25日の朝日新聞宮崎版に東国原知事が、県庁前の県文書館を、その歴史的建物を生かしてカフェに転用したらというアイデアが報じられていた。その都市的論理に
感銘したわけだが、その数日後、同新聞に宮崎市が中心市街地復活のためにメインストリートの橘通1丁目から3丁目までを公園化するという計画が報じられた。これは10日ほど前宮崎日日新聞も報じていた。朝日では東知事のコメントを紹介している。知事は「人通りの少ない通りを公園化したからといって人通りが増えるとは思えない」と簡明に裁断していた。まさに、その通りであろう。
二つの新聞記事とも回覧板よろしく市民の賛否両論があることを他人事のように述べている。ぼくは、公園化の賛否などばかばかしくて答える気もしないが、こんな無意味な計画に、賛否もあるものかと思う。都市を見る目があれば自明すぎることだからである。
ただ、その功罪はあるので、述べてみよう。まず,功は、これで中心市街地の商業活動を担う商店街は消滅するだろう。これ以後は、中心市街地復活などという幻想に税金を浪費することなく、もっと有効なことに向けられるかもしれない可能性がある。家賃も下がるだろう。
罪は、宮崎市が管理都市の度合いをいちだんと進めるという点だ。行政にとっても首長にとっても都市の管理によって、より政を効率化できる。公園はまた管理化に置かぬかぎり犯罪の巣になりかねない。市民はここを与えられた条件つまり管理下でのみ利用できるのである。何をするにも、実は市の許可がいるのである。これは繁華街の自由と開放感の対極の空間となる。
1999年平成元年より宮崎市は、橘通りの公園化を中心市街の命題として一年をかけて実施した。しかし、予算面で躓き、中途半端のままで終わった。あれから策定だけは3度ほど出され、一部には看板規制や駐輪禁止区域の拡大などで実現されてきたが、なにも復活してきてない。にもかかわらず、公園化を捨てない。それは、今ようやくわかってくるのは、中心市街地の復活よりも管理都市への果てしない夢のためであるからということである。
こう思うとき、東国原知事の都市への論理的な意識はまさに、この管理化と対極の位置にあることが理解できよう。このような政治家とはまさに稀有の政治家である。ふと、ぼくはシェクスピアの戯曲に出てくるさまざまお王のイメージを重ねてしまう。かれら人間的であるために悲劇を背負ってしまう。そんなことを思う。
都市での創造、そのエネルギーは自由な活動を通してのみ起きてくる。意識革命もまた然りである。宮崎市がその反対方向に全力をあげて進みつつある。知事の革命は阻まれよう。
感銘したわけだが、その数日後、同新聞に宮崎市が中心市街地復活のためにメインストリートの橘通1丁目から3丁目までを公園化するという計画が報じられた。これは10日ほど前宮崎日日新聞も報じていた。朝日では東知事のコメントを紹介している。知事は「人通りの少ない通りを公園化したからといって人通りが増えるとは思えない」と簡明に裁断していた。まさに、その通りであろう。
二つの新聞記事とも回覧板よろしく市民の賛否両論があることを他人事のように述べている。ぼくは、公園化の賛否などばかばかしくて答える気もしないが、こんな無意味な計画に、賛否もあるものかと思う。都市を見る目があれば自明すぎることだからである。
ただ、その功罪はあるので、述べてみよう。まず,功は、これで中心市街地の商業活動を担う商店街は消滅するだろう。これ以後は、中心市街地復活などという幻想に税金を浪費することなく、もっと有効なことに向けられるかもしれない可能性がある。家賃も下がるだろう。
罪は、宮崎市が管理都市の度合いをいちだんと進めるという点だ。行政にとっても首長にとっても都市の管理によって、より政を効率化できる。公園はまた管理化に置かぬかぎり犯罪の巣になりかねない。市民はここを与えられた条件つまり管理下でのみ利用できるのである。何をするにも、実は市の許可がいるのである。これは繁華街の自由と開放感の対極の空間となる。
1999年平成元年より宮崎市は、橘通りの公園化を中心市街の命題として一年をかけて実施した。しかし、予算面で躓き、中途半端のままで終わった。あれから策定だけは3度ほど出され、一部には看板規制や駐輪禁止区域の拡大などで実現されてきたが、なにも復活してきてない。にもかかわらず、公園化を捨てない。それは、今ようやくわかってくるのは、中心市街地の復活よりも管理都市への果てしない夢のためであるからということである。
こう思うとき、東国原知事の都市への論理的な意識はまさに、この管理化と対極の位置にあることが理解できよう。このような政治家とはまさに稀有の政治家である。ふと、ぼくはシェクスピアの戯曲に出てくるさまざまお王のイメージを重ねてしまう。かれら人間的であるために悲劇を背負ってしまう。そんなことを思う。
都市での創造、そのエネルギーは自由な活動を通してのみ起きてくる。意識革命もまた然りである。宮崎市がその反対方向に全力をあげて進みつつある。知事の革命は阻まれよう。