市街・野 それぞれ草

 802編よりタイトルを「収蔵庫編」から「それぞれ草」に変更。この社会とぼくという仮想の人物の料理した朝食です。

第18回宮崎映画祭「おとなのえいが。」をかんがえた

2012-07-17 | 映画
  
 映画祭の週が終わった。今年(2012年)の梅雨は雨また雨だが、幸い、期間中は曇り空の日が多く、キネマ館へ毎夜通うのに助かった。さて、お好み焼きの店である「しぇ・こぱん」で、そのチラシを手にしたときの日だが、そこに「おとなのえいが。」とあった。そのキャッチコピーに、ぼくは、急ブレーキをかけられた思いがしたのた。やばいぞ、このフレーズである。そこには、まさに諸刃の剣の危険があると・・・。

 いったい「おとな」とは、何歳から言うのだろうか。法律では満20歳でおとなとみなされる。だが20歳は、「わかもの」である。還暦を過ぎ、古希(70歳)となり、米寿に到達する高齢者は、大人というよりご老人、お年寄りが似つかわしい呼び名である。となると、どうも30代後半から、40代、そして50代の現役ばりばりの世代が大人となるのか。とくに50歳代の勤め人となると、子どもは大学進学へ、職場は中間管理職から管理職への社蓄状にまみれ、体調は不調、日常に殺されかけ、映画どころのさわぎかとなる。だから、おとなとは、年齢呼称で区分するのは意味がない。年齢ではなく、知のはたらきなのである。常識的に言うならば、分別をわきまえ、人生体験を重ねて、あからさまな激情や欲望やを抑制できる、人格のもちぬしということになろうか。静かなる人生体験を味わう世代、一見優れてみえるが、中味はたいしたことはない、おとながほとんどとなる。これはNHK的教養番組の核にもなる。

 どうだろう、おとなの知は、退屈きわまる社会教育ではないのか。一月に一回まわってくる回覧板である。そこで、映画は回覧板ではないゲイジュツだとすれば、岡本太郎は「芸術は爆発だ!」と叫んでいる。村上隆は、美術はゲームだと宣言した。精神科医師で1990年代以降の日本現代美術の世界的コレクターとなった高橋龍太郎は、その作品をネオテニ・ジャパンと銘銘した。ネオテニーとは幼性成熟という生物用語で、幼児の特色をとどめたまま成虫になる動物をさす言葉である。人間も他の哺乳類動物とくらべると、成人しても赤ん坊のまま無毛であり、猿やパンダの成熟に至らない。村上隆、奈良美智、会田誠、鴻池朋子などなどの作品の、どこか漫画やこども絵本を想起させる現代日本美術も今は多くの目に触れるようになってきた。宮崎市でも鹿児島の霧島アートの森でのネオテニー・ジャパン展(2008年)を見た人もおおいだろう。まさにネオテニー作品の新鮮さに衝撃を受けた人も多かったはずである。
 
 おとなの絵に対してこどもの絵はへたである。しかし、ほとんどのおとなのえが空っぽであるのにこどものえは、おもしろさで満ちている。「へたうま」という概念が生まれてくる。その名付け親、キング・テリーこと漫画家にしてデザイナーである湯村輝彦の創発した「へたうま」概念は、70年代のデザインや美意識に革命的な変換をもたらしたといわれる。たしか、岡本太郎も、へたうまを 愛して止まない。宮崎映画祭のトークショウにも登場した漫画家、蛭子能収もへたうまの代表的作家である。つまりそこにあるのは、常識や既成観念や、世間の因習への否定であったのだ。こういう視点でみてしまった第18回の宮崎映画祭は、一つ一つの作品よりも全体の社会科学的な構造に関心を引かれていった。つまり芸術は、われわれの魂を揺り動かし、喜ばせ、楽しませ、新しい世界への刺激を与えねばならないとう視点で、眺めてみてどうだったのか、映画祭が終わってこのことを考えている。

 ますは、上映作品について語るまえに、もういちど、「おとな」「こども」の区分で、映画作品を区分すると、その概念にとらわれて、判断を踏み外してしまう危険性があことを、念頭に置いておかねばならないということである。こどもが未成熟であり、それゆえに幼稚であり、ヘタであるという概念の上で、しかしながら、内容は生き生きとしているのだ、という言い方では終わらないのである。90年以降の日本現代美術にしろ、日本映画にしろ、一見ヘタ、幼稚にみえながら、そこにはおそるべき高度な表現の技術が、もとになっているのだ。その技術そのものが新鮮なのである。だからヘタではくくられなくなってきている。ここには、まさに「おとな」の作業に基づく表現技術がある。へただけでは許されないのである。即席栽培するようなっへたな作品では、限界がある。こどもどころか、成熟したおとなの超技術というべき技法の裏づけが要請される。「おとな」「こども」とかんたんな区分を使うのは、通用しない。こんな判断で、映画、美術、音楽、などの芸術作品の中にはいっていくのは、ダイナマイトの埋められた野原に、ほいほいと足を踏み込んでいくようなものである。足をふっとばされるか、爆死になる。たとえば、アニメを残らず子ども映画と分類してこと足れりとしてしまう。このように意識が爆死する。ただ、この第18回宮崎映画祭の作品を見てみたが、ここに選ばれた作品群を「おとなのえいが。」とぼくは分類できなかったのが、幸いではあったのだ。だったらなんなのか、ぼくはぼくなりに、おもしろさをこの構成によって知ることができたのである。それを語りたいと思う。

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