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市街・野 それぞれ草

 802編よりタイトルを「収蔵庫編」から「それぞれ草」に変更。この社会とぼくという仮想の人物の料理した朝食です。

小春/マイノリティオーケストラ公演が終って

2009-12-19 | 宮崎市の文化
 
 12月4日から6日まで連続3公演を終り、6日の午後3時にモモちゃんら3人を、7日早朝に残りの3人を宮崎空港に送り、この朝ばかりはぼく一人だけの見送りになってしまった。月曜日で勤務をさばれるのはばくだけであったのだ。午後8時半に仕事場に座った。これで差し当たり急かされる仕事はなくなった。そのときに、ぼくを包み込んだのは、静寂感であった。達成感でも開放感でもなかった。この心境をブログに投稿したと思ったら、投稿どころか、書いた原稿まで消失していた。今はもうあのときの心境は遠くなってしまった。

 12月3日の深夜、今夜でもう上演準備についても、さまざまの段取りについても、チケット販促の心配についてもいっさい考えるのは終わりになるんだという心労から逃れられるという思いがするのだが、やはりそれでも上演の成功そのものに捕まれて眠りがたいベッドの中で、不安も心配も止めようと意識しつづけていた。

 4日午前6時起床、暗い夜明け前の空であったが、さわやかなほどの乾いた風、それも暖かく、冬の風とは違っていた。チップと散歩に出て、しばらくすると、太陽が昇りだして、ここしばらく見なかったほどの真っ青な空が見え出した。これはいい、これはいいぞと気力がもどってくるのを感じだした。

 午前10時55分、到着が20分ほど遅れて、6人の女性たちが送迎ドアから現れて歩みよってきた。20前後の彼女らは、ミュージシャンというより地味な大学生そのものであった。ただ、小春だけは、ブログやユーチューブからのイメージとは、まったく別人であった。個性、自立、交渉力を兼ね備えたまさにチームのリーダーとしての強烈な存在感に圧倒された。それでいて、聞き取れないほどの早口で笑いを振りまき、お互いの緊張感をゆるめようとするのだった。強気と繊細さのある知性がすがすがしかった。

 空港を出てすぐに青島バイパス上から、飛行場の彼方に青い海原が見えた。そのときだった。一人が「あの海は太平洋ですか。アメリカまで繋がっているのでしょうか」と言うのだった。カリファルニアの海岸とつながってるというと、全員がわあーすごいと感嘆するのであった。

 地図を見れば当たり前のことだが、彼女らが望んだ一つ葉海岸の海は、地図ではなくてまさに海だったのだ。この海はアメリカとつながっているということで、まさに壮大な存在を実感させられるのである。まさに俳句的実感ではないか。その子供のような純粋な感受性におどろかされ、彼女らの演奏者としての高さをおもわされたのであった。

 そのまま、一つ葉有料道路を走り、みやざき臨海公園のヨットハーバー「サンマリーナ」に入り、その多目的広場の海岸を見晴るかす展望台に案内した。風がハワイのようにびゅうびゅうと吹きつけ眼下の海原は、三角波の並しぶきが碁盤目のように広がっていた。そして、春風のように暖かい。空は抜けるように晴れ渡り広大であった。彼女らは、その暖かさに仰天した。つづけて海の荒々しさに空の広さに感激した。まさに演出したかのような、南国宮崎の自然が、まさに現実離れして映画のシーンのようにわれわれをつつみこんだのであった。宮崎市を楽しんでもらおうと意図していた目的にとってなんたる幸運だろう。まさにどたんばで幸運が到来したのであった。
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チケットを売る 15 最後の聖戦 2

2009-12-11 | 宮崎市の文化
 さて、私はどくんご終演あとの一週間、マイノリティオーケストラ公演をどう成功させるべきかと、思案しつづけた。宮崎市の極楽湯の露天風呂で夜空を見ながら、また午後のビルの谷間から降り注ぐ小雨を、屋上露天の浴槽でうけながら、ぼうぜんと自問しつづけた。そしてひらめいたアイデアは、チケットを売らないということだ、後、20日あまりでチケットを予定枚数売るという方程式を解こうとすること、このことが最大のストレスをもたらし、いかにしても解けないはずである。条件が満たされて無いからである。そういうことにエネルギーを消耗するより、ほかに向けようと・・・。

 そのとき気づかされたのは、今回は、それぞれに実行委員会があるではないかという事実であった。ジールは、カフェがイベント担当者がいて、定期的にライブをやってきている実績がある。そしてNPO法人精神障がい者自立支援ネットワーク宮崎もやいの会は、組織をもち、その代表が取りくんだ。また東宮花の森東集会所はそれまでぼくとやってきた実行委員会が残存、今回の上演に取り組んだ。そこで、ぼくは、集会所の実行委員会だけにチケットの売れ行きに注意を向け、その対策を適宜やっていく、カフェもジールにも、もやいの会にも上演実現はかれらにまかせて、意識をまわさない。これで、時間を節約できるばかりでなく、集中を持続できると、判断したのであった。

 それに私はなにをやっているのだろう、このことに意味があるのか、すでに小春をユーチューブで知って半年がながれていた。ほとんと、その直感のほかに実際のことは何も知らない。そのライブこそ、宮崎市の今に絶対に必要な提示だと確信していること、これを実際に証明してみせることであった。心身の疲労が取れない毎日がつづいていたが、この人口温泉の湯煙のなかで、気分が溶けていくなかで、おれにはもうこの確信に賭けるしかないと、自虐的にも爽快な欲望のみが、胎内に感じられてくるのだった。

 弱気を排除する。これがもう一つの方法論であった。大変ですねとか、がんばってねとか同情のことばより、「自分でやったことでしょう」と笑ったあの演奏者の一言こそ、逆に私のエネルギー源となってくるのを、あらためて感じるのであった。それと、こうしたゲームにも似たプロセスには、思うようにいかぬ困難や、予期しなかった不運もあるが、幸運もあるということだ。この幸運についてはこれまでもなんどとなく経験・体験してきたことで、このチャンス到来への確率は、数学的であり、確率は高い、その現実判断が私を落ち着かせてくれるのであった。

 11月は、例年になく天候が悪く、じとじとと雨の降る日がつついた。うっとうしい日は気分も沈みこむのだが、幸いなことには、方向がはっきりしたので、もはや気分の浮き沈みはま脱がれた。そこにすでに幸運の到来はあったのだと、今は思うのである。
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チケットを売る 14 最後の聖戦 1

2009-12-09 | 宮崎市の文化
 
 来ないやつは来ないでいいと、粋がっていたが、現実は、甘くなかった。夢は見るうちだけは楽しいものだ。もっとも悪夢というのもあるが、夢は楽しい、願望の反映で、夢見ているときは実現している。いざ実現しよとして夢は、はじけて消える。だから夢のままで、現実を見たくなくなるのだ。まさに夢見る人だ。そうならないためには間にまず自分を変身させねばならない。

 計画では、9月23日の秋分の日までにテント芝居のチケット150枚程度を売り終え、全力を小春マイノリティオーケストラ上演に注ぐという計画であった。これまでの実績から、これは可能ともくろんでいた。しかし、4年前とは状況が大きく変わっていた。あのときの実行委員のほとんどは、今回は、暇なしで参加できなかった。残ったのは実行委員というより、テントが命のような三木ちゃんと梅崎さん、シノブちゃん、それと山崎さんだけであった。かれらは実行委員というより、熱烈なファンである。

 まさに夢見る人たちである。その夢を適える責任はすべてぼくに降りかかりだした。まさか、そうなるとは、思いもしてなかった。9月23日はあっという間にやってきた。その日になっても、ただの一枚もどくんごのチケットは売れていなかったのである。さらに気づいたのは、実行委員たちが乗った船は、泥舟であり、すでに大河のど真ん中に漕ぎ出していたのだ。おまけに目の先は激流が逆巻いて笑っていた。

 さすがに悲鳴を上げたくなった。友だちのある演奏者に、窮状を話すと、だって自分でしたことでしょうと、平然とほほえまれたのであった。笑ってるのか手めえ・・

  夢が覚めてみれば、どくんごはまだ一枚のチケットも売れていない。10月になり、4人とぼくは、狂ったように、いっせいにテント芝居のチケット売りに走り回ることになった。こうしてまた一ヶ月が経った10月23日、公演まで残す日は10日になった金曜日、最後の実行委員会の夜がきた。しかし、実行委員4名の売り上げ枚数は35枚でしかなかった。そしてもうこれ以上は不可能だというのであった。その言い分は、ぼくにはわかりすぎるほど分かるのだ。昼間を勤め、それほど演劇でのつながりが無いかれらに、これ以上は無理というのは、分かりすぎていた。実行委員会は幻想であったのだと、それははじけて消えた。かっての楽しい日々であった実行委員会の思いでも、すでに消滅していた。

 それからのチケット売りは、二十日鼠の比ゆで描いたとおりである。その狂ったような自動運動をつづけていると、思いもしなかったが、テント劇場の上演はだんだん現実化の様になってくると思えだしてきた。そして11月1日、寒風の吹き荒れる臨海公園の曇り空に、劇団を迎えるっことが出来たのであった。。

 泥舟ではあったが、夢をあきらめきれない5名の欲望で、岸にどうやら乗り上げられた.上演は、二日間ともにテント内は70名あまりの入りであったが、舞台はなぜか満席にも感じられた。真冬なみの寒風が吹きまくり、テントの内側にごうごうと音を立てて風が通過するようであった。劇は大興奮の盛り上がりを見せていった。

 小春上演は、もう正味でも一ヶ月しかない。裸の実行委員長が寒風の臨海公園に立って、舞台を凝然と見つめ続けていた。

 2公演を一挙にやるとは、なにかが間違っていたのか、思いは沈みつづけた。それは泥舟の最後のようであった。しかし、泥舟はわれわれを岸まで運んでくれのだ。この事実は否定できないではないかと、思うのであった。
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チケットを売る 13  売って終った

2009-12-08 | 宮崎市の文化
  11月28日、先週土曜日から上演最終日の日曜、そして今日火曜、小春とマイノリティオーケストラ公演のすべてが事故もなく終了できた。この10日間、最後の聖戦ともいうべき奮戦の後、まさに静寂という日に包まれて二日目となった。静寂とは、ぼくのイメージとはもっとも程遠いものだが、空白でもないし、虚脱感でもないし、終ったという安堵感でもない、ただ静かなのだ。まさに一年振りの静かさの日常にふたたび戻ってきたという感じなのである。

 思えば今年の一月、劇団「どくんご」の鹿児島県出水市の牧場跡に劇団員全員が浦和市から移転してきたことから、テント劇上演の宮崎市受け入れを、やらねばなるまいと、密かに決意していた。5月初旬、予想外に早く、劇団は北海道までを回る全国巡演の旅のプロジェクトを実現化して、旅立った。恐るべしその実行力。これほど巡演の実現が早いとは考えなかったので、余裕をもらって最終に近い11月初旬の上演としてもらったのだ。

 そのころ、ぼくは、宮崎市で、もっと観衆を鼓舞するような演劇、音楽はないものかという思いは、ますます強くなってはきていた。5月、知人が自宅マンション下の公園を、住民共通のイベント広場にしたいということで、協力要請を受けて、その試みに参加、広場で、ちんどんやの花吹雪一座の座長若菜さんと、知り合い、大衆をまきこむイベントに関心を抱かされた。大道芸がイメージとして膨らみだした。大道芸とはなんなのか、ユーチューブを使って、全国大道芸大会やあちこちのちんどんやさん、その他を検索視聴しはじめていた。そんなある日、四月中旬であったか、新宿の街角で、アコーディオンを弾く少女(そのときはそう見えた)とジャグラーを操る二人の大道芸人の動画を目にした。その瞬間、アコーディオンの演奏に衝撃を受けたのだ。これだ、これこそ民衆を引きつけると、思うのであった。

 その後、すぐに彼女は小春というアコデリオン奏者と知り、彼女のホームページを見つけだし、ただちに宮崎市上演の可否を問うメールを送信した。いいですと簡単な返事がとどいた。ただ、彼女のマイノリティオーケストラ5名で上演したいというのだった。彼女だけのライブという予定だったが、なんとかなるとメンバーの受け入れを承諾した。旅費は6倍を覚悟しなければならなくなった。しかし、あのとき、いや一人だけでと弱気を吐かなくて良かった。たぶん一人でも二人でも彼女は納得したかもしれない。しかし、せっかくの夢と冒険を、妥協でしぼませるのは、それこそ夢でなくなるということを直感し、全員受け入れの即答をしたのであった。ただ、これは、なにかの冗談かと彼女は、そのとき思ったそうである。

 こうして、具体的な提案を重ねるうちにだんだん本気だとわかってもらえるようになり、2ヶ月後の6月27日のメールで宮崎市上演を、受け入れてもらえるようにななったわけであった。その後、7月から直前の12月2日まで、具体的な、たとえば楽器類の輸送受け入れとか、会場の状況、特にPA音響の打ち合わせなどなど26回のメールのやりとりをして、ライブに至った。

 また9月27日からチラシの制作をイラストレターのまつながかず氏(小春の父上)に制作依頼、まつながさんは10月下旬からは、チケット販促のために宮崎小春サイトを無料で制作立ち上げていただき、貴重なプレスリリースの制作などで積極的協力をしてくださった。かれとのメールやりとりも30回を超えている。10月27日マツナガアキさま(小春の母上)から、チケット販促の提案のメールがとどき、彼女は直前の12月3日まで、上演にいたるまでさまざまの支援をいただいた。後で聞くと、彼女は、小春とマイノリティオーケストラの宮崎市上演は、チケットの売れ行きなどを考えると、無謀だと思われ、なんとか被害を僅少で済むようにと心配され、販促用にと無料でCD50枚を送ってくださったのだ。9枚だけメディアに配布したが、おまけまでつけて人を集めなければならないほど、程度の低い内容ではないとして、配るのや止めたいとした。来ないやつは来ないで結構と腹を決めていくのだった。

 ご両親もかなり、宮崎市公演は不安を感じられたようだ。小春にどうするのかと聞かれたとき、いや3人でも上演する、いい上演をすることだけが、わたしたちの協力だと気持ちを伝え、両親も納得されたそうであった。またそのときほど、自分の無名が悲しかったことはないと、小春さんは終ってメールでのべている。
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