市街・野 それぞれ草

 802編よりタイトルを「収蔵庫編」から「それぞれ草」に変更。この社会とぼくという仮想の人物の料理した朝食です。

第18回宮崎映画祭 突き抜けるには なに

2012-08-25 | 映画
  

 「ハラがコレなんで」は、前作の「川の底からこんにちは」から入っていくほうが、「ハラがコレ・・」の主題を説明しやすい。「川の底からこんにちは」は見終わってある種の違和感が残る。ヒロインの佐和子は、自分を「中の下」といい、駆け落ちしても男にすてられたバカ女といい、恋も仕事にもやる気を失せたまま、物語はすすんでいく。ところが父の癌で故郷に帰り、倒産寸前の「しじみ」会社をつぐ。村人たちは、駆け落ちした社長の一人娘と好奇心で評判となり、従業員の中年女たちは軽蔑心しかない。そのうちにいっしょに来た子連れの恋人替わりの元上役にも浮気で逃げられる。佐和子の負け犬ぶりが、つづくが、父の死が迫りきて会社の建て直しに目覚める。そこからやる気が爆発、会社の再生と彼女の再生が始まりだす。人生のリセットがなるという物語だとなる。

 だが、このストーリーとは、ヒロインの行動は、ずれているというか、こんなリセット筋に納まらない。ヒロインの存在は、境遇にめげず、生き方はかえられるという再生物語には沿っていない。このはみ出しが、ぼくをおおいにわくわくさせてくれたのである。この映画のキャッチ・コピーは、「中の下だからこそ、がんばれる」とあるが、こんなくだらぬことではないということを、感じることが、肝要であろう。がんばれば、世界はよくなるのか、中の下でも自分は上に行けるのか、それは幻想でしかないのだ。

 「川の底」から、かんたんに浮き上げれるわけがないのだ。昔はプロレタリア、その政治的イデオロギーを脱色すれば、平成の湯浅誠の貧困救済村の住民である。もっと適切なのは、三浦展の「下流社会」の人間たちがある。三浦によれば、所得が低く、働く意欲もなく学ぶ意欲もなく、人と交わる意欲もない、つまり生きる能力がないので、社会からずり落ちて貧民になっていく階層だというのだ。生活意欲の欠乏が原因で貧困になる若者たちである。三浦は、この貧困を社会的無業とよび、「仕事をしなければ、自分は見つからない」(2005年刊)と警告した。ますは、働け、それしかない。自分がどうのこうのといっている場合か、働いて正社員になってこそ自分ありだと説くのだ。現実はどうなのか、働きたくても織がみつからない、正社員になれという三浦のアドバイズどおり、正社員のパイは限られている。今年の大卒の四分の一は非正規労働者に追い込まれている。いや、そもそも職がない現実がある。働く意思がない、生きる能力がないということとは関係はないのだ。「川の底から・・」が、こんな現実にほうかぶりして、まさか、父の死で根性を改め、働く意欲に目覚めて人生をリセットした話を、主題にしたわけがない。石井裕也は、どんずまりの時代の子であるのだから。脳天気の三浦世代とは違う。


 そこで、全体の構成をもういちど思い返してみよう。その冒頭のシーンの意味は、なんとうけとれるだろうか。ヒロイン佐和子を演じているのは、満島ひかりで、この開幕シーンでは、汚れた感じのエステのベッドに毛布をかけられて横たわっている。中年女の施術師が「ハイ、入りまーす」といって、毛布のなかで彼女の肛門に管を入れる。ぶーんと機械が音をたて、大腸からつまった便を吸出しはじめる。「気持ちいいでしょう」とまた声をかけるが、返事もせずにらんらんとした目を開いまま、なんの感情も示さず、佐和子は体をよこたえたままである。この佐和子を満島ひかりが演じていることが大きい。これは「中の下」「バカ女」の説明ではないのだ。ここにあるのは、ヒロインの強烈な世間離れした個性である。満島ひかりの前作「愛のむきだし」でみせた、戦闘する少女を、連想させもする。監督石井裕也が、彼女の肛門にうんこ吸引パイプをつっこむという発想をしえたのは、ヒロイン佐和子を演じる満島ひかりの戦う少女のイメージがあったからであろう。反応もみせず、表情にもあらわさず、自分の肛門にパイプを挿入させて、うんこを排出するという行為は、「中の下」とか「バカな女」の劣等意識ではなく、むしろ優越感にもなりうる自己認識である。あなたは、エステで便秘をパイプで抜いてもらう勇気があるのだろうかと、あてつけるがごとくである。そこまで言わなくても、このうんこする彼女は、「中の下」でも「バカ女」という自己卑下ではなく、だれにも止められない自分があるという行為の女なのである。その姿や意識は、満島ひかりだから、なによりも表現できたのである。

 次のシーンでは、彼女はトイレットで便器に腰掛たまま、トイレットペーポーを手にしてなにかをしようとして止めたまま、なにやら二人の女性同僚と世間話をしている。話はトイレの外までつづき、監督に見つけられ大声で仕事場に追い出されると、あわててひっくり返って、これが契機ともなり会社も止め、故郷で仕事にありつくことになる。男というより忠犬とみなしている元上役だった中年の子連れ男は、田舎こそ人間の里と思い込み、かれにもせがまれて、父の経営するしじみ会社に帰るわけだが、父を救うとか、会社を再興するとかの意欲など、あったわけではなかった。ただなりゆきで帰郷したことが、人生を変えてしまっただけにすぎない。これもなりゆき。これが見逃してならないヒロインの姿勢である。世間的なやる気とか、がんばる根性などはまったくなかったのだ。あるのは、自分自身だけ、これがすばらしい。村人のかげくちも、社員のしじみ加工の中年主婦たちの軽蔑も、いっさい佐和子に影響を与えない。自分がどうするかだけが、日々の故郷暮らしでも、工場の作業のなかでも彼女を動かしていく。彼女は自分で動き出すのは、なによりも外からの強制でも、条件でもなく自分自身の内発からくるだけである。この佐和子の強靭さは、冒頭の吸引ポンプで排便をするシーンの表情を変えないまま横たわっている姿勢と重なっている。

 まさに突然、社長の責任に目覚めた佐和子が、朝礼で女子作業員を前にして18歳で駆け落ちして何で悪い、相手を好きなってなんでいけない、若さの無知な行動であったかもしれないがいっしょう懸命だったのだという訴えを朝礼で話始めだすシーンは、人を打つ。社員たちがただちに悟れたのは、彼女の真実感であり、彼女への見方が一変してしまう。それを可能にしたのは、佐和子の自分自身であれという強さを観取されたからである。ここから会社は、活気に満ちだす。毎朝の社歌も、変えられ、金持ちなんかへのかっぱ、消費税も大増税もやってきて生活できなくなれば政府をぶっこわすという歌詞がもりこまれ、川の底からこんにちはとつづく。この歌がいい、もちろん革命歌ではなく、政治性もないが、2011年の庶民の不満をよくあらわしている。

 この再興し始める工場でも、うんこの排出は再現されているのを見逃せない。佐和子は、毎朝、こんどは糞便を肥え桶で汲んで工場の敷地の溝に近い草むらに撒いている。エコ好きの中年男の加勢もかたくなに拒んで、佐和子はまきつづけるのだ。叔父も手を貸そうとするが、これも断って、毎朝つづけていく。ある日彼女は草むらに小さな花が咲いているのを発見する。父は癌で死ぬが、その葬式の朝も肥え桶を、草むらに運び出すが、そのとき、大きな西瓜が、育っているのを見つける。まかれた糞便がそだてたともいえる。小川にながれこむと思われる糞便は会社の、川底にしじみをも育てることになろう。自分の大腸につまったうんごを吸引ポンプで無駄に捨てていた状況は、別の有効なことになったのだ。これを解釈しなおすと、自己表現は世界をかえるかもしれないということかもしれないのである。ただし、それは、三浦展の言うように、社会で働いて、経済的な確立を果たすという以上の意味を暗示するのである。金だけ稼げが、すべていいというわけではないことを、うんこを使って表現しているのだと、解釈できるのではないかということである。そのことが、つぎの「ハラがコレなんで」に引き継がれているのである。
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第18回宮崎映画祭 どん底から突き抜ければ なに

2012-08-23 | 映画
石井裕也監督映画「ハラがコレなんで」を激賞したぼくは、蔦やからDVDを借り出して、女房に見せる決意をした。食後の後片付けに台所に立っている彼女にはよ、はよと急かせて、リビングのREGUZA47インチテレビを前に座った。ハラこれ・・は、盆休みのせいか、貸し出されていて空のケースだけが10ケースほど並んでいたが、昨日ようやく一本がもどってきていたのだ。仲 里依紗(なか りいさ、1989年10月18日 - )に度肝をぬかれろよと、ぼくは彼女を横目でみながら、開幕シーンに入っていったのであった。やっぱりいい、仲 里依紗、あのふてぶてしい歩き振り、妊娠9ヶ月の腹をせり出させて、外股でゆたゆた、のしのしとなにものも私を止めるものはないと歩く姿は、用心棒の椿三十郎だ、もはや女房が問題ではない、僕自身がどうこの映画にふたたび向き合うかであった。

 開幕20分ほどすぎて、目の前に座ったソファーの女房を見ると背筋を伸ばしたまま、目を閉じていた。「眠らんで見てよ」と思わず叫ぶと、返事もせずに目を開けた。一時間ほどして、床下の不発弾が爆発するという、いよいよクライマックスの序章が始まったが、女房はびくともせずに、しゃんと背筋をのばしたまま画面を見入っているようにおもえたのだが・・。こうして、映画は2時間あまりで、無事に終了した。ほっと息を吐いて、興奮をおさえようとしていたら、「こんなばかげた、りくつにもなんにも合ってない、くだらぬ映画のなにが第一級の作品なのよ、あんたの浅はかさ、みーちゃんさ、演歌好き、のど自慢好き、そんな程度の人間にちょうど向いているのよね」と、ぼくを罵倒しだしたのである。

 今回はぼくは、あまり反論はもちろん、内容についても説明もせず、彼女の言い分は、映画についてでなく、ぼくを攻撃する意図でものを言っているという意識だけじゃないかと、黙る態度を取っていった。おそらく、「ハラがコレなんで」を感動的に見るというには、芸術とはなにかとか、現代の状況とはなにかとか、ややこしい論議をせざるを得ない。こんな社会学的、思想的な会話を女房と交わすには、ぼくはあまりにも俗物性を、彼女にさらけ出して半世紀もともに、暮らしてきているのだ。こんな純粋な気取った知識人的会話など照れくさくてやれるもんではないのだ。ということで、女房との映画鑑賞は終わったのだが、こんなばかげた、理屈に合わない映画という彼女のひねくれた指摘が、実は最近の日本映画の特色を現しているので、これらを契機として、ぼくなりに「ハラがコレなんで」を論じてみようと思いたっにいたったのは、一つの幸いであったかもしれない。

 さて、ここでぼくがはっきりといいたいのは、「ハラがコレ」は小津安二郎の「東京物語」や黒澤明の「生きる」よりもぼくは好きだということなのである。そんな映画とは違うのだ、リアリズムではないのだ。ということとなれば、なんなのだ、シュールリアリズムでもないし、ドキュメントでもないし・・そう、それは「寓話」だという見方をすると、他人に説明しやすくなる。そうだコレはぼくにとって寓話なんだ。蛙や犬や亀、蟻などの動物を使って、にんげんのバカさ加減を、笑わせるイソップ物語の寓話がある。あれを教訓とし、ありがたがるむきもある。あれは、人間への西欧的悪口である。鋭く短い悪口ではないかといえる。それでハラがコレとは、違うのだが、教訓でないという点だけで重なる。他方にもっと長いジョージ・オーウェルの寓話「動物農場」を思いつく。こちらの寓話は、映画にできたほどに十分長い。ソ連共産主義の非人間的制度を、豚や犬や馬を使って見事に暴いた。寓話形式にしたため、全体主義の発生や制度が明快に伝わってくる。これでもって1940年代の当時、オーウェルを怒らせていた世界中の知識人のソ連共産党万歳の意識をぶちくだこうとした。寓話は、架空であるが、架空であるがゆえに、ツンドラ化した意識に、現実を明示する機能をもたせることができるのである。ぼくが東京物語や生きるよりも、「ハラがこれ・・」をおもしろいのは、今を知る、感じることができるからである。「どこが、どうおもしろいんよ、ばかばかしい!」という直感は、寓話という見方に立てば反対の見方にいたることが可能。ではそろそろ本題に入って行こう。
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第18回宮崎映画祭 言語の可能性

2012-08-16 | 映画
今回もまたおもしろい邦画2作品、「婚前特急」と「ハラがコレなんで」に出会えた。なんでこんなにおもしろいのだろう。それに比べて、上演された欧米作品はなんとつまらないことか。以前は邦画など見る気がしなったが、今は欧米作品より邦画がおもしろいと、映画祭で見るのを愉しみにしだした。邦画が欧米よりも見るに値すると、ここ数年逆転してきた。文化状況が変わってきた時代を思わざるをえない。

 その邦画2011年4月公開の「婚前特急」を初めて映画祭で見たわけであった。どんな内容か見当もつかなかったが、タイトルからは、ありきたりの喜劇かなという感じしかなかった。上映がはじまると、たちまち吸い込まれていったのは、その言語のおもしろさであった。ヒロイン池上チエがいい、どだい人生を楽しむために、それぞれに快適な時間をあたえてくれるさまざまの職業、中年から年下まで、5人の男たちと交際している。その合理的手練も親友がとつぜんできちゃった婚をして、その幸せな様子をみて、一変、結婚願望に走りだし、彼女に負けない最高の結婚を目指す。彼女の合理主義は、さらに加速される。ただちにチエがとりかかったのは、交際中の5人の男たちを職業から地位、境遇、年齢、知能、性格、将来性と「査定」一覧表を作成し、低い順から関係を清算していくことにした。「査定」ということばが、なんとも生々しい。まさに資本主義企業並の事業展開である。査定の結果、最低点の田無タクミがまずリストラの対照になった。そしてタクミを呼び出し、リストラつまり別れ話をもちかけた。だが、「おれたちつきあってないじゃん」と返答したのだ。自分は雇用主と思っていたプライドは吹き飛ばされてしまう。チエは、タクミを自分に本気で惚れさせ、その上で振ってやる、それしかないと、ふたたび彼女の信じる合理的行動に移していく。その日から2人の関係は、予想外の展開に入っていくことになる。

 この後、チェエは、自分に惚れさせるどころか、タクミのパン工場の経営者の一人娘に思いを寄せられていることを告白され、その仲介を頼まれる。その女がヤリマンでしかないことを、つきとめチエは意気揚々とタクミに忠告するが、ここでまたタクミの返答、ヤリマンであることが、2人の愛にはなんの影響もないことに反論できなくなる。こうしてまた、つぎの合理主義をこころみることになっていく。このようにチエとタクミで交される言葉のズレが、一枚、一枚とチェの合理的判断と行動を剥ぎ取っていく進展になっていくのだ。今、それこそ、DVDを借りてきて、2人のやりとりする、その言葉を追いかけてみたいものである。この2人の発する言葉は、活字で学んだ言語や使用法とは、まったく別次元、おそらく、漫画やテレビ、パソコンやメールの日常言語、これらを共通言語とする同年代の友達などによって培われてきた言語であると、ぼくは思うのだ。そうした言語による会話を、活字世代の俳優が、シナリオ通り会話してもおもしろくもなんともないはずである。言葉は身を現し、身は言葉を現すからである。チエ役の吉高由里子の甲高いが甘い声、怒っても可愛い、査定などと高止まりしても、どこか子どもっぽい純粋さなどなどが、台詞を極めて魅力的にする。タクミ役のミュージシャン出身である浜野謙太、腹の出た短足で脂滲む体の存在感が、チェを圧倒し、いつも決断とはいいがたい、ぼんやりした、あいまいな自信のない口調が、つかみ所を失わせ、チェの必死のありきたりの言葉を吹っ飛ばしていく、その無抵抗であるが動かない立ち位置を話す言葉が合理主義のうろこをはぎとる。こうした言語のやりとりは、突然に上昇、下降するジェット・コースターの快感となる。その風景に資本主義的原理が一枚、一枚はぎとられいく現代風景が広がっていく。この展開の現代性は、欧米映画を無価値にするほど感受性にあふられている。、

 2人のやりとりは、お笑いのつっこみと受けにも似ているが、目的はもっと「哲学的」であるとぼくはいいたい。「査定」するという日常用語が、ほとんど役に立たないことを、2人の会話はあきらかにしていくのだから、これだと決まった言葉が、実はなんら自分の本心をも現しているのではないということが、わかっていくのである。つまり哲学の機能である。教養とか、常識とか、モラルとか、習慣とか、合理的なライフスタイルが、一度視点を変えることによって、どんどん崩れだす。そして本当の欲望を気付かせてくれるのだ。この映画にも万葉集の恋歌が登場する。自分と違った恋人を獲得できたタクミの無知ぶりを、こんどこそ暴いて大恥をかかせてやろうと企てたチエは、自分も交際相手の一人をつれて、お鍋パーティをタクミのヘヤで開くのだ。ふとしたときに、万葉集の一句が、タクミの口から出ると、外の2人が即座に下の句を唱和しだした。万葉カルタからである。それからつぎつぎと万葉歌のやり取りとなり、自分が一番知性的と自負していたチェだけが、歌を知らずに疎外されていくというシーンに最後の決定打をチェは打ち込まれる。後は終幕に一直線につっこむジェットコースタの快楽に身をまかせられる。
 
 見終わって、あらためて教養も文学も芸術も吹き飛ばせの彼らの言語感覚が脅威的である。まるで賛歌だ。この万葉歌の挿入は、芸術作品を目指した河瀬直美の「朱花の月」にも挿入されているが、万葉はどちらで生きているか、言わずと知れた、かれら無教養と見られた若者たちのほうであろう。

 映画がおもしろいといっても、たんにおもしろいだけでは、飽きがくる。おもしろさに加わるものがあってこそ、おもしろさが魅惑する。おもしろさに加味されたものとは、知的なものとでもいえようか。ほかに適切な表現が思いつかないが、この場合、「知的」とは、世界がこの映画を見て
新しく見え出すということになる。これが、ここ数年の邦画のカンヌ映画を越える面白さである。
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