市街・野 それぞれ草

 802編よりタイトルを「収蔵庫編」から「それぞれ草」に変更。この社会とぼくという仮想の人物の料理した朝食です。

泊ったという女性たち

2007-03-08 | Weblog
 今週の週刊現代の東国原知事と女性問題の特集記事を読んだが、かくなるうえで県民は知事をどう思うのかとあるので、一県民として答えてみたい。

 こんな記事で報じられる知事が気の毒だと思う。事実認識が甘い、主観でしかみない、スキャンダルをつくりあげるというお遊びしか文意に感じられぬ程度の低い文章でしかない。知事がどうのこうのより、この記事の低さが問題である。

 盗撮の写真を掲載して、マンションに泊った美人女性というが、写真でみるかぎり宮崎市では、まったく平凡な普通の若い女性でしかない。この記事の筆者が近くの山形屋周辺の中心街をみてまわれば、宮崎の女性がどれだけ美人が多いかを認識できたはずである。「すらりとした」「シックな着こなし」の美女なんていう死に語の美人描写など、ありきたりで使えないはずだ。「巨乳」の日テレ新人記者などというが、宮崎市の街路では、南国育ちの若い女性たちにその程度の巨乳はありふれている。まあ二人の女性は、いまどきの普通の若い女性でしかないのだ。
 
 美人でなければ東国原知事のスキャンダルが盛り上がらないゆえの筆使い。美人であれ普通人であれ、20代、30代の女性をスケベー心だけで自宅マンションに引き寄せられるだろうか。かれには女性を引きつける魅力があると、ぼくは思う。頭の切れ、話術のうまさ、気配り、そして行動力、女性が魅了される条件を、今や倍増してきているのだ。

 この二人の女性が、マンションでなにをしようが、他人の口をはさむ必要もないことだが、男と女が会えば、セックスだという結末しかないとは、なんと想像力がないのことだろう。人間同士として付き合って結構刺激も楽しみも開放感もあるにちがいない。知事はそうだったかもしれないのである。

 とにかく若い女性から好かれる知事は、いいじゃないか。知事官舎で賄賂をこそこそ受け取ったり、談合の集まりをしたりした安東前知事や、まだらぼけと言われた松形知事の晩期よりも、はるかに可能性を知事に感じる。

 この記事には、告発という正義感はなく、どこかあそび半分の気分が嫌らしい。
蛙に石を投げて遊ぶ人間の行為を戒める話がある。人間には遊びでも、蛙には命の危険なのだと。こんな初歩的なこともわからずに文章を書く奴に県民はどう思うかと質問される筋はないわけだ。

 知事だけでなく、二人の女性も気の毒、宮崎市の女性もとんでもなく気の毒だ。それも2重に、ぼくが普通の女でしかないと言ったから。多謝、多謝、あなた。
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それごっこ おしまい

2007-03-07 | Weblog
 見沢知廉は、獄中で書いた短編小説に「天皇ごっこ」というタイトルをつけた。「ごっこ」とはこどもがあこがれるものの真似をして遊ぶことだ。その意味でこのタイトルは言いえて妙である。その時点(獄中12年目)見沢は、革命にそれ(命)を賭けた左翼運動も天皇制を絶対価値を思念する右翼運動にも「ごっこ」という冷めた現実認識を抱いたのだろうか。もはや彼にとっての現実は、文学で受賞し、自分の存在を天下に承認させることであったようだ。

 かれの作品にも衝撃を受けたが、それに劣らずぼくの視線をひきつけたのは、かれの写真だ。それはおどろくほどの二枚目だった。しかし、なんか違うのだ。美貌とも違うし、世にいうハンサムでもない。強いていえば、ときどき旅芝居の一座の役者の写真に似たような美貌を見ることがある。見沢知廉は、その写真では、そんな役者に似ている。文学者でもなく、ゲバラのような闘士の表情でもない。彼の女ともだちの詩人が、ホストクラブのナンバーワンの雰囲気とからかっていたが、これも当たっている。つまり、その雰囲気は、たしかに日常のものでないのだ。

 架空の、虚構のハンサムといえばいいのか、幻想的な感じである。

 彼は2005年9月にマンションの自宅から飛び降りて自殺したのは1970年、45歳だった。見沢は三島の文学を高く評価していた。写真でみる三島の肉体も現実感はなかった。かれはそれを自己の肉体と信じていたが、文学的美でしかなかった。彼は割腹自殺を古武士のように遂げたとあるが、裁判記録によると、森田必勝は、うまく断首できずに友人とふたりかかりで押し切りしたようである。

 架空や虚構の美からは、死はむざんでしかない現実しか生まない。観念の構築物は、ごっこがおわったとき、くだけちってしまう。それはへいへいばんぼんの日常にごみのようにおさまるだけである。

 安部首相の美しい日本の政治施行も、「ごっこ」でしかなく、どこにも美しいものは実現しないと思えるのだが。都民は、まだ愚民をつづけるのだろうか。おなじ類の石原都知事をまた選ぶのだろうか。
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それ(君の命)よりも価値あるもの

2007-03-05 | Weblog
 安部晋三さんの問いに答えて、そんなものはないよなとぼくは思う。自分の命が一番大事です。たとえ国家のためであろうと、革命のためであろうと、自分の命を投げ打ってまで守る価値はないとうことを、実は「調律の帝国」はぼくに痛切に教えてくれた。著者の見沢知廉は、獄中で執筆した「天皇ごっこ」で新日本文学賞を受賞している。この本では、左翼、右翼にとって天皇とはなにかを扱っている。結局それは個人を越えた統制、調和のとれた美であるらしい。

 この短編集には、拉致問題以前に北朝鮮を訪朝した体験小説もあるが、よど号事件の当事者と今は右翼の主人公が、金正日のまえで演じられるマスゲームに感動して共に涙するシーンがあるが、右も左もおなじ穴の狢というブラックジョークではなくて、本気で書かれているのが凄い、まったく個人が消滅してしまった国家の美が左右で賞賛されるのである。もはや日常のへいへいぼんぼんたる現実、日常は消滅するのである。

 個人を越えて価値ある観念世界よりも、建前と本音をこころえて、生きていかねばならぬ普通の人生のほうが、よほどすばらしい。安部氏は、そういう世界がどうも想像できぬらしい。それに若者は、戦後も、安保に革命にイラクに、ドロップアウトにと自分より価値あるものにたえず価値を見出してきた。しかし、なお多くは平凡であることを選んできただけの話ではないか。このことが素晴らしいのだ。

 ただ若者はいつも自分を越えたいという意識は眠っていよう。それにガソリンをまいて火をつけることは可能である。ただそれをヤッちゃあおしめえだな。観念よりも価値あることは、平和な日常に生きる意志である。
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それごっこ?!

2007-03-03 | Weblog
 担当と呼ばれる看守に同じ価値を見出して、抵抗・反逆から模範囚人に転向という結末も「愛と青春の物語」のハリウッドメロドラマ映画ではないのだ。「調律の帝国」は、文学と哲学を駆使した壮大な観念の構築物ということを忘れていけない。背後には著者の文学、哲学、歴史、社会、法律と膨大な読書渉猟があり、その読解力も並ではない。一例をあげれば、刑務所の国家権力と戦えるのは、願箋、情願、訴状、幹部面接、人権委告発、弁護士呼びを実現させる法の駆使である。このような法への習熟もおどろくほどである。これらの該博な知識の習得のうえに構築されていく自己認識の結果の果ての結末なのである。

 そして、なによりも圧倒的なのは、この刑務所の実態は、実体験をしたものだけが描写しうるという迫真力がある。サディストとしかいいようのない看守、主人公のような政治犯、強姦魔、強盗、殺人の凶悪犯、老人もわかものも、東大でのインテリもやくざもいて、模範囚から反抗魔、懲罰常習者、ふぬけ、精神異常者とありとあらゆる人間とその意識と行動がある。それが、調律されて阿鼻叫喚の地獄画が展開していく。凶悪犯よりも凶悪な担当看守、精神が異常としかいいようのな精神科医とこれら囚人の世界で、人間とは個人をはなんかがむきだしになっていく。その過程は、地獄絵であり、バルザックも引く人間喜劇であり、国家権力の底力に恐怖を覚えさせられるのである。

 そこに対抗してものされた哲学書、思想書であり、青春物語でもある。これは今の若者をひきつけうる読解不能の魔書でもあると思う。本書は、三島由紀夫賞の最終候補に残ったというが、そんな賞の範疇で計れない異様な日本文学の異端部として在りつつけよう。実は避けたくなる。といってもぼくは正常部の日本文学にもなんの魅力も感じなてない。
 
 さて、三沢知廉は、1959年東京生まれ、中央大法科除籍、暴走族、左翼学生、右翼、テロと粛清リンチの殺人で獄中12年を過ごした。獄内で、新日本文学賞受賞作
「天皇ごっこ」を執筆、翌年「囚人狂時代」がベストセラーとなり「調律の帝国」に結実している。つまり彼自身の実人生に基づいているのだ。

 かれの人生はまさに、普通人の想像も不可能な非日常の異常な領域を歩んだ挙句の自己認識であった。そして、ここにかれのそれをなげうつべき「美しきもの」が
生まれてくるのだ。安部晋三の問いは、かくして異常化されしかも事実認識ができていないことが、三沢を下敷きにすると明瞭にわかってくる。
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それをなげうっても

2007-03-02 | Weblog
 それ(命)をなげうっても守るべき価値とはなにか。なぜそういう問いを抱くことができるのかで、恐るべき示唆を与えてくれた一冊の本、見沢知廉の「帝国の調律」は、一囚人と刑務所組織との激烈な戦いの物語である。戦いといってもいかに
合法的暴力に耐えて、恭順を拒否し、反抗をつづけるかという暴力下の個人の物語である。
 
 この加えられる合法的暴力が凄い。独居房、保護房、矯正労働,抗禁服、皮手錠
とありとあらゆる手法がある。それでも抵抗するものは精神病として医療刑務所に移され、激烈な苦痛や脱力感を与える注射の施療とあり、読んでいくうちに嘔吐感さへ感じる。主人公の果てしない抵抗はつづき、抑圧と暴力は、これもかぎりなく
深まっていく。この限りない合法的人格破壊の圧力下で、主人公は、人間とはなにか個人とはなにかを哲学的の思考し、これを支えに抵抗しつづける。

 しかし、12年を経ていくうちに、自分の矯正を担当している看守長もまた、国家権力を背負い、その国家を守るために命のかぎりを尽くしていると、認識するようになり、そこに看守と囚人の共通の価値観を見出し、模範囚と転進するとう結末を迎える。個は、完全に「帝国の調律」によって自己否定によって帝国に融合する。

 この一冊を息もつかせぬ興味と面白さで読了したが、手元にとどめたい一冊でもなく、ふたたび読む気もしない小説ではある。

 たた、ここにある個の価値の否定が可能という現実感のまえに言葉を失ったのも事実である。だが、これはまさにグロテスクな異常な精神過程である。

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公の異常性

2007-03-01 | Weblog
 今週の月曜の朝、新聞で、鹿児島県知覧の特攻基地に触れた特集記事があり、知覧の特攻基地跡を訪れた記憶がなよみがえった。ここから出撃していった20歳前後の若者たちの1036人の特攻隊員の遺影、遺書に立ちすくみ、流れる涙を隠すために家族から隠れたのを思い出す。こんな軍国日本のために死んでいった若者の無念さ、家族の苦しみが同じ年頃にちかづいた息子たちと重なって、その悲痛さに涙がこらえられなかった。その感情こそ「知覧特攻平和会館」の一般的感情であろう。

 この特集記事の冒頭に安部晋三首相の著者「美しい国へ」で、一人の特攻隊員へ寄せたかれの心情が述べられていた。 
 
「たしかに自分のいのちは大切なものである。しかし、ときにはそれをなげうっても守るべき価値が存在するのだ、ということを考えたことがあるだろうか」と
彼は戦後世代へといかけるのだ。ぼくは、そこに安部晋三の異様なまでの現実認識を感じざるを得ないのだ。つまりそこには、普通の人の人間感情が喪失しているのだということを、ありありと感じてしまうのだ

 いったいこの心情の異様さはなんなのだろう。「それを(命)をなげうっても守るべき価値の存在」とは、なんなのか。かれはそれが美しい日本というのか。

 あの特攻隊員、1036人の遺影のまえで、わかものにいのちをすてても守るべきものを現世代に問う意識はどこから沸いてくるのだろう。

 ぼくが問いたいこの問いにわずかに回答を示してくれたものに三沢知廉の小説
「調律の帝国」がある。調律とはピアノ調律の調律であるのは自明、人間の調律の
グロテスクな国家模様が、圧倒的なリアリズムで書かれた小説だ。そこで人はどうなっていくのかと。今この小説を紹介してみたい。
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