市街・野 それぞれ草

 802編よりタイトルを「収蔵庫編」から「それぞれ草」に変更。この社会とぼくという仮想の人物の料理した朝食です。

駅前商店街 秋

2006-10-21 | 都市論
 秋はますます深まる。雨も何十日も降らない。空は抜けるように澄み、渇いた冷気を帯びた風が吹き抜けている。駅前商店街のアーケードが、天井部分は取り去られ、明るさが注ぎ込んでいる。

 古い衣装を脱ぎ捨てて新しい衣装を着る駅前商店街なのだが、どんな衣装なのかと思う。まだどんな衣装なのか、だれもイメージさへないような感じだ。10月14日ここの街づくりに協力している宮崎大学都市研究クラブの学生主催のイベントがあったので参加したが、学園祭の粗末な真似でしかなかった。駅前商店街の未来像などなんにも含まれてなかった。

 昨日、柱だけが残ったアーケードの下を秋空を見上げて歩いた。思ったほど殺伐な感じはしないのが意外だった。秋空の下のしっとりした感じさへあり、ほっとした。多分、それは黒いアスファルト道路の柔らかさも作用しているかもしれない。

 この道路に白墨で曲線が描かれ、線の内側が歩道になるという。歩道は広く、車道は、車一台がやっとという狭さとなっている。

 またしても道路整備なのか。再開発で一番イメージが確かめ易いからであろう。ここから始まるわけだ。しかし、道路整備で崩壊した商店街を今一度、訪れてみてはどうだろう。橘踊り1-2丁目間、上野町、オルブライトホールから大成銀天街まで、その北の露天市場跡、現在バージニアビーチ公園、ここから青空市場前100メートル路地通りと4街路。1990年から今日まで、道路整備がされたが商店街だった通りである。

 いずれもカラー舗装、ストリートファにチュア、植樹、花壇、駐輪禁止などが定番である。「美しくなった」といわれる。しかし、人は歩かない。街の賑わいは、
みごとに死んでいる。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

他生の縁2

2006-10-19 | Weblog
 走行するうちに、このクロを山形屋まえから中西町まで3キロほどを連れて帰る時間となった。生まれて半年、人間で言えば3歳位の幼犬だ。ちょっと心配だったが、苦も無く家まで自転車とともに走って帰り着いた。牛の腱筋肉をばりばりと噛み砕いて飲み込んでいた。試しに引き裂こうとして両手で力を加えたがびくともしなかった腱の部分である。さすがすでにハンターの顎だった。三歳で。

 このしなやかな見事な姿態を節子はきっとよろこぶだろうと、部屋に向かって、犬を貰ったよおと叫んだとたんに、彼女はパニック状態に陥ったのだ。一応見るだけと懇願しても見ると情が移ると拒否され、そのまま飼い主に引き取ってもらえとあばれまくるのだった。

 万事休す。ため息をつく間もなく、携帯で飼い主さんとコンタクト、レストラン「もくもく」の前で、引き取っていただいたのだ。彼女は、あまり不愉快な顔もせず、一言おっしゃった。

 「縁が無かったんですねえ・・・」と。

 多分、もしぼくが飼えば、この犬とは終生の相棒として楽しくやれたと思う。チップは歓びを与えぬ横着ともいえる犬だが、それでも朝夕の散歩は6年間、皮膚炎のためにマッサージも一年以上も毎日やっている。それにくらべると、クロは一秒一秒が歓びの種だったかもしれない。ああ、縁がなかったのか。

 だが、思う、チップのような犬にふたたびめぐりあえるのは、そう稀有のことではない。こんな犬は多数いる。それにくらべると、いい人間、まして犬のような相棒に会えることはもうないだろうと思う。そう思えば、まだ人生は希望に満ちている。こんなに容易に幸いが入手できるのだから。

 名誉と金が欲しい奴はそっちを、死に際になって、ぼけ状態になっても追う。ぼくは、これからも健康で犬を追える、これは天のくれた幸せであろう。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

他生の縁

2006-10-16 | Weblog
 日曜日、その朝も秋晴れの快晴だったので、山形屋付近の路地を撮影しようと昼ごごにやって来ると、すぐに人だかりがあり、まるくなってなにかを覗き込んでいた。寄ってみたら、囲いの中に一匹の黒犬がいた。

 小型犬で、この犬こそぼくが欲しいとかねがね思っていたグレートデンを小型化したような犬だった。すらりとした長い四肢、鞭のような尻尾、ぴんと立った耳がかっこいいい精悍な顔、そしてなめし皮のように真っ黒の短毛の筋肉質の体、それでいてまわりの見物客に千切れるほど尻尾をふり、前足や舌で甘えかかっていた。6ヶ月の幼犬だという。その里親を探しているというのだ。

 思わず「私が貰います」と口から出てしまった。
「いい人からもらわれて、おまえ良かったねえ」と飼い主さんから予防注射済み証明書、おやつ、フリスビー、引き綱を手渡され、まわりの観客から拍手で送られ、ぼくは、しあわせな気分で、このクロと午後の街を歩き出したのだ。

 おどろいたことに行き交う若いカップル、子供を連れた若夫婦、老夫婦、子供自身、女子高生から大学生まで、「かわいい」と声をかけたり、立ち止まって撫でようとすると、前足を挙げ、舌でなめ、狂ったように尻尾を振って愛嬌を振りまくので、人気沸騰した。こうして人と待ち合わせの清水町のラディッシュまで1キロ近くを自転車で引いていった。

 1時間ほどで用をすまし、急速に仲良くなったぼくらは、ふたたび山形屋にもどりしばし、前のベンチで休んでいると、母娘つれの上品な二人から「あらあ、ラディッシュにいらしたでしょう」と声をかけられた。知り合いでなくて、その駐車場で、このクロちゃんとあそんでいたのですよーというのであった。これほど魅惑的な犬なのである。この犬の魅力にいかれたぼくの意識もさもありナンであった。

 ほんのいっしゅんで人生は一変するのである。続きは明日、可能ならば。

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

SoRa 誌の休刊

2006-10-14 | Weblog
 宮崎市のタウン誌「SoRa」が休刊すると聞いて驚いた。数年前、東京から帰郷してきた20台の青年が、故郷への思いを託すタウン誌として創刊された。痩身の控えめな彼と、現代っ子センターのなにかの催しのとき言葉を交わしたことがある。その後、何年も発行されタウン誌のやわらかさと、硬質の批評性を兼ねた編集が好評で、若者に定着していたと思っていた。編集長の一身上の都合と聞いた。

 経済的問題は無かったのだろうか。無いとは思えないのだが、それにしても一個人の雑誌が、それほど広告にたよらず、それゆえに情報を選別して批評性を高めてきた小雑誌が、ここまで続いてきたことに、宮崎市の感性をまた信じることが出来た。しかし、弓も矢も尽きたのかとも思う。そうでなければいいのだが。

 こんな個人の営みにくらべると、税金におんぶだっこし、派手なカラー写真だけが虚ろに舞う、芸術や文化だと、拙劣な文章で、うそぶく広報誌などは、極力廃止して、その資金をかかるタウン誌に回すべきではないか。このような広報類にSoRaのリンダのすぐれたコラムなど期待もできない。広報誌を批評する市民のNPOが出来ないだろうか。

 官公広報誌における紙くず広報を整理して、その税金を市民による優れたタウン誌を育成費に回すべきではないのか。 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

冷える街

2006-10-13 | Weblog
 宮崎市の潮見小学校正門前に3階建ての貸しアパートがあり、1階部分が4店舗の商店になっていた。朝もパンやさんの賑わいがあり、夜は、ラーメン屋さんの赤いちょうちんや、パンやさんの電飾看板、食堂の明るい窓で、そこだけが暗い夜道ではなやいでいた。ここ一年ほどで、ラーメン屋さんだけになってしまった。

 早くに「わたなべ」という懐石風なランチを楽しめた食堂が閉店し、つづけて花屋さんが数ヶ月前から開店休業状態となっていた。ただ、「ムーラン」というパン屋さんだけは朝も夕方も小さな店は客であふれて、活気があった。知人の芥川の奥さんも買いに来ているのに会ったことがある。末広町からここまで3キロあるのに
おいしいからと来ると、うれしいことを言ってもらえた。

 十日ほど前、休みの張り紙がシャッタードアに張られた。数日後、店主、病没により閉店とお知らせが張り出された。これほど流行った店でも店主の他界で、即座に閉店なのかと、胸を撃たれた。

 歩くと、もはや「キャプテンらーめん」の店だけである。わたなべの後もまだ借り手はない。花屋さんもだ。パン屋さんでも跡継ぎの職人は居なかったようだ。個人が小さな商店をやって生活していくことが、どれほどむつかしいか、冷えこむ街の悲劇を感じさせられる。

 ぼくはできるだけ、近所の小さな店で、日用品をまかなうようにしている。近所に小さな、いろんな商店があれば、それだけ楽しくなるからだ。まだ、この町内は日用品の買い物にはコンビに、スーパーで不自由はしないが、小さな商店街が崩壊してしまい、淋しくなった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今朝もこのデザイン並木を抜けて

2006-10-12 | Weblog
 快適な秋の朝が、毎日つづく。しかし、今朝もつい先日、奇妙にトリミングされた並木をみながら事務所に自転車で通う。この一キロもつづく樹木と足元の誇りっぽい花も、並木の枝々も、へたくそきわまる自分勝手な、生きている樹木を無視し、市民と樹木の結びつきを無視し、ただ体裁だけの、デザインのための並木をみるたびに腹がたってくる。

 だれが言っていた、街で生きるには、タフでなければ生きていけない、しかし、優しくなければ生きる価値はないと・・・。とにかくこの街はこのようにして
つづくのだから。良い街づくりと待っている暇はないのだ。

 このくだらぬデザインの底で、いかに優しく人らしく生きていくのか。だれか良い知恵をおしえてください。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

政の出番だよ その2

2006-10-11 | Weblog
 北朝鮮の核実験で行政が出番になるとは、だれも思わないだろう。でも、個人ではどうなるものでもないし、行政には、嫌でも出てもらわなくちゃ。

 ところで、駅前商店街のアーケード撤去、その後の街再開発には行政はそれこそ出番を期待される。が、これまでろくな結果にならずの事例が重なってきた。それゆえに、商店街の明確な未来ビジョンができるまで、商店街自身がかんがえてかんがえて、どんな出方を要請するかだ、それなしには崩壊あるのみだろう。

 快晴の秋晴れが、先月20日からつづいているが、その爽快さに押されて、昨日
駅前商店街を歩いた。今、天井だけがはずされたが、それでもガラン、ガランの感じがしてきた。ずべて撤去されたときは、空き地にぱらぱらと商店が残ったという崩壊感がするのではなかろうか。

 広い駐車場が通りの半分くらいを占め、そこには、すぐにもマンションが建設されそうだ。しかも1階部分は駐車場となる。1階を店舗にするという期待はもてない。駐車場のないマンションは販売しにくいはずだからだ。

 考えても頭が痛い。宮崎大学の「まちづくり研究会」の学生さんたちが、この街を新しく生まれ変わらせようと取り組んでいる。どうなるのか、楽しみだ。おそらく、ぼくはそのアイデアについて忌憚のない評が口をついて出そうな予感。

 それともう一つ、街にふたたび取り壊しできないようなものを付け加えないことを強く勧める。アーケードの後の花壇や歩道のデザインなどなどを確定しないことである。置き換え可能な装置をもって試行錯誤をつづけるべきであろう。
 
 それとこの宮崎市にも日本にもないような街ビジョンの発明をガットできるまで時間を稼ぐことだ。ここまでは行政も街づくりも出番はなし。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

行政の出番だよ

2006-10-10 | Weblog
 昨日、北朝鮮が核実験をやった。ブログなど書いているのが空しいかぎりだ。北朝鮮代表が国連総会で、北朝鮮の核実験の成功を各国はお祝いを言うべきだとか、今にわれわれは、人工衛星1号2号と打ち上げ、世界を震撼(震え上がらせる)させる日がくると、述べたという。核を手にすると、北朝鮮一国が世界を脅すことも可能なんだと仰天させられた。

 まだ核攻撃の恐怖はなさそうなので、平静でいられるが、だんだんこのことが現実味を帯び始めたらどうなるんやと恐ろしくなる。

 で、今、北の核保有をどうする。いろいろと意見や推察や対策が語られるが、何時間聞いていても回答はわからない。方程式を解くための条件が足りない、だから未知数の答えがでない。いったいそれはなんだろうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

駅前商店街アーケード撤去にちなんで

2006-10-07 | 都市論
 去年の9月、台風14号の後、老朽化した駅前商店街アーケードが危険物として撤去するとの決断に至った。残すか、撤去かで何日も討議がなされたという。あれから一年、工事が始まった。その後をどう活性化するか、その勉強会が地区で始まり、その第一回に「街」のスライド・トークを頼まれ、昨夜終わったのだ。

 40枚近くの明治期から昭和初めにかけての市街の景観写真を、今の中心市街と比較していったのだ。商店主たちも街づくりに取り組む学生諸君も、主催したNPOドロップインセンターの女性たちも昔の宮崎中心市街地の美しさに息を呑んだ。

 今の街がいかに醜いか、いかに殺伐としているか、その非人間的街の恐ろしさを都市論者たちは、語りまくっている。しかし、ぼくは、今の街のほうがよっぽど面白く生きられる空間であり、たのしんではいる。日本街は、生きるには天国のようだと思う。そういう点では楽観的な街観を持っている。

 ただ、バルブ以降に気にかかってきたことは、今の宮崎市では、個人が自律して商売することがきわめて困難になってきた。電気店もやほやさんも呉服店もだれもやれない。職種は、飲食、ファッション衣料、雑貨、美容院などにかぎられる。そうなれば、勤め人として生活せざるをえない。ところが、公務員がハイクラスの職場というのだから、たいがいは中小企業、それもパートタイム従業員になる。

 月収10万もならないので、夜、昼、働き、ここから逃れるすべもないのだ。こういう働き場を喪った街が格差社会を生んでいる。これは、奴隷制度とどこが違うのだろうか。奴隷であることが自覚出来ないから、映画マトリックの市民であり、
マトリックス奴隷制度といえるかもしれない。

 こういう街になっているのだ。だからこそ、街づくりよりも1人1人が奴隷でなくて自由に生きるタフネス、創造性、その技術、ライフスタイルを確立することこそ、下らん街づくりよりも緊急課題であろうかと思う。

 そういう意味では宮崎市街は病んでいる。しかし、その病状に対する医療はなく
ベッド脇には花だけが飾られ続けている。昨日も、この市街・野の幹線道路わきの
並木の剪定が、10数人の植木職人で選定されていた。税金の無駄使いだ。

 花より団子じゃねえか・・・・。街づくりより、自分づくりだよ、学生諸君。、さすればおのずと良い街ができる。昔の街には街づくり連や学者面した都市論者などはいなかった。

 それでもはるかに美しい街並がつづく。なぜか、その問いに答えよ!

 参照ブログ

 壊市街 駅前商店街 壊滅という現実 2005-09-30 16:50 Weblog 公開中 4 0
イオンの意外性 2005-09-29 16:59 Weblog 公開中 0 0
崩壊市街 駅前商店街アーケード 悪夢 2005-09-28 11:10 Weblog
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

おしゃれの女性たち

2006-10-05 | Weblog
 安部内閣も宮崎市市長にも腹が立ち、たらたら文句をブログに書きそうで、そしてそれは結局いわゆる『床屋政談』になりそうで、ブログを開くのがいやになっていたのです。病気になったわけではありません。

 去年の元旦から350回を書いたのですが、昔読んだ、アメリカのユダヤ作家、ソールベローかマラムッドかと思いますが、たった一人、朝から晩にかけ、世界中の政治家や著名人にひたすら手紙を書き、投函しつつける男の物語がありましたね。人は無意味に生きることを甘受することが、まずは基本ではないのでしょか。

 さて、昨日、イオンを歩いていて、チップの散歩をしながら公園の樹木の名前を覚えたように店の名前を覚えようと、きょろきょろ左右を見ながら歩いていると、とつぜん
「あらっ!」と大きな目のジーパンに光るアクセサリーを腰にまいた女性が、ぼくを見据えた。あまりにもまじまじと見つめるので、「失礼だがどなたでしたか?」と聞くと、「・・・・でいつも・・・」といわれた。よく行くレストランのウエイトレスさんだった。

 おもわずぼくは、「いやあ、ぜんぜん変わってしまって、お洒落がうまいんだねえ、たいしたもんだ。」と感嘆した。「先生の指導よろしくて」と傍らのすらりとした店員をさした、三人でちょっと言葉を交わし、ぼくは「彼女をよろしくね」と立ち去ったのだ。

 店員はほほえんだが、彼女は始終、無表情だったと思う。ということは、ぼくの
「お洒落が上手だねえ」という褒め言葉は、侮辱だったのだろうか。お洒落したからはっとおどろくようになったが、日ごろは目にも留まらないのという風に解釈されたのだろうか。どうだろうか。

 さっと立ち去ればよかったのだが、つい好奇心が働き、相手を知ろうとするのがまずかった。そんなときは「おちゃでもどうですか」と誘えばすべた良しだったのにと残念である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする