市街・野 それぞれ草

 802編よりタイトルを「収蔵庫編」から「それぞれ草」に変更。この社会とぼくという仮想の人物の料理した朝食です。

第16回宮崎映画祭 生きることが見えない

2010-08-04 | 都市論

 「愛のむきだし」(2008年)「Love Letter」(2008年)「スイートリトルライズ」(2010)そして現代ポーランド映画「アンナと過ごした4日間」(2008)と、愛を主題にした映画を観たが、どの作品も愛の成り立たない現実が、実は主題になっているのに関心を惹かれた。恋するものたちの愛の形や甘美さではなくて、愛を成立させることができないという2010年の現在とはどういう時代なのかと、思いを馳せさせられた。愛とは、恋にとどまらず、生きるという行為全体に関わってくるものである。愛の不成立とは、この生きる意味が見えないために、拘束され閉塞させられているためであろう。その点で「愛のむきだし」は、自分の生きるというむきだしの行為に愛の成立する可能性をみせるという物語で、現在に生きるという挑戦を感じさせたのであった。

 今を生きるを直接に主題とした作品では、三木聡監督の「亀は意外と速く泳ぐ」(2005年)と同じく「インスタント沼」(2009年)が上映されていた。両作品ともマンガのように誇張された人物像が明快であり、実写映画でありながら、非現実的なシーンが、矛盾なく物語を支えている。複雑な現在を表現できるには、このマンガ的描写のほうが有効なのであろう。現実に囚われて、全体を俯瞰できなくなるまえに、設計図のように複雑な構造を明快にしていけるからだ。そこでまずは「亀は意外と速く泳ぐ」で、今を生きるを考えてみたい。

 この映画は、そのアイデアですでに勝負が決まったようなところがある。毎日なにも生じない平凡な生活にあきあきした主婦が、ある日街の中の階段の通りで、つまずいて転んだとき、倒れた目の先の石段に小指の先ほどの広告が目に入る。それは、スパイ募集の広告であった。この奇妙な広告に興味をおぼえて、募集先を訪問すると、まさに広告どおりのスパイ募集であった。そのとき、募集者の夫婦者は、この広告を見つけたというでけで、合格として、活動資金500万円を提供する。おどろく彼女に言うには、いずれ具体的な要請が本部からくるときまで、それはいつかわからないが、明日かも10年のちかもしれないが、待機して欲しいと、自分たちも10年以上も待っているという。条件は、その日までなにがどうあっても、ひたすらに平凡な生活を守りつづけることだというのだ。こうして、彼女には500万という大金、これは不気味な圧力となり、どうじに平凡な生活を生きるという契約を履行する毎日が始まっていく。ところが、平凡に生きるということを自覚したとたんに、平凡に生きることはまったく別の様相を帯び始める。平凡は非凡な工夫と意思が要り、かつそれお持続しなければならなくなる。スーパーで買い物をするにも目立たぬ平凡な買い物は、そう簡単にはいかないことになったのだ。

 雇い主の夫婦は、つねに彼女の平凡ぶりを監視し、その出来栄えを評価してくれる。ときにはそこそこラーメンという美味くもなく、まずくもないラーメン店に彼女を同行、店主は美味いラーメンが作れるのだが、そこそこのラーメンを作るのに心血をそそいでいると話してくれる。じつはこのラーメン店主もスパイの一人であったのだ。主婦は、今や公演で一日中、ベンチに座ってなにもせずに過ごしていたホームレスの老女の目立たぬ生活ぶりに脅威を感じだしたりする。こうして、日々は、あらたな驚きを発見させながら流れ出していくという物語になっていく。この平凡な地方都市の半ば寂れ半ば猥雑な裏街をもとどめている街がいい。豆腐や小さなスーパーや路地と、この街は、主婦にとっては、冒険と危険を孕む緊張を生む街にかわってきた。

 この映画の寓意はきわめて明快であろう。自分の意識を変えろということだ。ものの見方を変えるということ、これはごく平凡なことだが、やってみて初めてわかることだ、いはば、コロンブスの卵、やってみせられて初めてだれでもやれることだと気付かされる。この映画は、ものは考えよう、価値観の転換による現状打開、なんども言われ、だれでも知っていながらやってみてないことを、映画でやってみせてくれたことである。その後、「インスタント沼」が製作されたが、この作品も、なんとかなるという生き方を主題にしている。しかし、この両者に似ていて微妙に違う。こちらは自動販売機の廃品となったものを集積した産廃処理場とか、得体のしれぬ廃品回収業や中古品販売店の描写とか、またインスタントに沼を作ったところ、その沼から龍が現れ空に上って飛翔するという迫力のあるシーンもあったり、それこそエンターテイメントに意がそそがれている。しかし、亀・・に比べて発見がない。なんとかなるという生き方が、最初にあり、その展開を説明していくストリーに過ぎない感じなのだ。前者は、もっと切実さがある。なんとかなるだけで、なんとかなるような現況ではないを、われわれは知っているのだ、これを突破できるには、思いつきを越えるものがなければならない。しかし、この2作品ともに今を生きることに積極的な、しかも具体的な提案をしているという内容であり,それが深刻でなく、軽やかさをもって主張されることに最近の邦画の新鮮さを感じることが出来たのである。今年は例年になく、宮崎市映画祭を面白く楽しめた。ちらしを一読したときには、とてもそういう内容だとは想像もできなかったのであるが、ともあれ、良かった。

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