市街・野 それぞれ草

 802編よりタイトルを「収蔵庫編」から「それぞれ草」に変更。この社会とぼくという仮想の人物の料理した朝食です。

水元博子リトグラフ展・この一枚

2015-04-21 | アート 美術
 水元さんが、初めてリトグラフを製作(プリンターは、リトグラフ作家杉尾龍司さん)その作品を、宮崎市広島通りの画廊喫茶「ArtSpace色空」で開催している。水元さんも杉尾さんも宮崎市で暮す画家である。
 彼女は、絵画、デザイン、絵画塾などで、生活を支えてきている。宮崎市では絵画の販売を専門とする画廊はなく、市民も絵画の購入という習慣はない。そのような街で、自分の作品を売らねばならないという生活は、かなり厳しい製作条件を強いられる。だが、彼女は油彩だけでなくデザイン面でも企画や作品製作にも携わってきた。その作品は、カフェのような都市的な開放感を感じさせる。そのことは、彼女の資質であり、また、彼女の作品を売らねばならぬという生活がもたらすものだろうと、ぼくは思う。作品には、彼女の自己主張よりも、好感をもたれる商品としての価値に意欲がそそがれてきたように思う。だがしかし、その製作意識は、現代的な画家が直面するあり方である。だからこのポジションが彼女の絵画に現代性を与えている。いや、現代絵画への通路を提供しているのだとも言える。この見方が当たっているかどうかは、別として、まずは、ぼくは彼女の作品をそのように見てきた。今回は彼女が初めて取り組んだリトグラフというので、いっそう商品として確かになるであろうと、思っていた。
 ところが今回、彼女の案内状(葉書)に載せられた一枚のリトグラフを目にしたとき、思わず目を奪われたのだ。これまでとは、違う意図を感じたのである。彼女の顔が、もっと現れている。自分を主張している。そんな感じがした。もっとも彼女自身が描かれているわけではない。その一枚のリトグラフは、若い女性が、カーテンのまえで猫を抱いて座っている絵である。
 ぼくが惹かれたのは、これまでのカフェ的な雰囲気とは異質なドラマチックなシーンを想像できるからである。このリト作の女性は大きな目を、ななめ下に向けている。彼女に抱かれた猫は、獲物を狙うかのように正面に向けられている。彼女は困惑し、猫はやる気にあふれている。その対比が物語りを感じさせる。彼女の大きな目が表情を少女のように無垢にし、俗世間の荒々しさへの臆病を語るかのようでもある。だが、この少女の真っ黒い頭髪に息を呑まされる。カーテンの前のこの黒髪の存在感は、この少女めいた女性の存在感でもある。この女性自身にも力と弱さの対照があり、それが物語りを増幅してくる。
 この一枚は、トーンの明るさを少し変えたものが2点あったが、この2点と案内状の写真のあわせての3点とも、まったく同じ力の吸引力をもっているのに、おどろかされた。これは刷り物であるリトグラフの特性でもあろうが、それを越える主題の強い吸引力のゆえである。そこで、水元さんに絵のまえで聞いてみた。モデルはあったのですかと。モデルはなく、無我夢中で竹ペンで一気に書き上げたのですというのであった。ということは、彼女自身の意識が作品となったということであろう。それは、頭で前もって考えられたことでもない。彼女の生きている現実そのものが、リトグラフとして表現されたのだると、ぼくは視たのであった。
 ふたたび言おう。二つ眼が、彼女を少女のようにみせており、猫が抱かれていようと、ある孤立感を感じさせる。しかし「われ泣きぬれて蟹とたわむるとか」、白鳥は「故郷」とか「哀しからずや」とか、孤独の芸術化はない。健康な一人の若い女性が何かに困惑しているだけである。それゆえぼくは、この女性との共有点をいだきはじめるのである。
 ここにあるのは、なんの迷いもなく、ひたすらまっすぐにつきすすむNHK朝のドラマの主人公の人生でもない、ただ困惑が存在する。自民党一党独裁政権となった安倍首相の女性の活力などという一本筋の人生とは、異質の人生をこの女性の困惑は表していると受け取れる。そこに現代性がある、今の存在感を共有できるのだ。この人物像が花瓶や陶器の美しさではなく、NHK朝ドラや安倍政権のスローガンとも次元の違う生活意識を訴えてくるのだ。よかったまた一つ女性の作品が宮崎市に生まれたことを感謝したいと思う。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする