な命題であろう。





  
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教職のベクトル

2008-07-16 | 文化一般
 大分県教委の教員採用の不正が暴かれ、連日報道されつづけている。それが始まった直後に、宮崎日日新聞は、宮崎県教職採用に情実採用の不正はなしと、報じられていた。それを読んで、多くの県民はおかしいと思ったはずだ。そしてまた多くの県民が、宮崎県にはそんな不正はないと信じたと思う。緑と太陽の国とか、神話の国とか、わが郷土は特別と思い込む、思い込まされがちだからである。

 宮崎県だけ特別な太陽が、ふりそそぎ、緑濃く樹木が生育しているわけでないように、わが国の教委の構造と慣習が、宮崎県だけ、ここだけ特別であるはずは無いのである。当然、不正採用は生じたはずと、推測するのが、頭をはたらかせる人の意識であろうといわざるをえない。

 つい数日まえ、ある退官教授が、新聞に連載している自伝的回顧録の3日分を読んでみてと、手渡されたことがあった。ぼくはこの手のものはまったく読書の圏外なのだが、話のつぎほに速読してみて、おどろいた。今は名誉教授となった昭和30年代のかれの新卒時代、その宮崎県教育委員会時代の思い出の一節であったが、そこにあるのは、なんというか、教委や県庁にある村社会の生き生きした実態であった。血縁、学校の先輩・後輩、委員会、県庁の部局の上司と下部とのつながりが生活を彩っていたのである。正月、上司を慕って30人以上の同郷、同窓、同期などのつながりで、集まり、上司を仰ぐ酒宴のさまなどが、映画のシーンのようにぼくには映ったのであった。

 そこにあるのは、欧米の個人を中核にした近代的社会であるより「村社会」の風景である。論理より温情、上下の人間的つながりが人生をなしているのだ。そうした「暖かさ」の楽園で、親分が子分の面倒を見るのは当然であり、こどもをどうぞ
よろしくと頼まれ面倒をみてやるというのは、犯罪意識というより当然の義務として意識されてしまう慣習もあったのであろう。つまり近代化の超克はまだ終らず、
これは、文学、美術の主題としても日本人の文化をとらえつづける問題であろう。

 考えてみると、その親分的上司の心象は、すぐ想像がつく。何十倍の競争率で合格した40名余の合格者の何名かを落として、部下のこどもを押し込んだその報酬。
 
 報酬が、100万円!教員の一回分のボーナス程度で済むとは、安すぎる!!
私立の医大入学で押し込んでもらうだけで、何千万円とかかるのに比べて100万円で済むとは、これはわいろの範疇を逸脱している、そうではないだろうか。

 そして、100万円で人生を狂わされた若者たちがいる。これが温情主義の結果である。命がけで何千万円はらった両親のほうが、まだ許せるのでないだろうか。

 しかし、もはや後期高齢者にさしかかった、かれらの人生は、まさにあわれそのものであろう。なにがわが人生で残ったのか。まさに神はてんもうかいかいそにしてもらさずではないだろうか。そこでいいたい、教職員諸君、これから志望する、わかもの、その両親、兄弟姉妹、その当人よ、見事に教職の座をつかんだ日からベクトルを再考せよと。人生はもっと愉快に楽しくやろうじゃありませんかと、願うのである。



 
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映画とは何 宮崎映画祭最終日

2008-07-13 | 映画
 どうも宮崎映画祭、魅力が薄くなってきた。映画の本質とは、離れてきているようなきがしてならない。

 映画は魔術、呪縛、秘密、悪場所、個人の密かなみだらな楽しみでもあるといえないか。それゆえに慰められ、快楽を与えられ、生きる喜びを得られる。そのための暗がりが、保障されている。明るい場所に、映画は耐えられない。

 しかし、宮崎映画祭は、映画を明るい場所に置いて、社会問題と関連づけようとしている。憲法9条、平和、環境問題、障害者支援、癌などなどと、そして明るみで今、見た映画とぼくが、関連づけられる。つまり社会教育をほどこされる。今回は癌に生きるということだった。「私はいかされています。1日、1日が今はなんど大切な時間でありましょうか・・・」何十回耳にした、言葉をまた聞かされる。
映画がそういう自覚に落ち着くとは、ぼくには信じられないことなのである。

 映画はかぎりなく、秘境性をもち、その環境につつまれることで、私はいまを
再確認する。その深さは、かんたんに言葉で強制される性質のものではない。

 映画はオタクの関心が要求される。そののめりこみ、その探求の限りなさで、
映画は価値を発見されてくるのだ。映画祭は、こういう探りから選ばれてくる映画で、ひとびとを楽しませなければならない。社会教育でありうるはずは無いのだ。
プログラムの冒頭に津村宮崎市長の写真とあいさつ文が掲載されるようになったのは、いつからだったろうか。なぜ、彼の挨拶と写真が必要なのだろうか。

 どうも、宮崎映画祭は、もう宮崎総踊りの宮崎市行事や、フラワーショーの県行事の祭りと本質的に変わらぬものになってきてしまった。

 映画はくらがりで見るもの、このことをもう一度かんがえてみる必要がありはしないだろうか。

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スカーレット ヨハンセン 宮崎映画祭2

2008-07-12 | 映画
 
MUSIC MAGAZINE 8月号にスカーレット ヨハンセンが音楽CDをリリースしたとして、5ページほどの紹介記事を掲載していた。他の一誌にも全身のポートレイと写真を載せた紹介記事があった。彼女はよほどハリウッド女優として有名になっていたのだなと驚いた。さらにショックだったのは、今はセックスシンボルとして注目をあつめる女優ということであった。

 どうかんがえても、彼女とセックス・シンボルが結びつかないのだ。だんだん思いをめぐらしていくうちに、セクシャルというイメージが、アメリカでは日本とは根本から違うのだということに気づかされている。

 宮崎映画祭で、彼女の「野良猫の日記」が上映されたのは、1996年、彼女は12歳のときであった。妊娠を隠して、妹を連れて面白くない家を家出、万引き、窃盗で放浪しながら、看護師を誘拐、無事出産を果たすという強烈な10代の少女を演じた。独立自尊、目端の利いた行動力と強烈な少女を演じていた。どこか、彼女自身の性格をも反映しているようにも感じられた。

 今回の上映作品ウッディ アレン監督の「タロットカード殺人事件」のヒロインにも彼女の世間離れしたキャラクターを感じるのであった。

 どうも彼女にとってはセクシャルというのは、肉体であるまえに、キャラクターであり、その知性で、男たちを開放することであるようだ。その容姿はブロンドのグラマーであるが、フィットネスで鍛えられた体でなく自然にふっくらした姿態である。だからずんぐりむっくり野暮ったい普段着とパーティのおしゃれとの落差が面白い。庶民とセレブが同居し、どちらも彼女である。そんなことはどうでもいいような自然派的な意識があるのだ。いはば、DIYライフスタイルである。
 
 そのキャラクターは、自己を恃む、機敏な知性を感じさせるのだ。歌手として歌った曲がトムウエイツのカバーというのも、並の23歳の女性ではなさそうだ。ジム ジャーミっシュ監督の「ダウン・バイ・ロー」で主演した俳優・歌手の曲のどこに魅惑されたのだろうか。しぇがれ声の酔っ払ったようなあの60歳をまじかにしたウエイツに共感するとは、知性なしにはありえない。そういえば野良猫の日記のリサ・クルガー監督は、ジム・ジャームッシュの助監督を務めたこともある女性だった。

 日本では、セクシャルともてはやされるのは、エロい乳房と尻だけでセクシュアルとして消費化された女優、タレント、テレビ女子アナたちであろうか。彼女らはと週刊紙の素材品とされている。その商品化にも気づかないほど知性がない。だからセクシュアルになれるのだ。だが、さすがにハリウッドでのセクシャル・シンボルとはもっと深い存在なわけだ。もちろん、ここも消費経済の商品化されるのであるが、スカーレット・ヨハンセンは、彼女らしい自然派、自分本位のライフスタイルを貫いていくだろう。このDIYの自分らしさと映画産業の女優としての自分とをどう平行させていくのか、これはきわめて興味を引かれだした。

 自分自身であることの愉快さがある。そして、映画から感じられるのは、スカーレットはセックスをモーニングコーヒのように扱う。それはコーヒーであり、自分を縛るものではありえないという、反フロイドの性的存在を示して興味深い。演歌や、多くのJポップの女性歌手には望むべくも無い個性である。ここに開放感を覚える。















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 いのちのたべかた 宮崎映画祭

2008-07-09 | 映画
 映画祭で「いのちのたべかた」を最初に見た。

 この映画は世界中の映画祭で大反響を呼んだとあるが、なぜなのかぼくにはわからない。

 ぼくにとっては、まさに見るに耐えない不愉快きわまる映像衝撃が、ぼくの内面をぐるぐるにこねくり回して、途中で出てしまいたい映画でしかなかった。

 以前、牛、養鶏などの処理工場は、市内の中にもあった。ぶら下がって流れる死骸、殺される牛の姿、などなどはかんたんに目に出来た。これは胸を塞ぐ光景、その衝撃的光景は、すぐ絵になると思えた。映像並べれて流せば、それで人々を圧倒できる映画がすぐできると思えた。あれらの記憶はまもなく忘れてしまった。

 それを見たのだ。で、これでなにが分かるのだというのが、ぼくの問いである。
鶏、牛、豚、意識ある動物を効率的に肉にしていく残酷さが、分かるのだが、それでどうする?捕鯨を阻止するように工場にペンキでも撒くのか。

 どうしようもないという事実だけに観客を追い込んでしまう、サディズム的な映像だけが流れていく。チューインガムを噛みながら、巨大な挟みで前足を切断している若い女性、牛の頭に電気ショックをひたすら与え、気絶した牛を面倒くさそうに吊り上げ、電動鋸で縦割りする流れ作業ラインの男たち。で、彼らを見て、その
評価はどうなんだろう。もし、その労働者にこどもがいたら、学校ではいじめの対象になるだろう。残酷、非道の人間としか映像は語らないからである。

 つまり映像は、事実さへ伝えていない。事実を加工して流しているのだ。この映像のある意味の力を、ぼくはサド的だというのだ。

 映画であるならば、メッセージと批評意識=主題を伝えるなら、もっと根底にあるものを伝えてこそ、ぼくらに考察と行動の契機を与えてくれるのである。

 なぜ、このような食肉工場が、ドイツの農村にあるのか。労働者の日常と、この労働はどんな関係にあるのか。この工場を経営する資本家の意識はなんなのか。食料の生産にこの大量生産は、どんな必然性があるのか、これらすべてを捉えて示さない限り、これは憎悪感だけを生み出すしかない。その意味でさディステックであり、抵抗の方法もないということで、観客は、しだいにマゾヒズムに追い込まれる映画である。

 このようにぼくらを追い詰め、抵抗を奪うことで、あとに屈辱感だけが残る。それがぼくに耐え難い不快感を与え続けたのだ。

 折からサミット、食料問題が重要な課題になっているというのに、各国首相、アフリカ諸国の首相への...ディナーが、どれほどすばらしい贅沢な材料と調理をへているかと、あきずにながしつづけるNHKの、あいかわらず事大主義のアホぶりが不快感を増大した。食料危機などどこ吹く風である。

 「いのちをたべる」も事大主義の非現実的なものである。もっと哲学と美を映画は盛り込むべきではないのか。それが現実を真に捉えうるのではないのだろうか。
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七転び

2008-07-05 | 生き方
 八起きということを書きたいのではない。転んでもラッキーだったという話だ。
70歳を過ぎて、このような事故に会いだしたことを書いてみたい。

 直近の転びは、昨日の猛暑の午後、ギャラリーの東の窓を覆っていた布織物をはずそうとしてだった。ローラーつきの肘掛椅子にのり、壁に布を止めてあるぴんを抜こうと焦っていた。あと5センチ足りぬ。背伸びするたびにぐらぐらと動く、危険だと思いつつも、やめなかったので、ズイット椅子が動き、そのままコンクリート床にむけて倒れこんだ。そばのパイプ椅子で、むねを打ったが、打撃は弱まって、右ひじから手首まで紫色になっただけで終った。

 次はその一年前、バイパスに乗ろうとして、交通の止切れを待っていた乗用車にひきたおされた。ドライバーは右側から迫ってくる自動車の流れだけを注視していて、左がわからやってくる自転車などに気がつかない。いつものように、こちらも停車して、ドライバーを気づかせて前をよぎろうとしたとき、なぜか、ぐいと発進されて、自転車ごと引き倒された。スピードが無かったので、打ち身で終った。
自転車は修繕が必要だった。
 
 同じく交通事故。その一年前、雨のふる夕方、スーバーくらし館」から、道路を過って反対車道に行こうとした瞬間、単車がつっこん出来た。単車は自転車を巻き込み、7,8メートル先で、単車と黒いヘルメットの男は死んだように倒れていた。ぼくは、なぜか車道に転げていた。やがて男は立ち上がり、ぼくも怪我は感じなかったので大丈夫かと声をかけた。彼は起きて単車で去っていき、ほっとした。さて、ぼくは帰ろうとして自転車がすすまない。重たい、引きずるようにしてやっと家にたどり着いたが、自転車そもののが、車輪があめのように支柱ともに曲がっていたのだ。足が悪かったのではなかったのかと、おおいに安心できた。

 次は、イオンに行こうとして、バイパスをはしっていると、携帯が鳴り、手にとって調べていたら、幅一メートルほどの付属脇路にそれて、そのまま下の田んぼに転落した。転落寸前に気がつき、ハンドルをもって水平に落ちたため、反動で飛ばされたが、怪我も泣く、痛みがあっただけで、恥ずかしかっただけであった。

 この転倒は不注意だったが、注意したために起きたのが、この事故だ。鉄道高架にそった道路を走って家路についていた。暗い、道路で、高架を過る自動車道の十字路をまっすぐに横断し、向こうに渡ろうとして、左右に車のないのを確認急いで横切った、その瞬間、激しい衝撃でぶっ飛ばされた。高さ15センチほどの歩道があったのだ。街頭の下にこの高架沿いの道は向こうまでつづくと信じていたのに、そこでぶっきれていたのである。幸い痛かっただけで済んだのだが。
 
 この転倒の後、一年ほどして公園道路というのの入り口で、人口せせらぎという水路に沿って道はつづき、そのまま走っていると、自転が半メートルほど空中にとびあがり、またのつけねが焼けどしたような激痛が走った。花壇が設けられていてそのふちに激突したのだ。道をよぎって花壇とは想像を絶するデザインだ。ここでも怪我はなかったが、痛くて、足を引きずって帰ったが、前かごに入っていた手提げかばんを失ったを気がつかなかった。あとで派出所から連絡があり、手元にかえってきたのではあった。

 7度目は、開通した青島バイパスを自転車で走っての帰途であった。このバイパスから一般道に出るために、付属の通路に入ったのだ。疲れだしたせいか、景色よりも下を見ていた。疲れてくると、ハンドルに上半身をかけて休憩するので、視線は下に落ちる。これで、助かったのだ。突然、道が階段に変わっていたのだ。そのまま、周辺の景観に見とれて、天下を取ったような気分で走っていたら、確実に、全身打撲、ショック死、複雑骨折、長期の療養、重篤の障害を負ったはずである。

 最後の3事故は、すべて都市デザインの、デザインの、デザインのための、デザインナーの傲慢による事故であったといえる。こんな都市計画をやっているやつらからころされてはたまらぬわけである。津村市長は絶対に再選させない。落としたい。

 さて、このようの事故は、一年に一度のわりで起きている。確率論的に言えば、これからもそういうことであろう。これに会わぬためには、自転車を止めるしかないのだが、そうはいかない。やめたいとは思わない。

 やるべきことは、二つある。保険を続けること、寝たきりになっても楽しくすごせる手段を発見し、そうなったら、そうで、楽しめる方法を確立することである。幸いその方法は発見した。それともう一つ、いつもたいした怪我はしないが、多分、ぼくの唯一の規則的運動、ストレッチの成果と思う。暇があるとやっている。たいくつしのぎと肩と目のこりをほぐすために、なにが幸いしているのか人生の妙であろうと思う。
 
 
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コンセプト

2008-07-03 | 街シーン
霧島連山が遠望できる喫茶「イーチャフェ」が6月末で閉店となった。宮崎市霧島町2丁目バス停まえの「くろき製茶霧島店」の2階に設けらたカフェであった。
 
 室内はいつもファッション雑誌のグラビアのように瀟洒な感じで、調度品は適切で、いついっても今飾られたように磨きあげられていた。現代アートの版画が階下と階上にビュッフェともう一点飾られていた。ボーズからは、ゆったりした音楽が流れて、3人のウエイトレスの動きともよく調和して、室内を贅沢な豪奢な雰囲気にしていた。そして安かった。250円から300円でケーキをそえた急須でのお茶を楽しめるのだった。

 イーチャフェには、宮崎市には珍しいコンセプトが感じられた。お茶の素晴らしさを広めたいというコンセプトである。経営的にはもっと無駄をはぶけるのではないかとか、思うのだったが。お茶のもつ贅沢さを体感させる情熱のような経営者の理念を感じるのだった。

 べつに経営が行き詰まっての休業ではないと思える。閉店でなく休業というところに意味がある。新しいコンセプトができたら、また再開されるのかもしれない。

 いつまでもだらだらとつづけるよりも、ましだろう。いや、いつもまにか、始めのコンセプトもなにも喪失、失念し、わけのわからぬものに変質し、その変質にもきづくこともなく、ただ、行政の援助や、メディアのマンネリズムの開催記事などで、つづけるボケ状態よりもはるかに有意義な閉店であったとおもうのだ。それにしてもいいものは消え、つまらぬものはいつまでも消えない。その結果、どこからもコンセプトが聞こえてこない。これが、宮崎市の今であろうか。

 以上を、東京の知人の妹からの宮崎市はどんなところでしょうかという手紙の返書に回答した内容である。

 


 
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