市街・野 それぞれ草

 802編よりタイトルを「収蔵庫編」から「それぞれ草」に変更。この社会とぼくという仮想の人物の料理した朝食です。

ピケティ現象

2015-01-31 | 政治
またまたベストセラー本のわけのわからぬ日本人の読書行動が起きている。ピケティの「21世紀の資本」が売れまくっている。去年の暮れにぼくもつたや宮崎店で、手にしたのだが、統計を駆使した分析という分厚い600ページの本を読解する暇はないということと、6千円という価格、また読んだ後の置き場もないということで、買う気はしなかった。ところが、これがベストセラーとなりつつあるという。一体どんな層が買いかつ読むのだろうか。いや、いつどこで、600ページの難解な読書を持続するのだろうか。学生も一般人も、本を読んでいるシーンを見たことが無いのだ。ぼくは、ややこしい本は、温泉に行っては、ラウンジで読んできた。かれこれ10年は一年のうち何十日はそうしてきたが、その間、本を読んでいる人をみたことは、まったく無い。だから、家内は温泉で本をよまないようにと文句をいう。難しい本はたいがいものものしいハードカバーの本である。見たからに重々しく近寄りがたい、こんな本を温泉の休憩室で読むというのは、私はこんなに教養があるというのを、見せびらかすという卑しい自己顕示でしかないというのが理由である。いわれてみるとその通りだ。ただ、目が長時間酷使できず、温泉で血液の流れとどこりなく、かつリラックスできて集中できる時間は、ぼくにとってかけがえのない読書時間なので、他人の目などはかまってられないのだ。それほどに大衆から読書という週間は消えてしまっている。本のベストセラーというのは、どこからとなく、100万単位で、読む人が現れてきて大衆現象となってくるのだ。だれがよむのであろうか。

 いろいろ解説をみると21世紀の資本主義社会では、格差は広がるばかりで、資産家は遊んでいてもいっそう資産がふえ資産の無いものは、働いても働いても、資産はふえないので格差がますますひろがっていくと、のべられているということだ。そして、格差を解消するには、金持ちの税金を増大して、これを貧乏人に還元するというしかないというのだ。なんだ、こんなことは、こんな大層な経済学書を読まなくても、暮らしのなかで実感している。ぼくの知人でも、たまたま街のど真ん中で自動車工場をしていたが、なんと自動車技術が進歩して修理が激減、ために工場を閉鎖したところ、その跡地を全国的なレストランに貸したので、毎月200万円の地代収入が入り始めた。あれから25年以上も経っている。かれはますます資産家となっていった。こんな例は、この産業のない宮崎市街ではごろごろと転がっている。

 だから、働かないものこそ、ますます金持ちになるという資本主義社会の非合理世界が、もはや矛盾の限界状態に近づきつつあるとき、どうするか、ピケティは、金持ちの税金を増やせというのだ。まったく当然きわまる話である。そこで、もう一度問いたい、だれが読んでいるのかである。どこから、この大衆が、地上に湧き出してきたのかである。かれらは、この格差社会の流れを変える力となりうるのだろうか。そこが問題だ。たとえば、自民党政権を支持する30パーセントの日本国民の対抗勢力になりうるのだろうかである。自民党では、金持ちから税金をとるどころか、税金を減らしていることが、貧乏人を豊かにするとしているのだ。その矛盾をどうするのか、ピケティ読者は気づくのだろうかが。読破と6000円の資源をどうか生かしてもらいたいものだ。
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住宅街のパン屋さん

2015-01-26 | 日常
 土曜日の午後自転車で、宮崎駅西口から北へとゆるゆると走っていった。快晴で冬というのに、無風、真昼の日差しを受けて、マンションや事業ビルが白やピンクに輝き、何キロ先まで続いている。目を眇めなければならないほとの陽射しが、街を大都市のように感じさせてくれる。このままどこまでも行くことでもいいのだが、路地があったので、とにかく右へ曲がることにした。まもなく宮崎神宮の森に突き当たった。正面の鳥居から、境内を左周りをしだして、また路地があったので、ここを左折した。辺りは、低層のマンションや新築の住宅が区画整理さてて、並ぶ住宅街となった。午後1時半とうのに、自動車のエンジン音も、人声もせず森閑とした住宅街となった。

 と、角にパン屋さんがあった。ショーウィンドウからみえた棚は空っぽだが、オープンという案内は下がっていた。おそらくカフェかもしれない、となると、今ランチをパン食で終えたばかりなので、入っても注文できないなと、気になりながら通り過ぎて行った。

 次の角の二階建てのアパートの西壁に薄紫の地の看板が目を惹いた。細い針金をくるくるまいて一匹の犬にしてあり、毛深い犬の毛を針金が表していたのだ。あまり上手でない手描きの英語で、dog trimming FAIRY TAIL と描かれ、右下に電話番号があった。たったこれだけだ。fairy tail は、fairy tale のもじりなのか、尻尾(tail)が同じ発音のtaleといれかえられたのだろうか。ふさふさした尻尾を、おとぎ話と詠ませた。そのセンスの面白さが、人の気配の耐えた住宅地の真昼に密かにかかっている。パンの無いパン屋さんといい、にわかにここらの雰囲気に興味がわいてきて、あのパン屋さんに入ってみようと、自転車をめぐらせたのであった。

 こんどは、店から女子高生が一人出てきたので、パンはここで売っていますかと声をかけると、売ってます、だけどもうほとんどないですと、にこにこしながら答えてくれた。中に入ると言われたとおり、左右の籠に大きな丸型のドイツパンが数個あり、ほとんどパンは無かった。人も居なかった。奥の部屋から上品は40代半ばの女性が、出てきて、もうこれしか無くてすみませんと挨拶された。すぐにぼくは、同じ形、同じ色をした大型の丸パンを指して、どう違いますかと訪ねた。こちらは小麦100パーセントですが、あちらはライ麦が入ってます、値段は高いですけど返答された。ではライ麦の方をくださいというと、小さいほうの丸パンを手にしたので、大きい方をというと
有難うございますと大きい方を手にした。
 「このパンを切ってもらえますか」
 「どの厚さにしましょうか」
 「まあ、このくらいでしょうか、いや10枚くらい」
 と遠慮がちに言うと、
 「もっと薄くても大丈夫ですよ」といわれ、
 「では、8ミリくらいでもいいですか」と申し出た。
彼女は、すぐに奥の部屋に入ったが、また出てきて
 「このパン半分でもお売りできますよ」といわれるので
 「いや、全部いただきます」というと、安心されて、薄く
  切りそろえたパンが出来上がった。それを手にすると、今は
はっきりと、これは、ドイツのミッシュブロートと分かった。
ドイツパンを焼くところは、宮崎市では、珍しい。ライ麦のシュヴァルツ・ブロートの重たい黒パンなどとなると、2店舗を知っているばかりである。
 「奥さん、このパンはここで焼いていらっしゃるんですか」
 「はい、この部屋で焼きます」
 「このお店はいつごろ開店されたのですか」
 「今年で9年目になります」
 「そんなになるんですか。その頃、ここらに住宅はあったのですか」
 「古い家はありました。このビルが出来たのは3年前で、それ以前は、店も木造の小さなも  のでした。」
 「その当時でも、ここらでパンは売れたのですか」
 「え、なんとか、ここは、抜け道のような道路でして図書館  や芸術劇場などに行く人た  ちの通り道になってました」
なるほど、そういう地の利もあったのかと、想うのであった。

 帰って妻に見せると、なにかというと、こっちの買い物にケチをつける彼女が、人目みただけで気に入ってくれた。その一切れをちぎって口にすると、ライ麦の酸味と香りが豊かさを感じさせ、塩味ながら、かすかな甘味もあって重厚であった。これは材料がいいわねえと、彼女は賞賛した。あんな住宅地にこんなパン屋さんが、あったのだ。こうした意外性に、市街を自転車で彷徨っているとであえるのだ。自分でみつけるということは、この価値感が錯綜しているなかで、大きなもうけものをしたような気持ちにさせられる。 
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とある街角の物語

2015-01-20 | 生き方

その街角には旧知のたばこ屋さんがあった。以前は街角のあちこちにあったたばこ店での一つで、たばこの販売だけで商売が成り立っていた時代には、たばこ店は街の風物詩であった。その一店が、平成に入っても生き延びていたのだが、もはや生業となってはいず、自動販売機のような機能を、その街角で果たしているに過ぎなかったようだ。店先には自動販売機もすえられ、三畳の店先に座っている店主の姿もなくなっていた。ただ、その店はあった。知人の暮らす住居でもあったのだ。大正期からつづいていた小売店であったとも聞いていた。

 
 昨年、平成14年11月3日文化の日の連休日、たまたまいつものように自転車で、裏町の路地をあちこちとぶらぶらと辿っていたとき、そのたばこ店に気づいたのだ。長い間ここに来なかったなあ、それに店主のかれとも、2000年に山形屋前で立ち話して以来、音信普通になっていた。あのとき、ぼくはバイオ茶というお茶を、無理に買ってもらったことで、気の毒なことをしたと自責の思いがして、しばらく会わぬうちに連絡がとだえてしまっていたのだ。今日は店を覗いてみよう、そこに居るとは思えないが、会えるかもと、自転車を押して道路を横断し店先に近づいた。

 店は完全な廃屋に変わっていた。木枠の正面ドアの硝子は一枚が割れて、敷居から外れたまま傾いて停止していた。陳列棚の硝子窓はさすがに割れてなかったが、汚れ果てて、顔をおしつけて、中を覗くと、床も奥の畳間もみえ その天井には半メートルほどの穴が開いていた。二階の畳敷きの破れが荒れた模様を強めていた。店は黒いビニールのゴミの山でびっしりと覆われ、土間にも流れ落ち、うずたかく積みあがっていた。奥の居間の天井から赤い傘のついた室内灯が、電線一本に引っかかって、首吊りのように下がっていた。猫がとつぜんごそごそと奥に逃げていった。店先の煙草自動販売機は、倒れて壁に支えられていた。中をみると、ハイライトやマイルドセブン、ラークなどがあり、みたこともない「さくら」というパッケージもあった。こんなのは何時販売されていたのだろうか。店の壁にマイルドセブンの広告が一枚だけ残っていた。奈良の大仏さんの大きな顔が描かれ、真っ黒な背景に青白く例のおだやか表情が描かれ、紫色の右手の指に一本の煙草が挟まれて、吸い口は赤く光っていた。大日如来とシガレットの取り合わせとは、奇抜でかつまだ喫煙が平和な時代であったのかなと思いつつ、マイルドセブンがひらがなで書かれているのもおもしろいと、もう一度読むと、それは「まいるぞせぶん」であった。ふだんなら吹き出すところなのだが、この笑いの空しさがたまらなかった。やはり彼はすでに他界していたのだと、廃屋に変わり果てたたばこ店をみたのだ。写真を撮っておこうと、板ガラスの引き戸から内部にカメラを構えようとしていたら背後から「なにをしていますか」と声をかけられたのだ。とがめるとうより、様子を聞こうとするおだやかな声であった。なんとか説明できそうと、ふりかえると、目の先に死んだと思った知人が、立っていたのだ。仰天して、生きていたのかという声を寸前で押さえこみ、「元気でしたか、おひさしぶり」と返答できたのだ。「あなたもお元気そうで」と一五年の年月が無かったようないつもの彼がたっていたんだ、

 ネクタイ・背広姿で色白、小太りで、その姿が生活のゆとりを以前のまま匂わせていた。それからぼくらは、それぞれの近況を伝え始めたわけだが、ぼくは、この廃屋化したわけを問うことは出来なかった。かれもまた、この廃屋には、なんの関心もないかのようであった。そんなことより、お互い健康が一番大事だというようなことに話は落ち着いていくのだった。どうですか、お茶でもしませんかと提案すると、そうだ食事でもしましょう、ぼくが案内しますと、彼は即答してくれたのだ。もっと話をつづけるのに、依存はないばかりか、ひさしぶりに旧交を温めるという心情も感じ取れてうれしくなった。かれはもともと美食家だったし、書道家であり、短歌を詠み、薔薇の花を育てるのが趣味であった。そのどれもぼくは、関心がないことであるが、不思議とうまがあっていたのだ。かれのイメージがだんだんと、前のままにもどってきて、ぼくはデパートのほうへと、彼と一緒に歩いていったのだ。

 まだ午後5時前でかれのいう店はしまっており、近くのカフェに入り、やや込んでいたが、席も確保できた。かれはここにはよく来るから、ぼくが注文していいかというので、よろしくと頼むと、しばらくして、コーヒーと上等のスイーツを盆にそろえてもどってきた。そしてかれの話をききはじめたのだ。コーヒーは熱く、気分はくつろぎ、静かな時間が流れていった。一時間半ほどその店にいが、今、思い出してみると、かれの話は、以下のようなものだった。あの家には住んでいる、裏のほうに住んでいるということだ。住んでいるといわれて、それ以上、よごれているとか、危険だとか、どうのこうのと詮索もできず、そうと、頷くしかなかった。住居の話はべつとして、かれのライフスタイルについては、聞き出せるので、話を聞いていくと、それなりの変化は起きていた。短歌は、もうやらないという。本気で熱心もやるものがいなくなった。情熱もないし話も合わない、短歌の内容もつまらなくなり、将来性もあるとは思えないのでグループは辞めた。毎年鹿児島の短歌の集まりも意味がなくなったので、それも止めたとうのであった。温泉は好き、青井岳温泉にも、月になんどかは行く。一番行くのは青島の温泉だ。あの温泉で時間をゆったりと過ごす、また海岸で、暮れを見るのは至福のひとときであると、その耽美を語ってくれた。青島には週に3回ほどは温泉に行っている。それはいいことだねえと、ぼくも温泉通いを話した。この住居の庭にあった樹木は大部分引き抜いて、薔薇園にした。その薔薇が宮崎市の展覧会にだしたとき、宮崎交通の岩切社長さんが、これはいいとほめて貰えたと話すのだ。薔薇はとても金がかかり英国の宮廷の庭園に育つ薔薇について具体的に話しだした昔のようにうまいビフテキを出す店も少なくなったなという。そんな話であるが、婦人雑誌の口絵をみるような、贅沢の香りがかれをつつむのが、どこかで安心させられるのであった。すべてが、ゴミで覆われた廃屋と化したたばこ店となんの関係も関連もなかったのだ。そのまま店の件について、まだ彼が住んでいるということ以外は、知ることもできず、住所と電話番号を交換して、そのカフェで別れてしまった。彼はもうしばらくここでコーヒーを飲んでいるというので、別れた。あれから、電話もなく、ぼくもまた電話してない。

 平成15年となり、1月13日成人の日の連休、ふたたびたばこ店に行った。板壁は一部が剥げ、割れ竹を格子にして、わらを刻んで入れた粘土を塗りこんだ壁の土台が、剥き出しになり、その漆喰の滑らかな仕上げが黄色く変色していた。棟も真ん中ころで折れまがって落ちこんでいた。ガラス戸の硝子は割れてしまい、木の枠だけになっていた。荒廃が一段とすすんでいた、ここには彼は住んでいない、住めるわけがない、いったいなぜ裏に暮していると、彼は言ったのだろうか。裏とは、この家の裏でなくて、店の面した表通りの裏の区画ということだったのかもしれない。だが、そんなことはどうでもいい。かれがまだ生きているということでいい。その優雅さを、以前として寸分違えず保持していること、そのモノにとらわれない、まけないスタイル、これがぼくを感銘させてくれたのだ。家は廃屋と化したが、かれの品格は健在であったのだ。これでよしである。電話などかけても意味はないとおもうのである。
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