市街・野 それぞれ草

 802編よりタイトルを「収蔵庫編」から「それぞれ草」に変更。この社会とぼくという仮想の人物の料理した朝食です。

どん詰まり宮崎県:2005年の若者像 2種

2004-12-29 | Weblog

今から10年ほど前、宮崎県内の高校生から郷土についてのエッセイを募集、入選作を冊子にしたものがあった。本県の自然
 の豊かさ、素朴な人間性から故郷を肯定する主張がおおかったが、その中でいきなり「私は宮崎が嫌いだ」と始まる一編があった。私の暮らす市には、高校生を満足させる店もなんにもない、これからも出来そうもない、だから卒業したらこの市を出て行くという短刀を投げるような率直な心情が胸をついた。これと、先日見た映画「voices」に共通なものを感じるのだ。宮崎市制80周年事業として若者たちが企画・製作をした自主映画であるが、満足感のない、満たされることのないこの街で、今、なにを自分の生きる根拠とするかを問う心情が感じられた。もっともこちらは、女子高生のエッセイに比べると、ずっとやさしい、切なさがあったが。
 この日南市の女子高校生は故郷を脱出したのだろうか。あれから年齢を重ね、ちょうど
voicesを企画制作した宮崎シネマコミュニティの川添美加子代表や、その仲間の女性たちと同じくらいの年齢になっている。彼女は今どこ、そして故郷は、どう映っているのか。
 こんな日々、2004年12月19日、宮崎日日新聞社の玄関ロビーの特設会場で、小河孝裕                                         写真展「西米良発若者図鑑」があるのをしった。おそらく他の県の人が「西米良」と聞いても何のイメージもわかないだろうが、ぼくらにとっては、熊本県境にちかい村所を中心とする西米良村は、どこよりも深い山村の町である。日常でその村を思うことはほとんどない。温泉もなければ、観光地でもなく、単なる山村でしかない。そこでの若者図鑑といわれても興味がわかなかったのである。
 はじめ宮日新聞社の園田論説委員から「若者がいい顔している、いい表情している」とすすめられても、見る気はなかった。どうせ若者に媚びた写真だと思っていた。これまでの文化人、知名人の偉そうな顔を並べた写真展が何度かあったが、感動どころか不快感が先に立つものだった。そんな肖像写真展と大差はないと退けていたのだ。ところが、たまたま夕食時、テレビで小河さんと写真の紹介がでて、目を移した。それがきっかけで、最終日に展示会場に駆けつけたのだった。そこは、新聞社の2階にある貸しギャラリーでなくて、玄関の階段下に展示架台を並べ、照明も自然光だけの写真展・・・だった。
 ぼくが惹きつけられたのは、テレビに放映された二、三の肖像写真のとてつもない明るさだったのだ。会場の30人ほどの写真からくるのは、圧倒されるような明るさであった。
それと、このまま宮崎市に出そうが、東京都に出ようが、そのまま通用していくファッショナブルな雰囲気であった。妙な言い方になるが、先端的な都市的感性の存在であった。
 どうしてこういうことが生じているのだと、私は、息を呑んだ。20歳代の若者が一人一人は、一枚の写真に正面向いて撮られている。山作業着の青年、エプロン姿の保育士、電動鋸を肩にしてヘルメットの青年、ウエイトレス、街角の店員、教師、看護士、老人福祉施設の介護士、役場の職員と多様な働く若者たちの立像だ。背景は人物を浮き立たせるために白一色でなにもない。そこから保育園のこどもたちのざわめき、山林の風、居酒屋の匂い、教室とかれらの生活の場が感じられた。それは、表情や、職業にぴったりの服装や
なにげなく子どもを抱いたといったような日常のし慣れたポーズからくるようだ。その明るさは、生活の場の生きがい、楽しさ、そして自信から生じている。かれらの着こなしがきわめて個性的であるのが、ファッションを生みだしている。昔の街並みは、都市デザインとは何の関係もなく、そこに暮らす住民の伝統的美意識が生み出してきたものだ。おなじことが、着こなしにも言えるようだ。これらが生み出した若者像である。
 撮影した小河さんは西米良村生まれ、19歳で状況。27歳でフリーランスとなり広告を中心に人物、静物の写真をてがけプロとして仕事を始めだした。その広告写真、一流ファッション誌の女性写真や自動車、電気製品の広告などは、まさに流行をとらえたすばらしい技術をもつ写真であった。その彼が、40歳にしてどうしても帰りたくなり、周囲からどうしたのかと、その判断を危ぶまれた。やはり帰郷したことをテレビで語っていた。東京と仕事をつづけながら、西米良をとりつづけるなかで、ときおり興味本位で自分を訪ねてくる若者たちの魅力、存在感、未来に向かう自信とエネルギーに引かれはじめ、それを訴えたいと撮影を始めたというのである。ことさらに若者を題材に選んだのではなく、そうせざるを得ない若者像の存在があったのである。そうした若者を生み出しているのは、消費都市として伝統もコミュニティも破壊された市部とくらべ、伝統や慣習、村落共同体であるコミュニティが傷を受けずに残ったためだろうと思う。しかも今は、道路の改善と自動車により宮崎市でも熊本市でも2時間足らずで行けるという利便性も併せ持っている。この地の利に立つ若者たちの将来への自信もあるのだと思えるのである。
 かれらは、まさにvoecesの若者像と正反対の生き方をしている。暗さに対して明るさ、自己疎外をどう克服するかより、社会をどうつくりかえるかの自信、消費するよりも生み出す日々、過去よりも未来が安心感をもたらし、今は耐えるよりも楽しむものなのだ。しかし、ぼくが言いたいことは、だから伝統やコミュニティが大事だと説教を垂れることではないのだ。そんなことは、どうでもいいのだ。なによりも言いたいことは、どんづまりの宮崎県にこうした対照的な若者像があるということだ。この2像に共通していることは、
どちらも生活する現実に根ざしているということだ。かれらは、現時を改革していける批判的なエネルギーや視点、行動力を持っているということだ。こうした若者像が2004年の終わりに出てきたこと、この事実を伝えたかったのである。



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宮崎市発の映画「voices」

2004-12-27 | 映画
 宮崎発の映画「voices」の完成披露試写会があった。宮崎市制80周年記念事業として、宮崎映画祭にかかわってきた若者が企画・製作、宮崎出身の監督、俳優たちと市民たちの俳優・キャストが共同で完成した映画である。これまでも、市制記念事業の出版、演劇、オペラなどもあったが、いつも観光宣伝か、お国自慢のチンドンやを超えるものはなかった。今回も企画の段階から興味も関心もなかったのだが 今回は違っていた。意外であった。ぼくは、この試写会を見終わったとき、なにより宮崎市市長、宮崎市行政関係者が、この映画をみて、どんな感想をもったのか、ひどく知りたかった。
 この映画にはいわゆる南国宮崎はない。どこにもあるような地方都市だ。そこに中学生、同棲中の二人、休みでガールフレンドを連れて帰省中のアベック、危篤の老女と中年の一人息子、幼女、レトロな写真館を営む老夫婦などが登場する。それぞれは、それぞれの人生を抱えており、短い台詞でそれぞれの問題点が明らかになる。それが相互の関連を生みだし、全体がまとまって、宮崎市の今が伝わるというなかなか巧妙な構成である。これが一連のイメージとなって残る。荒削りではあるが、宮崎市の新しい詩情もあった。
 映画は朝日の気配を感じておきだして障子を開く幼女、同じく朝日の差し込むどこかの病室で死に瀕している酸素吸入器の老女、まだ暗い海岸をひたすらに走る女子中学生で始まる。この冒頭のシーンはこの映画全体のトーンを示している。それは、孤独で切なくて、懸命にひたむきに生と向き合うしかないという生きる今を現していた。このどうう暗さを市制80周年の現実としてどう認識できたのかしりたいのだ。
 女子中学生は、転向してきたのだが馴染めず、走る事で克服しようとしている。別れを決意した女性が男にだまって空港に向かう。里帰りした若者は、宮崎市街をみおろして、ちっとも変わってないと嘲笑を浴びせる。レトロの写真館の老夫婦は、もはや、過去にしか興味がない。夜景の繁華街の街角は、画面いっぱい、野村證券、霧島焼酎、レイクの巨大な電光看板がスクリーンの半分を占める。とおり騒ぐ若者、すわりこむアベック。別れられず、また帰宅した女。暗い海岸で海を見つめる走る中学生。
 一夜が明けたのか、呼吸器をはずした老女の穏やかな顔を覗き込んでいる息子。死んだのか、落ち着いたのか、はっきりしない。あのぜいぜいという呼吸はもはや聞こえない。しかし、今朝もまた朝、海辺を走る中学生の呼吸に引き継がれている。その吐く呼吸に込められた感情が視るものを否応無く捕らえつづける。
 これが、宮崎市の今だと企画・製作したわかものたちは言っているのだ。ここには浮ついた華やかさも、明るい希望もない。そう、なにも変わらない消費社会の地方都市がある。そこに生きるかれらの心情を感じられる。ある意味ではどん詰まりである。しかし、声をあげて批判するのでもない。ことさら政治的動きをするわけでもない。あの呼吸の切実感だけが生々しくある。暗く絶望的というのではない。今をともかく生きぬく意志が、老女を超えて残っていく。ここにこれまでとは
ちがった宮崎市民のしぶとさを感じさせるものがあった。ここに共感を覚えるのだった。






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イオン・ショッピングセンター

2004-12-23 | Weblog
 12月21日に投稿した「黒船イオン 開港」で宮崎市に来春できるイオンが原子力空母をみるようだといったが、昨日さらに変化が生じていた。形はもっと奇怪なねじれを現し、むしろ「ハウルの動く城」のようだ。これまでの校舎風なイオンとは形態が違っている。7万平方メートル、つまり長さ350メートル、幅100メートルで2層というを長方形ではない。曲面、立法体、ドーム、回廊、斜面、アーチと複雑に絡み合い、各部位(売り場か)が20万平方メートルの敷地にアメーバの触手のように張り出している。
 これまでとはまったく違ったイオン施設の形態に息を呑まされた。イオン・ショッピングセンターは、やる気まんまんなのだと、その本気さを感じた。市街地のど真ん中に等しい場所、しかも交通至便の場所での開設である。これがもうからぬはずはないという合理的計画性を見た。この合理性のまえで、旧態依然、牧歌的な宮崎市街はどう変わるのか、こんな新年が明けようとしている。
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黒船 イオンSC 開港

2004-12-21 | Weblog
 来年3月、宮崎市にイオン・ショッピングセンター開業する。敷地おおよそ20万平方メートル、売り場面積7万平方メートルを超えるという巨大さである。イオンのSCで九州はおろか日本最大という。鉄骨構造で外観が現れてきたが、幅で100メートルほど、長さで350メートルもあろうか、シネマコンプレックスのドームや回廊の屋根、あちこちにある導入部と複雑な凹凸をもつている。まるで原子力空母を仰ぎ見るかのようだ。
 宮崎駅から1.5キロ東に数年まえに4車線の市内最大のバイパスが南北に開削された。このバイパスから東へ1キロほど離れて海岸腺が併走している。イオンはこの間の田園地帯に開設された。建設場所は、中心市街地から車で10分内外で簡単に来れる。市街を還流する大淀川の南岸,丘陵地帯に広がるニュータウン群から3つの橋を超えて道路が、このバイパスにつながっている。つまりこの位置は、いわゆる郊外でもロードサイドでもなく、中心市街地・商店街に隣接した場所なのである。
 今は4分の3が衰亡してしまった商店街・橘通に隣り合って、その規模をはるかに超える人口的・計画的・効率的商店街が出現する。宮崎市街に及ぼすショックは、古いたとえだが、「黒船来航」による開港要求というのが一番ふさわしい。それほど宮崎市街の商店街は、旧態のままであった。中心市街地壊滅の反対運動もあったが、イオン来航のまえにすでに衰亡の一途をあどっていた商店街の言い分は、市民運動としての説得力を欠いていた。そして来春開設。さあ、これからどうなる。これからどうする。宮嵜市街は衰亡するのか、再生するのか、おもしろいといっては不謹慎だが、
100年の眠りをゆさぶられるとう事態は、興味はつきない。
 イオンとはなんなのだろうか。その実態をもっと知りたい。各地のイオン体験記を送信願えればと、ブログ先輩の方々にお願いしたく、開設一番の記事を投稿いたした次第・・・
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