市街・野 それぞれ草

 802編よりタイトルを「収蔵庫編」から「それぞれ草」に変更。この社会とぼくという仮想の人物の料理した朝食です。

映画クヒオ大佐 真実とは?

2010-05-11 | 都市論
と 前回、この映画に記号という言葉を使ったので、話が錯綜してややこしくなり、どうも書き直すべきかと思ったのだが、やはり、記号で話をすすめていくしかないようだ。というのも、クヒオ大佐の詐欺物語は、いわゆる詐欺師の話とはおおきくズレてくるからだ。

 詐欺の相手が、しがない弁当屋を経営している婚期の遅れた30代の女性、もう一人は、町立自然博物館のまるで派遣社員にしかみえない事務職員、20代の女性である。ほかに街のクラブの美人ホステスに金目当てに近づくが、彼女のほうが一枚上で、逆に開店資金をねだられてしまう。弁当屋経営の女性には、やくざな弟が金をせびり続けており、この弟に正体を知られて、クヒオは脅迫されだす。明日、明後日の期限付きの金を要求され、この支払いのための詐欺に身を焼尽し、追い詰められる。詐欺師の行為というにはあまりのみみっちさ、間抜けさがおかしさを誘う。そして堺雅人の日常から転がり落ちたようなキャラクターとみごとに一致して、笑わせ楽しませてくれる。しかし、物語は、ここから意表とついた結末にとなだれ込む。

 結末というのは、女たちに正体を見破られ、追求をせまられる修羅場である。彼女らは言う、詐欺は許す、だが、そこにはなにほどかの真実はあったはずだと、この命がけで迫ってくる女二人の執念に応じられず、闇の中に逃亡する。クヒオ大佐の過去が語られ、父の家庭内暴力を堪えた自分が、空だけに自由をもとめ、戦争への希望が不当な暴虐を防ぐ道だと内面を表すのだ。パイロット海軍大佐は、かれの疎外、逃亡の人生の救済の記号であることが分かる。かれにはかれの真実がある。だがしかし、それぞれの真実が、からみあい、どこにも直接の回答はなく、もつれあって超現実化していく。こうしてしだいに、クヒオ大佐の詐欺物語は、かれの詐欺という物語を超えて、変換するのだ。

 闇の海岸ちかくの林のなかで、クヒオは、刑事二人に追い詰められて逮捕されかかるが、刑事を倒してあらわれた正体不明の男により逮捕からは救われたが、こんどは救い主に暴力を振るわれ、なぜ詐欺をやったのかと、怒号される。「詐欺はしてない、彼女らの欲望を満たしてやっただけだと反論すると、「アメリカのようなことをいうな」と、男は根性のたたき直しをやると両手を挙げ、さらなる暴力を重ねようとすると、こんどは米軍の特殊部隊員が彼を助けだす。闇の空中のなかにヘリコプターが近づく。それは、未知との遭遇を連想させるような幻想的な光景で美しくかつ唖然とさせられる。クヒオ大佐は、このヘリコムターに同乗、今やベトナム戦線の第一線に派遣される特殊部隊員の指揮官として,隊員たちを鼓舞しつづけるのだ。ここでまたしてもベトナム戦争が、投入される。

 冒頭も終幕も、それぞれ4分くらいのシーンだが、後者のは実際にアメリカの牧場で、退役軍人を起用してロケされたものが投入されたのだ。物語のほとんどのシーンがセットくさいのにくらべて、なぜわずか4分のこのシーンには本物の現実を利用したのであろうか。それは、観客の意識をクヒオ大佐詐欺物語からベトナム戦争へ強烈に向かせる手段であったといえそうである。ベトナム戦争とは、なんの記号であるのかということに意識は向けさせるためと、ぼくは理解するしかなかったのだ。

 ベトナム戦争とは、じつはテレビで知る映像の情報であった。映像は米国国防省の意図によって編集加工され、自由と民主主義の勝利として、世界の期待、欲望に答えるものとなった。わが国の旧文学者たちは、その映像の作為性、情報の欺瞞を告発し、ベトナム戦争の真実を知れと反戦運動をたちあげたが、ではどうやれば真実が入手できるのかは、だれも具体的に説明できなかった。これは有名な周知の事実とし残っているのだ。この映像を撮影し、編集し、加工してテレビに放映した行為は詐欺といえないか。本質的に詐欺と構造は同じではないか。さらにここで、ベトナム戦争という記号は、現代社会の情報のあり方を的確に指し示していることになっているのである。

 われわれが、世界を社会を知るということは、直接にこの目、感触、つまり肉体を現場で運んで知るのではなく、情報で知るしかないのだ。世界とは社会とは情報であるというおどろくべき現実をあらためて再認識せざるをえないのだ。「なんでわたしなのよ、金ももたない私をどうして選んだのよ」と、叫んで迫るあの博物館の女性館員は、まさに無名の庶民、つまり大衆のなかの一人を指す記号となっているのだ。つまり、あらゆる人は情報に行為を決定づけられるという現実を記号化してもいるのである。
 
 情報は、人から生み出される。その人は神の真実のみを伝える使徒とかんがえるより、自分自信の真実のために、あるいは利益のために、編集・加工をする詐欺師とかんがえたほうが合理的であろう。しかし、人々にとっての情報は、それがどんな思惑で作られたかどうか、当の詐欺師の心情などはどうでもいいのだ、情報の価値が私にとって価値があるかどうかが問題なのである。つまり、それが本当であるか嘘であるか、実か虚かは判断のしようもなく、ただそれに接するしかないのである。この虚・実が入り混じって光の干渉波のように縞模様になった日常の現実に取り囲まれているのだ。ここから、必要な情報資源を選択していくしかない現代の現実を、この詐欺物語の笑いのなかで覚醒させてくれる。

 思えば、ハイブリット車を買えば環境に優しくなれると欲望を誘われ、原発は地球を温暖化の破壊から救済する施設であると、すでにわれわれは、情報を信じ始めている。水道の水よりペットボトルの水が、ほんもんの水と信じさせられる消費の記号化もまた詐欺といえば詐欺的情報であると言えるのではないのか。こういう時代のなかにいるのだ。クヒオ大佐は欲望を満たしてやっただけだと詐欺を定義したが、まさにそれは真実ではないか。われわれは、欲望を掘り起こされ、目の前に自らが秘めていた欲望を顕在化されて、快楽を追求できるのだ。弁当屋の女性が、ラストシーンで、虚空をヘリコプターで飛び去っていくクヒオ大佐に挙手の礼をして立ちすくむのも、この現代の本質を知ったからであろう。またなぜ私をと問い詰めた女子事務員が寝転がって、その問いをかかえたまま生きていこうとするのも、ラストの不貞寝も、希望への反転した勇気である。

 かって小津安二郎の映画が純文学は教養の中心だった時代のエンターテイメントであったし、黒沢明のそれが、まだ社会正義が真実として信じられた時代のエンターテイメントとすれば、吉田大八監の映画は、虚・実のアインシュタイン的空間となった現代社会の娯楽作品だと、ぼくはその知的な表現に刺激されるのである。今、普天間基地移設問題を、クヒオ大佐を重ねて思考すると、その本質のなんと明確になることだろうか。これが、映画クヒオ大佐のほんとうの面白さかもしれない。この時代性ゆえにぼくは、吉田映画を待ち望まざるをえない思いに浸っているのである。

 
 


 
 

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