市街・野 それぞれ草

 802編よりタイトルを「収蔵庫編」から「それぞれ草」に変更。この社会とぼくという仮想の人物の料理した朝食です。

東国原知事のイメージ

2007-05-29 | Weblog
 25日の朝日新聞宮崎版に東国原知事が、県庁前の県文書館を、その歴史的建物を生かしてカフェに転用したらというアイデアが報じられていた。その都市的論理に
感銘したわけだが、その数日後、同新聞に宮崎市が中心市街地復活のためにメインストリートの橘通1丁目から3丁目までを公園化するという計画が報じられた。これは10日ほど前宮崎日日新聞も報じていた。朝日では東知事のコメントを紹介している。知事は「人通りの少ない通りを公園化したからといって人通りが増えるとは思えない」と簡明に裁断していた。まさに、その通りであろう。

 二つの新聞記事とも回覧板よろしく市民の賛否両論があることを他人事のように述べている。ぼくは、公園化の賛否などばかばかしくて答える気もしないが、こんな無意味な計画に、賛否もあるものかと思う。都市を見る目があれば自明すぎることだからである。

 ただ、その功罪はあるので、述べてみよう。まず,功は、これで中心市街地の商業活動を担う商店街は消滅するだろう。これ以後は、中心市街地復活などという幻想に税金を浪費することなく、もっと有効なことに向けられるかもしれない可能性がある。家賃も下がるだろう。
 
 罪は、宮崎市が管理都市の度合いをいちだんと進めるという点だ。行政にとっても首長にとっても都市の管理によって、より政を効率化できる。公園はまた管理化に置かぬかぎり犯罪の巣になりかねない。市民はここを与えられた条件つまり管理下でのみ利用できるのである。何をするにも、実は市の許可がいるのである。これは繁華街の自由と開放感の対極の空間となる。

 1999年平成元年より宮崎市は、橘通りの公園化を中心市街の命題として一年をかけて実施した。しかし、予算面で躓き、中途半端のままで終わった。あれから策定だけは3度ほど出され、一部には看板規制や駐輪禁止区域の拡大などで実現されてきたが、なにも復活してきてない。にもかかわらず、公園化を捨てない。それは、今ようやくわかってくるのは、中心市街地の復活よりも管理都市への果てしない夢のためであるからということである。

 こう思うとき、東国原知事の都市への論理的な意識はまさに、この管理化と対極の位置にあることが理解できよう。このような政治家とはまさに稀有の政治家である。ふと、ぼくはシェクスピアの戯曲に出てくるさまざまお王のイメージを重ねてしまう。かれら人間的であるために悲劇を背負ってしまう。そんなことを思う。

 都市での創造、そのエネルギーは自由な活動を通してのみ起きてくる。意識革命もまた然りである。宮崎市がその反対方向に全力をあげて進みつつある。知事の革命は阻まれよう。
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東国原知事の論理に感銘

2007-05-25 | Weblog
 今朝の朝日新聞に、県庁前にある宮崎県文書館を、カフェに転用したいという東国原知事の意向が、大きく報じられていた。同館は、大正時代に建設された赤レンガの壁面を持った旧勧業銀行であった。今ではもう宮崎市街に残る唯一の歴史的建造物になっていた。ここをカフェにして、旧県庁舎と対にした観光のスポットとするというのだ。今、知事の全国的人気で、昭和8年に建てられた旧県庁舎にも連日、観光バスが訪れる。街は人が往来してこそ活性化される。この街をみる視点のなんと論理的であることだろうか。バブル期以後、衰退をつづける中心市街地にはじめて論理による目が注がれたかと感無量を覚えたのである。

 これを宮崎市の街づくり、美しい景観をつくるという施策とくらべると、いかに東国原知事の発想が理にあってるかが理解できよう。看板を規制して、道路に花を植えて、街が美しくなるとは、あまりに視野が狭い。きれいだと言われる道路ほど
人が往来していないのだ。たとえば芸術劇場前から公立大キャンパスに沿う道路、大淀河畔の橘公園、鉄道高架に沿って4キロほども整備されたアートを飾った道路
カラー舗装で覆われた上野町商店街、郊外の整備された住宅地などなど、人出と景観度は反比例している現実を見るべきだ。そういう視点が論理なのだ。

 多分、知事の発想は、理解もされずに奇想として退けられるだろう。もし、そうでなければ、市民に改革の意識が芽生えだしたのだということが出来るであろうかと、楽しみにしている。

 
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夕陽妄語、なぜ?

2007-05-22 | Weblog
 夕陽とは自分の老境を指すのだろう。
網語とは、妄言の言い換えであろうか。つまり道理に合わぬ暴言ということだ。もちろん、ここではへりくだっていうことだろう。

 老人で妄言というなら、それをわざわざ大新聞に何年も連載して、まとまったたびに本にするなどということをなぜするのかと、正直に思う。こんなまわりくどい
仕方、つまり晦渋さを装うことで、何か責任逃れを感じてしますだがどうだろうか。

 きれい過ぎる。コーヒーを嗜みながら、アフリカの飢餓を論じるような・・・
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とんでもない

2007-05-19 | Weblog

今朝、パチンコ店の「のぼり」にこんなキャッチコピーがあった。ぼくはこの「のぼり」のコピーが面白くて、あちこちのものを読んでいるが、今朝のには思わす立ち止まった。のぼりに読めたのは、  

 「現実主義 スゴッ 妻 」

 なんと現実感のある表現だろう。たしかにパチンコするような夫は怒るか、軽蔑するか、あきらめるか、妻の現実主義は凄い。しかし、なぜこんなキャッチコピーをのぼりになびかせるのか、思わず立ち止まって凝視してしまったわけである。

 

 なぞはすぐ解けた。これは、

  「現実主義 スゴッ 凄い 」の読み間違い

であったのだ。フロイドではないが、間違いは心のなかの欲求がさせるというのだ。おどろいた、のぼりにも僕自身にも!!

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どこに幸いありや。

2007-05-18 | Weblog
 東京から帰ってすぐに佐賀大和に行った。近くに宿を取ったのが、佐賀市の隣の多久市、多久町の「多久天然温泉ゆうらく」だった。家内が「公共の宿」という案内本でさがしだしたホテルである。ホテルというより温泉を利用した健康ランドのような施設に思えた。デコラティーブな屋内プールが写真で紹介されていた。
 
 写真は豪華だが、値段は安いし、ちゃらちゃたしたバブルの申し子、あのハード優先、レジャーランドの成れの果てかもと期待もなく、天然温泉にだけ惹かれて長崎高速道を多久インターで降り、有料道路100円で、小侍(こざむらい)を出ると
5分で玄関についた。回転してない佐賀県下の最大の観覧車がホテルを見下ろして聳えていた。

 とてもホテルとは勝手が違っていた。プールの入口である奥にカウンターがあり
ここしかレセプションがなさそうなので、入っていくと、カウンターの何人かがあわてた様子でなにかを言う。いやここじゃないのかと、なおも進むと、なにしろ15メートルも奥なので、と、靴を脱いでとの注意だった。ホテルの受付で裸足でとはなにごとか、おまけに玄関もなく、駐車場はかなり遠い、これでホテルかとややむっとして受付を終わった。

 しかし、これからが思いがけないほど、贅沢なサービスが展開していった。

 まず、部屋がシティホテルの3倍はある広さのツインであった。これはすばらしい。それから温泉と屋内プールの豪華さに目を見張った。プールはスポーツというより家族でのレジャーをメインにしたため、25メートルのプールのほかに泡の風呂
ジャグジー、流れるプール、屋外のプール、などなどがドームのなかに展開する。
隣接温泉は、大理石風呂、日本風風呂、ジャグジー、泡、うたせ、サウナ、露天と
広い。

 温泉用にバスタオルとタオルが渡され、部屋にもパスタオルとタオルがあり、シャンプーからヘヤトニック、剃刀、歯磨きと大浴場にもそれがある。温泉は朝8時から10時のほかは24時間開いている。マッサージ機の並ぶ休憩室が何部屋もあり、
ビデオシアターは100人は入れる広さで、床にベッドがあって寝転がった見られ、12時まで無料で映画が上映されている。子供の遊ぶ部屋もある。

 丘の上の部屋からは、風景までゆったりして広広しなんともいえない贅沢を味わえる。部屋ばかりでなく温泉もプールも廊下も休憩室もどこもかしこも広いのだ。だから、なお快適である。いよいよ夕食で、これが決めてか。どうせお粗末なものと思っていたところ、量がごてごて多くなく、天麩羅と刺身と煮付けをメインにした上手い和食であった。食後のコーヒー(100円)がうーんこれはというほど上手かった。なかなかコーヒーの上手いのにはありつかないけど、こくがある美味は満足できた。朝食は、ぼくのきらいなバイキングでなく、和食か洋食のツーウエイであった。

 以上のようなサービスで、ホテル料金は7000円である。信じられますか。信じられんよね。あの東京の木賃宿風ホテルも臭いバスタブだけのある部屋で食時なしで7000円であった。翌朝、佐賀大和であった知人の奥さんのグループ旅行をここに変えるように進言、さっそく下見にいった奥さんは、大満足であったと電話をくださった。家内はホテルゆうらくの受付で、受付の人たちにサービスが過剰ですので、こことここを減らしてはいかがと提言していた。つぶれては困るホテルだからと、思ったわけである。

 こういうところが、眠っているのである。情報はなによりも自分で判断し探していくしかない。
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東京 銀座

2007-05-17 | Weblog
 昔は東京駅に着くなり、カルチャーショックを受けたものだが、今はなんのショックも違和感も受けない。都内の情報密度こそ他にないものなどという文化人もいたが、それも感じられない。情報といってもメディアでろ過されたものを与えられているだけで、たとえば朝、晩テレビのろ過情報は、ここ宮崎市の何十倍、何百倍の東京情報を流している。むしろ、情報の密度といえば、宮崎市の近郊を自転車でサイクリングするほうがよほど、密度が高い。たとえば、金竹の生垣だけが広がる集落全体が、夕日で黄金に輝いていたというような光景に出くわすと・・

 であるから、テレビなどのメディアで、親しんだ東京に別にショックを受けるものはなにもなかったが、銀座は、感情を揺さぶった。昔からここだけは田舎モノをすくませるはれの通りだった。だから緊張も強いられた。19年4月26日の午後2時、有楽町駅から1丁目を経て、8丁目へと歩きながら、なんとここは昔のわが街、橘通りを感じさせられるのだろうかと懐かしかった。しっとりとした賑わい、思わす店内を覗く専門店の連なり、往来する人も多くも無く少なくも無い、ほどよい人々。ぎらぎらする流行もなく、喧騒も混沌もなく商店街が連なっている。これこそ、昔味わっていた中心市街地の華やかさだった。それがあったのだ。

 東京は、空中へ向かって幾何学的なビルを建て続けている。上海ともシンガポールとも、タイや台湾ともそっくりである。ビルが空にのびるほど永遠に都市の経済は発展するという楽天主義の思考に疑いも感じないのだろうか。そのビルの足下にひろがる都市こそ永遠ではないかと再認識したのであった。
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10年ぶりの東京 7

2007-05-15 | Weblog
今回、驚いたのは、国立科学博物館のシアター360のドーム前で待っているときも
同窓会があった成城学園駅前のそば屋さんでも、銀座の画廊や人形館でも、宮崎から来たと言ったら、東国原知事さんはどうですかと、聞かれた。ついで宮崎市の思い出なども語ってもらえた。これはたいしたことだ。昔は宮崎といってもどこか正確にわからない人が多かったが。もちろん同窓会でも話題となった。

 そのたびにぼくは話した。博物館の30そこそこの女性館員、そば屋さんで焼酎を運んできた20そこそこの女性にも、キャリアのにおいのする画廊の中年女性や、人形館のオーナーにも、喫茶店の知的な感じのオーナーにも語ったことは唯一つ、以下のようなことだった。
 
 東国原知事は、はじめて理論を駆使する知事ですね。これまでこんな知事はいなかった、とくに50年間に3人の知事がでたが、二人は賄賂に関わって辞任に追い込まれ、一人は文化好きだが文化が分かってもいなかった。ということで、権力と理論の結びついたときの威力をかんじさせます。そして、宮崎県民は理論よりも慣習、なによりも自分個人の体験、経験が真実です。このぶっつかりあいは、大衆よりが県会議員たちや、県政記者クラブの記者たちとも、東国原知事の理論と、慣習、自己体験を超えられぬ意識とのぶっつかりあいが生じています。

 今は宮崎県民の多くは、意識革命を刺激されていますが、利益の欲しい多くは知事の垂らした糸に全部ぶらさがっています。そのうち、ぶら下がる最上位のものが糸を切断するでしょうね。

 知事はその男をどうやって認識できるかが、これからの勝負でしょう。またいつまでもぶら下がっている県民をぶらさげつづけることも不可能でしょう。

 これからが見ものですね。意識革命といわれても、結局は、自己革命しかないのだから、ぶら下がったままでは、地獄に逆戻りですよ。近い将来にこのままなら。
 
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10年ぶりの東京 6

2007-05-07 | Weblog
秋葉原の光景は路地ばかりでなく大通りも、日本的風景ではない。タイやベトナムなど東南アジアの雑踏を連想させる。ことさらにこういう風景を意図したわけではなさそうで、電気街の商売の活気が生み出した街風景であろう。この意味ではこれもグローバルの結果であろうか。ただ、こうした街は地方では、軽蔑的に無視され消されていった。

 ただこれは、消す消さないの結果でなく、こういう活気ある商売をすれば必然的にこういう街になるということを思い出させてくれた。

 実は、宮崎市内にもこの東南アジア的街路に似た場所が、ぼくの記憶では2箇所だけある。これはじつに重要な街づくりのヒントであろう。一つは、市街北の郊外にある。国道10号線の蓮ヶ池の付近、もう一つは、恒久南の220国道にある。これも商売の活気が生み出した商店街風景である。

 この事実は見逃せない。看板規制や、美しい風景づくりという無意味さをあらためて思い出させてくれた光景に秋葉原で遭遇し、爽快な街のエネルギーを感じることが出来た。宮崎の秋葉原に出かけてみようと思う。
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10年ぶりの東京 5

2007-05-03 | Weblog
2007年4月25日夜の東京ミッドタウン、六本木ヒルズから翌26日、東京駅丸の内ビル、八重洲口をへて、正午にJR秋葉原駅正面の電気街に来た。ここにI君の勤める電気店がある。秋葉原は、まさにイメージどおりだった。昔と変わらず、いや昔よりももっと雰囲気が深まっていた。見よ、この路地の商店街こそ、日本中の地方都市が消し去って省みなかった街である。

 混沌、わいざつ、非衛生、いかがわしい、非能率で非現代的な商業施設として取り払った。だがしかし、ここに来たとき、その人間くささ、その安心感、くつろぎをあらためて感じるのであった。ここは、ミッドタウンなどのショッピングモールよりも専門性があり、差異性で圧倒している。特殊でありながら普遍的である。電球しか売ってない店のまえに立つと、電球という見慣れた日常品が、はるかな深みと時間と広がりを、たちまちぼくの周りに泡立たせてくれるのだ。それは人生である。美術品のようにケースに並んだ六本木ヒルズのワイシャツの何十倍も想像を駆り立ててくれる。

 街そのものが、もともとこのような複雑性をもっているものだが、均質化と能率化、それを至上と仰ぐ単純きわまる価値観によって四角いビルだけに変わっていく。さすがに東京という大都市は、すべてを森ビル風に変えられない。宮崎市の中心市街地は、均質化と能率化のまえにひとたまりも無かったが、それだけに、ここは心温まる一角であったのだ。レトロは、飢えたるものの食料を発見する意識と、言えるわけだ。

 I君の店は間口3メートもあるのだろうか、1メートルの通路を挟んで、商店がはるかに並んでいた。ここをすりぬける。やがて、そこは異郷に来たように興奮をもたらしてくれるのだった。
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10年ぶりの東京 4

2007-05-02 | Weblog
空中高く、ビルを建て、その分余った土地空間を公園にしていけば、遊び、憩いの空間が確保できる、そこに人間都市が出現するという論理のままにビルを建てまくり、その結果、八重洲口からも東京駅は一望できなくなった。あるのはビルの壁面ばかりであった。単純な平面の展開にあきあきする。そんなときに東京駅の煉瓦建築が未来建築に見えるというかれの感性は、じつによくわかる。レトロはたんに回顧趣味ではないのだ。飢えたるものへの食料である。
 
 そういえば、今月、I君はキム・ジュン・パイクの作品、テレビインスタレーションの時間を現す24台のテレビの修復を終えたといった。木場に新しく設立された東京都現代美術館の展示作品が復活できた。ビデオ・アートの父とよばれた、キム
ジュンバイクの作品と彼の仕事がむすびついたのは、おどろきであり、かんがえれば必然的な結びつきであったのだ。おそらく60年代ニューヨークで小野洋子などと活躍したのだが、その頃のテレビだったのだろうか。昨年一月にバイクは75年の生涯を終えて、その回顧展が欧米や日本で開催されている。その作品のひとつ、テレビ・インスタレーションの24台のテレビが故障してしまっていたのを、かれが修復していったのだ。話を聞いただけで、修復されたテレビの集積はアートを感じさせた。つまりレトロであろうが、なんであろうが、現代をかかわりあうのである。

 さて、東京駅地下街が、その日の訪問先だった。宮崎市でイオンがオープンしたとき、その雰囲気は八重洲口の地下街を彷彿させたので、実際を見たかった。しかし、あちこちが修理中で、天井もつぎはぎで低くなり、雑然として都市の雰囲気はなくなっていた。これほどざつぜんとなれば、新丸ビルのショッピングモールに人はながれるのかとも思うのだが、ここも大して魅力あるものではなかったのだ。
 
 きらきら輝くビルだけがあった。未来都市か、そんな馬鹿なという思いで東京駅の姿をビルの背後に見ようと目を凝らすのだった。だが、見えなかった。
画像はクリックして拡大してみてください。
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10年ぶりの東京 3

2007-05-01 | Weblog
 六本木タワーの展望室から、東京ミッドタウンの四角いビルが目の下にあるように見えた。そのビルは孤立して淋しい。このビルだけが突出していたからだ。そして、単調さにおいてタワーに劣っているので、こりゃ失敗だなと同情もわくのであった。なぜ、四角形のビルをこれほどまで信じて疑わないのだろうか。そばでぼく同様に、黙って夜景を見つめていたI君に、ここが自分の居室で毎晩こんな風景だけを見ていたら、神経がおかしくなるんではないだろうかと、話かけていく。

 I君はまだ30歳前半の青年で、ぼくの息子より若いが、感覚的になぜかぼくと合うので、もっとも話していて通じ合える友人の一人になった東京育ち、東京在住の職人である。宮崎市に恋人がいるので、彼女を通して知り合うようになったのだ。秋葉原の電気街で、かれは旧式の真空管ラジオを修復して販売する。そこには、かってのヘテロダインラジオなどが、レトロとして2坪ほどの店の壁を埋め尽くしている。かれはその修復技術をもって、この店に神田の大学生時代からアルバイトとして通い、そのまま就職したのだ。

 かれに案内されているので、ずいぶん時間の節約となってあちこちが見学できた。さて東京駅の丸ビル側に出たときである。地下鉄で地上に出たので、新丸ビルは正面にあった。振り返ると東京駅は、新たにできたビルの林立のおおわれて、あわれにも小さく、風情も何も失って、遺失物のように放置されたごとくに見えた。
おもわず、ここも四角か、高ければなんでもいいというのか、ばかげた楽観主義
じゃがと漏らすと、かれは言った。ぼくにとっては、赤煉瓦の東京駅が、まわりの現代ビルよりも、もっと未来的で、前衛的な芸術作品に見えるんですよと。

 なるほど、たしかに言われて見れば、そのとおりだった。のっぺらぼうのビルよりも、この生き物ののように息づく東京駅は、現代の人間環境を象徴する現代彫刻に見えるのであった。

画像はクリックして、見てください。
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