市街・野 それぞれ草

 802編よりタイトルを「収蔵庫編」から「それぞれ草」に変更。この社会とぼくという仮想の人物の料理した朝食です。

自転車と事故について

2016-10-08 | 自転車
 家内も次男の嫁も、看護師も医者も、自転車に乗り出したら、こんど倒れたら終わりだよと、警告を告げる。かれらの不安と心配はわからぬではないけれど、ぼくにとって自転車は運動靴のようなものなのだ。運動靴を履いて倒れるという結果をかんがえられないのだ。倒れるのは靴のせいじゃないよというわけだ。昭和11年5歳で2輪車に乗りだしたが、戦時中の疎開や、戦後の貧困、学生時代と自転車は手元をはなれていったが
その後、職場への通勤に使用しだしてからは、凡そ半世紀、自転車は生活必需品としてありつづけた。長男が中学3年生となった1978年から、スポーツ用の自転車を彼のと、自分用のと2台購入、ドロップハンドルをつかいながら長距離のサイクリングもやるようになった。それから10年後の1988年、大学生になった長男の勧めでカリフォルニアで流行っているというマウンテンバイクを購入、種子島一周や鹿児島港から知覧町へ知覧峠を越えてのサイクリングを楽しんでいた。山道や砂利道、廃止された鉄道の枕木のならぶ真ん中でものれる機能を試すのがおもしろかった。だが、今にして思えば、マウンテンバイクの楽しみは、まだ体力があったからが大きな要因だったようだ。その後、100キロを越えるサイクリングには、クロスバイク、ドロップハンドルでなく水平ハンドルをもった高速長距離用の自転車が適しているのを知り、2005年に購入した。タイヤ幅2センチ、重さ10キロ片手でかるがるともてるクロスバイクは、まさに走るマシーンで、ドロップハンドルでなく操作がしやすく、街中でも峠越えでも衰えた膝や背筋をカバーするように快適に走っていける。このエスケープという名の自転車も11年目、おそらくこれからも愛用するだろう。これらのサイクリング車で倒れたことはないのだ。これは事実である。この体験から、ぼくは自転車は原則としては倒れることはないのだと、知っている。倒れないのが自転車である。運動靴で倒れない以上である。
 だが、日常で使用する普通の自転車では、ここ16年間に4回倒れたのである。今からそれを話そう。まず、最初は、宮崎駅の鉄道高架にそっている道路を走っていったときに生じた転倒である。雨が降り出した午後8時頃だった。本降りになりそうだったので、急ぎ出した。その最初の十字路で自動車が右からも左からも走ってこないのを一瞬みとどけて、真正面の道路へと走った。と、激しい衝撃で自転車は跳ね返され、ぼくは地面にほうりだされたのだ。なんと、十字路ではなくて、そこは前方の歩道の縁に高架沿いの道路はTの字に接触していたのだった。その歩道の縁に激突したのだ。その角には街灯があり、ぼんやりとした光をとぼしていて、どうみても道路は十字路に交錯しているとしか見えないのだ。昼間だったら向こうの歩道が確認できただろうが。雨模様の夜の暗がりのなかでは、見えようがなかった。しかも、この歩道は、なんのためか、幅3メートルほどの切れ目が、模様のように左右にひろがっており、たまたま切れ目は、正面になくて、その左右の横に合った。人をばかにしやがってと、猛烈に腹が立ったが、もんくのぶっつけようもなかったのであった。2度目の転倒事故は、宮崎中学校の校舎と運動場の間にぬけている道路公園という道路の入り口で起きた。ここは夕方でうすくらかった。入り口は広く幅10メートルほどの広場で運動場側に沿って、浄化された水がせせらぎとなって流れるのだ、道路には、桜並木もありまさに公園となっている。入り口では水路はまだ池のようであり、蓮の夢という気取った名前の石標が水面にある。ぼくはその池の縁にそって走り、運動場と校舎をつなぐ横断路をこえて進もうと、走っていった。だが、その横断路には縁があったのだ。これに衝突、転倒したわけである。縁が夜道でめにはいらなかった。照明もなく、樹木がじゃまして縁など目にはいらなかった。歩いていたのなら、まちがいなく気づけたろうが、きづけるはずがなかったのだ。
 3回目は、相手がいた。イオンモールのある山崎街道で起きた。中央分離帯に椰子の並木を植えた4車線道路の歩道をはしっていたら、農道が交差している場所に乗用車が舳先をだして停車していていた。ドライバーは中年の女性で、右から高速で走ってくる自動車の切れ目をうかがっていた。どうも左側の窓わきにいるぼくのほうは、みようともしない。そのうちやっと車のながれが隙がでて、そこでぼくはべるをならして、車の舳先を通り抜けようと踏み出した。そしたら、自動車もまえにでて、そのままおしたおされたのだ。その前に自転車からおりていたので、怪我はしなかったが、彼女はぼくの気配すら感じなかったと不満げであった。ベルの音でも右に顔をむけなかったようだ。最後の例は、宮崎駅構内に近いスーパー暮らし館の駐車場の道路に直接面した出口から道路に出て向かいの歩道に渡るとき、その先の十字路をまがってきた黒ヘルメット顔までもおおったオートバイを避けるため、自転車を飛び降りた事故だ。オートバイは自転車を引きずり、10メートルほどさきで転倒、ヘルメット男は死んだように横になっていたが、まもなく起きたので、おたがい怪我もしなかったとそのままわかれたのであった。以上である。

 ほかにまだ2回あったが、事故にならずに済んだ。事故っていたら、命を失うほどの重大事故になるところだった。一つは、住吉と宮崎駅東側の幹線道路を結ぶ道路がほぼ開通寸前になったときに遭遇した。この道路はまさに巨大な一本道で、昼間も夜も人一人、もちろん自動車もはしらぬので、ぼくはよく自転車で走っていた。ある満月の夜、このまっくらの道で水平線にみえる街の万華鏡のような光を満喫しながら左の歩道部分を走っていた。満月を仰ぎ、市街の明かりでつつまれた広野であった。そのとき、なにかの調子で、僕は下を見たのだ。と車輪の直前に堀抜いた穴があいていたのだ。なぜ、その警告もせずにほったままにしていたのかと、憤怒にかられてどくづいたのだが、走っているほうがまちがっていたのかな。もう一つの場合は、木花の運動公園前から青島を経て内海に越えるバイパスを走ったときだ。これ以前は、内海の峠に至る峠道は狭くカーブも多く、大変だったが、このバイパスは、歩道はひろく、直線をあっというまに頂上までいけて、そこにもうけられた公園から、雄大な太平洋を眼下に見張るかすことができた。その帰り坂を降りきったところで、バイパスから外にでて近くの温泉でもあびようとした。そこで、目に入った狭い出口から出たのだ。ふとバイパスでの緊張がゆるんで、筋肉をゆるめるように首をげ、この道路の先が目にはいった。なんと、そこから先は階段になっていたのだ。もし、下をむかずに、鼻歌まじりにまわりの景色ばかりを堪能していたら、この階段からまっさかさめに落下してしいたのだ。なんで先は階段と明示するか、自転車の通行禁止をするかをやらないかと、またもや憤激したのであった。
 以上が、自転車で転倒した事例である。自転車で走るには、道路は危なすぎるのだ。車道と歩道しかない一般道のなかで、どう安全に自転車走行をするのかが問題なのだ。自転車走行の危険とはこれなんだ。4年に一回、70歳すぎて遭遇してきている自転車走行の事故率は、一応覚悟しておく必要があろう。確率はどうすれば下がるのか、あるいは、さがらないのか。それは運命なのか、かんがえてしまうのである。
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自転車 散歩(サイクリング) 看板に吹かれて

2013-12-03 | 自転車
 7月17日、妻の退院の帰途、片手にバッグを抱えたまま、横断歩道に駆け込もうとして歩道から転倒した。赤信号で停車している乗用車のまえで、一瞬で起き上がろうとしたが、激痛で立ち上がることができず、なんとか体を起こして、歩道に上がった。信号はしゅんかん青になったわけだ。歩道のへりの2センチくらいの欠けに足を取られて、車道に投げ込まれたのだ。左の脛が打撲で赤くなっていたが、つよく押さえても痛みはなく、腫れてもなく、骨が折れてはいないと判断して、胸をなでおろしたのだった。翌朝も腫れてなかった。痛みは、夜のうちに引いていたし、これで終わったと、歩きがやや不自由であったが、日常にもどったのだった。ここから異変が始まった。まず、寝起きが簡単にできなくなってきた。体を起こすのに両手を突かなくては、どうにもならなくなった。それから、とつぜん猛烈な痛みが腰に発生し、歩くこともできなくなりだしたのだ。4日目だ。そこで医院で調べてもらうと、骨に異常はないが、打撲がひざ間接に及んだ影響だということで、静養が必要といわれた。腰の激痛はすぐに治まったが、左ひざをかばって右ひざも痛みが発生するようにもなり、一年ほどつづけていた毎晩の散歩も出来なくなった。だが幸いなことに、自転車は相変わらず日常生活で不便なし乗ることができたのであった。
かくして、膝をかばう日々が始まって、痛みも無理をせぬかぎり感じなくなった。しかしぼくが戻りたいのは、遊びの自転車走行が、50キロ走行くらいは出来なければという欲望が断ち切れなかったのだ。そして11月14日、山崎街道を北上、イオンショッピングモールの前をとおり、「市民の森」を抜け、動物園前から、広大な畑地と九州山脈を見ながら一つ瀬川にかかる佐土原町の日向大橋まで行った。16キロ弱であろうか、両膝にかすかな熱があるが、無事であった。帰途も無事に乗り切れて、走行は終わったわけである。

 12月1日は曇り日であった。無風でサイクリングは向いた日となった。2回目の走行を試みることにした。ただ、こんどは左ひざに自覚できるほどの痛みが、どういうわけか現れていた。まあ、いいか、悪くなれば引返せばいいのだからと、ダウンのベストを長袖の黒シャツの上に来て、ギヤ比を落としてつまり、漕ぐ足の力を減らす、かわりにスピードは遅くなるようにして、ゆっくりゆっくりと走行をつづけたのであった。とにかくゆっくり、ゆっくりと走らねばと、山崎街道にそう旧道をたどりながら、わき道があれば、そちらに曲がったりと、しまいにはどこを走っているのかわからなくなった。そのころから、ひざのことも、サイクリングへの復活をという目的も消し飛んで、走りながら目につくものにもっぱら関心が移っていった。まず意識にのぼるのは、どの道も初めてきたように思えるが、いつかきた道であることには間違いない、そんなきれぎれの記憶があちこちに残ってはいるのである。そして、通ったと確信できるのが、看板の記憶である。その看板に出会えたのである。

 その看板は「ディケアセンター ひだまり2号館」であった。いよいよ人生も終わりに近くなり、なにをしなくてもいい、ひだまりでじわーっと過ごす日々となるのかと、そんなイメージに思わず笑ってしまったのだ。1号館でなく2号館というのが、人生の表から裏へ退いた感じ、リアルであった。ここでお世話になりだした老人は、自分の終末をひだまりで過ごすと見るのか、まだ現役でありたいと思うのか。あるいは、もはや自分でなく身内が、ひだまりに送ったのか、その場合は、老人は、どう人生を思っているのだろう。だれでも、最後は自分で自分の始末をつけるには、自殺か事故死でないかぎり、ひだまりでケアされる日々を否応なく迎えねばならなくなるようでもある。ひだまり2号館・・そのあまりにも直裁な、混じりけのなさが、記憶に焼きついていたのだった。おれはどうなるんだろう、いやどうなるもこうなるも、ここに道は進むのみなのだと思うと、こっけに思えて吹きだしてしまうのであった。ただ、家内はいい名前じゃないと、感心していた。おそらく、そのネーミングの真意は、ひだまりにいるようにあたたかい、ゆったりとしたひとときですごせますようケアしますという意味かと思うのだが。

 そこで、急に思いついて自転車を10号線のほうに向けて走らせた。ここには狭い自転車道が歩道と車道に設けられ、でこぼこの路面のせいで、ゆっくり走るしかない道になっていて、自動車からは一応護られていた。佐土原の町はながながと2キロはつながる。こんどは、看板を見つけながら走っていると、思ったとおり、面白いのが見つかった。まずは「個室居酒屋POPO」というのだ。個室にしたらよっぽど狭くしても5室もとれないような平屋であったが、「POPO」というのは、どこから来たのだろうか。板壁、トタン屋根のなかで、POPOは凄い存在感であった。すぐに「男サロン」と立て書きのペンキの看板が目に付いた。理容所だ。以前、西都市の近くに「紳士倶楽部」という理容所をみたことがあったが、街中では以前は床屋さんは男たちの溜り場ではあったのだ。そういうことを思い出していたら、目に飛び込んだのが建物の壁に、「ディケア佐土原はつらつ」であった。青いジムのような高い建物の壁に運動する二人の人物が記号のようにかかれ、それがいかにも「はつらつ」のイメージを示す。これを「スポーツジムはつらつ」としたら、軽すぎ、保育園みたいになってしまう。老人施設とはつらつの組み合わせが、いいわけである。同じ敷地に「凛凛」という店があり、これは中華料理店であった。こういう老人は、困り者も多いようである。そこでまだ老人ホーム・ケアホームをさがしてみると、なんとも言えないネーミングがあった。「マルサの森」というのだ。雑貨店かカフェの看板のような板に書かれ木枠で縁取られていた。意味はまったくわからないが、どこか岩波絵本のタイトルのようで、幼児のおとぎ話の世界を思い出せるような感じがする。老人になり、もはや幼児に帰れというイメージでは、ひだまりへかもしれない。ぼくは、3つのネーミングでは、これを選ぶ。ここに別の新しい現実を作るしかないと思う。日常をどこまでもつづけて最後を迎えるというようなわけにはいかぬはずだ。日常から非日常へどうここをつなぎ合わせるかだ。どうにかなる、そのときは、そのときよですんでしまった知人・友人は、ほとんどまわりに迷惑をかけずにどうにかなったのも事実ではあった。ただ、ひざひとつでも、一歩まちがえば、日常を断たれる現実は、身にしみての自転車散歩であった。
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自転車ぶらり 小指と運命

2011-02-16 | 自転車
 月曜日明け方、揺れと空振で目が覚めた。翌日の新聞で新燃岳が、爆発噴火で、小林市に火山灰が大量に降り、38台の乗用車窓ガラスが破損とあった。この二日前にぼくは小林市の温泉「美人の湯」の露天風呂に浸かっていた。火山から北東8キロの平野を見晴るかす景観の丘であった。このことは前回のブログに書いたとおりである。なぜ、あの瞬間にこれまでの噴火で第2番の大きさの爆発噴火が起きなかったのか、不思議といえば不思議だ。

 雨、晴れ、曇り、寒風、温暖、無風の入り乱れる天候のつづく今週が流れていく。左小指は、第2関節が内側から照らされたように赤くなり、くの字に曲がっている。鈍い痛みがあり冷えると、疼きだす。また、なにかの拍子で、無意識にぎゅっと小指を内側に他の指に同調してしぼると、殴られたような痛みが起きる。こんな小指だが、ギブスが取れたので、その日さっそく自転車でぶらぶら走ってみた。

 前回は、痛めた二日目で、ハンドル操作が出来なくなって途中で止めたのだが、今回はそうならないようにアウトドア用の手袋をして左手をハンドルの上に置いた。ハンドルをにぎらずにすれば、左手の指は全部動かない。ハンドルさばきもブレーキも右手でやる。ギアは固定したまま変えずに走ることにした。そこで、航路は、平地のみ、自動車と併走しないように裏道を行く。ということで、北へ、宮崎平野のなかを走ることにした。今思うと、こういうことを負傷の直後になぜ思いつかなかったのかと不思議だ。あの日は、両手でしっかりとハンドルを保持し、国道を青島に向かって自動車と併走しながら走って、ハンドル、ブレーキ、ギヤチェンジと、指を酷使して、剥離骨折を悪化させてしまったのだ。げに習慣というものは、おそろしい。今回は一ヶ月あまり、左小指を抱えて生活してきて、どのように扱えばいいのかが体にしみこんでいる。そこで、ハンドルに左手を置くというアイデアが自然とでてきたのだ。

 まさに一ヶ月ぶりの走行で、すぐに快適な気分になってきた。行く手にシーガイアのホテルビルや、廃墟が目前にせまりつつあるオーシャンドームがあり、おだかな日差しが野をつつんでいた。去年の12月20日に新田飛行場での航空ショーがあった日から2ヶ月ぶりだ。あの日は、日本晴れで無風、春のようであった。しかし、その二日後に事務室で転倒して、左指骨折に遭ったのだから、なにが待っているのか知れたものではないのだ。しかし、今日はいい、なんといっても寒風,極寒のあいだのこの無風に暖かさと、幸運をよろこんでいるとき、はっと気付いた、無風ではないんだと。自転車で走るかぎり、向かい風を受けるわけで、これも感じないというのは、追い風、つまり風といっしょに走っているからである。帰途は向かい風を受けて、きびしい走行になるということ、そう気付いたのだ。

 しかし、つぎつきと変化する風景は、映画やテレビのシーンをみているようで、退屈せず、または、いつものおどろきがある。裏道のすばらしさが、今度はあらためて実感させられた。山崎街道ちょっとそれた道路だが、なめらかな舗装がつづけ、潅木や、屋敷を囲む樹木もあり、家と家のあいだは砂地の広い畑がひろがり、そのまんなかを抜ける道路は、数キロ先まで見える。人もいなく自動車も走っていない。距離感が大きくなる。冬の野というのがいい。野のなかの雑貨店が近づいてきた。この店を通るときはいつも、こんな場所で、セレクトショップが30年以上も経営が続けられたものかと思うのだが、今日も健在であり、あか抜けた看板を横目でみながら先を急いだ。 

 ここを過ぎると、野はますます人家が無くなり、そのまま一キロほどで、動物園前から住吉駅のある10号線につづく基幹道路と交差する。ここを越えると、今度は歩道のある道路となり、なんでこんな野原に歩道つきの広い道路が要るのか、わけが分からない乾いた砂の舞う車道を500ートルも行くと、前を通るたびに関心を惹かれるデイサービスセンター「ひだまり2号館」にいきつくのだ。日曜日だったせいか、今日も人気はなくコンクリートの庭の奥に茶色の壁をした平屋がある。たしかにこの庭にはひだまりが池のように存在している。なぜ2号館なのか、1号館は探してもまだ見つからない。「ひだまり」というネーミングもさることながら、2号館とついたところが、絶妙なのだ。ゆっくりと、人生の晩年をお過ごしください。もう人生の荒々しさから平穏な日々をという労わりが用意され、片方には人生を遠ざけるという囲い込みを感じてしまうのだ。別府の温泉にも「温泉ひだまり」というのがあるのを最近知ったが、ここには、たんなる保養施設である。比べてひだまり2号館は、もう人生は休息期とされているのだ。ぼくもそのときはそのときで、たぶん、ひだまりを楽しめるだろうと思う。いや、楽しめるように神経が配置変えされるかもと思うのだ。

 終点は新富町であった。街は森閑と人気もなく、角のコンビニに数人の客が買い物をしているばかりであった。自転車を降りると、思った以上の南西の風が吹き付けてきた。帰りは真正面の向かい風がきつい帰途を思わせた、今のうちに腹いっぱい食えば、ふんばりが効くかもと、棚を探してまず250ccのスコールを買った。カルピスを薄めたような白濁したドリンクで、パンチがありそうだ。アンパンをと棚をみたら、隅っこにドーナツが目に付いた。硬式テニスボールほどの大きさで、それがまっ茶色に揚げまくってある。あのカステラかケーキかのような柔らかい
色白のドーナツとは大違いだ。ぼくには、あれはドーナツではないのだ。しかし、これは、油のよほど高温だったのか、棘がたっている。2個100円の袋入りを購入した。ドーナツはぼりばりと皮を齧ると、卵で固められた本体は、がじがじと齧っていけるほどであった。それをスコーラで飲み下していったら、一個だけで満腹感がしてしまった。残ったスコーラとともにあと一個をたいらげたら、まさに満腹して、力が溢れてくるのであった。食いすぎて眠くなるということもあるが、歩くとかサイクリングとか、山歩きでは、食うことによって運動を保持できると、ぼくは体験してきている。事実、今回もそうであった。無事に帰宅できたのであった。

 かくして左小指は、ぼくになんのサービスもせずにハンドルのうえに静止したまま、それでもぼくをどこかでコントロールしながら、まさに運命的についてきたのだ。

 このごろ思うのだ、なぜ小指なのかと、小指を絡ませて相手と約束を交わす。また、恋人の赤い糸は、小指と小指を結んでいる。親指では様にならない。人差し指を絡ませて約束するといのでは、詐欺でもしてやろうかという意思的な感じになる。だから、小指なのであろうが、小指というのは、自分で勝手にコントロールできないし、またコントロールすることも日常はしないですむのだ。しかし、無ければどうにもならない存在である。よく考えると、手の指は5本そろって、全体が絶妙に調和しながら、動くことによってのみ、人は、十分な目的を遂行しているのだと、あらためて思うのである。女性、あるいはゲイの男性が、紅茶カップを小指をピーンとつきたてて口に運ぶのは、自分の呪われた運命を誇示するためのことなのかもしれない。忘れていた自分の身体の小指、その辺境、周縁、無縁者であろう小指はなかば自分、なかば、自己を越えた運命であろうか。だが、運命とともに生き抜くしかない
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自転車ぶらり 泣いてみても

2010-10-16 | 自転車
 NHK朝ドラ、なぜかこれは正式には「朝の連続小説」というようだ。何でこれが小説なのか、つまり60年代以前の文学教養への思いがある。事実、この通称アサドラを連続小説と銘したのは、その発足した60年代であった。この時期、まだ文学は大衆の教養でもあったのだ。まさにNHK風な銘銘ではある。そして現在もまたその教養主義の尻尾をつけたままであるようだ。そうでありながら、この朝ドラ「小説」がおわると、すぐにつぎの番組でアナウンサーたち三人によるミーちゃん、はーちゃん的な物語へのどうしたこうしたのよいしょ感動話が交わされる。矛盾してないか。おまけにこのごろは、わざわざ父親役の俳優遠藤憲一をこの番組に招いて、かれの高校生のころのつっぱり写真や、残りの強面と今の落差などをやいのやいのと、囃子たててよろこんでいる。これまたみーちゃん・はーちゃんの評ではないか。かくして前後にむだなひらひらの飾りがつてき始めた。前の「げげての・」のときと同じことだ。ただし、ドラマは毎朝、感動のシーンがとどけられ、抵抗のしようもなく涙がほほをつたう。

 感動といえば、2010年10月15日わが国でのチリの炭鉱坑道地下720メートルに閉じ込められた鉱山労働者全員救助の実況中継もまた感動ものだった。それに世界中で感動が渦巻いているのが、報道される。まさに世界はグローバル化したと肌身で感じさせらる。どこもかしこも感動、感動で溢れかえっている。すばらしいと、思う。しかし、朝ドラの感動、またチリ炭鉱の33人の全員救助の感動も、テレビ視聴によるものである。世界同時感動もテレべ受像だけによって可能になった。テレビに存在しないものは、存在しないに等しい。まさに社会科学者のいうように、テレビという虚構が現実となり、日常の生きている世界、ほとんどテレビ放映にならない「現実」のほうが、虚構となって関心を失う。

 自転車でぶらりとするのも、街をほっつきあるくのも、喫茶店をかなり愛するのも、実は虚構ではあるまいかと、情けない思いに追い込まれるときもある。さて体育の日の代替休日、10月11日は、雲の多い晴天の日であった。午後1時近くになって、ふと外にでると、完全な無風状態であった。気温は27℃前後か、このおだやかな日は、自転車行にとってベストコンディションなのだ。一年に何回しかない日なのである。ただちにサイクリングへ出かけることにした。午後になったので、今回は青島へ行く。県総合運動公園に入り、その南の加江田川に架かっているトロピカルブリッジを渡り、「こども国」公園沿いにつづくトロピカルロードを走りながら青島の正面に出る。ここから国道269号線を経て、清武町に入り、池田台団地を越えて天満橋に至り、市街地に着くということにした。まさに走るということは、具体的でかつ現実そのものではないかと、思えるのではあった。

 午後1時半丁度、長袖シャツ一枚では、肌に風邪が冷たいほどだ。盛夏の35℃前後の走行とくらべると、ほんとに楽なものにかわってきた。赤江橋を越え、その取り付け道路が延長されて、2キロほど伸び、つきあたりの角を右折して国道269号に入った。ここから、飛行場も自動車が気付かないというか、不安で入れぬ間道を抜けて、ただちに空港につき、いっきに青島バイバス沿いの自転車道を走っていく。赤江橋が出来ない前とくらべて空港も20分でここから行けるようになった。

 今回は、前から思っていたのだが、運動公園から、橋に直接入れるはずで、それを探すことであった。正面の堂々たる幅員50メートル近くもありそうな道路にはいっていったが、たちまちどこに橋に向かう道路があるのかわからなくなった。亭々と並ぶ大樹に囲まれ、その奥に、あちこちと、さまざまの運動施設が見えるが、その内、南北東西もはっきりしなくなった。波の音さへ聞こえない。なんでこんな巨大施設をつくったのだろうとおどろくばかりだ。その内にシーガイヤのオーシャンドームに匹敵する施設のドームが見え出して、その方向が海岸だとわかり、その側面にすすんだ。すると赤い色のやや狭い舗装道路があり、ここが運動公園の外を廻る道路になっていると思えた。と、その道路のもう一つ向こう、ちょっと見上げる位置に道路があり、高校生の数人連れが自転車でわいわいいいながら走って行く。その道路こそたしかに橋に入れる道路と気付いたが、そこは公園の外であり、ここから行けないのだ。しまったと思いながら、さしあたりここを進んでいくと、なんとここがすんなりとトロピカルブリッジにつながっていたのだ。外側の道路は、一度、海岸の駐車場に至り、そこから橋に上がって入るようになっていたのを、思いだした。かくして、ぶじにブリッジに入れたのだ。

 橋から眺める景観、ハワイのホノルルワイキキの人口海岸の何十倍のある広大な自然の白砂の海岸は圧倒的な存在感でひろがり、ここに来るたびに宮崎市を誇りたくなるのだ、シンガポール幻想の津村市長さへつづかなかったなら、東国原知事が黒木知事のすぐあとになっていたら、宮崎市はもっと別の市街になっだのであろうと、景観の感動が押し寄せてくる。と、そのときだ、胸に急激な焼けるような痛みが襲ってき始めた。胸焼けのどはずれのものといえようか。この疼痛は、年に何度か、あるいは数年に一度かと起きることがある。ぼくは自分なりの判断で、心臓の不調としてきている。胸焼けの原因としてほかに想像のしようがないからだ。それで力を可能な限りゆるめて、自転車を漕ぐ。一向に痛みは治まらない。

 橋を渡りきり、こどもの国公園の遊園汽車の線路を走る汽車が虚ろに見える。ちょっときびしいな、いつもよりしっこいなあと、自転車を降りた、すると、急に脈拍が速くなり出した、運動を突然停止すると心拍数が激しくなる、この症状だ、すぐに自転車に乗り、ふたたびゆっくり、ゆっくりと漕ぎ出すと、まもなく正常にもどってほっとした。これまで運動中にこの胸焼けがおきたことは無かったなあと、あらためて感じるのであった。だんだん呼吸も平常にもどったところで、海岸に東屋があり、テーブル・ベンチもあったので、ここで自転車を降りて、座った。どうやら心拍もあがらず、ほっとして、休息しだした。風はないのに適当な波が押し寄せ、サーファーが波乗りをしている。ほとんどはボードを胸の下にして遊んでいるのだが、何人かは乗っていた。かなりうまい。内の息子はどの程度なのだろうか。まだみたことないのだ。読みかけの文庫本をズボンの後ろポケットが取り出して読み始めた。

 あっという間に半時間ほど経過した。もう胸の疼痛は消えていた。さらに読む。

 残った部分100ページ部分の現代アートの現況の部分を読了した。丁度、休憩して一時間ほど経っていた。もう体調はもとの通りであった。そのときはっと気付いたのは、本がこれほど集中して読めたことであった。これまでは、外で本を読むというのは、いつもタリーズか、サンマルクか、マクドナルドなどの喫茶店で、若干人々がざわめいるほうが集中できたのだ。この孤立した海岸のベンチで水もコーヒーも、音楽もなく、これほど本がよめるとは、おどろきであった。

 頭を使うと、疲れは実は飛ぶ。これはあんがい人は気付いていないようだ。場合によっては、運動で気分転換するよりも頭脳労働で、気分を高揚させたほうが、エネルギーが涌いてくるのだ。とくに年寄りは、スポーツよりも読書と考察をやったほうが、はるかに生命活力に効果がある、ぼくはそう思う。とにかく気分爽快になったが、帰りは、もと来た道を素直にたどって帰るほうがいいと、なぜか思えた。快楽をどこまでも追い求めてはなならない、そんな風に感じたのだ。来た道をただ帰りにするのは単調であると思えたが、そうではなかった。なにか、楽で悠然と散歩しているようにゆったりと帰れたのであった。腹八部はやってみて後が快適とわかるのだが、ほとんど出来ない。運動もまたたいていそうだ。今回は胸の疼痛によってそれができた。運動八部も想像以上に快適であったのだ。
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自転車ぶらり 激変

2010-08-31 | 自転車

 雨か、とにかく、この川沿いの崖に沿った坂を本降りになる前に上りきってしまわなければ、土砂降りの雨にさらされて体力を消耗してしまう。気合だけではやれないし、どうすりゃいいのだと、立ちすくむ思いだった。そのとき、とっさに思いついたのは、村に入ったときの登りであった。当然帰りは降りになっている。この坂を飛ばしながら降って、そのスピードで崖沿いの急坂に突入し、惰力で持って登れるところまで登ろうというアイデアであった。坂の上に車庫があり、そこで小雨を避けながら、150メートル先の勾配をみて、ギア比を前を2(3ギア中の2番目の大きさ)後輪ギアを3(8枚あるうちの前から3番目の大きさ)に走る間に切り替えて、スピードを落とさずにつっこみ、後は、2-3で漕ぎまくる。後は2-2,1-2まで落とせるからこれで登れるところまで登るのだと決めた。

 坂を3-6で駆け下りながら、ギアを2-3まで切り替えながら、突っ込んでいったら、突っ込んだ瞬間に3回の切り替えを終えることが出来た。予測したとおり、かなりのスピードで駆け上がりだした。ようやくスピードが落ちた頃には、1-2に切り替えることが出来た。後は地面だけを見ながら、「く」の字をくりかえしながら、登る、なんと登っていけるのだ。何分こいだのかと、ふと周りが明るくなって、崖沿いの急坂を登りおわっていた。その間は15分くらいではなかったろうか。対向車が来なくてラッキーであった。そこで自転車を降りたら、もうふたたび乗れずに長い坂道を雨に濡れながら歩くということになっていた。しかい、それにしても、普段はギーギーいうギアがみごとに変化し噛み合い、適応した。自転車が生き物のように応えてくれることは,ままあったが、このときもそうだった。まるで忠実な犬のようであった。来年はこれをもっと上等なものに切り替え、まるで役立たずの配車と見たのは、この5年、ぼくを支えてくれたエスケイプに悪い感情をしめしたなと思うのであった。

 野にでて広い国道を走りだしたとき、雨は本降りとなってきた。しかし、それは気持ちのいいシャワーでしかなかった。ただ、眼鏡が雨で曇る。しかし、それにしても、この台地、そして、昔あった清武川の流れ、その対岸に見えた杉山の連なり、その光景はどこに行ったのだろう。時雨峠は、どういう方向に開削され曲げられてしまったのか、見当もつなない風景の激変にあらためて驚かされた。もう60数年ほど前、高校生のころ、ヘルマン・ヘッセの小説、デミアンか、ジッタルダーだったか、空の雲の描写に感動してしまい、宮崎市内から古城を経て、時雨を越え、清武川を下にみながら、歩いていったことがあった。途中、対岸の杉林をスケッチした日記帳が数年前に見つかったが、あのときに日記帳を持って歩いたのが、不思議だ。清武町を経て、そのまま市内まで歩いたのだが、弁当も氷も口にした記憶もない。歩く一歩、一歩が、快楽であったのだ。自転車も似ているのだが、今はますはコーヒーを快適なカフェで飲まずにはおれない、もちろん、ヘルマン・ヘッセなどもう何十年も読んだこともない、ふたたび読むこともないだろう。そんな年ではなくなったのだ。こんな回想をしながら走っていく。まあ、今は今なりに快適であるが、このずぶ濡れではレストランにもカフェにも立ち寄れないなと思っていたら、いつの間にか雨があがった。その内、今は廃墟となっているごみ焼却場ガ近づいてきた。

 日がかんかん照り付けてきた。去年と比べて道路は、道の半分くらいまで毒々しい緑の葉が両側からせりだしていた。しかも途中で登り勾配になってきた。この草の繁茂ぶりにおどろきながら登り着ると、道路はそこで行き止まり、後は未舗装の山道が左右に延びていた。道を間違ったのだ。この道路に入る前の十字路を左折して行くのが正しかったのだ。野山というか、「国敗れて山河あり」などというけど、山河は変わらないということなど、現代ではありえないのかもしれない。一箇所を変えると、光景も方向も一変してしまう。これは市街の変化よりも激しい。市街では、変わってもあちこちに記憶にあるランドマークの建物、街角などがあるからどう変わったのか見当がつけられる。しかし、山河、野、海浜にはそんなものが実は無い。いや、それいじょうに自然の風景というのは樹木は川、山、野、道とさまざまの要素が、組み合わさってできており、その光景は、その繊細きわまるバランスで出来ているのだ。その繊細さを、なんのためらいも無くぶち壊せる、なぜなら自然はものを言わない、感情をあらわさない、牛や豚よりも簡単に抹殺できるからであろうか。壊される、壊されてきた。壊され続けられよう。これが産業なのだろう。

 ゴミ焼却場を下へ降り、とうとう古城への入り口に降り立った。この分なら天満橋に着く頃には、ズボンもシャツも日に干したように乾く、それでコーヒーでもランチでも楽しめる。橋の袂にビータスの温度計は、29℃をしめしていた。朝と気温は上がっていなかった。思ったとおり、体温と日射と風でまず綿のズボンはからからに乾き、シャツは背中の部分が乾き、前の練れタオルをしのばせている側がまだ少し湿っていた。これでオーケーだ。そして橘通3丁目の交差点を東へ曲がり、デパート山形屋をすぎ、つたやとタリーズのあるデパートカリーノの十字路の角にある小さなコーヒー店に、朝起きたような顔をして入って、ホットサンドとコーヒーセット、500円を頼んだ。普通は400円だが、これはゆで卵をトッピングしたハム・チーズサンドである。おそらくこのコーヒー店「未来」は、宮崎市内では、一番安いコーヒー(200円)を丁寧に淹れてもらえるカフェであろうか。

 雨はどうだったというと、一時間ほどまえ大降りでしたというのだった。あまり疲労感もない。これは高齢者の特徴で、実は危険なのだ。のどの渇きがあるのが、まあ正常な反応かと、氷水を2杯飲んで、店をでた。帰途、思いだして若草通りの「峰楽饅頭」(今川焼き・回転饅頭)を2個(180円)を買って、家に向かった。饅頭を渡したら節子は喜んでくれた。こんなことは珍しいからだ。そして、いきなり、夕方温泉に行こうと言うのだった。今から温泉か、それもいいかもと、一時間ほど仮眠して、車で青井岳温泉に走った。午後5時そこのレストランが開くのをまって一番先に入室、いつものとんかつ定食を二人とも頼んで、十分に食って、入湯した。午後8時前に帰宅そのまま龍馬伝を見た。さすがのNHKもドラマで日本のため、あたらしい日本をつくるなどと、龍馬にのべつまくなしに叫ばせなくはなってきた。午後10時は就寝、長い日曜日が終わった。
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自転車ぶらり アメリカ村

2010-08-30 | 自転車
 昨日、日曜日は、いつもよりちょっと早めに出ることにした。エスケイプを部屋より運び出して、タイヤが鉄のように硬くなるまで空気を注入、ギヤの調子も整えた。そうこのギヤが問題となってきている。切り替えた後に、前後にギヤを回転させて、噛み合いを調整しないと、ギーギーとチェーンを歯車がこすれて音がでるようになった。先週に出会った若い二人のサイクリストも、一人がシマノで、もう一人はそうでなかった。シマノは良いです。自転車の機能のいいのには、適わないですと言っていた。丁度、ぼくも、そのことを考え出していた。後、体力をカバーするには、今のエスケイプよりももう一段上のサイクリング車に乗り換えることにすべきだろうと思う。それには、ギアが軽いこと、一発で決まること、車重量は10キロ代が必須である。この条件を満たすものとなると、10万円代で入手できればラッキーだろう。いや値段よりもそうしたサイクリング車が見つかれば幸運かと思っている。何十万円かかろうと、購入したい。体力のカバーはマシンにたよるしかないからである。ぼくには「がんばる」という精神も根性もないからである。

 今回は、走行先がはっきりしていた。田野の近くの「アメリカ村」という集落に25年ぶりに行くことだった。行くというより探しだすことだった。前回は、清武町から田野町にとおる国道沿いから西へそれる低地をさがしてみたが、見つけ出せなかった。今回は、もう一つのルート、黒北発電所を通り、鹿村野小学校(ここは2005年から休校となり2008年廃校)を通って田野町に至る道路そいの西側を探してみることにした。なにしろ、このルートしかもうないからである。あの当時、集落をアメリカ村と呼んでいたのは、宮崎市民が知っていたかどうかもはっきりしない。知っているのは、ぼくの同僚の一人と、いのしし猟をしていた近所の知人だけだった。が勝手に名づけていたのか、今となってはよくわからない。さらに聞いても、かれらも正確な場所をおもいだせなかった。だが、ぼくはいのしし猟の友人と、田野町の廃校となるであろう小学校を買い取ってキャンプ場にしようとう計画をやりたいと見学に行った途中にアメリカ村に立ち寄ってのであった。

 そこは、村というより団地風に、道路が整備されて、集会所には新聞や、平和の主張や政治的スローガンなどののチラシやポスターが貼ってあった。通りもチリ一つなく綺麗で、民家の前で小学生が何人が遊んでいたが、ぼくたちを見ると、ほとんど直立して、こんにちわと挨拶するのだった。村というよりコミューンという感じであったが、規律と政治的な意思をもった家、家が集落をつくっていた。当時、市内の一つ葉海岸、今の宮崎港の砂地にもヒッピーコミューンがあったが、そこはアートや音楽やら、ヨットの建造といった享楽の場でもあった。アメリカ村は、規律と目的の生活団体であった。その後、この村はどうなったのか、なぜ25年も再訪を思いつかなかったのか、今となっては残念である。あの時、見事な挨拶をした小学生たちは、今や30代の若者たちだ、どうなったのかと知りたいことばかりであった。
 
 今回は村を発見できそうだと、楽しみに溢れて午前9時22分、赤江大橋を南に走り、橋の上から西にみえるホテルのビル群を圧するばかりの積乱雲の撮影をした。今朝は、気温は30度くらいかもしれない。ほとんど暑気は感じず、むしろ涼しいくらいであった。綿のズボンに黒の長袖、首に濡れたタオルをまくスタイルにした。20分ほどして上流の天満橋に至り、そこのビータスビルの屋上電光温度計は、29℃でしかなかった。この分なら昼間温度が上昇してもせいぜい2度前後だろう。これなら暑気は問題ない。今日はアメリカ村を探すのだから、体力の温存になると、天満橋からの接続道路を南へ走り、突き当たりの交差点を右折して、そのまま古城小学校のある山合いへと走っていった。ここから旧焼却炉の赤白の煙突を右上に見ながら進む。やがて「時雨」という峠にいたり、ここを越えると清武川の岸辺に出ることができる。ここから黒北発電所のある田野への道路に出て周辺の村を探すのだという計画であった。ところが「時雨」という峠のイメージは25年前のものであったのだ。

 現在は、峠という感じはどこにもなかった。前昔は、杉の木立が狭い道路わきに立ち並んでいたのだが、ただひろびろとした2車線の中央分離帯のある道路が、ゆるいカーブをなしながら坂道となっているいるばかりだ。じつに平凡な道路でしかなかった。その坂にかかると、見た目はなんでもない坂であったが、ギヤ比をどんどん落とさなくては登れ無いようなきつい勾配なのだった。漕げども漕げども頂上につけない。この坂は何なのだと叫びたくなるほど執拗につづき、途中でたまりかねて、自転車を降りた。休憩をとり、なんとか登りきって、やれやれこれから一気に清武川へ下ると思ったところ、なんと下る道路などなく、だだっ広い区画整理された畑地がひろがっていた。ここは先日登ったあの田野町へつうじる区画整理台地の端のほうらしかった。どちらの方角へ行けばいいのかと迷っていたら、折りよく老夫婦の乗った自家用車が近づいてきたので、道を尋ねると、黒北発電所なら、この先の十字路を右にまがって、そのまま降っていきますと、黒北の村になると教えてもらえた。

 一キロ位、広い道路をほぼまっすぐ降りていったが、川岸などなくて数戸の家が道路を挟んで建っており、自動販売機があった。そこで、ジュース缶を選んで、飲んでいると、年取った女の人が一人で通りかかった。そこで、早速、以前ここらにアメリカ村といわれた集落はなかったかどうかと尋ねてみた。そんな村は聞いたことはないけど、教会のある村はあるという。そこかもしれないと言われた。教会、たしかにエキゾチックな感じではある、その後、様子も変わったのかもしれないと、場所を聞くと、ここをまっすぐに行くと橋があるので、橋を越えて坂をのぼっていくと、神の里ガある、神の里ですか、そう、農産物を売るところで、そこをすぎると教会がみえるからと教えられた。教会といい、神の里といい、なんとなく気配が感じられた。よろこんで進むと、橋があり、右手の坂の上に黄色に塗られた住宅か、なにかの2階家が見えた。ますます雰囲気が感じられ、橋を越えて右の坂を上ると綺麗な生垣と芝の庭風な屋敷が見えてきた。しかし、そこは、黒北発電所の門であった。そこから先はただ山があるばかりに感じられたのだ。ひょっとすると、橋の手前の坂道をのぼるのではなかったのか。橋を越えてとはそのことかと、ひっかえしていると中年のスポーツ着のマラソンでもしているような男の人がやってきた。ふたたび尋ねると、いやあ、そんな村の名前はしりませんが、平和という看板が道に立っている村はありますねという。この坂をのばっていきますという。平和か、そんなたて看板を出す村というなら、あのアメリカ村でみた政治スローガンの張り紙などとぴったしではないか、どうもそこかもしれませんなというと、かれも沿うかもと言う。ではと自転車をそのほうにむけると、遠いですから、この坂もかなりありますからと気遣いをしてもらえた。

 黄色い家の前をすぎ、坂を上り始める。だが、時雨の坂と比べると、楽なのでかなりのスピードでのぼりつづける。こんどは全体がピンクに塗られた2階家が現れた。なにをする家なのか、住宅ともアパートとも見える人気の無い家の前をすぎ、なおも坂道はつづいた。およそ一キロ位登ってようやく頂上に着いたとおもったら、なんと、さっき降ってきた区画整理農地の台地に到達したのであった。とにかく平和という看板は立っているというのだから田野町への方角を見当つけて進んでいくが、看板は見当たらず、廃屋同然の家屋に巻き上げしきのテントまかれたばことの字が見えた。こんな野原にたばこの店があったのかと、いささか消えた店にノスタルジーを感じて、なおも進むと、とつぜんどうろの上に赤いペンキで平和と大書された一メートル四方の立て看板がついにあった。まさに60年代の安保闘争時の建て看板を連想させるものだった。そこから小道があり、100メートル先で降り坂のなっていた。

 とうとう着いたか、ぼくは喜び勇んで、この小道を下りはじめると、うっそうとした木立の間からせせらぎの音が聞こえ、狭い、セメントざらざらの粗末な自動車一台がやっとはしれる道路が、続き始めた。セメント舗装の癖に地面の匂いがするのであった。かなり水平に進んでいくと、急に道が降りとなり、ブレーキをかけながらゆっくりとすすんでいくと、道路はますます狭く、しかも急カーブとなり、川の音、匂いがしてきた。さらに勾配は急になってきた。ちょっと帰りはどうなるのかと不安になってきた。どこまでつづくんだろうか、しかし、いまさら引返すなど出来そうも無い。こうなったら、アメリカ村に到着するまで、平地に出たら、ここを通って田野町に出てそこから帰ればいいと思いつき、進んでいくことにした。しかし、この勾配の深さ、崖の下は川と緊張がつづく。今頃、こんな道路など、昔の廃村となった寒川(さぶかわ)か、新しき村に降りる旧道の峠道くらいしかおもいつかない。あそこも、もう改良されている。この奥に集落があり、平和というスローガンを看板にして、道路に立てる意味とはなんなのだと、おどろきながら、すすむと、なんと目の前には、ふたたび登り坂があらわれた。やれやれもう体力も残りが無いぞと、登りにかかる。しかし幸いなことに150メートルほどして3軒の住宅があった。

 広場もあり、道路は住宅を結んでいるようであった。しかし、狭く、家は三軒しかみえない。と、赤い郵便局のバンがやって来て目の前の家の庭に入っていった。ここは違うな、どうもアメリカ村とはぜんぜん違う、とはじめて気付くのであった。しばらくして郵便配達の若い局員が玄関から出てきたので、ここはアメリカ村といいませんでしたかと聞くと、そんな村は聞いたこともありませんというのだった。そこで、では、この家の前の道はどこにつづいているのかと聞くと、行ったことがないのでしりませんというのだ。さすがにあわてて、では田野に行くにはやってきた坂道を登って上の台地にでるしかないのかと聞くと、それしかないというのだった。自分は、まだここらは初めてですからあまりしらないのですと、にこにこしながら言って郵便車に乗り込んでいった。あたりに人影はなく、こんどは、ぼくが、この家の玄関の呼び鈴を押した。若い女性が顔をだしたので、早速聞いてみた。この前の道はどこにつうじていますか、畑です。畑、その先は、どうなってるのでしょうか。さあと言うのだ。田野につづいていませんか。田野は上の道路しかありませんというのであった。

 がっかりして、前の畑地をみると、底に標識があり、これは鉄版に掘られた道路標識に似たもので平和地区と記されていた。地区名だったのか、この平和というのは!しかし、なんで平和という思わせぶりな集落名をつけたのだろうか。地名の由来とは、ほんとにわからない。いや、ひょっとするとヘイワというのは別の漢字であったのかもしれない。だったら60年代風の赤いペンキでの看板を道路に立てているのは、どういう意味なのかあと思う。そんなことより、速いとこ、この勾配を登って上にでないと、雨でも降られたら万事休すだと、腹を決めた立ち向かうとことにした。予感どおり、小雨が降り注ぎ始めた。
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自転車ぶらり 言い訳

2010-08-25 | 自転車
 盆休みの15日に続いて、今週日曜日(8月22日)は、午前10時ごろ、書斎で扇風機を浴びながら本を読んでいたら、突然節子が、サイクリングに行くなら、涼しい内に行ったらどうねと、声をかけてきた。さらにつづけて、どこかにいい喫茶店でもみつけて、ゆっくりコーヒーを飲み、夕方はどこか美味いレストランを探し出して、夕食もたのしんできたらと、言うのだった。どういう発想でこういうことを言い出したのかわからなかったが、あ、そうだな、今から行くわ、と返事するや読みさしの本を閉じて、出発準備にかかった。実は、コーヒーもレストランでのゆったりした休憩は出来ないのだ。本を持っていけないからだ。真夏にはこれが出来ない。着るものを減らすからだ。

 いやあ、思い出しみると、「ESCAPE」(自転車商品名)を10年目のサイクリング再開として購入したのは、2005年12月15日ごろであった。宮崎市の泉自転車の泉さんにカタログで取り寄せてもらった。当時はまだ個人商店フタバ自転車が橘通りで営業をづつけており、泉自転車はフタバ自転車から部品や自転車そのものをも取り寄せていた。実物を点検確認し、かれから購入したのだ、彼はまさに自転車整備の職人であり、あの点検整備、売り渡した後も愛着をもって点検してもらえるので、かれから購入したのだ。15日に自転車が到着、職人気質の泉さんが、点検整備の途中なのを、ちょっと乗りたいからと持ち出して、そのまま綾町に走っていった。行きは高岡の刑務所前などを通って山坂を走り、帰りは走りのスピードを知るために、自転車道を走った。平坦地では、ふんばれば時速は25キロくらいは可能なのを確認できたのであった。10年ぶりのサイクリング再会は、理想的な自転車を得られて歓喜したのであった。

 夏のサイクリングをやりだしたのは、購入した翌年2006年の7月17日、海の日の休日を囲む3連休であった。その年は、宮崎市は連日36度をこえる猛暑つづきであった。そんな折、熱中症予報なるものを出す、出さないが行政の口にのぼりだしていた。あの頃から毎年、毎年、熱中症の急患や死亡する者は、増加をつづけている。それまで、そんな症状など聞いたことも心配したこともなかったのに、今ではテレビのニュースで毎日のように熱中症が報じられ、視聴者の不安を書き立てている。しかし、熱中症での死亡する確率は宝くじで一億円を当てる確率よりも低いのではないか。一億円を当てるには、米俵のなかの米粒一つに赤印をつけ、まぜこみ、傾けてこの一つがころがりでてくる場合たといわれる。ということは、当たらないということである。当たるのはなにかのとんでもない間違いの結果である。熱中症は、罹らないというのが状態であり、それでも罹るのはまさに異常な出来事であり、そのような異常がなぜ生じたのかを分析して、これを防ぐ成果を挙げるほうが筋であろう。それをせずに、罹らない状態を、ただ不安をあおるだけの報道で視聴者の数をとるというのは、間違っている。こんなことにふりまわされるべきではない、と思ったときからの猛暑サイクリングをやってきているのだ、こんな行為は、しかし、宮崎県では、ギスを出す、つまり目立ちたがり、とびあがり、つきあわない、きょうちょうしない、まわりのみなとくらべて「がんたれ」(品行ふらち者)といわれる。

 あの年から、まる5年目、ギスタレのガンタレとして、夏のサイクリングをやっているわけである。というような背景があって、ぼくは、猛暑サイクリングはもちろん、他のサイクリングにおいても、サイクリングしているように見えないことをもって旨としている。できればどこから見ても目立たない、ふつうの状態に見えることを装う。30キロほど乗って、どこかのスーパーかコンビに立ち寄ったとき、店の人や、客たちから、ぼくは、近所からふらりと買い食いに立ち寄ったという感じに見られたいと思うのだ。それはちょっとずんだれた服装、つまり普段着姿でかなり叶えることができる。ただ、自転車だけがごまかしがきかないのが残念だが、それは仕方がない。せめて見出しにつけた「自転車ぶらり」というのは、この気持ちを表したいのであつった。

 さて、今回の綾行きだが、じつは猛暑の日に綾まで行き着いたことはこれまで無かったのだ。いつも途中から引返していた。東西に走るので、たいがい帰りが、東風の向かい風となり、宮崎市の8月になると、強い東風が吹く日がおおくなるからだ。しかし、日曜日は、気温も33度cくらい、やや蒸し暑いがほとんど風がなくて,雲が多い。サイクリングにはもってこいの条件であった。今回は、下着に綿のランニングを着て、豪州製のごわごわしたTシャツを羽織、綿の長ズボンとした。首に濡れタオルをまき、近所のスーパーでアクエリアスの一本購入、ハンドルにぶら下げて、出発した
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自転車ぶらり 集落へ

2010-08-18 | 自転車
テレビが毎日毎日、飽きもせずにオンエアーしている美食シーン、それを食うタレントや俳優やスポーツマン、文化人、女子アナに男性解説者と、ありとあらゆる地方に生息している有名、無名の人たち、そのだれもかれもが、差し出された美食を、一口、咥内に入れると、息がつまったように顔で凍りつき、そのいっしゅんの停止、つぎに感極まったように「美味いーっ・・!」である。表情から仕草、口調まで、ぴったしの同一形であり、かくして、終わる。これは儀式である。もっとほかに表現はないのか、ない、それは儀式なのであるからだ。ぼくには、スーパーで買える食材をうまく調理してあるうまい料理で、それ以上の美食には、ほとんど欲求を感じない鈍感さがある。多分、美食への才能が欠落しているためであろう。こんな才能がないので、生きるのが楽なのである。
 
 今年の3月6日、当日は寒冷であった。その日、背広を着て西都市まで自転車ぶらりをやった。背広のスポーツ的機能を試すためであった。背広はみごとに、自転車ツアーに合っていた。その試みをやった日か翌日か、ぼくは顛倒して右膝を強打してしまったのだ。膝が曲がらず、歩けず一ヶ月くらい自転車には乗れなかった。それから5月の初旬であったか、リビングの掃除をしていて、ソファーを抱えてずらそうとして右へ方向を変えたとき、ぎくっと腰を痛めた。右ひざをかばうという無理な姿勢もあって、腰と背筋に頼ったためであった。そのまま倒れこんで息もできなかった。しばらくして立ち上がれたが、うごこうとすると激痛のために体が硬直した。幸いにもぎっくり腰でなくて、背筋の筋を痛めたのは、すぐに分かった。そして一晩寝ると、鈍痛は残ったが、体はうごかせるようになっていた。それから、鈍い痛みは、現在もつついている。膝のほうは、手でおさえるとわかるくらいに治まっている。美食はせぬでもなんの不自由もないが、自転車ぶらりができないのが、たまらなくなり、6月6日に口蹄疫の現場を感じるために新富町に行ったが、なんとか帰れたのがきっかけで、7月の下旬から、青島や佐土原町あたりまでぶらぶらすることができるようになったのである。

 8月15日、盆休みの最終日、この日は暑くなってきた。エアコンなしで、チップもぐったりしてリビングのなかで寝ていた。ぼくも風通しにいい書斎のフローリングにパンツ一枚で、じかに寝ていた。しかし、耐え難い暑気がどんどん身をつつみだす気配がしだした。午前11時22分であった。よし、今から自転車ぶらりをやってみようと思った。多分、猛暑日になろう。こんな日中に野原を自転車で走っても熱中症にはならないということを知ってもらいたかった。デパート前の自転車整理のため、女性ガートマンは厚手の長袖にネクタイ帽子の制服で、朝の10時から夜の10時まで従事していた。かんがえられますか、このような労働があるということ、それでもいつも彼女は元気でありいつのまにか、このデパート入り口にタリーズがあったためによくここに来たのだが、そのうち彼女と言葉をかわすようになっていたのだ。彼女など、テレビ報道を鵜呑みにするならまっさきに熱中症に襲われるはずであるが、元気だった。去年の夏の終わり、彼女は配置換えになり、姿を見せなくなったが、先日、ナフコのまえで自転車整理をしていて、やあーと声を交し合ったのだった。そんな事例も知っており、自転車ぶらりの遊びごときで、熱中症もあるものかと、暑さの日中まっさかりに外へでた。

 黒い長袖シャツ、白の長ズボン、首に濡れ手ぬぐいを巻いてシャツの下に押し込み、水を飲んで、無帽で、いよいよ山崎街道を北へと、走りでた。イオンの前で午前11時48分であった。期待したとおり、室内で寝ているより気分は爽快になってきた。それに涼しい。黒シャツの下はひやりとするし、なにより湿ったてぬぐいが体温をどんどん奪ってくれるのだ。自転車で走るかぎり風は全身に吹き付けるわけであるから。

 今回は行き先は決まっていた。前から思っていたのだが、宮崎平野の北涯にある丘陵のなかの池をもう一度見るためであった。西の法華岳のある九州山脈を覆いかぶさり、南の鰐塚山系の背後から、北の尾鈴山の山肌から入道雲が、むくりむくりと湧き上がり、その山頂は純白に光るもの、垂直の塔となって立ち上がるものと、今年くらい積乱雲を眺められる夏も珍しい。孫は、その積乱雲が交わるときといったが、ほんとかとあの堂々として動かざる入道雲を見上げながら走っていった。そろそろ着く頃だと思ったが、丘陵は左側の町並みに隠れて見えない。さらに走っていたら、丘陵どころか平坦な畑地の広大な平地にでてしまった。そこで、道路を間違えたのに気がついたのだ。山崎街道でなくて、500メートルほど西にある貞蔵道路、大島通線が正しく、しかも、丘陵の取り付きに行くには、もう一つ西の国道10号線を行かねばならぬと分かったのだ。市街から北へ薄く霞んでみえる丘の山並みは、自転車で30分も走れば行ける場所ではなく、ずーっと遠くに在ると意識はそのように感じていたのだ。だから3倍も遠い北の佐土原町へ、たどりついていたのだ。

 目でみることは、ほんとうは、きわめて頼りないことでもある。とにかく鉄道駅を2停車区間引返すことになった。そこで、住吉駅についたとき、8月6日に再開できた釜飯専門店「花咲爺」でランチをすることにした。20年前に行った懐かしいレストランで、聞いてみると、店主も変わらずに今日まで営業している、釜飯の味だけは変わりませんということだった。ただ、靴を脱いでフローリングの上に座るようなテーブルとは記憶になかった。1時38分、客はぼくだけであった。釜飯は、20分くらい経ってもまだ現れなかった。盆で帰省してなかったらしいEに電話してみると、案の定、今東京で仕事中であった。パソコンを教えるのでなく、パソコン業務、おもしろいときくと、おもしろくないでーすと大きな声が響いた。今、20年ぶりに釜飯専門店で出皿をまっている、客は一人だけというと、いいじゃないとおもしろがっていた。彼女は9月瀬戸内海の現代アート展を見るため、休暇をとるのに盆も休まず仕事しているというのだった。東京に遊びにでてきたらというので、クリニックでぼくだけこれ以上に遊んでは、もうしわけないしと、話は展開を重ねていった。やっぱり話せる奴は最高である。

 釜飯は茶碗で軽くではあるが3杯もあった。残すと悪いと思ったので、無理して、こげまでしゃもじで剥ぎ取って食ってしまった。3杯のご飯などとは何十年ぶりのことであった。3杯食うのはたいへんでした、20年経ったんじゃ、そうでしょうねと店主はいい、おこげの部分美味かったでしょうと、うれしそうであった。なるほど、そうだったか、おこげまで食ったのは正解だったのだなと思うのだった。しかし、外に出ると、いつのまにか空は曇り、風が吹きつけ、雨が降り出してきた。野は一面に小雨で煙ったが、かえって爽快に涼しく、もはや集落に行くことも、池をみることもそれほど関心がなくなり、これは快適と、田んぼのなかの道路をあちこちと走り回っているうちに再び太陽が燃え出してきた。

 池も集落も、燃えるような太陽の下にあった。時間が何十年も停止しているような、住宅とその家をつなぐまがりくねった道路のある集落がぼくのまわりに現れた。いったい世界は、社会は2010年の今、変わったのか、そんな時代変化とはなんの関係もなくあり続ける山のなかの集落は宮崎市の絶望なのか、希望なのか、そこで暮らしてみるほかには、良いも悪いも判断できないと今回はおもうばかりであった。前回、初めてこの集落と淀んで静まり返っている池を見たときは、こんなところで生まれなくて良かったという気分しかなかったのだが、そこでその正体を確かめようとしてきたが、その気分は消失してしまっていたのだ。 
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自転車ぶらり 均質と多様

2010-08-06 | 自転車
  宮崎市の今年の夏は、8月からようやく夏日がつづくようになったせいか、どうもすっきりしない。本日は金曜日、今日もまた、雲の多いからっとしない日である。暑さはまだ36度以下なのに妙に身体に堪える。だが、もうすでに盛夏の一週間分が消えた。8月1日の日曜日は、午後3時過ぎに自転車でぶらぶらと走り出た。暑いので、坂道はできるだけ避けて、無理をせぬ走りと、向かい風を避けるために北へ向かって貞蔵道路を進んでいった。右側の歩道を走るのだが、左側に並木の陰がつづきだした。その木陰に入るため道を横切るのがめんどうくさくて、どうせ暑いのだからと、そのまま走り、動物園前から10号線にいたる道路と、T字に交わる終点に突き当たった。ここから、海岸へ向かおうか、10号線に向おうかとちょっと迷ったが、すぐに10号線へと、左折した。しばらくすると、住吉駅南の踏み切りに着た。そのとき、踏み切を越えた右側に20年も行ってなかった釜めし専門の店が、昔の店のままあって、驚かされた。思いかげない店、昔のままの店構え、「釜めし専門店」と染め抜いた幟までそっくり残っていた。この店、なぜ今日まで完全に記憶から消えてしまっていたのだろうが、美味しかった思い出がある、でも、一人で行ったのか、家族連れだったか、知人だったか、もう覚えていない。それに、これまでもここは何十回となく走ってきたのに、なぜこの薄茶のこのレストランは目に入らなかったのだろうか。おそらく、なにかで記憶が甦っていたら、そのときににあったのなら、すでに見つけ出していたはすだろう。人は、意識がなければ、目はあっても見ていないのであろう。意外なものとの遭遇、これが自転車ぶらりの面白さの一つでもある。

 踏み切りを越えると、すぐ住吉駅、その正面から道路を横切り、西へ走る県道をみつけて、219号線に入り、そこを西都市へ向かうことにした。そうすれば坂道は無い。しかし10号線は自動車の流れが途切れず、そのまま200メートルほど先の赤信号へと走っていると、すっと車の流れが空いたので、道を横切ることができた。そして家並みのすき間にあった路地に入って、西へ向かって進んでいると、100メートルもしないうちに荒れた畑地に沿うようになり、道路両サイドには一戸建の住宅が並んでいた。それぞれの住宅地は乾いた、藪のような潅木が取り囲み、何本かの丈の高い樹木も混じり、その陰にイギリス風な住宅が見えた。合成樹脂の煉瓦模様が印刷された壁は、イギリス風であり、まるでハウステンボスの家屋であった。そこには殺伐たる孤立感があった。地縁も近隣も関係ない住宅が、ひっそりと建っていた。おそらく近所付き合いもない生活空間ではないのかと、思えるのであった。毎日どうやって暮らし、社会とのつながりを感じうるのだろうかと、胸をしめつけられるような虚ろさをおぼえさせられるのであった。この数個の住宅を抜けると、道路は、コンクリートの直線道となり、陽炎の燃え立つ野に、キロ余も西へ伸びていた。左手はるか2キロくらいのところに丘陵がつならなり、西都市への219号線はその手前の道路だ。10号線も右手の丘の向こ隠れてしまった。このまま、まっすぐ進むとどこへ行くのか、不安もあり興味もあって、ひたすらに走った。ここは飛行場のように平坦ななんにも育ってない畑地が広がっていた。ここは、はじめて走る道路であった。

 終点は、219号線の一里塚バス停の標識があった。一里塚は、以前は道沿いに民家があり、その横の道路は、樹木も家屋もつづいて住吉駅近くの10号線にでる主な県道であったが、通った道は新しく開削された道路だったのだろう。しばらく走ると、自動販売機が並んだ空き地があり、やっとありつけ「淡いオレンジジュース」特売100円という400ccの缶を出した。一気に飲み干せてしまった。汗のひっこみ、満腹感もあり、道路標識を見上げると、西都まで8キロとある、行けぬことはないが、疲労を避けるために引返すことにした。300メートルほどすすんだら、右手の丘陵に上る道路があり、走ったこともない簡素な舗装であった。このゆるい勾配の坂道には、こんどは落ち着いた尾道の坂の町のようにつづているのにおどろかされた。こんな宮崎離れした街路があったのかと、進んでいくと民家は途切れ、そのまま山道と変わって、のろのろと体力を温存しながら上っていった。どうやら下りとなり、すすむと、口諦疫の消毒ポイントがあり、ガードマンが数人、車の消毒に従事していた。まだ、すべてが終わったのではなかったと気付かされ、気を引き締めるのだが、いったいここはどこなのだと、周りをみまわしていると、久峰観音公園という公園の入り口の前に来た。そうか佐土原町にきたのかと知ったわけであった。

 この日は、思いつくままぶらりぶらりと自転車で行ったのだが、この日もまた、初めて遭遇するような風景や情景、場所にぶっつかった。20年以上もこの宮崎市北涯の野はあちこち走り回っているのに、このような未知の場所に迷い込むことができるのだ。あるいは、かって遭遇していても記憶からすっぽり抜け落ちているのかもしれない場所であったとしてもだ。たしかに、街中も野も均質化されのっぺらぼうに変わったのだが、そこを実際に探ってみると、まだまだ多種類の要素を発見できるのである。均質化がいっそう確実になっているのは、ぼくらを取り囲んでいる場所もさることながら、意識のほうがはるかに均質化されているのかもしれない。

 こうかんがえると、さっきの地縁も社会との接触のなさそうな孤立した住宅を思うのだが、かれらが、地縁と社会とどこでつながっているのかということだが、おそらく、それはテレビではないかと思う。テレビからの情報が、碇となって地縁と社会にその家族をつなぎとめているのではないだろうか。つまり、全国均一の情報で迷うことなくつながれていると、それは、ぼくのまわりの住宅街でも同じことである。この均質化から多種多様の情報に出会えるにはどうすればいいのか、これは、おもしろい挑戦になるようだ。




 
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自転車ぶらり 背広で、書き残したこと

2010-04-02 | 自転車

 先週月曜22日の連休日に節子を自転車ならず、自動車で野の中の雑貨店に連れて行ったことを書いたが、もう一箇所、山の中のコーヒー豆屋さんにも行った。ここにも迷わずにたどり着けたのは、ぼくにとっては稀なことである。とにかく宮崎市北の丘陵南面沿いの道路は一本しかないので、ここを行けばこの店の前に至るしかないわけであった。生垣の濃い古びた木造平屋で、その板壁に200号くらいの大きさの垢抜けした看板が打ち付けてあった。玄関はガラス引き戸で昭和40年代そのままの住宅であった。その半坪ほどの土間から奥へ向かって並べられていたのは、まさに駄菓子の類であった。誰も居なくて、ごめんくださいと奥へ向かって声をかけると、老女がゆったりと現れてきた。

 そう、ここはまさに駄菓子屋さんそのものであった。老女もこどもたちが可愛くて、店を開いているだけという。壁にはそのこどもたちの描いたいろんなマンガのキャラクターが何枚も貼ってあった。現在でもまだ宮崎市の商店街や住宅街には何軒かの駄菓子屋さんはあるので、それほど珍しいとも思わなかったし、ノスタルジーを感じるほどでもなかったが、ただ、コーヒー豆販売とのコンビネーションが不可思議である。聞くと、これはUCCから配送されてくる豆であり、僕が思った自家焙煎のコーヒ豆ではなかった。曇ったガラス壜に3種類くらいの豆があったが、いずれもやや古びている感じであった。

 山の麓の住宅の北壁に打ち付けられた、この看板の都市風と、UCCコーヒー豆と、駄菓子の取り合わせは、どこまでも異質の組み合わせである。聞けば理由もわかろうが、そのまま謎のままが、いいと思って、こういうご商売は楽しいでしょうねというと、はあ、生きがいでございますと返事された。後で家内が言うには、それでも庭は花がいっぱいできれいだった、テーブルが一つあってカレーを出したようだったわというのだ。庭といっても建物と生垣の間の幅2メートルくらいの通路であった。そこでカレーを食し、コーヒーを飲む粋人がいるということであろう。こどもを連れてきた若い母親がのむのだろうか。これが、楽しみのひとときとなるのであろうか。そこでコーヒーを飲む人の優雅さ、まさに人生捨てたものじゃないなと、感動できるのであった。

 この自転車ぶらりの週末に西都市に背広で行ったのだが、このときのもう一つの目的は、一月ほど前にその前を通り過ぎた、瀟洒なカフェに行くことだった。あの日、午後一時ごろで、このカフェを発見したときは、よろこんで軽い食事とコーヒーをと、花壇の前で自転車を止めた。そしてジャンバーのポケットに手を入れて、5000円札を引き出そうとしたら、無い!のだ。あわてて内ポケットもズボンのも探したが、影も形もなかった。多分、ハンカチや携帯、カメラを出し入れするときに、5000円札がいっしょに外にでてしまったらしかった。金よりも、このカフェに入れなかったことに腹が立ったのだった。その恨みをはらすべく、今回は、出かけたのだ。この前と同じように、背広の右ポケットに5000円札を納めていた。

 一ヶ月ぶりにこの店に向かうのだが、西都市市街の外れからすこし東の間道に入った場所というのを頼りに行ったのだが、国道10号線からサイトに向かう219号線沿いには、市街に近づけども、東への間道などありえないのだ。これじゃ、記憶違いか、となると再発見はむりかもなと、とうとう市街へたどり着いた。そのとたんに記憶がよみがえった。宮崎ー西都自転車道の西都から、走って帰っていったら1キロも行かぬうちに、自転車道はいきなり、舗装が剥ぎ取られ、鉄道跡だった土手の鉄道レール面が平坦に掘り崩され、むき出しの泥土となって消えていたのだ。途方に暮れると、右手に土手が盛られ、そこに道路があるようだった。そこにのぼると工事中で、その土手を越えて、普通の道路が伸びていた。そこを走ったときに、すぐ交番があって、その先の道路反対側ににカフェがあったのだ。この記憶を思い出して進んでいくと、花に囲まれてカフェの正面にたどり着けたのであった。確かに市街の東ではあった。ここからさらに東に219号線はありそこに突き当たっていた。カフェの入り口で、右のポケットに左手を差し込むと、5000円札は瞬間的に指に触れた。この明快さ、この出し入れに背広の機能性は見事に応えてくれた。

 かくして注文できたメニューのインドカレーとコーヒーは、しかし大きく期待はずれであった。が、しかしチラシをみて面白そうだと観劇したが、たいしたことは無かったということは何度も味わっており、それでべつにがっかりもしなかったのと同じことで、ひとときの夢を与えてくれた1050円也は高くは無い訳である。つり銭の5枚の500円と100円コインも3枚の千円札も背広の右ポケットに投げ入れ、安定感を感じるのであった。この土曜日は曇りで寒かったが、午後4時半になると、さすが、シャツ一枚背広一枚には寒気が染み込んでくるのであった。

 帰りは急がないと日が暮れる。幸いバイパスで佐土原工業団地の丘を越え、いっきに一つ葉有料道路の終点から国道10号線に入れる。ただし、坂がつづく。このバイパスに入るための側道の坂を上りきると、すぐに512メートルのトンネルがある。この側道は優に車が走れるほど広く、出口まで坂道、出てもさらに200メートルほどゆるい坂となり、ここから一挙に下り、すぐに一つ葉有料道路に接続する道路は、だらだらと2キロほど上り勾配となり、ふたたび下り、また上がると、いきなり車道となって、車といっしょに走行することになる。ここまで来ると、冷たさなどよりも体温で背広を脱ぎたくなってくる。そしてようやく10号線そいの側道を、走って北高校下のバイパス沿いの粗末な側道を登って下るとようやく宮崎北バイパスとなり、大型店舗群を見ながら、中心市街地に至というわけだ。その間、体力の消耗や、交通煩雑の緊張やで寒気もなにも感じず、背広を着用していることも感じていなかった。つまり、背広は自転車走行に十分適応していたのだ。

 あれから一週間になったが、2日前から右膝が痛み出した。指で圧すると、内側の骨が痛む。理由がわからない。この自転車走行しか原因を思いつかない。走る前まで、左足の小指と第4指に「魚の目」が出来て、ずーっと痛かった。ほっとけば治ると思っていたところ、治らず。そのまま走ったため左足をかばおうとして、右足に負担がかかったのかもしれない。ただ走るときは、そんなことには気づかない。快楽だけに気を奪われて、走るわけだからだ。

 この「魚の目」が生じたというのも38年ぶりだ、当時、山歩きにのめりこんである日、新品のきつい登山靴で高千穂を登って、魚の目を持った。それは何ヶ月も治らず、治りきれず、それで登山からサイクリングに快楽を変えた。足に幅の広い靴を履いたので、そのうち自然に沈静化していったのだ。あれから38年目の今年、布製の古くなって形の崩れたぼろ靴でチップの散歩をやっているうちに、その崩れた形状が足に無理をさせたのだろう。かくして、魚の目が復活した。そういうことである。これはやっかいなことになったようだ。治らなければ自転車に乗れない。しばらくは自転車には乗れないことになるだろう。背広を着ようが着まいが、それが人生となんの関係があるのか、世界にはもっと大事な関心をもたねばならぬ大きな物語があるではないかと、そんな戒めであるのだろうか。そうは思わないけど。はっきりそうではないはずと思うのだが、魚の目は歩くたびに痛み、なにかの警告を止めない。
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自転車ぶらり ポケットは垂直がいい

2010-03-30 | 自転車
 一昨日、土曜日〔三月二十七日)午後は、やや風が強かったが,これくらいなら自転車で走れると、帰宅するやすぐに出かける準備にかかった。自転車を部屋から運びだしていると、節子が、サイクリングなのかと訊くので、そうだと返事するやいなや、なんで背広なのねと、不審感を露にして、質すのだった。背広の機能性の実験するのよというと、なにを馬鹿な、こんな日こそダウンがあるんでしょうが、ダウンで行ったらとしつこい、ダウンなんかで走れるか(実は走れる)と断定し、そそくさと庭に出た。いよいよ実験だ。背広があればバッグ無しで行けるのだ、背広で自転車が快適に乗れるかどうか、これが問題。「ポケットは、垂直なのがいい・・」かくして冬のような寒冷な土曜午後の自転車走行となったのである。

 目的地ははっきりしていた。先週日曜日の野の中の雑貨屋さんの位置を確認し、そこから国道10号線から西都市へである。午後2時16分であった。風は北風で向かい風で、帰りは楽になる。気温は9度cくらいだろう。歩くだけなら冷えをかなり感じよう。アンダーシャツにアセテートと綿の混紡のシャツ、その上に背広で、首にスカーフを巻いてシャツの下に押し込んだ。これはかなり防寒効果がある。背広には文庫本、手帳、メモ用紙、財布とシャープペンを収める。左内ポケットについている小さなポケットには、携帯がぴたりと納まった。ジーパン、これは節子がくれた女性用のもので柔らかく腰が高いので背広での防寒効果を高める、ウオーキングシューズ、化繊の100円手袋をして腕にGショックの電波腕時計をした。万一転倒してもいいように。

 走り出すと風は冷たい、しかし、背広の防寒性は前が空いているにもかかわらず、かなり高いのだ。ボタンを三つともかけると、体に密着して、風も通らなくなる、またポケットに入れた本や手帳、財布、携帯などがポケットの位置で体に密着しているので、これらも防寒の働きをしだすのである。

 西都市街への往復道路は、佐土原町バイパスをとれば、1キロをこえる坂道もあり、500メートルのトンネル、歩道のない300メートルの橋、踏み切り、高速てすれすれに走る自動車群と同じ路面を走る場所もある。途中から自動車以外の走行路が消滅するのだ、なんとうでたらめな設計、花が島バイパス、砂土原バイパス、西都市街接続バイパスにと、こんな危険な自転車道が3ヵ所もある。そして、畑地と砂丘がひろがる田園地帯、繁華街なみの交通往来の沿道と、自転車にとってのあらゆる不愉快な条件がそろえられている。こういう道路を走ると、一瞬の判断、即座のブレーキ処理、ハンドルさばき、適切なギヤの切り替えと、秒単位の行動をしなければならない。そのことに背広が耐えられるかどうか、いや耐えられるというか、その行動中も快適を保てるか、ここが一番の実験目的であったのだ。ともあれ、このルートは、ときどき走っては自分の走りをチェックしてきている。ここが走れなくなったときが、僕が自転車をおさらばする日であろう。今でないと、もう背広の機能は試せない。

 さて結論から言えば、すべてオーケーであったのだ。ポケットはすべての収納品を安定させ、びくともさせなかったのである。それは垂直収納のおかげであったといえよう。ということで、酒は一人で飲むがいい、自転車は一人で走るのがいい、ポケットは垂直なのかいい・・・というような駄洒落を思いついだ次第でもあった。

 その他にも、このコースを取ったのは、先週の雑貨屋さんの場所を長男の嫁に教えねばならなくなったので、その位置をもう一度確かめたかったこともあった。再び走ってみると、思い違いもあったので今、ここに記しておきたい。この位置の入り口は、宮崎神宮苑の北に沿い、シーガイアのテニスコート正面に至る4車線道に、波島商店街が交差する。つまり商店街北外れ、ここにラーメン店がちょtっと4車線から見える。この十字路から北へ2車線の歩道つきの舗装道路が延びていく。先日は並木があると書いたが、歩道の間違いであった。ここは2キロでなく1キロで終わり、旧道になる。ここまでは、建設工場や家庭什器の製造所や倉庫、ネオン工事、電設工事、いろんな小さな工場や、その倉庫、殺風景なプレハブ事務所などが並んでいる。ここが終わると、昔ながらの野の道で、例の自動販売機、ここは5台であった。ここからはビニールハウスや新建材による建築になった農家の住宅などがところどころにある。
 
 シーガイヤの花の公園フローランテに宮崎市街10号線から通じる新品の舗装道路を横切り、つづけてフェニックスカントリークラブへの新品道路を同じように越えて、まだかまだかと走っていくと、凸凹の荒れてむき出しの地面並みの舗装が、もういちど改修されて、住宅がぼちぼちと立ちならんだ場所に、雑貨店は開いていたのだ。近くに「ひだまり2号館」というグループホームがあり、その向かいに今回初めて気づいたのだが、人気のない自動車もいない自動車教習所もあった。この道路の終わりは、フェニックス動物園から日豊本線住吉駅に至る道路であった。まさに、宮崎市街からは、かくも奥に所在していたのを、あらためて再確認できたのだった。

 ここから国道10号線にでて、一つ葉有料道路に接続したバイパスに上り、サドハラの工業団地脇から、平地にくだり、そのまま左折して昔の旧道を走っていく。ここは以前はナショナルの工場や本田ロックの工場だけが、畑地のなかの突出した風景としてあったが今はさまざまの建物で埋もれて見えなくなっている。そのうちに商店街のようなところを走る。これまで新道にそった商店街と、気にもかけなかったのだが、ここは、以前の佐土原商店街本通りの成れの果てであったのだ。すべの新建材商店はシャッターを下ろしている。ただ、一見の野菜店だけが生活必需のために生き残っているかのようだ。20年も前までは土蔵作りの味噌工場と、その販売店、佐土原の鯨饅頭の店など、その土地なりの商店街であったのだ。ここを新道が掘削され、道路が広がり、補償金で店舗が新築され、そして、シャッター通りに変じてしまった。いや新道廃墟街というべき結果になっていたのだ。あああ、あの佐土原商店街だったのかと驚愕したのだった。

 孤立した雑貨店は生き延び、集団で都市開発に乗った商店街は廃墟になった。これは凄いことだと、自転車で走りつつ、考え思いつづけるのだった。そのとき、背広はもう意識になく体になじんでいたのでもある。
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自転車ぶらり

2010-03-12 | 自転車
 日曜日(三月七日)は朝から曇りであったが昼過ぎから日差しが戻りだした。風もなく自転車で走ってこようと、急に思いついて早々に準備にかかった。午後2時半ごろで、気温がとつぜんのようにぐんぐん上がりだしたのを感じた。シャツ一枚に薄いジャンバーでちょっと不安であったが、寒けりゃ、坂道でも登るかと家を出た。赤江大橋を渡り、大淀川の南岸沿いに市街を西へと走って行く。気温は、天満橋南詰めのBeatusマンションの11階壁面にある温度計によると、24°Cを示していた。これじゃ、ジャンバーでも暑く感じるわけだ。

 いつでも自転車でぶらぶらするときは、コースをどう選ぶかを迷ってしまう。その選び方で、快楽はだいぶちがってくるからだ。しかも、なにを快楽とするかで、期待する快楽が種別される。だから、コースの選択には、どんな快楽が欲しいのかも条件になる。だがしかし、、どんな快楽が、欲しいのかが、いつもはっきりしていないのだ。そのために、走りながら予期せぬ快楽を期待するしかない。それは、どこか映画を観ることに似ている。シーンごとにどうなるのか、なにが起きるのかと期待できるから映画がおもしろく見られるのと同じことだ。ただ、自転車ぶらりのときは、観るとどうじにその映画を作っていることにもなっている。これはある点では、映画よりも面白い。

 日曜日の自転車の映画的シーンは、タイトルをつければ「崩壊市街の快楽」ということになろうか。さて、赤江大橋を渡ると、取り付け新道は、200メートルほどで右折して、そのまま、市街地のど真ん中を引き裂いたように伸びる。そのくせ歩道は狭く凸凹で、そこを走ることになる。大淀川にほとんど平行して3キロほど行くと、天神山という丘陵の麓に突き当たり、階段の上は天満宮という小さな神社がある。ここからはこの新道はいっそう幅員広く、直線道路にって、猛々しいほどの勢いでさらに西へとつづいていく。そうなる前の最初の街区が、いつもぼくにもの悲しさをもたらしてくれるのである。その大淀、太田、中村という辺りは、大正時代に宮崎市に合併されたころから、発展もせずに商店も住宅もごちゃまぜのまま残ってきていた。そこの新道が、街区のど真ん中を貫通したのだ。昔の住宅が横腹を見せたように建っていたり、戸惑って、おどろいて棒たちしたような居酒屋や、野菜屋があったり、おしゃれな、だが垢抜けしない埃っぽい写真館があったり、衰えきったような長屋風のアパートが残っていたりする。スーパーや、大型薬品店、レストランがところどころにあるが、ぜんぜん場に似合わない。電柱に無残に張り残された広告のようであり、あたり一面は、そのためにかえってうらぶれた場末を感じさせられる。

 新道は開通した。今風なファッションだが、そのために軽蔑の視線を一身に受けている商店と、住宅が2キロほどつづくのだ。ここを走るたびに、ぼくは、自分が、偉くなったような、時代遅れではないような優越感を感じてしまうのである。この気分がいい。田舎町の開発による崩壊の現実が、なぜかぼくを落ち着かせるのだ。中村を越えると一キロほどで天神山の天満神宮社の階段下に着く。ここから、この新道は、その丘陵につぎつぎと開発されていった大型団地、花山手、江南、宝塚ニュータウン、大塚台、桜が丘、小松台と高台の団地下を5キロほど走っていく。両サイドは、浜勝、ジョイフル、平家の里、クレイトンハウス、日向牧場などなどのファミリーレストランが並び、青山、フタタ、保険会社、クリニック、マンションと、新市街、郊外大型店舗が、背後の団地住民相手に旺盛な経営をしている。新道はここに至ってようやく時代の要請に応じているように見える。だが、ぼくにとってこの消費都市的な光景には、どこまでも味はない。平準化、均質化、既視感がつづき、かえってどこかに渇きを感じてしまうのだ。もっと人間臭い、泥臭い、ごたごたした街への渇望、それが得られぬ平準都市宮崎市街への絶望感をおぼえるのだ。バンコクや台湾、アジアの街のわいざつな混沌に渇くのだ。ここに比べれば、衰えきった、半殺しにされた大淀、太田、中村の街区に心をうごかされるのだ。

 さて、ここで、コースの見るべきところは終わるのであったが、今回は、さらにもっとつづきを望んで、先をすすむつもりであった。新道の終点からさらに右折して平和台大橋を渡り、宮崎神宮の外苑の北沿いに国道10号線に至る。こんどは北へ、北バイパスの終点まで走ってみることにした。2キロほどして、ベスト電器、コジマ電気、青山、フタタ、アーバンスケア、西村楽器と大型店が並び、まもなく広野のなかに道路だけとなって宮崎市街北涯の丘陵に突き当たる。この丘陵下をこんどは東へ走ると、道路は次第に狭くなり、暗くなり、路地風になり、そこを抜けると、ひょいと、蓮ヶ池バス停10号線に行き着いた。このバス停の北側はまた丘陵沿いになるが、ここを行くと、介護老人施設があるよな辺鄙な集落となる。そのとき突然、コーヒー豆、手作り菓子の店があった。どうしてこういう地点にコーヒー豆をうる小店が、ひっそりと開店しているのか、コーヒーを購入しようと思ったが、多分、豆はあまり売れずに、失礼だが、その予測であえて購入しなかった。いや、案外にファンがおって、ここのコーヒー豆、自家焙煎という豆が買われていってるのかもしれない。ほんと思い出すと、コーヒー自家焙煎の店というのは、思いがけない辺鄙な場所に店を開いている例が多いのである。まさに崩壊市街に生きる生き物のであるかもしれない。




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自転車ぶらぶら 丘の上

2009-08-25 | 自転車
 8月23日、日曜朝、うす曇り、やや蒸し暑いが、冷やりとする空気、これなら
自転車は行けるなと判断、気になっていた古城の10年ほどまえまでゴミ焼却場と
不燃物処理場のあった丘の一番てっペンに行ってみることにした。今日はどくんごは休もう。まだ時間はあるし、急がば回れの気分が大事か。
、まだ時間あるし、いそがば回れだ。

 そう古城のあのゴミ焼却場の入り口も、ほとんどわすれかかっていたが、当時はジープで何度が行ったものだ。しかし、自転車ではこの坂道はここ数年経験しなかったほどきつい坂であった。ギヤはたちまち1-1までとなり、こうなると歩いたほうが楽になる。頂上手前で降りた。あの向こうが楽しみであった。歩く歩く。

 登りきって予想してはいたが、これほどの台地の広がりがあったとは、想像もできるはずもなかった。このいっっぽん道などはまるで小アメリカではないか。直線道路にそって、一町もあるような畑が耕されて何枚もつづいている。ここはやがて
田野町につながると聞いていたが、丘の上の道路が田野までつづいているのだ。
田野への道路といえば、カーブも坂道も多く、おまけに郊外店舗なども連なり、郊外とくゆうの走りにくさを感じるのだが、丘の上に直線道路が高速道なみにあったのだ。

 

まわりをぐるりと見回してますますアメリカを幻想する。この道にスムーズにはいれる宮崎市郊外は大塚台団地なのかと、この直線道路をそこを探しにはしりだしていった。途中、なんと崖ぶちになった箇所があり、その下にこぎれいな集落が望めた、そこはいったいどこのなのか、まったく見当もつかない。風景というのも、ひとつ位置を別所にとると、なにもかも見知らぬ場所に変わってしまうのに驚きを覚えた。

 
 しばらく走っていると公園のような広場があり、そこを掃除していた老夫婦にこの道は宮崎市街のどのあたりに降りるのですかときくと、二人は驚いた顔で、この道は田野町に行くとですがと、言われるのであった。そこでまた気づいた、これまでなんども経験したように、知らない間に、方向感覚が、逆になってしまうのだ、今回もまたこれが起きていたのだ。

 ということで幸い、早く市内に戻ることが出来た。天満橋の北詰にあるbeatus
不動産のビル屋上壁面の外気温度は、32.4度をしめしていた。朝10時44分には、35度だったのが、午後1時過ぎには下がっていたのだ。

 帰って、すぐにママチャリに自転車を変えて、極楽湯に向かった。閑散として温泉を楽しむつもりだったが、入湯客で溢れていた。冬場より混雑していた。夏場は温泉、運動が、避暑になる。露天風呂で昼ねをしようとしたら、ここで、猛烈に喉が渇いてきた。たまらず上がり、カキ氷を食べ、一時間ほど本を読んで、もう一度
ジャグジー風呂に入って、午後5時ごろ、ぶじに1日を終えることができた。妻はまだ帰ってきていずにホッとした。
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自転車ぶらり 大雪山系中高年10名遭難 ガリガリ君

2009-07-18 | 自転車
  13日の日曜日にはじめて孫を自転車ぶらりにつれだしたが、水曜日にお中元をとどけにやってきた。元気そうで疲れはぜんせん無かったようで、ほっとした。その孫が、顔をみるなり言った。

 「じいちゃん、自分が年寄りというのを忘れてはだめだよ!これワンポイント・アドバイズ」

 孫はまだ7歳と10ヶ月であるが、このような表現をどこで覚えたのだろうか、またこどもたちで、ワンポイント・アドバイズというのが流行っているのかも。この二日後に「大雪山系で死者10人」のニュースがテレビ・新聞で大きく報じられたのだ。孫は自分のアドバイズの有効性を知ることになったろう。

 年寄りということを忘れるわけではないのだが、年寄りであることに気づかない、というよりできれば考えたくない。これはありうるし、たぶん、平均寿命をこえつつある自分への不安感の現れであろうと思う。

 運動をつづけているかがり、たしかに体調はいい。しかし、体調がいいのと、肉体の生命力とはなんの関係もないといえよう。まず、持続力の崩壊は、加齢とともにいくら運動しつづけても、ぼくの場合はやがてサイクリングなどの運動は40年にちかずくが、持続力は低下しつづける。20年くらい前までは、サイクリングで150キロほど日中に走ったときなど、ようやくひざ関節に痛みが生じていたが、現在は50キロくらいで現れてくる。10年前はクロールで一キロはあせもかかずに泳げていたが、今は500メートルで泳ぎを止めざるを得ない。

 基礎体力はこれほど衰えでおり、衰えつつける。しかし、その衰亡は、体力を使ってみて、はじめてめてわかるのだ。日常生活では、自覚されない。いつも元気を自覚している。しかし、これはおおきな妄想である。じつはこの妄想を知ることこそ、年齢自覚なのだが、それがなぜかできない。それは死の恐怖がそうさせる。

 加えてさらに疲労感の衰弱がある。孫と走っていて、まごのつかれないのはわかるが、自分も疲れてないという感じしかないのが、問題なのだ。これがサイクリングの怖さではないだろうか。サイクリングでは、自分だけの快楽にふけられるので、肉体疲労が自覚できない。いやそれだけでなく、加齢によって肉体の生理現象を正確に伝達するメカニズムが機能しなくなっている。それで疲れは後でどーっと襲ってくる。だからすくなくとも1日2日の休息で回復できる程度の運動をしなければならないのだが、それはかんたんにどの程度と測れるものではないのだ。その日その日、また天候やコース、そのときの体力や、出来事などですべて違うからである。

 判断力の低下が自覚できないのも大きな問題となる。これは息子、孫などと自家用車で旅をしているとつくづくわかるのだが、一瞬での交通標識の判読、とっさのブレーキ,ハンドル操作がいかに不可能になっているのかが、こどもたちの反応をしるとき、自分の衰えがはじめて自覚できるのである。

 このような点で、こんごもサイクリングをするならばそれは命がけということを、どっかで知っている必要がある。基礎体力がなくて転倒する、限界がわからず疲労感にとつぜん襲われて、脳卒中、心臓麻痺の危険、体力消耗による重篤な病状の誘発が起きる。判断力が狂って交通事故を起こしまた事故にあう、その他、危険はいっぱいで、加齢とともに若いときはなんでもなかったことも、命に危険となる。

 つまり年寄りであることを忘れて生きているかぎり、そうなる。しかし、これら肉体的な衰亡は、気をつければ判断できるものであろう。だから、ぜいぜいそこを自覚してやっていけそうだとは思うのだ。しかし、判定できない衰弱はどうするのか、つまり脳みその衰弱、感性、知性、情報接触の衰弱は、じつは自覚できない。

 このまえアイス菓子、「ガリガリ君」のことで、まごとやりとりしたことを書いたが、あとでしらべると、このガリガリ君は、1981年からつづくロングラン・ブランドの商品で、2000年以降は、大人も愛する60円のアイス棒だとコンビニでの売れ筋有名商品だというのだ。これを先週はじめて知ったのだ。加齢とはこういうことなのか。つまり現状への無知の累積。

 ぼくのまわりには、このほかにもだれでもしっていながら、ぼくだけ知らない、品物、事柄、情報が、あちこちクレバスのように深い穴の裂け目をなしているのを、ガリガリ君を介して、なんと先週は知ったのだ。つまりがりがりと氷の噛めるカキ氷を食べたいと思ってこのアイス棒にめぐり合えたのであった。

 まわりは、ぼくが自覚できない日常生活のクレバス状態なのである。それをしらずに世界がわかったように言いつづけることは、サイクリングで妄想しているよりもはるかに危険ではないのか。まごのワンポイントアドバイスは、すばらしい。

 どうあろうと、年寄りは年寄り、この衰弱をうけいれて生きる自覚こそ肝心であろうかと、じつはこの自覚こそ生きる不安の真の克服になるのだろうと思う。
 



 
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自転車ぶらい 孫が来る

2009-07-14 | 自転車
 日曜日、快晴、ほとんど無風。今日はいいぞ、先週土曜日に途中から引返した青島へ行けそうだ。そうか、峠を越えて海岸にでるバイパスが終点までできあがっでいるので、ここを走ろうと思った。ところが突然電話があり孫(小3年、8歳)が遊びにくるというのであった。サイクリングしないかというと、するというので、すぐ泉自転車で、自転車を買っておくからというと、持って来るという。まもなく、嫁の兄がバンにこどものマウンテンバイク仕立ての自転車を積んで送ってきた。

 青いTシャツに野球帽、タオルに来るんだ冷えたお茶が籠に横たわっていた。首に巻くための濡れたタオルを手渡そうとすると、そんなもんはいらんといわれて、まあいっかと、ぼくだけがシャツの上から首にまいて、そのままスタートした。ほんとは、ここで水を飲んでいるのがいいのだが、まごがすぐにも出発したいようなので、この勢いを削がぬように、エスケイプ号で先導して走り出したのだ。

 ついてくるのが異様なまで遅いので、大丈夫かなと振り替えると、足の回転はふつうである。ギヤは6段までというから6にせよというと、ぼくが一番好きな6番ギアだとうれしそうに答えるのだ。それでも遅い、このスピードとは意外であった。山崎街道を北へイオン前を走る。午前10時、気温は猛暑、ただ涼風が吹きつけ、快適だ。トンちゃん、ガリガリを知ってるかというと、知ってる、くじもあたったことがある。あのくじはめったに当たらんと、くわしく知っていた。こっちは昨日初めて知った氷駄菓子であったのだ。 

 ローソンの軒下にベンチがあり、そこでガリガリを食いながら、まごの自転車のタイヤを押さえるとぶかぶかで空気が入ってないのであった。これじゃはしれんわというと、走れる、いつも走っているという。はじめに点検すべきだった。こんなのじゃ、動物園までは無理か、そこでみやざき臨海公園のサンマリーナビーチに変更した。途中でバイクやさんがあり、聞くと空気ポンプがあり、空気を入れてもらえた。どうだ、これで快適になったろうというと、ぜんぜん変わらんというのだ。

 海岸を見て、シーガイアを見て、そこから引返して四季の森でランチ、ただ、まごはミックスジュースを飲んだだけで、なにも口にしなかった。ここから自然博物館へと走っていると、東宮花の森の家まで、自転車で帰りたい、ひとりでかえるといいだした。ほう、自転車の快感に目覚めたかと、じゃそうしようかと、いうことになった。

 一応中西町の我が家へ連れて帰ると、一人では危険ということで、妻にいわれて結局、ぼくがまたいっしょに走ることにして、しばらく休み、午後3時から赤江大橋をわたり、空港わきから220号線の道路わきの自転車道、ここに1キロほどのひまわりの植樹があり、その両脇に広大な南郷南方の畑地がひろがっている。その爽快感はすばらしい。すると、まごがなんで、こんな遠回りをするのかと文句を言ってきた。自転車を乗るためよ、それに安全だろう、いいでしょうがというと、まだ宿題も宅習う残ってるのにと文句をいうのだった。

 一時間ほどでして東宮の次男宅につくと、すぐにくわがたの虫かごをもってきて、ぐうぜん通りかかった友だちと、あっというまにどこかへ消えていった。次男は留守、嫁が冷えたお茶のペットボトル250ccを差し出したので、これを飲み、すぐに団地から清武町へ向かった。街に入り口にブックオフがあって、あそこで100円コーナーで村上春樹の作品を探してみたかったので、すぐに辞して団地を西へ下り始めた。午後4時過ぎ、快適な涼風が体をつつみはじめた。

 このブックオフは、かなりおもしろい本が発見できるのであったが、ダンス・ダンスの上巻だけが100円コーナで見つかった。それと、中村うさぎのショッピングの女王3崖っぶちだよ、人生は!と桐野夏生のグロテスク上巻、3冊を購入した。ここから池田台団地へと坂道を越え、もういちど団地の坂道を登ると、天満橋につうじる新道路になる。ここからは、羊羹のようなつるつるの舗装道路になり、走るというより、すばらしい休息の時間となる。やがて降り、時速40キロとなり、クーラーに当たって汗を一気に払うようなものだ。この最高のぼくだけのサイクリング道路はあまり知られてない。

 たちまち天満橋、端の南端左の7階だてのビルの温度表示は35°、しかし、この風の冷たさは、とてもこの温度とはおもえない。ああ、ついこの前は8℃で暑いコートから冷気が肌を刺していたのに、もう一年は半分終るのか。


 そのまま、市役所を過ぎて帰宅できた。家内はテーブルに鹿児島銘菓の「かからん団子」を2個置いて外出していた。シャワー浴び、イタリア産の天然ソーダ水を冷蔵庫からとりだし、団子を食って、1日を思い出す。自転車と団子と氷水とそしてシャワー、必要にして十分なる夏の条件を与えられている日本に感謝すべきであろうと思う。
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