市街・野 それぞれ草

 802編よりタイトルを「収蔵庫編」から「それぞれ草」に変更。この社会とぼくという仮想の人物の料理した朝食です。

無関心という関心

2015-02-28 | Weblog
 
 吐き気のする少年犯罪がまた起きた。高校生のグループが、一人の中学生をなぶり殺したのだ。グループのリーダと、その支配下の二人の高校生が、その14歳の少年にそれまで、日常で、執拗な暴力をくりかえしてきた。それもリーダーの万引きせよという命令を断ったといったようなことである。右目がつぶれるほどに紫に晴れ上がった顔の少年の写真もテレビに現れた。登校拒否は、リーダーの命令によっていた。ついに少年はグループを抜けるという決意を告げて、3人の高校生のリンチによって絶命した。近所の川べりで、数十箇所の暴行のあとを残したまま、首をナイフで刺され、素裸で、岸辺の草むらの放置されたままであった。その嗜虐性はイズラム国をまねた様子もあったと述べるものもある。
 
 この殺人は、高校生らに人を殺すという意識がまったくかんじられないという一点で、まさにテレビ的である。そこにあるのは、映像というシーンだ。深夜午前2時、高層マンションに近い川岸で、執拗に14歳の少年の体にナイフを刺しつづけた少年たちには、テレビの一こまか、ゲームかの感覚しかなかったと思える。

 こういう高校生たちを生み出したのは、彼ら自身の非人間性、素質、学校教育、家庭環境があるわけであろうが、今回とくに痛感せざるをえないのは、殺されるにいたった中学生の切羽詰った日々に学校も家族も、だれも無関心であったという一点である。右目のまわりが、赤黒くなるほど変形していたのを、だれも理由を追求しない。登校拒否が始まったのも、少年の日ごろの生活からはありえないと、だれも気づかなかったのか。その他、学校生活の毎日で、だれも異変を、とくに教師がき気づかなかったことだ。

 つまり、ここで、理由を知りえたならば、少年をグループから引き離すことも、守ることも可能であったはずである。だが、だれもが、理由をしらなかった。ここで、かんがえてみよう。一つの兆候がある。それが兆候に見えるには、まずなぜという疑問がなければならない。つまり関心がなければならない。なぜか、そんな関心は、少年にまったく注がれてなかったということである。つまり他人のことなど、知らないという無関心が、当たり前のこととしてあるということである。

 しかし、その意識はほんとうに無関心からであったのか。おそらく、なにか変ときづいても、そのことに関心をもつことをしない。関心はあれど、無関心のままであるとくいう意識が、常にわれわれにあるということを、改めて思い出すのである。とくに中学、高校に姉弟を置く両親たちは、教育課程に口を挟まない。おかしいと思いながら、無関心を装いながら、だまったままで卒業日を迎える。この無関心という関心こそ、忘れえない苦い経験、行為の体験として、ほとんどの日本人は記憶している。そして、こんどは、一般社会でも、この無関心という関心を、やらざるをえないし、やってきたし、今もやっている。この臆病さ、卑劣さを、グループの高校生たちは、見抜き、やりたい放題の反社会的行動を繰り返してきたのが、他方の現実である。かれらにとっては、この卑劣な空気のような社会が、かれら自身を幻想的な立場に落としこむ
空ろとして、内面に巣をつくっていたに違いない。かれらにとって、現実は無いのだ。すべては無関心でしかなくなったのだ。

 逮捕されたリーダーの少年は、殺人はやってないとこたえているという。後の二人もやってないといったそうだ。自分の意識のうつろさを見事にさらけだしているではないか。おそるべきは、無関心という関心では大人たちもたいしてかわらぬ構造をもっていることである。テレビのコメンテータもまた然りである。
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軍歌とスローガン

2015-02-26 | Weblog
軍歌の本質は、洗脳であり、そのためにスローガンを歌うことに尽きよう。今朝もテレビの朝のドラマ「まっさん」から中島みゆきの軍歌が流れてきだした。なぜそれが軍歌に聞こえてくるのか、つまりスローガンの機械的かつ無神経の繰り返しであるからである。

 まっさんは、ドラマとしては見飽きないし、おもしろいし、その意図に反して、日本人批判になっているからである。個人の尊厳、自由つまり民主主義の力を、エリーの役柄が、本人も意識せずに、つたえてくるからである。そこで、学ぶべきは、なんといっても、個人がしっかりしなくては、どうしようもないことである。しかし流れてくるのは、国の賛美のくりかえしである。それがどこの国とは、はっきりしない。まさにあいまいもことしているのが、このイメージ性だけは中島みゆき風ではなる。国、国、国である。

 スコットランドのようにも感じられるし、また日本のようにも受け取れる。はっきりしたらどうなんだと、いらだってもくる。美しい国、育った国、愛する人の国などと国がさしだされ、それはそれでいいだろうと思う。だが、いったいそれがどうしたと不愉快になる。

 ところで、その同じ朝に、殺人事件が、日本のあちこちの市でおきたの知らされる。毎週、とんでもない常識をはるかに越えた殺人事件である。女性、年寄り、幼児、小、中学生などが、殺したい欲望によって嗜虐的に殺される。殺すのに抵抗されないで、容易く殺すことの可能な対象が、恣意的に選ばれて殺される。理由は殺人者本位である。なぜ、このような殺人が、毎週のように、心理的には三日置きに起きているのか。人を殺したくなるほどのストレスを、この国の社会が発生させているからである。それ以外にさしたる理由は考えられない。つまり今日の国のもつ歪みが、殺人者を生み出している。この現実を痛感させられる朝ごとに、美しい国、育った国、愛する人の国などと、歌われる、なにも国を否定するわけではないが、これほど能天気に国を歌い上げる前に、この国で生き、育つ人間について、何が今、一番必要なことなのかに、思いがいくならば、それは考えることであり、哲学であろう。まずは人である。あほになったのか、君は、ぼくはそういいたいのだ、中島みゆきの昔の歌を思いながら・・・
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料理三ツ星 ただし宮崎市

2015-02-21 | 街シーン
ミシュランの星つき、和食やすし店が、宮崎市にはないので、幸いである。あったとしたら、驚きだが、あくまでも、無いのがいいのである。

 東京都内で、ミシュランの三ツ星がついたという寿司屋で、来客の長い列が、毎日つづいているというテレビ放映をみた。この三ツ星のかわりに、口コミでいいと評価されたものが、スマホで流れて、われもわれもその店が、押しかける現象は、宮崎市でもあるようである。

 そんな星やら、個人の書き込みに頼って、和食や寿司屋や、レストラン、カフェ、居酒屋、エスニック料理店などと、満足できるとは情けない話である。

 料理が自分にとってどれが一番(星の数、口コミ数)という判定は、ほとんど役に立たないことを、どうしてわからないのかが、不思議でさえある。料理が自分にとって美味いということは、数量化されるものではないからである。ミシュランの星なんかは、皿の上の料理品だけで判定するそうだが、いつどんな情況で、どんな店のもてなしや雰囲気で食べるのかが、満足度にかかわってくる。それにしても、レストランに入って皿の上の料理だけに注意が向くというのは、判定人という可笑しな存在の感覚にしかないのではなかろうか。

 ぼくなんかは、料理というのは、この店に明日にも来るか。また近いうちに来るか、もう来ないかで極める。これが案外有効なのである。そしてなにより、こういう店を自分で探すという行為そのものが至福の快楽にもなりうるのである。自分だけの口にあう、自分のためだけにあるような店を、なんとしてでも自分の足とお金でさがしだすこと、これが、わが三ツ星である。

 2015年の今年、二つでけそのような店がみつかった。
これこそ宝ものである。

 それと、宮崎市のような街で、ミシュランや口コミで一つも店に市民が大挙して押しかけるような大衆性は全体の店の発展に大きな障害になる。目につかぬいい店が経営不振で閉店においこまれるからである。大衆化された愚行にならずに街の発展に意を注いで行くべきであろうかと思う。
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NHK朝ドラ「まっさん」の主題歌

2015-02-14 | メディア批判
まっさんは、中島みゆきの作詞・作曲を彼女が歌う主題歌で始まる。ぼくにはそれが軍歌に聞こえてならないのだ。毎朝軍歌とともに出勤しているようだ。生まれた国、育った国、美しい国でわたしたちは麦となるというのだから、お国のために世界市場に出せるウィスキーをつくるというようにしか解釈できない歌詞が、力んだ歌い方で流れてくる。これはドラマのまっさんにはそぐわない。
 
 元気のない国から元気に溢れる国となって、みんな元気をだそうではないかというのだから、そういう意味では、この麦の歌なる主題歌は一致しているともいえる。

 しかし、まっさんの主題は、エリーの助言・考え方・行為によって、まっさんは危機を乗り越え、乗り越えしながら、国産ウィスキーの製品化へと至りつつある。でそのスコットランドから日本へ来た嫁のエリーのかいがいしい嫁ぶり、夫への愛情、二人の夫婦愛が、家族愛として語られる。ここが、問題なのだ。たしかに愛情が描かれているのだが、まっさんがどん底に陥るたびに解決のヒントにきづき、立ちあがってこれたのは、エリーの愛情だけではなくてエリーの具体的な考えや意識、行為がまっさんの危機を乗り越えさせているのだ。

 エリーはなにをまっさんにあたえることが可能だったのかを、注意してみると、それは愛情だけではないのだ。その根源にあるものは、危機にあって彼女自身をも動かしてくるのは、西欧の近代化が生み出した、市民的自由・独立である。その価値感が、困難を克服させる意識と行為をうみだしている。自由・独立の個人としての勇気、だれにでも通用する普遍的な合理性をまっさんに自覚させるのだ。つまり、ムラから都市へという近代化の道を、彼女は、いつも示しているのだ。愛情も日本人との付き合いも、無為意識に行為するこの近代化されたエリーの姿がきわだって美しい。

 ドラマは大正時代の話だからというわけではなく、現在ただ今こそ、エリーの近代化は、視聴者の胸にせまってくるようだ。おそらく半分くらいの日本人は、現在でも会社と家族でしか世界はないのではないか。その全体のなかで安住しているばかり。個人であるまえに場の空気に調子をあわせるものをいわぬ人間、つまりものをかんがえられない人間なのではないか。会社も安定せず、
家族も崩壊してしまい、何を頼りにしていいかわからぬものは、ムラもなく、国家に頼る幻想に陥る。つまり全体主義の中に意識を溶かしていく。おそらくまっさんのドラマは、国の賞賛を狙ったのかもしれないが、不思議なことにエリーをリアルに描こうとして、遅れた日本の近代化の問題があぶりだされているのが面白い。

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015年2月の宮崎市街

2015-02-07 | 宮崎市街
自転車で街をうろうろと走り回っていると、熟知してい街路や道路が取り壊されて、市街風景が一変してしまっていることに出会う。そうなってから、しまった、前の風景を撮影しておくのだったと悔やむのであった。そう思いながら、前もって撮影しないのだ。理由はかんたん、まさかこうなるとは思えなかったからである。街路や道路は自分の暮らしのように、これからもずーっとそのままつづくと思うからである。道路を利用するものの習慣である。おそらく英国やフランスの街なら、道路は何百年の不変のまま、暮らしのなかに存在しつつけるであろう。日本の都市は、とくに宮崎市街は変わりまくる。なんといっても歴史が浅い。街として市街が整ったのが、明治20年前後、戦前までの街が、現在の街路風景をもちだしたのは昭和40年以後だから、ようやく50年の市街形成の歴史しかないのである。だからまだ成長期といえばいえないことはない。地質年代で言えば地殻変動でヒマラヤ山脈がもりあがるころ(紀元前2億年)にあたるのである。
 
 2015年今年正月に見たのは、このブログにも投稿したと思うけど、宮崎駅の東にまだ健在に残っている旧住宅街のなかの1キロに及ぶ裏路地が、一本の直線道路に改修された風景である。大町の高宮病院の正面玄関から曽師町の南涯までの新道路が出来つつある。ここは以前は、不思議な路地で、自転車一台やっとの草ぼうぼうの通りや、なぜか木枠が横切り、両脇の家屋で視界がさえぎられ、進む方向もわからなくなり高宮病院の脇からさらに降りがあったり、ビルの壁に突きあたったりと、2キロほどつづき大通にでる裏通りであった。それガ今は、両脇に並木でも植えられそうな新道でぴかぴか光っていた。自動車ではしれば、一分で過ぎ去る風景となってしまっている。

 もう一つは、宮崎駅東口の正面から宮脇町に至り、貞蔵道路を越えて道は狭くなり、すぐに墓地になってここから、先の裏路地の道路に至る路地裏があった。そこの墓地が取り払われて広場になっていた。この墓地の南際には陸橋もあり、その橋脚のレンガ色が、空間に映えていたのだが、それも消えていた。ついに宮崎駅東口から宮崎市街を南北につらぬく道路が、宮崎新港に向かうということが、準備されだしたのかと思えるのであった。

 道路が出来ればまた街は変わる。とどうじに、その道路のもっていたいうにいわれぬ風景の面白さも消滅する。どちらを優先するべきか、これは意識のどこかに留めているべきことではないだろうか。

 戦前の道路工事をみると、「改修」ということが良く使われていた。それは道路の悪い箇所を改めるという意味であった。現在は改修ということばではなく、「改良」ということはになっている。悪いところを直すという意味で、道路専門に使われる用語ではない。現在は、道路整備という。ぼくはこの整備ということはには、どうも違和感がある。機械の整備、エンジンの整備といい、故障などをなくして使えるようにするということだ。道路は、機械を越えた点があり、広げたり削ったりだけで、良くなるとは限らないからである。とくに商業道路は、整備で商店街が繁盛するどころか、人通りも無くなるということが起きている。道路とは生き物であるということを、考えてみるのだ。








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