市街・野 それぞれ草

 802編よりタイトルを「収蔵庫編」から「それぞれ草」に変更。この社会とぼくという仮想の人物の料理した朝食です。

ちんどん屋さんと街路を行く

2009-05-30 | 生き方
 かれとは初対面であったが、奥さんは昔、喫茶店の娘さんだった。その彼女は、晩婚も晩婚、ついに結婚した。その夫君が、二人で暮らし始めたマンションの隣に、ロシアの大地のような寒々した苔むした泥土と雑草におおわれた公園があった。なぜここが公園と称されるのか、まるで、ゴミ捨て場であり、入るだけで心身が冷え込む心地で若者の溜まり場にもならなかった。都市公園のナンセンスさの見本として2003年ごろ撮影し、人を案内したこともあった。案内された彼女は、ぼくからなにかされそうな不安げな様子をしめしたことがあるほどだったのだ。

 そこにかれは、何ヶ月もかかって、どろを平らげ、草をむしり花を植え、不法駐車の住民と喧嘩をくりかえし、車を排除し、議員をくどいて、行政に架設トイレを据えさせ、さらに耐熱塗装された見本の板を普通の塗料の板とならべて展示して環境問題をも訴えるという広場にしていった。マジックで描かれたたて看板には、これからクリスマスまでの毎月のイベント、英会話までもあるというてんこ盛りのスケジュールもはりだされていた。

 どくんご訪問から帰った翌朝、電話で、奥さんからかれに知恵さずけてとあった。この日、最初のイベント、ちんどん屋さんのなつかしのメロディーを聴く会に、助けを求められてやってきたというわけであった。なにしろ、かれはイベント企画は、生まれて始めての経験だし、文化的イベントにお知恵をというのであった。文化、そんなもんなど、くそくらえだとおもったが、ちんどん屋さんには大賛成だったし、その新入りの「未来」君には言いたいことがあったので、駆けつけたのであった。

 公園で、かれは十人はかりの高校生男女のボランティアに囲まれて興奮しまくっていた。手配が進むかどうか、人々がやってくるはずの公園まわりの清掃は終ってるのか、駐車場はうまくやれるのか、花壇はきれいになってるのか、ごみはないか、その他あれやこれやとしんぱいやふあんを、高校生にあびせかけ、叱咤してこき使っていた。そのかれにクールな反応でまといついたようにしながら、素直にいうことを聞いている高校生の姿、これまたおおきな意外性であった。どうやって教師でもないおっさんであるかれは、高校生を集めたのだろうか。なぜかれらはかくも素直なのであろうか。あるいは、かれを馬鹿にしているのか。わからない、それは。

 この日の計画とは、こうなる、公園でちんどんさんと、居合わせた見物衆とがともに中心市街地を歩き、街路でなつかしのメロディを演奏する。そして聴衆になったかれらとともに、この公園に午後4時ごろに帰り着き、そこからカラオケ大会でもりあがろうとうのであった。しかもちんどん屋さんにはふつうの服装をしてもらうというのであった。電話口で聞いたのはこうであり、なんかよくわからない全体像であったのを、まとめてみると、こういうことになっていたのだ。まあ、どうなるか、ようはちんどんやさんにあえればいいのだと、ぼくは参加したのだ。

 午後2時ごろ、あたりの空気はとつぜんざわめき、「花ふぶき一座」の真っ赤な洋服姿の3人組みが入ってきた。未来君は、ぼくの姿を見つけておおっと、おどろいた表情で気がついてくれた。座長の若菜さんは、口上で隣の老人専門病院の3階の窓にむかって、なつかしのメロディーを演奏しますのでと挨拶をした。たちまち演奏は始まった。あのヘタウマ的演奏はじつにいい。悲しみもよろこびもの情緒たっぷりで、ユーモアとあかるさと、疎外者の悲しみが漂いだしていった。その内側で太鼓をたたいて踊っている未来君を注視していったのである。

 数ヶ月前にみたNHKのドキュメントで描かれた未来君を観て欲しいといわれ、観て、かれに動きがふつうのよっぱらいでは、ちんどんではないとアドバイズして、クイーンの不レディーマーキュリーのマイクふりまわしの動きを参考にと提案した。しかしなんの改善も進歩もあらわれてなかった。そこで言い出した。

 「未来君、あんたの動きは、80パーセント無駄だ。師匠やサキソフォンの動きは、むだがないよね。あんたは酔っ払ってうごきだしているようなもんだ、ちんどんをする側でなく見て浮かれてしまった見物人の動きよ、太鼓にあわせて動くのでなくて、太鼓を自分の身体に合わせるべきと、でないと、道路に夢はひらかんとおもうよ」と、言い募っていると、
 「そう、そうなの、どんどん言ってください、私でなく、他所の人からいわれるのが、ほんとに効き目があるんだから・・」

 とつぜんのこの共感にうれしくなった。彼女に夕べみてかえった「どくんご」の身体性について伝えていくと、さすが、経験からすぐに理解してもらえて、うれしくなったのであった。

 そのうち、いよいよ、中心市街地へむかって行進となり、われわれは公園から街路へでていった。そこでふとまわりをみると、ついてきたのは、高校生がややはなれて一団となり、かれの姿はなく、大人では、ぼくひとりであった。まあいいいか、こうなったらかれらとともにあれだと、気を高ぶらせるのだった。まあこんな経験もないわけでもないのだから、やるかという気分となった。
  
 




 
 

 
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劇団「どくんご」を訪ねる リハサール「ただちに犬」を観る

2009-05-26 | 演劇
  夕暮れから夜へと移るテントの中で、リハーサルが開幕した。童話風な話と唄による話で、ぼくは4年前の「ベビーフードの日々」を回想していた。そして今夜、かれらにまた再会できたのであったが、その感傷を吹き飛ばすようにテント内は爆笑があちこちからはじけだした。
 
 お話は、どこかの屋敷内の床に転がされた一匹の犬の死骸を巡っての騒動から始まる。タイトル「ただちに犬」とあるようにただちに犬をめぐって、使用人たちがくるったように立ち回りながら、犯人探しをやっている。数分して、一人がとつぜん一人に指をつきつけて「犯人はお前だー」と絶叫、と指差された相手は驚愕のあまりのけぞり、硬直する。が、たちまち、他の一人がなにごともなかったように割って入って、また死骸のまわりをまわりながらの犯人探しにもどる。数分してこんどは、べつの一人がさきとはべつの一人を「犯人はお前だー」と絶叫、驚愕、硬直、そしてふたたび一人が割って入り、またも全員がくるったように犯人探しを始める。そしてまたと、くりかえされる。


 この設定の人をくったおかしさに、笑うもの、唖然としてへの字に唇をかむものがいる。だんだん繰り返しは熱狂をおびはじめていく。単純明快、そしてナンセンス、これがまたおかしい。15分もしたころ、二人連れの老女がテント内に入ってきて、ぼくの斜め前の最前列の席に座った。とたんに一人の白髪の80歳にもみえるご近所のおばあちゃんらしき老女は、笑いだした。やがて、腰を曲げ、体をひねり、こらえきれぬ笑いにみもだえだしはじめた。

 ふとまわりの様子をうかがうと、笑うもの、ぼうぜんたるもの、なにかの考えを懸命においかけているものと、それぞれの気配がある。そのなかで、この白髪の老女は、だれよりも、芝居に反応しだしていた。しばらくすると、笑うたびに三木ちゃんとぼくに顔を向けて、共感のエールのような表情でうなづきかわすのだった。もはや、おばあちゃんは、ぼくと、ともに笑い、ともにおかしさをこらえるというしぐさになった。

 わらうものはわらえばいい。かんがえるものはかんがえればいい。どっちでもかまわないと、このときくらい実感できたことはない。これまでは、笑えぬものの頭の硬さをなげいたりしたこともあったが、じつはどういう反応しようが、そんなことなどどうでもいいのだと、ぼくは思うようになってきている。どくんごのテント劇は、はちゃめちゃの「宝塚」であると言えるかも。レトロなサーカスを連想させる大衆性、見世物性、紙芝居のわかりやすさ、哀愁と誇張のダンディズムが湧き上がって観客をつつみこんでいく。

 でたらめな騒動の動きも音楽〔今回はこれがいい)に合い、瞬間、みごとな振りの一致、そのテクニックがすばらしい。で、「ただちに犬」は、まるで、テレビの報道で社会の問題を毎日つげられるぼくらの生活の喜劇、その虚しさと、不安をしらされたような現実をおぼえさせられた。犯人、つまり原因や答えは分かったが、なんの解決にもならず、すぐに次の問題は始まり、また解決になるが、これもまたなんの足しにもならない、そんな毎日。ぼくらは犬のように隷属しているにすぎない。しかし、この繰り返しのなかの、あくなき日常に生きるわれわれの日々は、これもまた笑いのエネルギーと批判精神ではないかと、感じ取ることができるのだ。

 そして、これは劇団「どくんご」の生活そのものから生まれている。貧乏であり、無名であり、そこから自由の頭をもたげてくる。全身でぶっつかるかれらの日々そのものである。だからこそ笑いでありながら、不安も哀切も、反対に闘争も勇気も楽天もあり、それがぼくらの生活を元気付けるのだと思える。この劇は、メアリー・ホプキンの「嘆きの天使」のカバー曲で締めくくられた。どいのは、歌ったが、初めて彼の歌をきいたのだ。ここで、ぼくは仰天したのだ。じつは、この曲こそ、ぼくには永遠にわすれられぬ曲だった。1968年、今から40年前、ぼくはそのとき、英国のリーズ市で勉強していたのだ。9月半ば、すでに北欧の夕暮れは果てしない寂しさと郷愁で、ぼくをさいなむのだったが、リーズ市の寂れたカフェで耳にしたこの曲のメロディーは、その哀愁と、リフレイン部分の明るさで勇気をもあたえられた。これはもともとロシア民謡であったという。この曲が、かれらの演奏でながれだしたのだ。当時かれらは、まだ幼児、もしくは生まれてもいなかった。この一致になにかの縁をまたかんじたのであった。

 「ただちに犬」は、ぼくにとって、哀愁と明るさをあわせもつ、懐かしさの舞台となって終ったのである。

 さて、この劇は11月2日、3日、宮崎市の「みやざき臨海公園・サンマリーナ宮崎」のヨットハーバーにて上演されることになった。ぼくはその実行委員長を引き受けた。今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

 
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劇団「どくんご」を訪ねる 新住所とかれら

2009-05-24 | 演劇
到着したのは午後5時ごろであったが、冷え冷えとして湿り気のある空気が流れていた。高原というより山峡という感じであった。ここは夜になると、漆黒の闇につつまれる、今日のような晴れた日はいいけど、曇りや雨の夜、雪の日などは市街ではあじわえぬ真っ暗がりでしてねと、手伝い人が感嘆したように話すのだった。夜にならずとも、ぼくなどはすでにしめつけられるような自然の圧迫感をおぼえるのであった。広大で美しい出水平野は、まだ山の彼方でここからは30キロほど山間を走って行くしか望めないと知った。

 雑林、雑草、崩壊のままの厩舎、空っぽの住宅と、荒れ野と視界をさえぎる林、ここに到着したとき、団員たちはどんな感じであったのだろうか。浦和市という大都市圏から一夜にしての環境の激変に心理的な動揺はなかったのだろうか。ぼくは、日々をつづるかれらの日誌をブログで読んでみた。5月16日の引越し当日からの日誌が、どいの、健太、さつき、まほ、みほし、時折旬と交替で毎日書かれてきている。おどろくのは、そこにかれらは、気分的なことはだれひとりとして書いてなかったことである。到着翌日から、あたらしい住居に必要な電気、水道、浄化槽の業者との交渉、役場への住民登録、ご近所へのあいさつ回りとはじまり、テント劇場の設営、作業小屋の開設、稽古とすすめられ、2月中旬には、代表の伊能を残して、団員それぞれが、九州、中国、北海道までと上演実現への交渉の旅に手分けして出発している。かれは一人で夕飯を食うのは空ろだとさすがにもらしてはいた。

 そして3月早々、40数箇所の上演成立の成果をもって団員は帰ってきた。すぐに巡回日程の12時間を越える作成会議を重ね、チラシ、チケットの発注がなされる。そして日に夜をついでの練習が開始される。雪、嵐、雨がつづく。そして、春となり、あっというまに今夜のリハーサル公開となったわけである。そして今はすでに別府公演を成功させ、明後日は山口市公演から巡演に出る。その間、まさに嵐のような毎日がつづき、計画どおり全国巡演の旅を実現させたのは、驚異的な集中力だと、感嘆せざるをえない。ああ、環境などに胸をしめつけられるという己の弱さを情けないと、思う次第であった。そしてまた、かれらの20年におよんだテント劇全国巡演からかちとってきた人とのつながりの強固さを、思うのである。これこそ金や権威にまさるものである。

 リハーサルは、7時に開幕、テント内は座り心地も良くなり、真っ暗闇の中での照明の明るさが、ステージの華やぎを掻き立て、開幕の音楽シーンがいやがうえにも楽しさを盛り上げる。観客は、客席半数ほどか、それだけでも良くここまで観客が集まったものだと思う。ぼくは前から2列目、中央の席で、隣に三木ちゃん、毛布がくばられ膝を覆って夜の冷えに備えた。しのぶちゃんには持参したダウンを着てもらった。真後ろに白人女性が座り、オーストラリアから鹿児島に英語教師で来ているという。あまりことばがわからないから、この芝居も理解できぬかもと不安げであるので、ことばはぼくにも理解できない、ことばがわからぬでもおもしろい。オペラでもロックでも歌詞など分かって聞いている日本人などいないわけで、それでもみんな分かっているからというと、喜んでもらえた。

 かくして劇は始まったのである。

 
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劇団「どくんご」を訪ねる

2009-05-23 | 演劇
 今年1月16日、浦和市から鹿児島県出水市へ引っ越してきた「どくんご」は、5月15日の別府駅まえ通り近鉄跡地での公演を皮切りに、5月27日山口市中央公園西端公演からいよいよ全国テント劇巡演の旅にでると通知を受けて、ぼくら4人で急いで、9日午後1時に出水市へ出かけることになった。

 牧場の跡だと聞いていたので、ぼくらは出水市を見晴るかすひろびろとした高原を想像していた。手がかりになった一枚の写真でもそのような広野であり、五月さんのブログ日誌には窓から広い野がみえるとあったし、ピクニック気分であった。車はシノブちゃんのバンで、彼女がドライバー、3列のシートで彼女の愛息、せいや君(小学2年)とぼくは2列目に後部座席は、三木ちゃん、彼女は何ヶ月いや何年か毎日平均午後10時すぎの残業がつづいているとかで、ここで仮眠してもらい、休みをとってもらうことにした。ドライバーの隣に山崎さん、最初は山さんに車と運転をたのんでいたのが、シノブちゃんのたっての願いで、せいやくんを連れてで、彼女の車で行くことになった。彼女もここ数年は忙しさに追われるようになったというのだ。彼女とは20年あまり、三木ちゃんとは、8年ちかく演劇上演の実行委員会をやってきた仲間、国家公務員と地方公務員の二人は4年まえくらいは、まだゆとりがあったが、今はそうでなくなった。しかし、声をかけたら、ただちに行動を起こしてくれたのは、さすがと心強い。ということで話はおおいにもりあがり、走っていったのだが・・・。

 大口市の市街を2キロも走り大口病院から左折して野にはいると一分くらいで山地へ突入していった。山はたちまち深山の様相を帯び始めた。高原への坂道かと思われ進んでいくと、上ったり下ったりをしながら両脇の樹木もうっそうとなり、高原に出るという感じよりも谷底へ沈んでいく感じになってきた。この道路から小道が左折するようにグッグルの地図ではあったが、どくんごはその指示を道路に立てているのだろうか。「どうもかれは、そんな細かしい気遣いはせんかもなあ」というと、不思議と全員、そうかもとうなづくのであった。

 思ったように標識はないまま、小学校に着いてしまった。地図はこの手前から小道があるようになっていたが、あったかなとおもいだすもよく思いだせない。たぶん私道のようなものがあったが、あそこかもと、また引返して私道風な道にはいると、ふたたび深い樹木、高原など気配もなくなってきた。これはミスったかと車を停めたところに、民家の庭先があり、老女がいたので、どくんごの引越しの事実を聞くと、あ、それはそのさきに看板がでていると教えてもらえた。そう、30メートルさきに墓標のようにちいさな板きれにマジックで「どくんご」と書かれてモノが地面に突き刺されていた。そこを曲がると20メートルほどの、のびりになって上ると、ひろびろとした野の光景にかわり、そこに、テントが設営されていて、のぼりや花やすだれやらで、にぎやかにかざられていた。となりに発電をしているバスくらいの自動車が停車してあり、頼もしいエンジン音をたてていた。並んで住居もあり、作業所らしき家屋なども目に入った。ここかア、やっと着いたと、あたりを見回すと、およそ高原とは思えぬ場所であった。

 
 
 
 
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hou ちゃん 春の唄旅

2009-05-19 | アート・音楽
 彼女に13年ぶりに再会したのは、2007年の11月23日夜、宮崎市の「ニューレトロ・クラブ」でのライブであった。このことについては、2008年1月15日のブログでレポートしたので、読んでいただけると、これからのお話もしやすくなります。


公開 houちゃんのライブ 2008-01-15 10:21:44 生き方 音楽
   Hou ライブ 2 2008-01-15 11:04:35 生き方 音楽

 あの夜にぼくがおどろいたことは、彼女のヒッピースタイルへの変貌と、それにもまして関心をそそられたのは、2007年の11月この夜までにこの年、95回のライブを九州一円でこなしたという報告であった。そのころ、神谷君、ーHouちゃんは以前はかれのバンドのボーカルをやっていたし、彼女のライブをしらせてくれたのもかれであったがープロでも自主公演を月一回をかかさずやるのはなかなか出来ないと、ライブの現実のきびしさを話してくれた。そうそう一つのライブに毎月金をだすような客はふつうはいないというのであった。Houちゃんの場合は、自主というより声をかけられてであったと思われるが、それにしても、その回数にはおどろく。こういうことが、可能なのかとの思いはそのあともずーっと記憶に残っていたのだ。

 あれから、また彼女は旅に回りだして、一年あまり連絡もとだえていたが今年の冬、ぐうぜんに池辺宣子さんのNPO店「ヒムカの宝箱」でランチどきに出会い、明日から北海道を回るという準備で買い物に立ち寄ったようであった。こんどは一時間ほど昔の話などを交えて近況を語り合えたが、翌日はもうどこに旅しているやらとふたたび音信不通になっていた。ところが、今年の4月20日、このパソコンに彼女からメールが送信されてきた。ふたたび日本は不景気の時代となり、フリターは最悪の日々に変わった2009年をおくらねばならぬ毎日になってきている。彼女はどうしているかと不安に思っていた矢先であった。しかし2009年の春女の唄旅は、メールのとおりである。

        記

 おひさしぶりです。ホウです。
お元気ですか?


  私は二か月ぶりに旅から帰ってきました。
そしてまた春を迎えた宮崎を唄旅します。

 お知らせさせて下さいね~♪


4/24(金)
宮崎青島サウンダーズ
(青島1丁目6‐23)
福岡のアフリカンバンド『フォリカン』のたいこ叩きユウジマンとのライブ。
開場19:00、ライブ19:30~21:00、料金1500円
0985‐65‐0767

4/25(土)
one love soul cafe
(国冨町太田原)
w/きじは(サイクラブ)、vibration
開場19:00 開演20:00
料金2000円~スープカレーとドリンク一杯付
090‐8858‐1791

このあとは
26日鹿児島伊集院~28日熊本市~29日福岡宮地浜~30日大分~5/1北九州~とユウジマンとまわって、
5/3 虹の岬まつり
熊本阿蘇狩尾原野オケラ山

5/8(金)
『Jin Ja Jamming』
青島神社
開場18:00 開演18:30
前売1000円(200枚限定)当日1500円
W/Hadashi hula 、vibration 、熊谷もん、ラビラビ
※雨天時は青島儀式殿
INFO:Healing Natural
0985‐65‐2759

これからはホウもんツアーのはじまり
5/9~13
宮城県気仙沼出身の熊谷もんさんのつくるひょうたん三味線「モナケパ」の展示会をします。
音もかたちも素敵だよ。
9日と10日は『天空カフェジール』で。
10日(日)は14時~投げ銭ライブ
0985‐65‐1508

11~13は平和台公園内の『ひむか村の宝箱』にて展示します。
11日(月)に昼下がりライブ
0985‐31‐1244

5/9(土)
都濃 ロトハウス

5/16(土)
古民家カフェ コカプー(都城吉之元町~霧島神宮近く)
開場19:00、1500円
0986‐33‐1455


こんなかんじです。
時間があったら遊びに来て下さい。


 この日程を見ているだけで、何か気分をそそられる。「古民家かフェーコカブー」とか、国富町大田原の「きじは(サイクラブ)」それに青島一丁目の「宮崎青島サウンダーズ」とか、ちかく自転車で訪問してみよう。それに「熊本阿蘇狩尾原野オケラ山」の虹の岬まつりとは、どんな祭りなのかと、想像を駆り立てられる。

 カフェーあり、レストラン、雑貨店、神社、仏閣までと、彼女のステージに変わった様子が想像される。彼女、場所、観客の三者が共同して生み出す音楽空間の夜、また昼のひとときが身近な音をたててぼくを取り囲む思いである。

 5月12日、彼女は11日のヒムカの宝箱の庭先でのライブがひどく気に入って、つづけて翌日もやりたいとなり、ぼくは時間をみつけて再会できたのであった。彼女は
1年半まえよりもこころもちふっくらとなり、すばらしい狐色の日焼けと切れの長い
目がきらきらとしていた。ものごしは時間がないかのようにゆったりとして、ほとんどひとりごとをつぶやくかのように10人ほどの人々があつまったところで、唄を始めた。この雰囲気が人をゆったりとさせるのだろう。しばらくして山崎さんと席を立つと、すぐにぼくらのことを歌にしながら、元気でまた会おうねと唄ってくれるのを聞きながら、手を振ってわかれたのであった。また会う日が、楽しみだ。






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ゴールデンウィークの日々 おまけ

2009-05-14 | 街シーン
 6日最終日、水曜日はおまけのようなものだった。その日は午後、小林順一君のもやいの会のデジカメで街中を撮影する会に参加して、終っては市民プラザでお互いの写真をモニターに写して、ただ見つづけた。ただ見たというのは、参加したわれわれ4人は感想もしゃべらず、順ちゃんもジョークのようなコメントのほかは批評めいたことは言わずで、こんなやわらかい会であるのがよかった。各自の撮影した2枚だけが「もやいの会」のホームページに掲載されるのもおまけである。

 ゴールデンウィークの日々は、ぼくにとって楽しみを強制されているような、義務を果たすような感じもする毎日であったのだ。街中に一人でふらふらと出て行って、ゆったりとくつろげる場所は、ほとんどない。待ち歩きという楽しみも消えてしまっている。喫茶店もあまりなく、画廊も専門店も小さな本屋もなく、シャッター通りを歩いていくしかない。どうすれば楽しくなれるのか、ここ数年経つうちにとどのつまりぼくが覚えたのは、写真を撮ってまわることであった。近頃は、チェーン喫茶のタリーズ喫茶店で本を読んですごすことである。

 都市という場所で、この二つしかさしあたり楽しみ、つまり一人でいることの楽しみをみつけられないというも、情けない話だ。遊べる空間がないのだ。このゴールデンウィークの日々は、おまけにイベントがかさなり、おなじようなことを、人といいしょにやるというのでは、かえって疎外感が増していく。20代後半の女性が、わたしはよく海岸にいきますと話してくれたことがあった。海岸に行ってなにをするのかとたずねると、「泣きます」と明るく笑って答えた。なにかひどくリアリティを覚えて、こんな機能も海岸にあるのかとおもしろく思えた。

 それでもこのごろは、スターバック、タリーズのチェーン喫茶店やその他のカフェなどで、本を読んだり、パソコンでの作業をしていたりする客が当たり前にみられるようになってきている。ひとりでなにかをしているのが、ごくふつうの様子になってきている。4,5年まえには一人で喫茶店やカフェに座っているような若い女性の姿などはほとんどみなかったし、たまたまそういう女性をみるとおもわずエールを送りたくなったり、ひどくかっこよく感じられたりしたものだ。これが今では普通のシーンになってきた、やはり街は変わってきているのだと、思えるのである。

 宮崎総おどり、国際音楽祭、映画祭、演劇祭、フラワーフェスタ、クリスマスなどなど、一人にさせない街、集団にまとめることでかえって自己疎外を強めることになる企画が年中くりかえされていく街中、そんな流れのなかで若者たちは、ひとり静かに孤独であることを強めつつあるのは、どこか希望をかんじるのであった。ゴールデンウィークの日々もまた孤独を楽しめる日々として、一部には享受されだすような可能性のなきにしもあらずと、いえるかもしれない最終日であった。
 


 
 
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ゴールデンウィークの日々 ストリート

2009-05-12 | 街シーン
  5月5日は、昼前から繁華街に出た。わが町を楽しむためである。快晴の昼下がりであった。街はいつも劇場でもある。この写真のシーンは、土曜日の午後によく行くデパート・カリーノの壁面で、向かって左にタリーズの窓際となっている。その窓辺の椅子に座って往来を眺めるのであるが、反対からその窓辺を見ていると、こんなシーンにあった。ピーターブロックの演劇論によると、ひとりの人がひとりの観客の前を過ると演劇が発生すると言う。そのようである。(写真はクリックすると画面いっぱいになります。)

 しかし、今日は「みやざき国際ストリート音楽祭2009」の当日となっている。市庁舎まえから山形屋まえの700メートルのメインストリート橘通りぜんぶは、4ヶ所のステージと白バイや消防車、救急車と写真がとれる「こどもパーク」が設営されている。12:30分から19:30分まで交通規制となり、演奏会やライブが開かれる。大掛かりのステージ、大きなスピーカーやミキサーを備えての音響設備、並べられたアルミの椅子が埃のなかて乾いた反射をしていた。橘通りは、ステージに変わり、町並みは背後に隠れてしまった。ステージを中心に人々が群がりはじめていた。

 例の「T-ステージ」では、二胡のグループ演奏がはじまっていた。おもしろくも魅力も感じられない。鈍重でよたよたとしていて、たおやかさ、幽玄のディープさは、この殺伐としたステージの埃の舞いのなかに消滅していた。若草通りの十字路では、アカペラであり、がなりたてる大音響のスピーカーと調子のいいおしゃべりが、わあわあと空中に舞い上がりつづける。

 手わたされたプログラムに入場無料と赤いマークで記されていた。こんなことはあたりまえではないか。それは当然すぎるほど当然であり、記す必要もないことである。入場を無料とする発想そのものに、もうすでに街は劇場であるという意識が消えているのを思う。ストリートは、アートもわからぬものたちにより、ステージへと強制されてしまった。かれらは、入場料を無料に設定したことに自己愛を感じているのかもしれない。しかし、劇はなかった。いやあったとしても、ぼくにとっては無意味で苦痛そのものでしかなかったのであった。

 劇とはなんだろう。演奏者とはなんだろう。そこにはかならず内省という人の恥じらいに似た自己省察が感じられ、それがおなじ悩むものへの共感と感動を共振させてくれるのである。ステージで感じた多くの演奏者は、集まったアルミ椅子の上の観客、歩道から立ってみている市民たちを、楽しませているというゆるぎない自信、傲慢なる自己満足をふりまいていた。内省はなく、かれらとの共振も共感も生じない。しかし、かれらは無限振り子のように終るまで機械的に揺れていた。かってな自己満足に時を刻む。これなら、イルカショーの4匹の無垢な餌のために必死なイルカに胸をうたれる。猿芝居の猿の独演の懸命さ、無垢さに同情をおぼえさせられおもわず拍手を送る。猿よりも感動のないステージには苦痛しかないのだった。

 午後は遅くなり、疲れた体をふるいたてて、ふたたびヒムカ・チリに自転車を向けることになったのである。かくしてゴールデン・ウィークは終ろうとしていた。
 

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ゴールデンウィークの日々 むさぼりたがった休日

2009-05-11 | 楽しみ
 ゴールデンウィークが過ぎ去って、まだ丸五日目だが、もう何週間もまえに終ったような気分である。だからその日々を書くことなど場違いの感もする。さて当初の鹿児島市の水族館に無事到着したの三日の午後5時ごろであった。水族館は夜が本番という感じが、おもしろい。エイの出産シーンのビデオ公開、いるかのショー、夜には魚はどうなるのかの生態観察などと、午後9時の閉館まで、あの迷路同然の空間を地下から劇場、一階から3階となんどもぐるぐるあがったりさがったりと孫にひきずられて回った。

 あのあとつまり帰宅してから、昨日も撮影したビデオ録画を見てみた。水族館の水槽を泳ぐ魚のシーンは、きわめてリアルである。もともと水槽を覗くのもビデオ画面的であるから、ビデオ映像が似たような感覚を生むのだ。こうしてみると、タツノオトシゴの不思議な形、ふぐのかわいらしさ、イカの宇宙船のような動きと、これらは水族館でみるよりもおもしろい。ということで意外なお土産を入手できたのであった。

 帰宅したのが午後11時半、寝たのが午前2時、起床午前7時半だったので、日中になって、重い疲労感が全身にじわりと広がってきだした。すると、妻が「極楽湯」に行ったらと、提案してくれて、自転車でヒムカ・チリを走るのを止めて、昼に同湯に行った。12時半ごろには浴場であった。たぶん空いていると予想したとおり、屋上露天では3,4人しかいなく、まるでひなびた温泉にいる気分であった。これは、もうけものであった。入湯料金は割引で390円であった。

 ここで昼食、味噌汁の定食を頼むと、キュウリが浮いているみそ汁で、珍しいと
思ったら、なんと冷汁であった。つかれもかなり軽減されたし、ここから自転車で
5分のデパートカリーノの一階にあるスターバックスに行き、4時ごろまで文庫本を読んで過ごした。ここもまたしづかな部屋となっていた。4日は、人のいないゴールドな休日を存分に享楽できたのであった。もっとも市街にも人はあまり群がってなかったのも事実である。写真は極楽湯のレストランから撮影した。人がいない、裏道も表道も。
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ゴールデンウィークの日々 遺跡と廃墟

2009-05-08 | 楽しみ
 
 上野原縄文の森には隣接してテクノパークらしき残存建築がまたある。そのひとつがふもとから見える展望台である。3階までのエレベーターがあって、そこから屋上となり展望が楽しめる。その基底の部屋で男性がひとり事務をとっていた。まさ
にガラーンとしたエントランスと廊下があるばかり。それに展望台までひろびろとした階段があり、エレベーターに乗るより快適に楽に屋上に行けるのである。あとで、家内がトイレに行ったらきれいだったけど、あちこち錆びだらけで、使用する気が失せたといっていた。

 そして隣のブロック、つまり縄文の森展示館にも同じ3階展望台があるのだ。こちらは、適当な訪問者があった。レストランも生きており、13時だったので、立ち寄ると、もうライスものはないというのだ。なぜと聞くと、売り切れましたという。
うりきれるほど人が押し寄せたとは、ありえない。日ごろの感じで、これくらいと準備したら、本日は売れてしまったということであるらしい。いかに訪問者が日ごろないのかを想像できるのであった。

 途中、末吉町で10号線沿いの「道の駅」に立ち寄って昼食しようとしたのだが、人でごったがえし、ここのバイキング食堂は100人をゆうに超える順番待ちが、待つの楽しみという様子で椅子に群がっていた。この木造のレストランは、おそらくあの吊橋の何分の一くらいの費用で建てることができたろうが、その繁盛ぶりは脅威的であった。

 ただ、ぼくとしては、こちらの人も少ない、大公園のほうがはるかに性にはあっていた。それに、この台地に入ると、たしかに縄文の遺跡の存在を感じ取ることはできるのだった。想像を刺激される。おそらく1万年前、この台地で朝夕、巨大な日の出を仰ぎ見た縄文人の生活ぶりがよみがえってくる。しかし、まわりは、すでに人のおとずれぬ廃墟と化している。テクノパークは30年たらずで廃墟、一方は一万年を眠ってまだ生きている。

 パークも縄文の森もどうやらスタートから廃墟であったのだ。この施設を税金を消費して建設した瞬間から役目はすべて終了したのだろう。そして建設者たちの所有となった金は、やがてデリバティーブの投資となり、マネーゲームに繰り込まれ、昨年、霧となって空中に四散してしまったにちがいない。そして廃墟がのこった。廃墟といえば崩壊し、錆びくれた鉄鋼やコンクリートの残骸などをイメージしてきたが、新品のまま廃墟化する都市施設があるのを、興味をもって再確認できる思いがした。公園という大儀名目だけで、人とはなにかをかんがえぬけない机上の公園化、まずこれがまちがいなく廃墟と化していく。そして、ぼくは廃墟が好きでもある。
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ゴールデンウィークの日々 文明

2009-05-07 | 楽しみ
 次男一家と初日5月3日、メディアに煽らずに、人々とは反対に行こうと、宮崎市から千円高速に入らずに、鹿児島市の水族館に入館することにした。何回見ても、水族館で生きる生物は驚異的な存在であるからであった。とくに径一センチに満たないクラゲ、生物はなぜ、動くのかと見れば見るほど気の遠くなるほど思考を捻じ曲げられる。糸がなぜ意志をもって動きつづけるのか・・・。

 国道10号線を通って鹿児島市へ走るのは何年ぶりだろうか、いつもは山麓線という霧島山脈よりを通り国分にでて、隼人、加治木と向かっていたからだ。しかし今回はふと思いだして、国分市にある「上野原縄文の森」の遺跡を訪ねてみることにした。前も何回もこの遺跡を示す表示を見ながら、そのまま走り過ぎていた。なぜか、わざわざ狭い坂道に逸れて、遺跡まで行く気にならなかったのだ。墓標のような墨書の標識が淋しげに建てられていて、狭い道路の奥は藪の押し茂るうっとうしい場所だろうと、行く気にならなかったのだ。だた、最近は青い道路標識のような立派な案内が鉄柱の上で、入り口を示していた。

 9800年前という縄文の遺跡がこの山地にどんな文明を、もたらしたのか、ふと想像を掻き立てられ今回は行ってみる気になった。これもゴールデン・ウィークという気分であったからであろう。こうなるとやはり縄文という言葉が呪縛する。森といい住居跡といい、そしてなにより一万年前に、ここに古代人が暮らしていたという想像を絶した出来事は、思いを馳せるとわくわくしてきだすのであった。

 すると、運転中の次男は、縄文時代、そんなものはどこにも感じられないよ、ばーっと広がった近代的公園があるばかりだ、ほら下から見えていた、あのホテルだろうか、なんだろうかと、山の上で輝いていたガラスのドームがあるでしょう、あれがあるところさと言うのだった。
 
 瞬間、そうだ、それはそうだろうなと、かれの言葉に納得してしまうのだった。というのもヒムカ・チリや下北方、青島三丁目の開発を見てきた体験から、同じ開発にさらされたはずと、そう断定できる思いがぼくには沸いたのだった。だが、縄文遺跡へのロマンもあったのだ。

 峠道から横にそれて10分も上らぬうちに、たちまち、山頂が広大は高原となってひろがった。藪どころか、桜島火山灰大地である。垂直な断崖となって縁取られ西のほうには、同じ断崖をもった姶良町台地が連なっている。それは、ミニチュアのヨセミテ渓谷に感じられるほどであった。また、東側の縁から桜島を見ると、湾の海原と島が見えるだけで、あの篤姫が幕末末期に見た桜島はこうだったかと思えるほどの自然風景であった。

 縄文遺跡は完膚なきまでに観光資源化されて公園化されていた。そして、閑古鳥のなく空間として、ここ何十年かが経過していた痕跡があちこちにかんじれる場所になっていた。これは縄文の遺跡よりも、強烈な文明となって、ぼくを魅了したのである。縄文の森展示館から埋蔵文化センターまで長さ100メートルほどもある吊橋がかかっていた。おそらく億の金がかかったであろう橋であった。〔写真参照)
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自転車ぶらぶら散歩 ヒムカ・チリ 2-1 まるで詩

2009-05-01 | 自転車
 マンゴの生産ハウス群から引き返すことにしたが、そのまま山崎街道に入り、そこから右折して、国道10号線に入って、平和が丘団地へ向かうのだが、いったいどこを走っているのか見当もつかず、はるか南の双山石のほうへとにかく走っていると、やがて人家が並ぶとおりに出た。五月の鯉幟が、庭に翻っている。真新しく大きな鯉が5匹も風になびいている。この家は純和風のお城のような家で、今どきまだこんな瓦屋根の日本建築を建てうる棟梁もいるのだなと感心する。と、その斜め前の家は、スペイン風の洋風住宅で、ベストを着た中年の紳士がゴルフの練習をしていた。
 
 その道路は、生垣がつづき、その切れ目つまり門のようなところに看板が立っていて「ひだまり2号館」と墨で書いてあった。なんだこれ?と思ってよくみると老人福祉施設とあった。グループホームかデイケアセンターのようであるが、人影はなかった。ひだまりとはねえ、なるほど、そして2号館という絶妙のネーミングにはおもわず笑いださずにはおれなかった。1号館ではまだ現役すぎるのだ。3号館ではもう終わってしまうし、そこで2号館、この田舎道の生垣の中のひだまり。

 おれはこういう施設に素直に入れるだろうか、いや入れるような老人になれるようにしなければ、これが若い世代への恩返しかもと、気分がすこし落ち込んではしっていると、きれいな喫茶店が、この藪が切れたところで、目に入った。ちかづくと、それは女性用の衣料、下着などを中心にした雑貨店であった。カーテンで窓は覆われて開店しているようでもなかったが、営業中とあった。その駐車場で垢抜けしたジーパン姿の若い女性が3歳くらいの男の子と遊んでいる。おそらく客も来ないので店の外であそんでいるのだと、思った。

 そこで自転車を止め、降りて近づいて、声をかけると、はじめて彼女は顔をあげた。目鼻たちのくっきりした色白の美人であった。お店には、普通の輸入雑貨もあるんですか聞くと、ありますというので、入っていいですかというと、いいでしょうというので、あなたが、このお店の社長さんですかというと、家、私は遊んでいただけで、社長さんは中にいますよと気さくに教えてもらえた。
 
 玄関ドアをぐっと押すと、開いた目の先にカウンターがあり、客一人と話こんでいたのが、細身の中年女性で、おどろいたようにぼくを見たのが社長さんであった。みていいですかというと、どうぞ、どちらからおいでですか、市内からです。いや、こういう場所に輸入雑貨があるとは、おどろきです、で中を拝見したくてと説明すると、微笑んでどうぞと招いてもらったわけだ。

 おどろいたのは、婦人服だけでもびっしりと下がっており、装飾品の宝石から置物、人形、コーヒー、紅茶のセットもかなりのレベルのものが数セットある。そして万年筆が目に付いておどろいたら、それは携帯用箸であった。これはおもしろい作品で、値段も1500円ほどだった。雑貨は、予想以上に種類も量もあり、かつ洗練されているではないか。平たい石に模様を描き、飾りにしたものが、棚の品物のわきにひそかに置かれていた。彼女が、近くの浜辺で拾った石を彩色デザインしたという、好きなのだな雑貨が、とおもえたのだ。最後にいつから開業され、客の入り具合はと聞きたかったが、聞くのはためらわれた。と、おどろくことを彼女は言ったのだ。

 「ここにお店を開いて18年になりますのよ」と。「えっ!18年、この同じ場所にですか!」「え、ただ今年駐車場を広げ、店も改装し、ひろげましたけど」

 常連もついているということだった。だれも気づかない、だれもわすれているような場所に今流行のセレクトショップが、店を開いている、18年間も、これが人生ではないかと、おもわず青空が広がったような興奮が湧き上がってきたのである。
そして思い出したロートレアモンの詩で、手術台の上で蝙蝠傘と洗面器だったかが挨拶しているとかなんとか、この組み合わせの不思議さを歌った詩をである。人生は深いよね。
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